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英国で抗ウツ剤の副作用で子どもが自殺した件から製薬会社の情報隠蔽が明らかになった問題について
前回のエントリーで紹介しましたが、
その際の調べ物でたまたまひっかかってきた論文がとても気になるので。

児童精神医療における薬物投与 ――人体実験という視点から――
門眞一郎、「精神医療」 第14巻2号、pp. 49-57 1985

かなり古い論文なのですが、
85年当時に既に「このままでは子どもが医師の論文作成の材料化してしまう」と
日本の児童精神医療における実験的な薬物投与の実態に
警鐘を鳴らす論文が書かれていたということだけでも大きな衝撃でした。

まず指摘されているのは
①子どもへの適用や副作用について臨床試験で充分確認することなしに
大人を対象に認可された薬が子どもに拡大解釈で投与されている。

②厚生省(当時)が認めていない適用症に対して向精神薬が用いられるのは
治療的人体実験となる、という認識が不足している。

(現在のリタリン問題がここでの指摘に当てはまるのでしょうか。)

次に門氏が挙げているのは非治療的人体実験の3例。
そのうちの2つは自閉症児に対する、
子ども自身への利益がないか、少なくとも曖昧な実験。
臨床試験を行うにあたってのインフォームドコンセントも怪しい。

3つ目が1961年に論文報告された実験なのですが
これが古いだけにすさまじい。
「精神薄弱児に対する薬剤の効果……(以後略)」というタイトルで報告されたもので、
簡単に言えば
もともと知的機能に障害のある子どもたちに知的機能を低下させる薬が効くかどうか
入所施設で知的障害のある子どもに朝っぱらから睡眠薬を飲ませて反応を見てみた……と。
しかも、日本の障害児福祉では知らない人がない、
由緒・伝統ある施設での実験だというから悲しい。

こんな医師の興味本位としか思えないような実験を行うために
入所施設で身体を人質にとられているも同様の子どもに対して、
彼らを守るべき立場の医師らが逆にその状況につけこんで、
健常児以上に弱いところの多い障害児らに
本人たちには何の利益もない、不利益だけの薬物を投与して
しかも実名とともに観察結果を論文報告する──。

(「どうせ障害児だから」という意識でやったとしか思えませんね。)

時代が時代だったとはいえ、
この論文で読む限り、
実験論文の著者らがその後、現在の人権感覚から振り返って、
過去に行った実験について反省している節もない。

さらに門氏は
治療的・非治療的人体実験でのインフォームドコンセントにおける説明の不十分を
いくつかの角度から指摘しているのですが、
最も大きな問題は対象が子供である場合の親の「代諾」についての考え方。

まず子どもの利益を代弁できるだけのまともな親であるという前提があった上で、
子どもに利益のある治療的実験であれば親の代諾もありかもしれないが、
子どもに直接の利益がない場合は親の代諾を認めてはならないというのが門氏の意見。

利益と害とを詳細に検討してどのような場合に親の代諾を認めるかについて
英国では80年に小児科学会の指針が出ているなど、
親の代諾について考え方は様々だが、
仮に害が少ない場合に非治療的実験に親の代諾を認めるとしても、
ほんのわずかでも本人が拒否的言動を見せた場合にはそれを最大限尊重すべきである、
それができないなら、それは「医原性虐待」である、とも。

これは医療を巡る親の決定権の問題とも重なってくると思うし、
例えば“Ashley療法”を批判してトランスヒューマニストのCowinが言っていた
「意思決定を行うことが出来ないという点も注意を要するが
 なによりも“抵抗することが出来ない”人に対しては慎重な上にも慎重が必要」
という指摘を思い出しました。

で、門氏の結論は、

子どものために必要な検査や薬が選ばれるはずが、実は新しい検査法や薬を試すために子どもが物色されるという倒錯した情景がくりひろげられる。医学のために子どもが存在するのではない。子どものために医学が存在するはずである。

(中略)……いま歯止めをかけないと、子どもたちは医師の論文作成の材料と化し、またたくまに死屍累々といった惨状を呈することになろう。

門氏がこう書いて20年以上も後の現在、
障害児・者への「医原性虐待」は着実に増えつつあるのではないでしょうか。

医師が論文を書くためはもちろん、、
この20数年間で肥大化した製薬会社やバイオ・テク関連企業の利権や、
「もっと健康に、もっと頭がよく、もっと便利で快適に、もっと効率的に、もっと長生きに」
という文化がもたらす価値観の変化によっても。
2008.03.31 / Top↑
英国保健医薬品監視局(MHPRA)の局長は3月6日、
自社製品の危険性については消費者に警告する倫理上の義務があることを自覚せよと
国内の製薬会社に訴えたとのこと。

なぜ「倫理上の義務」が強調されることになったかというと、
要するに法的な規制ではラチがあかないのが現状だと
MHPRAですら認識せざるを得ないから。



英国では抗ウツ薬Seroxatの影響で子どもたちの自殺が相次いだことから
国内最大の製薬会社GlaxoSmithKline(GSK)による臨床実験データ隠蔽が判明したものの、
法律の不備によって起訴に持ち込むことができないばかりか、
GSKものらりくらりと言い逃れをしている状態。

今回のケースで明らかになった法規制の抜け穴については
今後修正されることになりますが、

一方には、
臨床実験の急速な複雑化にMHPRAのスタッフの知識が追いつかず
製薬会社から提供される情報に依存せざるをえない現状も。

そうした状況の中で、MHPRAの局長は
「マーケッティングの配慮と医薬品を作るという行為の倫理面との間に
緊張が生じていると思う。
そのことをMHPRAはもう一度見直さなければならないし、
製薬会社もそのことを見直さなければならない。
徹底的にデータをとるのはやめようとする積極的な動きがある
とすら言ってもいい」

その危機感が「倫理観を持て」との訴えとなったものですが、

製薬会社が充分に監視されることはもちろん必要ですが、
子どもに安易に抗ウツ薬を処方する医師や
何でもお手軽にテクニカルに解決しようとする
貴国の「薬・科学・テクノロジー万歳」文化にも問題があるのでは──?

と、いいたい。
2008.03.31 / Top↑
当ブログでも紹介しましたが、
3月10日にBBCの番組で聾のアーティストTomato Lichy氏が
「着床前診断で聾の子どもを持ちたい。聾は障害ではない」と主張し
番組ホストとの間で論争となりました。
それを受けてBBCの障害関連サイトOUCH!に
聾(いくらかは聞こえるようです)のジャーナリストが
「聾は障害か?」という記事を書いています。

Is deafness a disability?
By Rebecca Atkinson,
OUCH!, March 18, 2008

聾は障害ではないとの主張は
他の障害者を貶める可能性がある点で論議を呼ぶと指摘しながら、
聾が障害ではないと主張する聾コミュニティの側も、
障害だと決め付ける世間のメインストリームの側も
共に正しいとはいえないとの立場に立つ
Atkinsonの論点をいくつかまとめてみると、

・一般の人がイメージする「耳が聞こえない」状態は
それを体験した事のない人の勝手な想像に基づいており、
現実の聾者の体験とは違っている。
聾者の多くは生まれ付いての聾なので
音が聞こえるという体験が初めからないために、
聞こえないことに不自由を感じていない。

・一方、聾者の方も障害者手当ては受け取っておきながら
自分たちは障害者ではないと名乗るのはいかがなものか。

・耳が聞こえないという身体の状態そのものは障害ではなく
みんなが聞こえないのであれば音のない世界に誰も不自由はないはずだと考えるので、個人的には、障害を生むのは社会のありかたによるとする「社会モデル」に立つ。

・その一方、社会から完全にバリアが消えることはない以上
「社会モデル」で言う意味で自分は障害者だと考えるし、
自分の耳が多くの人と同じようには機能しないことも事実だという点でも、
自分のことを障害者だと捉えている。

そして以下のように結論付けています。

「自分は障害者ではない。聾者である」という主張は慎重に。

そう口にする人は、
障害をそれほどおぞましいものだと見なしていると見えるから。

私としては「障害」という言葉は
低い地位や欠陥や望ましくないものと同意になるのではなく、
プライドと連隊の象徴となるべきだと思う。

障害は人が生きるということの一部:
そういうスタンスに、聾者も含めてみんなが立つべきである。
2008.03.28 / Top↑
最近まで見落としていた記事なのですが、
去年の5月にAshleyの子宮摘出の違法性が明らかとなった際の報道で、
ワシントン州保健局の病院ライセンスを担当する部局の責任者Steven Saxe氏が
病院や医師らに対して何らかの懲罰措置をとることになれば、
さらなる調査が必要であると述べていました。

医師らには罰金や研修、免許の取り消しの対象になる可能性すらある一方、
保健局としては懲罰を科すよりもむしろ
今後の予防措置に向けて病院を指導する方針とも。



これは州当局から出されたかなり重大なコメントのはず。

それなのに、
その後ワシントン州の保健局が実際に調査を行ったのかどうか、
病院にどういう指導を行ったのかについて、
保健局が何も発表しないのもおかしなことであれば、

メディアがその後について取材していないのも
非常におかしなことだと私は思うのですが、

これは、いったいどういうことなのでしょうか?
2008.03.28 / Top↑
アリゾナ大学法学部の新聞2007年1月号の4ページ目、
法学関連ユース&コメント欄にAshleyケースが取り上げられています。

Ashley X: The Little Girl Who Will Never Grow Up というタイトル。

記事そのものはそれほど長いものでもなければ、
内容も事件の概要をまとめただけの簡単なものなのですが、

その中に、
まるでそこだけゴシックで書かれているかのように
私の方が勝手に感応してしまった1文があって、

The fact that Ashley’s treatment and case remained private is most likely the reason no legal challenges were ever made.

法的な疑問が投げかけられたことがなかったのは、
おそらくはAshleyの治療とケースが公にされていなかったためだろう。

1月にDiekema医師が
すでに1つか2つくらいの病院が同じことをやっていると思う。
 公にするようなバカじゃないけどね」といった発言をしていること、

先日のCNNでのインタビューでAshleyの父親が
自分の思い通りにやれていたら、
 一般の人を議論に巻き込まずに医療者と親だけに情報提供をしたんだったのに
という趣旨の発言をしていることとを合わせ考えると、

現在でも、またこれからも、
“Ashley療法”を是とする医師と
それを求める親とが出会ってしまった場合には
いくらでも水面下で行われてしまう……ということではないでしょうか。

ワシントン州をはじめ州によっては
未成年や知的障害者への不妊手術には裁判所の命令が必要だと法律で規定していますが、

Ashley事件を振り返ってみれば、
この法律の規定は
法律を遵守して実施の前に裁判所に許可を求めるだろうとの医療職性善説に立っており、
医師や病院の側にこうした法律を尊重する意思が最初からなく、
親との合意でこっそりやって後は口をぬぐってしまった場合には
非合法であれなんであれ、
それで済んでしまうということでしょう。

実際、Fost医師 や Paris牧師
シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでの講演において
医師のやりたいことをジャマするだけの裁判所など無視せよと暴論を吐いています。

こうした危険性を考えてみても、
なぜAshley事件で子宮摘出の違法性が認められながら、
その違法行為に対してなんら責任追及がされないのか──。

そこのところが私には理解できない。
2008.03.28 / Top↑
なんでもありの世の中でついにこういうことも起こるか……。

Thomas Beatie氏(34)は、
女性として生まれたけれども性転換手術を受けて男性になったという経歴の持ち主。

その後結婚した相手の女性が数年前に子宮を摘出したので
それでは性転換手術の際に子宮も卵巣も残してあるから自分の方が子どもを産もうと
性転換手術以来受け続けている男性ホルモンの注射をやめ、
ドナー提供の精子を購入して妊娠。

さすがに医師らには断られたので、
home insemination……その購入した精子を自分で注入し受精させたということでしょうか。

1度目は三つ子の子宮外妊娠になって失敗、
2度目で成功して7月に女の子が生まれる予定。

本人の言によると、
「不妊手術は性転換の条件になっていなかったので、
 胸の手術と男性ホルモンの補充だけを受けることにして
 生殖の権利は残しました。

 血の繋がった子どもが欲しいというのは
 男としての望みとか女としての望みということではなく
 人としての望みですから」



ニュースにもビックリしますが、
もっとびっくりするのは記事に寄せられたコメントの中に
「家族の選択なのだから外野が口を出すことではない」という意見が思いがけず多いこと。

(この辺りは“Ashley療法”に対するコメントと同じ傾向で、
 このような個人の選択権意識がアメリカでこれほど広がっているということなのか、
 インターネットでコメントを入れるタイプの人に
 そういう意識の人の割合が高いということなのか?)

いや、しかし……身体機能的に技術的に可能だから
なんでもかんでも個人の選択でやってもいいことにはならないでしょう。

法律的には男性なのだから
レズビアンのカップルと区別して考えなければならないのだろうとは思うのですが、
法律がそもそもこんなケースは想定していないのだろうとも思うし。

妊娠というのはとても濃密な体験なのだけれど
「産まれてくれば自分が父親で妻が母親」だという本人の言葉のように
人間の心が単純に割り切れるものなのかなぁ……。

(「男性が妊娠した」というよりも、
 たまたま妊娠機能があった!夫が妻に代わって「代理妊娠した」という理解が正しいのか?)

生理的に考えても、
男性ホルモンを打ち続けて身体に男だと言い聞かせ続けてきたのを
ホルモンを中止して今度は身体に突然女性の機能を果たせと要求し、
子どもが生まれたらまた男性ホルモンを投与して……って、

身体に無理を強いるのは間違いないし、
ずっと女性の生理を繰り返してきた体とは別の話なのだから、
お腹の子どもへの影響だって全く未知数ですよね。


心底仰天したのは、
「ジェンダーの垣根をなくす快挙」とか
「男女差をなくすことは何であれ天晴」いうトーンで拍手を送る意見もあること。

いや、しかし……この人は女性の身体機能を残していたから産めるのであって、
女性の産む性としての負担をこれで男性と分かち合うことになるとか
それでジェンダーの垣根が越えられるとか
男女の差がなくなるということになるのかどうか??

それとも、ジェンダー・フリーだと拍手を送る人が言っているのは
もしも今後、例えば子宮を移植して男性が妊娠することも技術的に可能になるとしたら
夫婦のうち男でも女でも好きなほうが妊娠・出産を担う選択もOKにしようということ?

それをいえば、
夫も妻も社会生活を妊娠なんかで中断させるのはイヤだけれども
血の繋がった子どもは欲しいという「人間としての望み」だけはある場合に、
お金があれば代理母を雇って体外受精で生んでもらえば
夫婦はどちらも妊娠・出産の不自由や身体的な負担からは逃れられて
なおかつ遺伝子的には夫婦の子どもを持てるわけですよね。

(こういうことを考えると、代理母って、
 どこか売春みたいだと思えてしまうのですが。)

さらに、もっと技術が進んで生殖そのものが
妊娠・出産という女性の身体にも社会生活にも負担をかけるプロセスを経ないものへと
向かっていけば(もうBrave New Worldそのものですが)、
それこそ男女の差はなくなるということなのかしらん?

じゃぁ、男であるとか女であるとかってどういうことなのか、とか
親になるというのはどういうことか、とか
いろいろ考えていくと頭の中が混沌として訳が分からなくなってくるのですが、

とりあえず、この人の場合に抱くのは
とても素朴に「でも、あなたは男になることを選んだのではなかったのか」という疑問。

男であるとか女であるということは
仮に選べるとしても、
何度もその時々の都合で選びなおしたり
部分的に保留にして選べるという種類の問題とは
やはり違うんじゃないでしょうか?

【追記】
もともとの出典はゲイの雑誌とのことなのですが、
この人、どういう意図でそういうメディアにわざわざ自分の妊娠裸像を公表したんだろう?
2008.03.27 / Top↑
MicrosoftとGoogleが個人の健康情報管理ソフトの完成に向けて
熾烈な戦いを繰り広げているとのこと。

両社のソフトが共通して目的としている機能としては

・自分の健康・医療情報をオンラインで記録・保存し、
・医師や医療機関、医療情報の検索ができ、
・病院の予約
・服薬管理
・オンラインでのコミュニケーション、
・医療関係者との情報共有

もちろんネットバンキングと同じ程度には個人情報は安全に守られ、
おまけに両者とも無料のサービスとする、と。

しかし、検索欄の有料広告を収入源とした場合に
健康や病気に関する検索で提供される情報が利益関係に影響される可能性の懸念も。
(例えばサプリメント会社の情報とか)

今のように
「薬物とテクノロジーでもっと健康に、もっと頭がよく、もっと長生きに」と
誰も彼もが煽られ、それが莫大な利権に繋がっている時代に
多くの人の健康に関する個人情報をネットで管理・利用するというのが
本当は一体どういうことなのか──。

この記事は2社のサービス内容に共通している点を羅列した最後に以下のように。

「あぁ、それからマイクロソフトとグーグルに共通しているのは
 もう1つ別のゴールが常にあるということだ。
 世界を支配するというゴールが。」

Microsoft Health vs. Google Health
By Craig Stoltz,
The Washington Post, March 11, 2008
2008.03.27 / Top↑
この1年余りAshley事件を調べてきて、
また、ここしばらく尊厳死や無益な治療を巡ってわずかに読みかじる中で、

とても強く思うのは、
生命倫理の議論はもっと言葉を厳密に使うべきではないのか、ということ。

その中の1つとして、
「障害」は「病気」ではないのだという事実を
みんな一度しっかり再確認しましょうよ、と。

Ashley事件で言えば、
static encephalopathyという彼女の“診断名”ですが、
これは「脳に損傷がある状態」を “診断”しているだけであって「病名」ではありません。

Anne McDonaldさんが主張している通り、要するに「脳性まひ」と同じことなのですが、
「脳性まひ」もまた「脳に受けた損傷が原因で麻痺が起きている状態」という意味に過ぎず、
やはり「病名」ではありません。

「障害がある」=「健康ではない」ではなく、
「障害がある」=「病気である」でもなく、
障害があるという状態のまま健康だという人は沢山いるのです。

無益な治療や尊厳死を巡る議論の中で
terminally ill (末期の病気)という表現が使われる際に
病気でもなければ末期でもない、ただ障害が重いというだけの人が
その範疇にいつのまにか紛れ込んでしまっているのを見るたびに、
病気と障害の区別がついていないよなぁ、
それとも敢えて混同して語っているのかなぁ、
と考えてしまう。

Golubchuk氏の無益な治療論争についてのPeter Singerの発言を読むと、
「自己決定できる人の病気の末期」と
「自己決定が難しい人の病気の末期」が
きちんと区別した上で議論されていないという疑問をまずは感じるのですが、

同時に「重度の障害」と「末期の病気」の区別も付いていない。

そして、これらが都合よく混同されたまま
読者を極端な結論に向かって誘導していると思う。

このような議論をする側にもそれを受け止める側にも
障害は病気ではないのだという事実認識、
したがってどんなに重い障害があっても
病気でなければ末期ではありえないのだという事実認識が
きちんと共有されているべきではないでしょうか。

       ―――――

また、NY Times のコラムのように、
Irreversibly ill (不可逆的な病気、不治の病)という表現が
terminally ill (末期の病気)とほとんど同じように使われて
尊厳死が云々されてしまうことも非常に気になります。

「不可逆的な病気」=「末期」ではないことはもちろんですが、
「不可逆的な病気」、「治らない病気」という曖昧な表現は
どれだけ広範な病気を指すことになるか分かりません。

さらに、
障害は「状態」である以上、多くの場合において「不治」ですから、
ここで「障害は病気ではない」という事実がちゃんと確認されていないと
障害の多くが「不可逆な病気」に含まれてしまったまま議論が行われる
ということも起こり得るのです。

この2つの表現は決して混同されてはならないと思うのですが、

生命倫理の議論では過激な発言であればあるほど
言葉の使い方に厳密さがなく抽象的かつ曖昧でイメージ先行、
その曖昧さの陰でなし崩し的に
対象のズラしや拡大が行われているのではないかと、
懸念されてなりません。
2008.03.27 / Top↑
米国臓器分配ネットワークUNOSのデータによると、
臓器提供を待っている患者リストに登録された約98000人のうち
病状が重すぎたり体力がなかったりその他の理由で
臓器があったとしても移植を受けられない状態の人が3分の1を占めていることが判明。

しかも中には
移植を受けられない状態のまま2年以上もリストに載っていた人もあるとか。

(日本でもそういうことはないのか、ちょっと気になりますね。)



「移植を必要とする人がこんなにも多いのにドナーがあまりにも少ない」と
提供臓器の不足の深刻さが強調されては
「もっと臓器提供を」との呼びかけが行われ
脳死でなくても臓器が採取できるように法律を緩和しようとの動きまである中、

UNOSがきちんと機能していないと非難されると同時に
移植推進派が政治利用したのではないかとの批判も出ています。

「移植できない人が2年もの間リストに載ったままというのは一体どういうことだ? 
 載せたのもおかしければ降ろさなかったのもおかしいだろう」

と怒っているのは、御馴染み Art Caplan

(Caplanは実際にはあれこれ多くの指摘をしていますので、
 詳細まで興味のある方は上記WPの記事をご参照ください。)

           ―――――――

Ashley事件の後もあちこちでCaplanの発言と出くわすたびに
私は「ファンになってもいいかな……」と考えるのですが、
スポーツ選手のステロイド使用については
確かCaplanもOKの立場だったという記憶があるので一部保留しつつ、
なんだか好きです、この人の熱さ。
2008.03.26 / Top↑
NY Timesの健康欄記者Jane E. Brody は2月5日に
「優美な旅立ちへの心からの訴え]
A Heartfelt Appeal for a Graceful Exit を書き、

そのコラムへの反響が大きかったとして3月18日にも
「不治の病にターミナルな選択を]
Terminal Options for the Irreversibly Ill を書き、

「自分の死をコントロールする」という表現を使って
自殺幇助の合法化を訴えています。

はっきりとそう主張することは避けて
個別のケースと周辺的な情報の羅列に終始していますが、
2つのコラムで共通して言わんとしているのは、
死に時と死に方は個人が決めてもいいのではないか
そのためには自殺幇助を認めてもいいのではないか
ということのようです。

ただ問題は、どういう状態に陥った場合にそれを認めろといっているかという点。
この2つのコラムから気になる点を挙げると、

①ここでも「末期」という言葉が微妙に拡大解釈されて
植物状態どころか、ただの要介護状態でしかないものまで含められてしまいそうな懸念。

たとえば
生きていることをもう楽しめなくなったとしたら、生きることに何の意味があるだろう? 頭がマシュマロみたいになって、もう人間以下のただの存在に成り果ててしまったら、生きていることに何の意味があるだろう? (2月5日)

(早く死にたい)理由はしばしば実存的である ―― 自分の人生がすべての意味を失ってしまったとの認識、愛する者の不当なお荷物になる懸念、死が長引くのを避けたい気持ち、どうせ間もなく訪れるに決まっている死を先に延ばすためだけに“浪費”される時間とお金を嘆かわしいと思う気持ち。(2月5日)

(自分の死を自分でコントロールしたいと考える人々は)精神が死んでしまっているのに身体だけ生かしておきたくはないのだ。いろんな医療機器につながれて、自分の体の機能を自分でコントロールすることが出来ず、愛する者とコミュニケーションが取れなくなったりという、自分にとっては非人間的だと思える状態で死にたくないのである。
(3月18日)

これらはすべて非常に主観的で抽象的な表現であって、
その人の主観のあり方によっては、
まったく末期でもなんでもなく
病気ですらない些細な障害でも
これらの言葉で捉えられることもありえます。

②Brodyが書いているのは
「自己決定としての自分の死のコントロール」という文脈ではあるのですが、

相当広範囲に様々な状態を含みうる抽象的な言葉によって
「自ら死を早める自由」がこのようにイメージ先行で議論されていけば、
末期ではない、植物状態ですらない一定の要介護状態までが
忌避すべき状態のイメージとして固定化されるのではないでしょうか。

③このような死のコントロールを巡る自己決定権を求める声の高まりと、
カナダのGolubchukケースを巡るPeter Singerの発言のように、
「自己決定できる人が死にたがるくらいの状態なのだから
 自己決定できない人もこういう状態になったら早く死にたいだろう」などと
僭越な代理決定を社会規模で行おうとの声まで起こっていることとは、
無関係ではないでしょう。

④命を長引かせるための時間とお金の“浪費”と、“浪費”に引用符がつけられている点。
あくまでも個人の選択権を主軸に書かれているように思われるBrodyの文章の中で、
この引用符にはSingerと同じく社会のコストへの意識がちらついています。

⑤すでに米国ではターミナル期の自殺幇助の有効な方法について
栄養と水分を断つ餓死よりも酸素の補給を断つ方が早いとか、
ヘリウムを使うのが最も有効な方法である
といった内容の本が出版されているとのこと。
その名も「よい死に方」 To Die Well

⑥終末期の問題(自分の死を早めたいとの希望も含まれます)に対応してサービス提供を行う
ボランティア団体も2つ挙げられています。
Compassion & Choices of Boulder Countyは緩和ケアの考え方で
情報提供をしつつ寄り添うボランティアというイメージですが、
Final Exit Networkはこのコラムによると
苦痛のあるターミナルな患者に限っては
ヘリウムの使用による自殺幇助を唱えているようです。
2008.03.25 / Top↑
アメリカ政府の調査によると
過去20年間で富裕層と貧困層の平均余命のギャップは拡大したとのこと。

貧しい黒人男性と裕福な白人女性の余命の差は14年にも。

最近の日本の格差社会化や医療改革の動向を考えると、
これは他国の話だといって聞き捨てに出来ない結果ではないかと……。


Gap in Life Expectancy Widens for the Nation
The New York Times, March 23, 2008
2008.03.25 / Top↑
カナダで84歳の男性への治療停止を病院が決めたことに対して
家族が宗教上の理由から治療停止に反対して訴訟を起こしているケースに関して
Peter Singerが論評しています。

まずタイトルですが、
「高齢者には病気なんか認めなくていい」という意味ではないか、と。

No diseases for old men
By Peter Singer
The Malta Independent Online, March 19, 2008

Ashleyケースで彼が書いた論評にも同様の感想を持ちましたが、
今回も非常に粗雑で乱暴な議論。

論旨を流れに沿ってざっとまとめてみると、

かつて高齢で弱ってくると楽に死ねる肺炎は「老人の友」であったのに、
最近ではすぐに抗生物質で助けてしまうので「友」でなくなってしまった。

頭も確かでなくなった高齢者に抗生物質を使って何の意味がある?

歩けない、しゃべれない、自分で食べられない、我が子も分からないようになってまで
生きていたい人がどれくらいいるだろうか。

本人の意思が確認できず
何が患者の最善の利益かを判断しにくい場合には
社会のコストを考えなければならない。
こうした高齢者への抗生物質投与には無駄に費用がかかる上に
抗生物質の多用によって耐性菌を作るという問題もある。

カナダのGolubchukケースのように本人の意思決定が無理な場合には
通常なら家族の希望が尊重されるが
その家族の希望にしても
本人の最善の利益に基づいて行動する医師らの倫理的責任を上回るものではない。

Golubchukの認知レベルが争点になっているが、
分かっているなら分かっているで生かされることは無意味な拷問であり、
やすらかに死なせることが彼の最善の利益だろう。

このケースでもう1つ重要なのは
死が本人の最善の利益だと医師が判断した患者に
家族が希望するというだけでコストをかけて治療を続けるかどうか、
一家族の宗教信条を支えるためにのみ
カナダの納税者にコストをかける用意があるかどうかという点である。

医師らの判断の方が勝っているのだから
裁判所は治療を継続させる命令を出すべきではない。

Singerは一体どういう手順を踏んで意思決定をするべきだと主張しているのか、
言っていることが段落によって違っていて、
結局はどんな場合でも社会のコストのみを基準とした結論が正しい、と読めます。

「本人の最善の利益によって行動する医師の倫理的責任」と
倫理的という言葉をSingerは1度だけ使っているのですが、
社会のコストを考慮の外に置いて「本人のみの最善の利益」を考える
患者に対する医師の「倫理的責任」を言っているのか、
それとも、
医師は社会のコストも考えた上で患者の「最善の利益」を考えるべきだとして
社会に対する医師の倫理的責任のことをいっているのか?
(じゃぁ、その場合の患者の最善の利益というのはどう導き出されるのか)

文脈からすれば後者を意味している以外にはないと思われ、
それなら結局「患者の最善の利益」など最初から存在せず、
「社会の最善の利益」しか存在しないことになるようでもあり。

また、以前にも指摘したことですが、
非常に問題を感じるのは重度の要介護状態というものを一括して最悪のイメージで描く乱暴。

自分で排泄のコントロールができなくなり、
自分で食べることができなくなり、
もはや歩けず、しゃべれず、
我が子も分からないほどに精神能力がもう後戻りできない状態で悪化してしまったら、
そんな状態で生きる時間を引き伸ばしたいと
どれほどの人が願うだろうか?

ここに描かれている身体の不自由は
必ず「我が子も分からない」ほどの知的な障害を伴うとは限らないし、

さらにまた必ずしも、
このような状態にある人が生きることを望まないと
決め付けられるものでもないはずなのですが、

「仮にGolubchuk氏の認知能力が残存しているとしても、
それは却って無意味な拷問ということになるのだから」
という部分に見られるように、

Singerは現実の障害像の多様さを無視し、
しかるべき意思決定の手順というあるべき議論も自己決定権もすっとぱして

ただ
「そんなになってまで生きてたくはないよね、みんな?」
と自分の主観的な価値観を安易に一般化しているに過ぎず、

「本人の意思が確認できないならば」という前提を煙幕として繰り返しつつ
彼が主張しているのは実は「本人の意思も家族の意思も問題ではない」ということのみ。

そしてGolubchuk氏の状態を引き合いに論じつつ、ちゃっかり更に飛躍して
タイトルで謳うのは「高齢者には病気などいらない」なのだから、

本文の趣旨とは本当は
「高齢になったら状態を問わず、本人家族の意思も問わず治療は無用」ということなのかも。


Ashley事件に際してSingerがNYTimesに発表した文章については以下に。

2008.03.24 / Top↑
2月14日のエントリー84歳患者巡る無益な治療論争、裁判へ(カナダ)で紹介したケースで、

この患者 Sam Golubchuk氏の娘さんが
裁判費用を援助するカンパを呼びかける手紙を
3月17日にインターネットに公表しています。

Sam Golubchuk needs our help NOW!
Urgent update – March 17, 2008

この手紙によると、
障害があり介護施設で暮らしていたGolubchuk氏(84歳)は去年の秋に肺炎で入院。
肺炎は治ったものの高齢で弱っていたために
そのまま基本的なケア(栄養・水分の補給と呼吸器による呼吸補助)を受けることに。

病院側は去年11月に基本的なケアを停止しようとしたため、
家族が裁判所から緊急の差し止め命令をとったもの。

娘さんは
Golubchuk氏が植物状態でもなければ末期的な病気でもなく苦痛も感じていないのに
病院は氏が高齢、虚弱な障害者だから治療費を使いたくないのだ、
そのくせ裁判では戦う姿勢を見せ、
その費用には税金を投入しようとしていると批判しています。

ちょっと考え込んでしまったのは、
最後のところで、従軍経験を始め現役の間に氏がいかに社会に貢献してきたかを語り、
だから晩年に尊厳をもって扱ってもらう権利がある、と述べてある下り。

日本でも重症児への福祉を訴える際に、
この子達から世の中の人が教えられることは沢山あるのだ、
懸命に生きる姿によって彼らは世の中に貴重なメッセージを送っているのだと、
いわば重症児の「存在価値」を訴える言説に出くわすことがあり、
そのたびに私は考え込んでしまうのですが、

「世の中に貢献しているのだから助けてもらう資格や権利がある」という論法には
どこかとても危ういものがありはしないでしょうか。
2008.03.24 / Top↑
初めて「自死」という言葉を見たのは
もうずいぶん前に柳田邦夫の「サクリファイス」を読んだ時。

「サクリファイス」からはいろいろ深く考えさせられたのだけれど、
ちょっと引っかかりを覚えたのが「自死」という見慣れない言葉。
まぁ、その時は親の気持ちとして読み過ごした。

しかしその直後に、
同時期にこの本を読んだ友人と会った際に、
彼女が「自死」と何度も口にするのを聞いていると、
ものすごい違和感を覚えた。

親が「自殺」という陰惨で生々しい表現を避けたい気持ちは分からないでもない。
親にとっては我が子の人生はどの他人の人生とも違う特別なものと感じられただろうとも思う。
しかし、いくら柳田ファンで、この本に感銘を受けたとはいえ、
なぜ他人である私の友人までが
柳田邦夫の息子の自殺を「自殺」と言わないのだろう──?

せっかく熱く語っている彼女に水を差すようで遠慮したのだけれど、
あの時「あなたは何故『自殺』と言わないの?」と聞いてみればよかった……
というのがずっと頭に残った。

次に「自死」という言葉を頻繁に目にしたのは江藤淳が自殺した時。
追悼の文章を書いた多くの人たちはこぞって「自死」と書いた。
この時の「自死」には
江藤氏ほどの知性も教養も持たない一般人の「自殺」とはモノが違うのだという
明確なメッセージがこめられているようで、
「サクリファイス」の時とは比べ物にならない大きな抵抗感があった。

江藤氏の死をどのように解釈するかは一人ひとりの主観だから
無教養な一般人の自殺とはモノが違うと考える人がいても不思議はないし、
配偶者の死や自らの老いと直面した際の苦悩の仕方には
それぞれの人のそれまでの生き方や知性・教養によっても違いがあるというのは
一面では真実かもしれないとは思うのだけれど、
配偶者に先立たれる孤独や自分の老いに直面する苦悩そのものは
本質的には誰でも同じだということもまた一面の真実だと考えるので、

誰も彼もが江藤氏の自殺をよってたかって「自死」、「自死」と呼ばわるのは
人の死に勝手な格付けをする、なんだかずいぶん嫌らしい行為じゃないのか、と。

それ以来
いったい「自殺」と「自死」とはどう使い分けられているのだろう、
使い分けている人は自分の線引きをどのように自覚しているのだろう、
というのが私の疑問なのですが、

ここしばらくの間に何度か新聞の広告欄で目にして気になりながら
かといって、読むことにもちょっと抵抗を感じる……という本があって、
それは「自死という生き方」というタイトルの本。
哲学者の自殺に至る生き方を書いた本らしいのですが、

この本の広告を目にするたびに最近頭に思い浮かぶのは
オレゴン州の尊厳死法によって死んだ多くは
(それが可能なだけ富裕な)白人高齢がん患者であるという話。

これから「自死」という言葉は広まっていくのかもしれないなぁ……。

【追記】
「自死という生き方」を読まれた方の記事があったので、
トラックバックさせていただきました。
2008.03.24 / Top↑
一連の報道によると事件が起きたのは2006年4月3日。
Betty Whitten(59)は障害のある娘Nyakiambi(34)を包丁で3回刺して殺害。

その後、遺体を車に乗せて橋からガードレールを突き破り川沿いの公園に。
母親もこの事故で怪我をしていますが、
それが心中を試みたものか
警官が車に近づいてきたための突発的な行為なのかはよくわかりません。

Nyakiambiは2歳の時に脳性まひと発達障害と診断されたとのこと。
娘を刺殺するかなり前から母親は抑うつ状態がひどかったようで、
逮捕後も州の精神病院で治療を受け、
裁判を受ける能力の有無が取りざたされていました。

最終的に司法取引で有罪と精神疾患を認めて、
20年の服役の間に治療を受けることになったとのこと。

家族状況の詳細が分からないのですが、
もしも黒人女性が単親で32年間も娘のケアを担い、
あげくにウツ状態に陥って娘を殺したとしたら、
痛ましい事件だと感じると同時に、

米国とカナダで国も違ってはいますが、
同じように娘を殺しても白人のLatimerが7年で保釈され、
娘を苦痛から解放した慈悲殺は正当だったと能弁に主張していることと、
つい引き比べて考えてしまいます。




2008.03.23 / Top↑
先月末に保釈されたRobert Latimerが
2010年12月8日に完全釈放となるまで
day paroleの期間を過ごすハーフウエイ・ハウスに3月17日に入ったのですが、
その際オタワの空港でメディアのインタビューを受け、いろいろしゃべっています。

Latimer wants new jury trial
Leader-Post, March 18, 2008

あれこれ言っているのですが、
具体的な発言について興味のある人は上記の記事を当たってもらうとして、
彼が言いたがっているらしいことは、要は

これまでの裁判は自分が娘を殺したかどうかという事実認定をしただけで、
それなら殺したのは事実だから殺人罪で懲役の実刑になったのもよしとするが、
自分が娘を殺したことが正しかったか間違っていたかの判断はまだついていない。

新たな陪審員によって裁判をやり直し、
自分が娘を殺したことが正しかったかどうかについて裁判所は正直に答えるべきだろう。

世論は重症障害の苦しみから娘を解放した自分の行為を支持してくれているし、
世論も自分たち親子のような状況には正直に向かい合えと求めている。

事実認定によって有罪となったのだから
重症障害があっても殺した行為は殺人以外のなんでもなく、
したがって彼が娘を殺したことは正しくなかったとの判断が下されたのだ、
とは考えられないのでしょうか。

Latimerが何度も「正直に」と繰り返していることが印象的です。
裁判所だってホンネでは正しいことだと思っているのに認めないだけだと
彼はおそらく考えているのでしょう。

もう1つ印象的なのは
自分が個人的に激励のメッセージを多数受け取っていることを根拠に
世論は自分を支持していると正当化する感覚。
Latimerは
「ここにくる機中でも自分がLatimerだと分かったら
自宅に招待してくれる人だっていたぞ」と
世間の人々から支持されている自分を強調するのですが、

そのあたり、
「私のブログに寄せられる賛同のメッセージを見てみろ」と胸を張る
Ashleyの父親に似て、なんだか小児的だなぁ……と。


Latimer事件に関する、これまでのエントリー。

2008.03.23 / Top↑
一連の報道によると、
フランスで鼻腔に出来た癌のために
顔貌が大きく崩れたうえに
モルヒネすら効かない耐え難い痛みに苦しんでいるとして
Chantal Sebire(52)さんが医師による幇助を受けて自殺したいと
裁判所に訴え出てフランスで大きな議論を巻き起こしていましたが、

フランスの法律では消極的安楽死しか認められておらず、
彼女がサルコジ大統領に当てて直訴した手紙にも
大統領は良医のセカンド・オピニオンを勧めるに留まり、
3月17日に裁判所は彼女の希望を却下。

それを受けてSebireさんは上訴はしない、
スイスなど自殺幇助が認められている国に行くと語っていたらしいのですが、

その2日後、Sebireさんが自宅で死んでいるのが見つかったとのこと。

即座に捜査が始まったものの
今のところ死因など詳細は不明。

顔貌の崩れ方も痛みも激しいことや
まだ若い人であることからこの先痛みを耐えて生きる時間の長さなどが同情を呼び、
自分が同じ状況だったらと考える人も多く、
尊厳死のあり方について大きな議論となっていたケース。

しかしフランスの首相、保健相、法務相はいずれも
法律改正には否定的とのこと。



2008.03.22 / Top↑
これまで見落としていた去年3月の資料を新たに発見したところ、
Diekema医師のとんでもない大ウソが出てきました。
これまでで最も悪質なウソの1つでしょう。

なにしろ、Ashleyのケースを検討・承認したのが病院倫理委員会ではなく
施設内審査委員会で承認したということになっているのです。

しかもそんな大ウソをついているのが
アメリカ医師会新聞でのインタビューだというのだから呆れます。

Physician-ethicist explains “Ashley treatment” decision
By Kevin B. O’Reilly, AMNews staff,
AMNews, March 12, 2007

定期購読者でなければサイトに掲載された記事冒頭の一部しか読めないので
Diekema医師がインタビューで何を語っているかは具体的にはわからないのですが、
以下のように、記事の副題そのものがウソなのです。

The chair of the IRB that approved the controversial treatment of a child with severe disabilities offers insight into the dilemma.

論議を呼んでいる重症障害児の治療を承認した施設内審査委員会の委員長が
そのジレンマを洞察する。

さらに冒頭部分で記事はDiekema医師を紹介して以下のように書いています。
He is ……and chair of the Children’s Hospital institutional review board that handled the case.

Diekema医師は……であり、そして、このケースを扱った施設内審査委員会の委員長である。

確かにDiekeme医師はシアトル子ども病院の施設内審査委員会の委員長です。
しかし、Ashleyケースを扱ったのは施設内審査委員会ではなく倫理委員会でした。

他児への適用を巡る医師発言の変遷 1のエントリーでも触れましたが、
施設内審査委員会と病院内倫理委員会は別物どころか、えらい違いなのです。

施設内審査委員会は法的に設置が義務付けられた機関で
連邦政府管轄の医学研究・医療施設での臨床実験の対象となる人の人権保護や倫理上の審査を含む
治験実施要綱の全体的審査を行う機関。

それに対して病院内倫理委員会は日常の医療の中で出てくる倫理問題を扱いますが
その設置は奨励されているのみで、
実施状況は活動の質・内容もばらついています。

つまり、施設内審査委員会の承認の方が倫理委よりもはるかに権威があるわけで、
だからこそDiekeme医師は医師会新聞でのインタビューを受けるに当たって、
このようなウソをついたのではないでしょうか。

Kevin B. O’Reillyという記者は
この記事よりも前にも2月5日付でAshleyケースについて記事を書いており、


その記事では「多職種による病院倫理委員会が治療を承認した」と正しく書いています。
それが一ヵ月後、3月のDiekema医師のインタビュー記事では
「施設内審査委員会が承認した」と変わっているのですから、
インタビューを受けたDiekema医師自身がそう語ったと考えてもいいのではないでしょうか。
また自分が受けたインタビューですから、
仮に記者の間違いだったとしてもDiekema医師には訂正の機会があったはず。
施設内審査委員会の委員長を務める医師が
こんな重大な間違いに気づかないはずはないでしょう。

しかも上記「他児への適用を巡る医師発言の変遷 1、2」の2つのエントリーで詳述したように、
Diekema医師自身が2006年のAshley論文においては、
このような成長抑制療法については
今後の「恣意的な適用を防ぐために」
倫理委だけではなく施設内審査委員会の審査下にある研究の文脈で行われるべきだと、
念を押して書いていました。

医師を読者対象にした新聞のインタビューを受けるに当たって
施設内審査委員会が承認したのだというウソをついたという事実は、

Diekema医師の意識の中に、
本来なら施設内審査委員会での検討を要するくらいに倫理的に問題の大きなケースだ
との認識があった何よりの証拠ではないでしょうか。
2008.03.21 / Top↑
前のエントリーで紹介したニュースで
Oregon州で自殺幇助を法律で認めたら
その後10年間で自殺幇助に手を上げる医師も薬局も急増したという箇所を読んで、

そりゃあ、医師と薬局はお客さんさえいれば商売だから……
と思わずつぶやいた時に
ふっと結びついたのですが、

昨日、近所の薬局に行った時に
メタボリック症候群対策コーナーがでかでかと出来ていて、
ものすごい種類のメタボ対策用の医薬品とグッズが並べてあった。
それはもう、この短期間によくもこれほど……と感嘆するほどの種類の豊富さで。

メタボリックシンドロームという“病気”が創設されたのは
保健施策というよりは医療費抑制のための経済施策だよね、
とは思っていたのですが、

もしかしたら、
さらに国民にお金を使わせて経済を活性化しようとの
意図も含んだ経済施策でもあったのでしょうか?

(もしかしたら、
 そんなのは周知の事実で
こんなことをいまさら言っている私が
 すでに鈍いのかもしれませんが。)

英国では65歳になった男性全員に
無料で動脈瘤の検査を受けさせることにしたというニュースが
ちょっと前にあったのですが、
保健施策としては、こちらのほうが余程まっとうですよね。

2008.03.21 / Top↑
医師による幇助を受けて自殺することを認めた尊厳死法がOregon州にできて10年。

10年目にあたる去年1年間に、
医師に処方された致死薬物を手にした人は85人で前年より20人の増加。
その中で実際に服用して自殺した人は49人で前年より3人の増加とのこと。

薬を手にしてから飲むまでの期間は
それまでの6日間から2週間に伸びた。

米国内で自殺幇助を認める法律があるのは現在Oregon州のみで、
施行から10年でこの法律によって自殺した人は341人。
多くは高学歴の白人高齢者の癌患者。

尊厳死擁護派がこの点をとりあげて
反対派が懸念するような弱者切り捨てには結びつかない、
数の増加は社会が同法を受け入れている証左と主張する一方で、

反対派からは
自殺希望の患者の判断に疑問がある場合は精神科医の治療を受けさせることとの条件が守られておらず、
歯止めもセーフガードも存在しないと批判。

自殺幇助に関与する医師も薬局もこの10年で急増しているようです。

More Oregonians using assisted suicide law
AP, OregonLive.com, March 18, 2008
2008.03.21 / Top↑
16日のエントリーで英国保守党のCameron党首が
重い脳性まひの子どもと一緒に朝食をとる一家の姿を
テレビで公開したとのニュースを紹介しましたが、

そのCameron党首が現在議論されている中絶法の見直しについて、
軽度の障害であっても39週まで中絶を認める現在の法律を改正する必要はない、
との見解を示したとのこと。

自分の基本的な姿勢は
非常に大きな苦しみをもたらす遺伝的な欠陥と病気への対処方を改善したい、
ということである、と。

保守党としては、
このヒト受精・胚法改正問題については党の縛りをなくし、
中絶から人と動物のハイブリッド胚の研究利用の問題に至るまで、
個々の議員がそれぞれの良心に基づいて投票することを認め、

Brown首相にも同じ対応を求めている、とのこと。


英国議会で審議中のヒト受精・胚法改正に関連するエントリーは、

2008.03.20 / Top↑
Corwinが“Ashley療法”を批判して指摘しているのは4点。

①自分で意思表示できないだけではなく、
抵抗することもできない人の身体に過激な処置が行われたこと。
特に「抵抗できない」ということが問題。

 ただ「やってしまえるから」というだけで
特定の人たちに何かがされることはないように
特段の配慮が必要である。

②親が愛情から決定したことだからといって、
 それ自体は決定の内容を正当化するものではなく、
 決定内容は精査されるべきである。

③Ashleyに行われた処置には一定の利益が確かにあると思われるが、
 同じことが障害のない人に行われた場合には非倫理的だということになる。
 それは何故なのかを考えなければならない。

 その人の状態によって結果的な処遇が同じである必要はないが、
 その判断に適用される倫理判断の基準は一定でなければならない


④生後3ヶ月相当とされる年齢比喩の危うさの指摘。

(この点はTHニストから出ていた「精神年齢」批判のエントリーで既述。)

結論部分で彼女が最も強く懸念しているのは
「生命倫理 vs 障害者の権利」という対立の構図です。

Ashley事件では
対立の構図を強めていくことに熱心なTHニストが多い中、
対立の激化を懸念するTHニストもこのように存在するということが目を引きます。


倫理学は倫理学を適用する対象の人々の中に障害者を含めなければならない。
そうでなければ真の倫理学ではない。

……中略……

自分で主張することも身を守ることも難しい人々が体験してきた
力のアンバランスは非常にリアルなものであり、

歩くことも話すことも自分で食事をすることもできない人たちに
Ashley療法が適用される可能性については真剣に考える必要がある。
2008.03.19 / Top↑
Anne Corwinは去年1月に自分のブログに発表したエッセイ
Ashley X – Avoiding Oversimplification の冒頭で
“Ashley療法”の擁護論に引っ張り出される、
「人の精神は肉体と釣り合っていなければグロテスクだ」という考えを批判するのですが、

他の批判論と全く違ってユニークなのは
その理由が非常にトランスヒューマニスティックだということ。

THニストの考えでは
身体は個人の好みや考えによる自己選択で自由に選べるもの。
本人が「自分は猫の身体になりたい」と考えるのであれば
その人は自分の外見を猫そっくりにしたって
それも自己選択権の範囲内ということになるわけです。

そういう価値観に立つとしたら
ある人の精神と肉体の釣り合いが適切かどうかなんて、
一体誰に決める資格があるのだ? 
というのがCowinの「グロテスク」論批判のベース。

その上に立って彼女は
Ashleyの精神と肉体の釣り合いをグロテスクと呼ぶことは、
Ashleyのような障害者を理解することには全く貢献しないし、

誰かが「ある人の精神にはこのような身体の方が釣り合う」と考えたというだけで
そのたびに病院の倫理委が過激な医療を認めるとしたら恐ろしいことだろう、と。

このように「グロテスク」論を否定した後で、

It’s not that she’s going to be small, it’s how she got that way, that is driving the widespread debates on this matter.

この問題で広く議論を巻き起こしているのは
Ashleyが小さいままであるということではなくて、
彼女がどのようにして小さいままにされたかということ(理由や意思決定過程や方法)なのだ。
2008.03.19 / Top↑
当ブログでは
Ashleyの認知レベルを「生後3ヶ月(なぜか時に6ヶ月)」とするDiekema医師の
根拠のない「判定」に疑問を呈し、
表出能力が限られている重症児においては
表現しにくいことがすなわち「分かっていない」ことの証明ではないと
当初から一貫して主張してきました。
(詳細は「ステレオタイプの壁」の書庫のエントリーを。)

実はこの点に関しては、
「生後3ヶ月のマインド」という表現そのものが端的に事実として間違い
と指摘したエッセイが2007年1月7日の段階でありました。

Ashley X – Avoiding Oversimplification
By Anne Corwin
Existence is Wonderful, January 7, 2007

(Existence is WonderfulはCorwinのブログ。
 ここでの出典は、転載先IEETのサイトです)

例えば、Ashleyは「生後3ヶ月のマインド」の持ち主であり、
今後も常にそうであろうと主張することは端的に事実として間違っています。
彼女のマインドは生後3ヶ月のマインドではなく、
発達障害のある9歳のマインドなのです。
30歳になれば、その時の障害の重さに関りなく、30歳のマインドの持ち主でしょう。
平均的な30歳のマインドではないかもしれないけれども、
それでもやはり30歳のマインドです。
このような年齢比喩を用いることは(これは比喩以外の何でもない)物事を曖昧にし、
人々が細部に目を向けることを阻んでしまいます。

Ashleyがどのようにこの世の中を体験しているかは誰にも分かりませんが、
まだ3ヶ月しか生きていない赤ん坊と同じように世の中を体験しているということはないでしょう。
Ashleyが脳のスキャンを受けたとか、
もしかしたら意思疎通が可能だという前提で試してみた
(座るより横になるほうが好きなようだと両親が気づいている他には)
という文書も目にしたことはありません。
彼女の「メンタル年齢」がどのように導き出されたものかという証言も
目にしていません。

続いて
当ブログやAnne McDonaldさんの主張と同じ、
表出・表現できないからといって認知していないと決め付けるのは科学的でない
との指摘が行われた後で、

医師にも間違いはありえます。怠慢もありえます。
複数の医師と倫理委の存在でその可能性を最小化することもできますが、
重い身体障害のある人のメンタルな機能のアセスメントの難しさは
どんなに強調してもしすぎることはありません。
Ashleyのメンタル年齢のアセスメントでは、
この困難さはどれほど考慮されたのでしょうか。
それとも彼女の治療内容を導き出すには、このようなカテゴリーに分類する必要がある
という考えに基づいてアセスメントが行われただけなのでしょうか。

名川先生も去年の論争初期に同じ指摘をされていましたが、
これほど明快にAshleyのメンタルレベルの矛盾を突いた文章は
その他には見当たりません。

何よりも興味深いのは
この文章を書いたのが女性トランスヒューマニストだということ。

Corwinも世界トランスヒューマニスト協会の理事であり、
Hughes やDvorskyが中心人物であるInstitute for Ethics and Emerging Technologiesのお仲間。

じつはあのGeorge Dvorskyに
大人の体に赤ん坊が宿っているのはグロテスク」だとの
Ashley父のブログに引用された考えを撤回させたのがこのエッセイなのです。

彼女のエッセイは他の点でも誰よりも鋭い指摘を行っています。
ずっと紹介したいと思いつつ、他の話題の取り紛れてきたのですが、
両親のインタビューを機に次のエントリーで。
2008.03.19 / Top↑
発達障害に携わっている療育関係者は「発達年齢」をよく口にする。
発達年齢とは何であろうか。
限定された領域、生活とはまったくかけ離れた場所、状況、
ほんのわずかな時間で子どもの発達すべてを
理解した気になってはいないであろうか。
     …中略…
「発達年齢」という正体不明のものにとらわれず、
「生活年齢」を重視した治療活動、遊びを……

2003年3月の「作業療法ジャーナル」(三輪書店)巻頭で
京都大学医療技術短期大学部の加藤寿宏氏が書いている「提言」というコラム文章の一節。

Ashley事件で、
いとも簡単に生後3ヶ月(時になぜか6ヶ月)と決め付けられている「精神年齢」とは、
ここでいわれている「発達年齢」に当たるのだろうと思いますが、

その判定というものが加藤氏のいうような限定的なものであること、

さらに
そうした機能を治療や働きかけの対象にしている職種は決して医師だけではなく、
加藤氏のような作業療法士や療育施設の保育士や養護学校の教師でもあることを考えると、

仮にもあれほど過激な医療処置を行う正当化の根拠にするのであれば、
もう少し慎重にAshleyの状況を多角的に捉える努力が必要だったのではないでしょうか。

Latimer事件でも
痛み苦しみだけしか感じていなかったように父親が言いなしたTracyを
養護学校の先生たちは、
音楽を楽しみ、笑顔を見せる子どもとして
記憶しているというのですから。
2008.03.18 / Top↑
去年の論争でもそうでしたが、
Ashley両親インタビュー直後のリアクションは
今のところ肯定的なものが多いようです。

人のすることに端からあれこれ口出しするな、
親が愛情からやったこと、
この親の愛情は素晴らしい、
在宅サービスなんて現実には存在しない(これは日本でも言いたいけど)、
当事者の身になってみろ、
実際に本人のQOLのためになっている、

などなど、内容はこれまで出たものと同じですが、

Diekema医師の正当化の発言を引いて
「病院の倫理学者がこういって承認したのだから、
医学的にも倫理学的にもOKなんじゃないだろうか」
という論旨のブログに対して書き込まれた
反論コメントが最後に一言。

Besides, how do you become an “ethicist”?
だいいち、「倫理学者」なんて、どういう資格があるっていうのよ?

この頃やたら出てくる「倫理学者」って、そもそも一体ナニモノ──?

至言。


【関連エントリー】 生命倫理学者とは
2008.03.18 / Top↑
ミステリー作家Harlan CobenがNY Timesで
親はスパイウエアを使って子どものPC利用を逐一監視するべきだ」と主張しています。

The Undercover Parent
By Harlan Coben
The New York Times, March16, 2008


なんでも最近では、
子どもがPCでやったことを逐一、
(タイプされた1文字1文字まで正確に)
定期的に親にレポートしてくれるスパイウエアが売られているのだとか。

彼が親による子どものプライバシー侵害を正当化する理由は以下の2つ。

①パソコンを通じて接触する異常者の犠牲となる子どもや
ネットでのイジメで自殺に追い込まれる子どもが増えている。

②どうせ子どもはパソコンで遊ぶことによって
無自覚なまま自分のしていることを広くネットユーザーに発信しているのだから、
親が見たってそれらユーザーと同じことに過ぎないし、
むしろ、それが決して安全なことではないと親が知らせてやるべき。

Cobenの理屈では、
子どもが薬物に手を出したり、よくない相手と付き合ったりしている際に、
スパイウエアで証拠を掴んだ上で子どもと話し合う方が説得力があり
子どもも親の言うことに素直に耳を傾ける……というのですが、

それでは親に対する信頼を子どもが失ってしまうだけではないか、
この感覚は子どもを深く傷つけるものではないかと私には思えてならない。

デザイナー・ベビー志向にせよ
着床前診断による障害児切り捨てにせよ、
“Ashley療法”にせよ、
このような監視の提案にせよ、

親が子どもを自分の意のままにしてもよい所有物と捉える傾向が目に付いて、
非常に気にかかります。

そのすべてにおいて、
「子どもを守ってやるのは親の義務」
「それが子どもの利益」などという、
もっともらしい理屈がアリバイに使われていることもまた。
2008.03.17 / Top↑
CNNのAshley両親インタビューについて
George Dvorskyが自分のブログでとりあげていましたが、

今度は
世界トランスヒューマニスト協会の下部組織に等しいIEETのウエブサイトでJames Hughes

The parents are now back in the news
「両親がニュースに戻ってきた」との解説付きで
Dvorskyのブログ・エントリーを紹介しています。

彼がその解説で一番いいたかったのは
去年Dvorskyの書いたものが父親に引用されたことから
論争に際していかにIEETに取材申し込みが相次いだかという自慢話であるらしいのが笑えます。

自分たちにスッポットライトを当ててくれたことがよほど嬉しかったのでしょうか。

しかし、
父親に引用された「肉体と精神はつりあっていないとグロテスクである」という説を
Dvorsky自身は既に撤回しているのに、

2人とも今回のエントリーでそのことには全く触れていないのは
フェアじゃないというか、いっそ卑怯なのでは?

Ashley X’s Parents Declare Treatment a Success
Institute for Ethics and Emerging Technologies, March 16, 2008
2008.03.17 / Top↑
英国の野党、保守党党首のDavid Camron氏が
テレビカメラを自宅キッチンに招きいれ、
重い脳性まひの息子に朝食を食べさせる姿を撮影させたとのこと。

明日保守党が新たな育児休暇法案を発表するのに備えた動きと見られ、
Cameron氏自身も子どもを政治利用しているとの批判は予測しつつも、
自分も家族を抱えて日々奮闘している姿を見せたかった、と。

同時に、
Brown首相が嚢胞性線維症の息子については一切触れないこととの
対比を際立たせたかったという見方も。

Cam: This is Ivan
The Sun, March 16, 2008

英国首相に遺伝病の息子があることも、
保守党党首が重い脳性まひ児の父親であることも
私はこの記事を読むまで知りませんでした。

その英国の議会では目下、
着床前診断によって障害児を排除しようとの ヒト受精・胚法改正議論が進められ
障害児はnon-personなどとする話が出ているのですが……。

【追記】
Daily Mailにさらに詳しい記事がありました。

2008.03.16 / Top↑
UPIとFoxも3月12日CNNの報道当日に
CNNの内容をそのまま簡潔にまとめたニュースを流していました。

内容はいずれもほぼ同じで、

この1年間でAshleyの身長も体重も変化していない、
ホルモン療法、子宮ならびに乳房芽の切除は成功だった、正しい決断だったと述べた両親は
他の重症児の親にも選択肢とすべきだと主張した、

しかし、これら処置は大きな論議を呼んでおり、
病院が違法性を認めただけでなく、
直接担当した医師は自殺している、と。

Parents: ‘Ashley treatment’ successful
United Press International, March 12, 2008


Gunther医師の自殺の際に
医師の義理の弟の「前から時々ウツ状態になっていた」との証言と
Diekema医師の「Ashleyケースを担当したのはむしろ活力源になっていた」などの証言が
Seattle Timesにとりあげられ、

自殺はAshleyケースとは無関係だとの方向付けが試みられましたが、

今回のCNNとUPI、Foxの記事を読む限り、
メディアは「無関係ではないはず」と捉えているようです。

今回のインタビューを巡っては
今のところネット上に見られるのはほとんど賛成・擁護ばかりですが
その中に「担当医が自殺したのは知らなかった」と書いた人がいました。

去年1月のメディアの騒ぎが収まると興味を失ってしまった人たちの中には
直接担当した内分泌の専門医が秋に自殺したという重大な事実を
見逃してしまった人たちも多いと思われます。

子宮摘出の違法性と担当医の自殺という2点を
UPIもFoxもCNNと同様に確実に押さえて記事を書いていることに
ちょっとほっとしました。


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1年前にメディアが騒いだ時だけ興味を持ってはみたものの
その後は深く考えてみることもないままこの事件をすっかり忘れていた人たちは、

去年5月の病院とWPASの記者会見(子宮摘出の違法性を認めたもの)も
9月末のGunther医師の自殺も知らないのではないでしょうか。

そしてその時々に直接ニュースに触れていなければ、
今回の記事で触れてあっても何のことかピンとこないかもしれません。

今回の擁護論でも
「直接世話をするわけでもない人間が外野から批判をするな」
「親が愛情からしたこと」

そして、あれほどAshleyの父親が
難しい決断ではなかったと繰り返したにもかかわらず、
またも「ご両親はどんなにか苦しい決断をされたのだから」と

1年前と全く同じ同情・擁護論が繰り返されています。

ろくに記事もブログも読まず事実関係も把握しないまま
感情論で擁護の書き込みをする無責任な人たちには

一度ちょっと立ち止まって、

病院が違法性を認めた事実と
直接手を下した医師の自殺という事実の重みをしっかり受け止めて、

改めて考えてみて欲しい。
2008.03.16 / Top↑