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来月、以下の本が出ることになりました。

タイトルは
『死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』。

大月書店から8月23日刊行予定。1890円。

ある意味、当ブログの
いくつかの書庫の集大成のような内容になっております。


はじめに

第1章 死の自己決定権をめぐる議論

1 日本の尊厳死議論
  ●良い死に方●尊厳死法案●尊厳死が法制化されることの意味●自由な選択の保障●ガイドライン● 医療費削減のねらい?●終末期の定義●すべり坂●本当の願い●「なぜ日本ではできないのか」

2 安楽死・自殺幇助が合法化された国や地域
  ●PAS=医師による自殺幇助●スイス●オレゴン州、ワシントン州●オランダ●ベルギー●英国● 免罪符となる介護実績●「社会で支える」視点の欠落


第2章 「無益な治療」論と死の決定権

1 医療側の決定権
  ●「無益な治療」とは何か●ゴンザレス事件とテキサスの事前指示法●「無益な治療」論をめぐる議 論●一方的DNR指定●看取りプロトコルの機械的適用問題●医師が慣れれば例外はルーティーンに なる●コスト論と共に拡大する対象者の範囲●「どうせ」の共有を広げていく生命倫理学者らの問い

2 「意識がある」ことの発見
  ●ザック・ダンラップ●〝可逆的脳死報告〟●スティーブン・ソープ●相次ぐ睡眠剤による「覚醒」 事例●オウェンによる植物状態患者の意識の発見●「意識があると証明できない」は「意識がないと 証明された」ではない●「分かっていない人」を「分かっている人」に変えるもの●「窓を閉じて立 ち 去ってしまおう」との提案

3 それは臓器移植へとつながっていく
  ●ナヴァロ事件●ケイリー事件●心臓死後臓器提供(DCD)●デンバー子ども病院の「75秒観察プ ロトコル」論争●小児の脳死判定、14項目すべて満たしたのはたった一人●臓器提供安楽死


第3章 いのちの選別と人間の尊厳

1 科学万能主義とグローバル経済
  ●科学、テクノロジーと結びつく市場経済●〝コントロール幻想〟と差別の再生産

2 医療と障害のある人びと
  ●私たち親子の体験●マークとマーティンの『無関心による死』●米国NDRN『障害者の市民権を 侵す医療』●「暗黙のパーソン論」と無関心●医療と患者のあいだの溝●二者択一の議論が取りこぼ していくもの●認知症の人に関心を向け、理解するアプローチ●こういう約束をしてくれる医療を受 けたい●本当の「自己決定」ができるための英から●弱者の権利を守るための仕組み

3 社会で支えるという視点
  ●介護者支援●「死の自己選択」は通苦の責を患者に負わせ、社会を免責する●「どのような社会であ ろうとするのか」という問題

4 いのちへの畏怖と祈り

5 重症重複障害当事者の親として
  
おわりに
資料 尊厳死法案


大月書店HPの当該サイトはこちら ↓
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b120658.html

アマゾンの予約ページはこちら ↓
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E6%A8%A9%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88-%E5%B0%8A%E5%8E%B3%E6%AD%BB%E3%83%BB%E3%80%8C%E7%84%A1%E7%9B%8A%E3%81%AA%E6%B2%BB%E7%99%82%E3%80%8D%E8%AB%96%E3%83%BB%E8%87%93%E5%99%A8%E7%A7%BB%E6%A4%8D-%E5%85%90%E7%8E%89-%E7%9C%9F%E7%BE%8E/dp/4272360698/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1374144584&sr=1-1


このブログでやってきたことをとりまとめた本書の性格から
『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新優生思想の時代』と同じく、
注にはURLが多く並んでおります。

そこで、『アシュリー事件』と同様に、このブログに
「拙著『死の自己決定権のゆくえ』」という書庫を作り、
各章ごとの注をアップして、そこからリンクをたどってもらえるようにする予定です。

また、視覚障害のある方にも読んでいただけるよう、
テキストデータの交換券を付けてもらいました。


どうぞ、よろしくお願いいたします。
2013.07.28 / Top↑
『ふぉん・しいほるとの娘(上)』吉村昭 新潮文庫


其扇(そのおおぎ)は、風呂敷包みを背負って道をたどった。引田屋に使いを走らせて男衆に荷物をはこんでもらうこともできたが、その日は風呂敷包みを背負って歩きたかった。家庭の事情で遊女になったが、遊女は仮の境遇で地道に額に汗して生きることが自分に最もふさわしい道だと思っていた。役人が家に踏み込んできたことは、なにかの事件が起きたことをしめしているし、それによって自分の生活も大きく変化するかも知れない。そうした変化に堪えてゆくためには強靭な神経が必要であり、遊女として不似合かも知れぬが、一個の女として風呂敷包みを背負って歩いてゆきたかった。

しかし、重い物を手にしたことのない彼女には、その荷は重く背負ってゆくことは辛かった。身体が前のめりになり、今にも膝がくずおれそうになる。呼吸が苦しく、胸が締め付けられるように痛かった。其扇は歯を食いしばって歩いていった。
(p.329)
2013.07.28 / Top↑
広間の外にひろがる庭園には、広間をかこむように宴席がしつらえられ、真王(ヨジェ)の誕生日を祝うためにおとずれた多くの貴族たちが、その身分に従って着席していた。

 つぎからつぎへと運び込まれるごちそうの香ばしいにおいと、咲き乱れる花々の香りとが入りまじって、宴席を包んでいる。

 中央の草の上には白い毛氈が敷かれ、楽師たちが明るい調子で笛を吹き鳴らし、その音に合わせて、舞姫たちが、薄赤い絹の帯を宙に舞わせながら、くるくると踊っていた。

 最近王都で評判になっている道化師たちの、ひょうきんなやりとりは、人々の笑いを誘い、大いに場がもりあがった。

 やがて、夕暮れが近づき、透明な金色の光があたりを照らす<黄金の刻(とき)>がおとずれた。

 夜明けと黄昏は、ともに<生の刻(とき)>と<死の刻(とき)>の境目であり、もっとも神気が満ちる刻(とき)であるとされている。

「獣の奏者 2」 上橋菜穂子 講談社青い鳥文庫 p. 42-43


ゴチックにした部分、読んだ瞬間に
ああ、これこそマジックアワーのマジック、
そのわずかな時間に漂う神秘を見事に捉えた表現だ……と。

たぶん、刻の境目というものには不思議なマジックがある。

生の刻と死の刻の境目――。
子どもの刻から大人の刻になる境目にも――。

刻の境目は一瞬で通り過ぎて、留まることがないからこそ、
そこにあるマジックにはえもいわれぬ美しさがあるのだろうな、とも。

ミュウが子どもから大人の女性になるあわいにいた時の
あの透明なパステルカラーの美しさについては『新版 海のいる風景』に書かせてもらった。


【関連エントリー】
天保山のマジックアワーに(2008/8/29)
2013.07.01 / Top↑
『人間的価値と正義』(牧野広義著 文理閣 2013)を読んだら、

その中に2度も引用されている、これを
「美しい文章」として、ここに書いてみたくなった。

日本国憲法 第97条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


これが、自民党の日本国憲法改正草案では丸ごと削除されているって、
知っている人、どのくらい??

この方の、草案と現憲法の対照表が大変わかりやすいです ↓
(開いて、ちょっと下までスクロールすると対照表があります)

他にも本当に恐ろしい草案なので、ぜひ。
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm#3_11


それから、
上の部分を書きながら思いだして
改めて胸が熱くなったDick SobseyのSinger批判も以下に――。

国連の子どもの人権条約において
生存と成長発達の権利が子どもの最も基本的な権利として謳われている。

この条約を前提に
障害があるという理由で命を断たれてしまう子どもや
Ashleyのように意図的に成長を止められる障害児のケースを説明しようとすれば
それらが全て障害のある子どもの権利を侵害してるか、
もしくは障害児はすべての子どもに認められた権利の埒外とされているかの
いずれかだと考えるしかなく、
私は前者だと主張し、
Singer氏は後者だと主張するわけだ。

私が前者だと主張する根拠は1989年の子どもの人権条約において
重い障害のある子どもが十分に保護されるべきことが謳われており、
障害を理由に異なった扱いを受けるなど
「いかなる種類の差別も」明白に禁じられていることである。

条約は障害児の権利が侵されてきたことを指摘したうえで、
彼らの権利に特に保護を求めているのであり、
Singer氏が主張するように
障害児はすべての子どもに認められる権利の対象外だとの理解ではない。

ソマリアと米国以外の国連加盟国が批准している
この子どもの権利条約を否定することなしには
Singer氏の主張は論理的に成立しない。

48年の世界人権宣言にも、71年の精神薄弱者の権利宣言についても同様であり、
すなわちSinger氏の立場を受け入れることは、
ユニバーサルな人権を認めてきた過去60年の成果を無にすることである。

Sobsey氏、「知的障害児に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)



そう――。

人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果。
ユニバーサルな人権を認めてきた過去60年の成果。

だからこそ――。
2013.06.18 / Top↑
時間つぶしのためにふらっと入った書店の雑誌コーナーで、
不意打ち的になんとも懐かしい人に出会って、
心の奥の軟らかいところに、ふわっと甘やかなものがそよいだ。

いや、なに、この雑誌なんですけど。
http://www.amazon.co.jp/Pen-%E3%83%9A%E3%83%B3-2013%E5%B9%B4-1%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00CHRK4IM/ref=pd_cp_b_0

私はPen という雑誌はその存在も知らなかったのだけれど、
藤沢周平さんとオスカル様だけは、目にした以上どうしたって素通りできないタチだから、
とりあえず即座に手に取ってみる。

特集のトップは『リボンの騎士』6ページ。次に『ベルばら』が、なんと8ページ! 
その他、ボリュームある特集みたい。そそられる。

ただ、目次の次の Pen News というページには、
ピンクがかった男物の靴のでっかい写真があって、
コルテというパリの紳士靴の「メゾン」(なんじゃら?)の
「ベルエア―」というシリーズなんだとか。

スポーツマガジンを思わせる、ちょっとクサイ文章で、

こんな高級靴についてウンチク垂れながら、
一緒にいる女友達がカワイイって言ったから、
じゃぁ、買おうかなってくらいのノリで買ってしまえる、
なんてスタイリッシュなボク……臭が漂っていると思ったら、

その靴のお値段、なんと165900円ナリ。

わー、イヤな男を読者対象とした、
なんて厭らしーコンセプトの雑誌なんだ?
こんなの買いたくないわ。

……と、いったんは棚に戻しかけた手が
それでもやっぱりオスカル様との別れがたさで止まったので、
あはは。買ってしまった。

で、この特集、ぜんぜん悪くなかった。
読み終えるなりアマゾンに直行、あれこれ何冊かオーダー入れたくらい、悪くなかった。

それにつけても
オスカルとアンドレが結ばれる場面が「少女マンガ初のベッドシーン」だった、とか
そのベッドシーンに「PTAからクレームの電話が編集部にかかって」きた、とか

初めて知った。へぇぇ。

アンドレ……

だれかが
いっていた

血にはやり
武力にたけることだけが
男らしさではない

心やさしく
あたたかい男性こそが
真に男らしい
たよるにたる男性なのだと
いうことに気づくとき……
たいていの女はもうすでに
年老いてしまっている……と…


これが、そのベッドシーンのちょっと前のオスカルの言葉。
とりあえず Pen の p.93 より。

(ウチには『ベルばら』と『オルフェウスの窓』
それから『エースをねらえ』と『七つの黄金境』
ちょっとマイナーだけど『あるまいと せんめんき』の
全巻が揃っているのですが、
この家に引っ越してきた時の荷づくりのまま
20年間ずっと納戸で開かずの段ボール箱になっているので、
これを機に引っ張り出すことを、今ここで決意。
お宝が虫食ってませんように……)

物語りが革命前夜に及ぶとオスカルの死を予感したファンから
「悲痛な電報が送られてきた」というのも
この特集で初めて知った。

確かに「悲痛」だったなぁ。
「オスカルが死んだ」時、高校生だった私にも。

その週の『マーガレット』の発売日、授業が終わるや、
いつも『ベルばら』だけ立ち読みする雑貨屋まで
学校の下の坂道を一散に走ったもの。

オスカルが撃たれた時の絵は、この特集にもあるけど、
それはもう、あの雑貨屋の店先で呆然と立ち尽くしたほどの衝撃だった。

が~ん。私のベルばらはここで終わった……。というほどの。

想定読者層の小・中・高校生だけでなく、
当時働く女性から思わぬ反響があったということも
この特集記事で初めて知った。

男性優位の中で働きつつも、ジェンダーの限界を感じていた女性たちから、貴族という身分を捨ててまでも信念に向かって突き進み、男よりも強く優しく凛々しい女「オスカル」という生き方は、圧倒的な支持を得たのだ。

なるほど。わかるな~。

「女であること」と「人であること」との相克。
「貴族であること」と「貧しい人たちと同じ人間であること」の相克。
「アントワネットらを愛し案じ守りたい思い」と、
「一市民として革命に身を投じたいとの思い」との相克。

その間で苦しみながら、
人として誠実に生きようとするオスカルに恋こがれた私も、
やっぱりずいぶん影響されているよなぁ、と思う。

人として生きる――。

高校生の私にとって、
それはさほど難しいことには思えなかった。

学校という世界は
成績という分かりやすい尺度がモノをいう男女平等なところだったから。

もちろん社会に出たとたんに
世の中から「だまされた」とたちまちにして思い知るわけで、
その気分は今でもずっと続いているし、

改めて気づいてみれば、
『リボンの騎士』の主人公も男と女の両方の心を持って生まれてきた。
『オルフェウスの窓』の主人公ユリウスも男装の女性。

他にも、このPenの特集に取り上げられている数多くの少女漫画には、
男装の女という設定がけっこう見受けられて、

なんだか切なくなる。

女が「人として生き」ようと思えば、
「男装」するしかない社会は今でも続いている……

……と思った時に頭に浮かんだのは、
何人かの女性政治家とか女性評論家だった。

特に、田中美津ふうに言えば「自分だけが甘い蜜を吸おう」と
自分ほど恵まれていない女や女の傍に追いやられてきた弱いものをみんな裏切って、
男・強者の論理に媚びて「男装」している、
あの人やあの人の顔が――。

そういえば中学生や高校生の時から
「女装」する生き方を決めている女も周りにいたっけなぁ。

パリの高級靴の「メゾン」(なんじゃら?)が云々ってウンチク垂れつつ
そういうの分かっている「女友達」をつれ歩きつつ
16万円の靴をさらっと買っちゃうボク……的な
イヤ~な男たちの世界に招き入れてもらうための
パスポートとして男を選び、捕まえるべく、
田中美津ふうに言えば「メスとして尻尾を振」るのが
賢い女の生き方なんだって、親から叩きこまれた少女たちが――。

でも、こうしてオバサンになって
つくづく思うんだけど、

いちばん悲しいのは、
それが本当は「男装するか女装するか」の単純な二者択一の選択ではなくて、
どんな女も場面に応じて機敏に判断しては両方を適宜うまく使い分けないと
安んじて生きていけないような社会だってこと――。

だから女はそれぞれみんな
その時々の場面とそこにいる男によって(ほとんど自動的になった)適宜の判断で
「男装」しては他の女を裏切り、
「女装」しては自分を裏切って
いつのまにか「男装も女装もしていない自分」って
本来どんな人間だったのかを少しずつ見失っていくんだ。

(森岡正博先生の「感じない男」って、
男も「男装」させられて本来の自分を見失わされている、という話なんじゃないかと
まだ読まないまま勝手に想像している)

だから、オスカルはあんなにも清々しかったんだよ。

オスカルは「女装」はもちろん、
男装しながら「男装」もしなかったから――。
2013.06.07 / Top↑