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前のエントリーで触れた Dominic Lawsonの英国での障害児排除を批判する文章の中に
彼の個人的な体験について書かれた部分があって、

数年前にダウン症の娘が生まれたことを書いたら、ジャーナリストのClaire Raynerから
子どもの“悲惨“と社会へのコストを考えると、
そういう子を産むのは自分勝手な行いだと批判を受けた、というのです。

ちょうど日本でもあった
血友病の子どもを巡る渡辺昇一氏の「神聖な義務」発言と同じような文脈です。

この部分を読みながら改めて英国の障害胎児中絶に対する姿勢や
このたびヒト受精・胚法議論で中絶法の改正に関しては
「女性の自己決定権」が重視されて24週に据え置かれたことを振り返ると、

なんだ、結局は「殺す」という決定だけが「自己決定」として尊重されるんじゃないか。
「産む」という決定に対しては「社会のコスト」が持ち出されるのであれば、
そんなものは「自己決定権の尊重」でも何でもないじゃないか……という気がします。

「死の自己決定権」についても同じことが言えるのではないでしょうか。

「自己決定」として尊重されるのは「死ぬ」という選択のみで、
逆に「生きる」という選択に対しては「社会へのコスト」を言われ、
また米国でのように「無益な治療」という概念を持ってこられるのだから
結局は「生きていては迷惑」として「自己選択の死」へ押しやろうとする力が働いている。

それでも頑強に「生きる」という選択にしがみつこうとすれば、
最後は「それは無益な治療だから行わない」という他者の決定が下されるとしたら、

その「自己選択」や「自己決定」には事実上、選択肢は1つしか存在しない。
そんなものは初めから「選択」でもなければ「自己」決定でもない。


しばらく前に小松美彦氏の著作を何冊かまとめて読んだのですが、
氏が「自己決定」と「自己決定権」とは違うとして、
自己決定は個々に人生の一回性の中で行うもので
それゆえにこそ重みもあり尊重もしなければならないが、
「自己決定」を「自己決定権」という権利としてしまうと、
それは1つの政治装置となって国家や権力に利用されてしまうだけだ……
という意味のことを言っていたのを思い出しました。
1966.04.22 / Top↑