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レイ・カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生:コンピュータが人類の知性を超えるとき」
          井上健監訳 NHK出版 2007年1月15日

原著は The Singularity is Near: When Humans Transcend Biology  2005年9月
(タイトルを直訳すると「特異点は近いぞ:人間が生物学を超える時」)

カーツワイルはこの本の中で、21世紀後半には指数関数的な速度で発達する遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学が特異点(singularity)に達し、爆発的なパラダイムシフトが起きて世の中と人間のあり方がこれまでとは全く変わったものとなる、超人類の世界、ポストヒューマンの時代がくると予言しています。

このように、各種新興テクノロジーの進歩がある段階に達すると、それらの総合的な影響力が一気に爆発的効果をもたらし、俄かに人間の能力を超人的な次元へと引き上げる……と信じる人のことを、(オメデタイヒトではなく)シンギュラリタリアンと呼ぶのだそうで。

カーツワイルのインタビュー(日本語)は、こちら。
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20088465,00.htm


ちなみにカーツワイルはトランスヒューマニズムへの貢献により、世界トランスヒューマニズム協会から2007年のH・G・Well賞を授与されています。だから、やっぱりシンギュラリタリアンというのは結局ポストヒューマニストであり、トランスヒューマニストなわけですが、みんな自分が独自にネーミングを考えて差別化したいのですね、きっと。(そういえば生命倫理に医療倫理に実践倫理に、はたまた脳神経倫理学に……というのも同じ構図……?)

この本、読んだのが猛暑のさなかだったことも手伝って、「指数関数的な速度で進んでいるのは地球の温暖化の方だろー。こんな夢を描く暇があったら、温暖化を止める現実的な手立てを考えたらどうよ……」と毒づきながら読んでいたのですが、「お?」と思ったのは、

この本の中に、あのHughesからの引用があるのです。

脱人間(ポスト・ヒューマン)になることを拒否し、従来型の人類の方がよいと考えるのは、鋤の弁護をするようなものである。鋤のような古い道具は、役に立たないと批判されても、なくなることはないものだ。

ジェームズ・ヒューズ
コネティカット州トリニティ・カレッジの社会学者
トランス・ヒューマニスト協会事務局長
「人類は脱人間になることを歓迎すべきか拒否すべきか」の討議で    (P.534)

また、世界トランスヒューマニズム協会のトップであるNick Bostromも引用されています。

超知能に解決できない、あるいは解決の一助となれない問題などあるだろうか。疾病、貧困、環境破壊、ありとあらゆる不要の苦しみ──進化したナノテクノロジーを装備した超知能はそういった問題を解決するだろう。さらに超知能は、ナノ医療によって老化を止めたり若返らせたりするか、もしくは自分をアップロードしていくという可能性を提供することによって、人間に無限の生命を与えることができる。また、我々は超知能の助けによってみずからの知性と感情の可能性を大きく広げられるかもしれないし、とても魅力的な経験世界を創造できるかもしれない。その世界では、楽しい遊びをしたり、お互いに理解しあったり、経験を深めたり、個人的に成長したりして、理想的な人生に専念できるのだ。

ニック・ボストロム「高性能の人工知能に関する倫理的な問題」(2003年)P.329

超知能のおかげで良いことだらけ、みんなハッピーなバラ色の未来──。
こういう人たちの影が、“アシュリー療法”論争にはチラついているわけです。
2007.09.29 / Top↑
トランスヒューマニズムとは、一体何なのか。当のトランスヒューマニストたちは、どのように定義しているのでしょうか。

世界トランスヒューマニスト協会(WTA/the World Transhumanist Association)のウェブ・サイトから。

WTAって、なに?

世界トランスヒューマニズム協会とは、人間のキャパシティを拡げるためにテクノロジーの倫理的な利用を進める、非営利の国際的会員組織です。みんなが、より良い精神、より良い肉体、より良いライフを享受できるよう、新しい技術の発展と普及を支持します。言い換えると、我々が望んでいるのは人々がただ元気である(well)というだけでなく、betterになることなのです。

トップページに書かれているキャッチも Better Than Well。

世界トランスヒューマニスト協会は、Nich BostromDavid Pearceによって1998年に創設され、2002年に米国コネチカット州に本部を置くNPOとなったとのこと。この年、トランスヒューマニスト宣言を採択しています。

宣言では、上記の「よりよい精神、より良い肉体、より良いライフ」云々という表現より踏み込んだ表現になっています。


(1)Humanity will be radically changed by technology in the future. We foresee the feasibility of redesigning the human condition, including such parameteres as the inevitability of aging, limitations on human and artificial intellects, unchosen psychology, suffering, and our confinement to the planet earth.

(1)ヒューマニティ(人間であるということ)は将来テクノロジーによって大きく変貌するだろう。老化を避けられない、人間の知能にも人工知能にも限りがある、心理や苦しみをコントロールできない、地球に縛られて暮らしているといった限界を含め、人間がおかれている状態を作り変えることは、我々の予測では実現可能である。



WTAには現在100カ国4522人の会員がいて、世界中に12を超える支部があるとのこと。

東京に日本の支部も存在することになっていますが、日本支部名をクリックしても開きません。支部のミーティングも"Not Yet"、まだ準備も始まっていない様子。「ディスカッション・リスト」なるものをクリックするとメーリング・リストの登録ページが開くのですが、日本支部のディスなのにメールの言語は英語しか選択できない。この支部の存在は、ちょっと、はったり臭い感じがします。
2007.09.29 / Top↑
2006年のツール・ド・フランスでのドーピングが確認されたことを受けて、
9月23日にCBCニュースのSundayという番組が
「スポーツでのドーピング:このまま定着か?」と題した討論を組み、
「もはや解禁するしかない時期にきたのだろうか」と問題提起をしました。

この番組で、あのSavulescuが熱弁をふるっています。

以下のサイトでビデオが見られます。10分程度。


冒頭、彼の「カフェインだってパフォーマンス強化薬だし、かつてのオリンピックでは禁止されていたのだ」
との発言(極端な例を引っ張ってくるのはお家芸?)に、キャスターが
「じゃぁ、カフェインみたいなものとそれ以外の危険薬物と、何処でどうやって一線を引くんですか」
と突っ込みます。

それに対してSavulescuは、
「安全な薬物の種類と、血中濃度を基準に摂取量を規制すれば、
薬物のドーピングは解禁してもいい、ただし遺伝子ドーピングはまだ安全ではない」と。

反対する立場からの、「副作用がある、スポーツの神聖さと醍醐味を損なう」との批判に対しては、
「(いまさらスポーツの神聖だなんて)それはまた結構なラブリーでロマンチックな考え方だが、
これだけドーピングの技術が進んだら、どうせ現実には広がる。
また今のスポーツは既に超人的なレベルの高さで競っているのだから、
強化薬なしに勝ち続けることなど不可能」といった内容の反論をしています。

               -------

生殖補助医療でも感じるのですが、
既成事実のほうが加速的にどんどん先行し、
倫理的な検討や法整備が追いついていないのが実態のように思われます。

そして、そんな実態が、
Savulescuの「どうせ防げない、どうせ広がるんだから」という論理に見られるように、
さらに容認への正当化に使われる……。

「自由な選択」を広げたい人たち、
「もっと健康に、もっと頭が良く、もっと長生きに」と追い求めたい人たち、
「不毛な治療」などの言葉を操ってコスト削減を行いたい人たちが繰り返す正当化の言葉には、
いつも様々なニュアンスの「だって、どうせ……」という言葉が隠れているような気がします。


“アシュリー療法”も、
一部の奇怪な人たちが「だって、どうせ……」と擁護しているうちに、
いつのまにか既成事実化してしまう……などということは本当にないのでしょうか???? 

私が一番恐れているの(当ブログ開設の主な動機でもあります)は、

実は倫理委員会が政治的に操作された可能性がある、
シアトルという町の特殊な事情の下でのみ起こりえた可能性のあるアシュリー事件が前例となって、
いずれそのような特殊な背景のない第2例目がどこかの重症障害児に行われてしまうことなのですが。

【追記】
この危惧は、その後、
英国のKatie Thorpeのケースとともに、
現実のものとなる可能性が出てきました。

そちらのケースの詳細については、
「英国Katieのケース」の書庫に。

【追追記】
英国のケースは2008年1月にNHSが母親の要望を却下しました。
2007.09.28 / Top↑
Hastings Center Report March-Apr. 2007 の“アシュリー療法”に関するエッセイの著者は以下の3人です。

S. Matthew Liao
Julian Savulescu
Mark Sheehan

筆頭著者のLiao はホームページによると、
オックスフォード大学のthe Ethics of New Biosciences のDeputy Director & Senior Research Fellow。
同大学で哲学の博士号をとった後、
2003-2004年はプリンストン大学のthe center for Human Values のリサーチ・フェロー。
さらに2004-2006年はジョンズ・ホプキンスでリサーチ・フェロー
(病院・医学部なのか大学のそれ以外の部門なのかは不明)。

ここでちょっと目を引かれるのは、
プリンストン大学とジョンズ・ホプキンス(病院)は、時期こそズレているものの、
あのNorman Fostの経歴と重なっていること。

もちろん、これだけで何がどうだと言えるわけではありませんが。

           ――――――――――――

3人の中で最も注目すべきは Savulescu かもしれません。

The Oxford Uehiro Centre of Practical Ethics の創設者でもありDirector。
the Melbourne-Oxford Stem Cell Collaboration の長。
またJournal of Medical Ethicsの編者も。

Savulescuについては2005年10月10日のthe Guardian誌のインタビュー記事が非常に興味深いので、
その中からいくつか発言を。

現実に、我々は
ダウン症候群やその他の遺伝子異常のスクリーニングを行う際には優生学を実行しているわけですが、
そういうのをナチのような“優生学”と定義しないのは、選択に基づいているからです。
それが人の自由を減じるよりも強化しているからです。

強化は、例えばより健康でより知的な子どもを産むために母体環境を操作することなど、
現在ではありとあらゆる形で見られます。

生物学的な介入にせよ生殖介入にせよ、
私はいい学校に行かせることや学校給食の栄養価を高めることと変わらないと思います。

今現在、薬学で最も大きな問題は、
薬学や医療介入がどのように病気を治療し予防するかということよりも、
いかにその技術を我々のライフの強化に利用するかという問題です。

(ダウン症候群その他のスクリーニングや出生前診断を優生学だと懸念する声も
実際にあると思うのですが、ご存知ないのでしょうか。

この人の”自由”と”選択”の解説を敷衍すれば、
”アシュリー療法”も自由と選択を広げるものとなるでしょう。
”親だけの自由”であり”親だけの選択”ですが。)

彼はまた、今後バイオテクノロジーを通じた強化によって老化のプロセスへの介入が可能となり、
人間の寿命は2倍に伸びるとも予言します。

この記事によると、
国連が2005年3月に人クローン全面禁止宣言を出した際に、
彼は即座に反論する論文の著者に名前を連ねたようです。

再生クローンは禁じるべきだが、
将来の人々が不要に苦しんだり死んだりしないために治療的クローンは不可欠だ
というのがSavulescuの見解。

ところで、The Oxford Uehiro Centre of Practical Ethicsのスタッフ紹介ページを見てみると、
DirectorであるSavulescuの外にも、馴染みのある顔がありました。


世界トランスヒューマニズム協会の創設者の一人で現在のChair。
あのHughesDvorskyらの、いわばボスですね。
そういえばBostromもオックスフォード大学の人でした。
そのBostromが、Savulescuがトップを務める実践倫理研究所のアフィリエイト研究者。ふむ……。

            ――――――

それから3人目の著著 Mark Sheehan。なんとも不可思議な人物です。

まず、何者なのかがよく分からない。

ホームページの経歴を見ると、あちこちの大学のコンピュータ・システムの立ち上げなどに携わってきた人のようなのですが……。

ホームページの肩書きは、EDUCAUSE Center for Applied Researchの研究者。
しかし、このECUCAUSEなるものが、そもそも奇怪な団体なのです。

公式サイトの説明では、
「I T のインテリジェントな利用を推進することにより、
より高次な教育(higher education)を発展させる」ことをミッションとする非営利の協会
だというのですが、「より高次な教育」って……????

これ、要は I T に特化されたトランスヒューマニズムではないでしょうか。

なぜ、こんなトランスヒューマンな”サイバーおたく”が
アシュリー療法を巡るエッセイの著者に……?????
2007.09.28 / Top↑
Hastings Center Report の3-4月号に、
以下の“アシュリー療法”関連のエッセイが掲載されていました。

The Ashley Treatment: Best Interest, Convenience, and Parental Decision-Making
By S. Matthew Liao, Julian Savulescu, and Mark Sheehan


簡単にこのエッセイの内容をまとめると、ポイントは以下の3点になります。

・正常な体が本人の不利になる場合があり、
アシュリーのケースでは体が小さい方が確かにQOLの向上に繋がる。
したがって成長抑制は本人の最善の利益となり、妥当。
介護者の都合という動機は本人への利益に影響しない。
ただし今回の病院内倫理委員会のように独立した倫理委員会でケースバイケースの検討が必要。

(その今回の倫理委員会の独立性に
大いに疑問がある
ことを当ブログでは指摘しているのですが……。)

・子宮と乳房芽の摘出の理由には多くの矛盾があり、リスクと利益のバランスが取れない。

・子を愛する親の義務にも限度はあるはずで、それは子育てや高齢者介護の問題にも通じる。
介護家族に対して支援する社会の集合的義務というものがあり、
アシュリー療法を批判するのであれば、社会として支援する用意がなければならない。

もともと筆頭著者のS. Matthew Liaoが、
子を愛する義務を負うのは生物学上の親だけではなく、社会の健常者の集合的義務であるとの
「子どもの愛される権利」論を持論としていることが、このエッセイの背景にあるようです。


出色は、両親と主治医らが挙げている子宮と乳房芽の摘出の利点について、
非常に詳細に矛盾点を指摘している部分でしょう。
(特に太字部分はあまり他では指摘されていない内容かと思われます。)

・生理や大きな乳房から予想されている本人の不快は明確なものではなく、
工夫次第で侵襲性の低い方法で回避できる。

子宮摘出によって卵巣のホルモン分泌が阻害され、
それによって心臓病や骨粗しょう症のリスクが高まる

・手術そのもののリスクが無視されている。

・子宮と乳房芽の摘出の理由として親と主治医が挙げている
「レイプされた時に妊娠しないよう、性的虐待を招かないよう」という部分について、
性的虐待の責をアシュリーに負わせている」。

・子宮や乳房の病気予防については、
同意能力のない人に対しては過激な医療よりも定期的な検査での対応が常識的だろう。

・Dovorskyの述べる体と知的レベルの“つりあい”には根拠がない。
この論理が通用するなら、
認知症になった高齢者も赤ん坊と同じ体にしよう、乳房はいらない、というバカな話になる。

・乳房芽の摘出はアシュリーのジェンダー・アイデンティティの形成を阻害する。


どうやらこのエッセイの論旨は
成長抑制は妥当だけれど外科手術は論外ということなのでしょうが、

しかし不思議なのは、前半の成長抑制を妥当とする部分での論の進め方。
こちらは上記の外科的処置についての部分と違って、やたら強引なのです。

成長抑制を是とするLiaoらの大きな根拠の1つは、
正常な体が本人の不利になる場合がありアシュリーはそれに当たる、というもの。
しかし、その「正常な体が不利になる場合」として彼らが挙げる例は
以下のように、いかにも極端。

H・G・Wellsの短編小説にある「盲目の人の国」では目が見えることが不利になる。
騒音だらけの国では耳が聞こえることが不利になる。
四肢が揃っていることに患者が不全感を覚えるapotemnophiliaでは、
患者の心理的安定のために医師は四肢を切断する──の3例を挙げ、

だから「アシュリーのケースでも正常なサイズの体を持つことは本人の不利になる。」
したがって
「アシュリーの体や周囲の状況を考えれば、成長を抑制することは総じて本人の利益にかなう。」

さらに別の箇所では、

もしもアシュリーの障害が通常の人間の5倍の大きさに成長するというものだったとしたら、
薬で成長を抑制したところで反論はないだろうが、これも介護者の都合であることは変わらない。

「これ(5倍の成長を止めること)が正しいのなら、
問題は成長抑制が行われてよいかどうかではなく、
成長を何時とめるべきかということだ。」

極端な例からの飛躍のほかにも、
子宮と乳房芽の摘出について自分たちが指摘しているのとそっくり同じ矛盾を、
著者らはここで犯しているのではないでしょうか。

エストロゲンに発がん性や血栓症のリスクが指摘されていることは無視しているし、
「正常な体が不利な場合がある」という論理が通れば、
全ての重症児が成長抑制を受けなければならないことになります。
体が不自由になったり認知症になった高齢者にも当てはまるでしょう。

このように、子宮と乳房芽摘出に関する部分と比べると、
まるで別の文章かと思えるほど成長抑制に関する部分は論理が乱暴なのです。

結局、このエッセイが言いたいことは一体何なのでしょう???? 

エッセイ末尾の結論も、
「だから介護支援策を」というよりも
「批判するなら介護支援をする覚悟があるんだろうな。
尊厳を維持するには、それだけのものが要るんだぞ」と、
どこか脅しめいたトーンなのですが???

            ――――――――

それにしても……

親だってアシュリーをケアするためにジムに通ったり副作用のあるステロイドを飲む必要があるとか、
また介護者を雇う費用で貧乏になるならば、
そこまでしなくたっていいだろう、と言われても……。


アシュリーをいつまでも抱いて移動させられるために親がステロイドで筋肉を増強……
などという辺りに、なんとなくひっかかるものを感じたので、
ネットで著者3人を当たってみました。

すると彼らもまた、奇怪な人たちなのでした。

こちらのエントリーに続きます。
2007.09.27 / Top↑
(この回、すぐ前のAAIDDから成長抑制批判という記事の補足・解説的なものでもあります。よかったら、そちらと一緒にどうぞ。)


Gunther & Diekemaのアシュリーに対する成長抑制に関する論文を掲載したジャーナルの編者は同じ号に以下のEditorialを書いています。

Growth Attenuation : A Diminutive Solution to a Daunting Problem
Arch Peidatr Adolesc Med. 2006;160:1077-1078

この中でBroscoとFeudtnerは重症重複障害児の親が直面する苦難と、Gunther& Diekemaが提唱する成長抑制療法を合わせ考えた場合に生じる主な問題点として、以下の4点を指摘しています。

①この療法の効果と副作用も、動機となった「背が低く軽い方が、背が高く重いよりも自宅で介護できる時期が長くなり、本人もより幸福」との仮説も、充分に科学的に検証されていない。

②アメリカでは既に外見を目的に体に手を加えることが広く行われている。もしも人の価値を身体的外見以上のものと信じるならば、この点での拒絶は出来ない。

③この療法に虐待の可能性はないか? 優生思想の歴史にかんがみて、重症児の成長パターンに手を加えることには最大限の慎重さが求められる。仮に実施する場合でも、最大のセーフガードと保護が必要。

④人は生物学的な存在であると同時に社会的な存在でもあるのに対して、医療は伝統的に単純な技術的修正を試みてきた。しかし問題の範囲は医療を超えている。必要なのはもっと多くの医療ではなく、もっと多くの社会サービスであろう。

BroscoとFeudtnerは成長抑制療法をill-advised(間違っている)としながら、GuntherとDiekemaが論文発表したことは広く議論の機会を作ったとして評価しています。Editorialが以下のように結論付けられていることからも、編者がわざわざeditorialを書いた意図も、慎重に広く社会の判断を仰ぐことにあったと思われます。

重症障害児における成長抑制の妥当性は、診察室という密室や、組織内に限定された検討委員会だけではなく、障害者の人権運動と、重症発達障害児・者への良質な在宅介護ケアの悲しいほどの貧困という社会政治的文脈の中で裁かれるであろう。……(中略)……大量ホルモン療法が正しい方向なのであれば、コミュニティ全体から一般的承認が得られるだろうし、もしもそうでなくて批判が起こるのであれば、禁止されることになろう。

                 -----

私はこのEditorial、タイトルが結構気に入っているのですが、主治医らの論文が「古いジレンマへの新しいアプローチ」というタイトルをつけていたのをもじって、「成長抑制:大きな大きな問題への、ちっこいちっこい解決策」。……とまで、ふざけたトーンではないものの。

座布団3枚あげたい。
2007.09.26 / Top↑
そっくりいただいたものなのですが、米国知的・発達障害学会(米国精神遅滞学会から改名)AAIDDの学会誌10月号に “アシュリー療法”について「正当化できない非・治療:障害を根拠とする若年者への成長抑制の問題」と題した論文が掲載されました。

Unjustifiable Non-Therapy: Response to the Issue of Growth Attenuation for Young People on the Basis of Disability
Intellectual and Developmental Disabilities  VOLUME45, Number5:351-353

著者は以下の13名。
Hank Bersani,Jr., David A. Rotholz, Steven M. Eidelman, Joanna L. Pierson, Valerie J. Bradley, Sharon C. Gomez, Susan M. Havercamp, Wayne P. Silverman, Mark H. Yeager, Dane Morin, Michael L. Wehmeyer, Bernard J. Carabello, and M. Crosser

文末に「AAIDDの理事会はこの論文を同学会のa position statement(意見表明)として受理した」との但し書きがあります。

アシュリーに行われた成長抑制療法については、Archives of Pediatrics and Adolescent Medicine 誌に担当医らの論文と同時に、編者であるBrosco & FeudtnerのEditorialが掲載されており、上記論文はこのEditorialの内容に沿って批判を展開しています。(Editorialの内容については次のエントリーに簡単にまとめて同時にアップしますので、よろしければ、そちらを先にどうぞ。)

Bersaniらは、まず冒頭で「知的・発達障害の分野における専門家を代表する米国で最も古い学際的な学会であるAAIDDの指導者として」重症障害のある子どもたちの親の心配や苦難も、支援の必要も、医療やハビリテーションを含めた新たな支援方法の必要も充分に周知しているとした上で、なおかつ利益の可能性と、慎重に検討したリスクとのバランスについての徹底的な評価が必要だと述べます。そして同学会の指導者として「我々は成長抑制を全く受け入れることのできない選択肢とみなす」。Brosco & Feudtnerが指摘した懸念を同じくすると同時に、AAIDD独自の懸念も付け加えるとしています。

Brosco & Feudtner が指摘した4点以外に、この論文が独自に指摘していることは以下の点のようです。

・アシュリーの知的機能に対する担当医らの判断は「主観に彩られている」こと。脳性まひ者を中心に、運動機能に重い障害のある子どもの認知機能が間違って低く評価されてきたエビデンスは多く、その問題がアシュリーのケースでは無視されている。

・Brosco & Feudtnerが、人間には外見以上の価値があるとする障害者の権利擁護の立場に立つならば背が低いことは問題にならないはずだと述べている点について、権利擁護の運動が障害のある人を社会の価値あるメンバーとして認めるからといって、人の成長を抑制することを正当化するものではない、この指摘は障害者運動の主張への大きな曲解であり論理を転倒させている、と批判。

・Brosco & Feudtnerが成長抑制を治療の1形態として受け入れていることに対して、アシュリーの典型的な成長を目的としたものではないことから疑問を提示。

・アシュリーに行われた成長抑制が実施に至ったプロセスへの疑問。本人の意思が確認できない上に緊急性もない以上、実施以前に利益を証明する大きな責任があったはずだが、そのような利益のエビデンスは伺えないこと。委員会の検討プロセスが主治医論文で述べられている以外には(しかも今後のケースに向けたもののようだし)、本人の法的権利を独立して代弁をする者が不在であること。障害者の権利擁護と自己決定に知識のある専門家が不在。選択肢が広がりつつある在宅サービスに詳しい専門家も不在。

・親の決定権は絶対的なものではなく、子どもには倫理原則と法律において固有の権利と保護が保障されている。アシュリーの状況ではこの問題こそが最も中心となるべきであったのに省みられていない。

・成長抑制が広がれば、虐待の懸念が大きい。体重増加が介護者である親の負担となった場合、肥満手術やカロリー制限が治療とみなされる。それでも効果が足りなければ、将来に渡って歩くことのない子どもの場合は脚の切断もあるだろう。子どもの行動が介護者のストレスになる場合には、薬物を使って介護を楽にすることも許されることになる。

そして、結論部分、

いまだ不透明な将来に対する親の不安が、子の医療上の最善の利益に置き換えられてしまえば、どんなに関係者の志が尊くとも、個々に行われる医療はあっという間に腐敗する。……(障害者に対する虐待の歴史にかんがみて)我々は2006年に成長抑制の相対的な利益がこのフォーラムにおいて真面目に議論されるトピックとなりえた事実そのものに、唖然とし憤りを覚えるものである。……(すべり坂議論には慎重になるべきではあるが)このような医療が受け入れられるものだと判断された場合には大きな悲劇へのドアを開くことになると我々は確信する。このドアは閉めておく方がよい。

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担当医らの論文が、アシュリーのケースでの倫理的検討過程については全く触れていないのに、あたかも述べているかのようなマヤカシを仕組んでいることは、当ブログでも指摘しているところです。担当医論文をここまで読み込んでの批判記事はこれまでなかったので、個人的には、この点でちょっとにんまりしました。

またアシュリーの認知能力についても、生後3ヶ月相当とする担当医らの根拠が乏しいこと、表出能力が限られているだけである可能性などを指摘してきました。(「ステレオタイプという壁」は、この問題を巡る書庫です。)

第1オーサーの Hank Bersaniは知的障害者の教育畑の人のようです。上記論文では主治医に気を使ってか、「このような状態について主治医よりも詳しいというフリをするつもりはないが」と断っていますが、医師は病気について障害について知識があるにせよ、生身の一人ひとりの障害者の姿や実際の生活については、触れることが少ないのではないでしょうか。医師が障害児である患者と接する時間と状況を考えてみると、生身の障害児の実像や日々の生活には教師の方がより近いと言える側面があるように思います。

だからこそ、「最善の利益」や「リスク対利益」、「無益な治療」などについては、医療の世界だけの閉じた議論にせず、障害児に関わっている他分野の専門家と共に(指導するのではなく)論じて欲しいと思うのです。そういう意味でも、AAIDDのような学際的な組織から批判の声が上がったことに拍手を。

         ―――――――――――――――――

実は、第1オーサーのBersaniは担当医らの論文が掲載されたArchives of Pediatrics and Adolescent Medicine誌の5月号に、上記論文と主要部分のタイトルが全く同じ Unjustifiable Non-Therapyという論文を発表しています。同じ号にGunther&Diekemaの反論も出ています。いわば、上記論文の前哨戦がこちらで行われていたことになるのですが、そちらはまだ読めていません。

アブストラクトを読んだ限りでは、Bersaniが「どんな子どももその子なりに成長する可能性がある」と主張したのに対して、「多少の成長があったとしても、アシュリーは大局的には体が大きくなるだけ」と担当医らがこれまでどおりの主張を繰り返したということのようです。

さらに同じジャーナルの4月号にも、別人と主治医らとの間に応酬があった模様です。これらについては、ちゃんと読んでから、また改めて。
2007.09.26 / Top↑
これまで見てきたように、
Norman Fostはアシュリー療法論争に登場した他にも、
ステロイド論争で大いに有名な人物のようなのですが、

ちょっと古いところまで遡ると、
1991年にも臓器目的で子どもを産むことを巡る論争に名前が出てきます。

例えば、
子どもに白血病や腎臓病があった場合に、
その子どもを救う移植のために新たな子を生む──その是非をめぐる論争。

当時の報道からFostのコメントを拾ってみると、

(ドナーが必要だからという理由で赤ん坊を産んだ家族のケースに関わったことが何度かあると語り) 
そういうのは珍しいことではない。

(あるケースでは腎臓病の子どもが2度の移植に失敗したため、もう一人子どもを産んだ。
その子が14歳になって同意したので、移植を行って成功したというケースもある、と語り)
その家族は神様からの贈り物だと考えていた。
年下の方の子どもは、年上の方の子どもを救うために(神に)創られたのだと。

人が、ありとあらゆる理由で子どもを作ることを考えると、
これは命を救うというのだから、マシな理由のうちに入ると思う。

Cover Stories: When One Body Can Save Another
Time, June 17, 1991

(この記事では、Art Caplanも臓器目的で兄弟を妊娠することは許されるとの見解を述べています。
理由など考えずに子どもを作る人だって多いし、
とんでもない理由で子どもを作る人もいる中で、
これは少なくとも愛他的な理由からの子作りだから、
と、Fostと同じ理由を挙げています。)

ところで、ここには
出生前診断によってマッチしないと分った時に、その子どもを堕すことの是非」という、
もう1つの問題も生じてくるわけですが、それについてFostは、

女性がどんな理由で妊娠を終わらせてもかまわないと信じるのであれば、
そういう(胎児がドナーとしてマッチしない)理由で妊娠を終わらせることがいけないと
私には思えない。

More Babies Being Born to Be Donors of Tissue
The New York Times, June 4, 1991


前回のエントリーで紹介した、生命倫理カンファレンスでのPentz講演の際
会場から、

病気の子どものドナーにするために新たに子どもを作る親が実際にいるが、
その際にマッチする子どもを選別する技術として体外受精の技術が使われていることの是非
については議論しないのか、

との発言がありました。
Pentzは時間が許せば議論したいとしながら、
「(臓器目的で子どもを作ることには)個人的には問題があると思う。
でも、私はこういう問題に関しては総じて保守的だそうだから」
と付け加えていました。

15年も前に上記のような論争が既にあったことを考えると、
現在はかなり普及しているのかもしれません。

倫理上の整理も法整備も追いつかないうちに、
こうした新興技術は既成事実化していくのでしょうか。
2007.09.24 / Top↑
”アシュリー療法”論争には無関係な人なのですが、行きがかり上ちょっと興味があったので、ついでに生命倫理カンファレンス13日午後の分科会から、Rebecca D. Pentz のプレゼン「兄弟の健康への手段として子どもを利用すること」を。

PentzはEmory大学Winship Cancer Institute の研究倫理の教授。病気の兄弟のために子どもに臓器を提供させることを巡る議論です。腎臓移植など形のある(solid)臓器の提供も取り上げられますが、Pentz自身は癌を専門にしているので主に骨髄移植をイメージした話となります。

まずPentzは、小児科の移植医療においては兄弟間の臓器提供はすでに充分受け入れられていることを確認します。

次に、これまでのケースを概観し、兄弟からの臓器提供が法的に認められる根拠は「ドナーの利益」であったことを整理します。(この中には、当ブログでも触れたStrunk v. Strunk ならびにCurran v. Boszeで示された未成年の最善の利益の3条件も挙げられています。)

その上で、本当に兄弟への臓器提供はドナー自身に利益をもたらすことが実証されているだろうか、とPentzは問いかけました。大人の場合はドナーへの追跡調査など豊富な研究報告があり、おおむね自尊心が向上する、自己評価が上がるなどの利益が広く確認されている一方、子どもがドナーになった場合についての研究はほとんどなく、子どもの場合もドナー自身へのメリットがあるとするには、もっと研究データが必要だ、と。

ここでPentzは、ある母親へのインタビュー・ビデオを流します。(例によって正確にすべてが聞き取れているわけではないので、以下は大まかなニュアンスと考えてください。)

人々の関心はいつも病気のAndyにあったんです。誰かが訪ねてくると、聞くのは決まって「Andyはどう?」。周囲ではいつも「Andyがこれをしたいと言っている」、「今日はAndyは……」、「でもAndyが……」。Jeffはいつも自分が無視されていると感じていたんです。

------- ------- -------

Andyは4歳で癌になり、双子の兄弟のJeffから骨髄の提供を受けた。現在は完治し、家を出て大学生活を送っている。Jeffの方は大学にも行かず、今も親と暮らしている。Jeffは移植の後ずっと、まとまったことができないまま。母親は彼の本当の問題は「無視された子ども」だったことにあると分かっているが、どうすることもできない。Andyの移植のこうした側面に対して、医療者も対応してこなかった。

次にPentzが考察するのは、兄弟間の移植を正当化してきた理屈。

家族の1人の利益と他の1人の利益とを差し引きすることにより、家族全体のニーズを考えるべき。(Nathan v. Farinelli, 1974)

血縁関係の有無に関わらず、親密なつながりのある人物を失うことは人生への打撃なので、家族のみならず友人への提供も認められるべき。(Jansen, Cambridge Quarterly 2004;13:133-142)

このプレゼンと並行して、別の分科会で講演しているLainie Rossは、上記2つをミックスする形で、独自のIntimate Attachment Principle(親密なつながり?原則)を提示しています。

Rossの親密な繋がり原則

・子どもの基本的なニーズを犠牲にすることは不可。しかし家族全体の幸せが子どもの幸せなので、家族のために子どもの健康に最小限の制約を及ぼす(minimally compromise)ことは可。
・家族以外の親密な人物への提供については、外部の審査が必要。

(こういう場合にcompromiseという言葉を使うのかぁ……と。compromiseはとりあえず苦し紛れに「制約を及ぼす」と訳してみましたが、「望ましくないものとやむを得ず折り合いをつける」といったニュアンスではないかと思います。でも、ここで意味しているのは現実には「質を落とす」ということですよね。)

ただし、ここでは骨髄移植の話であり、18歳以下の子どもは形のある(solid)な臓器のドナーにはなれないとのこと。会場からも何度か指摘があったのですが、提供してもまた再生される骨髄の提供と、提供によって半分失うことになる機能は取り戻しようがない腎臓の移植とでは、問題の性格が異なってくるという面はあるようです。

1995年にはHastings Centerのレポートで以下のような見解が示されています。Pentzは今のところ、総合的にみてこれが一番妥当なところと考えているようでした。

Sibling donation justified if there is “a moral match between the relationship and the risks to the donor relative to the benefit to the recipient”

兄弟の臓器提供が正当化されるのは、両者の関係と、レシピアントの利益と比較した際のドナーへのリスクとの間に道徳上の釣り合いが取れている場合。

Dwyer, Vig. Hasings Center Rep. 1995;25:7-12

その後、Pentzが提示した2つの症例を巡って会場と様々な議論がありましたが、ここでは省略します。

全体に、実際の現場では移植重視のあまりドナーになる子どもに対して相当に無神経な対応が行われているような印象を受けました。Pentzの主張もその辺りにあるようで、子どもは大人ほど拒否する権利を事実上認められていないのではないか、子どもの提供の決断は実際には周囲の大人の決断なのではないか、と問題提起していました。

また、姉のために次々に組織・臓器を提供させられる妹をテーマに、家族それぞれの視点から、以下の小説が書かれており、Pentzが議論のケースとして取り上げました。(面白そうなので、いずれ読んでみようと思いますが、いつになるか?)

My Sister’s Keeper by Jodi Picoult

「わたしのなかのあなた」と題して、早川から翻訳も出ています。
2007.09.21 / Top↑
“アシュリー療法”論争で不思議でならないことのひとつは、担当医らの障害者ケアに対する姿勢が、私には障害者福祉の世界の“常識”に反しているとしか思えないこと。

たとえば以下の点。

赤ちゃん扱い。
親と(だけ)の密着。
家庭での介護の囲い込み。
社会参加という視点の欠落。
本人主体という視点の欠落。
「人」よりも「障害」を重視。

こういう障害者ケアのあり方こそが、批判され、議論となり、関係者の長い努力の積み重ねによって、少しずつ解消されてきたのではなかったでしょうか。

アシュリーの両親と主治医、彼らを擁護している専門家の主張は、障害者福祉の世界で関係者が長年努力して積み上げてきたものを、ことごとく否定し打ち崩すもののように感じられます。だからこそ、障害者運動の関係者らはアシュリーの身に起こってしまったことに、あれほど大きな衝撃を受け、強い批判の声が相次いだのではないでしょうか。

ちょっと単純すぎる描き方になるかもしれませんが、障害を“治して”“正常”に近づけようとする「医学モデル」から、障害があるままにその人らしく暮らすことを支える「社会モデル」へと変わってきたはずの障害者ケアの流れの中で、アシュリーの担当医や擁護している人々が言っていることには、一体どういう位置づけができるのか──。“アシュリー療法”には「本来ソーシャルな問題であるはずのものをメディカルに解決している」という批判があることが思い返されます。また、検討過程でソーシャルワーカーやスクールディストリクトとの連携が試みられた形跡が全くないことも。

それとも、「医学モデル」だ「社会モデル」だという議論自体、一部の例外を除いては医療の世界には馴染みがない、福祉の世界の議論なのでしょうか。シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスを聞いていると、同じ一人の障害児・者を見ても、福祉のサイドから見るのと医療のサイドから見るのとでは、見えるものがまるで違っているのではないか……という疑問が浮かんできたりします。

(例えばMagnus講演で、重症の子ども2人は一見すると同じ状態に見えるが発達の専門医のアセスメントを通せば2人が非常に異なっていること分かる、という話がありました。それらの子どもの違いを見抜けるのは医療の世界でこそ発達小児科医のみかもしれませんが、福祉の世界で重症児と日常的に接している専門家ならば、もしかしたら発達小児科医以上に、それら2人の子どもの状態の違いを詳細に知っているように思います。)

1月12日の「ラリー・キング・ライブ」での中途障害者Joni Tada と Diekeme 医師とのやり取りの、あのすれ違い方、その絶望的な”噛み合わなさ”……。

もちろん、アシュリーのケースには病院が敢えて福祉の世界を巻き込みたくなかった事情もあったと想像されますが、それにしても、このような事件が起こる背景には、医療の世界と福祉の世界の間に横たわる根深い分断という問題もあるのでは?
2007.09.19 / Top↑
シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンス第1日目午後の分科会から、Lainie Freidman Ross のプレゼンを。タイトルは、

子どもへの臓器提供者としての親
誰がリスクの許容範囲を決めるのか?
そこで用いる基準は?

Rossのプレゼンは、問題提起を行って会場からコメントや意見を募り共に考える、という形態のもの。以下の4つのケースを巡って、親からの生体間移植の問題が議論されました。

ケースA
14歳の少女に父親が腎臓を提供したいと言う。ただし父親はエホバの証人の信者で、一連の医療処置の間に万が一緊急の事態が起こったとしても輸血は受けないとの条件が付いている。

ケースB
実際にあったDavid Pattersonの事例。3年前に娘に腎臓を提供したが、その後拒絶反応が起きてきたので、父親が2つ目の腎臓も提供したいというもの。Pattersonのケースでは父親が刑務所に入っており、最後の腎臓を提供した後の父親の透析は州の費用で支払われることになるなど、複雑な事情もあったが、ここでは「2つ目の腎臓も提供したいという親」を想定。

ケースC-1
何度も自殺未遂を繰り返している成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。

ケースC-2
アル中で、どうしても酒をやめられない成人した子どもに対して、親が臓器提供を申し出ている。(ただしアル中患者の移植アウトカムは通常の患者と同じ。)

まず、ケース1の議論の中で、だいたい14歳からmature minorとみなして本人の意思を尊重する、イギリスでは12歳からmature minorとみなすこともある、という話が印象に残りました。以前このブログで取り上げた抗がん剤を拒否したヴァージニア州の少年のケースで裁判官が本人の意向を重視していたのは、そういうことだったのですね。彼は15歳でした。

その他それぞれのケースに様々なコメントや議論もあったのですが、特に印象に残ったのはRossの次の議論でした。

親が臓器提供する場合のリスクについては、母親が提供者になりたいという自己決定(autonomy)は、父親の同様の自己決定よりもリスクを理由に却下される確率が高い。母親は死なせたくないが父親を死なせるのは構わないようだ。しかし我が家であれば、夫は「自分が育児家事を担っているから母親がリスクを負っても大丈夫だ」と言うはず。私は子どものためなら数パーセントのリスクは喜んで引き受けたいと思うが、それは母親であるという社会役割のために認められないのだろうか。それを誰が決めるのか。私としては、それを決めることができるのは親自身であってほしい。

子どもが親から臓器提供を受けられるためには、子のために犠牲になろうとする親の下に生まれることが条件になる。また、それだけの医療が整った国で、そういう親の下に生まれていなければならない。この点で私は医療に平等などありえないとのFostの指摘に同意する。

例えば、「リスク対利益」で考えれば利益がゼロであるような子に臓器提供を望む親がいたとして、「あなたがたにとっては命の質が非常に低く思えるかもしれないが、それでもこの子は自分たちにとっては大事な子どもであり、移植をしてやれることは自分にとって大きな意味を持っているのだ」と主張する親に対して、どう判断するのか? 

午前のMagnusの講演でのケース1への対応が、ずっとひっかかりになっている。我が子はこういう子だというイメージを親は創りあげて、それを大切にしている。そこへ、あなたの子どもは実は何の反応もしていないと指摘して、我々はその希望を砕いてしまった。たとえ臓器移植の候補としてリストに挙げないという決断をするにせよ、医療者がこんなことをしたのでは、どんな利益を提供できたとしても、我々がなす害の方が大きい。

誰が命の質を決めるのか。誰が無益な治療(futility)の原則で決定を行うのか。「リスク対利益」で決定を行うには、ヒューマニティを示すことが必要だ。

アシュリー論争でのコメントにせよ、ゴンザレス事件でのコメントにせよ、Rossの視点は常に親にあるのかなと考えていたのですが、やはりそのようですね。

Magnus講演のケース1とは、臓器移植の候補に登録するかどうかの判断を巡って、「子には親が分かっていて自己主張もある」と主張する親に対して、家庭での様子をビデオ撮影してもらい、その映像を一緒に見て、実際には反応がないことを母親に確認したというもの。この行為を医療職がなすharmである、どんな利益をもってしても補うことのできない害であると捉えるRossの視点──。これは、結構すごいのでは?

Rossはここで「リスク対利益」の枠組みを当てはめる対象を、機能や臓器の総合体としての子ではなく、子と親の関係性へと広げている、その関係性の中での子としての存在を見ているのがすごい、と私は思うのですね。

FostやParisらの唱える「無益な治療」概念と、それを正当化する「リスク対利益」の枠組みが「医学モデル」に立っているのに対して、Rossには「支える」・「支援する」という視野の広がりがあって、いわば「社会モデル」の視点を含んでいるのではないか。Rossが「ヒューマニティ」という言葉で表現しているものは、実は「社会モデル」への視野の広がりを言っているのではないか……。

もっともRossのような視点に立つと「無益な治療」はほとんど成り立たないことにもなりかねないので、コスト削減の必要から障害児・者の切捨てを志向する人たちは敢えて背を向けたい視点なのかもしれませんが。

 
2007.09.18 / Top↑
DiekemaもGuntherもFostも、知的障害のある女性は、何故そんなところから出血するのか、なぜ繰り返すのかという生理のメカニズムが理解できなくて苦しむのだ、と子宮摘出を正当化しています。

Diekemaに至っては、「重症の知的障害者には生理がトラウマになる人が多い」(CNN1月11日)とまで言っています。「アシュリーには既に血を怖がるという体験があったので、両親がそんなことは避けたかったのです」(同)とも言っています。しかし血を怖がるには、例えば「血=何か悪いこと」といった連想が働かなければならないはず。果たして生後3ヶ月の赤ん坊にそのような連想が働き、血を怖がるものなのか。アシュリーの知的レベルが低いという彼ら自身の見解とこの発言は矛盾しないでしょうか。

父親も、the Daily Mail紙の電話インタビューで「アシュリーには生理と生理痛に対処できなかったはずだから」と言っていますが、これは何の根拠もない予測に過ぎないでしょう。

いずれも、アシュリーに将来訪れるかもしれない(訪れないかもしれない)不快や苦痛に対して、えらく親切で過剰な思いやりですが、その一方で私がとても奇異に感じるのは、彼らが開腹手術という体験のもたらす恐怖感には全く無関心であるということ。

開腹手術のさい、患者はいきなり麻酔をかけられ意識を奪われてから手術室に運ばれるわけではありません。事前の検査があり、処置があり、手術室に運ばれる際には意識があるでしょう。準備室に運び込まれてから、さらに処置を受けます。その間、アシュリーに自分が置かれている状況や、その意味がどのくらい理解できていたか──。両親や主治医の認識からすれば、これから自分の身に起ころうとしていることについて、アシュリーが誰かからちゃんと説明してもらったとも思えません。

充分な説明を受け、納得した上で手術を受ける大人であっても、その緊張感や不安、手術室という特殊な空間のもたらす恐怖感には相当なものがあるはずです。仮に本当に生後3ヶ月の知能だったとしても、その恐怖感は強く感じたはずでしょう。もしも血を見て怖がる知能があるとすれば、その手術体験はアシュリーにとって、どれほど怖かったことでしょう。トラウマになるというなら、生理よりも、こちらの手術体験なのではないでしょうか。

ところが主治医らが触れているのは「比較的リスクの少ない手術」という程度。手術がアシュリーに及ぼす精神的心理的影響にも痛みにも意識はゼロ。皆無です。

親のブログから手術に関連した記述を拾ってみると、

唯一考えられる(この療法の)気がかりは手術そのものだったが、当該手術は普通に行われるもので、複雑な手術ではない。さらにシアトル子ども病院の最高の手術施設とチームに恵まれた。もしも我々がこれほど進んだ地域や国に住んでいなくて手術のリスクが高かったとしたら、この部分では別の分析をしていただろう。

(まるで、仕事上の経営戦略を立てるために各種データを”分析”でもするかのような口調ですね。)

子宮、乳房芽、盲腸を一度に摘出する手術は2004年7月に問題なく行われた。アシュリーは厳密な管理下で4日間入院した。アグレッシブな痛みのコントロールのおかげで彼女の不快は最小だった。一ヶ月もしないうちにアシュリーの傷は癒えて通常の生活に戻った。子どもの傷が大人よりも早く癒えるのは目覚しい。アシュリーの母親には帝王切開の経験があるので、手術後のアシュリー状態も分かっていた。ありがたいことに、回復は母親が予測していたよりもはるかに良好だった。

この文章から想像する限り、母親の方には心配した様子も見られますが、父親の方はアシュリーの術後の痛みすら「不快は最小だった」で済んでしまうのです。手術体験に伴うアシュリーの痛みや精神的な負担については、父親の方も医師らと同様、想像すら及んでいない。

アシュリーが「苦しむ」ことについて、この程度の意識しか持ち合わせない父親と担当医にして、将来あるかどうかも分からないアシュリーの生理を巡る「苦しみ」にだけは過剰な思いやり。

ひどくバランスを欠いたご都合主義の“思いやり”ではないでしょうか。
2007.09.18 / Top↑




アシュリーの眼差しというエントリーで、両親のブログに掲載されているアシュリーの写真を紹介したところ、じゅんのすけさんからコメントで「カメラ目線ではないか」とのご指摘をいただきました。

そこで、もう一度両親のブログに戻って、紹介されている14枚の写真を確認してみたところ、上記の例のように他にもカメラ目線のものがありました。アシュリーは明らかに「写真を撮られる」という状況を理解しているように思われます。

撮影された時期は上から2003年、2004年、家族のものは不明……ですが、母親と一緒に写っている2004年の写真が手術の前のものか後のものかは分かりません。

2003年の写真では、どこか物憂げな、ちょっと拗ねたような表情が印象的です。カメラを構えている人に、なにか腹の立つことでもあったのでしょうか。「勝手にしたら」とでも言いたそうな表情。

母親と一緒に写っているものは、場所が夫婦の寝室ではないかと思われることから、おそらく父親が撮影したのではないでしょうか。とてもくつろいだ表情。両親に囲まれて、目がとても和らいでいます。3枚目の家族写真もカメラ目線で笑顔。

他の写真の中には、カメラとは別の方向にいる誰かに目を向けていると思われるものもあります。

改めて感じるのは、アシュリーの表情の豊かさです。

本当にDiekemaやGuntherらが言っているような子どもであれば、もっと表情が乏しく、目にも力がなかったり、焦点が合わなかったりするのではないでしょうか。

(両親のブログの内容は本文写真共、“アシュリー療法”について広く知ってもらいたいとの気持ちから、両親は出典を記載する限り自由な転載を許可しています。)
2007.09.17 / Top↑
科学者と社会の間の信頼構築に向け、イギリス政府の主任科学顧問David King卿・教授が7項目の倫理綱領を提示したとのニュースがありました。

UK science head backs ethics code(BBC 9月12日)

Yorkでの英国科学振興協会(the British Association for the Advancement of Science)の年次大会で発表したもの。その目的を卿は、

自分たちの仕事が広い社会に及ぼす影響について、研究者たちに考えてほしい。科学と民衆との関係に目を向けることが大切。科学者が大発見をしても社会がそれを受け入れなければコトはうまく運ばないのだから、科学者はこの綱領を受け入れて守る必要がある」と。

綱領はすでに英国政府内で働いている科学者には採択され、King卿は国内の大学や企業の科学者にも加わるよう勧めている。来年には国際的にも呼びかけを行う予定。

(こういうものをテキトーに日本語にする度胸はさすがにないので、綱領は英文のまま)
THE CODE

Act with skill and care, keep skills up to date
Prevent corrupt practice and declare conflicts of interest
Respect and acknowledge the work of other scientists
Ensure that research is justified and lawful
Minimize impacts on people, animals and the environment
Discuss issues science raises for society
Do not mislead: present evidence honestly

             ―――――

医師も科学者なわけですが、”アシュリー療法”の担当医であるGunther とDiekemaにこの倫理綱領を見せたら、どう言うでしょうか。

とりわけ、この中の、

Prevent corrupt practice(ゼニや権力に屈するなってことですよね)

declare conflicts of interest(親の要望と子の法的権利の間にコンフリクトがあったら裁判所に行け、と)

Minimize impacts on people(できる限り侵襲性の低い方法を、でしょう)

present evidence honestly(ウソやマヤカシや隠蔽はいけない)。
2007.09.15 / Top↑
Fost や Paris がもしも移植医だったら、こういうことをしていただろうな……という
米国カリフォルニア州の事件。


の2本の記事から事件の概要をまとめると、

重症の心身障害があるRuben Navarro(25歳)の脈がなくなって、
暮らしていたナーシング・ホームから病院に送られ、呼吸器をつけられたのは2006年1月29日。

ただし、わずかながら脳の機能が見られ、不可逆的な脳損傷を受けてはいるものの脳死とはみなされていなかった。
医師に回復の望みはないと告げられた母親は臓器提供に同意。
そこで病院側は地域の臓器移植ネットワークに連絡し、
ネットワークからはNavarroの臓器を保存するためのチームが派遣された。

ところが、呼吸器をはずしてもNavarroは予想に反して死なない。
30分以内に死ななければ臓器は使えなくなる。

手術室でジリジリする派遣チームの移植医Hootan Roozrokhは何度もモルヒネとアチバンの投与を指示。(その際、それらの薬物をジョーク交じりに「キャンディ」と。)

通常なら死後のドナーにしか投与しない抗生剤まで、栄養摂取の管を通じてNavarroの胃に入れたとの疑惑もある。
医師らがついに諦めてNavarroを部屋に戻した時、Navarroは口から泡を吹き、震えていたという。
そして翌日に亡くなる。

その場にいた看護師らの訴えにより捜査が始まり、
Roozrokh医師はNavarroの死を早めようとしたとして、
臓器移植ケースでアメリカで初めて刑事罰に問われる医師となった。

それが7月のこと。

罪状は3つで、

dependent adult abuse (非自立の?成人に対する虐待)
administering a harmful substance(有害薬物の投与)
unlawful controlled substance prescription(規制薬物の違法な処方)

解剖所見は死因を自然な原因によるものとしており、
医師の処置が死の原因となったわけではないので殺人罪での起訴は見送られたとのこと。

【追記】
「・・・脳死とはみなされていなかった」の部分はUSATODAYの記事にある情報なのですが、
家族が臓器提供に同意したら脳死じゃない人の呼吸器をはずしてもいいのか……。
アップした後で疑問になってきたのですが、その辺りは報道からははっきりしません。
昨日13日のUSATODAYの記事も確認してみたところ、
病院側は裁判で呼吸器をはずすことについては母親の同意を得たと主張し、
母親はそれを否定している、との記述もあります。


9月13日のWPの記事は、Roozrokh医師が3つの罪状のうち2つについて否認したことを伝えていますが、

記事の主要テーマは、

このような事態が起こった背景として、
2003年に始まった連邦政府の提供臓器獲得キャンペーン”Breakthrough Collaborative”によって
臓器獲得機関(OPO)の機能が強化されたことにあるとの問題提起。

提供臓器の数はキャンペーン開始から増えている一方で、
OPOのスタッフが病院スタッフや終末期カウンセラーを装って家族に接触したり、強引に提供に同意させるなど、
「あいつらは病院を飛び回るハゲタカ」だと言われるような事態も起きているとのこと。

              ――――――

このような事件の報道に直面すると暗澹とした気持ちにもなるのですが、
シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスでのFostやParisらの発言を振り返ると、
彼らがもしも移植医だったら、Roozrokhと同じタイプの移植医になったであろうことは容易に想像されます。
OPOはこのたびの事件が例外中の例外だと主張しているようですが、果たして本当にそうなのか……。

上記2つの記事では、
Navarroに重い障害があったことと、医師らのこうした処置との関係には特に触れられていませんが、
関係がなかったとも思えません。

実際、障害者運動関連のHPや障害者らのブログはこの事件に非常に敏感に反応しているのですが、
メディアはぬるい。
これは果たして、
当事者とメディアとの間に温度差があるという単純な問題なのでしょうか。

WPの記事で気になるのは、この長い記事のいよいよ終わりの部分までは、
Navarroの障害について、ほとんど触れられていないこと。

記事の最初のセンテンスは、

「長いdegenerative な病気との闘いの末に、Ruben Navarroは死に瀕していた」と。

「体に変形をもたらす病気」という意味でしょうか。
なぜWPはこんな曖昧な表現だけで、その後の記事の大半を書いたのか。
なぜ最後の部分でやっと「重症の障害」と書くまで、「障害」という言葉を使わなかったのか……?

(ちなみに、USATODAYの記事は、副腎脳白質ジストロフィー、脳性まひ、てんかん発作と、Navarroの障害を具体的に説明しています。9月13日の記事でも、USATODAYは最初から「障害のある男性」と書いています。)


【Navarro事件 関連エントリー】

2007.09.14 / Top↑
Peter Singerが“アシュリー療法”についてニューヨークタイムズに論評を寄せた翌日、インターネットには早くも反響が出ていました。そのうちの1つは、自閉症の子どもを持つ母親が自閉症関連サイトに投稿したもの。

Peter Singer and Precious Ashley
by Kristina Chew PhD (1月27日)

Chewは、この文章を古代ローマ帝国最古の法典といわれる12表法から始めます。この表法の中に、「明らかに奇形のある子どもは、殺さなければならない」と書かれているという話。Singerが論評で書いた「重症児は昔から狼やジャッカルの餌食にされてきたのだ」という箇所に反応しているわけです。(Fostもパネルで同じことを言っています。)

続いてChewは、Singerが自分のHPにおいて、世の中を変えるために簡単にできることとして3つの提案をしていることを紹介します。

①世界の最も貧しい人たちのために何事かを行え。
②動物のために何事かを行え。
③地球環境のために何事かを行え。

そして、このような提案をしている Singer がアシュリーに対しては……と批判を展開していくのですが、その後の文章は長く、反論の大筋は想像の範囲なので、ここでは私が個人的に目を引かれた指摘を1つだけ。

Singerが冷徹な論理を展開しているように見えて、実は adorable とか precious といった情緒的な言葉を紛れ込ませているとの指摘。

なぜChewがこれらの言葉に抵抗を感じるかというと、世間の人が彼女の息子チャーリーの前でも平気で「あなたにとっては、どんなにか大切な(precious)息子さんでしょうね。だって、こんなに可愛いん(adorable)だもの」などと言うのが、日ごろから気に障っているから。普通なら9歳の子どもにそんな形容詞は使わないのに、世間の人はチャーリー本人の前で平気でそう言うのです。まるで自閉症の彼には理解できないと決め付けているかのように。(adorableというのは、他人の幼い子どもを前にお世辞に言う「まぁ、可愛いお子さんで」というセリフの、あの「可愛い」です。)

この指摘には2つのポイントがあるように思います。

①シンガーが論理を操っているように見えながら、実は社会に蔓延する障害児の幼児化・美化に巧妙に乗っかっていること。子ども病院の医師らが「美しい親の愛」というセンチメンタリズムを持ち込んで、問題のすり替えを行ったことを思い出します。しかし面白いのは、シンガー発言の方が、医師らの言ったこと(やったこと)よりも、はるかに酷いように聞こえる点。それは、きっと医師らの方がシンガーよりも老獪だったからではないでしょうか。

Singerは「生後3ヶ月より知的レベルが高い犬や猫に我々は尊厳など考えない」と言いました。Diekemaは「尊厳が何かということは、その人の状態によって違う」、「アシュリーの尊厳は、乳児として扱ってもらうこと」と言ったのです。これ、響きは違って聞こえますが、要は同じことなのでは?

②当ブログで指摘してきた、「どうせ何も分からない人」というステレオタイプしか見ない態度と、Chewが描いて見せる「まぁ、なんて可愛らしい」、「穢れを知らない天使ちゃん」など世間によくある赤ちゃん扱いとは、実はまったく同じなのではないでしょうか。(当然「枕の天使」も。)

いずれの態度も、障害のある「人」や「子ども」ではなく、「障害」しか見ていない。目の前にいる「その人」自身、「その子ども」自身の姿をありのままに見るのではなく、彼らの姿に自分が見たいものを重ね、それを見ているだけなのです。この2つの態度の根が同じだとすると、Singerがこのような湿度の高い形容詞をアシュリーに使用しているのも、象徴的なのかもしれません。


そこで、Chewの結論。

Singerが提案している「世の中を変えるためにできること」に、もう1つ付け加えてはどうかと提案し、Chewは次のように書いています。

私は世の中を変えるために4つ目の「簡単な方法」を提案します。とても易しいことです。

障害のある子どもと一緒に過ごす機会があるならば、ぜひ、そうしてみてください。ただ同じ部屋で一緒に座っているだけでいいのです。ただ、そこにいる、子どもと共にそこにいる、ということをしてみてください。その子どもは、じっと動かずに横になったままかもしれません。テンション高く部屋中を駆け回り、いろんな音声を発して、あなたの言葉には何の反応も示さないかもしれません。あなたがそこにいることを、その子どもがどの程度分かっているのか、そもそも分かっているのかどうか、あなたには分からない。あなたの存在を子どもが分かっているとは言えない。けれど、分かっていないとも、また言い切れないはずです。

ちょうど、もう障害のある赤ん坊を荒野に連れて行って狼やジャッカルの餌食にするようなことはないからといって、5世紀のローマ帝国の、あの12表法の時代よりもはるかに進んだ世の中になったと、我々に言い切れないのと同じように。
2007.09.13 / Top↑
初めてアシュリーの両親のブログを開いた時から、ずうぅぅっと頭の片隅にこびりついている、とても単純な疑問。

もしもアシュリーがこれほど美しい子どもでなかったら、この父親はブログに写真を掲載しただろうか……という疑問。



そして、それを「見る側」へと転じてみると、

アシュリーの両親の苦難に共感・同情し、「どんなにか苦しい決断だったことでしょう」、「愛情からしたことだから」、「この両親の苦悩は他人には分からない」と許容・擁護・賞賛・感動すらした人たちは、もしもこの事件に次の3つの条件がそろっていなかったとしたら、それでも同じことを言っただろうか……という疑問。

①アシュリーは美しい少女である。
②アシュリー一家は白人である。
③アシュリー一家は中流家庭だと報道された。
2007.09.13 / Top↑




両親のブログに紹介されているアシュリー。

アシュリーの、この眼差しをよーく見て、考えてほしい。

この子が「どうせ中身は赤ん坊」といわれ、「生涯、どうせ誰とも意味のある関わりなど持てない」といわれ、「犬や猫ほどの知的レベルにも達しない」といわれていることを。

これが本当にそういう子どもの目かどうか。

CNNの医療担当キャスターのSanjay Guptaは、ブログで Her beautiful smile is engaging: her sparkling eyes, unforgettable と書きました。

NPRは She has a big smile and bright eyes と書きました。

生き生きした頭と心を持たずして、どうして sparkling で bright な(キラキラ溌溂とした)眼差しを持つことができるのか。どうして「犬や猫ほどの知的機能もなく、したがって尊厳にも値しない」子どもが、こんなに大きな美しい笑みを見せることができるのか。そしてまた、こんなに深い憂いをその眼差しにたたえることができるのか。

しかし、事実上「どうせ知的障害があるのだから」との言い訳だけで、このアシュリーから子宮と乳房芽が摘出され、このアシュリーに大量のホルモン剤が投与されたのです。
2007.09.12 / Top↑
パネルに登場するのは、この日午前中に講演したFost 、Paris、Wilfond、Magnusの4人。
会場からの質問とコメントに4人が応えるという形で進みます。

最初の質問は、
医師の良心的な決断に反する命令を裁判所が出した例があるか」というもの。
即座にParis(と思われる)が「あるとも。Baby K事件がそうだ」と答えますが、
次いですぐFostが発言。
この内容がすごい。

「裁判所は法的解釈を示すだけで、裁判所の命令には強制力はない。
だから、命令を無視したところで何も起こりはしない。
この患者には移植はしないという私に
裁判官が移植を強要することなどできないのだ。
だいたいアメリカで医師がliabilityを問われたことはない」。


第2の質問者は、まず
治療停止の議論にはパリアティブ・ケアが含まれることが必要」とコメントした後、
保険会社が払わないといったら医師の腰が引けるのが現状。
保険会社が治療内容を決めている状態については?」。

これに対して、またもFostが答えますが、内容は最初の質問への答えと同じ。

「保険会社は支払う気があるかどうかを述べるだけ。
裁判所は法の解釈を述べるだけ。
しかし病院で決定を行えるのは医師しかいないのだ。
どうせ裁判所にとっては停止はすべて悪だし、
死は絶対に患者の利益にならないのさ。
我々は裁判所がなんと言おうと、
現場でgood medicineを実践するのみだね」
(実はぜんぜん質問の答えになっていませんが。)

Parisも「裁判所はauthorizeするのであってorderはできない。
仮にorderされてもFost is right、
命令に納得できなければ、やらない。
それでいいのだ」。
(質問者は裁判所のことなど一言も言っていないのに。)


第3の質問。
治療への姿勢や財力など、親の特性によって子が受けられる治療内容が違うことについては?」。
ここでもFost節が全開。

「コストが問題になるのは当たり前さ。
透析が1ドルでできるんだったら、こんなカンファレンスはしていない。
1日1000ドルもかかるから問題になるんだろ。

IQの低さが問題になるのも当たり前。
誰も無脳症児に移植はしないだろ。
IQが低すぎて(冷笑)利益すら理解できないじゃないか。
さっきMagnusが講演の中でIQの傾斜を取り上げていたが、
要はその傾斜のどこで線を引くかの問題だ。

親によって子の治療が違ってくるのも当たり前だろう。
親に金があったら自前で呼吸器だってつけられるが、その何処が悪い? 
社会が提供するサービスとは教育でも食糧供給でも最低限のラインのこと。
みんなに同じサービスを提供しようと思ったら、誰にも提供できなくなる。
それ以上は、無脳症児への移植にせよ特定の状態での家庭での呼吸器にせよ、
社会がそれは提供しないと決めるのだ」 

これに対してMagnusが2度、間で口を挟みます。

まず
「自分はIQの傾斜に触れたが、それはFostが言うような意図ではなく、
むしろ強調しすぎては問題だと考えている。
IQの“低さ”は相対的なもので、140を基準にすれば120だって低い。
はっきり線を引けるというものではない」。

(これに対してFostは「でもゼロだったら誰もモンクないだろ」と応じます。
さらに司会のDiekemaが「……(聞き取れない)でもモンクないでしょう」と
ジョークを飛ばして会場から笑いが起き、
即座に反応しようとするMagnusをWilfondがさりげなく制止する
という場面がありました。)

もう1つのMagnusからFostへの反論は、
「親の財力とコストの問題だけでなく、もっと幅広く考えるべきだろう。
親の価値観によって子の受ける治療が違い、それが生死を分けることもある。
そういうケースでどう考えるかという問題は難しい。」

その他、会場からの
倫理委員会に誰を入れるかによってバイアスがかかる。
病院のメンバーのみだったら問題がある。
倫理委では誰が子の利益を代弁するのか」との質問に、

Fostは「地域の代表を1人・2人ほど入れればいいだろう」と答え、
Magnusは「倫理委の議論には透明性が必要」と答えていました。
この質問とMagnusの答えは、
“アシュリー療法”論争での倫理委員会の構成メンバーと議論に関する透明性の欠如を大いに考えさせるものです。

またFostは、このパネルの議論の中で、
「重い障害を持った子どもというのは昔から殺されてきたのだよ。
それが80年代から生命倫理の議論が始まり、倫理委員会というものもできて、
ここまで変わってきたのだ。
今では障害を理由に通常の医療を拒まれる子どもはいない。
しかし、生命倫理が主に子の利益を考えるとしても、
それ以外に家族のこともコストのことも考えなければならない」と。

               ――――――

1つ、とても面白い場面があって、

会場の発言者から、ホスピスの問題が演題テーマに含まれていないと指摘があったのですが、
発言者が「私が気がついていないだけで演題に入っているんだったら謝りますが」と言った瞬間、
司会のDiekemaが早口に「テーマには入っています、演題が隠してあるだけです(会場、笑)」。
その後すぐに攻勢に転じた彼は、
この後のプログラムの誰と誰がホスピス・パリアティブケアに触れるか、まくしたてるのですが、
「ああ、これはきっと天性なんだなぁ……」と感じ入った場面でした。

       
               ------


講演内容からしてもパネルでの発言からしても
、FostとParisはいわば「コスト重視の切り捨て」志向、
それに対してWilfondと Magnusはもう少し慎重な姿勢かと思われます。

またFostとParisが医療の専門性という高みから他の人間を見下す意識をチラつかせていることと、
それぞれ講演でも独善的で悪趣味なジョークを多発していたこととは重なるような気がします。

一方、WilfondとMagnusにはそうした派手なパフォーマンスはありませんでした。

なにか、「粗雑・乱暴VS慎重・丁寧」といった対比が際立って感じられる
13日午前のプログラムでした。

……というか、やはり何より際立っていたのは、Fostのゴーマン。
2007.09.12 / Top↑
人体埋め込み用マイクロチップが普及しつつあり、緊急時の医療情報へのアクセスや認知症患者の徘徊追跡に利用が喧伝されているという話を以前紹介しましたが、その販売会社VerichipがらみのスキャンダルをAP通信(9月8日付け)が報じていました。

Verichip(商品名も同じ)には2005年にFDA(米食品医薬品局)の認可が下りています。ところがAP通信の記事によると、

①1990年代半ばの実験でチップの埋め込みによりマウスとラットに悪性腫瘍が生じたとの結果が報告されているにも関わらず、Verichipも認可に関わった政府筋もこの研究について一切言及しない。認可以前にFDAはこの研究結果を知っていたのかどうか、またどのような研究を検討したのかについて、APが行った度重なる問い合わせに対して、FDAは答えることを拒否している。

②Verichipの認可当時、FDAを管轄する保健福祉省の長官はTommy Thompsonだったが、2005年1月10日にVerichipに認可が下りた2週間後に閣僚ポストを辞任。Thompsonはその後5ヶ月も経たないうちにVerichipとその親会社であるApplied Digital Solutionsの役員に就任。報酬は現金とストックオプション。本人はVerichip認可のプロセスで何らかの役割を演じたことはないと関与を否定している。

③6月にはアメリカ医師会の倫理委員会が報告書を出して、体内にチップを埋め込むRFID(無線ICタグ)技術を持ち上げたばかり。しかし、医師会の倫理委員会はチップが動物に癌を生じさせたとの文献を検討していない。研究の存在すら知らなかったという。

Verichipは既に世界中で2000人に埋め込まれています。緊急時の医療情報へのアクセスを売りに、今後アメリカ国内に4500万人の市場をアテ込むVerichip側は「FDAが認可した商品が安全でないわけがない、何百万という家畜に埋め込まれているが大きな問題が報告されたことはない」と。


新興テクノロジーが倫理上の問題を指摘され、歯止めがなくなることを危ぶまれながらも、問答無用のハイスピードで前に前にと進んでいくのは、1つには、そこに莫大な利権が絡んでいるからなのですね。


       ―――――――――――――――


そういえば、去年から喧々諤々の論争が続いていた研究用のハイブリッド胚作りに、どうやらイギリスのHFEA(ヒト受精・胚機構)はGOサインを出した模様。

目に付いた時にニュースを拾い読みしただけの素人が大胆にも解説すると、牛の卵子からDNAを抜き取って、代わりに人間の細胞を注入する。そこに電気ショックを加えると細胞分裂が始まって99.9%が人間で0.1%が動物という組成の胚ができる。つまり牛の細胞を器として使って、中身はそっくり人間に入れ替えようという話なのですね。もちろん目的は実験利用に限定され、作成から14日以内に壊されることになっています。

これもまた素人の聞きかじり的理解なのですが、人間の胚を使うES細胞には倫理上の問題があって量産できないことから、実験用のES細胞の不足を補うための苦肉の策として考えられたことじゃないか、と。だから、「ハイブリッド胚の実験利用が可能になれば、アルツハイマーやパーキンソンなど、現在治療法が見つかっていない病気への光明になる」と、これをやりたいイギリスの研究者たちは、ES細胞研究に政府の助成金がほしいアメリカの研究者と同じことをしきりに説く。(もっと別の狙い・目的があるのかもしれませんが。)

研究者からそういう要望が出た時には、人間存在の尊厳を侵すものだとイギリスの世論はいっせいに反発。それを受けて政府も去年の白書では否定的だったのに、その後ニュースにこの話題が登場するたびに徐々にニュアンスが変わり、風向きが変わり、ついにGOサイン。

ここには莫大な利権だけでなく、もう1つ国際的な競争における国家の威信とかも絡んでいるのでしょうか。やっぱり。

(詳しいハイブリッド胚作成の手順については、以下のBBCのサイトに動画があります。)

2007.09.11 / Top↑
前回のエントリーで、植物状態の人の体を臓器移植や人体実験に使う道を開こうと、死の再定義が試みられているとする記事を紹介しました。

筆者のWesley J. Smithは“アシュリー療法”についてもNational Review Onlineというサイトに非常に優れた論評An Ethically Unsound “Therapy”:Emotions and motives to the side, this radical procedure is unjustifiable.(2007年2月8日)を書いています。

私も当時発表された論考・記事をすべて把握しているわけではありませんが、少なくとも一定期間に目に付いたものを手当たり次第に読んだ相当数の文章の中では、最も優れていたものの1つでした。なによりもSmithは、他では見られない指摘と提言をしています。私が特に目を引かれたのは、以下の論点。

・アシュリー療法論争では、まず情緒を排除して問題を考えるべきである。アシュリーのおかれた状況や親の動機を巡るセンチメンタリズムを排して、何が行われたのか、それは何故なのかを検討するべきである。

(当ブログの前半で私が試みたのも、この2点に「アシュリーはどのような子どもなのか」を加えた3点について、直接当事者の資料から事実を確立する作業でした。詳しくは「事実関係の整理」の書庫を。)

・その上で、当人の障害と親の動機は、果たして通常であれば明らかに虐待であるはずの行為を医師の行う正当な医療行為に変えるものかどうか。

・その際、重要なのは「なぜ」よりも「なに」が行われたかということ。

・医師らの論文がこのたびの医療処置について「前例がない」、「目新しい」、「リスクも効果も推測するしかない」などと書いていることから、アシュリーに行われたのは非倫理的な実験である可能性がある。

【追記】この点については、当ブログでも 詳しく検証しています。

・この問題は、親の決定権や一病院の倫理委員会に任されて済むような簡単な問題ではなく、倫理上の問題点が充分に検証されるまでは他児への適用をストップすべきである。

・その上で、専門家の特別委員会か政府の機関、またはその両方がこのたびの事件の調査を独立して行うべきである。

      ―――――――――――――――――――――――


アシュリーのことなど誰もが忘れてしまったかのように思えるこの頃、1月2月のあの騒ぎは何だったのだろう……と時に考えます。

しかし、Smithが指摘しているように、“アシュリー療法”論争ではセンチメンタリズムが大きな役割を果たしたのは事実です。そして当ブログでの検証から考えると、それは恐らく子ども病院の医師らが事実を隠蔽するために使った煙幕であったと思われます。その煙幕が成功し、うやむやのうちに多くの障害者・病者・高齢者にとって恐ろしい前例が作られてしまったのかもしれない……。

それを考えると、いまだにお腹の底で憤りの種火がチロチロする──。
それは私が、よほど偏屈なのか──。
2007.09.10 / Top↑
シアトル子ども病院・生命倫理カンファレンスでのMagnus講演で、障害児の臓器移植に関する予備的コンセンサスが報告され、その策定に貢献した医師・学者の一覧もプレゼンの最後に紹介されました。その中にRobert Veatchの名前があるのを見て思い出した、去年の記事を。

Experimenting with live patients / Some experts think it’s OK to use vegetative human subjects
Wesley J. Smith (San Francisco Chronicle 2006年10月22日)

「生きた患者で実験 / 植物状態の人体利用OKと考える専門家も」というタイトルからして衝撃的ですが、冒頭、この記事が枕に使っているのは”Hunters of Dune”という新刊SF小説。“Hunter……”では、未来のバイオテクノロジストたちは死体からクローンを作っているのですが、そのブリーディング用“タンク”、実は植物状態の女性なのです。

しかし“Hunter……”を荒唐無稽なSFとばかり笑って済まされないのは、臓器提供者として、また動物の臓器を人間に移植する実験用に、意識のない患者を利用しようと提唱する動きが著名な生命倫理学者の中にあるから。近年、実際にthe Journal of Medical Ethicsにはそのような提言を行う論文が相次いでおり、そのために彼らはまず死の再定義によって、意識のない患者の dehumanizing(非人格化?)を試みている、とSmithは警告しています。

ジョージタウン大学の生命倫理学者Robert Veatchの主張
人間存在の本質は統合された心と体の存在であり……人間が法的、道徳的、また社会的意味を持って存在するためには、これら2つが存在しなければならない。植物状態と診断された人たちには意識がないと考えられるため、息をしている間に埋葬するのは単に美的でないという理由でしないだけで、それさえなければ埋葬しても構わない「息をする死体」に過ぎない。

ベルギーのAn Ravelingienらの主張
もしも永続的植物状態を死とみなすことになれば、そうなる以前に本人が同意さえしていれば、死体での実験と同じ条件での実験利用も合法である。永続的な植物状態を「患者」と呼ぶことはやめるべきだ。「患者」と呼ぶと「生きている死体」を誤って人格化してしまい、議論の妨げとなる。

英国のHeather Draperの主張
永続的植物状態の人はまだ生きていると個人的には考える。しかし、だからといって、そういう状態の人を動物臓器の人間への移植実験に利用していけないわけではない。同意能力のあるうちに、同意能力をなくした場合は研究に参加すると決めておくことにすれば問題はない。植物状態やそれに近い状態で何年も生きるよりも、研究に参加して他者を助ける方が間違いなく良い生き方だろう。

         ――――――――――

一番気に入らないのは、「植物状態やそれに近い状態で生きるより実験利用で人様の役に立った方が良い生き方だ」という部分。生命倫理学者が人の生き方の良し悪しを云々することはない、余計なお世話だ、と思う。

しかも、この中の「それに近い状態」が気になります。原文ではother less-compromised state。厳密にいうと「その他、植物状態ほどには能力が失われていない状態」でしょうか。Draperはめでたく植物状態を死と定義できた暁には、次には植物状態ほどではない状態(これは意識がある状態のことではないでしょうか?)にも死の定義を拡大しようと考えているのでしょう。

移植臓器は決定的に不足しています。このバイオテク・ナノテク時代、人体実験に「生きた死体」が使えればどんなに研究が進むかと夢見る人たちも沢山いることでしょう。(「生きた死体」はES細胞の倫理的ジレンマも解消するのでは……。)社会のニーズが増大すれば、死の定義の線引きはさらに軽度な障害像に向かって移動していくのではないでしょうか?

そういえば、アシュリー事件が議論された1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、中途障害者のJoni Tadaが言っていましたっけ。「忘れないでほしいのだけど、社会というのは、適切なケアの代わりに健康な臓器を摘出してコストが削減できるとなったら、やるんですよ。機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆の方に向かうのだから

それにしても生命倫理って、実は社会のニーズを先読みし、それに都合のいい理屈をひねり出す錬金術だった──?
2007.09.10 / Top↑
Magnusは講演の中でルシール・パッカード子ども病院(LPCH)での事例を3つ紹介します。

ケース1
10歳。Alagille Syndrome。神経発達障害(NDD)は重度。四肢マヒ。肝機能障害のほかにも臓器に問題がある。母親は知識のある人で、子の命を延ばすためにもQOL向上のためにも移植を希望、既に3箇所で却下されてLPCHに来た。

親の面接を行ったところ、子どもは親を認識しており、意思表示や親とのやり取りが出来ると母親が主張。その後、入院と外来で6ヶ月に渡って子どもを観察。家での様子をビデオに撮ってもらい母親と一緒に確認したが、子どもは無反応だった。

ケース2
10歳。Wolf Hirschhorm Syndrome。focal glomerulonephritis。重度の知的障害。言葉はない。痙攣発作。筋肉の発達不良。腎臓病末期。親は透析と移植を希望。

親の面接では、子は親を認識しており意思表示もあると主張。その後3ヶ月間、入院と外来で子どもを観察したところ、確かに一定の意思表示や反応が見られた。

ケース3
13歳。alpha-1 antitrypsin deficiency。肝機能低下。その他の臓器に問題はない。Fragile X SyndromeでIQは50。部分参加で学校にも通学。法定代理人は治療の継続と、できれば移植が受けられないかと病院の判断を求めた。


これらについてLPCHの倫理委員会は,

・ケース1については意見が分かれた。
・ケース2については概ねYes。
・ケース3については明らかにYes。
・無脳症についてはNo。

そこで価値観がぶつかるのは、以下の2点。

・NDDを判断に含めるのは道徳的に妥当なのか?
・臓器は決定的に不足している。これまでこのカンファレンスも論じられてきたコストの問題とはまた違い、いわば災害時のトリアージと同じ。使える臓器を最大限に生かすには?

そこでLPCHは、神経発達障害児を臓器移植の候補とする判断を巡るコンセンサスを模索すべく、コンセンサス・カンファレンスを組織して検討し、以下のような予備的コンセンサスを作成。

・親が望めば、どの子も評価・検討をしてもらえること。
・すべての決定はケース・バイ・ケース原則にて。
・評価のプロセスには、熟練した発達の専門家によるアセスメントが必ず含まれること。
・リストに挙げるかどうかの判断に発達の専門家が加わること。
・永続的に意識のない子どもは対象としない。
・軽度または中等度のNDDはそれ自体では、否定的な指標とはならない。
・「利益対負担」の判断からリストに載せない判断をする場合には、パリアティブ・ケアが必要。
・決定プロセスの透明性が必要。
・NDDの移植アウトカムについて、より良いデータが残される必要がある。
・親と医師のコンフリクト対応のため、不服申し立てが出来る機構が考えられなければならない。



注目したいのは、Magnusが上記のコンセンサスを説明するにあたって、特に発達の専門家によるアセスメントの重要性を強調していたこと。

実際に上記のケースに関わった立場から、Magnusはケース1とケース2の子どもは遠くから見ている限りは同じ状態に見える、と言います。ところが発達の専門家の視点を通すことによって、一人ひとりの子どもの状態がクリアに見えてくる。そこで初めて、この2人の子どもの状態が実は非常に違っていることが分かるのだ、と。

これは当ブログで考え続けている知的障害児に対する「どうせ何もわからない」ステレオタイプの問題と関連する、極めて重要な指摘ではないでしょうか。


     ――――――――――――――


もう1つ、注目したいのは決定プロセスの透明性が挙げられていること。

興味深いことに、この予備的コンセンサスに貢献した生命倫理学者の中には、Diekemaの名前も入っています。アシュリー療法の実施決定に至るプロセスについて、彼の中に忸怩たる思いというのは、ないのかなぁ……。

ちなみに、このコンセンサスに貢献した人として名前が挙がっているのは、アシュリー療法関連ではCaplan, Feudtner(Gunther&Diekema論文掲載ジャーナルの編者)、Diekema, Frader, Ross, Wilfond。
(Fostは入っていません。)

それ以外の名前を姓だけ挙げておくと、Kon, Kodish, Fox, Nelson(Robert), Nelson(Larry), Truog, Youngner, Veatch, Goldworth, Wayman, Richards, Collier, Sandborg。
2007.09.08 / Top↑
シアトル子ども病院トルーマン・カッツ生命倫理センター主催の生命倫理カンファレンス第1日目午前の最後の講演。

タイトルは、「発達に遅れのある子どもを臓器移植の候補者リストに載せるべきか?」 

David Magnusはスタンフォード大学の小児科準教授、スタンフォード生物医学倫理センターのディレクター。スタンフォード大学とルシール・パッカード子ども病院(LPCH)倫理委員会の委員長。

Magnusはまず、神経発達障害のある子どもを臓器移植の候補リストに加えるかどうかの判断を巡る現状分析と問題提起を行います。

データ自体が少ないので、今後もっと調査が必要だが、既存の調査データによると、移植候補として登録するかどうかの判断の際に、子どもの神経発達状態を考慮するかどうかについては、always というところから never というところまで対応は様々。

神経発達遅滞(NDD)の程度で見ても、軽度や中等度でも判断の考慮に含めるという病院もある。自分で食べられるかどうかを基準にしているというチームもある。NDDを理由にリストに載らない子どもがいることは事実。

そこで問題になるのは、その判断に正当な医学上の理由があるのか、それともむしろ「利益vs負担」の問題なのかという点。(Magnus は benefit と burden という用語を使っています。)

医学上の理由という点では、腎臓移植のみでサンプル数も少ないが調査がある。その調査によると、知的障害児での移植のアウトカム(生存率)は健常児とほぼ同じとの結果が出ている。

NDDを移植候補リストに載せない医学上の理由とするには、もっと研究が必要だろう。

この後、Magnusは実際の事例を挙げてLPCHでの判断プロセスを紹介。それに続いてLPCHがコンセンサス委員会を組織し、多くの生命倫理学者の寄与を得て作った予備的コンセンサスを紹介します。

(続)
2007.09.08 / Top↑
「アシュリーには家族が認識できていると両親は思うが、確信は持てない」ということについて、考えてみたいのですが、

DiekemaやFost、Dvorsky、Hughesを初めとしSingerも含めて、「知的機能に障害がある」ということに何らかの偏見と予見がある人たちは、上のような両親の証言を聞けば、「分かっているように思う」という両親の受け止めの部分はすっとばして、「アシュリーには家族すら認識できない」または「家族が認識できているかどうかすら確信できない」と短絡するかもしれません。

しかし、「分かっている」と証明できないからといって、それが「分かっていない」ことの証明にはならないのです。認知能力はあっても、表出能力が低いために分かっていることを表現できないということもあります。あるいは、意思表示はしているのだけれども表出能力が限られているために、その人が発する信号は微弱なものとなり、細やかな感性の人でなければ受け止めることができない、先入観があったり粗雑な感性しか持たない人は気づかない、ということもあるでしょう。

そこで紹介したいのは、ICUで急性期の作業療法に携わるOTさんに聞いた話。

橋出血で救急搬送されてきた女性。38歳。意識レベルはJCS(Japan Coma Scale)3桁で手術は困難。医師は「植物状態です」と家族に告げた。発症後4日目に担当した彼女は、この女性が右足だけはかろうじて自分の意思で蹴ることができるのに気づく。それによってYes, Noの意思疎通が可能となった。この女性はその後順調に回復した時に、医師が植物状態だと告げた後に自分の枕元で行われた家族の会話を鮮明に記憶していた。

このOTさんはユニークな人で、患者の覚醒状態を探るのに、マヒしていない方の手に日常生活で触っているものを握らせてみるといいます。例えば鉛筆。いつもの握り方をすれば、鉛筆だと分かっていることが確認できます。家族から聞いてパチンコ好きの人だと分かれば、パチンコの玉を握らせてみる。懐かしそうに握りこむ。現金の手触りに顕著に反応する人もいるそうです(衛生面から最近はやっていないとのこと)。

上記の橋出血の女性には幼い子どもがあったので、子どもの声を吹き込んだテープを聞かせてみた時に、最も豊かな反応を見せたといいます。「植物状態」だと医師が判断した患者が、です。

自分が仮に脳卒中を起こして「植物状態」だと診断され、もしもその病院のスタッフがみんな「どうせ、この人は何も分からない」と決め付けてしまったと想像してみたら、どうでしょう。「もしかしたら分かっているかもしれない」と考えて鉛筆を握らせてみてくれる人、「Yesだったら右足を蹴ってみて」と言ってみてくれる人が1人もいなかったならば、分かっていることを外の世界に知らせるすべがないまま「植物状態」とされるのです。そのうち「無益な治療」議論が始まってしまうかもしれません。

「分かっている」ということも「分かっていない」ということも証明できない場合には、私たちは「もしかしたら分かっているかもしれない」という前提に立つべきなのではないでしょうか。
2007.09.05 / Top↑
ここでも私が最も気になるのは、
アシュリーの障害像をSingerがどこまで正しく理解してこの文章を書いたかという点。

この論評の冒頭で彼が説明しているアシュリーの状態とは、

アシュリーは9歳。しかし精神年齢は3ヶ月児相当以上には発達していない。歩くことも話すことも、おもちゃを持つことも寝返りを打つこともできない。両親はアシュリーが自分たちのことを認識しているかどうか確信できない。正常な寿命と思われるが、知的障害の改善はありえない。

もしもSingerが両親のブログに書かれているアシュリーの姿をきちんと全部読んだのだとすれば、
「実践の倫理」に見られるような彼の「知的障害」に対する先入観が邪魔をして、
書いてある通りに読み取れなかったか、
または自分の主張にとって都合よい記述だけを意図的に拾ったかのどちらかでしょう。

両親はアシュリーが「自分たちのことを認識していると思うが確信はない」と書いているのであり、
「認識できているかどうか確信できない」とはニュアンスが違います。

また、他にもSingerが論評で触れていないこととして、
アシュリーは「家族の声を聞くと落ち着く」、
「家族の声かけにはよく微笑み、喜びを表す」ともあります。
熱心にテレビを見ているように思われることもあります。
音楽が大好きで、気に入った音楽を聴くと声を出して足をけり、
手で踊るような指揮を取るような動きを見せてはしゃぐといいます。
家族が「アシュリーのBF」と呼んでいるほどお気に入りのオペラ歌手もいます。

(詳細は「アシュリーはどのような子なのか」のエントリーを。)

このようなアシュリーは、本当に犬や猫よりもメンタルレベルが低いでしょうか。

「知能の低さ」だけでアシュリーを犬や猫以下だと主張するために、
Singerはアシュリーの情緒の豊かさについては敢えて論評から除外したのではないでしょうか。

〔注〕このブログでは、

アシュリーの知的発達段階が「生後3ヶ月または6ヶ月」とされていることの根拠のなさと、
彼女の知的レベルをめぐって主治医らの発言がコロコロ変わっていることの不可思議を指摘しています。
また、Anne McDonaldの興味深い指摘もあります。
2007.09.05 / Top↑
Peter Singerの「実践の倫理」に触れたついでに、1月26日に彼がニューヨークタイムズに書いた”アシュリー療法“論争に関する論評 A Convenient Truthについて。

彼はこの文章の中で、主に両親と担当医への批判から3つの論点を挙げて、それに反論しています。

①“アシュリー療法”は自然に逆らうものである。

 この批判に対して、Singerが言っているのは2点。まずは医療はもともと自然に逆らうものだという主張で、これはアシュリーの両親、担当医、擁護に登場した奇怪な面々が言っていることと全く同じ。次に、アシュリーのような子どもは人類の歴史においては長い間、狼やジャッカルの餌食にされてきたのであり、自然に任せろというなら、本来はそれこそが自然な宿命かもしれぬ、と。

②歯止めがなくなるという「すべり坂」論。

 倫理委員会がこれらの処置が本人の最善の利益だと判断した以上、倫理委に提出されたエビデンスを聞いていない者には反論はできない。最善の利益原則を使うのが正しく、その原則に照らしあわせて判断する限り、他の障害児にも適用されて悪いことはない。「すべり坂」をいうなら、多くのADHD児へのリタリン使用の方が小数の重症児への成長抑制よりも、よほどリスクが大きい。

③アシュリーの尊厳を侵している。

これに対してSingerがいうのは、「生後3ヶ月相当の乳児に尊厳など、ない」との主張。具体的には、「親として祖父として、私は3ヶ月の赤ん坊は可愛いと思うが尊厳は感じない」、「我々は犬や猫の尊厳を云々しないが、犬や猫の方が人間の赤ん坊よりもはるかに高い知的なレベルで機能していることは明らかだ」、「アシュリーの生活で大切なのは、彼女が苦しまないこと、それから楽しむことが可能なものを楽しめること」と。

①の反論での「こういう子はかつては狼やジャッカルの餌食にされてきた」というのは、子ども病院のカンファレンスでFostが全く同じことを言っていました。(パネルの内容をまとめたら改めてアップします。)

②このブログでは倫理委員会の議論そのものが事実上不在だったとの仮説を検証してきました。(詳しくは「倫理委を巡る不思議」や「当面のむすび」の書庫を参照してください。)

「最善の利益」という概念がいかに曖昧であるかについては、このブログで取り上げただけでも多くの人が認めるところのように思えるのですが。

「リタリンの使用」もSingerに限らず非常によく反論に使われます。しかし、それはむしろリタリンのスマートドラッグとしての安易な使用の是非を別個に検討すべきだろうという話であって、Aの危険性を指摘したら、それでBの危険性が打ち消されるものではないでしょう。そういえばFostも同じ論法を使っていましたっけ。「ステロイドに健康リスクがあると言うけど、それをいうならサッカーのヘディングだってボクシングだって、体に悪いじゃないか」って。

③の「犬や猫ほどの知的レベルにも達していないアシュリーに尊厳などない」というのが、いかにもSingerというか、①と②の反論は他にも同じことを言っている人がいるので、恐らくNYタイムズが彼を引っ張り出したのは、こういうことを書かせたかったんじゃないでしょうか。しかし、生後3ヶ月の赤ん坊に親として祖父として尊厳を感じないのは、彼の人間としての感性の貧しさを証明する以外に、何も証明などしていないのでは?
2007.09.04 / Top↑
Peter Singerが“アシュリー療法”論争に出てきたから興味を持ったというだけで、
私はSingerについて云々できるほどの何も知ってはいないのですが、
だから、これは本当に素朴な疑問に過ぎないのですが、
Singerの「実践の倫理(新版)」を読んで、どうしても分からないのは、

この人がいとも簡単に繰り返す「重度の知的障害」というのは、
いったい具体的にはどういう障害像のことなのか……?

どうしても気になる箇所を挙げてみると、

重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間の孤児を実験に使うことの是非を巡る議論によって、
動物実験では動物が不当に差別されているという主張を行う部分で、
重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」という表現の2行後に、
病院その他の施設にいる脳に損傷を受けた植物状態の多くの人間に比べれば、類人猿も、サルも、犬も、猫も、ネズミでさえ、もっと知的であり、自分たちの身に起こっていることをもっと多く意識しており、苦痛にももっと敏感であり、また他にも同様のことがある。(P.82)

「実践の倫理〔新版〕」
ピーター・シンガー著 山内友三郎+塚崎智監訳 昭和堂 1999

自己意識があるとか自立的であると見なされるという点では人間以外の多くの動物以下であるような、知能に障害を持つ人間がいることを思い出してほしい。(P.90)

知能に重度の障害のある人々には人間を他の動物から区別する特質が具わっていなくとも……以下略。(P.91)

知能に重度の障害のある人々を扱う場合に、人間という種に通常与えられている道徳上の身分もしくは権利をそのような人々にも与えるべきである」という主張……以下略。(P.91)

感覚することができ快苦を経験することはできるが、理性的でもなければ自意識も持ってはおらずそれゆえ人格ではないような存在が多くいる。私はこのような存在を意識ある存在と呼ぼう。人間以外の多くの動物はほとんど確実にこのグループに属する。新生児や知的障害者もまたこのグループに属する。(P.122)

私がわからないのは、
「知能に障害を持つ人間」と書き「知的障害者」と書くとき、
Singerの頭の中には一体どういう障害像の人が具体的には浮かんでいるのか、という点。

82ページで言えば、
「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」の障害像の
多様性と程度のグラデーションというのは非常に幅広く、
特定の障害像は浮かべにくいと思うのですが、
2行後に「脳に損傷を受けた植物状態の多くの人間」と書き、
1つの議論の流れを進めていくことを考えると、

この時Singerの頭の中では、

「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」=「植物状態の人間」

とイメージされていると思われるのですね。

しかし、
「植物状態」は「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」にあり得る障害像の中で
最も重篤なほんの一部に過ぎません。
他の引用部分でも同様。

論理のパズルのような文章を書きながら、
「知的障害者」という言葉の定義・意味にはこんなにも無頓着であることが、そもそも信じられない。
その無頓着さのまま「知的障害者は人格ではないような存在」だなどと主張し(P.122)、

いつのまにか
「知的障害者」を自分がイメージしている「植物状態かそれに近い状態」と無責任に重ねてしまう。

読みながら、
この人は一体どれくらい具体的な「知的障害者」の障害像というものを知っているのだろう……と、
とても疑問に感じるのです。

Singerが具体的な病名を出すのは、

「生命が悲惨なものであるために生きるに値しない」例として、重度の二分脊椎症、

「正常な子どもに比べてはるかに幸先はよくないことが予想されるが、生きるに値しないほどではない」例に、血友病、

「知的障害を持ち、その大半が一人で生活できるようにはなりえないが、幼い子どもたちと同様に楽しい人生を送ることができる」例に、ダウン症。

重度の二分脊椎について具体的な障害を述べている箇所では、
「脚や脊椎の多重奇形、腸や膀胱のコントロールが効かないなど、重度の障害」、
「知的障害が残る場合も」(P.243)と書かれています。

「知的障害」については、
その現われ方も程度も様々で障害像の可能性が限りなく無数にあることを念頭におけば
イメージのしようもないのですが、

ここで描かれている身体の「重度の障害」像をできる限り具体的に頭に描いてみてください。
それは本当に「生きるに値しない」ほど悲惨な障害像でしょうか。


Singerのいう「重症の障害」とか「重度の知的障害」とは、
現実の障害とは全くつながりのない、空疎な観念に過ぎないのでは?

しかし、ただの観念を弄びながら、
生身の子どもの命を「悲惨な生命」だとか「生きるに値する」とか「値しない」などと決め付けられても、
それは困るのですが……。

          
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そもそも、「理性的で」、「自己意識がある」のが人格の条件だというのですが、
じゃぁ一体「誰が」「どのように」それを判定するというのか。

だいたい、ある人の人生が「楽しい」かどうか、「生きるに値する」かどうかなんて、
本人の主観的な感じ方としてはありうるとしても、本人以外の誰にそんなことが言えるんだ?

少なくとも、障害というものの現実をこれほど知らないアンタに言われたくはない、
と多くの障害者は言うと思うな。
2007.09.03 / Top↑
先日、ある本を読んでいて、びっくりした箇所。

認知症患者の心の状態を考えれば、道徳観や倫理観をもって何かに従事するのが不可能なのは明らかだ。彼らは世界とのつながりが断たれている。人間であるための条件が、基本的な知的能力テストに合格することだとしたら、残酷な見方ではあるが、彼らはもはや私たちの一員ですらない。だが、みんなそうした考えを必死に打ち消そうとする。認知症の患者を介護していると、患者の意識が明晰になる瞬間を何度となく目にする。介護者にとってそのときの様子は忘れがたく、繰り返し思い浮かべることが、望みなくつらい介護の日々における心の支えとなっている。しかしながら、そうした瞬間が訪れたと思うのはたぶん錯覚なのだ。患者が何か自分から言葉を発したのを、意識の明晰さと解釈しているだけで、本当は何の実体もないのである。(P.56)

「脳のなかの倫理――脳倫理学序説」
マイケル・ガザニガ、梶山あゆみ訳、紀伊国屋書店 2006

著者のマイケル・S・ガザニガは、ダートマス大学、ディヴッド・T・マクラフリン特別教授で、同大学認知神経科学センター長。左脳と右脳の研究で世界的に知られる人だそうです。恐らく認知症の患者の脳については詳しいのでしょうが、“ある病気について”知っていることは“その病気の患者について”知っていることと、決して同じではないのですね。

認知症患者の医療や介護の専門家として日々真面目に仕事に取り組んでいる人が上の一説を読んだら、ガザニガの認知症に対する無知・認識不足には、憤りすら覚えるのではないでしょうか。ここに見られるのは、”アシュリー療法”論争で見られた「重症障害児」と「植物状態」の混同と同じ現象のように思います。

しかし、この後ガザニガは、「元気だった頃に自分がアルツハイマー病にかかったら命に関わる病気の治療は一切受けないとの文書に署名していた女性が、仮に治療可能な肺炎にかかったとした場合に、抗生剤を与えるかどうか」という問題を巡る生命倫理学者の論争を紹介します。

ロナルド・ドゥオーキンは本人の意思を尊重するという立場。
レベッカ・ドレッサーは、「その宣言をしたときには認知症になっても幸せに生きられるのを知らなかったのではないか、自分の認知能力が衰えたことが分からないのだから、彼女は今でも日々の暮らしや活動を楽しんでいるかもしれない」という。

そして、次のように書くのです。

右のような倫理学者の分析を目の当たりにすると、医学や科学の訓練を受けた者はいささか戸惑いを禁じえない。きっとドレッサーは神経科病棟を歩いたこともなければ、アルツハイマー病にかかった本物の患者を世話したこともなく、つぶさに観察したこともないのだろう。もしあれば、認知症の末期にある患者がほとんど何も認識していないことに確信がもてたはずだ。(P.59)

ドレッサーは確かに「本物の患者を世話したこともなく、つぶさに観察したこともない」のでしょう。しかし、ガザニガのあまりに短絡的な「認知症患者」像だって、ドレッサーと50歩100歩。

生命倫理だの医療倫理だの、ナントカ倫理だの、名称は何でもいいですが、こういう問題を議論する人に言いたい。

安易に最重度の人をステレオタイプに使うのは、あまりの無知・無責任ではないか。どんな病気にも障害にも、個別性・多様性があり、「非常に軽度」と「非常に重篤」の間には幅広いグラデーションが存在する。「認知症患者」といい「知的障害者」といい簡単に一くくりにする前に、自分は具体的にどういう障害像の人のことを言っているのか、自己点検してからモノを言ってはどうか。

それにしても、「人間であることの条件が、基本的な知的能力テストに合格することであるとしたら」などという乱暴な前提が、どうしてこんなに不用意に出てくるのでしょう? 


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ついでに、この本について。

著者はこの本で脳神経倫理学というものを提唱しており、脳神経倫理学というのは「病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野」なのだとか。

“アシュリー療法”論争に出てきていたHughesやDvorskyなどへの疑問から、トランスヒューマニスト(ポストヒューマンとかシンギュラリタリアンとかいうのも、要は同じ)たちの書いたものを少しずつ読んでみているところなのですが、あらゆるテクノロジーを駆使して人間の能力を強化し超人類を作るとか、テクノロジーで病気も貧困も老化も克服できて万人が幸福になるとか……。私には、かつて共産主義が描いたユートピアのテクノロジー版のように思え、「なんだかオメデタイ人たちだなぁ……」と、その人間観の浅薄さに絶句してしまうのですが、この本の著者であるガザニガは、そういう人たちと似たようなことを言いつつ、多少は彼らには見られない“知恵”を見せて一線を画しているかも。

結論としては「各分野の発展に任せて、やりたい人にはやらせればいい。人間ってそこまでバカじゃないから、大局的にはどこかでちゃんとバランスがとれるものだ」と、アダム・スミスの「神の手」みたいなことをテクノロジーについて主張している本のようだ……と、個人的には読みました。政府が介入することへの警戒感が非常に強いので、自分の専門分野の研究だけは邪魔されたくないというのがホンネなのかもしれませんが。
2007.09.02 / Top↑
7月のシアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスについては、“アシュリー療法”論争に関連した人の発言のみ、ちょっと覗いてみようと思っていたのですが、気まぐれに聞いてみたら、裁判所に対する医療界の不信・敵意の根深さを思わせる内容だったので、13日のFost講演の次に行われたJohn J. Parisの講演について。

John J. Paris はイエズス会の牧師であり、ボストン大の生命倫理学教授。講演タイトルはPhysician’s Refusal to Provide Life-prolonging Medical Interventions(医師による延命医療介入の提供拒否)。

Parisは、Fostが定義を試みることそのものが不毛だといったfutilityという用語を f-wordと称してタブー扱いすることで、講演の間ずっと、それを一種のジョークとして使います。それはそのまま、裁判所など無視しろといったFostの主張の暗喩でもあるわけで、Parisは何度も“Fost is right.“と繰り返すのです。彼の講演の主たる要旨はなんだったのかと振り返ると、裁判官への愚弄でしなかったようにすら思えます。

難しい事例で親と意見が対立し、裁判所に「治療を中止してもいいですか」なんて医師がお伺いを立てても、裁判所はこれまで一度も涙する母親にNOと言ったことなどない。彼らは医療のことなど何も知らない上に、頭にあるのは自分が責任をとるポジションに置かれたくないという一事のみ。だから医師の言うことを却下するのだ。

すると医師は上訴する。手続きには時間がかかる。本人の利益を代弁する法定代理人が選定される。代理人が本人のことを調べる時間もかかる。なんだかんだで数ヶ月だ。裁判官は、その間に当の子どもが死ぬのを待っている。そうすれば自分が責任を取らなくてよいから。

彼らに言わせれば “They don’t pay me enough to do that. (それほどの給料はもらってないから)”ということさ。連中が、呼吸器を止めてよいと認める決定を下して、家に帰って女房に「今日私は子どもを死なせたよ」なんて言えると思うか?

イギリスでは認める場合もあるが、アメリカには家族の意向に反して治療の停止を認めた裁判官はいない。しかし、何でもかんでも家族の言うままに治療するのが医療のあり方としてまともなのか?

「この子がノーマルになるって保証してくれますか? そうじゃなかったら何もしないで」という親だっている。親が求めているのは所詮ミラクルなのだ。しかし医師はミラクル・マンではない。

これまでの様々な事件を解説しつつ(有名な事件や“聞いたことがある”事件名が続出するのですが、知識不足と聞き取り能力不足から触れません)、結論はどうやら、テキサスのthe Futile Care Law の定めた手続き重視のやり方が賢明だ、と。

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Parisは講演の中で、Paul Ramseyが挙げた「死に行く患者への適切な対応」として(ソクラテスやヒポクラテスが言ってたことと同じだとも言いつつ)以下の3つの基本を紹介します。

1.苦痛を取り除くこと。
2.可能ならば死に向かうプロセスを逆行させること。
3.死に行く患者に治療を押し付けてはならない。

そして、3つ目の点について「要するに、効果のないことをするヤツはバカだということだ」と、またもジョークにします。

ちなみに、Paul Ramseyというのは、妊娠中にお腹の子どもが重症障害児である確率が高いと分かったら、「その瞬間から、その人の『子供をつくる権利』は、子供をつくらない義務もしくは、つくりたい子供の数を減らす義務に変わるのである(その人には単に自分のためだけに子供をつくる権利などまったくないという理由から)」との主張を持つ人物のようです。(この4行、立岩真也先生のサイトからのパクリです。)

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もう1つ、非常に気になったParisのジョーク。

「“最善の利益”というのは確かに非常に曖昧な用語だが、それでもどこかに私の祖母でも分かる、または黒人掃除婦でも分かる線の引き方というものがあろうじゃないか」

彼はそこで、どこかの医者が呼吸器をつけた患者の部屋にいたら黒人の掃除婦が入ってきて「ドクター、なんてことしてるんですか。もう死んでるのに」と言ったというエピソードを紹介、もう一度「だから、黒人掃除婦にでも分かる1線があるんだよ」と同じジョークを繰り返して笑いをとります。

Parisは演台を使わず、会場を歩き回りながら講演したので、彼の動きにつれて会場(さほど広くない)の聴衆の全体がほぼ見渡せました。このジョークで気づいたのですが、聴衆の中に黒人は私の見た限りでは見当たりませんでした。一人もしかしたらアラブ系かと思われる女性が見えましたが、それ以外は全員が白人だったように思います。アメリカ社会のデモグラフィックな縮図ではなかったというのは、シアトル子ども病院がそうなのか、生命倫理の業界というのがそうなのか、病院主催の生命倫理カンファレンスというものがそうなのか、私には全く見当もつきませんが、なんか、ちょっと、ヘンじゃないか……と。

 (それにしても、イエズス会ってカトリックでしたよね……?)
2007.09.01 / Top↑