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シアトル子ども病院での生命倫理カンファレンスでは、何人かが講演をした後で、まとめてパネルで会場からの質問に答えるという形式がとられています。最初のパネルを聴こうとしているのですが、聞き取り能力にも問題があって、ちょっと苦労しています。ただ、思いがけない人が会場にいたので、そこのところだけ先にご報告。

7月13日午前のパネルで、会場から発言した人の中に、テキサスのEmilio Gonzalesのケースで病院の延命治療停止の決断を行った委員会のco-chair(委員長の1人)だったという医師がいました。

【追記】その後、何度かパネルを聞きなおしているうちに、以下の部分について当初の私の理解よりも一般論として語られていることに気づいたので、手直ししました。(9月3日)

彼女の発言の要旨は以下。【議論の流れとしては、最近は親の意向を尊重するトレンドであるという話の中での会場からの発言でした】

あの事件では、母親の方はメディアに平気でいろいろしゃべったが、病院には守秘義務からメディアに明かすことの出来ない事情というものが沢山あった。病院としては基本的に親の意向には沿う方向で考える姿勢だが、親にもいろいろな人がいて、子どものための決定を行う能力のない人もいる。私が言っているのは、このパネルで今しがた話し合われていたような資源の問題だけでなく、メンタル・ヘルスの問題、その他様々な問題を含めて。そのように親の決定能力を考え、子どもの最善の利益を考えたときに、親の意向に逆らって病院が決断しなければならない場合があるということ。

資源の問題というのは、その直前まで話題になっていた「治療にかかるコスト、保険の有無、また保険会社が払うかどうか、さらに親に自腹で治療をまかなえる資力があるかどうか」といった問題のこと。

一般論として語っていますが、エミリオの母親には子どもに代わって意思決定を行う能力がなかったと言っているのでしょう。特にメンタル・ヘルスを触れていることからすれば、母親に知的障害または精神障害があることを匂わせているのではないかと思います。

確かに報道の中には、病院でエミリオ本人のケアに当たっている看護師らには、エミリオが苦痛を感じていることが如実に感じられて、見ているのも辛いほどなのに、母親がそれを笑顔だと言い張っている、はたして「苦痛にゆがむ顔か、それとも笑顔か」といった話もあったように思います。病院が母親に相当てこずっていたらしい雰囲気も充分に感じ取れました。

確かに、どういう人だったのか、何があったのか、直接体験した人にしか分からない事情はあるでしょう。

しかし同じ状況で、最後まで力を尽くしてもらいたいと望む家族は他にもいるはず。障害がなくても同じことを望む家族がいる可能性があるのに、仮に障害があったからといって「そう望むのは親に障害があって理解できないからだ、この親には子に代わって意思決定を行う能力がない」という解釈になるというのも……。

子どもの側にせよ、親の側にせよ、どうして知的機能に障害があるということに医者も生命倫理学者も、これほど大騒ぎをするのか。なぜ、そんなに簡単に「どうせ何も分からない」、「決定する能力がない」などと短絡的な全否定になってしまうのか──。

それが、“アシュリー療法“論争の始めから、ずうううううっと、分からない。
2007.08.31 / Top↑
知的障害者と「無益な治療」という概念を巡って、ちょっと古いのですが、とても気になる事例を見つけたので……。

知的障害のある男性がカリフォルニア州MercedのMercy Hospitalに救急搬送された。症状は腹痛と呼吸切迫。しかしオン・コールの外科医は男性の治療のために病院に来ることを拒否し続けた。記録によると、外科医は男性の知的障害について差別的な発言を繰り返した。その中には「死んだって、どうせ誰も悲しまない」という言葉も。男性は蘇生努力の甲斐なく心臓発作で死亡。15年間board-and-care home(ケア付き住宅?)で暮らした人だった。

出典は以下。(病院による患者遺棄の実態をまとめた2001年7月の報告ニュースです。)
http://www.commondreams.org/news2001/0712-09.htm

Fostが今年7月の生命倫理カンファレンスの講演の中で触れていた「基本的に患者を捨てさせないために作られている」という法律は、1986年のEmergency Medical Treatment and Active Labor Act(EMTALA)。別名Patient Dumping Law。病院の救急部門が検査や状態の安定をはかる治療を拒んだり、状態が安定していない患者を不当に他所に移した場合には、その病院は患者を“捨てた”とみなす、というもの。

上記事例は明らかにその法律に違反しているのですが、どうやら罰金は科せられなかったようです。(この事例を含め報告をまとめたPublic CitizenというNPOが把握している2001年4月時点。なお、事例がいつ起こったものかは明記されていません。)

罰金って……。ほとんど殺人だと思うのですが。だって、これ「未必の故意」なんでは……?
(無知なままの素朴な疑問です。)

それにしても知的障害があったら、家族以外の誰とも繋がるということができず、世の中の誰とも何処とも繋がりというものを一切断たれ、ぽつんと孤立して存在している……などと、どうして考えられるのでしょうか。

その男性にも家族があり、友人だっているであろうことが、なぜ想像できないのか。ケア付き住宅で暮らしていたというならば、適切な支援を得て自分なりの生活をしていた人なのでしょう。彼なりの居場所があり、人生があり、日々の様々な出来事があり、人との出会いや繋がりもあったのです。そこには彼を取り巻く人々が確かにいたはず。どうして「誰も悲しまない」と勝手に決め付けられるのか。
  
          ――――――――――――――――

非常にショッキングな事例ですが、私がこれを読んで思い出したのはPeter Singerが1月26日にニューヨーク・タイムズ紙に書いた“アシュリー療法”論争についての論評“A Convenient Truth”。特に以下の一節。

she is precious not so much for what she is, but because her parents and siblings love her and care about her.

アシュリーは、ありのままの人として大切なのではなく、両親と兄弟が彼女を愛し心にかけているがゆえに大切なのである。

これは、つまり「仮にアシュリーが死んでも、どうせ両親と兄弟以外に悲しむ人はいない」という、上記の外科医と同じ認識でしょう。では、Singerは両親と兄弟さえいなかったら、アシュリーが死に瀕していても「どうせ誰も悲しまない」から助けなくてもいいと?

P・Singerはこれを書いた際に、この認識を救急医療に持ち込んだ場合、上記の外科医のような行為に結びつく可能性を考えてみたでしょうか。それともSingerがこの外科医だったら、「救命治療はしないが、苦痛を取り除く処置だけはしよう」とでも言うのでしょうか。

「救命治療は無益だが、苦しまずに死ぬことが本人の最善の利益だから」と?
2007.08.30 / Top↑
これも、前からずっと疑問に思っていたのですが……

医療決定が問題になり裁判所の判断が仰がれたケースはニュースになりますが、それはいずれも意見の不一致、コンフリクトがあったからこそ問題になるのだということは、案外に見落とされている事実なのではないでしょうか。

医師と家族の間に意見の不一致がある(AbrahamGonzales)、または家族の間にコンフリクトがある(Strunk)、という場合に、裁判所の判断を仰いでまで決着をつけることになるのは、いずれかのサイドが意を通すためにコトを裁判所に持ち込むからですね。しかし最初から意見が一致していた場合は、盲点になっていないでしょうか。その場合、仮にそれが子どもの最善の利益にならなくても、裁判所の知るところにはならないし、医療判断が問題化されることもないように思うのですが。

Gonzalesのケースで言えば母親と医師らとの間に延命治療続行を巡って意見の対立があったから判断が裁判所に持ち込まれたのであり、逆に医師らが「呼吸器は無益だから中止しよう」と言い出した時に母親が「そうですね。じゃぁ、そうしてください」と同意していたら、エミリオの治療は病院の外には知られることもなく停止されていたことになります。

では「当人の最善の利益」という概念もまた、意見の不一致、コンフリクトが存在しないケースでは、実は機能しないということにはならないでしょうか。例えば、それほど重い障害や病気でない場合にも、家族が「五体満足でない子どもはいらない」と言い、医師らもFostのように「どうせQOLが低いのは分かりきっている」と考えて、「コストをかけて救うほどの命じゃない。無益」と双方の意見が一致した場合には、子ども本人の最善の利益を代弁する人など存在しないまま、治療は停止されることになるのでは?

これ、案外コワイことじゃないでしょうか? 現に遺伝子操作をしてでも完璧な子どもがほしいという親もいれば、Fostのように、知的障害のある人が大人の体をしているのは気持ちが悪いと放言してはばからない医師もいます。彼は知的障害者の命そのものが無益だと感じているようにすら思えます。たまたま、そういう親と医師の組み合わせだって、ありえないことではないでしょう。



そして実はアシュリーの事件でも、本来なら一致するはずのない親と医師の意見が一致してしまったことが、アシュリーに行われた(子宮摘出のみに留まらない)医療処置の判断が裁判所に持ち込まれなかった唯一の理由だったのでは……? 
2007.08.29 / Top↑
一連の報道から事件の概要を以下に。

Emilio Gonzales君はLeigh病(中枢神経を侵される遺伝性の障害)で見ることも話すことも食べることもできず、生後14ヶ月時の昨年12月からテキサス州オースティン子ども病院の集中治療室に入院、人工呼吸器を装着していた。呼吸器をはずせば数時間以内に死んでしまうという状態。

Leigh病には治療法がなく、この状態はEmilio本人に無駄に苦痛を与えているとして3月12日に開かれた病院の倫理委員会(非公開)は治療の停止を決定。

テキサスには現大統領のジョージ・ブッシュが知事だった1999年に出来た「無益なケア法」が存在し、医師・病院が無益だと判断した治療は本人や家族の意向によらず停止することが出来る。ただし、転院先を探す猶予として、治療の停止を患者サイドに通告した後10日間待たなければならない。

Emilioの母親は息子にはモルヒネが投与されているから苦痛はない、自分に反応を返してくれると主張。人工呼吸器をつけたまま自然な死を待ちたいと、治療の停止を拒否。無益なケア法と病院側の決定の合憲性を争う裁判を起こし、病院は治療の続行を命じられた。

転院先は見つからず、その後上訴審で裁判所に任命された法定代理人は病院側の主張に沿った報告書を出したが、ヒアリングの日程が延びている間の5月19日、Emilioは急変し母親の腕の中で息を引き取った。

このケースにも、アシュリー療法論争で見覚えのある名前が登場しています。4月25日のCNN。登場するのはArt Caplan とLainie Rossです。Caplanは“アシュリー療法”問題に多少でも興味を持って調べた方ならお馴染みでしょう。1月のニュースブレイクからCNNにも出ていたし、あちこちのニュースでコメントが引用されている批判派生命倫理学者の筆頭でした。Lainie Rossについては最近このブログで紹介したばかりですが、“アシュリー療法”では1度だけ、おざなりな擁護のコメントがあります。面白いのは、この2人のEmilioのケースでの判断がちょうど“アシュリー療法”での判断の逆になっていること。

“アシュリー療法”に断固反対したCaplanがEmilioのケースでは「親の理解が間違っていることもある。親だからといって不毛な状況で子どもに苦痛を与える権利はない」といって病院の判断を支持。逆に”アシュリー療法“では本人にとってのベストだといって擁護していたRossが、Emilioのケースでは「彼の命が生きるに値するかどうかを決められるのは医師ではなく親。QOLが良いかどうかを決める権利があるなんて、何様のつもり? 私の子どもだったら何ヶ月も前に中止してもらっているけど、でも私の子どもではないのだから」と反対。

それぞれCaplanは子ども本人の視点から考えるというスタンス、Rossは親の決定権を最大限に尊重するというスタンスだと理解すれば、いずれのケースでもそれぞれの考え方は筋が通っていると言えるでしょう。

Rossはさらに無益なケア法を批判して、この法律のもとに既に何度も治療が停止されてきたが、貧しい家族に対して利用されることが多いと指摘し、次のようにコメントしています。

無益なケア法は貧しく弱い立場の人々に対して使われることが多くなるでしょう。このゴンザレス一家が息子を家庭でケアするための看護師を雇えたとしたら、我々はこんな議論はしていなかったはずです。

人工呼吸器を装着しているほどの重症児を家庭でケアするために看護師を雇える家庭というのが一体どのくらいあるとRoss医師は考えているのか。かなり庶民の感覚とはかけ離れているのではないかと思うのですが……。それはともかく、病院側のホンネがコストだという指摘はいかにもありそうです。

それにしても“アシュリー療法”論争での同医師のコメントのおざなりさと比べると、この問題に対してRossは非常に熱がこもった発言をしているという印象があります。

        ―――――――――――――――――

なおテキサスの無益なケア法については、障害者の人権擁護団体Not Dead Yetが2006年5月1日付で「テキサスの“無益なケア”法は安楽死させるべき」との声明を出しています。“アシュリー療法”論争にも強く抗議した団体です。この声明でNot Dead Yetは無益なケア法の問題点として、治療が客観的に無益である必要がなく、QOLなど医師の主観的な基準であったり治療にかかるコストが考慮されたうえでの治療拒否である点が指摘されています。そして、医師にこれほどの権限を持たせてもいいのか、そもそも果たして合憲なのか、医療消費者はよく考えてみなければならない、と疑問を呈しています。

この指摘を念頭に、今年のトルーマン・カッツ・センターの生命倫理カンファレンスにおけるFost講演Wilfond講演をもう一度見直してみると、まったくもって的を付いたNDYの懸念だと改めて痛感します。

【追記】それにしても気になるのは、ここでも倫理委員会が非公開であったこと。病院サイドは何度も「問題はコストではない、本人に無益な苦痛を与えていることだ」と弁明していますし、記事によっては「治療にいくらかかっているかすら知らない」とも言っていますが、議論が非公開では俄かには信じがたいでしょう。
2007.08.28 / Top↑
シアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児科生命倫理センターは
2005年から毎年夏に小児科生命倫理カンファレンスを開催しています。

そして過去3回のカンファレンスのプログラムを眺めてみると、
以下のように、このカンファレンスには
“アシュリー療法”論争に「客観的・専門的な立場で登場して擁護の発言」をしていた顔ぶれが
頻繁に登場しているのです。
(センター職員のDeikema、Wilfondは当然のことながら省きます。)


2005年(第1回)  Norman Fostが両日とも講演。パネルに参加。
             Lainie Rossが講演。

2006年(第2回)  Lainie Ross が両日とも講演。
             Joel Fraderが講演。

2007年(第3回)  Norman Fostが両日とも講演。パネルにも両日参加。
             Lainie Rossが両日とも講演。パネルに参加。


先月7月13日のカンファレンス初日冒頭では、
まずセンターのディレクターであるWilfond医師が開会挨拶をしています。

その中でWilfondは、
2年前の第1回からこのカンファレンスを中心になって担当してきたのはDiekema
と語りました。

これはやはり、
「“アシュリー療法”論争で擁護に出てきたドクターたちが、子ども病院のカンファレンスにも出ていた」
というのではなくて、

子ども病院主催のカンファレンスにたびたび出るような関係にあったドクターたちが、
”アシュリー療法“論争に出て擁護していた

というのが正しい理解なのではないでしょうか。
2007.08.27 / Top↑
Fostの講演のあとでWilfondの講演を聴いてみると、2人の講演内容は、”アシュリー療法“を巡っての、あのScientific American.comのメール討論のそれぞれのスタンスを「無益な治療の停止」という問題に一般化したものとも言えそうです。(メール討論の詳細については「擁護に登場した奇怪な人々」のNorman Fost, Joel Frader, Benjamin Wilfondの記事を参照してください。)

この講演でのWilfondの結論は、「無益な治療」議論においてコストは一定の比重を占めているが、コストの問題ばかりを重視するのは止めよう、医療費全体の中で考えればたいしたコストではないのだから、というもの。

Wilfondが挙げた主なポイントは、

・コストはあくまでも政策上考えざるを得ない社会の問題であり、もともと本人の最善の利益を考える際の「リスク対利益」という医療の検討の枠組みには、コストへの考慮は含まれていない。

・医学的には必要なくても、親の安心になるとか確認のためなど、心理社会的な目的で行われる医療行為もあり、そのような心理社会的な目的にかなうということも治療の利益には含まれる。

・Fostともう一人の講演で触れられていた子どものQOLについては、アセスメントが極めて難しい。特に重症障害児の場合には、その子や家族の現実の生活に直接触れることがなければ、その子どもにとっての生活がどんなものか知ることはできない。QOLとコストのバランスの議論では、分かりやすいコストの方が注目されがちである。

・コスト対利益の議論では、誰の視点でそのバランスを考えるかによって答えはまったく違ってくる。我々は子どもの視点で考えるのか親の視点なのか、それとも社会の視点で考えるのか。

・小児科ではfutileという言葉よりもlethal conditionという言葉をよく使うが、このlethalityという概念も曖昧なまま使われている。死亡率の高さでカテゴライズするのか、死ぬまでの時間を基準にするのか。治療しなければ死ぬという意味で捉えれば非常に多くが含まれることになる。

・特に重症障害児の親の要望には特別な注意を払いたい。重症障害児は我々の社会で最も非力な存在である。我々はそのような子どもたちをケアしたくないというのだろうか。彼らをケアできない社会は誰をケアすることもできない。重症児には居場所のない社会を我々は望むのだろうか。

・我々は本当にその人の生産性によって治療の続行を決めるような社会でありたいのだろうか。

・人工呼吸器をつけた重症児が家庭で暮らしている場合、本人と家族の双方が悲惨な生活を強いられているケースもあるが、子どもを家族の1員としてそれなりに豊かな家庭生活を実現する家族もあり、様々。そういうケースには時に外に出るためには2台の呼吸器が必要となるが、そういう家庭に2台の呼吸器を持たせてあげるだけの資源が我々の社会にはあるのか、ないのか。ウィスコンシン州ではそういう家庭に在宅のナーシング・ケアを1日16時間提供している。アリゾナ州に行くと8時間になる。「家族だって働いたり寝たりするじゃないか」と聞いてみると、アリゾナ州の返事は「働きたいのまで州は責任をもてない」。我々はそれだけの資源を持っていないのだろうか。

そして、Wilfondのむすび。

その子に障害がなかった場合と同じ判断を。
そして、議論の中でコストを主たる正当化に使うのはやめよう。

(ただし、Webcastで1度聞いただけなので、細部については正確でない部分もあると思います。また病名など専門用語が多用された箇所については分かりにくく、上記のまとめに含まれていません。必要な方は直接ご自身で確認してください。)

       ――――――――――――――――

Wilfondは明らかに恩師であるFostに反論しています。しかも、あのメール討論に比べると一般論だからか格段にきっぱりしています。2人の講演に見られる「無益な治療」、「QOL」、「コスト」を巡る考え方の違い、重症障害児に向ける視線の違いを考えると、あの“アシュリー療法”を巡るメール討論でも、Wilfondは実はFostに対してもっと反論があったのではないでしょうか。

Wilfondの講演の後、Diekemaの“Thank you, Ben”が非常にそっけなく冷淡に聞こえたのは、気のせいでしょうか?
2007.08.26 / Top↑
Norman Fostの講演 Parental Request for “Futile” Treatmentの趣旨を簡単に。

まずこの問題の典型と思われるケースを紹介。

Baby K : 無脳症で生まれ、母親の望みで病院は2年間人工呼吸器に繋いだ。

②エミリオ・ゴンザレス :テキサス。レイ病。1歳半の男児。
テキサスにはthe Futile Care Lawがあるので医師らが治療停止を求めたが
母親が認めず、上訴審の最中に死亡。

③Fost医師が直接関与したケース。家のプールでおぼれて植物状態になった子ども。
親は家庭での人工呼吸器装着を望んだが、
医師はfutileだとして親の同意がなくても治療は停止できる、停止すべきだという意見。

(エミリオ・ゴンザレスのケースについては数ヶ月前からフォローしており、
いずれ紹介しようと考えていたので、近く別にエントリーを立てるつもりです。)

これらのケースで問題になるのは、
技術的に延命は可能であるものの、
コストと手間がかかり延命による本人への利益もないこと。
親が治療を望んだときに医師に拒否権があるかどうかという点。
その際に問題になるのが治療のfutility(無益さ)という概念である。

しかし、医学的なfutilityの概念には量的futilityと質的futilityとがある。

前者は、例えば生まれつき肺がない子のように、治療しても助からないことが明らかな場合。
これは医師が決めることのできる医療判断になる。

後者の質的futilityの判断とは、
救命の可能性はあるが助かってもQOLが低く、
助ける努力をする価値があるかどうかが問題になるケース。

しかし、どちらの概念も問題をすっきり解決してはくれない。
前者の量的futilityには、助からないという事実の証明は不可能だという問題がある。
かつての超未熟児や狂犬病で
「今まで助かった子がいない」のは単に「それまで助けようとしたことがなかった」からだった。
珍しい病気では研究されるにつれて救命率が上がっていくのが普通。
助かる確率はこのように変わるものだし、
さらに100人に1人でもいいのか、10000人に1人ではどうか。
親から見ればどんなに低い確率でもゼロではないのだ。
しかし、では1人の患者に治療効果を出すために
10000人を治療するのかという話になる。

結局はそれだけのコストをかけることを社会が容認するかどうかの問題。

例えば宇宙飛行士が宇宙に取り残されたとしたら、
我々はどんなにコストをかけても救出に向かう。
ロシアの潜水艦に乗組員が閉じ込められた事件でも、
ケネディ家の息子が飛行機事故で行方不明になった時にも、
莫大な救出費用が投入されたが批判は出なかった。
それらの人たちにはそれだけの価値を社会が認めていたからだ。
このような判断は倫理の判断であり、医学の判断ではない。
医学はそのような判断に対して確率という数量的なアセスメントを行うだけで、
その先は倫理上の判断だ。

次に治療が有効な場合の質的futility。
たとえば私がエミリオ・ゴンザレスの担当医だったら、
人工呼吸器が有効だという点では母親の意見に同意するが、
それだけの努力をする価値はないと考える。
コストが大きいだけでなく、
助かった場合にもQOLは非常に低くて、子ども自身の利益にならない。
したがって治療を続けるに値しない。

これは親と医師が医学的事実についての意見が一致していないのではなく、
コストも念頭に置いた倫理上の判断になる。

親と医師ではなくて社会が認めるかどうか。
それによって、どこに一線を画すかという問題。
ここでも医師は医学的事実の提示は出来るが、その先は倫理上の判断となる。
このように量的futilityと質的futilityは境が曖昧である。

裁判所の役割について。

医師が治療のfutilityに関連して判断に迷い裁判所の意見を求めると
まず医師のやりたいようにはできないと思え。

なぜなら法律は基本的に病院に患者を捨てさせないために作られている
無保険だからとERから放り出された妊婦が道端で出産するといった事例は実際に起こっており、
それを避けるために法律はあらゆる患者をまずは安定させるように求める。
本来は安定させて転院先を見つける猶予を作るのが目的だが、
安定させると同時に生命の危機状態ではなくなるので、
その時点で親の同意の問題どころか、延命治療を巡る判断の必要そのものが消失する。

だから、判断に困って裁判所に「どうしたらいいか」などと相談しないことだ。

では、仮に裁判所の判断を仰ぐことなしに、
親の意向に逆らって治療停止をしたら、一体どうなるか。

いまだかつてアメリカの医師が
どんな年齢の患者であれ、どんな治療であれ、
延命治療の停止によってliabilityを問われたことは
民事・刑事いずれにおいても皆無である。

いったん有罪になった訴訟はあるが、最後には覆っている。
末期患者の自殺幇助で有罪となり先ごろ出所した“Doctor Death”ことKevorkianのように、
自ら有罪になろうと必死になった医師ですら、
あれほどの努力と歳月を要したのだ。

要するに病院と医師には大きな自由裁量が与えられているということだ。


「価値があるworth it」とか「それだけの価値がない」という表現が頻繁に使われ、
宇宙飛行士やロシアの潜水艦乗組員、それからケネディ家の息子らが、
「救命に莫大なコストをかけても価値があると社会が認める人たち」の例に使われたことが気になります。

アシュリーのことを「シボレーのエンジンを積んだキャデラック」に比したFostの人間観が、
ここでも如実に表れています。

彼は人間の社会的評価や地位と、人の命の価値とを混同していないでしょうか。

それでは事故で行方不明になった重症障害児は捜索しなくてもいいとFostは言うつもりでしょうか?

ケネディ家の息子なら植物状態になっても、
膨大なコストをかけてケアしひたすら奇跡を待つとでも?


            ======
 

問題になっているのは治療がfutileかどうかという点であるのに、
Fostは「量的futility」、「質的futility」というワケのわからない言葉を持ち出すことによって、
治療のfutilityを患者その人やその人の命または人生のfutilityへと問題を摩り替えていると思います。

さすがにDiekemaの恩師というべきか。
問題のすり替えの巧妙さにおいてはこの2人、ほとんど天才的です。 

しかも、「社会が認めるかどうか」の判断こそ、
すなわち裁判所の判断なのではないかと私は思うのですが、
Fostは裁判所など無視しろと言っているのも同然。

結局、「社会が認めるかどうか」については外部の判断を仰がず、
医師の主観で「この子には社会が延命コストを認めないだろう」と思えば
治療を停止しろと勧めているのでは?


           ----

最後にFostはextraordinary、viabilityなどのキーワードを解説しますが、
その中でいかにも「ステロイドの専門家」らしいのが
「“治療”treatmentと“強化”enhancementの違い」についての解説でした。

成長ホルモン障害があって背が小さい男児がいる。
彼は「治療」の対象になる。

もう1人の男児は普通に背が低い。
2人が結果的に同じ身長だったとしても、
後者の男児に成長ホルモンを投与するのは「強化」になるため、してはならない、といわれる。

なぜ前者にはしてもいいことが後者にはいけないのかが明確ではない。
ただ医師が手前勝手なレッテルを使って判断基準を代えているだけだ。
もっとも、この傾向も少しずつ変わりつつある。

この部分については、
聴衆がそれまでほど素直についていっていない感じがしましたが、
気のせいかもしれません。
2007.08.25 / Top↑
7月13,14日の2日間にわたって行われた
シアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターでの生命倫理カンファレンス。
第1日目の最初の講演者は、このブログでも何度かに分けて取り上げてきたNorman Fost医師。
(詳しくは「擁護に登場した奇怪な人々」の書庫を。)

Webcastで聴いたものなので、細部については聞き漏らしや聞き間違いもあるかとは思いますが、
Fost医師のプレゼンテーションについて分かる範囲で。

まず、カンファレンスで司会を務めたDiekemaがFost を紹介する場面で、
思いがけず、このブログで以前から指摘してきた可能性が裏付けられました。

Diekemaが mentor of mine だとFostを紹介したのです。

Fostも講演の冒頭、
DiekemaとWilfondが2人ともウィスコンシン大学でレジデント研修を行ったことに触れました。
なるほどWilfondは現在も同大の教授も兼務しています。
FostはDiekemaにとって恩師であっただけでなく、Wilfondにとっても恩師。
やはり思ったとおり、3人には“ウィスコンシン大繋がり”があったのです。

Fostは講演冒頭で“アシュリー療法”論争にも触れました。
カンファレンスの主催者でもあり、
教え子2人の所属しているトルーマン・カッツ・センターを持ち上げてみせた際です。
アシュリーのケースで同センターが果たした役割について、
「あんな論争を自ら求めるなどということは病院のCEOにとって大変な勇気を要することであり、
普通の病院ならあんな面倒(plague)は避けたかったはず。
それにもかかわらず、“アシュリー療法”を世に問い論争を行ったのは、
オープンな議論でよりよい解決を模索しようとの
センター創設者トルーマン・カッツの理想通りのユニークですばらしい姿勢」と。

このブログでの検証によると、
あの論争を世に問うたのはアシュリーの両親であって、
医師らは親のブログが世に出るまでは、
まず2年以上も事実を隠蔽し、
次に論文では嘘や隠蔽やマヤカシを行い、
親のブログがすべてを公開して以後は親の言うことをそのままオウム返しにしながら、
肝心の倫理委での議論については未だに口をぬぐって誤魔化しているのではないでしょうか。

しかし、触れなくてもいい話題なのに、わざわざ冒頭で持ち出すあたり、

うがった見方をすれば
アシュリー療法論争がFost医師の意識に引っかかりを残している証拠かも知れません。

講演タイトルは、Parental Request for “Futile” Treatment
現在の医療の現場でfutilityという概念の意味するところと、その周辺事情を解説し、
医師としてどのように対処するべきかをアドバイスするというものでした。
その詳細は次回に。
2007.08.25 / Top↑
7月13-14日のシアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センター主催のカンファレンスにはFost、Fraderの他にもう一人、“アシュリー療法”論争で擁護のコメントをした医師が登場しています。シカゴ大学のカマー子ども病院・マクリーン臨床医療倫理センターassociate directorである Lainie Ross。

彼女はSeattle Post-Intelligencer(1月5日)の記事にWilfondに続いて登場して、以下のように述べています。

成長に問題のある子どもに対して10年間もホルモン投与が行われることもあり、アシュリー療法は特にユニークなものではない。成長に問題のある子どもに障害があれば、自分だったら、痛い注射をわざわざするに及ばないと親に言ってあげるだろう。生涯座ることができない子の背をいっぱいまで伸ばすのか? 本人にとっての最善を考えなければ。アシュリーの両親はほめられるべきことをしたのであって、それで裁かれるのは間違っている。

(この中の「痛い注射をわざわざするには及ばない」という箇所は、ちょっと意味不明です。まさか「ホルモン投与はパッチで可能」という意味でしょうか。「痛くてコストと手間のかかる注射を定期的にしなくても、1回限りの処置で済む」というのは担当医が論文で書いていた子宮摘出のメリットだったのですが、ここでRossが言っているのは成長抑制のこと。もしかしたら、Ross医師はアシュリーに行われたことをきちんと把握していない……? それとも主治医らの論文のように、表向きは成長抑制のみに触れつつ、そ知らぬ顔で子宮摘出もついでに合理化したつもり……?)

ちなみにシカゴ大学のサイトにあるプロフィールによると、Ross医師はアメリカ小児科学会生命倫理委員会のメンバー。かつてはNorman Fostが、現在はDiekemaが委員長を務めている委員会です。
2007.08.24 / Top↑
Scientific American.comのメール討論を読み返していたら、
これまで気がついていなかったことを発見。

討論に際して紹介されている3人の参加者の簡単なプロフィールを見ると、
Wilfond医師はトルーマン・カッツ小児生命倫理センターのディレクターである他にも、
University of Wisconsin Medicineの小児科教授であり生命倫理部門のチーフなのです。

Diekema医師がレジデント研修を行ったのがウィスコンシン大学医学部小児科であることから、
Norman Fost医師とのつながりがあるのではないか、
もしかしたらFost医師が恩師という可能性があるのではないか
ということは前に指摘しました。

Fost医師とDiekema医師の間だけではなく、Wilfond医師も含めた3人に
“ウィスコンシン大つながり”があるのでは?

               ---------

“アシュリー療法”論争でのFost医師の活躍を改めて整理しておくと、

1月5日にはScientific American.comのメール討論にWilfondと共に参加して過激な発言を繰り返し、
また1月12日にはDeikemaと共にCNN 「ラリー・キング・ライブ」に登場して擁護。
2007.08.24 / Top↑
これまで何回かに分けてScientific American.comでのメール討論を眺めてきましたが、その意図について同サイトは「(メディアが騒ぎ議論が百出しているので)雑音に惑わされないために、最初にこの療法を承認した倫理委員会のメンバーと同じような意見を持つ3人の生命倫理学者に、専門家としての意見を語ってもらうよう依頼した」と書いています。

そこで不思議なのが、その3人の顔ぶれ。2人はこれまで発言を詳細に検討してきた通りNorman Fost とJoel Fraderなのですが、もう1人がBenjamin Wilfond。彼はシアトル子ども病院・トルーマン・カッツ小児生命倫理センターのディレクター。すなわち、あのDiekemaの直属の上司に当たる人物なのです。WUのシンポでも主催側として開会の挨拶に立っていました。

“身内”であるWilfondがこのケースについて客観的な意見を述べられるはずはないのに、なぜサイトの文章は上記のように、あたかも客観的な意見を述べてもらうために招いた専門家の1人だといわんばかりなのか、不思議です。しかし、もっと不可思議なのがWilfond自身。この討論で彼が言うことは、まるきり部外者的なのです。

Wilfondのメールは一度だけです。その概要を以下に。

Frader先生が指摘した通り、最も重要なのは重症児と家族への支援サービスの充実。しかし体が小さい方が動かしやすいのも事実で、これは支援サービスが充実しても当てはまる。

その他に考えたいのは、①目的と手段を区別すること。成長抑制はカロリー制限で可能。胃ろうなのだから、親が家で勝手に注入カロリーを抑えれば目的は達成できたこと。このケースで特徴的なのは家族が目的達成のために医療職の関与を求めたことだ。

②将来アシュリーが大きくなると世話が困難になるというのは推測に過ぎない。実際どのくらい大きくなるかを見極めてからでも手段はあったのでは。現実には案じたほどにはならないということだってある。しかし、そうとばかりは限らないので、両親の決断はリーズナブルにもなり得ると思う。時間をかけて検討したのだから両親の望みを尊重すべきだと思う

③Frader先生と同じく、私も一番懸念するのは手術のリスク。しかし重症児のケアを改善するために行われる外科手術は、胃ろう造設、扁桃腺切除、気管切開、胃底ひだ形成術(反射軽減)、脊椎固定術(姿勢矯正)など多い。手術に対する親の考え方は人それぞれ。子宮摘出を考えている親には、現にいま生理のある子どもと介護者がどのように対処しているか分かるような研究があれば参考になると思う。しかし、重症児のQOL向上のためにリスクとバランスをとりながら手術することも珍しいことではない。

……で、あなた、結局、賛成なんですか反対なんですか???????

          -----------

ちなみに彼は同じ日のSeattle Post-Intelligencerの記事では、アシュリーの親の決断は口蓋裂の子どもに手術をしたりADHDの子どもに薬を飲ませるのと同じだと述べ、「子どもが人との関りを持てるようにするべく行われる医療は沢山あり、これはそのカテゴリー」と言っています。上記のメール討論でのように両義的ではなく、こちらはきっぱりした擁護。

メール討論での発言で特に面白い言い回しが見られるのは②の太字にした箇所。I do think……という強調を2度繰り返しています。しかも、a decision to limit growth because of this concern could be reasonable. 「(状況によっては)リーズナブルになることだってあり得る」と。「リーズナブルだ」と断言しているのではなく、「リーズナブルになる可能性も場合によってはあるだろう」と、I do think。Fraderの「たぶんOK」を彷彿とさせます。

批判しながら、でも自分は賛成なんだと必死で誰かにアピールしていたFraderと同じく、Wilfond発言に見られるのも、2つの意識の間で引き裂かれているといったブレ方ではないでしょうか。

しかしWilfondは部外者のFraderとは違ってDiekemaの上司であり、シアトル子ども病院の倫理部門の責任者なのです。成長抑制の手段が間違っているだの、手術のリスクがあるなど疑問を感じたのであれば、検討過程でその疑問を呈することもできたし、そうすべきだったのではないでしょうか。なぜ、そうしなかったのか?または、できなかったのか?

          ―――――――――――――――――

なお、上記のWilfond発言のうち、「アシュリー問題で特徴的なのは、親だけでできたはずのことを、わざわざ医療職を巻き込んでやった点だ」という指摘は、案外重要かもしれません。

特に倫理委員会での議論を初め、“アシュリー療法”が実施されるに至った舞台裏をすべて知っているはずの医師による指摘である点を含め、今後改めて考えてみたいと思います。
2007.08.23 / Top↑
7月13、14の両日、シアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターが小児生命倫理カンファレンス”Current Controversies: Navigating Conflicts When Parents and Providers Disagree About Medical Care”を開催したようです。



プレスリリースは冒頭で、”in the best interest of the child”とは何を意味するのか、またそれは誰が決めるのか、と問いかけています。そして “ futile treatment”、 “viability” “lethality”、 “medically necessary”、 “mandatory treatment”、 “ extraordinary means”などの用語を挙げ、それらはすべて現在の医療風土において厳密さ(precision)を欠いていると指摘しています。

様々な文化的、宗教的背景を持つ親が医療決定に主体的な姿勢を持ってきた現在、親と医師の間に起こり得る意見の不一致をテーマに、親による治療拒否、子ども保護サービスの介入、延命治療停止、障害児・者からの臓器提供などが論じられている模様。

その厳密さを欠いた用語をマジックのごとく操って多くの人を煙に巻き、世論を誘導し、アシュリー療法の肝心の議論を今のところ隠蔽しおおせている当のDiekema医師やWilfond医師が、こうした問題で何を言うのか興味のあるところです。が、プレゼンテーションが文字情報になっていないので、Webcastでは時間的・体力的・気力的にもですが、何より聴き取り能力的に苦しい……。

(今のところ、まだざっとプログラムを眺めただけなのですが、あのNorman Fostと、もう一人アシュリー療法をメディアで擁護した医師がここにもまた登場しています。)

【追記:取り急ぎNorman Fostのプレゼンテーションだけ、聴いてみました。モデレーターのDiekemaが紹介している部分も含めて、非常に面白い発言が多々ありました。またFostは冒頭で”アシュリー療法”論争にも触れています。ちょうどScientific American.comのメール討論について、この後書く予定にしていたことと直接関係してくる内容もあるので、先にそちらを出しながら、Fostのプレゼンをまとめてみます。】
2007.08.23 / Top↑
以下いったんアップしたのち、当該論文をもう一度読んで少し加筆しました。

ボストン大学法学部の刊行物の中に、 前回のエントリーで触れたStrunk v.Strunk とその他の判例を論じている“Organ Harvests from the legally incompetent: an argument against compelled altruism”という論文を見つけたので、取り急ぎご紹介を。


(文末にある脚注番号で142番のあたりからが該当箇所です。)

私は内容をちゃんと解説できるほど知識はないし、きちんとこの判例を理解するためには他に適切な文献もあると思いますが、臓器移植の代理決定の問題にここで深入りすると脱線しすぎになるので、とりあえず、たまたま見つけた文献で勉強しながら……ということで、以下、文中からStrunk訴訟について分かる範囲でまとめてみました。

Strunk v. Strunk

1969年ケンタッキー州の上訴裁判所での判断。報告された初めての臓器移植訴訟。レシピエントは腎臓病で死に瀕している28歳のトミー。ドナーは知的障害があり6歳児相当の知能とされる27歳のジェリー。家族の中でマッチしたのはジェリーのみだった。裁判所は臓器提供を財産の処分と同じとみなし、母親の同意だけで代理決定を認めるとしたもの。財産についての代理決定原則を、本人には不要な医療決定に広げた米国最初の裁判とされる。また生まれてずっと同意能力がない状態の人のケースへと代理決定権を拡大した判例でもある。コスト対利益の分析によって同意能力のない人の最善の利益を決定する一方で、代理決定を認めた点で、不幸な前例となった。

その後、同様な訴訟では代理決定原則の範囲を巡って判断が分かれているようです。いくつか判例が挙げられていますが、1990年に Curran v. Bosze訴訟で、子どもと同意能力のない大人にとって臓器提供が最善の利益とみなすために裁判所が検討すべき3条件を示しているので、それのみ紹介しておきます。

1.親は臓器採取処置のリスクとメリットとを知らされていなければならない。
2.主たる介護者がドナーに必要な精神的サポートを提供できる状況になければならない。
3.ドナーとレシピエントが親密な関係になければならない。


この論文のアブストラクトと、その大まかなまとめを以下に。

Organ transplants may offer the best hope of long term survival for individuals afflicted with certain cancers or other debilitating diseases. The hope that a transplant may inspire in an organ recipient should not, however, be the determinative factor when the proposed source of the organ is incompetent. Competent adults are not compelled to act altruistically by undergoing a surgical invasion for the benefit of third parties. Children and mentally incompetent adults should likewise be protected from such compelled altruism. Case by case adjudication of petitions to harvest organs from incompetents are inevitably driven by a concern for the recipient and an unwarranted deference to parental authority, and not by concerns for the autonomy and well being of the incompetent donor.. This Note argues that organ harvests from legal incompetents should be statutorily prohibited.

同意能力のある成人であれば愛他的臓器提供を強制されることはないのだから、子どもと知的障害のある成人も同様にそのような強制からは守られるべき。同意能力のない人からの臓器提供をケース・バイ・ケースで判断すると、ドナーの自己決定権と幸福よりも、レシピアントへの配慮と、正当性が曖昧なまま親の決定権が尊重されることが避けられない。法的に同意能力のない人からの臓器の採取は法律で禁じられるべきである。
2007.08.22 / Top↑
Frader医師は前回のエントリーで紹介した小児科学会の延命治療に関する方針の策定に関わった関係で引っ張り出されて、2005年にアメリカ小児科学会の学会誌Pediatrics上のBaby Doe Rulesを巡る論争に加わっています。

その方針と、この論争関連論文のフル・テキストは以下のサイトで読めます。

http://aappolicy.aappublications.org/cgi/content/abstract/pediatrics;98/1/149?fulltext=ethics%2Bthe%2Bcare%2Bof%2Bcritically%2Bill%2Bin&searchid=QID_NOT_SET


私はこの論争が理解できるほどの知識がないのですが、この論文の中でFrader医師は「最善の利益」について面白い指摘をしているので、その部分を紹介します。

I doubt that insisting on the reliance on the “best-interests” standard gets us very far. Best interests, similar to art or pornography, tends to mean whatever the beholder believes to mean. The term has no independent substance, and we should not fool ourselves into thinking that it alone improves decision-making.

要するに「最善の利益」という用語には客観的な内実がない。芸術やポルノと同じで、見る人の勝手でどういう意味にもなり得る。したがって「最善の利益」だけで意思決定が改善されると考えるのは甘い、と。

これを読んで、私は自分が初めて「最善の利益」という言葉と出会った時の衝撃を思い出しました。ずいぶん前にどこかで読み齧ったStrunk v. Strunk という臓器移植がらみの訴訟。重度の知的障害があって施設で暮らしている成人男性がいて、その兄が重い腎臓病をわずらい命が危ぶまれるところまで悪化。そこで母親が弟から兄へ腎臓提供をさせたいと考え、本人には同意能力がないことから裁判に。その結果、裁判所の裁定というのが、兄に腎臓を提供することが弟の「最善の利益」であるというもの。なんとなれば、腎臓をとられない代わりに兄を失うことと、腎臓をとられる代わりに兄が生きていることを秤にかけたら、兄が生きていることの方が本人にとって幸せだから。

……ざっとこんな話で、「最善の利益」の解釈なんて所詮は日本政府が自衛隊の海外派遣を決めた際の憲法解釈と同じかぁ……と、びっくりしたものでした。その時の驚きが忘れられないので、以来「最善の利益」という言葉はとても胡散臭いものに感じられてなりません。

それにしても、2005年に「最善の利益」という概念の不確かさをこのように指摘しているFrader医師が、なぜ“アシュリー療法”論争で取りざたされる「本人の最善の利益」を突っ込まなかったのか??

            ―――――――――――――

”アシュリー療法“論争で医師らが主張している「最善の利益」とは、

多少のリスクの可能性のあるホルモン療法をされる代わりに、家族に世話してもらえること」と

多少のリスクの可能性のあるホルモン療法をされない代わりに、冷たい(そして恐らくレイプが起こる?)施設に入れられること」と

を秤にかけたら、前者が本人の「最善の利益」。
 
           -------

一定のリスクのある外科手術で子宮を摘出される代わりに、生理に苦しまずガンにもならず万が一レイプ被害にあっても(あわない確率のほうが高そうだけど)妊娠しないこと」と

一定のリスクのある外科手術で子宮を摘出されない代わりに、生理に苦しみ(苦しまない可能性もあるが)ガンになるかも知れず(ならないかもしれないが)レイプされたら(されない確率の方が高そうだが)妊娠すること」と

を秤にかけたら前者が本人の「最善の利益」。

           -------

乳房芽を切除される代わりに、車椅子のストラップに圧迫されることがなくて病気の心配が少なく、セクハラもされにくいだろうと(関係ないかもしれないけど)期待できること」と

乳房芽切除の手術を受けない代わりに、大きな乳房が重たくて邪魔くさくて(それほど不快ではないかもしれないが)乳がんやその他の病気になるかも知れず(ならないかもしれないが)、セクハラを招くかもしれない(招かないかもしれないが)こと」と

を秤にかけたら前者が本人の「最善の利益」。

              --

「最善の利益」とは、芸術やポルノどころか、魔術師のイルージョン??? 


【追記】
Strunk裁判については、こちらに。
2007.08.21 / Top↑
Joel Fraderは1996年に“Ethics and the Care of Critically Ill Infants and Children”と題するアメリカ小児科学会の方針を出した生命倫理委員会COBの委員長でした。

その方針の概要を以下に。
かつてなら死んでいた病児の生命維持が可能となり、医師や親に深刻な道徳問題を突きつけている。重い障害を持った新生児・乳児への延命治療については社会の意見が分かれており、アメリカ小児科学会としては年齢を問わず全ての子どもの延命治療に関しては個別決定を支持する。これらの意思決定は、親の決定権を凌ぐ子ども保護サービス制度の介入を必要とする十分な理由がない限り、医師と親とが共同して行うべきものである。インテンシブ・ケア資源の分配については、どのような子どもを対象とするかをベッドサイドで決めるのではなく、公式基準が明確にされるべきである。

アシュリーに行われたことは延命治療ではありませんが、子ども保護の理念という点で、ここで親の決定権が万能ではないとの但し書きがあることは重要ではないでしょうか。アシュリーの担当医らは一貫して「子どもの医療については親に決定権がある」と主張していますが、まさかアメリカ小児科学会が親の決定権に例外があるとしていることを知らないのでしょうか。少なくとも5月8日の記者会見で病院が言い訳していたように、小児科医らが「弁護士が裁判所に相談しなくてもいいといったから信じた」というのは、このような学会方針がある以上、無理があるもののように思われます。

また、この方針策定に関与したはずのFrader医師自身もScienticif American.comのメール討論において、成長抑制は「思いやりのある親の決定権の範囲」だと述べているのですが……?

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ところで1月にシカゴのアメリカ医師会本部前で抗議行動を行った障害者問題やフェミニズムのアクティビストらは医師会に対してシアトル子ども病院の担当医らを糾弾するよう求めました。それに対してアメリカ医師会は以下のような内容の声明を出しています(ワシントンポスト 1月11日)。

アメリカ医師会(AMA)には“アシュリー療法”と称される医療処置に関する方針はない。AMAの倫理綱領によると、自分で判断する能力のない患者の医療決定は「最善の利益原則」に基づいて行われることになっている。

この「最善の利益」という用語について、Frader医師は去年発表した論文の中で「芸術やポルノみたいなもの」だと、その概念の空疎さに警告を発しています。それについては次回に。

(Frader医師、ちょっとオドオドはしていますが鋭く面白い人ではあります。背景のややこしい事情に縛られずに彼が存分にアシュリーのケースを批判したら何を言っていたのか、聞いてみたかった。残念……。)
2007.08.20 / Top↑
Scientific American.comのメール討論(1月5日)で、Frader医師はトップを切ってだいたい以下のような内容のメールを書きます。

両親の決定を支持するとの医師らの判断について論文はreasonablyにディフェンドしている。障害児の介護を考えれば、背が大きくなることは当該児にとっても同様の子供にとっても利益にならないことは明白。ただし子宮摘出はその侵襲性から正当化できにくい。家族も医師もレイプの可能性を云々しているが、その不安を裏付けるエビデンスは存在しない。基本的には社会福祉の貧困という問題だとの指摘は正しい。ただ、現実にサービスが無いのだから、このシアトルの患者の成長抑制はリーズナブルであり、思いやりある(!)両親の決定権の範囲だろう。

(Fost医師と同じくFrader医師も、あのお粗末な論文を説得力があると言っていることに注目してください。またFrader医師が両親をcaring だと形容し、Fost医師も担当医らをcaring だと形容していることにも。)

その後、他の2人のメールの後、

論文で医師らが挙げている「生理の問題」以外の2つの理由「副作用の軽減」と「将来の病気予防」とは理解できるにしても、病気予防のための臓器摘出はどこまで許されるものなのか。(成長抑制に使われた)エストロゲンにも発がん性がある。

一番面白いのはこの後。わずか4分後、誰からも反論が来ないうちに彼は慌てて追加メールを送るのです。

一応、確認までに。Fost先生に私は同意なのであり、Fost先生にも他の皆さんにもそのことはご理解いただきたく。私はGunther先生、Diekema先生と共に家族が下した決断を支持しているのです。ただ、それでもなお、重症障害者の介護支援の不十分という問題は別個に考える必要があると考えるものです。

恐らくFrader医師が恐れていたように、彼の子宮摘出への疑問提示に対してここでFost医師から反論。(内容はNorman Fost4のエントリーに。)その後でFrader医師は、

大筋で同意です。しかし、生理が始まるまで待って、実際にどの程度の問題が起こるか様子を見てからでもよかったのでは。この問題を私が取り上げるのはアシュリーのケースで取り立てて懸念があるという意味ではなく、読者に対して、他のケースで軽率に行われることがないよう警告するためです。

Frader医師は既に多くの人から出ている指摘の他にも、「レイプ不安を裏付けるエビデンスはない」、「生理が始まるまで待ってみてもよかった」と独自の鋭い指摘も行っているのです。それなのに、何故こんなにオドオドしているのでしょう。

アシュリーのケースについては、つまりシアトル子ども病院の医師らについては自分はあくまで賛成・支持・容認派なのであり、批判派に回ったと誤解されては困る……そのことだけは(誰に、なのでしょう?)アピールしておかなければならない……そんな意識がありありと感じられます。

【追記:そんなに誰かが怖いのなら黙ってすっこんでいればいいのに、それでもこうして批判すべき点だけはちゃんと述べていることを考えれば、案外に小心なのではなく実は勇気ある人なのかも?】

“アシュリー療法”論争で様々なブログで医師らの発言が引用されるのを読むたびに私が気になったことの1つは、医師らの発言内容への無条件の信頼。「医者だから科学的な真実だけを語っているはず」、「専門家の判断は科学的真実」との思い込みでした。しかし医師らの世界にも政治的な事情というものはあり、カラスが黒いと分かっていても複雑な権力の相関図の中を泳ぐためには、「多少黒っぽいかな、と自分としては思うけれど、でも白だというナニナニ先生のご発言には鋭い洞察が含まれて、さすがだと感服」くらいのことは言わなければならない場面だってあるでしょう。人間の社会である以上。

医師の世界も社会経済的政治的コンテクストの中で動いていることを前提に登場する人物の発言を読むか読まないかで、“アシュリー療法”論争は全く違った様相を見せるのではないかと私は考えるのですが。

ちなみにFrader医師は2006年7月14日にワシントン大学医学部において、ワクチン接種を拒む親への対応について講演しています。

【追記:その後、この講演は2005年からシアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターが毎年夏に開催している小児生命倫理カンファレンスでの講演だと分かりました。2006年のカンファレンスはワクチン接種がテーマでした。これまで3回開かれているカンファレンスにスピーカーとして登場したドクターらの顔ぶれを見ると、アシュリー療法論争で擁護に登場したドクターがFost、Fraderの他にも一人います。2007年のカンファレンスではFostが講演冒頭で”アシュリー療法”論争に触れており、興味深い点が多いので、これらカンファレンスについては後に改めて書きます。】
2007.08.20 / Top↑
Scientific American.comのメール討論に参加した3人のうちの1人はJoel E. Frader。シカゴの子ども記念病院の小児科医であり、ノースウエスタン大学フェインバーグ校医学部の教授です。同1月5日にAP通信のニュースでも彼のコメントが紹介されていますが、そこでは医療倫理の専門家とされているので、シアトル子ども病院でのDiekema医師と同じような立場と考えていいでしょう。

このAP通信でのコメントがなかなか面白いので、メール討論でのFrader医師の発言の前に、こちらを先に紹介しましょう。

この特定の療法は、この状況ではOKだとしても、まぁ私はこの状況ではたぶんOKだと思うのですが、だからといって広く使われている解決策ではないし、障害のある人のケアについての大きな社会問題を無視しています。社会として、我々はこのような患者をケアする介護者に対してお粗末な支援しかしていません。

基本線としてはCaplanが繰り返し指摘し批判していることや、Gunther&Diekema論文掲載誌の編者でeditorialを書いたBroskoの批判と同じです。しかしFraderの口調はCaplanやBroskoほどきっぱりしたものではありません。翌6日のGazette-Timesにも引用され、「なるほど、倫理学者ですらアシュリーが大人になることを阻むのも“たぶん”OKだというほど、我が国の障害者福祉はお粗末だということか」と、“たぶん”を皮肉られています。

「アシュリーのケースだけはたぶんOKだと思うのだけど、療法そのものには問題がある」と矛盾したことを言っているわけですが、なぜこのケースに限って「たぶんOKだと思う」のか根拠は全く示されていません。担当医論文が全く同じことをやっていたのが思い返されます。論文も、「なぜこの患者においてだけはジャスティファイできる」のかは提示していませんでした。

あの論文全体の論旨もまた「アシュリーのケースだけは、とにもかくにもOKなんだけど、今後のケースは慎重に。セーフガードを整えたら、こういう親の要望もありだよね」というものでした。また倫理委の舞台裏を書いたSalon.comの記事で歯切れの悪い批判派の医師らが言外に匂わせていたのも、「まぁ、とりあえず、この子1人についてだけは、親がそこまで言うんだからということにはなったんだけど、この医療の適用そのものにはやっぱり問題があると思う」というホンネのようでした。 あの医師らの歯切れの悪さに通じるものが、Frader医師の発言にも感じられます。

そして、このFrader医師、メール討論ではもっとオドオドしているのです。

(続)
2007.08.19 / Top↑
James J. Hughesについて、Hughes医師と表記してきましたが、彼は医師ではありませんでした。

CNNに登場した際に、Nancy Graceからアシュリー特有の症状を問われ、「直接診察せずに診断を下す愚は犯したくない」と答えていたので医師だと思い込んでしまっていましたが、社会学者でした。生命倫理学者と紹介されていることもあり、医療倫理についてのコメントが多いようですが、Ph.Dは医療社会学でとっています。

お詫びします。

これまでのエントリーは訂正したつもりですが、広範に触れているので残っている可能性もあるかもしれません。医師となっているものは訂正漏れです。
2007.08.19 / Top↑
もう1つメール討論でのFost発言について重大なポイントとして指摘しておきたいのは、
Fost医師がベビー・ドゥ論争と障害新生児の治療停止・安楽死問題を持ち出していることです。

その下りの大まかな要旨を以下に。

70年代、80年代のベビー・ドゥ論争によって、
障害を理由に新生児が治療を停止されるという不適切な差別はなくなった。
しかし、逆に多くの人の意識に過剰修正をもたらし、
長く意味のある人生を送る見込みがほとんどない赤ん坊を救うために過剰な技術利用
excessive use of technology to rescue infants with little or no prospect for long or meaningful existence
が起こっている。

現在問題になるのは将来が予測できない赤ん坊のケースがほとんど。
しかし、かつてと違って今は倫理委員会というものがある。
ベビー・ドゥ事件のようなお粗末な情報やいいかげんな考えによって決断が下されることは
なくなったのだ。

しかし、これは結局、倫理委員会の意義に勿体をつけるだけの前置きに過ぎず、
ここでFost医師が言いたいのは
「アシュリーのケースは倫理委員会が了承したことだから批判するに当たらない」ということ。
何もわざわざベビー・ドゥ事件など持ち出して大げさに構えなくても、
実はあのシアトル・タイムズの社説と全く同じことを言っているだけなのです。

その証拠に、この後、彼の発言は以下のように続きます。
(私は初めてここを読んだ時には思わず笑ってしまいました。)

アシュリーのケースにおける決定の医学的根拠の詳細な説明は、
医師らが行った慎重な倫理的リーズニングと共に、
GuntherとDiekemaの論文に詳述されている。

そして、彼らがどのように、なぜこの決断に至ったかについての父親の極めて詳しい説明。

批判する人にどんな不満があるにせよ、
この決断が関連事実と議論の慎重な検討なしにお気楽に手早くなされたものだとは言えないはずだ。

「詳述」と訳してみましたが、原文はwell documented です。
あの論理性というものが欠落し、マヤカシと隠蔽に満ちた論文がwell documented ???

また、あの論文のどこに、医師らの発言のどこに、「医学的根拠の詳細な説明」があったでしょう? 

むしろ、“アシュリー療法”論争の特徴は、
担当医の議論において「医学的根拠」と「倫理的リーズニング」が常に抜け落ちている、
そこだけは絶対に出てこないことにあるというのに??? 

そういえばFost医師は、担当医らをわざわざ
「思いやりのあるcaring」とも形容していましたっけ。


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しかし、Fost医師がベビー・ドゥ事件を持ち出していることは象徴的であるようにも思います。

まず、“アシュリー療法”論争は安楽死をめぐる論争ではないのに、
一般の人の中にも重症児だということから植物状態との混同が起こり、
それによって安楽死を論じた人が多かったこと。

「認知機能が生後3または6ヶ月程度」というのも
実は根拠が曖昧なまま一人歩きしている判定ですが、
仮にこれが事実だとしても決して「意識が無い」ということと同じではありません。
しかし、そこが混同された発言がアシュリー療法論争では非常に目立っていたのです。

ここで障害新生児の治療停止問題や安楽死議論を持ち出したFost医師にも、
どこかでアシュリーのような重症児を植物状態と重ねる無意識があるのではないでしょうか。

次に、Fost医師自身は障害新生児への“過剰医療”に批判的な眼を向けていることが分かりますが、
long or meaningful existenceという表現を使っているのが印象的です。

このmeaningful という言葉はDiekema医師も
「アシュリーには生涯どんな人との間にもmeaningful なやりとりも関係ももてない」
という文脈で使っています。

この2人の医師が知的障害者を考えるときに、どのような人生であればmeaningfulであり、
どのような人との関係であればmeaningfulである、またはそうでないと考えるのか、
具体的に聞いてみたいところです。

まさか「重い知的障害があれば、意味のある人生などありえない」、
「しゃべれない、歩けない人間に誰かと意味のあるやりとりができるはずがない」
などと底の浅いことは言わないだろうと期待したいところですが、
上記の植物状態との無意識の混同を考えると、
所詮はその程度の認識で言っているmeaningfulなのかも?
2007.08.18 / Top↑
Fost医師が「ラリー・キング・ライブ」とScientific American.comのメール討論の両方で触れていることに、
優生思想だという批判への反論があります。

アシュリーに行われたことは優生思想だという批判があることに対して、彼は、

「優生思想というのは社会の重荷となる知的障害者が増えないよう、
彼らの生殖を防ぐ目的で政府が関与して、国家の人口調整施策として行うものである」

との解釈を示します。そして、アシュリーに行われたことは、

①国家の関与などなく、親が思いやりのある(!)医師に相談して決めた個人の選択である。
②アシュリーはもともと生殖などしないのだから生殖を防止するわけではない。

という2つの理由で、アシュリーに行われたことは優生思想ではないと主張しています。
(②の理由は、両親の弁護士が裁判所の命令は不要と判断した理由にも通じます。)

    ----------------------------


中途障害者のJoni Tadaを初め、
“アシュリー療法”に優生思想を懸念する人が問題視しているのは、
広義の優生思想でしょう。

障害の有無、つまり特定の能力の有無によって人間に優劣をつける発想そのものを
問題視しているものと思われます。
それによって
「障害の無い人にはやってはならないこと」が「障害のある人だからやっても構わない」となることを
優生思想的発想だと懸念しているのです。

その意味で、
「アシュリーはどうせ生後3ヶ月のメンタルレベルだから(やっても構わない)」と
知的レベルの低さを免罪符に振りかざし、
「アシュリーは障害者運動ができるあなたたちとは違う」と主張する
Diekema医師の発言こそがことごとく優生思想的だと
Tadaは「ラリー・キング・ライブ」で主張し続けたのでした。

同番組でTadaが「この問題は将来の優生思想への土台を作っている」
「優生思想」という言葉を使ったとたんに
即座にそれをさえぎったのが、このFost医師でした。
そして、やはり上記のように主張したのです。

彼が披瀝しているのは狭義の優生思想です。
障害新生児への医療停止や出生前診断による中絶、
遺伝子操作によるデザイナー・ベビーなどの問題で
新たな優生思想だとの批判が出るたびに、
その反論として必ず提示される狭義の優生思想の定義と、これは同じもの。

これまで見てきた発言内容からすると、
Norman Fostは思想的にDvorskyやHughes、Bostromと近いところにいるのではないでしょうか。

そして彼はDiekema医師の恩師である可能性もある、
少なくともDiekema医師と旧知であると思える人物なのです。
2007.08.17 / Top↑
Scientific Amrican.comのメール討論でのFost医師には、
これまで取り上げた他にも興味深いものとして、以下の発言があります。

アシュリーの子宮を摘出したいという父親の主な理由を確認しておくのがいいだろう。
アシュリーには子宮など必要ない、というのがそれだ。

子宮の唯一の目的は生殖であり、
明らかに生殖とは縁が無いアシュリーには
リスクと負担だけを生じて、何の利益も無い臓器なのだ。

生理の負担はあなどれない。
重度の知的障害のある女性がよく生理がくるたびに恐怖に駆られるが、
アシュリーはちょうどそのくらいが分かる程度の知能である。

それから妊娠の危険も少しながらある。
特に後に施設に入る必要がある人には実際に起こっていることだ。
プロジェステロンに血栓症、エストロゲンにガンのリスクはあるが小さい。
こうした長期にわたるリスクと、
手術で子宮を取れば一時的な痛みや小さなリスクですむのとを秤にかけるということになる。
人によって、どちらが大きいか判断は違うが、両親の判断が無茶だとは思わない。


・Fost医師は、子宮摘出の主たる目的は「アシュリーには必要ないから」というものだと言っています。
実際、両親のブログで子宮摘出の理由を説明する一説は
「アシュリーに子宮は必要ありません」という木で鼻をくくったような一文で始まっており、
確かにそれが主たる理由であると読めなくもありません。
もっとも両親は一応「生理と生理痛の回避」を主たる理由としており、
「不要だから」が主たる理由だというのはFost医師の大胆な解釈です。
が、案外にこの解釈は親のホンネを突いているのかもしれません。
(乳房芽についても、両親のブログは理由の説明を
「授乳しないアシュリーには大きな乳房は必要ありません」との1文で始めています。)

・知的障害のある女性は生理に対処することができないで苦しむという話が、ここでも出てきます。
アシュリーの父親もDiekema医師もこの話を何度も繰り返しています。
しかし彼女に会ったことも無いはずのFost医師に、
どうして「アシュリーはちょうどそのくらいが分かる程度の知能である」と言えるのか?

・これも両親や担当医を擁護する人たちがよく持ち出す話なのですが、
「施設に入所するとレイプされる」といわんばかりです。
それは他の入所者によってという意味なのか、職員によってという意味なのか。
果たしてそういう事実がどの程度あるのか。
この「レイプされる可能性があるから」というのは
アシュリーの父親が子宮摘出の副次的なメリットとして挙げており、
担当医らが時にあたかも子宮摘出の主要な理由の1つであるかのように繰り返している点です。

・最後の部分は、生理のコントロールなら子宮を摘出しなくても、
ホルモン剤の服用や注射で可能だという批判を念頭に置いたものと思われます。
ホルモン剤には血栓症と発がんリスクがあるから、
長期に服用してそのリスクを負うよりは、子宮を取ってしまった方が
長い目で見たらリスクが少ないとFost医師は主張しているのでしょう。

(ちなみに医師らの論文はこの点について、
ホルモン注射で生理コントロールをする場合に本人と介護者が負う“費用と痛みと不便”が
子宮摘出によって解消されると書いています。
あたかも子宮摘出が安価な医療であり、
手術には痛みもリスクもなく、
入院や外科手術に伴う不便もないかのように。)

 このように考えてくると、
上記のFost発言は
ほぼ担当医らが言うことの焼き直しである
ということが言えるようです。

さらに 担当医らの言っていることは1月以降は両親のオウム返しであることを考えると、
彼もまたここで両親の言っていることを後追いしているに過ぎないのではないでしょうか。

(冒頭の解釈も、この口調からすると、
Fost医師本人は父親の言い分を追認しているつもりのようです。)
2007.08.16 / Top↑
知的レベルが低い人が成熟した肉体をもっていたら、
そのアンバランスが「グロテスク」であるとか「フリーク」であるとか、
「シボレーのエンジンを積んだキャデラックみたいなもの」
「気持ちが悪い」と言って、
アシュリーに行われた成長抑制を擁護した人たちがいることを、
これまでいくつかのエントリーで紹介しました。
(「擁護に登場した奇怪な人々」の書庫を参照してください。)

「成長抑制は知的レベルと肉体年齢のギャップを小さくして、
 知的障害者を周囲にとって受け入れられやすい存在にするから、
 アシュリーに行われた医療はOK」という彼らの論理は、
成長抑制の内容を冷静に振り返ってみると、実は成り立たちません。

なぜなら、アシュリーに行われた成長抑制は、
厳密にはむしろ身長抑制と呼ぶべきものであり、
決して成熟を止めたわけではないからです。

Diekema医師は、
「別に外見を変えるためにやったことではない、
アシュリーは背が低いだけで年齢相応に歳はとる」と言っています。
外見は年齢相応に成熟するわけですから、
30歳になれば背の低い30歳の女性。
60歳になれば60歳の顔であり、
小さなまま60歳の体になるということです。

今後アシュリーがそのように年齢相応に成熟していく姿を考えた場合、
HughesやFostらの「グロテスク」感覚でいくと
年齢と共に「知的レベルとのギャップ」は却って大きくなるはず。

むしろ背が低いだけ、
小さな体と年齢相応に成熟した顔にもギャップが感じられるようになるかもしれません。
「知的レベルと肉体年齢とのギャップは気持ちが悪い」という美醜感覚からすると、
成長抑制療法はそのギャップを少しも縮小せず、
むしろ知的レベルと年齢相応に成熟した顔・体とのギャップ、
小さな体と年齢相応の顔とのギャップを強調して、
アシュリーをよけいに「グロテスク」で「気持ちが悪い」存在にしただけだということになるのでは? 

つまり、
知的レベルと肉体年齢とのギャップがもたらす嫌悪感を解消するから”アシュリー療法”はOKだ
という彼らの論理は、

アシュリーに実際に行われたことが今後もたらす効果を考えると、成り立っていません。


     ―――――――――――――――――――――――

……ということを考えていると、ふと頭に浮かんだ単純な疑問。

もしかしたら、彼らが「知的レベルとの不快なギャップ」を感じる「成熟した肉体」というのは、
本当は体の大きさ・背の高さのことなどでは全然なくて、
「成熟した女性の肉体」のことなのでしょうか? 

「知的障害のある女に成熟した大きな乳房があること、子どもを生める機能(子宮)をもっていること」が、
彼らの男としての美醜感覚にとってグロテスクであり気持ちが悪いといっているのでは? 

「知能が低い女が一人前に大きなおっぱいをしていたり、母親になれる機能があるなんて、ボクには気持ちが悪い」と??

それなら全く個人的な趣味の問題に過ぎません。
ただのオッサンのヨタ話でしょう。

「知的障害の重い女は女として認めたくない」のも、
プライベートに口にしている限りはオッサンの個人的な勝手かもしれません。

しかし、彼らは生命倫理の専門家としてメディアに登場しているのです。
そして、あたかも客観的・専門的な見地からの発言であるかのように装って
「知的障害の重い女は女として認めたくない」という個人的オッサンのヨタ話的趣味を語り、

それによって
「知的障害のある女は女じゃない」→「だから子宮も乳房も切除しても構わない」という方向へと
世論誘導を試みているのです。

論争の中で
「生後3ヶ月相当の知能なんだから、子宮をとっても乳房芽をとっても仕方ないよね」と
考えた人が少なくなかったことを思うと、
彼らの誘導は成功していたのでは?? 
2007.08.15 / Top↑
1月5日のScientific American.com のメール討論でのNorman Fost医師の発言のうち、
もっとも過激な(正直な?)部分を以下に。

発達段階にふさわしい体のサイズの方が
“怪物 freak”にならないですむという父親の意見に私は同意する。

重い知的障害のある大人を見ると不快になる気持ちの中には、
発達段階と肉体とのアンバランスが美的でないということがあると私はずっと考えてきた。

認知能力や運動能力、社会的技能などが限られてはいても、
生後2ヶ月の赤ん坊に嫌悪感は感じない。
が、生後2ヶ月の赤ん坊が20歳の体の中にいるとなると、
そのギャップは気持ちが悪い(jarring)。

そこで思い出されるのは、
数年前にキャデラックがシボレーのエンジンを積んで出荷されてしまったのが判明したスキャンダルだ。
そうと知らされるまで持ち主たちは気がつかなかった。

もしもアシュリーのような子どもたちが魔法でもって乳幼児の外見を維持できるとしたら、
その方が物理的にケアしやすいだけではなく、
周りが彼らに見せる反応も好意的なものになるだろう。
もちろん、これは他人の場合の問題であって、親は別だ。
親はアシュリーに対して麗しくも愛情を感じているようだし、
彼女のことを美しくて存在感があって、それなりの役割もある家族の一員だと考えることに
苦もなさそうだから。

最後のセンテンスには、「自分には不思議でならないが」といったニュアンスが漂っています。

また、ここでのFost発言にも、
Hughesの「グロテスク」発言と同じ、
自分たちの美醜意識は世の多くの人に共有されて、
すでに1つの価値判断にもなっているはずだとの思い込みが顕著です。

「シボレーのエンジンを積んだキャデラック」、「フリーク」といったFost発言は極めて不穏当で差別的ですが、
HughesやDvorskyやDiekemaやGuntherらが
「グロテスク」だとか
「生後数ヶ月の精神機能には小さな体のほうがふさわしい」、
「アシュリーには赤ん坊扱いされる方が、より尊厳がある」
などと別の言葉で様々に表現していることを
実は最も正直に言い表しているのではないでしょうか。
つまり、実はこれが彼らのコアなホンネなのでは?

少なくとも、Hughes、Doversky、Bostromらは、
薬物はもちろん、あらゆる新興テクノロジーを駆使して
人間の考えられる限りの能力を強化し、不死を実現して、
“超人類”を作り出すことを夢見ているのです。

「能力の向上・強化がすべて」、「能力こそが価値」という彼らの倒錯的な価値観からすれば、
重い障害のある人というのは最も価値の低い存在として捉えられるのでしょう。

彼らの嫌悪感の根底にあるのは、「無価値なもの」に対する蔑視なのではないでしょうか。
「知能が低いくせに体だけが一人前になっている人間」というのは
「中身が外見にふさわしくない」と感じられて「グロテスク」だと嫌悪感をもよおす。
だから、そんな「気持ちの悪い」ものは排除したい。

それが本当は彼らがアシュリーの父親に共感する一番中心的な理由なのでは……? 
2007.08.14 / Top↑
Norman Fost医師はアシュリー療法が議論された「ラリー・キング・ライブ」(1月12日)に出演し、
2度発言しています。
まず最初の発言の方を以下に。

ラリー、私がこの件で驚くのは愛情の強さと広さですね。
わが子のために最善を尽くしたいという信じられないほど愛情深いご夫婦だと胸を打たれます。
沢山の人に相談して、とても慎重に考えられたわけだし。

エストロゲンは成長を遅くする目的でもう何十年も使われてきています。
生理に関係した恐怖感を取り除いたり、
乳がんも予防する目的で重症の知恵遅れの子どもから子宮を摘出するということも、
こういうのはみんなリスクの少ないスタンダードな医療です。

親が自分たちの便宜でやったと批判する人がいますが、
そういう人は父親のブログを読んでいないんでしょう。すばらしいサイトです。
できる限り家庭で子どもの世話をしたい、
できるだけ多くの経験をさせてやりたいと望む良いご両親です。

アシュリーが小さくて軽ければ、
それだけいろんなところに連れて行ってやれるし、
豊かな暮らしができるわけですから。

・生理を取り除くのと癌予防とを目的に重症児から子宮を摘出するのがスタンダードな医療だというのは、
WPASの調査報告を考えれば分かるように、ウソです。

・乳房芽の切除にも触れていません。

・かつて背の高い女児にエストロゲンを使って行われた身長抑制は、
その後の女性観の変遷と、発がん性を含む副作用の指摘から廃れたのですが、
その事実も都合よく無視されています。

・担当医らと同じく必要以上に親の愛情を美化し、センチメンタリズムを持ち込もうとしています。

・親がブログで言っている「できるだけ多くの経験」とは、
Diekema医師の言う「家族という小さな世界」の中での話に過ぎません。
介護サービスを利用し、他人を信じて娘を託すということができれば、
もっと大きな世界でアシュリーにはより多くの経験ができ、
そちらの方がよほど豊かな暮らしであるということは、
彼らの念頭には無いようです。

……と、指摘したい点は多いのですが、
それでも、ここでのFost発言は一般の視聴者向けのお行儀よいバージョンに過ぎないようです。
Fost医師のホンネは、実はこんなものではありません。

この番組に先立つ1月5日にScientific American.comというサイトが組んだメール討論
Fost医師は参加しているのですが、こちらの討論はほとんど彼の独壇場。
科学マインドを持った読者を想定し、
ここなら本音を吐いても共感を得られると考えたのでしょうか。
発言の内容も格段に過激です。

肉体の年齢と精神の年齢とがつりあわない状態を「グロテスク」だといったのはDvorsky とHughesですが、
Fost医師はなんと「シボレーのエンジンを搭載したキャデラック」のようなものだと言ってのけるのです。
Freak(!)という言葉まで登場します。
その詳しい内容については、次回に。
2007.08.13 / Top↑
前々回のエントリー「選手がステロイド使って何が悪い」とHughesで、
アシュリーの両親を強く擁護したJames Hughesが
スポーツ選手のステロイド使用問題でも能弁を振るっていることを紹介しました。

ここ数年のステロイド論争をネットで当たってみると、
さらに面白い人物が浮かび上がってきます。

Norman Fost。

この数年あちこちに登場してステロイドの合法化を説き、
「ステロイドの専門家」、
「アメリカで最も孤独な男」、
「ウィスコンシンの異常者」などとメディアに称されている
ステロイド合法化論者の筆頭。

ウィスコンシン大学の小児科医であり生命倫理委員会の委員長。
そして、Fost医師もまたアシュリー療法論争で大活躍をした人物なのです。

スポーツ選手のステロイド使用に関しての彼の主張はHughesの主張と同じです。
いわく、

・ステロイドが心臓病や脳卒中を起こすという説には科学的裏づけがなく誇張されている。

・タバコやアルコールの方がよほど危険なのに、
そちらは放置しておいてステロイドだけ危険性をあげつらうのは偽善でありヒステリー。

・ファンはもともと選手が命がけで挑むのを見たいのであって、
名声と富のために障害を負う大きなリスクを背負うことそのものがスポーツの醍醐味。
スポーツで怪我をしたり死ぬ確率を考えたら、
ステロイドのリスクなどはるかに小さい。

・何がフェアかという基準はもともと恣意的なもの。
ハイテクのトレーニング装置やハイテク・ウエアはよくて、
ステロイドはいけないという方がよほどアンフェア。
ヤンキーズが他球団の3倍の年俸を出している現状だってフェアじゃない。

・自由化したら結局すべての選手が使わざるを得なくなるというが、
ステロイドの使用も競技そのものも誰も強制などしていないのだから、
イヤなら競技を辞めればいい。

・子どもに良くないロール・モデルになる? タバコやアルコールの方がよほど悪い。
ホッケーやフットボールなんか、相手を攻撃して傷つけろと教えているようなものじゃないか。

Hughes、Bostrom、Fostがこんな屁理屈を並べてまで
強力にスポーツ選手のステロイド使用を擁護しているのは、
もしかしたらスポーツでの薬物使用への規制が強化されると、
次には薬物や新興テクノロジーを駆使した老化防止が規制のターゲットになることを
牽制しているのかもしれません。

Fost医師が書いた論文の中には、
遺伝子工学によって人の能力や性質を変えることの是非を「リスク対利益」の枠組みで論じたものや、
無脳症児から臓器を摘出することの妥当性を主張するものなどがあります。

ところで非常に興味深いのは、
Fost医師がウィスコンシン大学の小児科医であり、かつ倫理委員会の委員長であること。

アシュリー療法を巡って奮闘目覚しい、あの'''Diekema医師のレジデント研修先は、
シアトル子ども病院のサイトにあるプロフィールによると、
そのウィスコンシン大学'''なのです。

彼の専門も小児生命倫理。
アメリカ小児科学会の生命倫理委員会の委員長経験者というのも2人に共通の経歴です。
2人は旧知と考えてよいのではないでしょうか。

そしてFost医師は、
Diekema医師が出た1月12日の「ラリー・キング・ライブ」にも一緒に登場して、
アシュリーの両親を擁護しています。
2007.08.11 / Top↑
GuntherとDiekemaの論文が乳房芽の切除を報告していないとして疑問視する“Only Half the Story”と題した書簡と、それにGuntherとDiekemaが反論する“Only Half the Story—Reply”と題した書簡がArchives of Pediatrics & Adolescent Medicineの6月号に掲載されていました。

前者の著者はフィラデルフィア子ども病院で肺疾患が専門のCarol Marcus医師。去年秋の当該論文について、

成長抑制しか論じていないがTimeの記事によると乳房芽と子宮も摘出している。論文ではあたかも家族の要望が介護しやすさを目的としたもののように書かれているが、実際には赤ちゃん扱い(infantilize)と思春期の兆候と生理を取り除くため。このような議論はアシュリーに行われた手術の医療的適応にあてはまらない。その議論を当てはめれば、人工肛門とか尿道への手術もしてよいということになるのでは?
 

そして、「身長抑制の倫理問題のみに焦点を当てている点で、この論文は非常にmisleadingである」と結論付けています。

ただし、Marcus医師は「盲腸だって手術のついでに取ってよいことになるではないか?」とも書いているのですが、盲腸は子宮摘出のときに実際に摘出されており、同医師は事実関係を細部まで把握していないことを暴露してしまっています。

   ―――――――――――――――――――――――――

それに対する、Gunther、Diekemaの反論。

QOLのための身長抑制を論じるための論文であり、それ以外のことは直接関係無いので報告しなかっただけ。子宮摘出について書いたのは、エストロゲンの副作用に直接的に関係したからに過ぎない。子宮摘出の医学的理由については論文の中で十分に論じている。乳房芽の摘出は全く別個の要望であり、ついでに行われた盲腸の切除も含めて、成長抑制には無関係である。

それぞれの処置はそれぞれ別の理由で行われたもので、別個の要望であったと捉えた。それを1まとめに”アシュリー療法“と呼ぶのは両親とメディアであり、医師ではない。乳房芽の切除を書かなかったのは、それが成長抑制に必ず含まれるという処置でなかったから。

さらにこれらの処置の目的は「赤ちゃん扱い」でも「思春期の兆候と生理を取り除くこと」でもない。動機は常に本人のQOLの向上。アシュリーは背が低いままで胸も大きくならないが、正常に成熟する。

短いのでExtractはないのですが冒頭部分が以下のサイトで読めます。論文の購入にはそれぞれ15ドルかかりますが、この書簡はいずれも1ページに満たない短いものなので非常に割高でした。(上記の囲み部分は直接の訳ではなく、かいつまんでまとめたものです。)

2007.08.10 / Top↑
薬物疑惑が取りざたされているバリー・ボンズの通算最多本塁打新記録樹立を目前に、
ワシントン・ポストは8月1日、
Is It Time For a Flex Plan? Techno-Athletes Change The Definition of Natural と題した記事で、
スポーツ選手の薬物や様々なテクノロジーを駆使した肉体改善の是非について取り上げています。
タイガー・ウッズもレーザー治療で視力を向上させたとか。

この記事に登場して「そのどこが悪い?」と熱弁をふるっているのが、あのJames Hughes
そして彼と同じくthe Institute for Ethics and Emerging Technologiesのディレクターでもあり、
共に世界トランスヒューマニズム協会を創設したお仲間のNick Bostrom。

ボディ・ビルダーの世界では既に競技が
薬物を認めて検査なしとするものと検査するものとに分かれているそうです。
ボディ・ビルダー向けの雑誌は薬物の広告だらけで、線引きはリーグによって様々。
しかし、様々な肉体改造テクニックが現れるにつれ、
スポーツ全体で線引きが難しくなり境界線が曖昧になりつつある。
例えば視力増強コンタクトレンズはいいのか、それなら人工視覚はどうなのかといった
問題が起こっているというのです。

そこに「そんな細かい線引きがそもそも無意味」と登場するのがHughes。
おおむね、以下のような発言をしています。

古代オリンピックでも薬物は使用されていた。それがこと改めて問題視されるようになったのはスポーツが職業化した時期から。コンピューターのデータを使ったり高価な水着を開発したりというのはナチュラルで、それ以外は全部ナチュラルじゃないというのは二重思考であり矛盾している。だいたい薬物が人体に危険だというのなら、サッカーのヘディングでIQは落ちるし、ボクシングも体に悪い。ズルはいけないというけれど、何がズルかは社会が決める曖昧な基準に過ぎない。会社と一緒になって詐欺を働く社員はズルをしているのか、子ども3人抱えて福祉の金でぬくぬく暮らす女はズルなのか。そう思う人もいれば思わない人もいる。フェアかどうかといったって基本的には金をかけられる方が有利ということなのに、それは言わないじゃないか。

彼の論法はどうやらアシュリー論争に登場した際と同じく、
批判される論点を先に想定しては、それを強引につぶしていくというもののようなのですが、
「薬物が体に悪いというなら、それ以前にヘディングもボクシングも体に悪いじゃないか」とは、
まさしく「6歳の女の子の子宮を取って悪いといっても、将来ガンになったらどうせ取るじゃないか」
というのと同じ牽強付会。

Bostromは競技を性別や体重別に分けるように、
薬物を認めないクラスと認めるクラスに分ければいいと提案しています。
今のようにドーピングと検査のいたちごっこだと、
結局は違法性が高い薬物を使ってバレなかった選手が勝つことになるのだから、
「ちゃんと調べて守らせることができるルールでなければ、作るべきではない」というのが、その理由。

でもBostromの理屈でいくと、
殺人を禁止しても、どうせ人を殺す人間はいるのだから、
殺人を禁止するルールを作るべきではない、ということになるのでは?

しかしポストの記事が投げかける想定も不気味です。

これまでの薬物と違って、遺伝子ドーピングは既に研究されていて、そういう研究室にはアスリートやコーチからの問い合わせがひっきりなしだという現在、もしも2008年のオリンピックで、頭より大きな首だとか牛みたいな尻だとかの持ち主が現れて、普通なら10分の1秒のところで20秒の大差で世界記録が塗り替えられるということが起こったとしたら、そしてそういう選手が薬物検査をすんなり通ってしまったとしたら、それはアメリカ人にとってソビエトがスプートニクを飛ばした時に匹敵する衝撃とならないか? その時には我々のプライオリティも変わるのではないか?

それこそHughesらの狙い通りかもしれません。
2007.08.09 / Top↑
遺伝子治療の治験で使者が出た件に関する前のエントリーの続報です。

ワシントンポストはその後、亡くなった被験者の夫や関係者に取材して続報を書き、
安全を期するための治験のルールがいくつも守られていなかったとの
重大な疑惑を指摘していています。(8月6日)

亡くなったのは36歳の女性、Jolee Mohrさん。
時々関節がこわばる他は元気でした。

彼女が関節炎の治療でかかっていた主治医が
Targeted Genetics 社の治験に参加したことから、誘われました。
遺伝子操作をしたウイルスでできた薬を右膝に注射。
1度目は2月に受けましたがその時には特に変わったことはなく、
夫の話では変化がないことに失望し次の注射の効果に期待していたといいます。

その2度目を受けたのが7月2日。
その日の内に発熱、嘔吐が始まりました。

5日には救急で感染と肝臓障害の疑いと診断されたので、
夫が治験との繋がりを案じて主治医に電話すると、
主治医は使われたのは安全なウイルスだったと答えています。

その5日後に呼吸困難を起こしシカゴ大病院に移されます。
FDAに連絡したのはシカゴ大学でした。

Targeted Genetics社はその翌日の7月20日になってFDAに対して「深刻な反作用の発生」を報告し、
「実験によるものである可能性がある」と認めて実験を停止するのですが、
女性はその4日後に亡くなりました。

20日まで、他の被験者には何も知らされることはなく、実験も続行されたわけです。

この一連の流れの中で、
通常の治験手続きの基本ルールを逸脱していると記事の中で指摘されているのは、

①主治医が誘った際にその場でインフォームド・コンセントの書式にサインさせていること。
持ち帰ってゆっくり読んだうえでサインさせるべき。

②治験の調査者自身が説明してはいけないのに、
調査者として参加している主治医が自分で説明している。
この場合、患者は「主治医が勧めてくれるの以上、自分の病気にもよいことなのだ」
と思い込み勝ちである。

このインフォームド・コンセント用の説明書は15ページに及ぶとのことですが、
その真ん中あたりに「まれな場合では死亡」も含め「未知の副作用」の可能性についての警告が、
ほんの2文で書かれているとのこと。

さらに別の箇所に「この研究に参加することにより直接の医療上のメリットはないものと思われます」と
さらりと1文。
これにMohrさんはサインしたのでした。

びっくりしたのは、
この文書を承認した審査委員会が
Targeted Genetics社と契約した民間企業の委員会であったという事実。
FDAが認可した企業だそうです。
最近はこのようにバイオテクノロジー企業が契約によって雇う民間企業の審査委員会が
治験での患者保護基準を監督するケースが増えているとのこと。

この実験でも最初の審査が行われた当時はNIHによって公開で行われたので、
その際の記録から疑問が呈されていた事実もわかるのですが、
その後2000年にルールが変わり、
ほとんどの実験でNIHの公開審査ではなくFDAによる非公開の審査となります。

プロセスの簡素化を狙ったもののようですが、
さらにその上、上記のようにFDAの審査そのものも民間の企業にアウトソーシングされている。
そのため今回のケースでも、当初の審査で
「他の薬を飲んでいる患者は除外しては」、
「命に関わる重病ではないのだから注射は1回にしては」
との懸念があったにもかかわらず、
何故この治験が認められるに至ったかという議論の過程は不明です。

(7月28日の記事では最初のNIHの審議は2003年9月となっているので、
2000年のルール変更の後のことになるのですが、
このあたりの事情は触れられていません。)

上記のようにバイオテク企業が雇った企業によって審査が行われるとしたら、
雇われている側がクライアントに強い態度で臨めるはずもなく、
治験における患者保護もセーフガードとしての審査も、
実は全く形骸化している可能性があるのでは?
2007.08.07 / Top↑
アデノ随伴ウイルス由来のベクターを使った関節炎の遺伝子治療の第2フェーズの治験で
反作用による死者が出たことが7月26日(AP)に報道されています。

治験を行っていたのはTargeted Genetics社(シアトル)。

開始は2005年10月ですが、去年FDAが使用するウイルスの増量を認めたとのこと。

7月20日に被験者の一人に深刻な反作用が出たことがFDAに報告され治験は即刻中止されましたが、
その4日後に被験者は死亡したというもの。

詳しくは

ワシントンポスト(一定期間後、有料になります。)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/27/AR2007072700226.html?sub=AR





ワシントンポストの続報(7月28日)によると、
2003年に治験が国立衛生研究所内の連邦遺伝子組み換え諮問委員会に諮られた際に、
専門家から以下のような疑問の声が上がっていたとのこと。

・標準的な治療すら受けたことのない人も含め、それほど重症ではない患者に、
 なぜこのような新しくてリスクのある治療法を受けさせなければならないのか。

・動物実験で治療と症状改善との間にわずかな相関関係しか見つかっていないのに、
 この研究はジャスティファイされるのか。

・使用されたウイルスが全身に広がることはないのか。

・参加者のインフォームド・コンセント用の書類に、
 この研究は参加者の治療の目的ではなく新しい治療方法の安全性の実験に過ぎない事実について
 説明が不足している。

2003年9月17日の委員会の記録によると、
最後のICの説明不足については委員の一人は
「こういう情報を強調すると、参加してくれるかもしれない人を尻込みさせてしまう」
と発言しています。

それでも32人が参加した第1フェーズが深刻な副作用なしに行われたことから、
さらに20箇所127人の第2フェーズが承認されたもの。

     ―――――――――――――――――――――――

ところで唖然としたのは、

この委員会の委員長であった
カリフォルニア大学サンディエゴ校医学部の遺伝子治療プログラムのディレクター、
Theodore Friedmann医師の発言。

その委員会のことは記憶にないのだそうですが、

難しい技術なんですよ。まだ始まったばかりだし。未成熟でもある。
でもいくつか悪質な病気にも効いているし、メリットがある症例だって中にはあるんです。

反作用で死者が出たと知らされて、それでもこう言ってのけられる医師の意識とは、一体……?

ここ数年、日本で非常によく耳にする
「マクロで経済がよくなればミクロで個々の国民にも還元されるのだから、
今はそのための痛みに耐えろ」という理屈。
あの理屈をバイオテクノロジーにそのまま滑らせたら、
もしや、この医師の言葉の背景にある意識になるのでは……?

つまり、「人類全体へのバイオテクノロジーの恩恵が大きくなれば、
それは個々に還元されるのだから、今はそのための痛みに耐えろ」と。

マクロでのバイオテクノロジーの発展のためには、
個々の人間がその過程の実験で健康を損なったり命を失うことなど、
コラテラル・ダメージに過ぎない……と?

【追記】次のエントリーに 続報があります。
2007.08.06 / Top↑
もう1つ、Nancy GraceとDr.Hughesのやり取りを以下に。

G:(static encephalopathyという診断名とアシュリーの状態を両親のブログから一部紹介した後に) Dr. Hughes、どういうところが彼女特有の症状なんですか?

H:(診察せずに診断はできないと述べた後に) しかしこの症例で大事なのはそういうことではありません。精神機能がどうであれ、この患者が自分の医療に関する決定に参加できる日は決してこないのです。その状態が変わることはありません。

G:でも、ドクター! そういうハンディキャップのある患者は沢山いますよ。

H:その通りです。そういう人はみんな、誰かにケアしてもらわなければならない。医療に関する決定も、誰か他の人にしてもらわなければなりません。

G:でも、だからといって子宮や乳房をとられたり、成長を抑制されなければならないんですか?

H:それによって寿命が延びるとかQOLが向上するのであれば、そうです。例えば癌のある患者だと、その種の手術に関する決定は親や介護者によって行われることはありますよ。

「医療に関する決定」と「延命とQOL向上」という言葉をキーワードに、Hughesはアシュリーに行われた医療処置とガン治療とを同列に扱い、「重い知的障害のために自分で決定できない人は、延命やQOL向上のためなら健康な臓器を摘出する代理決定をされてもやむをえない」との判断を示しています。

ここで思い出すのは、両親が相談した弁護士の見解でしょう。

WPASの調査報告書に添付された手紙の「結論」部分の冒頭、彼もまたガンの場合の子宮摘出を例に引いています。

参考になる比較としては子宮癌の例を引くことができる。現在アシュリーが癌だと診断されているとすれば、裁判所の関与なしに子宮摘出が行われることに誰からも疑問はないはずである。それならば、ワシントン州の3つの判例は以下のように解釈されるべきである。すなわち、他の差し迫った医療上の理由によって行う外科手術がその副産物として不妊手術になってしまうというに過ぎない場合には、不妊手術は許されるのである。

しかし両親がアシュリーの子宮摘出を望む主たる理由とは「生理と生理痛の回避」でした。それが子宮がんに匹敵する「差し迫った医療上の理由」に当たるのでしょうか? 

この手紙の冒頭、裁判所の命令は不要とする判断を述べた部分では弁護士は以下のようにも書いています。

その医療処置の目的が不妊手術にあるのではなく、他の医療上必要なメリット(medically necessary benefit)を得るためである以上、不妊手術について裁判所にヒアリングを求めることは不要。

ここでも「生理と生理痛の回避」のことを「医療上必要なメリット」であると、この弁護士は呼ぶのです。

そういえば、Diekema医師もシンポでアシュリーに対する医療処置は「あくまでもmedical needsがあってやったこと」だと主張していました。

「医療上の必要」、「医療上必要なメリット」、「差し迫った医療上の理由」、「延命とQOLの向上」------- これらの言葉を操ることで、3人は「生理と生理痛を回避するために健康なアシュリーから健康な子宮を摘出する」ことを、重病の治療と同列に並べるわけです。

これらはやはり、ためにする強引極まりない詭弁、初めにありきだった結論に無理やり後付けした合理化に過ぎないのではないでしょうか。気になるのはやはり、Diekema医師と弁護士はともかく、なぜHughesまでが……? ということ。

  -----------------------------------

両親と医師ら、そして擁護に登場した人たちには、ありふれた重症障害に過ぎないアシュリーの状態を実際よりも過酷で特異なものに見せたがっている傾向があります。冒頭の引用におけるGraceの質問はその点を鋭く突いているのですが、ここでもHughesははぐらかして逃げています。
2007.08.06 / Top↑