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先週、兄の自殺幇助でCA州の女性を起訴のエントリーで
取り上げた事件の続報で、

起訴された女性June Hartleyさんは
金曜日の罪状認否で容疑を否定した、とのこと。

ちょうど水曜日に the Final Exit の幹部ら4人が逮捕されたばかりとあって
こちらの事件からも自殺幇助合法化議論が再燃。

Hartleyさんの兄Jimmy 氏も
ヘリウムを使う Final Exitの会員と同じ方法で自殺しており、
所持品の中からFinal Exitの幹部の Derek Humphryの著書が見つかった、とのこと。

Final Exitのサイトにあった認知症患者へのアドバイス
読むように勧められていた本と同じものではないかと思われます。

2009.02.28 / Top↑
2007年1月“Ashley療法”論争時にAlisonがメディアに露出した際のもの








2008年1月17-19日 要望却下に関する報道



擁護論

Should doctors give severely disabled girl a hysterectomy at request of her parents?
(Digital spy というサイトの掲示板 10月8日)


Day in the life of a cerebral palsy mum
The Mirror, October 9, 2007

Listen to mother on this terrible choice
Colette Douglas Home, the Herald, October 9, 2007


批判

Author of our own destiny
Liz Sayce, the Guardian, October 9, 2007
(the Royal Association for Disability and Rehabilitation からの批判)

Scope reaction to Katie Thorpe hysterectomy case
(Scopeからの反対声明,10月8日)

Sympathy for an agonizing decision
(重症児の母親、BBC, 10月8日)

‘Wait and seethe best approach’
(医療倫理学者、BBC、10月8日)


Should the Court of Appeal allow Katie Thorpe’s womb to be removed?
(Frances Gibb, the Times Legal Editor, October 18, 2007)

Why can’t you let Katie grow up?
(David Reilly, the Herald, 10月30日)

Equality boss speaks out on Thorpe case *
(人権監視団体の長によるメディア批判、Disability NOW, 10月)

Katie Thorpe: No Hysterectomy and Disability Rights Attacked *
(William Peace, BAD CRIPPLE, January 18, 2008)



【注】
*:spitzibaraの個人的お勧め
**:意図的な偏向報道?
2009.02.28 / Top↑
自殺幇助容疑で医師を含む4人の逮捕者を出したFinal Exitの公式サイト、驚愕の内容でした。

①まずHOMEでは
前日の関係者の逮捕を受けて2月26日付でリリースが出ています。

自分たちは実際の自殺行為を“幇助”などしていないし
自殺をそそのかすようなこともしていない、
逮捕された4人は無実であり、無罪になると信じている……といった
まぁ、だいたい想像のつく範囲の内容ですが、

特に強調しているのが、
活動費は一人50ドルの会費と寄付でまかなっており
提供サービスから利益を得たことはない、という点。

しかし、実際に様々なページを読んでいくと、まさに驚愕の内容で、


② たとえば We Serve(私たちの活動)とされているページでは

多くの自己決定能力のある人々が長く苦しい死を余儀なくされている、と指摘した後で
次のように書かれています。

パーキンソン病、多発性硬化症、筋ジス、ルー・ゲーリック病などの神経系の病気やアルツハイマー病の人は、しばしば“終末期”と呼べる状態になるよりもはるか前に生きる理由も意思も失います。癌、脳卒中、慢性心臓疾患、肺気腫、その他不治の状態と、負けると分かっている戦いを延々と続けなければならない人たちも、必死で一呼吸一呼吸にしがみつくくらいなら尊厳のある終わりを望みます。

このような人々の多くは助けを得ることができません。Final Exit は耐え難い状態に苦しんでいる人々のために活動しています。Networkのボランティアはカウンセリング、支援、そして、あなたが選んだ時にあなたが選んだ場所で、自己処置のガイダンスを提供します。しかし、選ぶのは常にあなたです。死を急ぐように我々が勧めることは決してありません。



Exit ガイド・プログラムへの受け入れ基準

1.認知機能があること。
2.もとめられる行動(task:必要物を買うことを指すらしい)ができる体力があること。
3.耐え難い苦痛を引き起こす不治の状態があること。
4.求められる活動を行う精神・体力の機能があり、さらに「機会の窓(window of opportunity”)」が存在することを理解していること。
5.自分で使用する品物を手に入れられること。

Exit ガイド・プログラムへの受け入れを拒む場合
1.死の時に居合わせる可能性のある人間の身の安全が保証されない場合。
2.家族、友人または介護者が患者の計画を知っていて、強く反対している場合。
3.上記2点のいずれかまたは両方にExitガイドが不安を抱く場合。


こうして訳しながらパソコンを打っていても
これが誰かの自殺について語られている言葉だということに
とても平静でいられず、胸がどきどきしてしまいます。

巧妙に用語が置き換えられていますが、

必ずしも死が差し迫っているターミナルな患者でなくても
必ずしも病気ですらなくても、またそれが肉体的な苦痛でなくても、
自分が「耐え難い」と感じる「苦痛」を引き起こす、「治すことのできない状態」があれば

ということは、軽度のものであっても主観的に耐え難い障害であれば、
もしかしたら病気も障害もない人であっても、
死ぬのを手伝ってあげますよ、という話――?

その他はすべてFinal Exitの“ガイド”が罪に問われための用心――。


④ 次に、リソースのページにあった
アルツハイマー病と認知症に関するFinal Exitの方針」という文章。

そのまま訳すと長いので、簡単にまとめると、

法律により、自己決定能力のある人のサポートしかできないことになっているので
(自己決定能力のある人に対してでも、自殺幇助は
これまでのところだとOregon州以外では違法だったはず
WA州の新法の施行は3月5日です)

自分で必要なものを手に入れて自分で死ななければならないのだから
それだけの認知機能が残存している間に(お願いします?)。

もちろん認知機能の判断が難しいことは承知していますが、
まだらに記憶が不安定になった認知症の人がある時点でサービスを求めても
その後、認知機能が低下した場合には、お約束を守ることはできません
機能が回復された後にまたコンタクトさせていただくことになります……といった感じ。

要は、
「アルツハイマー病やハンチントン病、ことによってはパーキンソン病や、
その他、認知症に至ることが避けがたい病気」の場合は
しっかりしているうちにやりましょうね……というふうで。

この文章の後半では
そういう病気になった場合にやるべきことがステップごとに紹介されています。
こちらも訳すのではなく、ざっとまとめてみます。

1.今後のことをよく考えて、
2.Final Exitが用意した認知症患者向けの事前意思書に記入し
3.Final Exitの幹部が書いた本を読み、
4.自分で死のうと思ったらFinal Exitに連絡をする。
5.自分で死にたくなければ、今後して欲しくない医療を明確にする。
6.餓死を選ぶ人もいるが、2週間程度かかって苦しいのでホスピスケアを受けるのが望ましい。
7.認知症が進行して自分で食べられなくなった場合、食べることを拒否することは可能。施設や病院が責任を問われないように、あらかじめ文書でその意思を明確にしておくのがよい。
2009.02.28 / Top↑
英国政府が進めている国民のDNA データベースに
既に110万人分の子どものDNA情報が保管されており、
その半数は犯罪歴のない子どものものであることが明らかに。

うち、337000人分は16歳以下のもの。

88%は警察に逮捕され、その段階でDNAサンプルを採取されたもので
その中のどのくらいの子どもたちが無罪放免や警告に終わったかは不明。

英国のデータベースは国際的にもダントツの規模で
既に国民の7%以上の情報がストックされているとのこと。

逮捕者全員のDNA情報が保存されるためで、

警察は犯罪防止と摘発に不可欠のツールだと主張するものの
去年12月に欧州裁判所はこれを無実の人への人権侵害だと判断している。

今回データベース上に記録された子どもたちの人数が明らかになったことで
また議論が再燃するものと思われる。

DNA details of 1.1 m children on database
The Guardian, February 27, 2009


2009.02.27 / Top↑
多くの著書のあるキリスト教系のプロライフ活動家で
障害当事者でもあるJoni Eareckson Tadaさんは

“Ashley療法”論争のごく初期の2007年1月12日、
CNNのLarry King Liveに生出演して
Diekema、Fost両医師を相手に果敢な批判を繰り広げてくれた人物。

もっとも揺ぎのない視点で反論をしてくれた人として
私にとっては非常に印象的な存在なのですが、

2005年のTerry Shiavo 事件の際には
栄養と水分供給停止の判断に反対する運動をリードした人でもあります。

このたび、彼女をホストとして
Shiavo 事件のドキュメンタリー映画 the Terry Shiavo Story が作成されました。

事件の関係者へのインタビューを始め、
これまでメディアで報じられることのなかった新事実も盛り込まれているとのこと。

こちらで予告編が見られるので
ぜひ、1人でも多くの人にShiavoさんの姿を見てほしい。

特に、彼女の目の表情を見てほしい。

最後まで母親の語りかけには反応があったとナレーションにあります。

身体は思い通りにならなかったかもしれないけれど、
こんなにも目で反応できている人が
「息をしているだけで何も分からない」と判断されて
既に他の女性と暮らしている夫の代理決定によって
しかも最終的には裁判所の判断と命令によって
餓死させられてしまったのです。

この人が「どうせ何も分からない」と決め付けられたということに、私は
Ashleyが「生後3ヶ月の赤ん坊と同じだ」と決め付けられたのと同じ、やりきれなさと
科学者であるはずの医師の無責任に憤りを感じる。

“Ashley療法”論争の際に、
「これはShiavo事件と同じだ」との批判が出ていたけど
事件の本質はまったくその指摘の通りだと改めて思う。

「わかっている」ということが完全に証明できないとしても、
「わかっていない」ということも完全に証明できない以上、どちらも可能性に過ぎず、従って、
「わかっていない」という結論は下せない――。

それこそが科学的なリーズニングというものではないのか?

なぜ、1人の人間の命がかかっている判断において
「分かっていない可能性があるから殺す」ではなく
「分かっている可能性もあるから殺さない」と判断できないのか。


       ―――――――

17,95ドルでDVDが販売されているので、
日本でも見られるなら買いたいのですが、
リージョンがどうなっているのか、ちょっと気になっているところ。

(amazon.com でも購入できるらしいのですが、昨日覗いてみた限りでは見当たらず)



2009.02.27 / Top↑
米国の全9州で捜査が行われている the Final Exit Networkの自殺幇助疑惑については、
ものすごい数のニュースが出てきて、とても読みきれませんが、

どうやらFBIが逮捕された4人を起訴した模様。

その他に、ちょっと目を引かれた記事3本を以下に。


① APからの続報。

これまでにthe Final Exit は全米で130人の自殺に関与した可能性。

また、ヘリウムを使うと
自殺希望者が吸引して窒息死した後にヘリウムの痕跡が残らない、とも。

逮捕された4人は今日金曜日に法廷に姿を見せる予定。



② Oregon州からは「そら見ろ」と言わんばかりの声。

自殺幇助を合法化したOregon州では
こういう逮捕者は出ないのだぞ、

こんな組織など存在しないのだぞ、と。

Nobody Gets Arrested for Assisted Suicide in Oregon
By Tom D’Antoni,
The Huffington Post, February 26, 2009


③ Kevorkian医師がコメント。

90年代に130人もの自殺を幇助し Dr. Death との異名をとった
Jack Kevorkian医師が

「The Final Exit のやり方は間違っている。
医師が関っていないことが何よりも問題だ」と。

ちなみに、直接関与したかどうかは不明ですが
逮捕されたうちの1人は81歳の麻酔科の医師で
The Final Exit の“メディカル・ディレクター”だったとか。



この事件で米国の世論は、どっちに振れるのだろう……。

②や③を読むと、不安になってくる。まさか、

だから闇でいかがわしい自殺幇助が起こらないように
きちんとルールを決めて医師の幇助によって合法的に自殺させるのが良い……という方に向かうのか……。
2009.02.27 / Top↑
英国保守党Cameron党首の息子Ivan君の死について、
Timesにあった追悼記事という趣の1本から
特に目に付いた点、それから個人的に思うことを。


息子の病院通いや看病の体験が、
Cameron氏の医療に対する考えに影響を与えて
NHSの存在そのものに否定的だった保守党の姿勢を転換させた。

NHSのような金のかかる制度はもはや無用だとする声に対して
妻と一緒に準備したとされるスピーチでCameron氏は
「NHSは20世紀の最も大きな偉業の1つだと確信している。
家族が常時、昼も夜も来る日も来る日も、NHSに頼っていると
NHSがどんなに貴重な存在であるかが本当に良くわかる」。

また
息子さんは死なせてあげる方が幸せかもしれないと夫婦で考えることはないかと
問われたこともあったようで、

「難しいですね。夫婦で話すことはよくあります。
ものすごく辛い発作が起きたら……。これ以上は話したくない……」

Ivan君の死は、どうやら、
けいれん発作の重積によるもののように思われます。



政治家というのは、
こんな無神経な質問を見も知らぬ相手から投げかけられて
答えを迫られなければならないものなのか……。

私も問われたことが何度かある。

ウチの娘もIvan君と同じ重症の脳性まひで同じ発作もあるけれども、
どちらも程度がIvan君より少し軽いので、おのずと質問の方向も微妙に違っていて、

「お産の時に、いっそ死んでくれていたらよかったのに、と思うことは?」と
人により、私との関係によって、様々に違う表現とトーンで。

ほとんど初対面に近い相手がそんなことを聞く無神経に
殴りつけたいほどの憤りで頭が真っ白になり、絶句したこともある。

娘の幼児期に、
うつ状態に陥った私を心配して毎日のように寄ってくれる友人が
恐らくは彼女がずっと心の奥で私のために転がし続けてきた、その質問を、
私を案ずるがゆえに問わずにいられないといった顔つきで
押し出すように口にした時には、

答えようと思った。
分かってもらいたいとも思った。

だから説明しようとはしたのだけれど、
あまりにも多くの思いや言葉が
絡まりあってぐずぐずになった毛糸玉みたいに胸元でこんぐらがって、
その、ほどけなさは、ただもう絶望的で──。


「考えたことがあるか」と文字通り聞かれたのだとすれば、
それは「考えたことはある」が答えになります。

しかし、そういうことを「考えたことがある」ということは
決して「だから、そう思っている」ということと同じではないし

それどころか、答えようとしている内容はきっと
「そう思っている」からは遠くへだたってもいて、
伝えたいその思いと、「ある」と答えることとの隔たりの、あまりの距離感を前に、
「考えることはある。あることはあるけど、でも……」の後は、絶句するしかなくなる。

親としての自分の気持ちにしたところで、
その距離感のどこかの、いつも同じどこかの定点に
心が定まっているというふうなものでもなくて、むしろ、
子どもの状態や家族全体の状況、親自身の体調や精神状態によって
その距離感のどこかをウロウロ、ふらふらと漂っていたりもするのだから、

誰かに向かって言葉で説明しようとする以上は
何らかの言葉を選択するしかないのだけれども、
どの言葉を選択して何を言っても所詮その言葉が言い表すのは
複雑な気持ちのほんの一面でしかない……という意味では
その言葉は口にした瞬間にウソになるしかなくて、

その時も
むなしく言葉を探してあっぷあっぷするだけで、結局なにも言えなかった。

数年前に、その友人が
「私は、あなたに酷いことを言ったことがあった……」と。

あの時のことを言っているのだと気付くのに、しばらくかかった。
ああ、この人も覚えていたのか……と、びっくりした。
きっと彼女自身の傷になっていたんだな……と、申し訳ない気がした。

ううん。謝ることなんか、ないよ。
あの時、私、気持ちはちゃんと受け止めたんだから。
だから腹なんて立たなかったよ……ただ……

ただ……なんなんだろう……。

ただ、どうしても言葉にならなかった。

この20年以上、ずっと心配しながら見守ってくれた彼女に
今でも説明できるものならしたいけれど、どうしても言葉にならない。

同じ思いを知っている人なら何も言わなくても分かるのだけど、
同じ思いを知らない人には、どんなに言葉を尽くしても伝えることが出来ない──。

そんな思いというものが、ある……としか言いようがない。

いったんは誠実に答えようとしたCameron氏が
「これ以上は話したくない」としか言えなくなったのは
そういうことなんじゃないだろうか。

きっと障害のある子どもの親は
そんな問いを自分自身も何度も心に自問しながら、
答えなど出せないまま日々を生きることを通じて
死ぬまで自分の答えを探しているんじゃないか……という気がする。

それとも、
同じ思いを知らない私には分かりようがないことなのだけれど、

Ivan君が亡くなったことで、
Cameron氏の自問は何かが変わるのだろうか。
答えが見つけられるのだろうか。


Ivan Reginald Ian Cameron 君のご冥福を──。
2009.02.26 / Top↑
前のエントリーで取り上げた
全9州における、自殺幇助容疑での the Final Exit 捜査関連。


Arizona州Phoenixで2006年に
慢性的な精神疾患のある58歳の女性 Jana Van Voorhisさんの自殺に
The Final Exit Networkから訪れた老人2人が関与したとして

Maricopa郡検察官が家宅捜査令状をとる、と。

女性に精神疾患があった点を
特に検察当局は重視している、とのこと。



Janaさんの自殺の詳細については
同じニュースサイトで2007年に長文の記事があるのですが、
非常に長いので、最初のページしか読んでいません。一応、以下に。

Death Wish
The Final Exit volunteers call it assisted suicide.
Prosecutors may call it manslaughter
By Paul Rubin, the Phoenix New Times, August 22, 2007

【追記】

このエントリーをアップした直後に
アップデートとして記者会見の模様が同じサイトに出ていましたが、
新たな情報は特になかったようです。

2009.02.26 / Top↑
「耐え難い状態に苦しんでいる人々を助けるために活動する」とウェブサイトに謳う
尊厳死アドボケイト the Final Exit Network の代表を含む幹部ら4名が
会員に成りすましたGeorgia州検察局捜査員のおとり捜査によって逮捕された。

容疑は昨年6月の58歳の男性 John Celmer氏のヘリウムによる自殺幇助。

The Final Exit Network は2004年に設立され、
会費納入済みの会員が現在3000人いる。

exit とは名詞で「出口」、動詞で「出る」で
同ネットワーク内では自殺または自殺することを exit と表現する。

同ネットワークでは50ドルの会費を支払って手続きを行うと、
自殺したいと思った時には“exit ガイド”と呼ばれる担当者がつけられる。

その“exit ガイド”の指示によって会員が
ヘリウムのタンク2本と、彼らが“exit バッグ“と呼ぶ(頭にかぶる)袋を購入し、

いよいよ自殺の覚悟が決まると、
”exit ガイド“が実際の自殺のプロセスを指導する”上級 exit ガイド“を連れて
会員の家にやってくる。

ネットワークでは、
ボランティアで終末期の患者の自殺をサポートしてはいるが
実際の自殺行為に手を出すわけではないので、
違法行為には当たらない、と主張。

Georgia州では
「故意に、積極的に自殺を幇助すると公に広告する、
または申し出る、自分がそういう行為を行うとする」ことを
自殺幇助と定義している。

The Final Exit Network については、他にも
フロリダ、メリーランド、ミシガン、オハイオ、ミズーリ、コロラド、モンタナ の
7州において家宅捜索が行われている。

またArizona州では25日にも
捜査結果を報告する記者会見が予定されている。


The Final Exit Network の公式サイトは こちら

【追記】
この件に関しては、あちこちのメディアで取り上げられて
ものすごい数の記事が出てきているのですが、
いくつかを読んでみたところ、

逮捕された4人のうちの1人は the Fianl Exit と提携しいていた医師。

またGeorgea州の捜査では
事後に自分たちの関与の証拠を消すべく書類の改ざんが行なわれていた、という話も。

        ----

闇で自殺幇助が行われているという問題については
当ブログでも以下のエントリーで取り上げています。



なお、NY Times に、 死に関連した記事をまとめたページがありました。こちら
2009.02.26 / Top↑
カナダに
Alex Schadenberg という人が代表を務めている
Euthanasia Prevention Coalition (安楽死防止連盟)という組織があるのを最近知って、
そのブログを時々のぞいてみたりしているのですが、

そこの記事で
ずっと頭に引っかかっていながら調べようともせずにいた疑問に
ひょっこり答えが見つかった。

日本語の「無理心中」に当たる英語、ここではmurder-suicide 。

なるほど──。

以下の記事の別の箇所には
「一家心中」に当たる a family suicide という表現もあるのだけど、

murder-suicide の方では
わざわざ murder という言葉が入っているのが、ぎくりとさせる。

子どもが自ら自殺するわけではない、
親が子どもを殺害して後に(または殺害すると同時に)親が自殺するのが事実のありようなのだから

本来、これは、ぎくりとさせる表現が使われるべき事実なんだ……ということを考えた。



When Financial Despair Turns Deadly
Euthanasia Prevention Coalition, February 24, 2009


障害のある子どもの親が子どもを殺すと、
日本の世間の人々は大いにショックを受けて
「それでも親か」と激しく指弾するのだけれど、

その割りに子どもを殺した後で親が自殺してしまうと
それは「無理心中」ということになって
こちらは誰も「親が子どもを殺した」とは騒がない。

障害者自立支援法が云々され始めてから
相当な件数の親子心中があったようにも思うのだけれど、
あまり大きく報道されることもなく、
ひっそりと忘れられていく。

障害のある子どもが親によって殺されるという事実そのものは変わらないはずなのに、
前者は「酷い事件」、後者は「哀しい事件」と捉えられる。

それは、
前者では事件を見る人が子どもの立場に立つのに対して、
後者では同じ人が親の立場へと立ち位置をいつのまにか移動させているということではないのか、

そのようなダブルスタンダードは
結局親が自殺することで子の殺人が不問に付されているということではないのか、

そこには「心中」を巡る日本人独特の美意識も関係しているのかもしれないけれど、
どこかにやはり「子どもは親の所有物であり、全面的に親の責任」という
抜きがたい意識があるからではないか、

だからこそ、
自分が生きて子どもだけを殺すのは「子どもへの愛情の欠落」だと短絡・指弾される一方で、
親が自分も一緒に死ぬ覚悟で子どもを殺すのは「愛情からの行為」だと
情緒的に許容されてしまうのではないか、

そうした社会のダブルスタンダードは、結局のところ、
障害のある子どもの親に対して暗黙のうちに
「障害のある子どもに対する全責任は親にあるのだから全てを抱え込め。
それができないなら連れて死ね」と
メッセージを送っているようなものではないのか……。

そういうわだかまりを私はずうっと心の中に抱えているので、
経済不況で一家心中が増えているという内容のこのニュースの中で
murder-suicide という表現と出くわした時に改めて考えた。

「心中」「無理心中」に代わる表現が必要なのでは──?
2009.02.26 / Top↑
6歳のIvan君は脳性まひで
てんかんの発作も頻発していたとのこと。

昨夜体調が悪くなり、
今日ロンドンの病院で亡くなったとのこと。

Cameron党首は今日の正午、国会で首相の質問に出席する予定だったところ
Brown首相から勧められてキャンセル。

Brown首相夫妻も2002年に生後10日の娘を亡くしており
深い理解と哀悼の意を示す。

当面、影の内閣外務大臣が党首代理を務める。

Cameron’s eldest son Ivan dies
The BBC, February 25, 2009


Cameron氏は去年3月にテレビカメラを自宅に招きいれて
Ivan君を抱き朝食を食べさせる姿を公開

また8月には中絶法の改正を巡って
障害児は中絶させてあげてと発言し、
物議を醸しました。
2009.02.25 / Top↑
春休みに入って最初の水曜日なので、
日ごろ利用できない映画館のレディスデイに出かけようというのも
今回は「おくりびと」を見ようというのも
個人的には前から決めていたことだったのに、

「おくりびと」がアカデミー賞をとってしまったものだから
行ってみたら、ものすごい人がホールにあふれて入れ替えを待っていた。

田舎の小さな映画館のこととて、
他の選択肢は「7つの贈り物」のみ。

交通事故で7人を死なせてしまった罪の意識に苦しむ主人公が
思いつめた挙げ句に、選びぬいた7人に「7つの贈り物」を考える……というのだから
「こういう話なんだろうなぁ……」と容易に想像がつくというもので、
ちょっと抵抗を覚える映画だったのだけど、

こんなに賑わっている中で「おくりびと」……という気分でもなく、
つい閑散としている方を選んでしまった。

(改めて考えてみたら「おくりびと」の裏番組が「7つの贈り物」だったというのも
 皮肉と言うか、示唆に富んでいるというか……)

──見なけりゃよかったよ。

ここから後、ネタバレを含みますので、
既に見られた方または全く見るつもりのない方のみ、どうぞ。







         ---------


お話は、まったくの予想通り。
なんの「ひねり」も「ねじり」も「どんでん返し」もなく、まんま。

出口で目に付いたチラシを持って帰ったのだけど、
ウラに著名人の感想がずらっと並んでいて、

例えば、

服飾デザイナーの朝月真次郎氏
日本人が失いかけている美徳を再認識させてくれる
とてもとても素晴らしい作品
特に日本の政治家の先生方は必見」。

(どこかの協会と繋がりでも?)

医療ジャーナリスト、和田努氏の
「壮大な愛の物語であるのはもちろん、
神なき時代に神の痕跡を見る思いだ」。

(何を言いたい──?)

精神科医の香山リカ氏
「こうまでしないと人は自分を許せないものか
衝撃と感動で目がくらんだ」

同じく精神科医の名越康文氏
「私はこの作品を賛成や反対ではなく
沈黙を持って迎え入れたいと思う
畏れと共感を伴った沈黙を持って」

(仮にも精神科医なら、目をくらませたり共感してなんかいないで、
この人は鬱病です。どこかの段階でいずれかの医師が気付いて
彼を精神科に紹介すべきでした」とコメントすべきでは?)

だいたい臓器提供を申し出る人の健康状態だって調べないわけじゃなし、

こんなに傷だらけ・欠けたものだらけの体から
さらに臓器を摘出しようなんて医師はいないと思うし、
いたら、それこそヒポクラテスの誓いに反すると思うのですが、
それとも、それもまた「自己選択」だということになるのかしらん。

そもそも、クラゲの猛毒で死んだ人の心臓が
その直後に摘出・移植できるものなのか?

いや、それ以前に、
片肺と肝臓の一部と腎臓が既に摘出されているような身体で
さらに骨髄提供に耐えられるのか。

そんな身体を支えていた心臓が、果たして良好な状態であるものか。

でも、この映画が伝えるメッセージは、
きっとそんな現実問題とは無関係に、

一人の人間には
利用可能な臓器をみんな提供することによって何人もの命を救うことができる――。


この前「笑っていいとも」に出てきたウィル・スミス自身は
「自分が共感できない主人公を演じたのは初めてだった」といっていたけど、

自殺幇助の合法化法案があっちでもこっちでも議会に提出され、
莫大な資金が合法化に向けて活動する団体に流れ込んでいる、
同時に「臓器が不足している」と散々喧伝される、こんなご時勢に、
こんな映画が作られるということ、

むしろ、こんなご時勢だからこそ作られているのだ……ということ、

そして日本でも
著名人がこうして賛美してみせること……そのことごとくに背筋が冷える。

映画評論家、北川れいこ氏は、
言うに事欠いて「究極の“献身愛”」

SCREEN副編集長、近藤邦彦氏も
「苦しく辛くて絶望してあきらめていた時に
もし手を差し伸べてくれる人がいたら、それは間違いなく
最高の贈り物だろう」

もしも罪を償う行為として賛美するならば、
中国で死刑囚から臓器が摘出されていた事実と合わせて
もう一度考えてみてもらいたい。

ただ1人、弁護士の石渡真維氏だけが
「主人公の行為は日本では
社会的に許される行為でしょうか」

だいたい、
自分の臓器に値するだけ「いい人」かどうかを確かめて歩く……なんて、
それは一体なんという傲慢であることか。

そういえば、弟が主人公に向かって言うセリフがあったな。

人の人生を勝手にいじったりしてはいけないんだ──。
2009.02.25 / Top↑
米国では
ざっと50キロ以上の肥満状態にある成人で
胃のバイパス術や切除、バンディング(胃の一部を括る? 復元可能が利点)など
減量手術を受ける人が1998年の14000人から2006年には178000人へと急増。

その一方で18歳以下の未成年に関しては
リスクが大きすぎるとして専門家の間でも否定的な見方が一般的だったものが、
ここへきて子どもへの減量手術も急増し、
2000年からの3年間にはそれまでの3倍以上に。

背景にあるのは
尋常でないほどの肥満の子どもたちの急増と
ダイエットや行動療法が効果を見せないこと、
さらに成人において
減量手術が寿命を延ばし糖尿などいわゆる成人病を改善させるとの
調査研究が報告されてきたのを受け、
NIHとFDAも減量手術を受けた子どもに関する調査を始めたこと。

米国小児科学会がガイドラインを出しており、
BMIが40以上で深刻な肥満関連病(Ⅱ型の糖尿病、高血圧など)があり、
小児科医の紹介状があること。
18歳以下の場合はさらに、それまでに減量の努力を尽くしており
成長がほぼ終了段階にあることなどの条件が追加。

また全員に
手術前の水分ダイエットによる体重減少テストと、
心理状態のスクリーニングが行われる。

リスクとしては厳密な食事制限が課せられること、
それにより多大な栄養障害を起こす(時に死に至る場合も)可能性があり、
研究されていないだけに、今後新たな問題が起こってくる可能性も。

25000ドルかかるバイパス手術はだいたい保険でカバーされるが
10代のバンディング手術はまだ実験的とみなされており実費で約13500ドル。



こういう話を日本のメディアが取り上げると、
すぐに「米国では肥満対策で子どもの胃の手術が既に一般的な医療」とウソをつくので
念のために書いておくと、

この記事タイトルの上に赤字でつけられたカテゴリー・タイトルは
Extreme Measure (極端な手段)。


ここでもまた不妊の急増と同じで、
子どもたちに病的な肥満がそれほど急増している原因のほうを
きちんと調べる研究こそ実は急がれるべきなんじゃないか、
調べてみたら案外に科学とテクノの濫用こそが犯人だったりもするんじゃないかと思うのだけど、

せっせとお金がつぎ込まれるのは
手術が病気予防に有効だというエビデンスを出してくる研究ばかり。

肥満が医療費高騰の原因になっているからナントカしなければ……という話が
結局「肥満対策で万ドル単位のテクノロジーをどんどん使いましょう」という話に行き着いて、
どうして、それが医療費削減に繋がるのか……。

だけど、それもこれも、いつのまにやら医療費削減の話から
子ども本人の“QOL向上のため”に話が変わっていたりもする。

なんとなく“Ashley療法”で起こったことが
ここでもなぞられているような……。


ちなみに、いろんな意味でのご参考までに、
「健康で充実した人生をより長く歩んでいけるようにする」目的の減量手術を解説する日本語サイトから
減量手術の種類のページを。

一体どういうところがやっているサイトなんだろう……と思って見てみたのだけど、
結局は情報源がよく分からない減量手術の情報提供サイトでした。

もちろんサイトの目的は減量手術のプロモーションと思われますが、
この出所のはっきりしないサイトが検索では一番上に出てくるんだから、不気味。
2009.02.25 / Top↑
現在のダウン症の出生前検査の方法には不正確さと流産の危険性が指摘されていることから
母体の羊水の中にある胎児の遺伝情報を取り出して検査する方法が新たに開発されて
脚光を浴びているらしいな……という記事は
かなり前から目にはしていましたが、

いよいよ米国で6月には1社が販売開始、
他の3社も年内に参入を予定している、とのニュース。

しかし、読んでみて「えっ? まさか……知らなかった……」と衝撃的だったのは

まず2007年に米国産婦人科学会がすべての妊婦に対して
ダウン症のスクリーニングを受けるように推奨するガイドラインを出していること。
(実際に受けているのは妊婦の約半数とのこと)

もう1つ、これは本当に愕然としたこととして
FDAがこうした検査を一切規制していないという事実。

で、この「妊娠早期から分かる確実で安全な検査」とされているものについても
一般に提供される前にその信頼性をきちんと確認するべきだと
専門家からの批判も起きているし、

これでまた中絶を選択する女性が増える、
優生思想の広がりを招く、との懸念も
ダウン症のアドボケイト団体などから起きているのだけれども、

記事に引用されているFDAの官僚の言は
「だって一社がやっている検査に過ぎないから」。

検査を開発・販売するバイオテクノロジー企業は
「最初はどの検査にしても医師は及び腰ですがね、
使ってもらっているうちに一般的な検査になっていくんです。
この検査もそういうふうになると思います」。

倫理問題とか道徳的な問題って、
医療検査の開発現場では、もしかしたら誰の頭にもない……?

New Safety, New Concerns in Tests for Down Syndrome
The Washington Post, February 24, 2009
2009.02.25 / Top↑
去年11月の住民投票で賛成多数で決まり、
先週金曜日に具体的な手続きなどの細則が最終的に決定されて
Washington州の尊厳死法(Death With Dignity Act)が3月5日に施行されるのを前に

昨日、州立ホスピスなど緩和ケア関連団体が共催で
州内110のホスピスの職員に向けてセミナーを開催。

その中で
1998年から尊厳死法のあるOregon州の
ホスピスの看護師やソーシャルワーカーの話を聞いたところ、
彼らは自分の死を早めたいと望む終末期の患者と接するに当たって
ジレンマを感じているとの調査結果が報告された。

自分の状態に則したニーズが満たされれば患者は死を早めようとはしないし、
自然な死のプロセスによって家族に癒しと納得がもたらされることから、
「そのプロセスを省略して死を早めることを選ぶ患者を見るのは悲しい」と語る人も。

一方、法律が施行された後にも
一定の地域内ではカトリックの病院など医療職に新法に従わないように求める
「無自殺ゾーン」を作ろうという声もあるが、
勤務時間外にその区域外での医療職の行為を縛るものではない。

New doctor-assisted suicide law takes effect March 5
The Seattle Post-Intelligencer, February 23, 2009

このセミナーではJan HellerというSeattleの生命倫理学者も登場したらしいのですが、
記事に引用されているのは2点で、

そのうちの1つが
先日のシアトル子ども病院の成長抑制シンポで問題になっていた
acts of commission と acts of omission の別。

日本語になりにくいのですが、
何かを“する”ことによって行う行為、と
何かを“しない”ことによって行う行為、と言えばいいのか……。

ここでは
自分で致死薬を飲ませて「意図的に殺す」という行為(act of commission)と
死にゆく患者に余計な医療を行わずに「死なせる」という行為(act of omission)
とが対比させられていて、

Hellerが言うのには
「両者を区別しない倫理学者もいるから
皆さんも同じように区別などしないのがよい。
そうでなければ頭が混乱してワケがわからなくなるから」。

もう1つHellerが言ったこととして、
医療によって生命の長さだけは伸ばせるけれども、
それと同時にその質も一緒に上げて両立させられることは滅多にない。


考えたって、どうせ分からないから
積極的に殺すのも、消極的に死なせるのも、一緒くたにしてしまえばいい──。
命の長さと質はどうせ両方は望めないのだから早く死なせたって構わない──。
身体の全体性や尊厳を侵されたって、どうせ重症児だから分からない──。

こんなふうに「どうせ」で何もかも片付けてしまえるなら
倫理学者など最初から不要ではないか。

いったい生命倫理というのは、どういう学問なんだ???? 
2009.02.24 / Top↑
UCLAの科学者らが1240人の女性を調べたところ、
食品のパッケージや殺虫剤、家の中にある物品に含まれる化学物質によって
妊娠しにくい身体になっている可能性がある、と。

もっとも予備的な調査であって、両者の相関関係が決定付けられたわけではないとのこと。



香川の受精卵取り違え事件のテレビニュースで
体外受精で生まれる子どもが年間2万人もいると聞いたのには仰天した。

そこまで不妊の人が増えているとは……。

もちろん要因は1つや2つではなく
いくつもの要因が複雑に絡み合っているのだろうとは思うけれども、

不妊の問題に限らず、
このブログで科学とテクノロジーの周辺で起こっている諸々を追いかけていると
なんとなく考えてしまうのは、

科学とテクノロジーで何でも簡単解決しようとする文化は
一見、様々な問題を簡単に解決していくように見えて、
実はその問題を引き起こす原因を作ってきた犯人だったりもするのだけれど、
もはや因果関係を調べられないほど我々の日常生活が影響されているし、
みんなが科学とテクノロジーはひたすら前進のツールだと信じて疑わないために
駆使すればするだけ、また将来の新たな問題の種を蒔いているのだとしても、
誰も気付かないし、気付きたくもないし、気付かれたくもない……。

そういう循環がぐるぐる回っている……なんてことは?
2009.02.24 / Top↑
Wesley Smith が自身のブログ Secondhand Smoke で
日本で起きた受精卵取り違え事件を取り上げています。

「どんな手段を使っても欲しいものは手に入れる権利がある」とする
“権利がある”文化(Entitlement Culture)に対して
自分はずっと警告を発してきたが

今回日本で起きた悲劇は、その文化の縮図である、という論旨。

子どもがほしいという女性が赤の他人の卵子を使って生む──。
5つの胚を子宮に入れて選別で弾いた余剰胚3つを廃棄する──。
健康上の理由で、または仕事を中断したくないという理由で
貧しい女性を代理母に雇って子どもを産んでもらう──。

すべて「女性の生殖権」なのだから、
我々はこれらについてコメントすることを許されない。

ところが全員IVFで生んだという子どもが既に6人もいる女性が
さらにIVFで8つ子を産んだとたんに非難の嵐が起きた。

ここまでくると、
「なんだって個人の選択」社会もさすがに平成を失うのだが、
しかし、何でもアリを許してきた社会に
8つ子の母を非難する権利があるのか。

その過程で命を傷つけたり犠牲にすることの道徳的なコストなどお構いなしで、
欲しいものは何でも手に入れる権利が我々には等しくあるという社会を、
この領域(生殖補助医療)はますます具現していく。

しかし、知恵に耳を澄ませば、我々は時に限界の範囲内で生き、
その中で最善を尽くさなければならないこともある。

もちろん、それで苦しむ人はいる。
ならば、その苦しみに共感し、それを軽減するための支援をするべきだろう。

しかし、そのことが、より健康な社会を形作ることにも寄与するのだ。
その教訓を忘れたことで、我々は高いツケを支払っている。




私は新聞の関連記事を読み、いくつかのテレビニュースを見ただけなのだけど、

事件が伝えられる文脈も、
出てくる専門家や町の人のコメントも、

被害者としての親の立場に立って
テクニカルなミスをした医療の責任を追及するトーンのものが多い……という気がする。

でも、この事件を知って心がざわめくのは、これが、ただ
テクニカルな間違いが起こらないように注意する義務があったのに
サービス提供者がそれを怠ったためにサービス購入者が身体的精神的な苦痛を被った……という
単純な話じゃないから……のはず。

もちろん、他人の受精卵を入れられてしまった夫婦が被害者であることは間違いないし、
その肉体的、精神的なダメージはどんなにか大きなものだろう。
誤って他人の子宮で成育した自分の胚を中絶されてしまった夫婦もまた
被害者であることは間違いないのだけれど、

誰もあからさまに触れようとしないところに、
もう1人の被害者がいる。

この事件のニュースで私が一番心ざわめくのは
本来ならそのまま生きるはずだった命が抹殺されてしまったという事実に
誰も正面から触れようとしないこと。

この医師による受精卵の取り違えが過去にもあったとすれば、
現在、既に生まれて別の親の子として暮らしている子どもの存在は一体どうなるのだろう。

この事件では生物学上の両親には知らされないままに中絶されてしまったわけだけれど、
その胚の所有権は本来、一体誰にあったのか。

もしも生物学上の両親がミスについて知らされて
自分たちの子どもを殺されたくはないから
このまま代理母として生んでほしいと望んだとしたら、
一体それは倫理的にはどういうことになるのだろう?

ざわめく心の中から沸きあがってくる疑問は
テクニカルに簡単解決できないものばかり……。
2009.02.24 / Top↑
2006年

Helping families care for the helpless TH
George Dvorsky, Sentient Developments, November 6, 2006
(父親のブログに引用された「グロテスク」発言)


2007年1ー2月

公共性のあるサイト

A Disability Community's Response to the Ashley Treatment *
(ADAPTのメンバーによって呼びかけられた抗議サイト。1月17日スタート。情報満載)

Sigh
Disability Studies, Temple U. January 5

Modify the System, Not the Person *
Disability Rights Education & Defense Fund , January 6


Ashley and the Dangerous Myth of the Selfless Parent *
By Alice Dreger, Bioethics Forum, January 18

The Ashley Treatment and the Making of a Pillow Angel
By William Peace, COUNTER PUNCH, January 18

An Ethically Unsound “Therapy”
By Wesley J. Smith, National Review Online, February 8


個人ブログ

Ashley X story hitting prime time TH
George Dvorsky, Sentient Developments, January 4

The world has gone completely nuts
Ramblings, January 4
(著者は脳性まひの息子と1月12日のCNNに登場)

Human Rights
WHEELCHAIR DANCER, January 4


The Ashley Treatment
Doctor Anonymous, January 5



Ashley X – Avoiding Oversimplification TH *
Anne Corwin, Existence is Wonderful, January 7
(Dvorskyに「グロテスク」発言を修正させたトランスヒューマニストの“A療法”批判)

Certain minds and certain bodies TH
George Dvorsky, Sentient Developments, January 27
(父親のブログに引用された「体と精神が不釣合いなのはグロテスク」との見解を修正)




【特に1月26日のPeter SingerのOp-Edへのリアクションとして書かれたもの】

Peter Singer on the ‘Ashley Treatment’ TH
By George Dvorsky, Sentient Development, January 26

Peter Singer Supports “Ashley’s Treatment”
By Wesley Smith, Secondhand Smoke, January 26

Not a treatment option
Edge-centric, Ragged Edge Online, January 26

Peter Singer on Ashley’s Treatment
The Useless Tree: Ancient Chinese Thought in Modern American Life, January 26

Peter Singer’s Pillow Angel
By James T. Fisher, Commonweal, January 27

Peter Singer and Precious Ashley
By Kristina Chew, PhD, AutismVox, January 28


A Tale of Two Cities: Resisting the Atheist Attack
Center for a Just Society, February 9

【注】

*:Spitzibaraの個人的お勧め
TH:トランスヒューマニストによって書かれたもの
2009.02.23 / Top↑

上記リンクのサイトから、そのコンセプトは

このロボットの役割の主眼点は「チャイルドケア」、子どもの見守りです。また、子どもと遊ぶこと以外にも、物語の読み聞かせや、クイズの出題などの情操教育的な面も併せ持っています。

PaPeRoの能力は3つで、

1.個人識別能力
10人までの顔を記憶。

2.コミュニケーション能力
音声認識能力と携帯電話との通話能力。
予めインプットした関係情報と、やり取りのデータから
「久しぶりだね」「また会ったね」などの反応を示す。
保護者が携帯から電話をかけることによって、
その子どもを捜して話しかけたり、
保護者はロボットのカメラを通じて子どもの様子を確認することができる。

(これは「音声認識能力」「携帯電話の中継能力」であり
「コミュニケーション能力」ではありません。)

3.ケア能力
身体の複数場所のセンサーを通じて触られたことを認識するほか
音楽を流して踊ったり、挨拶の仕方を教える、クイズやナゾナゾを出すなど
「ロボットと子どもが触れ合い、一緒に遊ぶことを通じて、見守りを実現」。
将来的にはインターネットでコンテンツをダウンロードできるようにして、
子どもが飽きる頃には新しいコンテンツへ移行できるように、と企画中。

(これもまた、そこらへんで売っているオモチャ程度の「能力」と同じなのに、
それが丸っこい人型ロボットに仕組まれただけで
なぜ「見守り能力」「ケア能力」に化けてしまうのか、不思議。)

ちなみに、このPaPeRo、
高齢者ケアにも導入されつつあるようです。

まあ、音楽を流して踊れて、いくつかのパターンの言葉が出せれば
「ケア能力」があることになるらしいですからね。


       ――――――――



そのパネルディスでの
NEC企業ソリューション企画本部PaPeRo事業推進Gの大中慎一氏の発言が
「介護保険情報」2月号P.43にまとめられています。

その一部を以下に。

ロボットは人の言葉を認識して話をしたり、その人の代わりに何かをしてくれるが、やはり人の能力には敵わない。結局。ロボットの最大の特徴は人に劣っていることにあるのではないだろうか。子どもは最初のうちはロボットを面白がって興味を示すが、人間より劣ることに気付くと興味を失い、逆に人間について考えるようになる。そこにこそ、ロボットの存在意義があるように思う。

トランスヒューマニストらを筆頭に”科学とテクノロジー万歳”文化の人たちは
なんで物事をすべからく差し引き計算でしか捉えられないのだろう、と、いつも思う。

人間もまた能力の総和としてのみ捉える彼らの感覚で行けば、
子どもがロボットに飽きるのも人間とロボットの能力差のため
ということになるのかもしれないけど、

子どもがロボットに飽きるのは
所詮ロボットはプログラムに過ぎないからであり、

「人の能力に敵わない」からではなく、
人のように「かけがえがない」存在になれないからでしょう。

ロボットが物語を読むのは「読み上げる」のに過ぎないのであって、
物語を「読み聞かせる」ことができるのは人間だけだと私は思う。

「かけがえのない」存在だからこそ、
人にはそれぞれの「持ち味」や「芸」がある。

だ~れがロボットの落語を聞いて愉快なものか。

ロボットが弾くピアノやバイオリンに、だ~れが感動するものか。
2009.02.23 / Top↑
アスペルガー症候群(ASD)の子どもの治療に
子どもの情動をモニターしながら遊び相手を務めるロボットを導入し、
子どもが人と付き合うスキルを身につけさせようと、
世界中で研究が進んでいる、とか。

なにしろ米国での試算では
1人の自閉症児の生涯にかかるコストは3200万ドル、
米国政府には総額で年間900億ドルのコストがかかっているのだから、
それによって社会的にも財政的にもインパクトは大きい、と。

Robot Playmates Monitor Emotional State Of Children With ASD
The Medical News Today, February 18, 2009


基本的には
心拍数とか体温、筋肉の動きや状態など身体状況のモニター情報から気持ちの動きを読み、
それによってロボットが子どもとの位置関係や遊びにおける反応方法を変える、

一貫性があって予見可能な反応がASDの子どもたちに安心感を与える、という話。

ASD治療でロボットと人間のやり取りを実現したいと研究している研究者は
「ロボットが子どもの情動を読み取るモデルは
経験豊富なセラピストの能力とほとんど同じ」だと。


――そんなこと、ありえないよ。
だってロボットには「読み取り」はあっても「洞察」がない……と思ったのですが、

あ、でも、この研究者の発想も、もしかしたら同じかも……。
2009.02.23 / Top↑
去年新たに見つけた米国医師会新聞によるDiekema医師のインタビュー記事について、
会員でなくても読める冒頭の部分を元に
D医師「施設内審査委員会が承認した」と大ボラのエントリーで書きました。

そのウソが重大であるだけに、この記事の内容はたいそう気にかかって
全文を読む方策がないものかと、この1年近く、いろんな人を煩わせてきたのですが、
(ご協力くださった方々、ありがとうございました)
なにしろ米国医師会会員向けの新聞なので難しく、ほぼ諦めていました。

それが先日ひょっこり全文公開されているのに気付きました。

Physician-ethicist explains “Ashley treatment” decision
The chair of the IRB that approved the controversial treatment of a child with severe disabilities offers insight into the dilemma.
By Kevin B. O’Reilly, AMNews, March 12, 2007


やっとのことで全文を読んでみれば
さすがにD医師本人はIRBで検討したなどとインタビューで語ってはいませんが、
(もちろん上記エントリーで指摘した大ボラ疑惑は依然として変わりません)

ちょうど当初の論争が静かになってきた辺りで行われた
この医師向け新聞での、決して長くはないインタビューには
改めて不快感と憤りがつのりました。

特に3点について以下に。

1.Ashleyの精神年齢を生後3ヶ月とする根拠があまりにもひどい

2004年5月の倫理委員会の冒頭、
父親がパワーポイントを使ってプレゼンをした際に
Ashley自身も部屋にいたというのですが、
そのことが倫理委の決定にどういう影響を及ぼしたかと問われて、

D医師は「生後3ヶ月だと聞いたことが、直接本人を見て確かめられた」と答えています。

しかし、それを説明する彼の言葉は

Ashleyは落ち着かなくなって、車椅子でごそごそし始めるんです。
退屈そうで、面白いこともないのにそんなところにいたくないという感じ。
ちょうど赤ちゃんがむずかるのとまったく同じでした。

病院の会議室に白衣を来た人を沢山含めて40人ばかりの大人が勢ぞろいし、
しかも会議の空気はSalonの記事で医師らが証言していたように
表現されることのない批判や反発を含んで非常に緊迫していました。

父親はそんな空気の中、次々にデータを並べて解説・力説していた──。

知的障害がなかったとしても、
そんな大人たちの話が6歳の子どもに理解できるはずがないし、退屈しないわけがない。

もしかしたら、Ashleyは退屈したのですらなく
その場の異様な緊張感に居心地が悪かったのかもしれない。
それならば、Ashleyが会議の場で落ち着きがなかったのは
逆に認知能力の高さを物語っているのかもしれない。

それなのに、そんな異様な雰囲気の会議の場でごそごそ落ち着かなくなったことが
どうして生後3ヶ月程度の知能しか持たない証明になるのか。

自分で歩ける2歳、3歳だったら(子どもによっては6歳だって)
退屈して歩き回るかもしれないし、言葉でそれを訴えるかもしれない。

Ashleyは自分で歩けないし言葉がないから
退屈を表現する術が限られていて車椅子でごそごそするしかできない。

その姿を「赤ん坊と同じだ」と考えるのは
ただ障害のある身体しか見ていないからでしょう。
身障の状態をそのままその人の認知能力に置き換えて、
「寝たきりでものを言えない人は何も分からない」と決め付けるのと何も違わない。

障害児をそういう目でしか見ることができないというのは
それは一体、どういう小児科医なのか?


2.「自然に成長する権利はそう望む人にだけ大切」

「障害の有無に関らず人には自然に成長する本来の権利があるのでは?」という質問に
D医師はこのように短く答えます。

これを医療倫理の判断と考えると
たいそう恐ろしい発言なのでは──?

重症の知的障害がこの根拠になっていることを考えれば、
「生きる権利はそう望む人にだけ大切」へと敷衍していくことだって可能なのでは――?

だからこそ、この問答に続いて以下の質問が出てきたのではないでしょうか。


3.「Ashleyにとって生きているということは重要なんですか」という質問。

これが医師会会員向けの新聞で
インタビューしているのは新聞スタッフの医療ライターだというのだから
質問そのものに仰天してしまいますが、

D医師の答えは、まず
「Ashleyにとって大事なのは、安楽と愛と、ぽんぽんがいっぱいになること」と
わざわざtummy(おなか、ぽんぽん)という赤ちゃん言葉を使って答えています。

親が今回やったことも、それを娘に生涯補償してやろうという意図だ、と。

その後でD医師は
「Ashleyは明らかに家族の中では大切なのです」と
Within her family という表現を使います。

この文脈における質問の言外の意図と、D医師の答えの言外の響きを合わせると、

「そんな自分の成長すら願えないような子に、じゃぁ、生きている価値があるんですか?」
「そりゃ外の世の中一般には理解できないけど、家族の中でだけは大事な子どもなんだからさ」
と聞こえます。

それに続いて
「Ashleyはあなたや私のようには自分のことを考えられないけど
だからといって彼女が生きていることから喜びや楽しみを感じないということではありません」
と語り、インタビューが終わっているのですが、

確かDiekema医師は一貫して
「自分が尊厳を大事にされているかどうかなんてAshleyには分からない」と主張し
それによって重症児への侵襲を正当化しています。

しかし、生きていることに喜びや楽しみを感じることができる能力は、
そのまま悲しみや怒りを感じる能力でもあるのではないでしょうか。

生きている喜びや楽しみを感じる能力がある人は、
自分の尊厳が大事にされているかどうかを感じる能力も
あるのではないのでしょうか?
2009.02.22 / Top↑
何度か脳卒中を繰り返して
視覚、聴覚と運動機能の障害を負い、
自殺を考えるようになった45歳の弟James Harleyさんが
去年12月7日にヘリウム吸引で窒息死したのを
幇助したとして

妹のJune Hartleyさん(42)が起訴された、とのこと。

2002年からDA(地方検事)局で働いているDeputy(副)検事は
自殺幇助容疑は初めてだと。



これまで当ブログで取り上げてきた記事でも、

100人を超える英国人が既に幇助自殺を遂げている
スイスのDignitasクリニックでバルビツールからヘリウムに
手段を変更しつつあるとか、

To Die Well”と題した自殺幇助の指南書で
ヘリウムの使用が最も有効だとされているなど、

幇助自殺でのヘリウム使用については
ぼちぼち目に付いていました。

こうした情報の影響もあるのではないでしょうか。

それにしても、自殺幇助を巡る動きがあちこちの州で活発になっています。
すでに政治的な問題と化しているようにも思われます。
2009.02.22 / Top↑
ヒト・パピローマ・ウイルス(HPV)ワクチンGardasilについて、
ワクチンの安全性を監視する団体the National Vaccine Information Center(NVIC)が
リスクを調査するようにObama政権と議会に対して出していることを
17日のエントリーで取り上げた記事で読んだばかりですが、

そのGardasil、

11歳以上の女児を対象に認可されて2年でCalifornia州では
13歳から17歳の女児の4人に1人が初回接種を受けている(推奨は6ヶ月間に3回)、

10代の少女、親、若い女性の多くが希望している、

……との調査結果が
The UCLA Center for Health Policy Research から。

HPVワクチンの使用や受容について研究が発表されたのは初めて。

一般に受け入れられたとみてよかろう、と。

2009.02.21 / Top↑
英国のMS女性の
「私の自殺を手伝う夫を罪に問わないで」という訴え
それはむしろ罪を背負う覚悟でやってくれと頼むべきことなのではないか……などと考えていたら

先週の「伊で安楽死の女性、死因は心臓発作」のエントリーに
「安楽死は相手に自分のために殺人犯になってくれと頼むのと何が違うのか」と
なんさんから頂戴したコメントで思い出した医療倫理の思考実験が、またぞろ気にかかってきたので。

「医療倫理」(トニー・ホープ著 岩波書店)という本にあった思考実験の話。

運転手が炎の噴き出るトラックのから抜け出せないでいる。彼が助かる道はない。間もなく焼死するだろう。運転手の友人がトラックの近くにいる。この友人は銃を持っており、射撃の名手である。運転手は友人に自分を打ち殺してくれと頼む。焼死するよりも、撃たれて死んだ方が苦痛が少なくてすむだろう。

法的考慮はすべて度外視して、純粋に道徳的な問いとして尋ねてみたい。はたして友人は運転手を撃つべきだろうか。

普遍的な答えがあると前提している点で
この思考実験の問いは人間の関係性とか心理の複雑さを無視していて
始めから無理があるのでは……と私は思ったのですが、

同時に頭に浮かんだのは、なんさんと同じ疑問で、

もしも運転手がここで「撃ってくれ」と頼むとしたら
殺人を犯すという究極の負担を自分のために引き受けてくれと
相手に向かって頼むことなんじゃないのか。

それならば、
頼めるだけの信頼関係が2人の間にあると、
少なくとも運転手の方が信じていなければ頼めないのではないか……と。

「だから友人という設定にしてあるではないか」と
この思考実験を考えた人は反論するのだろうけれども、
でも、友人関係というのは、それほど単純なものなんだろうか……。


著者がこの思考実験で挙げている
「撃つべき」とする理由

①苦しみが少なくてすむ。
②運転手が望んでいる。

「撃つべきでない」とする理由

①撃っても傷つけるだけで終わった場合に撃たなかった場合よりも大きな苦痛を与える。
②運転手が焼死を免れる可能性
③長く罪の意識を感じなければならない友人に公平でない。
④人を殺すことは不正という原則を曲げると「滑り坂」になる。
⑤延命治療差し止めは死を自然に任せるが、殺すことはその逆で自然への介入である。
⑥神を演じることになる。
⑦安楽死は自然に任せることだが殺人は根本的な不正である。


著者はこの後、
「撃つべきでない」①から⑦の理由を1つずつ論じて、
それぞれに十分に説得的な論拠になりえてないと結論していきます。

(もともと、この思考実験そのものが
医療現場における安楽死正当化の文脈で登場しているものです)

しかし著者が①~⑦を1つずつ否定する議論は
人を人とも思わない、なんとも浅薄なもので、

例えば①について著者は
「撃たなかった場合」「うまく撃ち殺せた場合」「傷つけただけで終わった場合」
それぞれに運転手が経験する苦痛の総量をX、Y、Zとし、
それぞれが起こりうる確率との掛け算をすれば
撃つことが正しいと主張します。

でも、こんなのは運転手と友人の関係性によって全然違う話になる、
それが人間関係というもんでしょうが……と
私はここを読んだ時に絶句した。

友人だから2人の間に単純明瞭な愛情と信頼だけがあるなんて
私には考えられないし、

2人が友人として過ごしてきた年月には
温かい思い出や恩義や感謝や愛着やいおとしさが積み重ねられてきたであろう一方で
それぞれに対する優越感・劣等感・嫉妬や猜疑や特定の出来事へのこだわりといった
ネガティブな思いも複雑に積み重ねられているはずで、

そもそも運転手が友人に「撃って」と頼むことそのものからして
「こいつならそれを引き受けてくれる」と確信できる間柄だと
少なくとも運転手の主観では理解されているのか、
それとも「そんなことを頼める間柄ではないのだけど頼んでみるしかない」と
捉えられているのかによって、出発点がまるで違う。

「こいつは自分が苦しむのを心の底で喜んでいるに違いないから、
そうさせないためにも撃たせたい」と考えて
「撃って」と頼むことだって、
友人だからこそ、ありうるかもしれない。

つまり、2人の関係性によって
運転手が経験する苦痛も、ただ単に肉体的な苦痛だけではないはずで、
そんなことをあれこれ考えてみれば、
「撃たなかった場合」「怪我だけさせた場合」「撃った場合」の苦痛なんて
客観的に数値で大小を比較できるようなものじゃないのでは……?

この先も生きていく友人が抱え込まざるを得ないものについても
同じことが言えるはずだと思うのですが、

さらに著者は③について
だいたい次のように反駁しています。

この思考実験の目的は
この場合に「撃つ」という行為が正しいかどうかを決めるためのものであり、

「もしも運転手を打つことが正しいのであれば、
友人は彼を撃った場合(そうすることで運転手の苦しみを減らした場合)に
罪の意識を感じるべきではない」

だから罪悪感を感じる可能性は論点を先取りしていることになって、
行為の正しさを決める理由にはならない。

あははは。

「罪の意識を感じるべきではない」と
おエライ倫理学者サマが決めてくださったら
人間てな罪の意識を感じなくなるものなんっすか。

知らなかったなぁ。

正しいことをしたと頭でいくら自分に言い聞かせても
心の方は、そう思い通りに言うことを聞いてくれない、
やってはならないことをやってしまったと心が感じるならば
罪悪感からなかなか逃れられないのが人間てもんで、

そういうのが人を人たらしめる“倫理”感というものだとばかり
凡人は思い込んでいました。

もしも
「殺人はこの場合は正しいのだから罪悪感を感じるべきではない」と
高いところから命令するのが生命倫理学者だとしたら、

「理屈をどうこねくり回されようと苦しい」と感じてしまう下々の人の心のほうが、
よっぽど倫理的だし信頼に値するじゃないか、と思う。

案外、だからこそ、高いところから号令をかけたい人たちは
人には心があることを無視して話を進めるのかもしれない。
2009.02.21 / Top↑
このところの英国での自殺幇助合法化に向けた動きと
そのさなかでのDebbie Purdyさんへのメディアの注目を受けて、

Wesley Smithが英国のTelegraph紙に寄稿しています。

自殺幇助合法化運動の推進者らから合法的自殺幇助のモデルとされている
Oregon州の実態について、

高価な抗がん剤治療の支払いは拒むが幇助自殺の費用なら出してやる
政府からの通知を受けた癌患者が去年2人出たこと。

実際には終末期どころか、たいした病気の症状すらない人に致死薬が処方されており、
合法化のウリ文句の「苦痛の軽減」にはなっていないこと、

法律的にはウツ状態の人に致死薬の処方は認められないことになっているが
去年Oregon州で医師の幇助を受けて自殺した人の中で
アセスメントを受けるべく精神科へ紹介を受けた人はゼロだったこと、

こうしたウツ状態の患者は精神科でケアすべきだし、
自分が家族の負担になっているとの末期患者の罪悪感も
本来ホスピスで適切にケアされるべきでありながら、
精神科の介入なしに医師が致死薬を処方することを州が認めてしまったら

ホスピスケアそのものが廃れて
結局は高齢者、病者に死ねと圧力がかかる「滑り坂」になる。

で、Smith氏の結論は

合法的自殺幇助のモデルとの看板の陰で、Oregonで明らかになったのは
合法化が切り捨て、医療の荒廃、患者の命の軽視に繋がるということだ。

‘Right to die’ can become a ‘duty to die’
By Wesley Smith,
The Telegraph, February 20, 2009
2009.02.21 / Top↑
自身もパーキンソン病を患っている無所属の議員さんが
終末期の患者に自殺幇助を認める法案を
スコットランドの議会に提出しようとしていることに対して、

司教(?Bishop)が批判しています。

終末期の患者の多くは
家族に対して自分が負担になっていると感じており、
自殺幇助が合法化されると社会を崩壊させかねないとして、

むしろ緩和ケアの予算を増額すべきだ、と。

Bishop hits out at assisted suicide proposal
The Motherwell Times, February 19, 2009


それにしても、
ここ数日やたらとあちこちで目につく、
この自殺幇助合法化に向けた動き、一体……?
2009.02.20 / Top↑
昨日、Hawaii州議会に自殺幇助合法化の法案が提出され、
拒否されたニュースを取り上げたばかりですが、

今度はNew Hampshire州の議会に
医師の自殺幇助を合法化する法案が提出されたとのこと。

決まれば、

すでに合法化しているOregon,
去年11月に住民投票で合法化が決まり3月に施行となるWashington州に続き
米国で3番目の州に。

New Hampshire lawmaker bringing assisted suicide bill
AP (Seacoastonline.com), February 19, 2009


【追記】
その後、09年12月31日にモンタナ州の最高裁が合法判決を出し、
モンタナ州が3番目の州となりました。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/57852469.html


また、ニューハンプシャーのこの法案は2010年1月に否決されました。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/58130542.html
2009.02.20 / Top↑
去年、以下の2つのエントリーで取り上げてきた件の続報。



簡単に言えば、この多発性硬化症の女性 Debbie Purdyさんは、
いずれ夫に付き添ってもらってスイスのDignitasクリニックで幇助自殺をしたいので、
夫が帰国後に罪に問われないとの言質を裁判所から取りたいわけです。

去年の10月に高等裁判所が
「法律を変更するのは裁判所の仕事ではなく議会の仕事だから、
そんな約束は出来ない」と突っぱねたものだから
上訴していたのですが、

今回、上訴裁も同じ答えを出した、というニュース。

そりゃ、そうでしょう。
自殺幇助を違法とする法律がある国で、
「でもウチの夫だけは罪に問わないと約束して」と頼まれて
「ウン」と答える裁判所があったら、
それはもう裁判所が機能を放棄している。

しかし、記事を読む限り、
裁判所の怪しげなホンネも透けて見えていて
「仮に幇助自殺事件で有罪とされたとしても、
懲罰は妥当ではないと裁判所が判断する可能性はある」と付け足している。

なんとなく
「立場上、そんな約束を公には出来ないし、大きな声では言えないけど、
たぶん、きっと実質的にはダイジョーブだよ……」と、ささやくが如し。

でもPurdyさんは
「私がほしい明確な答えは出せないと裁判所は明言したわけよね。
夫が罪に問われないという100%の確約がとれたら
スイスに行くのをもっと先にしようと思っていたけど、
そういう確約が取れないんだったら、もっと早く行くわ」
と、自分1人でスイスまで行けるうちに自殺を考えることを仄めかしています。

「私がいなくなった後に夫に1人で英国の司法制度と闘わせるなんて
 そんなの耐えられない」

「そんなの悪夢です。そのくらいなら自分が早く死ぬ方がまだマシよ」

Woman loses assisted suicide case
The BBC, February 19, 2009


Purdyさんの言葉を読んでいたら、
なんだか、この人、モンスターペアレントみたいだ……と。

その連想を経たからか、Purdyさんの言葉に、
障害のある子どもを残して先に死ねないと思い詰める親の思いが重なってしまった。

私がいなくなった後に、
こんなに非力な子に1人で世の中の荒波を渡らせていくなんて
そんなの考えただけでも耐えられない……。

だから
自分が死んだ後も、
この子が安全に幸せに生きていけると保証してほしい……と、

世の中から、そういう言質を取りたいと身もだえしてしまう。
そんなの取れるわけないのに……。

だから、もしかしたら、これは
Ashley事件以来ずっと、そういうことを考え続けて悶々としている
障害のある子の親の腹いせなのかもしれないけれど、

Purdyさん、
自殺幇助が違法だという現実を前に
それでも夫に頼みたいなら、
罪を引っかぶる覚悟で私の自殺を手伝ってちょうだい、と
あなたは夫に頼むしかないんじゃないですか、

その上で、
罪に問われる問われないは別問題としてイヤだ、とするか
罪に問われるのを覚悟で手伝うよ、というか
罪に問われるなら手伝うのはイヤだ、というかは

あなたではなく夫の判断なのではないですか?

……と思った。

やっぱり
人間には絶対にやってはならないことというのがあって、
それを個人的な状況や愛情からどうしてもやらなくてはいられないという人がいるのであれば、
それこそ自分の命をかけるくらいの覚悟でやる以外にない……

……というふうであるべきなんじゃないだろうかとも思うし。


【追記】

以下のTimesの記事によると、
上訴裁判事の発言は上記の記事よりも明確に
自殺を助けた人が起訴された場合に裁判所は寛大を期するという方向性を
打ち出したものだったようです。

ただしBrown首相は前から主張しているように
自殺幇助の合法化には反対の姿勢で
法務大臣も法律を改正するつもりはない、と。

2009.02.20 / Top↑
Ashley事件関連資料リンク集

以下の項目ごとにエントリーとしてリンク集を作っています。

時間のある時に少しずつ、
項目もエントリーとして増やしていきますが、
既存のエントリーの内容にも随時、追加・訂正を行う予定です。



なお、論文・文献については、
立命館大学のグローバルCEO生存学創成拠点の以下のサイトに詳しいです。
http://www.arsvi.com/d/i012006a.htm
2009.02.19 / Top↑
2007年論争当時のメジャー報道

1月4日


http://archives.cnn.com/TRANSCRIPTS/0701/04/ng.01.html 
(CNN, Nancy Grace:Brosco, Hughes 出演)


http://www.guardian.co.uk/world/2007/jan/04/health.topstories3
(Guardian: ホルモン療法の費用情報、Caplanコメント)

http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/article1289260.ece
(Times がネット上で読者向けに解説したディベイト)




2月5日
http://www.ama-assn.org/amednews/2007/02/05/prsa0205.htm
(米国医師会会員向け新聞:Broscoコメント)

         

障害者団体からの抗議行動に関する報道




http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6267929.stm
(英国Scopeの抗議について、1月17日)

http://seattletimes.nwsource.com/html/health/2003580645_webgrowth20.html
(AP:FRIDA, NDYなどと米医師会の会見について、2月20日)

http://seattlepi.nwsource.com/national/304506_stunted21.html
(AP:上記記事から最後部分が削除されたもの、2月21日)



メジャーなメディアに掲載された論考
(ブログ等のエッセイー・論考については別途整理します。)



http://ieet.org/index.php/IEET/more/links200701/
(IEET トランスヒューマニスト、1月12日)

http://seattlepi.nwsource.com/opinion/299518_ethics14.html
(SP-I, John W. Dienhart & Paul Glezen、1月14日)


http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0DE4DF153FF932A05752C0A9619C8B63&sec=&spon=
(NY Times, 1月26日のSingerの論考に寄せられた読者の意見 1月31日)

批判
http://www.msnbc.msn.com/id/16472931/
(Arther Caplan, 1月5日)*

http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6234601.stm
(Geoff Adams - Spike, 1月5日)





http://www.catholic.org/national/national_story.php?id=23225&page=1
(これはついでに、カトリック教会、3月1日)

http://www.alternet.org/rights/49602/
(Patricial Williams, the Nation, 3月28日)*

http://www.seattlepi.com/opinion/319702_noangel17.html 
(Anne McDonald, 重症障害者による認知機能判定への重大な指摘、6月17日)*



【注1】
論説のカッコの後の*は注目記事。

【注2】
今のところ紙ファイルの内容のみ。
今後パソコンにファイルしているものも随時追加していく予定です。
2009.02.19 / Top↑