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シアトル子ども病院生命倫理カンファのDiekema医師のプレゼンにて
親と医師の意見が対立した例として挙げられた3つの事件の1つ。

当のシアトル子ども病院で2006年6月に起こったケースです。

この事件についてDiekema医師の説明は
腎臓病の赤ちゃんに医師が透析をしようとしたところ母親が拒み、
病院の要請で親権が剥奪された、
すると母親が病院から子どもを誘拐した、
というものなのですが、

もう1つのMueller事件と同じく、
かなり重要な細部が省かれているようです。

確かに問題の赤ちゃんRiley Rogersは生まれつき腎臓が小さいので、
いずれ透析も移植も必要になるだろうとされていますが、
事件が起きた06年6月の段階で透析が必要だったわけではありません。

このとき医師が必要だと主張したのは
「将来透析が必要になる時に備えて、腎臓に管を通しておこう」という、
要するに予備的な手術だったのです。

これに対して、
家族に腎臓病の人が多く、それなりに知識があった母親は、
自然な治療で様子を見て、手術は将来実際に透析が必要になってからでも遅くない、
と主張したとのこと。

どうも、
Mueller事件でも、このRiley Rogers事件でも
州や警察の介入をすぐに求めなければならないほど
医師が主張する処置が差し迫って必要だったとは思えないのですが、

母親が手術に同意しないことから病院は裁判所へ訴え、
Rileyの親権は州に移ります。そして
子どもと引き離されてしまった母親は病院から子どもを連れ出してしまうのです。

このとき病院が「子どもは命が危ぶまれる状態にあり、危険が差し迫っている」と
警察に告げたために、通常の誘拐と同じ緊急の指名手配が行われました。
親子は2日後に発見されるのですが、

その後、病院は
「命が危ぶまれる状態が起こった場合には、問題が起こりやすい」子どもだったとトーンダウン。

さらにその後、
「赤ん坊の腎臓病をほうっておくと骨や成長に問題が生じる。
最終的には腎移植が必要だが、たいてい2,3歳まで待って行う」
との説明に変更。

この説明の変遷は、
逆上していた医師がだんだん冷静になると共に
事態がやっと正確に見えてきたということなのでしょうか。

この事件もまた、
思うようにならない親に
医療サイドが感情的になり過剰反応しただけなのではないか
という気がしてきます。

しかし医師の方は「ちょっと過剰反応だったかな」で済んだかもしれませんが、
Rileyの母親は5日間も投獄され、
その後も07年9月まで執行猶予。
誘拐の前科もつきました。
上の子ども2人も祖父宅に預けられて、
さらにこの事件の影響で、
当時内縁関係にあったRileyの父親とうまくいかなくなった、とのこと。

子どもの医療を巡る意見の相違が事件に発展した時に、
それがその後の人生に影響する度合いは、
医療職よりも親の方ではるかに大きいといえそうです。

(Diekema医師はRileyの母親の拉致行為について
 プレゼンの中でジョークを飛ばしていました。
 親が子どものためを思う気持ちをまず受け止めよとのメッセージを送ろうと講演する人が
 どうして親の必死の行為をジョークにできるのか?)

         ―――――――

Mueller事件にしてもRogers事件にしても、
親の言動が多少過激であったにせよ、
医療サイドももう少し冷静に
親と向き合えなかったものでしょうか。

この2つの事件は
「最善の利益」だの「害原則」だの「リスク対ベネフィット」だのといった
次元の話では全くなく、

ただ単に、
医療現場には旧態依然とパターナリズムがはびこっていて、
親とコミュニケーションをきちんと取れない
お粗末な医師のエゴが
不要な問題を起こしているというだけなのでは?



関連ニュースは以下

Mother held in kidnapping to be released
The Seattle Times, June 29, 2006


Mom’s son “happy” but still ailing
The Seattle Times, December 31, 2006
2007.12.31 / Top↑
Diekema医師がシアトル子ども病院生命倫理カンファでのプレゼンで挙げた
3つの事例の1、アイダホのMueller事件(2002年)について。

プレゼンにおけるDiekema医師の説明は、
赤ん坊の発熱とミルクの飲みが悪いことを訴えて母親がERに連れてきた。
診察した医師が髄膜炎の可能性を考えて腰椎穿刺をしようとしたところ
母親が強硬に反対。
その反対があまりに激しかったので、
子どもに処置する間、母親を別室で抑制する必要があった、と。

調べてみると、実際の事情はもう少しニュアンスが違うようです。

生後5週目のTaige Muellerを連れて母親が
St. Luke’s Regional Medical CenterのERを訪れたのは2002年8月13日夜。

その頃、家族が順番に風邪を引いていたので、
母親も、家で上の子の面倒を見ていた父親も、
Taigeの発熱はその風邪によるものだと捉えていました。
これは事件の前段階として大事な点でしょう。

診察した医師の説明は
「髄膜炎の可能性が5%あるので、腰椎穿刺をする
点滴でステロイドと抗生物質を投与する」というもの。
このとき医師の説明態度が高圧的だったという話もあります。

これに対して母親は「髄膜炎でない可能性が95%」なのだから、
リスクを伴う腰椎穿刺はしたくない、
抗生剤とステロイドにもリスクはあるので様子を見てからにしたいと考えたようです。
尿検査、血液検査、レントゲンと点滴には同意しています。

急いで腰椎穿刺をやらなければ命に関わると考えた医師はソーシャルワーカーに連絡、
ソーシャルワーカーが警察に連絡。
警察が子ども保護法(the Child Protection Act)にのっとってTaigeの身柄を確保、
母親の同意なしに腰椎穿刺を行った、というもの。
(結局ただの風邪でした。)

ところで、この一連の連絡は母親の知らないうちに行われました。
母親からすれば、いきなり警察が出てきて親権を剥奪され、
子どもと引き離されてしまった青天の霹靂ということになります。

その後Mueller夫妻は親の決定権が侵害されたとして連邦裁判所に提訴。
子ども保護法の改正を求める運動も続けているようです。

2007年3月に地方裁判官が予備審理で
警察がTaigeの身柄を確保して医師に腰椎穿刺を行わせたのは
州による親の決定権の侵害であるとの見解を示したものの、
最終的な判断は陪審員にゆだねられたとのこと。
(その後については、まだ調べられていません。)

全体に受ける印象としては、
もともと高圧的でパターナリスティックな医師と
親の決定権を強く意識した母親とが
不幸な出会いをしてしまったというだけのケースなのかもしれない、という感じ。

子どもの様子によっては、
このくらいのことを言いそうな親は日本でもゴロゴロいると思うし、
親がOKした諸々の検査の結果が出てから
もう一度相談するということはできなかったのかなぁ……。

言うことを聞かないナマイキな親に
医師が反感から過剰反応した……という感じも無きにしも非ずで。

日本にも時々いますよね。
親の言うことを「ああ、そうだね」と取りあえず受け止めてあげるオトナゲもなく、
そんなことをしたら医師としての権威が脅かされるかのごとくに
「診断するのは私だ。オマエではない」と吠える人が。

この事件の顛末を読んでいると、
そんな医師が頭に浮かんでくる。

そういう事件でした。


関連ニュースなどは以下。

Rights vs. Risks…
The Idaho Statesman, February 25, 2003
(the Center for Individual Rights のサイトに転載されたもの)

2007.12.29 / Top↑
(前)で紹介したように
Diekema医師は考察3で「最善の利益」基準を否定するのですが、

それに続く考察4において、

医療における意思決定では
「最善の利益」よりも「害境界」や「害原則」を用いる方がよいと提案します。

「いかに利益になるか」という点から考えるのではなく
「いかに害を避けるか」という観点から考えようということですね。

そして、この「害原則」の例として、以下の
「医師がやるべきだと考える医療のために
州の介入が正当化される条件」
を示します。

・親の行為が子どもに重大な害を及ぼす。
・そのために介入が必要である。
・他にもっと穏やかな選択肢が存在しない。
・一般化できるかどうか。
・公開できるかどうか。

一般化できるかどうかをチェックしろというのは、
同じ状況であれば誰にでも同じ決定を行う」のでなければならない、ということ。

公開できるかどうかをチェックしろというのは、
他の人に知らせても良いと思える意思決定かどうか、
メディアに公開できるだけ、その決定に自信があるかどうか
医師が自分の決定をチェックしてみろというのですね。


このプレゼンを聞いていると、
「ったく、よく言うよ……」と、
その厚顔にあちこちで呆れてしまうのですが、

この患者については正当化できるものの将来の患者では……」(論文)などと
一般化できない判断を行い、

実施から2年も口をつぐんで
乳房芽切除についてはその後も隠蔽を試みるなど、
明らかに公開したくなかった決定を敢えてしたのは一体どこのどなたでしたっけ──?


Ashley事件を考えつつ聞くと、
この後に出てくる考察ポイント6が、いかにも皮肉。

「親の“理不尽な”要求は慎重に検討し、
 敬意を持って扱わなければならないが、
 しかし、常に応じなければならないというものではない」

この下りでDiekema医師は
子どもにも周囲にも大した害がなくて、
まだ検証はされていなくてもメリットの可能性があるなら、
親の言うとおりにしてあげてもいいのではないか」と述べるのですが、

そこには「ただし」と条件がつきます。
「ただし、あくまでスタンダードな医療の範囲でのみ」。

ここでもまた、
Ashley事件における彼の行動が
倫理学者としての彼自身の信条を逸脱していたことは明らかでしょう。


ちなみにこの講演の結論とは、

相違を理解するためには、
まず他者の視点に立って
他者が見ているものを理解することから。

最初にそれをしなければ、
どんな倫理問題も解決しない。

すばらしぃ……思わず拍手してしまいそうですが、

じゃぁ、
どうして“Ashley本人の視点”に立てなかったの?
どうして“障害当事者たちの視点”に立てないの?
どうして“Ashley父の視点”にしか立てなかったの?

所得格差や医療格差を子どもたちのために憤ってみせる資格が
本当にあなたに、あるの?


関連エントリー

2007.12.29 / Top↑
今年7月のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンス
最後のプログラム、Diekeme医師のプレゼンテーション
「子どもの医療を巡る争議において(立場や意見の)相違を理解すること」。

Diekema医師はまず、
当ブログでも紹介したAbraham Cherrixの抗がん剤拒否事件を含め、
子どもの医療を巡って医師と親が対立した3つのケースを紹介。
(Cherrix以外のケースは、また別エントリーで詳述の予定。)

これらを参照しながら、
親と意見が食い違った場合に
医療サイドが念頭に置くべきことについて、
7つの考察ポイントを上げて解説しています。

その中でもDiekema医師が最も力説しており、
“Ashley療法”論争との関連からも最も興味深いのは、
「最善の利益」についての考察3でした。

このあたりのDiekema医師の話は、概ね以下のような流れ。

・「最善の利益」スタンダードはもともと養子縁組や親権などを考える際に家族法で使われていた基準が医療に拡大利用されるようになったもの。医療における意思決定に使う基準としてはベストではない。

・そもそも「利益」とは数値化できるものでも数式のように計算できるものでもなく、もっと複雑なもの。医療を受けさせるために親から子を引き離す場合など、医療における利益だけではなく、もっと幅広い子どもの利益を考える必要がある。

・親も常に逐一子どもの最善の利益だけに基づいて行動するわけではなく、社会生活の都合や事情が子どもの利益に優先しているのが現実。

・我々の社会そのものが、子どもの最善の利益を無視して動き、そのくせその代償だけは子どもに支払わせている。もしも子どもの最善の利益を優先するならば、最低賃金と教育、医療保険、働く親への保育を保障し、公害問題に対処するなど社会全体が変わらなければならないはずだ。そんな中で子どもの「最善の利益」を云々するのは偽善めいている。

・問題は「医師がある医療介入を子どもの最善の利益だと考えるかどうか」ではなく、むしろ「その介入はどの程度正当化できるのか」。つまり、「その医師は裁判所の命令をとってでも介入しなければならないとまで考えているか」という点である。

なんと。

「最善の利益」は医療判断の基準としてベストではない
とDiekema医師は考えているのですね。
まったく驚きです。

だって、

Ashley事件の際には、
正当化のほとんど唯一の根拠として
Diekema医師自身が「Ashleyの最善の利益だから」と
ひたすら繰り返していたのですから。


さらに驚くことに、

Diekema医師にとって「裁判所の命令をとる」ということは、
医療介入が正当なものであることの1つの基準だとは。

Ashley事件で違法性を問われたのは、
まさにその「裁判所の命令」がなかったことだったのですけどね。
2007.12.29 / Top↑
米国FDAは今年中にクローン肉とクローン牛乳の販売を認める方針だとのこと。

Producers Favor Tracking Cloned Animals
Washington post (AP), December 20,2007

クローン動物は科学的には自然に生まれた動物となんら変わらないから大丈夫、
とFDAは言っているのですが、

消費者の方はまだクローン動物の食品化には不安を感じているとの
様々な調査結果が出ていることから、

クローン食品が出回ると消費が冷え込むのでは、と恐れる生産者は
自発的に規制してまだ売らないと慎重な姿勢だとか。

もちろん消費者団体や政治家からも
普通に市場に出すのは時期尚早という批判も出ているらしいですが、

むしろクローニング会社(既にメジャーな会社が2つも)からは
現在作られているのはブリーダー向けの受賞牝牛やロデオ牛のコピーで、
クローニングにはお金がかかるので、
実際にはあまり食用には回らないんじゃないかという見方も出ている。

でも、結局、ブリーディングには既に使われているわけですね。

「わ、こわい」と思うのは、
いったんクローニングで動物を作ると、
その動物から生まれた次世代以降の動物はクローン動物ではなくなるので、
自然に生まれた動物との見分けがクローニング会社にもつかないのだという話。

もう1つ、FDAが表示を義務付けているのは原材料と添加物なので、
クローン食品は表示が義務付けられていない、という話。
売るなら生産者の方で自発的に表示するだろうという話もありますが。

ポストヒューマンの世界ではクローン技術で食肉を無限に供給できる
Kurtzweilが書いているのを読んだ時に、
つい笑いながら「そんなもの食べたかねーよ」と毒づいたのは、
なんと荒唐無稽な……と呆れたつもりだったのですが、

まさか、既に現実の話になりつつあるとは……。
2007.12.28 / Top↑
Wiiスポーツに代表されるアクティブなゲームが
実際のスポーツの代わりになるかどうか
燃焼エネルギーがどのくらい違うのか、
という話題をCNNも取り上げていました。

Video games can slim kids
CNN Video, December 21, 2007

これまた誰が考えても「当たり前じゃん、そんなの」という結論で、

実際のスポーツの代わりにはならないけど、
アメリカの子どもたちが1日平均4時間もテレビを見ていることを考えれば、
じっとテレビを見たり指先だけのゲームをするよりはマシ、と。

本気でびっくりしたのは、
Wiiスポーツのボクシングとボウリングでの消費カロリーを
実際に同じ時間ボクシングやボウリングをやった時の消費カロリーと比較していたこと。

ボクシングで
Wiiで175キロカロリーに対して実際が384キロカロリー。

ボウリングではもう少し差が小さくて
Wiiで168キロカロリーに対して実際が192キロカロリー。

いずれもどのくらいの時間で比較したのだったか確認し忘れましたが、
それは、まぁ、どうでもいい問題でしょう。

医療問題担当キャスターのDr.Guputaがこういうデータを示して、
さらにイギリスのあれこれの研究にも触れながら、
上記のような至極当たり前の結論を語ると、
スタジオのキャスターが
「では、我々の子どもたちが健康な体を保てるようにしてやるには、
一体なにがベストな方法なのでしょうか?」と問う。

それに対してDr.Guputaは
「さぁ、私にも分かりませんが……うんぬん」

んな、あほな。
所詮ゲームはゲームでしょうが。

【追記】
また、「所詮はゲーム」の逆に、

ゲームはそのものが”目的”なのだから、
何かの”手段”に貶めたのでは、
ゲーム本来の価値が損なわれてしまう、とも……?


消費カロリーでもってゲームとスポーツを云々することは、
摂取カロリーだけでもって
「おやつが食事の代わりになるかどうか」
または
「食事のアンバランスを補うには、スナックとサプリどちらにすべきか」
を論じるのと変わらないように思うのですが、

いや、しかし。

世の中には点滴が食事の代用になるとマジに信じる世界もあるようだから、
案外にDr.Guputaはマジかも??

--- --- ---


関連エントリー



【追記】
こんな任天堂ファンのブログ記事もありました。
Liverpoor John Moore's 大学って、こういう研究がよほどお好きなんでしょうか。

2007.12.27 / Top↑
Scientific American.comが2007年の科学記事トップ25を挙げているのですが、
(実際に数えてみたら、なぜか25よりもはるかに多いものの)
その中に、Ashley記事が含まれていました。


リストに入った”Ashlery療法”論争当時の記事は以下。
内容は記事タイトルのまんまです。

「Pillow Angelの両親は批判されるより褒められて然り」
Pillow Angel Parents Deserve Credit, Not Blame
By dbiello
January 4, 2007


ちなみに、Scientific American.comはこの記事の翌5日にも
“Ashley療法”について「専門家の意見を聞く」として
メール討論を行っているのですが、
そのメール討論に出てきた「専門家」の3人とは、
シアトル子ども病院倫理部門の責任者Wilfond医師
Diekeme、Wilfondの恩師で“親分”的なFost医師
子ども病院のオトモダチと思われ、
妙にFostを恐れているFrader医師

つまり、
シアトル子ども病院の、いわば「身内」ばかりなのですね。

事件の直接関係者と子ども病院のオトモダチを引っ張り出してきて、
まるで外部の専門家が第3者として“Ashley療法”を論じているかのように装わせ、
「倫理的に問題はない」との結論を匂わせた
というのが、このメール討論の正体。

1月の論争では、こういうことをやったメディアもあったわけですね。
まぁ、”いかにも”なメディアではありますが。

ちなみに
spitzibaraはその後、
軽い気持ちでこのサイトのニュースレターに登録してみたのですが、
その翌日には格安バイアグラの広告メールが飛び込んできて、
そのうち他の薬物のコマーシャルが加わったと見る間に、
ペニスのサイズ及び機能向上と豊胸を勧められることとなり、
やがてそれらメールには「使用前・使用後」の写真まで付け加えられて、
さらに1日に何度も「あなたのペニスは小さすぎる!」などと
あたかも見てきたかのような直截な糾弾を受け続けるにいたっては、
ついに降参してメールアドレスを変更せざるを得ず……

今では受信トレイにも平穏が戻ってきたのですが、
しかし、あの数ヶ月に届いたジャンクメールが売ろうとしていた諸々には、
薬物で能力を強化したい人が世の中にいかに多いか
彼らがいかに大きなマーケットなのか
痛感させられたような……。


Scientific American.comのメール討論関連エントリーは以下。

2007.12.26 / Top↑
Wiiスポーツをやっても実際のスポーツには及ばないよ、と
誰が考えても「当たり前じゃない、そんなの」というような研究結果を
英国Liverpool John Moore’s 大学の先生方が発表したそうで、


とはいえ、
最近では座ってばかりいる子どもたちが
立ち上がって、いろんな方向に体を動かすのだから、
多少の肥満予防効果はあるとは書いているのですが、

子どもたちに
アクティブなゲームとアクティブじゃないゲームを1時間やらせて比較した実験結果としては、
アクティブなゲームで消費するエネルギー量は活動系ではないゲームより2%多いだけだった、
だから実際のスポーツの代用にはならないと。

個人的にも Wiiスポーツはそれなりに楽しんでいるし、
このクリスマスには WiiFit までゲットしたところなので
軽い気持ちで覗いてみた記事なのですが、

いくらヒットしているといっても、たかだかゲームごときを取り上げて、
こんな誰が考えたって当たり前に決まっている結論を出すために、
大学の教授チームがわざわざ時間とお金とエネルギーを費やすなんて、
バカバカしいことをやるんだなぁ……と思っていたら、

なんと、この実験、
任天堂のWiiスポーツとマイクロソフトのXboxの通常ゲームで比較しているのですね。
で、「多少の体重管理の役には立つけどカロリー消費は2%しか違わないよ」と。

アクティブなゲームと
そうではない従来の手元だけのゲームとを比較するのであれば、
WiiスポーツとWiiマリオ・シリーズとかで比較したって悪くはないと思うのですが。

             ーーー      ーーー

そういえば、この前、合成生命体の誕生が近いという内容の記事が今度はWPにあって、


現在の合成生物学の熾烈な競争がちょうどIT革命直前の状況に似ているとして、
誰が最初に人造生命を創って「合成生物学のマイクロソフトとなる」か
という表現が使われていましたっけ。

そんなことになったら、ごく一部の人間の手に巨大な権力が握られてしまう、
と懸念する記事でもありましたが。

【追記】

Wiiスポーツについては、2月に以下のような記事もあったようです。


面白いことに、
同じ大学での研究なのですが研究者の名前が違う。

同じ大学で1年間に2回似たような研究の結果が報告されて、
その結論がほとんど反対だったということ?

それは、もしかしたら、
研究資金がほとんど反対のところから出ていたからなのでしょうか???
2007.12.25 / Top↑
7月のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンス2日目最後のプレゼンは、
Ashley論文の執筆者の1人であるDiekema医師。

演題は「子どもの医療を巡る争議において(立場や意見の)相違を理解すること」
Understanding Differences in Conflicts Surrounding the Medical Care of Children

このカンファには、まだまだ興味深いプレゼンがいくつも残っているのですが、
読むことに比べて聞くことはどうしても荷が重いもので、
1日目の大半を聞いたところで挫折したままになっており、
(既に聴いたプレゼンについては「シアトル子ども病院生命倫理カンファレンス」の書庫に。)

しかし1月のDiekema講演も近づいてきたので、
このプレゼンだけはそれまでに聴いておこうと
まずは、ざっと通しで聴いてみました。

彼がこのプレゼンで取り上げているのは
当たり前のことながら、
親の方が過激な医療を求めて医療サイドがひるんだAshleyのレア・ケースではなく、
医療サイドがやろうとする医療行為に対して親が同意せずに争議となる、ありがちな場面で
医療職として何を念頭に親に対処すべきかという話。
まぁ、極めて常識的な内容なのですね。

彼は彼なりに世の中の子どもたちを守ろうとしていて、
子どもたちの医療を危うくする政府の施策に怒りを抱いてもいるのですね。

“Ashley療法”論争では強引な詭弁でひたすら親を守った彼が
実はこういう普通の感覚を持った医師だったというのは、ちょっと意外。

このプレゼンをざっと聴いて何よりも印象的なのは、
Diekema医師の”普通さ”なのです。

「ああ、本当はこういう人だったんだ……」と、
Ashley事件でメディアに露出した人とは別人のように思える。


何よりも強く感じたのは、しゃべり方の違い。

このプレゼンでのDiekema医師の話し方は、いわばゴツゴツしている。
話術への自信と人を食ったようなジョークは変わらないのですが、
Ashley事件で表に出てきた時のようにヌルヌルもツルツルもしていない。
特に早口でもなければ、回りくどい言い方もさほど目に付かない。

ああ、この人はきっと、
攻撃的になったり(ということは防衛的になっているということですね)
言い逃れやゴマカシ・詭弁を弄そうとする際に早口になり、
抑揚の乏しい単調なしゃべり方になるのだな、
それがヌルヌル、ツルツルした印象を与えていたのだな……と。

        ――――

もっとも、
Ashley事件で彼が言っていたことを考えると
「ったく、よく言うよ」
「じゃぁ、どうしてAshleyにあんなことができたんだよ……?」と
つぶやいてしまうような発言もプレゼンには多々あったので、

それについては、
もう少し細部まできちんと聴いてから改めてまとめたいと思います。
2007.12.24 / Top↑
12月18日のエントリー「脅迫状で発達障害の啓発」にて紹介した衝撃的なポスターは、
19日水曜日をもって撤去されたとのこと。

以下のWPの記事によると、
脅迫状を模して作られた広告は
自閉症、過食症、うつ、アスペルガー症候群、強迫神経症とADHDを差出人とする6種類だったそうです。

Child Study Center Cancels Autism Ads
Washington Post, December 20, 2007

例えば自閉症の場合はこんな文言。

息子はもらった。

この子が生涯、自分の身の回りのこともできず
周りの人ともかかわりを持てないようにしてやるぞ。

これは手始めに過ぎない。

自閉症

これら脅迫状の正体は
NY大学のChild Study Centerが
早期の対応を促す啓発のために企画したキャンペーン。

大手広告代理店のBBDOが社会貢献事業として請け負って
12月1日にニューヨークのキオスク200店にポスターや看板を設置、
今後はワシントンDCなど他の4都市に拡大する予定だったものですが、

これらのポスターは障害に対するスティグマと恐怖を撒き散らし、
少しも役に立っていないとする抗議と非難のあまりの多さに、
同センターが回収を決めたもの。

批判した人たちと1月に公開協議を行い、
新たなキャンペーンを再びBBDOの作成で練り直すとのこと。

しかし、「本当に分かっているのかいな」と首を傾げてしまうのは
同センターの創設者でもあるKoplewicz所長の以下のコメント。

問題は、障害を持った子どもたちについての議論ではなく、
広告についての議論ばかりになっていったということ。

障害のステレオタイプを広めようと意図したわけではありません。

むしろ、治療せずに放っておくと障害に子どもを人質にとられますよと、
インパクトの強い暗喩で訴えたいと考えたのです。

この国には医療危機があるのですよ。
精神障害を抱えた子どもが1200万人もいて、
治療を受けていない子どもたちも多い。
彼らには保険もないし、研究対象にもなっていないのです。

それはそうかもしれませんが、
なんだか、なぁ……。

医療モデルでのみ障害の早期発見早期治療を考えると、
こういう発想になるのかなぁ。

記事からは、
インパクトがあって良い案だとする広告代理店の説得に
医療サイドがノセられてしまったという感もなきにしもあらずで、
それもまた、あまりにもお粗末な取り組み姿勢。

最後にKoplewicz所長はこうも言っているのですが、

精神障害については、
一般に考えられているよりもはるかに強いスティグマがあって、
それが当事者らを非常に神経質にしているのでしょう。
もちろん、それも分かります。

いや、あなた、一番肝心なところが分かってませんって。
2007.12.20 / Top↑
前回のエントリーで体外受精の安全性について触れたのを機に
思い出した記事があったので探してみたのですが、

現在行われている体外・試験管受精(IVF)技術には命すら落とす危険があり、
もっと穏やかで安全・低価格の方法が提唱されているにも拘らず、
生殖補助医療が大きなオイシイ市場であることから
医師らの成果優先マッチョな競争原理によって、
それらが浸透しにくい現状が報告されていました。

Taking on the baby gods
Guardian July 4, 2007

記事に報告されているのは
排卵誘発剤を開始して2日目に心臓マヒで死んだ33歳の女性と
卵子を卵巣から採取する処置の最中に問題が起こって死亡した37歳の女性
の2例ですが、後者の夫の言葉が印象的で、

ニナ(妻)が死ぬ確率が1%でもあると病院が教えてくれてさえいれば、
こんなことはしなかった。

子どもが欲しかっただけなのに。どうしてこんなことに?

説明がなかったのかどうかも気になりますが、
彼の言葉は多くの人の感覚を代弁しているのではないでしょうか?
安全な医療だと思うからやるのであって、
命を懸けてまでやりたい人は多くはないでしょう。

ところが現在行われている大量のホルモンによる排卵誘発のやり方では、
1割の女性にovarian hyperstimulation syndrome(卵巣高刺激症候群?)という副作用が起こり、
悪くすれば血栓症につながるとのこと。

また、大量のホルモン投与によって多くの卵子を採取して複数の胚を着床させることで
多胎児が生まれる確率が高くなり、
子どもにも低体重や身体的・知的な問題が生じるリスクが。

実際にはそんなに大量のホルモンを投与しなくても、
2~7個の卵子が採取でき、
体外受精させた後で健康な胚を1つだけ着床させるというやり方が可能で、
この“マイルドIVF”は成功率にも遜色なく、
費用も通常のIVFの半分で、何よりも安全。


この記事を読んで、ぞっとするのは、
どの医療の分野でも薬の投与量には一定の推奨基準というものが定められているのに、
この排卵誘発剤だけはその基準リストに含まれておらず、
全く医師の裁量に任されているという事実。
(もちろん沢山使えば使うほど、
採取できる卵子の数が増える、成功率が上がる……)

生殖補助医療の世界は男性医師優位の世界であり、
患者の体をペトリ皿や保育器と同じ実験機材としか捉えず、
治療の成績を上げること、それによってクリニックの評価を上げることだけに血道をあげる
マッチョな男性医師らを呼び習わす“baby god”という言葉さえあるのだということ。

医師らの言葉をいくつか以下に。

現在の英国における根本的な問題というのは、
たいていの患者は自費で治療を受けるわけだから、
彼らにベストな成功率を出してあげる責任を我々としては感じること。

一回失敗すれば、それだけ患者の信頼を損なう。
患者というのは、なるべく短期間で妊娠したいのだから。

要するに、商売なんだから、
生みたいという客には生ませてあげる、
それで女性の体がダメージを受けようと
生まれてくる子どもにもリスクがあろうと、
ここでは生ませた数だけが問題、ということですね。

もちろん“客”の方にも考えるべきことがありそうですが、
以下の発言は、いったいどうなんでしょう?

IVFを行う医師が患者の望みをかなえてあげる腕もずいぶん上がってきたから、
そろそろ安全性にも、もう少し注意を払い始めてもいいだろう。

え……? と絶句してしまった。

だって、この発想、順番がカンペキ逆では?
2007.12.20 / Top↑
これまで


の2回のエントリーに分けて
英国議会で検討されている“救済者兄弟”の問題を紹介してきましたが、

このように生殖補助技術がどんどん発達し、
“救済者兄弟”を初めとする“デザイナーベイビー”まで既成事実化する中、

生殖補助技術は本当に安全なのかと
その足元に疑問を投げかけるニュースが
11月25日のMedical News Todayにありました。

「試験管受精は危険なのか?」
Is The Test Tube Conception Dangerous?

体外受精では
異なった遺伝子情報を処理するメカニズムに狂いが生じて遺伝子刷り込みの病気が起こる確率が
通常の妊娠によって生まれた子どもに起こる確率よりも高い
というロシアの調査結果が紹介されており、

その原因として
遺伝子刷り込みが受精時の外的要因に反応することや
ホルモンの刺激によって自然な妊娠では成熟しない異常な卵子が成熟してしまうなど、
手法そのものの特異性に影響されるのではないか、と。

生殖補助技術と遺伝子刷り込みの関係については
専門家の意見も分かれており。
体外受精児そのものが極めて珍しいのだから、それで人工授精を否定することはないとする人もいれば、
遺伝子刷り込みの異常は氷山の一角に過ぎないと生殖補助技術に反対する人もあり、

この問題はきちんと調べて、
体外受精をいかなる点においても安全なものにする必要がある、と。


          ――――――――――――


生命の誕生というのは非常に繊細で複雑なメカニズムなのだから、
そこに人工的に手を加えるということは、
当然のことながら異常が起こる確率も高くなるだろうと感じるのは、
極めて常識的な感覚だと思うのですね。

生殖補助に関して様々な技術(代理母も含めて)が進むに連れて、
そうした技術を使ったがゆえに障害を負った子どもも実は生まれているのではないかと
私はずうっと気になっているのですが、
そういう話は本当にないのか表に出てこないのか、
なにしろあまり聞かない。

例えば臓器移植に関する調査研究のほとんどが
ドナーについてではなくレシピアントについて行われるように
生殖補助医療に関する調査研究の多くも成果に関するものであり、
リスクを巡る調査研究はあまり行われていない……
ということはないのでしょうか??

そして、いわゆる「科学的事実」には
「科学的に実証されないことは存在しない」つまり
「調査研究の対象とされない限り、それは存在しない」という
改めて考えてみたらアホみたいな盲点があるようにも思われるので、

生殖補助技術のリスクが云々されることがないのも、
ただ単に「誰もきちんと調査していないから」
というだけなのではないか……とずっと気になっていました。

この記事によると、
このたびロシアの研究者が調べたのは
「遺伝子刷り込み病という生殖補助技術の安全性リスクのほんの一面」について、
ちょいと調べてみた、というに過ぎないようなので、

これはやはり、
「体外受精と着床前遺伝子診断で“救済者兄弟”を作ることを認めましょう」
などと議会で議論するより以前に、
安全性に関する調査を徹底的に行ってほしいもの。
2007.12.20 / Top↑
”救済者兄弟”について英国では2004年に認められていることを
以前のエントリーで紹介しましたが、

(以下の記事では英国で初めて救済者兄弟が認められたのは2001年となっており、
 この点では記事の間で3年のズレが生じています。)

初めて認められた時期はともかくとして、
現在、英国でヒト受精・胚機構によって認められているのは、
子どもが死んでしまうような深刻な病気にかかっており、
完全にマッチする兄弟を生んで臓器提供を行う以外に救う手段がない場合にのみ。

実際に病気の子どもを救う目的で体外受精で作られた
“救済者兄弟”はごくわずかであり、

そこで対象となる病気をもっと軽症なものに拡げようというのが、

以前のエントリーで紹介したように
現在議会で審議中の Human Fertilization and Embryology Bill に盛り込まれた改正点の1つ、
ということのようです。

それに対して、プロ・ライフのグループからは、
完全に遺伝子がマッチしなくても治療可能な症状も多いので
臍帯血の検査と貯蔵システムを国がきちんと作れば対応できるじゃないか、
と主張している模様。


Relax Rules on Embryo Selection, Say UK Lawmakers
Cybercast News Service, August 10, 2007


なんだ、治療できるんだ……。

でも、ここでも、やっぱり
スローな医療なんか目じゃなくて、
バブリーな医療でやりたいわけですね。

なにしろ、法改正の大目的そのものが
科学研究の国際競争で遅れを取らないためなのだから。

【追記】
同法案のその後の投票で、
救済者兄弟はヒト受精・胚機構の認可だけではなく、
ヒト受精・胚法によって法律的にも認められることになりました。

2007.12.19 / Top↑
……というタイトル通りの内容の記事が
12月10日に Independentに。


ヨーロッパ系の人の大半はアフリカ系の遺伝子が1%以下というのが通例らしく、

今年の初めにJames Watson博士が自らインターネットに全公開した
同博士のゲノムを分析した deCODE Genetics社のKari Stefansson氏によると、
16%というのは曽祖父母にアフリカ人がいた場合に見られる高率なのだとか。

他にも9%の遺伝子がアジア系の先祖由来だとも。



だから、いわんこっちゃない……という話かもしれませんが、
それにしても、この論争どんどん醜くなりますね。
2007.12.19 / Top↑




これらの脅迫状は、驚くことに
NY大学 Child Study Centerが看板やポスターとして使っているもの。

息子はもらった。
我々はこの子の対人能力を破壊し
完全な孤立生活に追いやっている。
後はお前たち次第だ。

アスペルガー症候群より

人格化された障害が
子どもの人格を乗っ取り破壊するようなイメージを与えます。

これでは発達障害の早期発見・治療を促す効果よりも、
偏見を世間に撒き散らす効果の方がどう考えても大きいでしょう。

英米の医療の世界が障害に向ける視線そのものが、
とても冷たい排除的なものになりつつある証左の1つではないでしょうか。

詳細と、
The Autistic Self Advocacy Networkの会長による解説・批判、
NYU Child Study Centerに抗議文を送ろうとの呼びかけ、
その例文などは、
以下のブログに。

CRIPCHICK’S WEBLOG
SCARY RANSOM NOTES CAMPAIGN
December 14, 2007
2007.12.18 / Top↑
ヒト受精・胚法(Human Fertilisation and Embryology Bill)の上院での審議の様子の一端を読んで、
その中に出てきたSavior sibling という言葉に度肝を抜かれたので、
検索してみたら、

以下の記事にあるように
病気の子どもを救うための臓器目的で兄弟をつくることが
英国では2004年に世界に先駆けて公式に認められていました。
(上記記事ではアメリカは無規制、
 英国に問い合わせがあった国はカナダ、台湾、日本とのこと。)

「“savior sibling”に青信号」
“Savior sibling” babies get green light
NewScientist.com news service, July 22, 2004

ただし法律を作って認めたということではなくて、
1990年のヒト受精・胚法によって翌91年にできた
ヒト受精・胚機構(Human Fertilisation and Embryology Authority)がOKした、と。

HFEAは保健省の下に置かれていますが、独立性が保障され、
生殖医療と胚の扱いについて許認可、実施規範(の策定?)、査察を行うとされています。

上記記事の中にも、
これはHFEAが決めることではなく議会で議論すべきことだとの批判の声が出ているので、
現在審議中の法案でいよいよ法的にも認めようということなのでしょうか。

ではHFEAの認可というのはどういう位置づけだったのか、
この辺のカラクリはよく分かりません。

それにしても、これ、どう訳せばいいのでしょうか。
Savior というのは、このクリスマス時期にはよく目にする耳にする言葉ですが、
やはり一番身近なイメージはイエス・キリストを称える“救世主”でしょう。

でも、ここではまさか“救世主兄弟”でもあるまいし、
救い主兄弟──?
救済者兄弟──?
なんか、ヘンだなぁ。
きれいにまとめれば“救いの兄弟”とでも?

上記の記事によると、
HFEAが認めた背景には、
「家族全体の幸福に寄与する」との理屈があるようなので、
家族にとって“救世主”、“救い主”、“救いの神”になるという意味でしょうが
なんとも、あざといネーミング。

とりあえず、あざといニュアンスを残して「救い主兄弟」としておくとして、

(その後、「救済者兄弟」と変更しました。)

プラスの価値判断を名前に付加することで
子どもを道具に貶める親や医療者のエゴを覆い隠し、
批判封じをしようという意図が感じられないでしょうか。


権力というのは、どうしてこんなにも
詭弁の詐術に長けているものなのか。

日本でも障害者自立支援法案で「受益者負担」が
「障害者は益を受けているわけじゃない」と批判されると、
批判されたのは名称ではなく、その背景にある無理解であるにもかかわらず
中身は全く変えずに呼び方だけが「定率負担」に変わり、

「障害者の福祉サービスと介護保険の統合」に批判が噴出すると、
いつのまにか誰も「統合」とは言わなくなって「介護保険の被保険者範囲の見直し」。

“Ashley療法”しかり。
“成長抑制”しかり。
SaletanShakespeareが敢えて「縮ませる」という用語を使ったのも、
 このネーミングの詐術を際立たせるためだったのでしょう。)

追加情報はこちら

      ーーー      ---

兄弟を救うための臓器目的で作られる子どもの問題は
シアトル子ども病院の生命倫理カンファでも
取り上げられていました。
そのプレゼンの内容をまとめたエントリーは以下に。



プレゼンの中でPentz医師が引用した小説についてのエントリーは以下に。


なお、これらエントリーではあまり触れていませんが、
白血病の姉を救うために遺伝子診断で生まれた主人公のアナは
自己存在への肯定感がもてないことに苦しんでいました。

姉のKateを救うために両親は出生前診断まで行って、
わざわざもう一人子どもを産むほどの努力を払ったのだから、
Kateが両親にとって「かけがえのない子ども」だったことは自明なのですが、
では、姉の臓器のスペア庫として生まれてきた妹のAnnaはどうなのか。
ドナーとしてマッチさえすれば自分でなくてもよかったのだから、
彼女には自分が「かけがえのない存在」だと感じることができないのです。

「救済者兄弟」の残酷さに憤る人がどうしてこんなに少ないのか。

ちなみに、上記生命倫理カンファでもAshley療法擁護でも大活躍した
Norman Fost医師のこの問題に関する発言は以下のエントリーに。



【追記】
スウェーデンでは今年5月に“救済者兄弟”が認められていました。


ただし、”救済者兄弟”を可能にするスウェーデンの法改正そのものは2006年。
実際に個別の事例に初めて許可されたのが今年5月ということのようです。

この記事の中でも英国が世界に先駆けて救済者兄弟を認めたのは2001年となっています。


【追追記】
スペインでも2008年10月に救済者兄弟の第1号Javior君が生まれています。


その法的根拠がよく分からないのですが、記事にあるのは

「2006年にES細胞研究を合法化したスペインで、
Javior君が生まれたアンダルシア地方が配すクリーニングを認める最初の州となった」
という本文と、

両親が「必要な許可は全部取ってある」といっているのですが、
その「必要な許可」というのが、どういう権限のところから
どういう理由と法的根拠で出された許可されたのか、全く不明。


2007.12.17 / Top↑
英国でヒト受精・胚法(1990)の見直し法案が
現在上院で第二読会中という話を聞いたので、

着床前遺伝子診断による障害児の選別が話題になっているという
11月19日の議事録をちょっとだけ覗いてみようと思ったら、
ついつい最後まで読んでしまいました。
(とはいえ、特に後半は疲れていい加減です。分からないことも多いし。)

細部を云々できるほど内容を理解している自信はないのですが、
全体の印象として、

倫理問題なんぞどうでもいいから早く法律をアップデートして
国際的な科学研究競争の第一線から落ちこぼれないように
と急ぐ陣営と、

本質的な倫理問題の議論が充分に尽くされていないではないか。
 もっと慎重に
とブレーキをかけようとする陣営とが
せめぎ合いを繰り広げている図。

そして、前者がより強大な力を持ち、
その勝利のシナリオが既にできあがっているんだな、
と感じられる議論だな、と。

この法案がどういうものか、
最もおおまかに分かりやすくまとめられた部分で、
この法案を提出した人たちの考えも正直に出ている部分かと思うので、
Baroness Deechの発言の一部を以下に。

In the scientific field, the Bill confirms the wider use of pre-implantation genetic diagnosis. That is good. I hope that your Lordships will be pleased that the deliberate choice of an embryo that is, for example, likely to be deaf will be prevented by Clause 14. The Bill confirms saviour siblings, no selection of sex for social reasons, and extended purposes for research in embryology, first allowed in the 2001 regulations. That research, once legitimated, put the UK at the forefront of world stem cell research. Interspecies embryos will be legitimated and I think that that is right.

科学の領域で言えば、この法案は着床前遺伝子診断を認めます。これは良いことです。例えば耳が聞こえないだろうと見られる胚をわざわざ選ぶようなことはClause 14で防げますから、上院議員の皆さんは歓迎してくださるでしょう。それから法案では救い主兄弟が認められます。社会的な理由での性別選別は認めません。さらに胚を扱う研究は2001年の規制で最初に認可されましたが、こうした研究の目的をより広く認めます。この研究が合法化されれば、英国は世界の幹細胞研究の最前線に出るでしょう。多種胚が合法化されます。これは正しいと私は考えます。

(お断り)
翻訳の細部や個々の訳語については、たいして深く考えたものではありません。
「多種胚」というのも個人的に適当にでっち上げた訳語で、
要するに人間と動物のハイブリッド胚のことです。
あくまで概要を紹介するための大まかな訳とご理解ください。

なお、上記で触れられているほかにも、
議員らの発言で大きく取り上げられていた問題としては、
生殖補助医療で「父親の存在が必要かどうか」という点があります。
これは独身女性やレスビアンの女性、トランスジェンダーの人が
生殖補助医療によって親になる権利を巡る議論。

それから中絶法の改正の是非。

ちょっと気になったのは、
審議の冒頭の保健省副大臣による法案の概要説明に続いて発言した議員が
産婦人科学会の関係者(名誉会員?)と思われること。



Human Fertilisation and Embryology [HL] Bill -2007-08 の議会での審議については、こちらから

          ―――

この問題について
聴覚障害者のブログGrumpy Old Deafiesが取り上げて
優生施策だと批判しています。


この記事へのコメントでは
BBCの議会中継に字幕がないことが問題視されています。
また議会の審議に、聴覚障害者の利益を守ろうとしている人がいないことも。

しかし、聴覚障害については1例として触れられただけで、
このブログに引用されているClause 14は以下のように読めるものです。

「深刻な身体または知的な障害」、「深刻な病気」または「その他、医学的に深刻な状態」を生じる大きなリスクとなるような遺伝子、クロノソムまたはミトコンドリアの異常があると分かっている人または胚が、異常がないと分かっている人や胚よりも選好されてはならない。

聴覚障害だけの問題では全然ありません。
serious(深刻な)という表現の解釈によっては、
どれほどの障害と病気が含まれるかすら分からないのでは?


(”救い主兄弟”については、別エントリーで触れています。)


当ブログの関連エントリーは以下。



2007.12.16 / Top↑
ナイジェリアの子どもたちの悲惨を読み、
去年、象牙海岸で起きた悲惨を思い出しました。

先進国が出した毒性の強い石油化学廃棄物が何百トンも
世界で最も貧しい国のひとつである象牙海岸の海辺の町のあちこちに、
夜陰に紛れて捨てられたという事件。

死者10人。
69人が入院。
10万人が治療を要したといいます。

ことの起こりは去年の7月2日。
韓国で建造され、ギリシアが管理し、パナマ船籍のタンカー the Probo Koalaが
オランダのTrafiguraという商社に雇われて、
地中海で長く原油の倉庫船として使用された後、
アムステルダムに到着します。

Trafiguraが言うところでは、
定期的な船倉の洗浄で出た廃棄物を積んでいると説明したらしいのですが、
具体的にどこで出たものかは明かしていません。

(オランダのメディアは、
それまで原油の倉庫船として使われていたProbo Koalaが
夏の原油価格高騰で臨時に精製に使われ、
それで出た廃棄物ではないかと推測しています。)

アムステルダムでその処理を請け負った業者は
その量の多さと毒性の強さに金額をアップ。
するとTrafiguraは支払いを拒否し、
いったん降ろした廃棄物をまた積み込んで出航します。

その後エストニアでロシアの石油製品を積み込み、
それをナイジェリアに届けた後に、
8月19日に象牙海岸のAbidjanにやってきました。
象牙海岸に毒性の強い廃棄物を処理できる施設などないことは、
周知の事実にも関わらず。

そして象牙海岸の港湾当局と運輸省に廃棄物について申告、
勧められた地元の4つの会社の1つに処分を依頼するのですが、
その会社は夜陰に紛れ、
その廃棄物を市内の18箇所に廃棄したのです。

犠牲になった中には、
金になるアルミ片を求めて
1日に何時間もゴミ漁りを日課にしている子どもも。

象牙海岸の港湾職員4人と、
廃棄処理を請け負った会社の社長
そしてTrafiguraのフランス人役員2人が逮捕されました。

しかし、この事件の真の犯人は本当に彼らだといえるのでしょうか???

       ――――     ――――

この事件で初めて知ったのですが、
アフリカはもう長いこと先進国のゴミ捨て場と化して
今では世界中からI T 関連の有毒ゴミが毎日続々と
アフリカに持ち込まれているのだとか。

任天堂がグリーンピースに非難された背景には、
 こういう事態があるのでしょうか。)

象牙海岸の住人は言います。
「なんでここに捨てたんだよ?
なんで、そんなことするんだよ?
人が死ぬと分かってたはずだろ。
どうしてアフリカに持ってくるんだよ?」

貧乏な国の黒人なんか死んだっていいと言わんばかりに
金持ち国が自分たちが出した毒物ゴミを貧乏国へ捨てに行く
グローバリゼーション──。

持てる者がより多くを持つために、
持たぬ者から尊厳や命すら問答無用で剥ぎ取っていく
ネオ・リベラリズム──。

そして、世界がこういう場所になりつつあるという認識の中で、
先端技術の周辺で起こっている諸々を振り返ってみると、
ふっと思うのですね。

リベラルな生命倫理もトランスヒューマニズムも、
つまるところは、

新興技術がもたらす恩恵や富というカレンシーによる
ネオ・リベラリズムではないのか?





Sludge in Ivory Coast
The NY Times, October 9, 2006
(2日の記事へのTrafiguraの抗議)


また、事件が起きたAbidjan に住んでおられた方が
その後の詳細をまとめておられました。

アビジャンでの有害廃棄物騒動のその後ー今日のコートジボワールのブログ


2007.12.15 / Top↑
最初にビデオを見て目と耳を疑い、
ニュースの全容が掴めるにつれて絶句し、

次にギャラリーの写真を1枚ずつクリックするにつれ
息を飲み、かたまり、
憤りで体が震えた、
ナイジェリアのニュース。

「ナイジェリアの魔女狩り、子どもが標的に」

Children are targets of Nigerian witch hunt
The Observer, December 9, 2007/12/10

ビデオはこちら

ぜひとも見て欲しい20枚の写真はこちら

          ---      ---


9歳の少年。
頭のてっぺんに打ち込まれた5本の釘がまだそのまま。

10歳の少女。
弟が病気になったのは彼女が魔女だからだと指差され、
親が連れてきた男たちに殴られ、
親に毒草を無理やり食べさせられ、
苛性ソーダ入りの熱湯を頭から浴びせられ、
野に打ち捨てられた。

13歳の少女。
父親と教会の長老たちに木にくくりつけられた。
足首を縛ったロープはきつく縛られて肉に食い込み、
そのまま一人で一週間放置される間に骨に達した。

家族が病気になるのも父親が失業するのも、
彼らが「魔女だから」だと。

そう指差すのはキリスト教会の牧師たち。

子どもたちはある日突然、彼らに「この子は魔女だ」と指差されて、
親から虐待され、村人から迫害され、打ち捨てられているのです。

川や森から死体が沢山発見されていて、
殺された子どもは既に何千に達するのではないかと。

牧師たちは気まぐれに「この子は魔女」と言い歩いては
親に月収の何倍もの料金を払わせて教会で魔女払い。
同じ子どもにまた魔女が戻ってきたと言えば、何度でも搾取は可能で、
数多くの魔女を見つければ見つけるだけ
優秀な牧師だとあがめられ商売が繁盛するそうだから、
こんなにオイシイ商売はないでしょう。

この胸が悪くなるニュースの唯一の救いは、
牧師たちの言うことを信じず、
子どもたちを集めては癒し養う人がわずかながらいること。
けれど、130人もの子どもたちがあふれ返る粗末なシェルターも村中から敵視され、
襲撃も起きかねないような不穏な空気も感じられて。

          ――――

一見、親たちは牧師に払う金がないから子どもを捨てているようにも、
本当に子どもに悪霊がついたと恐れ憎んでいるようにも見えます。

でも、本当はそうじゃないと思う。
彼ら自身、虐げられて貧困に苦しみ、
誰かにぶつけないではいられない思いを抱えた大人たちが
衝動に任せて子どもを虐待し、憂さ晴らしをしているだけだと思う。
その口実を作ってやることで、キリスト教会の牧師が富み肥えていく仕組み。

強い者に踏みつけられている者が、さらに弱い者を虐げて憂さを晴らす仕組み。
強い者たちが弱い者を相手に、どんなひどいことだってできる仕組み。

大人たちが寄ってたかって、そういう世界を作ってしまったら、
どこに子どもたちの居場所があるというのか。


子どもたちが、みんな同じ表情をしているのです。
感情を失うことで身を守ろうとする無表情。
その中で、どの子も目が異様なおびえを湛えて。

その目がたまらない。

これほど救いのない孤独を生きなければならない子どもが、
こんなにもいるという事実も。


世界がよりよい場所になっていくなんて、
やっぱりタワゴトだとしか思えない。
2007.12.14 / Top↑
“Ashley療法”の成長抑制部分を皮肉って
shrink(縮める)という表現を使った批判には、
前のエントリーで紹介したSaletanの他にも、
BBCの障害者問題ブログ Ouch!に
同サイト・コラムニストのTom Shakespeareが書いた文章があります。
 
Saletanが
「”介護の便宜”や”病気予防”が正当化としてアリなら、高齢者にも同じ理屈が通るじゃないか」
と批判したのと同じように、

Shakespeareは「他の障害児・者や一般の人にも当てはまるではないか」と批判しています。

例えば、
歯軋りがうるさい人からは奥歯を抜けばいいし、

多動の子どもには、頭にスイッチを仕込んで
手に負えなくなったらスイッチでちょっと静かになってもらう。
そうすれば家族みんながテレビの前で静かな夜を過ごせるわけだし。

よだれも見た目が悪いし服が汚れるから、
バイオ工学でちょちょっと手を加えてカテーテルを通し、
お口の余分な水分は涎バッグへ。

やっかいでデカくて周りの迷惑になる障害児たちにしてやれることは、まだまだ沢山ある。我々にはそれだけの技術があるのだし。それが親の利益になれば、当然子どもの利益にもなるというわけ、だよね? だって、考えてごらんよ。親が世話をしやすければ、子どもだってハッピーで満ち足りているはずだ。こういう解決策があれば、子育ての悩みなんてなくなって、子どもの世話をするたびに感じるのは喜びだけさ! それに、いまさら外見が人間の価値を決めるなんて信じる人はいないよね? だから成長を抑制して外見が大人にならないようにしたからって、中身の人間を変えることにはならない。

しかし同時に我々は他の選択肢があることも知っている。違いに対して、もっと許容もできるはずだ。もっとアクセスの容易な住宅を提供し、予算をつけてパーソナル・アシスタンス制度を整え、障害者が地域で暮らせるように在宅ケアのサービスを保証する。しかし、それはコストがかかることだ。それに、投資として面白くもないんだろうね。福祉にお金をつぎ込むというのはね。

Shakespeareは最後に、
Ashleyに行われた医療処置については
組織内倫理委員会で関連事項のすべてを慎重に議論し、
生命倫理の4つの原則を適用するという
「正しいプロセスと手続きthe right processes and procedures」を
経て決められたことに注意を促し、暗に警告を発しています。

彼はここで、
そうしたプロセスが正当化にも使われ得る社会の欺瞞を
警戒しているのだろうと思われますが、

もう少し丁寧に原資料を読み込めば、
実は「関連事項のすべて」など議論されていないし、
生命倫理の原則など適用もされていない
この事件固有の欺瞞についても
見抜けたのではなかったろうか……と残念。

他にもShakespeareは
あの論理性というものがとことん欠落した論文について、
「担当医らの論理には非の打ち所がない」と(皮肉だとしても)書いており、
いったい、どれほど丁寧に読んだのだろうか、とちょっと疑問です。

「中身に相応したサイズ」論の倒錯を指摘する部分でも、
サイズが相応でなくたって当人には気にならないはずだと主張する際に
「でも、いいかい。Ashleyはどっちにしたって自己意識は欠いたままなのだ」
と書き、Peter Singerと同じ誤りを犯しています。


Ashley事件を論じる多くの人の中には、
Ashleyの両親のブログが長大なためか、
ざっと目を通す程度で済ませてしまう人が案外に多いようですが、

せめて最も重要な資料である担当医論文と親のブログの2つだけはまともに読み、
基本的な事実関係くらいはきちんと押さえてほしい。

           ---


それにつけても、
今度は自国でKatieのケースが起こり、
それについては BBC も報じているというのに、
Shakespeare は反応していない……。なんで?


            ---


ちなみに、当ブログでまとめたAshley事件の事実関係は
「事実関係の整理」の書庫にあります。
2007.12.14 / Top↑
前のエントリーの最後に簡単に紹介した
William Saletanが“Ashley療法”を批判したWPの記事(1月21日)について。

Saletanはオンライン・マガジンSlateの科学と技術担当執筆者。
Washington Postの記事は既に有料となっていますが、
Slateに別タイトルで同じ記事(1月20日)があります。


むかしむかし、
あるところにAshleyという名前の女の子がいました。
いつまでも小さいままの女の子でした。

……と始まるこの文章でSaletanが言っていることは

We don’t have to make the world fit people anymore. We can shrink people to fit the world.

もう世の中を人間に合わせる必要はない。世の中に合わせて人を縮めることができるんだから。

という皮肉にほぼ集約できるのですが、
いくつか面白い指摘を以下にまとめてみると、

・これまでアメリカでは人間のサイズが大きくなるのに連れて、家や車を始めモノも大きくしてきたが、これから先を考えれば、経済の点からも環境の点からも流れはAshley療法の方向だろう。人間が小さければ消費する資源も少なくて済むし、運ぶにも安上がりだから。

・現に今でも多くの人が社会に適応するために体に手を加えており、中国人は出世のために手術で足を伸ばすし、アメリカの男性はステロイドを使ってジムで見栄を張る。女性は豊胸、レーザー脱毛、処女膜再生……。

・両親がAshleyについて sweet, pure, innocent という形容を使い、また彼女のことを pillow angel と呼んでいるが、これらがcognitiveな単語ではなく moralな言葉だという点は興味深い。

cognitive とmoralの対比については、
「事実を述べる言葉」ではなく「感情を表す言葉」
または
「理とか知の言葉」ではなく「情の言葉」
 と、私自身は解釈したのですが……。

さらに、

しかし、もしも人を縮ませたり、少なくとも臓器を摘出するのに、そういう(病気予防との)説明が通るのであれば、ことはAshleyでは留まらないだろう。だって我々はそういう患者の大流行に直面しているではないか。身体的にも認知力においても障害を負い、抱き上げるのが大変で、癌になる確率が高く、本人もたいそう不快で、しかも子どもを産むことができない。高齢者と呼ばれる人たちだ。

今日では、アメリカの高齢者の7%に深刻な認知機能の障害がある。親の介護をしているアメリカ人は1500万人。アルツハイマー病の患者の大半は家族や友人の助けを借りて家で暮らしている。最もアルツハイマー病にかかりやすいとされる85歳以上が、アメリカで最も急増している年齢層だ。彼らの生殖臓器は役に立たないだけではなく、危ない。なにしろ75歳までにたいていの男性は前立腺がんになるし、80歳までに女性の10人に1人は乳がんになるのだから。

そして締めくくりに、極めつけの皮肉。

Ashleyの親は、しかし高齢者を思いやっているのだ。
Ashleyを縮めることによって
介護を手伝う祖母らの負担を軽減しようというのだから。

だから、彼女ら介護者が介護される側に転じた時にも、
きっと同じような目を向けるのだろう。
負担を担う側の人が一転して負担になった時にも、
軽くすればいいだけのことだから。
めでたし。めでたし。


それにしても、こうして何度目かにこの記事を読み返しながら、
1月にネットに百出した議論を振り返ると
改めて気になってくるのですが、

英国のKatieのケースでは、もう誰も
これほど熱心に力をこめて批判の文章を書かなくなってしまったような……。

同じことの繰り返しになるから?

それとも
「重症障害児の体に健康上の必要もないのに医療的に手を加える」という考えに、
もう誰も驚かなくなったから?

しかし、それは、とても怖いことなのでは?


(ということを考えると、

 批判の声をあげるのは障害者団体ばかりのように思える
 Katieケースをめぐる議論のあり方への抗議をこめて、

 このエントリーは
「英国Katieのケース」の書庫に入れておこう。)
2007.12.13 / Top↑
アフリカ人はヨーロッパ人よりも知的レベルが低いとする
James Watsonの人種差別発言騒動はもう終わったと思っていたら、

「いや、確かにWatson発言には科学的裏づけがある」という声が出たり
それに対する反論がネットでは続いているらしく、

なんのことはない、
Watson発言が人種間のIQ差を巡る論争にまた火をつけたことになったのかも。

目に付いたところでは、

Created Equal
By William Saletan
Slate, November 18, 2007

The Secret to Raising Smart Kids
By Carol S. Dweck,
Scientific American, December, 2007


さらに
ミシガン大学心理学教授Richard E. Nisbettが
NYTimesに「脳はみな同じ色」と題する文章を書き、
人種によるIQの差は遺伝子よりも後天的な環境要因によると
結論付けているのですが、

All Brains Are the Same Color
the New York Times, December 9, 2007


これまで人種間のIQ差に関して行われてきた様々な調査・研究や
その差が起因するところに関する議論を振り返り、
長い記事になっています。

そういうことを言い合ってる人たちがいることは漠然と聞き及んでいる
という程度の認識(つまり、何も知らない)だったので、
この記事で改めて人種間の知的優劣論争の歴史を概観させてもらうと、

そもそも、それだけ多くの学者サンたちが
白人と黒人の間には知的な優劣があると証明することに
エネルギーを注いできたという事実に
ちょっと唖然とするというか……。

人種間でIQに差があることを証明しようというエネルギーが
世界の人々の間でこれだけ使われているということは、
男女間でもIQの差を証明しようとするエネルギーも
きっと同じくらい消費されているのだろうし……。

そういう研究の前提にある仮説というのは
一体どういう意識から芽を出すのだろう。

そうした調査・研究を思いつく時、
彼らはその仕事によって何をなそうと考えているのだろう。


当ブログの関連エントリー



【注】
William Saletanは1月のAshley論争に際して
Washington Postに”Arresting Development”と題して
皮肉のこもった論評を書いた人物。

同紙の記事は既に有料となっていますが、
別タイトルで同じ文章がSlateに掲載されています。

基本的には「社会に合わせて人を変えるべきではない」という主張ですが、
1月当時に面白く読んだ記事なので、
この後、別エントリーで紹介しようと思います。
2007.12.13 / Top↑
前回のエントリーで取り上げたDisabilities Now の記事の中に、
保健省のスポークス・ウーマンのコメントが載っていましたが、

そのコメントから判断すると、
Katieケースに関する英国保健省の見解とは、

本人の理解と意思表示の能力に応じて
担当医師らと本人の介護を担っている人たちが決めることであり、
可能な限り本人の意向を尊重するにせよ
未成年なので最終的には親が決めること、

といったものです。

自分で決定することができにくい人の非治療的不妊処置については
裁判所の判断が必要だとする法の規定があるのに、
この見解ではそれが考慮されていないという問題を
前回のエントリーで既に指摘しましたが、

仮に一般的な重症児に関する医療の問題として考えても、
この見解ではあまりにも無責任だと思う点がもう1つあって、

それは医師の専門性の問題です。


スポークス・ウーマンは doctors と簡単に言いますが、
重症障害児の医療は特殊な専門知識を要する分野のはず。

ところが、

AshleyのケースでいえばGunther医師の立場にあたる、いわば“総監督”は、
Katieのケースでは Phil Robarts医師

Gunther医師は重症障害児を診てきた小児内分泌医でしたが、
Roberts医師は婦人科医です。

これまでの報道からすると、
Katieの母親が子宮摘出について相談したGPに紹介されて
Robarts医師のところを訪れたのは2年前
同医師は母親の子宮摘出の希望を巡ってのみKatieに関与しているだけで、
彼女の障害を巡る医療に関与しているわけではありません。

保健省のいう「短期長期的に見たKatieの健康上の最善」について
そういう婦人科医に、どうして的確に判断できるでしょうか。

その判断には重症児医療の専門家で、
なおかつKatie本人をずっと診てきた発達小児科の医師が関わることが不可欠だ
と私は思うのですが、

この点に疑問を呈する声はいまだに聞きません。

保健省は本当に
「何科の医師であれ医師であれば判断してさしつかえない」と考えているのでしょうか。

それでは、あまりにも無責任ではないかと
私は非常に大きな疑問を感じるのですが。


【追記】
13日午前まで、
「同医師がKatieに初めて会ったのは8月」としていましたが、
その後、時期の間違いに気づいたので訂正しました。
2007.12.13 / Top↑
英国では、それまであった
the Equal Opportunities Commission,
the Commission for Racial Equality,
the Disability Rights Commission
の3組織を1つにまとめ、
10月1日に the Equality and Human Rights Commissionが誕生しました。

同コミッションのHPによると、
平等法2006に基づいて作られたnon-departmental public body(NDPB)で、
活動資金は公金でまかなわれる一方、政府からは独立しているとのこと。

Ashley事件の調査を行ったWPAS(現在はDRW)のような組織でしょうか。
州単位と違って全国版ですが。


その平等と人権コミッションの責任者、 Trevor Phillipsが
英国の障害者関連のニュース・サイト Disability Nowの記事で、
Katieのケースについてメディアの報道姿勢を批判しています。

最も激しく怒りを感じているのは
メディアがKatieのプライバシーを侵害していること。

いったん言ってしまったことは取り返しがつかないが、
新聞はまたこの問題を取り上げるだろうから、はっきり言っておくが、
この子について、またあんな書き方をしたら次は我々が闘う。

あんな報道は許しがたいし、
あれに誰も腹を立てなかったらしいことを考えると、
ジャーナリストとして私は気持ちが滅入る。

メディアはKatieから人間性を剥ぎ取って、
まるで物体であるかのように書いた。
そんなことは絶対に間違っている。

この点については、当ブログでも指摘していますが、
メディア以前に、いくら親でも、
あそこまで子どものプライバシーに関わる事実を広く公表する権利があるかどうか、
という方が私には疑問です。

Disabilities Nowの記事には、その他の立場からもコメントがあり、

保健省のスポークスウーマンは
短期・長期的にみてKatieの健康上の最善が何かという点について
担当医師らと介護に携わっている人たちとが決めることだと述べ、さらに、

Katieの年齢と理解力のレベルを考えると、
医師らが治療への同意が可能かどうかを見極めて、
もしも可能であれば本人の意思も考慮するでしょうが、
まだ未成年なので最終決定は両親になります。

しかし、それは、ごく一般的な医療の場合の判断であって、
問題になっているのが他ならない非治療的不妊処置であることを考えれば、
Mental Capacity Act 2005でも裁判所の判断を仰ぐべきとされているのだから、
保健省の公式見解として、
これでは、あまりにもお粗末なのではないでしょうか。

同記事ではその他に、
障害者団体Scopeのexecutive director、Andy Rickellが、

このケースには、
我々の社会が障害者をどのように遇するか、
また障害者の人権と生殖権をどのように尊重するかという点に関して
基本的な倫理問題があります。

医師らが両親を支持していることを
Scopeは懸念します。
2007.12.12 / Top↑
英国では近年、
障害や病気のある家族の介護負担を担い、
子どもらしい生活を奪われて暮らしている
若年介護者と呼ばれる子どもたち(17万人と推計されます)の存在が社会問題化し、
彼らへの支援の必要が叫ばれていますが、

自分も介護者として子ども時代を送ったという男性が
マイナスばかりではなくプラスもあったと語る
珍しい論調のエッセイがIndependent紙にあります。


かつて多発性硬化症(MS)でどんどん機能が低下していく母親を
介護することが日常だった子ども時代について、
確かに普通とは違っていたかもしれないけど、
それなりに幸福だったと語るのは、Peter Stanford。

介護負担を担う子ども時代にはマイナスもあるがプラスもないわけではない、
現在、自分が障害者団体Aspireの会長を務めているのがプラスの例。
この団体に所属している障害者の子どもを見ていても、
若年介護者だと知ったとたんにソーシャルワーカーが眉をひそめるほどに
彼らがひどい暮らしをしているわけではない、と。

もちろん、
中には過酷な介護生活に苦しみぬいている子どももいるわけで、
誰もが彼のように感じているとは限らず、
若年介護者への支援が整備されなければならない事実は変わらないとは思うのですが、

(そして日本では話題にすらならないけれど
家族の介護負担を担っている子どもは
この国にもいないわけではないと思われることは
非常に気になるのですが。)

ただ、この記事を読んで最も心に残ったのは、
放課後になると急いで帰って母親のトイレ介助をしたり、
転倒したまま床で待っている母親を抱え挙げたりするのが日課だった子ども時代を
そうはいっても悪いことばかりじゃなかったと振り返る時に彼が語る
思い出のささやかさなのです。

当時、英国政府が身体障害者に支給していた車椅子というのは
かなり大きな作りのものだったようで、
その車椅子に乗った母親の足元にクッションを枕にねっころがって、
学校にも送ってもらったし、教会へも出かけた、
同乗するのは規則違反なので
途中でお巡りさんの姿を見るとクッションで頭を覆って隠れた、
お巡りさんを無事にやり過ごすと、一緒に大笑いしたものだった、
あの車椅子に乗っている時の母はどこにいるよりも一番よく笑ったものだった、と。

          ――――――
 
なんというか、ね。
日々の暮らし、日常というのは、どんな境遇にある人にとっても、
こういうものなのかもしれないなぁ……と。

どんな境遇を生きる人にとっても、
日常という名の日々の暮らしには、
ささやかな楽しみや、ちょっとした喜びというものも挟み込まれていて、

心の底に大きな嘆きや悲しみを抱いたままでも、
そんな小さな日々の喜びや驚きや、ちょっとした心配事などに取り紛れながら
一喜一憂して暮らしていたりもするのではないか、
それも1つの幸福ではないか、と思うのですね。

もちろん自分や家族が障害を負ったり病気になることをはじめ、
思いがけない人生の不運や不幸に見舞われた時には危機に直面し、
それまでの日常も破壊されてしまうわけですが、

それでも様々なことにジタバタしながら再順応していったり
いろんなものを拒絶したり受け入れたりしながら
その危機を乗り越える過程で、
新しく直面した事態を織り込んだ日常というものを
人はまた新たに形作っていくんじゃないか、と。

障害者や病者に限らず、
実は誰もがそうしたプロセスを繰り返しながら生きているのかも知れず、

逆に言えば、
人間にはそうやって、
人生で起こる出来事に対して、
自分の日常を更新し、新たに作り直していく力が
ちゃんと備わっているんじゃないかと
思ったりもするのですね。

もちろん、
生身の人間がその身に引き受けられる負担には限界があって、
緊急事態並みの頑張りを強いられる日があまりに長く続くと
どうしても疲弊し、気持ちも体も擦り切れてしまいますから、
支援が不要だということでは決してないのですが、

人の幸不幸は
「こういう条件が整っていたら幸せ」、
「こういう状況だと不幸」というふうに
客観的な状況だけで端から簡単に決め付けられるような
単純なものではないんじゃないか、と。

日々を暮らすということ、
日常というものの中には
実はそれだけの力があるんじゃないか、と。
2007.12.11 / Top↑
ニュースそのものもショッキングで、

妊娠24週目を超えると中絶が違法となるイギリスから
多数の妊婦が送り込まれていたと見られるスペインのクリニックが
違法な中絶の疑いで捜索されたところ、
堕胎した胎児を粉砕して下水に流すための機械が発見された、と。

(そのスペインでは妊娠22週目を越えると違法だというのですが。)



粉砕音が大きいので、
クリニックでは機械の使用は午前の早い時間に限っていたとも。

妊娠8ヶ月の中絶も行っていたらしく、
その方法は胎児の心臓に毒物を注射するというもの。

関係者は逮捕され、
妊婦をそのクリニックに紹介していた機関が英国でも問題視されているのですが、

何とも暗澹とした気持ちになるニュースです。

生まれることのなかった胎児だから人間ではないし、
どうせ捨てるんだから、ゴミと同じだろうとでも?
だから、要らなくなった木箱みたいに粉砕して捨てたっていいだろうと?

やはり、何かこの時代、
とても基本的なところが狂ってきているのでは?


そして何より気にかかるのは、
この記事の最後に、注記のように追加されている以下の記述。

英国政府は
子どもに重大な障害のリスクがある場合に
妊娠後期の中絶を認める新たなガイドラインを作りたいと表明している。

中絶に反対する人たちは、
(現在でも)対象となる異常が定義されていないので、
口蓋裂などの些細な理由で中絶が行われてきたと指摘する。

国会議員の両党委員会が”異常”の一覧を公表せよとの要求を拒否したのに続き、
政府は英国産婦人科学会に新たなガイドラインの作成を依頼すると述べた。

その英国産婦人科学会は、
もっと能力のある患者にベッドを空けるために、
重症障害新生児の安楽死を提唱しているのです。
彼らを「ベッドふさぎ」とまで呼ばわって。


【追記】

その後、以下のように12月5日に
GPの診療所でも中絶薬による早期の中絶を可能とする、
つまり中絶を簡便にできるようにする方向で
保健省が制度の改変を検討しているとのニュースが報じられているのも、
気になります。

この動きが上記のガイドライン作成の動きとつながっているとしたら、
「妊娠の初期も後期も中絶しやすく」ということ?

障害児を生ませないために?



Abortions at GP surgeries under consideration
The Guardian, December 5, 2007

【追追記】
その後、英国では
胎児に障害がある場合には妊娠のどの過程であれ、
また、すでに出産段階であっても中絶できると法律が認めている
という話が議会の議論(11月19日)の中で出ているので、

それを前提に上記記事の追記部分を読むと、

「ガイドラインを作ることによって妊娠後期の中絶を認める」のではなく、
「それを認めるに当たって(条件を明確化する?)ガイドラインを作る」
という意味のように思われます。

いずれにしても、
障害を理由にした中絶を巡る周辺手続きの見直しは
産婦人科学会の重症障害新生児に向ける視線と同じ方向で行われようとしているようです。
2007.12.11 / Top↑
以前のエントリーで紹介した
Katieを巡るBBCのニュース映像(10月7日)の中で、
非常に気になったこと。

このニュースではAshleyのケースについても触れられているのですが、
Ashleyの写真にかぶせたナレーションが
彼女には「珍しい脳障害(rare brain disorder)」があると言っているのです。

実際にはAshleyの障害はKatieとまったく同じ
重い知的障害を伴う重度の脳性まひ」に過ぎないにも関わらず。

日本でも1月の論争で
Ashleyは珍しい病気・障害」だとか
現代医学では治せない難病」などという
誤解が見られました。

これらの誤解は、
当初の論文においてDiekema医師らが
static enthephalopathy with marked global developmental deficits
という“診断名”を使用し、
一部メディアが解説なしにこの表現をそのまま引用したことに起因するものと思われます。
(誤解を招かないよう、実際に意味するところを注釈したメディアもありましたが。)

この、一見ややこしげな医学用語のコケオドシには
Ashleyの状態を実際以上に重く思わせる作為があったのではないかという疑問は、
当ブログの他にもAnne McDonaldさん他、何人かが指摘しています。

そして興味深いことに、
当のAshleyの父親自身、この表現を“診断名”とは受け止めておらず、
診断をつけられなかった医師らがAshleyの状態をこう呼んでいる」と
ブログに書いているのです。

          ――――――

Ashleyのケースについては1月から非常に多くの議論がされてきました。
ところがその中には、
Ashleyはどのような子どもなのか
何が行われたのか
といった基本的な事実すら資料できちんと確認せず、
自分の中にあるスティグマに満ちた「重症障害児」のイメージだけで論じている人が
いかに多いことか。(Peter Singerを含めて。)

上記Katieのケースについてニュースを書いた記者も
ろくに原資料に当たらず書いたのでしょうか。
あまりにも障害について無知だったのでしょうか。

しかし、英国で2例目が行われるかもしれないとのニュースの重大性を考えれば、
10月に至ってなおstatic encephalopathyに目をくらまされたまま
「Ashleyは珍しい脳障害」とは、

その無知も事実確認の欠落も、あまりにも無責任。
2007.12.10 / Top↑
英国の薬物誤用諮問委員会の調査で、
ボディ・ビルダーとティーンエイジャーを中心に、
アナボリック・ステロイドの濫用人口が増えており、
12歳の男児までが、遊び仲間のグループに入ったり女の子をゲットする目的で使用している、と。


現在ステロイド剤の規制は供給サイドのみが対象で
パフォーマンス強化の目的で所持することは違法ではないため、

副作用が軽視されていることを懸念する委員会は、
スポーツにおいて使用が違法とされている26のステロイド剤について
禁止するよう政府に求める予定とのこと。

薬物チャリティTurning PointのVictor Adebowale 卿は
エリート・アスリートは分かってやっているからいいが、
12、13歳の使用が増えているのは極めて遺憾だと。

         ---      ---

もちろん子どもへの副作用も大きな心配ですが、
ステロイドの使用だけではなく、

美容形成外科技術の濫用にせよ、
デザイナー・ゲノムやらベイビーにせよ、
チップの人体埋め込みにせよ、
病気予防のための健康な臓器摘出にせよ、
諸々の便利な生殖補助技術にせよ、
そして“アシュリー療法”にせよ、

個々に「リスク対ベネフィット」の検討によって是非が云々されているうちに
そんな個々の判断をよそに、
こうした動きが全体として大きなうねりとなって、

体は思い通りに変えられるし、安易に変えてもいいのだという文化を
じわじわと広げていくことの方が、
よほど問題なのでは?

そういえば日本でも、
美容形成外科のコマーシャルで言っていますね。

「自分が決めたワタシになる」

ゼニ儲けしたい人がそう思わせたいだけです。

なれません。そんなもん。
2007.12.10 / Top↑
もともと自分勝手な人間が権力を握りやすいのではなくて、
権力を握ることによって、
人間は自分本位にものを考えるようになるのだとか。

そういう心理学の実験を行ったのは
Northwestern University of Kellogg School of Management。

自分の思い通りになった体験を思い出させ、
権力を行使する体験をさせた学生のグループと、

自分の思い通りにならなかった体験を思い出させ、
権力を行使される側の体験をさせた学生のグループとに、

マーカーを渡して額にEの字を書いてもらったところ、

権力を行使する体験をした学生は
自分の内側から見て正しくEになる文字を書いたのに対して、

権力を行使される体験をした学生は、
自分の正面にいる人から見てEに見える文字を書く傾向があった

という報告が Psychological Scienceに掲載された、と。
(Washington Post 11月26日)

WPの記事のタイトルも、まさしく
With Power Comes a Selfish Point of View
「権力には自分勝手な視点がついてくる」

この程度の実験ですら、
権力を体験した学生は
あっという間に他者の視点からものを見る能力を失ったのだから、

ムシャラフとかフセインなど非道な独裁者は最初から人間性に問題があって、
そういう人間だからこそ権力を握ったのだという通説は
間違っているのかもしれない、

むしろ集団というものは
多数の意見に耳を傾ける、人間関係の巧みな(socially intelligent)人をリーダーに選ぶので、
権力を握るために必要なのは他者の立場を理解する能力なのだけれども、

そういう人がいったん権力を握ると、
他者の立場を理解する能力が失われて、
ものの考え方が単純になり、
自分の利害ばかりを考えるために、
衝動的に見えるのではないか、と。

別の実験では、
自分が権力を握っていると感じるように操作された人は、
みんなで平等に食べた後1つだけ皿に残ったクッキーに
平気で手を伸ばしたそうで、

しかも、そのクッキーを口をあけたまま、
ぼろぼろとシャツにこぼしながら食べたのだとか。

権力を握ると、
他者の目に自分がどう見えるかというのも気にならなくなって、
だから愚かしいセリフを恥ずかしげもなく吐けるようになるんだとか。

……なるほど。
2007.12.09 / Top↑
前回のエントリーに引き続き、
10月8日のBBCからKatieケース関連の記事。
“Wait and see the best approach”

医療倫理学者Daniel SokolがKatieケースについて論評したもの。

主な論点は
・子宮摘出術が本人の最善の利益にかなうかどうか、全く不明。

・実際に生理が始まるのを待ち、Katieの様子を見てから判断するのがよい。

人の幸福には心理的、情緒的な要因が関わっているので、ただ臓器の機能だけで考えてはならない。

健康な人がそういう状態になった自分を想像してみた場合に比べて、慢性病の人や障害者は自分のQOLを高く評価するとの研究結果もある。

我々の想像力は、未来を想像したり仮定的な状況を考える際に悲観的な図を描く傾向があることに気をつけなければならない。

・このような難しいケースで意思決定を行う人は、道徳的な問題やその他の選択肢などのすべてを検討し、なおかつ強力なジャスティフィケーションができる決定を行わなければならない。

・それらが満たされた場合には、いったん意思決定が下された後は決定者を批判するのではなく支持する方が良い。Katieの幸福は母親の幸福と完全に切り離されるものではないから。

最初の2点はこれまでにも当ブログで指摘してきた点で、全く同感。

最後の2点の代理の意思決定についての指摘には、
英国では10月1日に新しい成年後見法である
Mental Capacity Act 2005が全面施行になったばかり
という事情を考えさせられます。

Sokolの考え方そのものは、
MCAの代理決定の理念に沿ったものなのかもしれませんが、

しかしMCAにおいても、
非治療的な不妊処置については裁判所の判断を仰ぐべきこととされているので、
KatieのケースについてはSokolの主張では十分ではないことになります。

現にこの後、 Katieケースの判断は裁判所に持ち込まれました。

それにしても、
英国医師会はMCAの施行を前に4月の段階で
医療者向けMCAに関するガイダンスを出しており、その中で、
非治療的な不妊治療の他にも裁判所の判断を仰ぐべき事項をいくつか明記しているのですが、

医療倫理学者が何故こうした法的な規定を知らないのか、
とても不思議です。


       ――――――       ――――――

しかし、この論評で最も印象的なのは太字にした真ん中3点の指摘でした。

健康な人が想像してみた場合には実際に障害のある人よりも不幸に感じるという研究結果が
具体的にどういうものかは分かりませんが、
これは私自身もずっとそうじゃないかと想像していたことで、

例えば人はよく
「寝たきりになって家族に迷惑をかけてまで生きたくない」とか
「認知症でボケるくらいなら、いっそ死んだ方がまし」
などと、日常生活の中で軽い気持ちで口にします。
(当事者や家族が聞いたらさぞ不快でしょうが、もちろんそういう人が不在の場で。)

が、それは非常に確率の低いこととして、
または起こるとしても、ずっと遠い先のことだとの前提で、
もしかしたら、心のどこかで自分だけはそんなことにはならないとタカをくくりつつ、
深く考えずに言っているだけなのではないでしょうか。

現実にそういう事態に陥ってしまった時に、
「本当に死んだ方がまし」とその人が思うかどうか……。

実際にそういう現実を生きている人たちの手記などを読むと、
障害を負った当初こそ死にたいと思うことがあっても、
それなりに生きる希望を見出していく人も沢山あるように思われ
人間とは案外したたかで強い生き物なのかもしれないと
思わせられたりもします。

健康な状態で想像するのと、
実際に障害を負ったり病気になって感じることとは、
本当はずいぶん違うのかもしれません。

それを考えると、
知的機能が低いことに嫌悪をあらわにするトランスヒューマニストらや
Norman Fostらのように「生きるに値しない命」に線引きをしたがる「無益な治療」論者たちは、
実は「自分だったら、そんな状態になるより死んだ方がまし」と恐れる気持ちを、
現実にそういう状態にある人に勝手に投影しているだけ、なのかも?
2007.12.08 / Top↑