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認知症介護の質のスタンダードを発表

英国では、2012年3月に制定された医療・社会ケア法(2012年)により、国立医療技術評価機構NICEに社会ケアが達成すべき質のスタンダード(クオリティ・スタンダードQS)を示す責任が新たに課せられた。NICEは今年4月から各種QSを発表していく予定としていたが、その第一弾として4月3日に発表されたのは「QS30:認知症の人々の良い暮らしを支える質のスタンダード」だった。

既に2010年6月に医療と社会ケアの専門職に向けて出された「QS1:認知症」やその標準化のために作られたNICEの「認知症パスウェイ」と併せ、ケアの質を担保する説明責任を各地方の医療委員会に求めると同時に、現場のケア提供者に達成すべき水準を明確に示すもの。中心的なメッセージは、以下の10のステートメントで表わされている。

1. 自分や知っている人が認知症なのではと不安を感じている人々が、その不安について、また認知 症と確定診断されたらどういうことが起こるのかについて、専門的な知識と経験のある人と話し合うこ とができる。

2. 認知症の人々が、自分が受けるケアと支援についての選択と意思決定に加えられる。

3. 認知症の人々の環境が変わる際には、自分のニーズと選好についての検討に本人が参加する。

4. 認知症の人々が日中、自分の興味に合った余暇活動に参加することを選択できる。

5. 認知症の人々が友人や家族と会い続けることができると同時に、新たな人間関係を作ることがで きる。

6. 認知症の人々が心身の健康チェックを定期的に受けることができ、気にかかることがある時には医療専門職の診察を受けることができる。

7. 認知症の人々が自立生活を維持しやすく改造された家に住む。

8. 認知症の人々が自分の受けるサービスのデザイン、プラン、評価と実施に参加する機会を与えられ、それらの決定に関わる。

9. 認知症の人々が、自分たちの立場を代理する独立したアドボカシー(権利擁護・代弁)サービスの支援を受けることができる。

10. 認知症の人々が自分の住む地域に関わり、貢献し続けることができる。

NICE公式サイトの当該ページには、その他のガイダンスと併せて医療・社会ケアが2013―14年に達成すべきアウトカムの枠組みの例が挙げられている。目を通してみると、介護者への言及が非常に多いことが印象的だ。

例えば、成人社会ケアの領域では、「サービス利用者が各自のニーズに応じてどんなサービスをどのようにいつ利用するかを自分で決められる」ことが目標の1つとして挙げられているが、それを測る指標として「サービス利用者が日々の生活を自分でコントロールできる割合」、具体的には「介護者が自分の介護役割と自分が希望する生活の質とのバランスを取ることができる」。また「介護者の報告による生活の質」という指標は、具体的には「希望すれば仕事を見つけることができ、家族生活と社会生活を維持しつつ地域生活を継続することができて、孤独や孤立を避けることができる」こと。さらに「介護者がケアのプロセスを通じて対等なパートナーとして尊重されていると感じる」という目標設定もある。その指標としては「自分が介護している人についての議論に含められ、相談を受けたと報告する介護者の割合」、「支援に関する情報が簡単に見つかったと報告するサービス利用者と介護者の割合」など。

この辺り、さすがに介護者支援の先端を行く英国だと感じ入るのだけれど、一方、各種報道によると、連立政権は思い切った社会保障の削減策に踏み切っており、各地方自治体は介護者支援サービスを縮小し始めている。こうした目標設定と予算削減の板挟みになって結局は現場が疲弊するばかり……という顛末にならなければよいのだが。

医療と介護の消費者団体Healthwatchが誕生

英国では去年10月に、医療と社会ケアに関する消費者の権利擁護団体としてHealthwatchという全国組織が誕生している。全国152のHealthwatchネットワークを統括するのは、長年Which?で消費者運動に携わってきたAnna Bradley氏。Which?といえば、11年に役者を雇って高齢者施設に送りこみ、劣悪ケアの実態を暴いた、あっぱれな潜入消費者調査が記憶に新しい(11年6月号で紹介)。NICEのSQもHealthwatchを「消費者チャンピオン」として支持するという。今後の活躍が楽しみだ。

連載「世界の介護と医療の情報を読む」
『介護保険情報』2013年6月号
2013.07.11 / Top↑
医療の中にある、いかんともしがたい「届かなさ」について
先週、あるところにちょっと書いてから、ずっとそのことについて
というか、その「届かなさ」を超えるすべについて
考えるともなく考えていた。

そのことが、今朝のコメントを機に直前エントリーを書いた
背景にあるのだろうと思うのだけれど、

そのエントリーの原稿を午前中に書いて、
午後、数日前からちょっとずつ読み進んでいる本を手に取ったら、

そこにも、その「届かなさ」の典型のような、
痛切な体験が描かれていた。

その本は、まだほとんど読めていないけれど、
『患者追放 - 行き場を失う老人たち』
向井承子 筑摩書房 2003

著者の母親が入院中に急変した時の医師との会話。

 主治医ではない見知らぬ四○歳くらいの外科医が反論も質問も許さないような緊迫した口調で説明を始めた。

「いま、この人の体内になにか大変な異常が発生しているようです。腹膜に穴があいて糞便がもれた可能性もあります。即刻、手術をします。署名捺印していただけますか?」

……(中略)……

「九○歳の大手術ですが、その後、どうなるのですか?」

出端をくじかれたような表情が医師に見てとれた。とたんに、

「この人、歩いて帰れると思っているんですか? ぴんぴんしていたんですか? 生死は五分五分です。手術適応ですよ」

「でも、生きてても、今よりもっと悪くなるんでしょう?」

 たったいまこの時でさえ三界に家なくさすらう日々である。これ以上重くなったらだれがどう責任をとれるのか。いったい母は幸せになれるのか。疲れきってコントロールを失った私の口から反射的に言葉が飛び出す。医師は苦々しげな口調で言い切った。

「手術拒否ですか。でも、尊厳死の対象ではありませんよ。僕は安楽死は手伝いません。三分以内に判をついて下さい」
(p. 28-29)


手術後に出てきた別の、若い誠実そうな医師は
「ぼく自身は、この人への手術は正しかったとは思えないのですが」と言い、

著者の母親は結局、術後に目覚めないまま、
誰の目にも明らかな生から死への転換の表情が現われて、
家族みんなの納得を待って著者が「もういいです」といって、
生命維持装置が切られた。

過剰医療や尊厳死や安楽死を云々して
患者や家族に向かって「死に方くらい決めておけ」と恫喝する前に、

患者や家族が
真に「自己決定」や「自己選択」と呼べる意思決定ができるためには、

本当はどうにかしなければならないのは、
医療の中にある、この、いかんともしがたい「届かなさ」の方なんじゃないんだろうか……、

……という思いが、頭の中を最近グルグルし続けている。
2013.07.01 / Top↑
今朝、こちらのエントリーのコメント欄で、
患者が医療の「届かなさ」に挑むことに要する多大な勇気とエネルギーについて
ちょっと触れたら、

25年もの時の向こうから、ある情景と
そこにあったヒリヒリするような痛みの記憶が
思いがけない鮮烈さで蘇ってきたので、

いつか書きたいと思いながら、ずっと書けずにきた
その体験のことを書いてみたい。

        ――――――――

ミュウは生まれるなりNICUの保育器に入って、
生後3日目には胃穿孔の手術を受け、
人工呼吸器と連日の交換輸血とで肺炎と敗血症と闘う日が長く続いた。

NICUは産婦人科病棟の入り口にあり、
親の面会があると廊下側の大きな窓のブラインドが上がって
中が見える仕組みになっていた。

私たち夫婦も、ミュウがNICUに入って数日後からはブラインドを上げて
廊下側に移動してもらった保育器の中のミュウと「面会」させてもらったけれど、

出産後の私はまだ産婦人科病棟に入院中なものだから、
つい何度もNICUに足が向いた。

とはいえ、夫婦そろってもいないのに、
そう何度も「面会」を求める勇気もなくて、
昼間は受付の小さな小窓から中を覗いてみたり、
なんとなく立ち去りがたく、その辺りをホバリングしていたりするのが
産後の入院中の私の日課となった。

もう一つ、出産後に私に課された日課があった。

それは搾乳。

ミュウの状態が安定して飲めるようになる日に備えて
母乳を絞って冷凍しておくために、最初は出ないかもしれないけれど、
毎日決まった時間ごとに授乳室にいって搾乳しなさい、と
出産の翌日だったかに師長さんから指示された。

それで、指示された時間に授乳室に行くと、
今思えば私が「だいたい5分から10分前行動の人」だからだったのだけれど、
授乳室は無人だった。

隣の新生児室にいた看護師さんに声をかけると、
まだ時間には少し早かったからか、ちょっと迷惑そうな顔をしながらも出てきて
部屋の真ん中にある応接セットのソファーで搾乳の仕方を教えてくれた。

当然、すぐにうまく搾れるはずもないのだけれど、
練習しているうちに出るようになるから頑張れと言いおいて看護師さんが去った後で、
出もしない搾乳の努力をしていると、

いきなり廊下に賑やかなさんざめきが生じたと思うや、
ドアを開けて、ネグリジェ姿の若い女性たちが入ってきた。

考えてみれば、指定されたのは「授乳の時間」なのであり、
ここは「授乳室」なのだから当たり前のことなのだけれど、
私が入院していた6人部屋の他の5人はみんな婦人科の患者さんたちだったし
(私はその時まで気付かなかったのだけど、それは病院側の配慮だったのだろうと思う)
すぐそこで死にかけている我が子のことで頭がいっぱいだったので、

この病院でここ数日の間にそれほど多くの子どもが産まれていることも
子どもというのは普通はそんなふうに正常に生まれてくるものなのだということも
頭の片隅にちらりと浮かんだこともなかった。

わらわらと入ってきた新米ママたちは
みんな顔なじみの気安さで笑いさんざめきながら
新生児室から我が子を受け取っては、勝手知った授乳室で
赤ん坊の体重を量っては、増えたの減ったのとはしゃいだ声で賑やかにしゃべり、
てんでに応接セットや周辺の思い思いの場所に陣取り、
既に堂々の無造作さで胸をはだけて赤ん坊に吸いつかせる。
飲ませながら、また互いにそれぞれの子どもの様子を話題に騒々しくさんざめく。

私はあっという間に、
出産後の幸福と誇りではち切れそうなママたちに、ぐるりと取り囲まれてしまった。

本当はどうだったのか分からないけれど、
その女性たちはみんな、とても若く見えた。
彼女たちの真ん中で、一人だけほとんど空っぽの搾乳器を手に座っている自分が
ものすごい年寄りであるみたいに感じられた。

一人の時にはそんなには思わなかったのに、
急に自分だけがみすぼらしく薄汚い行為をしているように思えて、

無意識のうちにうつむき、肩をすぼめて胸を隠そうとしている自分を意識すると、
みじめさで胸がぎゅうっと締め付けられた。

「搾乳の練習」を続ける気力なんか、もうカケラも残っていないのだけれど、
中止して出ていくには、立ちあがり、このヒバリのような集団の中を横断して
新生児室へ行き、また看護師さんに声をかけなければならない。

そんな勇気もなく、ヒバリたちに取り囲まれた真ん中で、
じっとうつむいて身体を固くすくめたまま、
搾乳に熱中しているフリをして耐えた。

ママたちは授乳後にもう一度我が子の体重を測って記録すると、
子どもを新生児室に戻してから、部屋を出ていく。
一人出ていくたびに、ちょっとずつ呼吸がラクになった。

再び無人に戻っても、授乳室には薄桃色のざわめきの気配がまだ充満していて、
その中に一人で座ったまま、これを1日に何度も繰り返すのか……と呆然とした。

次の指定時間には20分ほど早く行った。

新生児室にいた看護師にはとても露骨に迷惑そうな顔をされたけれど、
ヒバリの集団が入ってくるのとちょうど入れ違いの形で部屋を出ることができた。

3度目は30分前に行った。

そして、「またか」という顔で出てきた看護師に、
「あの、ちょっと、お願いがあるんですけど」と切り出してみた。

それは、口にするには沢山の勇気が必要な言葉だった。

その勇気は、露骨に迷惑顔の看護師さんに切りだすことにも必要だったけれど、
一番たくさん必要だったのは、自分の弱さ、情けなさを自分で認めて、
それを他人の前に正直に晒すこと、その痛みを乗り越えるための勇気だったと思う。

私の子どもは生まれてきたけれど、
私の手元に来ることはできません。
今NICUで死にそうになっています。
この子のために搾乳はもちろんしてやりたいけれど、
無事に子どもを産んで、我が子を胸に抱いて授乳できるお母さんたちと同じ空間で、
その作業をすることは私には今ちょっと辛いです。
だから、忙しい看護師さんに迷惑をかけるのは申し訳ないんだけれども
今度から決められた時間の30分前に来させてもらえないでしょうか。

それを口にすることは私にとって
ものすごく屈辱的で、難しく、痛いことだった。

ただ、あの状況を繰り返すことにはもう耐えられなかったから、それなら、
涙ぐんだり感情的になったりせず、それを事実として淡々と伝えることで胸を張ろうと思った。

看護師さんは、一瞬、
それまで考えたこともなかったことに初めて気が付いたという顔をしたけれど、
余計なことは言わずに「いいですよ」と認めてくれた。

それまで暗くふさいでいた気持ちがそれで解放されて、
全身からふうっと力が抜け、ラクになった。
勇気を出してよかった、と思った。

20年以上経った今、勇気を出してよかった、と
あの時のことを振り返ると、やっぱり思う。

産まれたばかりの我が子が目の前で死に瀕しているという事態を
受け止めるだけで精いっぱいだった当時の私自身の精神衛生のためにも
それはもちろん良かったのだけれど、

その後の年月の間にいろんなことを考えながら今に至った私には、

医療の中にどうしても付きまとう、ある種の冷淡とか無関心を
変えていけるものが、もしもあるとしたら、その1つは、
これ以上は耐えられない、というギリギリのところから患者が
なけなしの勇気を振り絞って発する率直な声なんじゃないか、という気がするから。

そして、そんな患者の声には、
医療の中にある、いかんともしがたい「届かなさ」を超えてどこかに「届く」、
案外に大きな力があるんじゃないか、

それなら、その勇気こそが
医療の中にある冷淡や無関心を変えていける
希望でもあるんじゃないか、と思いたいから――。

だから、今この時にも日本中のあちこちの病院の片隅で、
目の前にある医療の冷淡や無関心や「届かなさ」に今にもくじけてしまいそうになりながら、
いや、それでもこれ以上は耐えられない、と必死の思いで口を開こうとして、

患者さんや家族一人一人が必死に振り絞っている勇気に、
心からのエールを――。
2013.07.01 / Top↑
メルマガ 『やまのい和則の「軽老の国」から「敬老の国へ」』
第1704号(2013/6/24)より

報道によれば、政府は来年度の社会保障予算の高齢化による
自然増分を抑制する方針を8月に発表するとのこと。
自然増は年1兆円。
これを抑制するには、医療、年金、介護、子育て支援を
大幅にカットすることになります。
大胆なカットをせねばならない理由は、
1月の補正予算で5兆円の建設国債を発行し、
今後も10年間で200兆円も公共事業を増やすからです。

つまり、アベノミクスは大胆な財政出動で、
公共事業は大幅に増やしますが、
その財源は医療、年金、介護などをカットしてまかなうことになります。

サミットで日本は外国から巨額の財政赤字を批判されましたが、
公共事業は増やしたいので、
政府は増やす公共事業の予算を社会保障をカットしてまかなう形になります。

アベノミクスで金融を緩和し過ぎたので、
外国から今まで以上に財政健全化を求められたことも、
社会保障をカットせねばならない理由です。

つまり、アベノミクスの最大の副作用は、
社会保障の大幅カットを伴うことです。

しかし、8月以降に、医療、年金、介護などを大幅にカットすることは、
参議院選挙前には言わず、
アベノミクスよる公共事業増加や金融緩和だけを訴えるのは
フェアではありません。

アベノミクスは大幅な社会保障のカットがセットです、と、
正直に言うべきです。
2013.07.01 / Top↑
「レスパイト・ケアラー求む!」介護シェア週間

 英国のサウスウォーク在住のペドラー夫妻には子どもはいない。が、家には色とりどりのオモチャや絵本が入った大きな箱がある。夫婦は日頃はしまってあるそのオモチャ箱を、月に1度か2度、日曜日の朝になると出してくる。11時にやってきて一日を共に過ごす小さな女の子を迎えるためだ。障害のあるその子とコミュニケーションが取れるよう、パソコンには意思伝達のためのスイッチを繋ぐ。夫婦はボランティアのレスパイト・ケアラーなのである。

3月9日から16日はthe Shared Care Networkが主催するShare the Care Week(介護シェア週間)だった。The Shared Care Networkは1990年創設の全国チャリティ。毎年3月にShare the Care Weekでキャンペーンを行い、親のレスパイトのために障害のある子どものケアを1日か2日、主として週末に定期的に引き受けるボランティアを募っている。

自治体が提供するデイ・サービスだけでは、24時間介護を要する障害のある子どもたちの親は、なかなか十分な休息を取ることができない。そこで養子縁組を担当する部局を中心に自治体がFamily Linkプログラムを実施し、レスパイト・ケアラー(short-break carer)の登録、養成、研修、利用者とボランティアのマッチングなどの運営を行っている。

オックスフォードシャーでは現在、26人(組)のレスパイト・ケアラーが23家族の子どもを引き受けている。そのうちの1組、ベイツ夫妻は2009年からレスパイト・ケアラーをやっている。共に30代で2人の子どもがいる。特に理由はなく、ただ社会に何か還元できることをやりたいと思って始めたという。「親御さんが感謝してくれたり、お世話をする子どもさんたちから好い反応が返ってくると、こういうことをやっていてよかったなぁ、とすごく嬉しいですね」。

冒頭のペドラー夫妻はもうちょっと年配。レスパイト・ケアラーになった動機は、余暇を使って子どもと関わるボランティアをしたいと思いつつ、里子を引き受けるのはちょっと荷が重いと感じたことだった。しかし、こちらも責任の大きな役割であるため、登録には自治体の審査が必要で時間もかかる。ただ子育ての経験があることは必須条件ではないので、子どもがいないペドラー夫妻でもOK。登録すると、障害のある子どものケアについて、しっかり研修がある。マッチングは、登録している子どもたちについて自治体の担当者とボランティアの間で十分な相談をしながら、養子縁組と同じ手法で行われる。子どもの家族に紹介され、何度も訪問したり一緒に過ごしながら互いに知り合い、子どもがどういう生活を送っているか、好きなもの嫌いなものなどを聞いていく。

ペドラー夫妻はそうして2年前から幼い女の子のレスパイト・ケアラーになった。彼女がやってくると、まずはパソコンでゲームをするなどして、のんびり過ごす。お昼を食べて午後は、お天気が良ければ近所の公園に行き、車椅子のまま使えるブランコで遊んだり、他の子どもたちと一緒に遊んだりして楽しむ。近くの美術館の庭に魚を見に行くこともある。外出せず、本を読んだり音楽を聞いて過ごす週もある。

夕方お母さんが迎えに来ると、その日あった出来事を話し、お昼をどのくらい食べたかなどを記録したノートを渡す。撮った写真を見せたりあげたりもする。お母さんの方も、もう一人の子どもを映画に連れて行って楽しく過したことなどを話してくれる。そういうことを聞かせてもらうと、役に立てているな、家族に喜んでもらえているなと感じて、やりがいになる。女の子が帰っていくと、夫妻は後片付けをしながら、その日の出来事を振り返り、うまくいったこと、次にやってみたいことなどを語り合う。女の子の家族ともだんだんと信頼関係ができているので、できればそのうちに一泊で引き受けてもいいよと提案してみようかと考えている。

この仕組みは、親のレスパイトになるだけでなく、障害のある子どもたちが地域の人々と知り合い、つながるきっかけにもなる、とShare the Care Weekではボランティア参加を呼び掛けた。

介護者支援ラジオ

上記週間について検索していて偶然見つけたのが、Carers World Radio。ケアラ―に関連する時事問題に特化したラジオ番組だ。収録日時とテーマを予め告知し、ケアラーと支援関係者の参加を促している。これまでの番組10本の一部と、YouTubeを通じて聴ける1時間34分の最新番組は以下のサイトから。
http://www.carersworldradio.com/
「世界の介護と医療の情報を読む」
『介護保険情報』2013年5月号
2013.06.07 / Top↑