5. 法的な考察
成人の場合は、クルーザン判決(1990)によって、
栄養と水分の供給はその他の医療と変らないことが確認され、
通常の医療の拒否権と同じ基準で考えられることが現在では当たり前になっている。
小児の場合、1983年のベビー・ドゥ事件を経て
児童虐待防止法(CAPTA)が84年に改定された。
その規定によると、
医師が合理的な判断によって患者の以下の3のうちいずれかだと考えた場合には
“適切な栄養、水分と薬の他には”治療が提供される必要はない。
1. 慢性的で不可逆な昏睡状態にある乳幼児
2. その治療が当該乳幼児の死のプロセスを長引かせるだけであったり、または命を脅かしている症状のすべてを軽減・改善する効果がなかったり、救命については“無益”である場合。
3. その治療が“事実上無益”で“非人間的”である場合。
この規定は、
栄養と水分以外の治療は停止してもいいけれど、
栄養と水分だけは供給しなさい、という趣旨のものであり、
すなわち、大人の場合には既にスタンダードだと著者らが主張する
「栄養と水分は他の医療と同じ扱い」とは逆に、
「子どもでは栄養と水分だけは別扱い」というのがCAPTAの立場。
栄養と水分を供給しないことは児童虐待と法的に位置付けられていることになります。
ところが、Diekemaらは、以下のような意味不明の一節によって、それを否定するのです。
このような表記(language)からは、
ほとんどの場合で適切な水分と栄養が妥当だと提唱されているように見えるが、
小児科学会の主張としては、
医療的に供給される栄養と水分は、子どもの利益にかなう場合にのみ、
すなわち予想される子どもへの負担を超えるレベルの利益をもたらすと期待される場合にのみ
“適切”である、というものである。
本報告書は
医療的に供給される水分と栄養の適切な使用を定義する目的で書かれるものであり、
その意味ではCAPTAは本報告書で提供されるガイドラインと一致している。
いや、全然「一致」していません。
基本的な姿勢がまるきり逆です。
Diekemaらが書いた米国小児科学会・倫理委員会のこのガイドラインは
米国児童虐待防止法違反なのではないでしょうか?
「連邦政府は明確な規定をしていないとしても
州ごとにこの問題に対する規定は異なっているので、
医師らはそれぞれの州法に通じている必要がある」
という意味のことが最後に追記されていますが、
CAPTAの規定は連邦政府による「明確な規定」ではないのでしょうか?
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
4. 考えるべき倫理問題として
① 障害のある子どもたちについて
この個所の冒頭、
「障害のある子どもたちは差別から保護されるべきである」と書かれているものの、
その次に長々と書かれている内容はむしろその逆で、
ここで「一線を越えて」差し控えと中止を認めてしまったら
社会のスタンダードそのものが変容して、障害のある子どもたちが
ネグレクトされたり価値なきものとみなされると懸念する人や団体があるが
そういう「すべり坂」論で差し控えと中止を禁じてしまえば、
望みもしない医療で負担の大きな介入を受ける子どもたちが生じてしまう、と
障害児保護への配慮の必要を一蹴し、
障害だけでは差し控えや中止の理由にはならないのだし、
十分に利益と負担の比較考量をすれば済むことだ、と懸念を排除しています。
が、著者らが一貫してcontinued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無を
「利益」の判断に重要な要素としてこだわっていること、
著者らの「最少意識状態」の定義に、既に重症障害児への差別意識が見られ、
それが、その「意識の有無」の判断に反映されることを考えると、
著者らのいう「利益と負担の比較考量」そのものが
障害児への差別を内包している可能性は?
それに、この、いかにもDiekemaらしい論理が
前置き部分の「成人の基準を子どもには当てはめていけないというのは年齢差別」と共に
小児科学会のガイドラインとして通用するなら、
それは、今後、自殺幇助や臓器提供など、多くの医療倫理の問題にも
そのまま転用される可能性があるということになるのでは?
② 苦痛はないこと
栄養と水分がいかないと患者は大変な苦痛を味わうという説があるが、
臨床データでは、それは事実ではない。
論文冒頭でも同じようなことが書かれていますが、
いずれも漠然と studies, clinical data が言及されているだけで
具体的なデータや出典はありません。つまりエビデンスはありません。
そもそも、こういうことをデータも示さずに、
しかしネチネチと何度も書かざるを得ない心理そのものに、
どこか著者らが感じている後ろめたさを私は感じるのですが。
③ 親や後見人の役割
最善の意思決定者は、通常、子どもの最善の利益を考えている親である。
ただし、こうした決定が急がれることは滅多にないので、
時間をかけてすべての選択肢を考慮し、
セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを得て決めるのが望ましい。
困難事例では病院の倫理相談を利用する手もある。
ただ、子どもに明らかな利益があるにもかかわらず
家族の負担軽減のための差し控えや中止は倫理的ではない。
栄養と水分の差し控えや中止は終わりではなく、むしろ
より広い緩和ケアの入り口と考えるべきである。
④ 医療職の個人的信条
医療職は自分の個人的倫理観の範囲内で医療を行わなければならないが
それが社会的に受け入れられている選択肢ならば
親に選択肢として知らせる義務はある。
親の同意は必要条件であっても十分条件ではなく、
親が望んでも医療職が倫理的に問題があると考えれば、
倫理相談や倫理委の関与を求めることが望ましい。
いずれにせよ最善の意思決定はコンセンサスがある場合であることが多い。
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
3.差し控えまたは中止が倫理的に適切な例
差し控えまたは中止が倫理的に適切であると判断される例として、
以下の5点を上げます。
① 植物状態
成人の場合に植物状態の人からは差し控えまたは中止してもよいとされる理由として
a. 意識がないので生存していることの利益を体験できない
b. 「理性ある人格reasonable person」という基準によって、
植物状態になった際には医療的な栄養と水分の供給を望まないので、
代理決定をしてほしいと希望する人がマジョリティである。
(パーソン論が出てきていることに注目)
これと同じ方針を小児の場合に当てはめないとすれば
それは「年齢差別」である、と著者らはさらりと書いてしまいます。
小児の場合、脳の可塑性が高いという話が
たしか日本の臓器移植法改正議論の中であると思うのですが、
そういう話はこの論文には全く出てこず、むしろ
「中には意識を回復するケースもあるが、
そうした少数のケースの大半は植物状態から回復しても
重症障害を負った状態にとどまる」と書いています。
Diekemaらの「年齢差別」論は、
「自己決定のできない子どもは大人以上に手厚く保護されなければならない」という
姿勢を全否定するものであり、
これを彼らが小児科学会倫理委の立場で書いていることには、
今後について重大な懸念になるのでは?
② 最少意識状態
定義そのものが私は問題だと思うのですが、
外からの一定の限定的な刺激に対して繰り返し可能な形で応じる能力があり、
簡単な指示に従ったり、意味のわかる音声を発したり、
状況にふさわしい笑い方や泣き方をしたり、物に手を伸ばしたり、
という行動を見せることがある子どもたち……
こうした状態で存在している(exist in this condition)人間の主観的な体験を理解することも
長期予後を断定的に診断することも難しく、不可能なので、
診断も栄養差し控えや停止の判断も最も難しく、
代理決定は慎重に、障害に関する偏見に影響されないように……と、
大筋として書かれているのですが、
いや、しかし、その定義そのものに、
Ashley事件の時にDiekemaらが暴露した、
重症障害児・者の認知能力と表出能力のギャップに対する無知と偏見が繰り返されている。
③ 神経損傷
このカテゴリーの子どもたちの栄養と水分は診断がつくまでは必須。
その後は、診断内容により、
意識状態と(または、ではなくand )今後の経口摂取能力獲得可能性による。
家族によっては、生きていてくれるだけでいいという場合もあるし、
意識が戻らなかったり、または(ここは、または、です)意思疎通ができない状態で
ただ単に肉体的に存在するだけでは(mere physical existence)
家族や家族の周りの人たちに大きな悲しみと苦痛にしかならない場合もある。
最初のand にこだわると、意識があるだけでは不十分で、
意識があって、さらに経口摂取が出来るようになる可能性があることが
栄養と水分の続行の条件とも受け取れます。
また、「意識が戻らない、または意思疎通ができない」も非常に問題のある表現。
意思疎通の可能性は、受け手の感度の高さに依存するところが非常に大きく、
偏見にもさらされやすく、決して客観的な指標とはなりません。
しかも、ここでは著者側に既に「意識が戻ったとしても意思の疎通ができないのでは、
それはただ単に肉体として存在しているというだけ」との予見があり、
さらに、それを家族が悲しむとしたら、その家族の意向を酌んで
停止してもいいかのようなニュアンスが含まれています。
一貫して「continued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無」にこだわる著者らが
このカテゴリーにおいてのみ、意思疎通ができるかどうかという基準を持ちこみ、
それを家族が主観的にどう捉えるかを重視しているのは
著者らのスタンダードが一貫性を欠いていることになるのでは?
また、親の宗教など個人的な信条は重視されるべきだが、
だからといって、それだけの理由で倫理的に続行しなければいけないわけでもない、とも。
④ ターミナルで既に身体が受け付けなくなっている場合
栄養と水分が供給されることの負担が利益を上回って
むしろ本人の苦痛になる可能性があることは
このカテゴリーで最も分かりやすいのですが、
なんとも引っかかるのは
著者らが、過剰に、脱水死の快状態を強調していること。
成人の研究によって
脱水死では脳内にエンドルフィンが分泌されケトンも上がって
快状態が生じ、頭もクリアになることが確かめられている、
吐き気やおう吐、下痢などの不快な症状もなくなる、というのですが、
エンドルフィンが出るのは、苦痛に対する適応反応では?
また、栄養と水分を停止することで退院して家に帰ることができるとか
何度も検査のために採血しなくてもよくなるとか、
このあたり、“アシュリー療法”正当化でのDiekemaらの
社会的な利益に対するに医学的なリスクや負担を対置させたり、
釣り合いが取れないほどに利益を過大に、リスクを過小に描いて見せる、
(生理痛回避に注射をする痛みを繰り返すよりも、子宮摘出なら1度で済む、とか)
あの論法が髣髴とします。
また、著者らの「緩和ケア」という用語の使い方では、
栄養と水分の供給やそのあり方の判断も含めて「緩和ケア」があるというのではなく、
一切の生命維持ケアを辞めたところから“切り替えられる”のが「緩和ケア」と
捉えられているようです。
すなわち、去年秋の緩和ケア論争でいえば、
「アグレッシブな医療か、全然医療をしないか」の選択と捉えるMitchell医師の立場を
米国小児科学会倫理委員会はとるということでしょう。
⑤ 消化器の機能不全
こういう子どもたちは医学的に栄養と水分を供給すれば長年生きることができるが、
もちろん予防が重要ながら、経管栄養が長期に渡ると合併症が起きてくる。
臓器移植も今のところ致死率が高いので、
子ども本人への負担が利益よりも大きいと判断されれば
栄養と水分の中止も。
このカテゴリーの子どもたちは確かに栄養と水分の供給に生存を依存してはいますが、
この論文が一貫してこだわっている意識状態で言えば、
continue existence の利益を体験することができる子どもたちも含まれるのでは?
このカテゴリーでは著者らは意識状態について全く言及せず、
ここでも著者らのスタンダードは一貫しているとは言えない。
⑥ 重症の心臓疾患を持って生まれた新生児など
数カ月しか生きられない、このような新生児では
負担の方が大きいので、包括的な緩和ケアに切り替えることが望ましい。
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2.前置き部分
冒頭、おおむね以下のような趣旨説明があります。
成人の医療においては、水分と栄養の供給をその他の医療と全く同じとすること、したがってその他の医療行為と同じく、差し控えや中止が認められることが、 1983年の大統領委員会、米国医師会ほか多くの専門職団体によっても、また裁判所の判例によっても確認されて、すでに現場でのコンセンサスとなっている。
93年の米国小児科学会のガイドラインも差し控えてもよい場合について言及しているにもかかわらず、子供に栄養を与えることは情緒的にも社会的にもシンボリックな行為でもあって、現場は判断に困っている。
そこで乳幼児、児童、意思決定能力を欠いた青年から水分と栄養を差し控えることができる条件について、親、後見人、臨床医へのガイドラインを示す。
医療上飲食が好ましくない場合を除いて、
経口摂取が可能な子供には経口で飲食をさせなければならない、
とのAAPの基本方針を確認し、
医療的な装置による水分と栄養の供給に生存を依存している子どもたちを
対処すとするガイドラインであることを断ったうえで、
非常に気になることが書かれています。
水分と栄養の供給を基本的なケアと捉え、
食べることの喜びや親との心の繋がり、周囲の人との交流など、
社会的、文化的な意味を強調する論者もあることを認めつつ、
それは飲食の「シンボリックな意味」に過ぎないと一蹴するのです。
飲食ができない子どもは咀嚼したり味わったりする喜びを経験することはできないし、食べ物を誰かと一緒に食べて、食べることを通じて関わる楽しみを味わうことはできないし、空腹ものども渇きも自分ではわからないし、食べ物を与えられることによって身体に栄養を得ている実感を経験することもできない。
そういう子どもたちのニーズは様々で、中には水分と栄養の医療的な供給がそのニーズに合わない子供もいる。
「医学的な装置によって水分と栄養を供給することは、食事を取ることとは異なる」ので
食べる行為に伴う咀嚼や嚥下、それに伴う喜びや人との交流を連想させる
「食べ物」という用語は用いない。
「餓死」という用語も死に伴う苦痛を連想させるが、
水分と栄養を停止した場合に訪れる死はむしろ脱水の結果であり、
多くの研究から苦痛を伴うことは滅多にないとされているので、
「餓死」という用語も用いない、と説明します。
広く様々な点から検討し、親の裁量権を十分に認めた上で、
栄養と水分から受ける実質的な利益と予測される負担とを比較考量し判断することが基本とされますが、
その際に目を引くのは
著者らが子どもの意識状態を重視していること。
consciously experience any benefit from continued existence という表現で、
「ただ身体的に生きているというだけの状態が延長されることの利益を体験できるほど
子どもに意識があるかどうか」に、著者は論文全体で一貫してこだわりますが、
論文の後半部分には mere physical existence という表現も登場しており、
continued existence という表現そのものが、
あらかじめ子どもの意識状態を否定しています。
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米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
1年前に以下のエントリーで触れました。
米国小児科学会が「栄養と水分差し控えは倫理的」:著者はDiekema医師(2009/7/30)
その後すぐに論文を手に入れてくださる方があって、全文を読みました。
Forgoing Medically Provided Nutrition and Hydration in Children
Douglas S. Diekema, Jeffrey R. Botkin and Committee on Bioethics
Pediatrics 2009;124;813-822; originally published online Jul 27, 2009;
DOI: 10.1542/peds.2009-1299
現在は、こちらから全文が無料で読めます。
気になる個所があちこちありながら、
なかなかまとめることができずにいましたが、
日本でも、この問題が議論になりそうな気配があるようなので、
改めて、元論文を読み返してみました。
まず、結論部分にまとめられている要点9点の概要を以下に。
1. 安全に飲食できて、それを望む子どもには、口から飲食させること。
2. 医療的に供給される栄養と水分は、その他の医療と異ならず、その他の医療と同じ理由によって差し控えと中止が可能。
3. 医療的に供給される栄養と水分を含み、すべての医療介入を行うか否かの判断は、子どもへの実質利益があるかどうかに基づくべし。
4. 決定にあたって最重要なのは子どもの利益。
5. 医療的に供給される栄養と水分の差し控えと中止が道徳上許されるとしても、道徳上差し控えと中止が必須というわけではない。
6. 永続的に意識と(または、ではなく and)周囲とやりとりする能力を欠いた子どもからは中止してもよい。例えば植物状態の子ども、無脳症児。ただし適切なアセスメントができる専門家が診断すること。
7. 死のプロセスを引き延ばしたり病状を悪化させるだけの場合は中止してよい。例えば最終末期の子ども、数か月を超えて生きることが無理で臓器移植だけが唯一可能な治療という心臓奇形の乳児、重症の腎臓または消化器不全の乳児で親が移植よりも緩和ケアを望む場合。
8. 決定に際して親と後見人を尊重すること。インフォームの必要性と、適切な鎮静と口腔衛生を含む緩和ケアの必要。
9. 困難事例や論議を呼びそうな決定では倫理相談を活用すること。
ここだけを読むと、それなりに理にかなった内容のように思えますが、
本文に書かれていることは、このまとめとは微妙にニュアンスが異なっており、
見逃せない点が多々あります。
以下のように、このエントリーを1とし、
さらに4つのエントリーで本文の内容をまとめてみました。
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 1/5:概要
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 2/5:前置き部分
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 3/5:差し控えが適当である例
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 4/5:倫理的な検討
米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」2009年論文 5/5:法律的な検討
私が特に問題を感じるのは
2から4の間に見られる障害児への偏見。
具体的には、著者らが意識の有無に一貫してこだわりながら、
重症障害児の認知能力と表出能力のギャップに全く無関心であること、
(正当化にパーソン論が持ち出されています)
よく読みこんでみると、著者らの基準が一貫していないこと。
それから、私は何よりもここが問題だと思うのですが、
5で、米国児童虐待防止法の規定が否定されていること。
次のエントリーに続く。
http://www.nytimes.com/2010/07/29/garden/29parents.html?_r=1&th&emc=th
英国国籍の少女50人から200人が、この夏、国内外で女性器切除をされる見込み。記事の最後に、アフリカ諸国での実態の事実関係が簡単にまとめられている。:ムカムカする。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/jul/25/female-circumcision-children-british-law
不法移民への対応の権限を巡ってアリゾナ州と連邦政府が対立していた問題で、とりあえず初戦はObama政府の勝利。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/28/arizona-us-immigration-law-protest
英国の定年退職が強制されなくなり、65歳で辞めなくてもよくなる。:その代わり、自己責任で稼いで、自己責任で暮らしてね……? どんどん減る仕事を巡って高齢者と若者の間で、英国人と移民との間で椅子取りゲーム、労働条件はどんどん劣化する……?
End of Forced Retirement at 65
The Times,
http://www.lifesitenews.com/ldn/2010/jul/10072309.html
自殺幇助を医師の判断で医師にやらせるのではなく、裁判所を判断機関として合法化しようと提案のコメンタリーがGuardianに。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2010/jul/28/assisted-suicide-dying
Obama大統領の医療制度改革で、2012年に任意加盟で障害者の地域生活を支援するthe Community Living Assistance Services and Support (CLASS)プログラムがスタートする。障害の程度に応じて最低一日50ドルが支給されるが、すぐに加盟しても給付を受けられるのは2017年。:Ashley事件の頃に、障害当事者がしきりに運動していたCommunity Choice Actがこういう形になったもの?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/26/AR2010072604721.html?wpisrc=nl_cuzhead
米国の障害者法成立20周年。Obama大統領が、政府もテクノロジー分野ももっと障害者の雇用を、と。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/27/AR2010072705699.html?wpisrc=nl_cuzhead
緩和ケアでしきりに言われる「スピリチュアル・ケア」だが、その内容については、患者が求めているものと医療職や家族が考えているものとの間にギャップがある。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/195815.php
英国キャメロン首相が犯罪防止策とコスト削減策として、犯罪防止パトロールを地域で組織したボランティアに、との方向性を打ち出し、“DIY取り締まり”と早速メディアがネーミング。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/jul/26/cameron-budget-cuts-diy-policing
国民一人一人がNHSのコスト削減に責任を持とう、と英国保健相。:これは上記のニュースとセットかも?
http://www.guardian.co.uk/society/joepublic/2010/jul/27/andrew-lansley-health-personal-responsibility
もう何年も問題になっている環境ホルモン、ビスフェノールは飲食物の容器だけでなく、紙やレシート用紙にも含まれていると分かった。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/26/AR2010072605001.html?wpisrc=nl_cuzhead
AIDS予防の女性用ジェルの今後に関する課題もろもろ。
http://www.nytimes.com/2010/07/27/health/27aids.html?_r=1&th&emc=th
3月にスペインで世界初のフル・フェイスの移植を受けた男性が、テレビのインタビューに応じた。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/26/full-face-transplant-patient
マサチューセッツ州の「学校で無料コンドーム配布」事件について
いくつか記事を読んでみました。
6月8日、マサチューセッツ州Cape Cod市の
Provincetown学校委員会が全会一致で通した方針は、
来年度から、小学校から高等学校までの生徒が、学校のスクールナースから
無料のコンドームをもらうことができるようにする、というもの。
親からは学齢期前の子どもがコンドームを入手できるのでは、との懸念や、
自分の子どもにはやりたくない、どうしても必要なら親が、との声も上がるが、
新たな方針では
コンドームをもらったことを親に通知する必要もなく、
また親が反対した子どもに渡すことを禁じることもしていない。
スクールナースと話をし、
安全なセックスについてのアドバイスを受けられるので、
子どもと大人の間でセックスに関するコミュニケーションが図りやすくなる、と
ガイドラインを執筆した学校委員会の責任者。
Provincetown to make condoms available at all schools
The Boston Globe, June 23, 2010/07/27
Provincetown Policy Outlines Condoms For Schoolchildren
WBUR、June 24, 2010
このニュースを受けて、Boston Globe紙が取材したところ、
Massachusetts州の24以上の学校区で、何年も前から
子どもたちにコンドームを与えていた。
論議を呼んでいるProvincetownのガイドラインでは
子どもたちは少なくともスクールナースと話をし、
安全なセックスについてアドバイスを受けた上でもらうことになっているが、
それよりもはるかにおおらかな学校区もあり、
Lexington 高校では
ガイダンス室や保健室に置いてある籠の中から
生徒が自由に持って行ってもいいことになっている。
Cambridge Rindge & Latin校がMA州で初めて
学校付属の医療センターでコンドームを配布し始めたのは1990年。
その1年後に、Falmouth学校区が
MA州で初めてトイレにコンドームの販売機を設置し、大きな論争となった。
学校区の責任者は
当時、教会のミサで地元の神父から叱責されたという。
複数の保護者が学校区を相手取って訴訟を起こしたが、
州の最高裁は1995年に学校区の方針を支持し、論争も収まった。
Falmouth学校区の学校では
販売機のコンドームが75セントで売られている一方で、
保健室の籠からは無料でとることができる。
去年1年間に学校で配られた無料コンドームは900個。
今回のProvincetownの新たな方針がメディアの関心を呼び、
不同意の姿勢を明らかにした知事が介入。
学校区は5年生以上に年齢制限を設ける方向でガイドラインを修正する模様。
他にHolyoke学校区でも、
6年生以上ならProvincetownと同じガイドラインでコンドームをもらえるが
Provincetownと違って、親によるオプトアウトが可能。
2004年にプログラムを開始した同学校区のスーパーインテンデントは
子どもたちの性病の発生率が低下したことをあげ、
最初は論議を呼んだが、今ではみんなが満足している、と。
95年の裁判所の判断では、
生徒がコンドームを希望したことについて秘密にする権利を学校に認め、
子どもがコンドームを受け取ることを親が拒むことを禁じた。
「コンドームの販売機が子どもの目に触れたり、
学校で配布するプログラムそのものも、
原告側の道徳や宗教感情にはそぐわないかもしれないが、
学校にそうしたプログラムがあるということだけで
憲法上の親の自由が侵害されたことにはならない」
Condoms old news in many schools
The Boston Globe, June 28, 2010
前に、未成年者の中絶を、親に知らせる義務が医療職にあるかどうかという議論を、
ちょっとだけ読んだ記憶があるのですが、
基本的にはそれと通じていく問題。
確かに、この問題は前の2つのエントリーでまとめた
Griswold事件や、米国のプライバシー権に直結しているようで、
いずれも問題は
「子どものプライバシー権」 vs. 「親のプライバシー権」という構図。
95年のMA州最高裁の判断では
子どものプライバシー権が親のプライバシー権を上回ると解釈されたものと思われ、
親の「道徳や宗教感情」に言及しつつ原告の訴えを却下していることは
道徳は社会の選好に過ぎないので、法に道徳を持ち込むことは間違いで、
それに代わって、法で禁じることの利益と害の比較考量で判断すべき、という
前のエントリーで読んだ論文で著者の坂本氏が説く、功利主義的な立場に
合致しているようにも思います。
が、科学とテクノロジーの進歩や、過酷な弱肉強食型グローバル経済を背景に
子どもに対する親のコントロールがどんどん強力になって行く現在、
70年代に整理された坂本氏の功利主義的解釈が
そのまま当てはまめられるとも思えず、
また、そもそも今回こういうニュースが報じられて論争となり
知事の介入まで招いていることを考えると、
95年のMA州最高裁の子どものプライバシー寄りの判決が
このまま不変だとも思えず……。
もしかして、米国のプライバシー権は、今後、
親が自分の好きなように子育てをし、家庭を営む権利としてのプライバシー権だけを
強化していくのではないでしょうか。
もしも子どもの個人としてのプライバシー権を本当に尊重するなら、
出生前遺伝子診断とか、デザイナーベビーとか、
自分の子どもの遺伝子を親が検査させて情報を知ることとか、
難しい問題が、芋づる式にぞろぞろと出てくることになり
親の決定権にとっても、科学とテクノロジーにとっても
非常に不利なことになりそうです。
(リベラルな親の決定権と、キリスト教原理主義者の親の決定権では、
個々の判断内容はまるで逆向きの話になりそうでありながら、それでいて、
「親の愛」を根拠に親の決定権を強化していく方向という1点において
両者は合い通じていきそうに思われるあたりが、また、なにやら恐ろしい)
親のプライバシー権と子どものプライバシー権の間には相克がある。
それを、ただ「親の愛情」や「子どもの最善の利益」などで曖昧にごまかして
結局は親のプライバシー権だけを強化していくのではなく、
そこに相克があることをきっちりと認識し、
未成年であっても、また障害のある子どもであっても、
「親のプライバシー権」の横暴で踏みにじられないだけの
個人としての「子どもの側のプライバシー権」が、しっかり守られるべく、
規制事実が積み重ねられてしまう前に、議論とセーフガードが必要なのだと、
改めてAshley事件を振り返りつつ、考える。
④ もう1つ、非常に興味深いのがソドミー禁止法。
米国の多くの州は
獣姦、ソドミー、オーラルセックス、同性愛を犯罪とする州法を定めている。
その後、オーラルセックスはコモン・ローで合法とされたが
いくつかの州では肛門性交以外にも禁止対象とする広範なソドミー法が存在する。
公衆トイレにおける同性愛者のソドミー行為を巡る裁判や
妻が夫をソドミーで訴えた訴訟などが続いて、その違憲性が問われ、
テキサス州のBuchanan判決によって、
婚姻関係を問わず、①成人間の ②合意に基づく ③私的な ④性的行為 であれば
憲法上保護されると、グリズウォルド判決のプライバシー権が拡大された。
(判決がいつだったのか論文からは分からず、検索してもすぐには出てこないのですが、
2003年段階でのソドミー法について触れた日本語記事があったので、こちらに。
実効はともかく現在もあるし、現在の同性婚を巡る議論に繋がっているわけですね)
⑤ Roe v. Wade
子どもを産むか産まないかを選択する権利を
修正9条によって保障されたプライバシー権として認めた、1973年の有名な判決。
憲法に明文として規定されていないとしても
その根拠が修正14条の「自由」にあるか、修正9条にあるかを問わず、
プライバシー権が憲法上の権利であり、基本的な権利であること、
そこに婚姻、出産、避妊、家族関係、育児、教育などが含まれることを確認した。
州が介入するには、
妊婦の健康保護、潜在的生命の保護という
「やむを得ざる州の関心事」によってのみ許される。
⑥ 断種 (sterilization)
目的で分類して、著者は以下の4種類を挙げる。
1. 犯罪処罰としての断種
2. 治療としての断種
3. 優生学的見地からの断種
4. 避妊の徹底したものとしての断種
特に3、と4についてみていくと、
3の優生施策としては、
1907年のインディアナ州の断種法が米国で最初。
執行されることはまれだったが、
その後、有名なBuck v. Bell判決で
ヴァージニア州の断種法を巡り連邦最高裁が
「痴愚は3代続けば十分」と、合憲と判断。
この論文が書かれた1974年現在、
半数以上の州が優生学的見地に立つ断種法を持っているが
(Spitzibara注記:北欧でも70年代半ばまで強制不妊手術が行われていた)
医学的実効性や誤診、人権上の懸念から執行に躊躇する州が多く、
筆者は、強制的優生手術が
身体の不可侵性もしくは幸福追求権としてのプライバシー権を侵害する可能性、
出産の権利を強制的に奪う可能性を指摘しており、
日本の優生保護法3条についても同様とする。
最も問題になるのは4の「避妊の徹底したものとしての断種」または「便宜的断種」。
コモン・ローでは、自己の身体を傷つける行為には
何人も有効な同意を与えることはできないとされてきたが、
70年代ですら美容整形を持ち出して著者は、その主張の根拠を疑っている。
(もっとも論文の基本的なスタンスは、
功利主義の考え方で道徳と法規制との間に一線を画する
米国のプライバシー権の考え方を紹介し、必ずしも同じとはいかずとも
日本でも検討すべきだと暗に提言するもの)
断種は、避妊と中絶の中間的なところにあって、
やはりプライバシー権に含まれるのではないかと暫定的に提案しながら
著者が最後までこだわっているのは「不可逆性」と「他人への危害の蓋然性」。
一律に州法で禁じるのはプライバシー権の侵害であるとし、
便宜的断種については個別に判定するほかないだろう、と結論している。
------
Ashleyの子宮摘出は、著者の分類のいずれにも当てはまらない。
強いて言えば、最後の「便宜的断種」に最も近いだろうと思うので、
ここの議論が私にとっては最も興味深いところ。
ただ、論文そのものが70年代に書かれたものであることを考えると、
Quelette論文が指摘したように、“Ashley療法”でもって、
新たな分類としての強制不妊が登場したと考えるべきなのでしょう。
それはまた、
この論文が書かれた頃には想像もつかなかった科学とテクノロジーの進歩を経て
米国のプライバシー権が、さらに大きく、危ういほど
拡大しようとしていることを示唆してもいる――。
やはりAshley事件は、何重にも象徴的な事件です。
7月12日に以下の4つのエントリーでまとめました。
Quinlan事件からAshley事件を考える 1
Quinlan事件からAshley事件を考える 2
Quinlan事件からAshley事件を考える 3
Quinlan事件からAshley事件を考える 4
この1の中の「プライバシー権」に関する部分で
大きな判決としてグリズウォルド事件(1965年)が言及されていました。
コネチカット州の家族計画同盟の会長と医師が
結婚しているカップルに避妊の情報提供をしたことが州法違反に問われて
州裁判所では1審、2審ともに有罪とされたものが
連邦裁判所で「プライバシーの権利」を理由に逆転無罪となった、という事件。
情報を他人から守るだけでなく、
個人の自由な選択に政府の介入を認めない権利として
プライバシー権を正式に確立した画期的な判決とされるもの。
避妊情報が、それほど大それた問題だということがピンとこなくて、
私にはこの事件についての記述がイマイチ、しっくり理解できなかったのですが、
たまたま、その直前に、
コンドームを渡していた学校が問題になっているニュースが目についており、
避妊情報が犯罪になるというのも
学校で生徒にコンドームを渡すのも、どちらも私には理解できず、
しかし、それが米国のプライバシー権や、
Gates財団と繋がりの深いPlanned Prenthood Leagueと関係しているとなると
Griswold事件をこのまま理解不能のまま放っておくわけにもいかない気分に。
そこで、ある方に伺ってみたところ、
さっそく英文と日本語の資料を送っていただきました。
まず、読んでみたのは日本語資料の方。
道徳とプライバシー(1) と (2)
坂本昌成
政経(古い字体)論叢 第23巻 第5,6号、1974年1月
廣島大学政経学会(古い字体)
なるほど、グリズウォルド事件は、
米国社会についての背景知識がなければ理解できない事件だということが、
よく分かりました。
今回の論文で分かったGriswold事件とその背景と、
それがソドミー法、中絶法や断種法といかに繋がっていくか
米国のプライバシー権が拡大されていく過程について、
以下2つのエントリーで。
① 米国の社会背景
カトリックの影響が強い19世紀米国社会の道徳観では
もともと避妊そのものに対するタブーが根強く、
妊娠によって傾向が害される恐れのある既婚女性のみを対象とするものだった。
20世紀半ばになって、やっと
避妊による母親・家族の肉体的、社会的、文化的な効用が認知されるようになり、
何らかの方法で避妊している既婚者は1910年の15%から
1935-1939年では66%に増加している。
コネチカット州では1879年に制定された避妊禁止規定が存続し
避妊に関する情報を与えたものには罰則が規定されていた。
(実際に執行されたことはない)
② Poe事件
1969年に、血液型不適合のため過去3回奇形児が生まれ、
いずれも、すぐに亡くしたPoe夫妻と、担当医Buxtonが
同規定は憲法違反であるとの訴えを連邦最高裁判所に対して起こした。
結果的に原告の訴えは却下されたが、この時の少数意見として、
当該州法は、適正手段によらず、
憲法修正14条の「自由」を夫婦から奪っていること
この自由の中にプライバシーが含まれ、
避妊器具当の使用を禁じることは家庭の最も深い聖域に官憲が侵入する危険性があること
の2つの理由によってコネチカットの当該州法を違憲とする説が出ている。
③ Griswold事件
CT州家族計画同盟(Planned Parenthood League)の理事であったEstelle Griswold医師と
C.L. Buxtonとが既婚者に避妊に関する医学上のアドバイスを与えたとして逮捕され
州裁判所で有罪となった。
Buxtonは上記Poe事件の原告の一人。
連邦最高裁で判決文を書いたのは
Poe判決で少数意見として違憲説を唱えたDouglas判事。
コネチカット州避妊禁止法は、
憲法修正1,3,5,9条によって形成される「プライバシーのゾーン」を侵す、と判断。
ゾーンとしてプライバシーを捉えるDouglasの見解は
一般に「半影論(penumbra theory)」と呼ばれ、
つまり、これらの修正条項のいずれかに明確に規定されているというのではなく、
それら条項が放射状に一定範囲をカバーしていると捉える場合に、
その中で規定されているもの、という考え方。
憲法上に明確に規定されてはいないが、
憲法の全体によって、なんとなく、そういう権利が認められている、という
かなり、いい加減な考え方でもあり、
したがって、例えば夫婦だけなのか、未成年は、など、
その内容、範囲、侵害基準などは明確ではないまま残された。
その後の判例によって、順次確認されていくことになる。
(次のエントリーに続きます)
http://www.seattlepi.com/local/202318_pediatric04.html?searchpagefrom=1&searchdiff=1
今日、明日の2日間、シンガポールで臓器売買や自殺幇助、研究倫理などに関するWHOのガイドラインについて協議するべく、30カ国以上から代表が集まり、国際的な倫理カンファ、第8回Global Summit of National Bioethics Advisory Bodiesが開催される。国連やEUからも参加。前回はパリで2008年に開かれた。会議が採択する勧告はWHOに送られ、会員向けのガイドラインの参考にされる。2年ごとに開催されているもので、今回は先般大統領の生命倫理問題調査委員会の委員長に就任したGutmann氏も出席。
http://news.xinhuanet.com/english2010/sci/2010-07/26/c_13415384.htm
http://www.straitstimes.com/BreakingNews/Singapore/Story/STIStory_557947.html
Boston子ども病院に、途上国の新生児向けの感染症予防新型ワクチン開発でGates財団からグラント、240万ドル。: 最近、Billl Gates氏が、途上国の母子保健に関して、薬を特定することなく「母親と新生児に短期に薬を投与することによって感染を防ぐ」ことについて語っているのが気になっている。こういうワクチン開発の動きと関連しているのか?
http://www.childrenshospital.org/newsroom/Site1339/mainpageS1339P1sublevel637.html
英国連立政権によるNHSの改革は、中央官僚によるコントロールを地方の医療職に移して行く方向。
http://www.nytimes.com/2010/07/25/world/europe/25britain.html?_r=2&th&emc=th
これまでの2つのエントリーの一部を、それぞれ、
前半は口から食べられる子どもを胃ろうに切り替えて「栄養補給所」を作った師長さんの話、
後半は「胃ろう検討は十分な看護ケアの後で」と主張した師長さんの話として。
もちろん、昨日のETV特集が問題にしていたのは終末期の胃ろうであり、
ここで書いているのは終末期の胃ろうではありません。
ただ、胃ろう造設が提案されたり、検討される際に、
高齢者ケアでも障害者ケアでも本質的には同じ問題があるのでは、
「口から食べられなくなったら、もういい」かどうかの議論の前に、
その問題がもっと語られるべきなのではないか、と思います。
―――――――
①口から食べられる子どもをどんどん胃ろうに切り替えて「業務がはかどる」と胸を張った師長さん
うちの娘は重い障害のために幼児期には、それはもう言語道断なほどの虚弱児で、
3日と続けて万全な体調が続くということがない子でした。
昼間の病院通いはもちろん、
夜中の救急に駆け込んでそのまま入院になったことも数知れず。
成人してやっと元気になってくれた今になって振り返っても情けなくなるほど
数多くの病院を体験してきたし、緊急入院では小児科以外の病棟に入ることが多かったので
いろんな病院のいろんな病棟で入院を体験してきたのですが、
その中で感じたことの1つが
「病棟というところは“婦長(当時)の王国”なんだなぁ……」ということ。
その後、娘が重症心身障害児施設で暮らし始めると、
やはりそこでも、現場は“師長の王国”でした。
細かい例えで言えば、新しい師長が来ることで
「食事前に子どもたちの手を消毒する」という取り組みが突然始まるかと思えば、
また師長が変わると、その消毒がいつの間にかなくなっていく。
どこもかしこも乱雑で、冬には加湿器がカビだらけ。
「これじゃ空中に細菌ばら撒いてるようなもんだよ」という状況が放置されているかと思えば、
師長が交代したとたんに、あちこちがきれいに整理整頓されるということも起こる。
まぁ、こういう細かいことは、人間のすることなのだから、
そうそう何もかもカンペキには行かないのが当たり前だとは思う。
しかし、もっと本質的なところで、大事なことがガラッと変わることもある。
「体調に気をつけつつ、なるべく外に出て、いろんな体験を」という師長の姿勢が浸透して、
子どもたちにもスタッフにも笑顔が多く、
全体に風通しのいい明るい雰囲気が続いていたのに、
ひどく管理的な姿勢の師長が来たとたんに、
子どもたちが外に出られなくなったばかりか
「安全と健康のため」と長時間ベッドに閉じ込められて
病棟中に重苦しい閉塞感が漂った年もあった。
この年は食事の時間になると、スタッフは無言で
子どもたちの口にスプーンの食べ物を機械的に押し込んでいました。
スタッフが子どもと笑いあうことも
スタッフ同士が冗談を言い合うこともなくなりました。
そして、この年、
デイルームの壁には経管栄養のバッグを吊るすフックがいくつも取り付けられました。
食事の時間になると、ここに特に重症の子どもたちがずらりと並べられて、
いくつものバッグが吊るされ、そこから管が垂れ下がります。
異様な光景でした。
そこには、ついこの前までは
口から食べさせてもらっていたはずの子どもたちが何人も並べられていました。
あっという間に経管栄養に切り替えられる子どもたちが増え、
夕食後は全員が早々とベッドに入れられるようになりました。
あっという間に子どもたちから笑顔が消えていきました。
この頃、師長は”王国”の様子を問われて、こう答えたといいます。
「最近はやっと落ち着いて仕事ができるようになりました。
業務がはかどるようになって職員みんなが喜んでいます」
デイルームの子どもたちの傍にはスタッフの姿がめっきり減って、
看護師さんたちは詰め所で無言で机に向かい“業務”をこなしていました。
次の年、師長が変わったおかげで
(もちろん、その過程には色々なことがあったのですが)
壁際の「チューブ栄養補給所」は廃止され、
並べられていた子どもたちの何人かは口から食べさせてもらうようになりました。
初出エントリーはこちら。
②胃ろう検討に逸る医師に「まず私たちの仕事をさせて」と言った師長さん
娘のかつての主治医は、家族全体の生活をちゃんと見てくれるし
説明もきちんとして、こちらの意見も取り入れてくれる、とてもいい先生だったのだけど、
欠点といえば2つだけあって、1つは点滴がものすごくヘタクソだったこと。
もう1つが、その時々に先生に訪れる“マイ・ブーム”。
成長ホルモン治療の研究をやっていた時は、大して低くもない重症児の親にまで
「ちょっと背が低いんじゃないかと思うんだけど」と持ちかけては、迷惑がられていた。
ウチの娘は背が高いほうなので、この時は声をかけられなかったのだけど
この先生のかなり長期にわたって続いた“マイ・ブーム”の1つが胃ろうだった。
もう、ずいぶん前のことで
ちょうど高齢者医療で胃ろうが“すばらしい新技術”として導入され広まり始めた頃。
実際に、誤嚥性肺炎をよく起こして苦しんでいた超重症の数人がやってみたら
体重まで増え始めたんだよ、すごい技術だ、と、会うたびに先生は感嘆する。
その口調には「ウチでも、もっとやってみたい……」感がにじみ出ていた。
(ミエミエに滲ませてしまうのは先生が単純な善人だからであって、
科学者としての医師の本音は、誰でも概ねそういうところにあるのでは?)
私は、先生から聞く新技術の話にも、
先生の「やってみたい」意識にも違和感と警戒感があって、
「でも、“食”はカロリーだけの問題じゃないんじゃないっすか」と反論しながら、
それでも、当時、うちの娘は、育ち盛りで、全介助で刻み食とはいえ
口からバクバク食べまくり飲みまくって何も問題はなかったので
“ブーム”がこっちに飛んでくることはないだろうと思い込んでいた。
ところが、ある年のケース・カンファレンスで
(当時、ケース・カンファには保護者も参加させてもらっていた)
「ミュウちゃんも逆流の検査をしてみたら、どうだろう」と先生が言い出した。
一見問題がなくても検査してみたら胃からの逆流が見つかることがある
すぐに胃ろうを考える必要はないが、将来の可能性を考えると
そのうち一度、逆流の検査だけは考えてもいいのではないかというのが
一応の先生の言い分だった。
私は既に、先生との会話や議論を通じて
”カロリーと栄養”だけの問題にして”食”の問題を省みない胃ろう周辺の医療文化に
大きな偏見を抱いていたので(利益になる患者さんがいることを否定するわけではありません)、
「やってみたい」への警戒の壁がするすると上がった。
その場に居合わせたスタッフが、
いかに“マイ・ブーム”でも、先生、この子にまで言うか?……と、
一瞬あきれ顔をちらっと先生に向けたのを私は見逃さなかった。
もちろん、誰も口は開かなかった。
で、私は婉曲な会話ができない「まっすぐ」な社会的バカなので、
「まっすぐ」に反論した。
議論となって、やりとりは、どんどんヒートアップ。
ついに先生と私の言い争いの様相を帯びてきたところで、
見かねた看護師長(当時は婦長だった)が割って入った。
その時に師長さんがいったことは、私は歴史に残す価値がある言葉だと思う。
先生、ミュウちゃんも将来的には重度化して摂食の問題が出てくるだろうというのは
私たちも考えておかなければならないことだと思います。
でも、今のミュウちゃんは、まだ口から食べることができています。
もうちょっと先には、問題も出てくるかもしれないし、検査も必要になるかもしれないけど、
それは、その時に考えたらいいじゃないですか。
それまでは、彼女がどこまで今のように口から食べ続けられるか、
そこにこそ、私たち看護職の仕事があるんです。
先生、経管栄養を急いで考える前に、
まず私たち看護師に、私たちの仕事をやらせてください。
私たちの看護で、どこまでやれるか、それでどうしてもダメな時がきたら、
またその時に、みんなで考えてはどうでしょうか。
私はこのエピソードを、
看護学部の授業では必ず1度は語るようにしている。
(今年の春で辞めましたが、それまで長年、
地元の大学の看護学部で英語の非常勤講師をしていました)
そして、看護職の仕事は医師のアシスタントではないし、
看護職にとって「私たちの仕事」が何であるかという原点を忘れないでほしいと、
これから看護師になろうとする学生さんたちに重症児の母親としての立場からお願いする。
そのカンファレンスは、もう10年以上も前のことになり、
師長さんは、その後、他の病棟勤務を経て総師長となり、既に退職された。
ウチの娘は、その後、体のねじれも進み、
確かに飲食の際の「むせ」が少しずつ多くなって、
いつからか、お茶にはとろみを付けるようになったし、
いよいよ経管も考えなければならない日が近いのかなぁ……と気を揉んだこともあったのだけれど、
取材先で黒田式ソフト食を知り、テキストを買ってみると
その原理は、家庭でいくらでも応用可能な簡単なものだった。
園にも導入を検討してもらえないかとOTさんに提案してみたら、
ちょうど摂食委員会でも「なめらか食」を検討しているところだということで、
数ヵ月後から「なめらか食」が導入された。
ウチの娘の「むせ」は目に見えて減り、
あのカンファから10年以上たった今でも変わらず口から食べている。
(ついでに座位保持装置のフィッティングをやりなおしてもらったら
側わんも大きく改善した)
この子は昔からハッピーな時にはバクバク食べる。
「えー、まだ食べるってか? アンタは一体バケモンかよ」などと言われても「ハ!」
大好きな白ゴハンを3回もお代わりしてみせたりもする。
親が食べているものを、箸が口に入ろうとする瞬間に横からグイっと腕を引かれて
「それ、食わせろ」と、鳥の雛みたいな大口あけて、せびられることも、しょっちゅうだ。
「ちょっとぉ、でも、これ、熱いよ」
「ハ! (でも食べたいっ)」と、さらに大口をあけて催促する娘に大笑いしながら
しぶしぶ自分の食い扶持をふーふーしながら分けてやる……そんな親子の食事の時間の豊かさを、
できる限り、長くこの子に味わせてやりたい、と思う。
それが、他になすすべもなく、この子にとって大きな苦痛になってしまう日までは。
初出エントリーはこちら。
とても一面的な番組作りのような気がしたし、
言いたいことが山のように頭に群がり起こってきたのだけれど、
とりあえず言いたいことが多すぎて、まとまらないので、
これまで書いてきたことを以下に。
① 胃ろうには、実際には、介護の手間を省くために
まだ口から食べられる人に安易に導入されている、という問題点がある
認知症が進んだ人の胃ろう、利益と害の検証が不十分(2009/4/27)
「ケアホームのコスト削減で安易な胃ろうが強要されている」と英内科学会から指摘(2010/1/7)
その他、今年1月にはこの問題を英国のメディアが一斉に取り上げていました。
1月6日の補遺に。
これは日本でも、よく耳にする批判でもありますが、
昨日の番組では言及されていませんでした。
② 「科学とテクノで簡単解決文化」の easy fix としての胃ろう
Ashleyは、まだ口から十分に食べられるはずだったのに、
よく病気をして、そのたびに食べられなくなるから、という理由で胃ろうにされた。
ヘンだよ、Ashleyの胃ろう
Ashley事件の舞台となったシアトルこども病院のWilfond医師は
子どもの形成外科手術を論じる論文の中で
食事介助時間短縮策としてのみ、胃ろうを捉えている。
食事介助の時間短縮策としてのみ語られる胃ろう(Wilfond論文)4(2009/4/27)
③ 日本の高齢者ケアにおいて、安易な経管栄養の導入に反対し、
チューブはずしに取り組んでいる有吉病院のこと。
有吉先生の卵焼き
④ 「老人は口から食べられなくなったら死」は、
人間らしい死に方を保障する地域ケアの実現が前提であるべきでは?
「老人は口から食べられなくなったら死」……について(2009/11/4)
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)
「臓器提供安楽死」を提唱したことについては、
5月から以下の2つのエントリーで紹介してきました。
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
その時から、いずれ近いうちに、こういう声が
具体的な患者さんから上がるのだろうとは思っていましたが、
予想外に早く上がってきました。
以下、今日のニュースから。
―――――――
Georgia州West Cherokee郡在住の Gary Phebusさん(62)は
2008年にALSと診断された。
まさか自分が、と信じられない思いだったという。
その後、Phebusさんはインターネットで臓器移植のことを調べ始め、
臓器が必要な人たちが長い間待たされている実情を知る。
そして、今、生きている、この状態で、臓器を提供したい、
提供することによって自分は死ぬのだと分かった上で、提供したい、と希望している。
「私はもう死の宣告を受けたわけで、あとは時間の問題に過ぎません。
臓器を待っている人がいるのだから、もし私がどうせ死ぬのであれば
私の臓器がまだ使える状態の間に持って行ってもらってかまわない。
それで10人の命を救ってもらえばいい」
「正しいことをしているだけだという気がします。
だって臓器が足りないんだから。
それを自殺だとは感じません。
他の人が生きられる可能性があるなら、
そのチャンスをあげようというだけです」
妻も4人の子どもたちもPhebusさんの考えに賛成している。
しかし、連邦法によって臓器提供を行うには
その人は脳死になっているか、または心臓死によって死んでいなければならないため、
いかに多くの人が臓器を待っていようとPhebusさんの願いは実現できない。
Phebusさんは、そういう法律を作ってほしい、と希望しているが、
州議員たちは、その可能性には否定的。
この記事によると、臓器移植を待っている人は全米で10万8000人。
ジョージア州だけでも3000人以上。
記事の最後にPhebusさんのホンネがちらりと見えていて、
彼の望みは、まだ使えるうちに臓器を提供したいというだけではなく、
これから何年もに渡って医療費を請求されては
保険会社に請求しなければならないなんて避けたいのだ、とも。
(医療保険をかけている人でも、
給付を受けようと思ったら保険会社との間で消耗戦のバトル覚悟で、
という話は米国の医療については、よく聞きます)
「だって、どうせ私は今でも死んでいるようなものなんですよ。
I’m dead anyway.
そりゃ、私だって生きたいけれど、
どう転んだって、死ぬんだから」
Man tries to donate organs - now
Cherokee Tribune, July 25, 2010
今回、このニュースを読んで、思ったのは、
なるほどぉ。
Georgia州かぁ……。
Georgia州といえば、
去年2月、FENによる一連の自殺幇助事件の口火が切られたところ。
つまり、それだけFENが入り込んでいる、
ということは、当然、C&Cも入り込んでいるところ――。
【FEN自殺幇助事件関連エントリー】
尊厳死アドボケイト団体の幹部4人を逮捕、他8週も自殺幇助容疑で家宅捜査(米)
精神障害者への自殺幇助でもthe Final Exit に家宅捜査
Final Exit 自殺幇助事件続報:130人の自殺に関与か?
Final Exit Networkの公式サイトを読んでみた
CA州の自殺幇助事件続報
自殺幇助合法化議論、対象者がズレていることの怪
Final Exit自殺幇助事件、週末の続報
「ホスピスだって時間をかけた自殺幇助」にホスピス関係者が激怒
FEN創設者GoodwinのAP通信インタビュー
FENの自殺幇助ガイド養成マニュアル
精神障害者の自殺幇助で新たにFEN関係者4人を逮捕
FENが自殺幇助合法化プロモビデオをYouTubeにアップ
OhioでもFENによる自殺幇助事件か(2009/6/18)
久々にFinal Exit Network自殺幇助事件の続報(2009/10/16)
コロンビア大学の Kreitchman PET Centerで、
研究所責任者による公認状態で、4年間に渡り、常習的に、
精神疾患のある被験者の脳画像診断の際に
害をなす恐れのある不純物が混入した薬物を注射していたこと、
FDAの調査が入った際には
記録を改ざんして、その事実の隠ぺいを図ったことまで明らかになり、
研究中止と、研究責任者の首の挿げ替えが行われた。
ただし、公式な発表はなく、NY Timesの調査で判明したもの。
メディア報道を受け、Columbia大学は独自に調査を開始する、としている。
同研究機関の内部の品質管理の甘さ、注射剤管理の甘さについては
2008年12月にFDAが指摘し、改善を求めたが
今年1月にFDAが検査に入った際にも、まだ改善されておらず、
6つのカテゴリーで違反行為が指摘された。
ただしFDAも調査結果は公表していない。
PETを使った脳画像診断によって、
統合失調症や重いうつ病などの診断技術の向上や
薬の効き方の把握に役立てようとする研究で
同センターには連邦政府からも製薬会社からも多額の研究資金が提供されている。
問題になっているのは、画像診断の際に注射する低レベルの放射性トレーサー。
トレーサーとして使われる薬剤そのものは安全と考えられているが、
劣化が早いためにそれぞれの研究所で作ることが通例となっており、
FDAがプロトコルや混入物のレベルを規制している。
Kreitchmmar PET センターでは、2007年から4年間に渡り、
規制値を超える不純物の混入した注射液が使われており、
不純物の特定も、強さや、それぞれの純度も確認も行わず
患者に注射していた。
内部の事情を知る匿名の元職員は、
これらは当たり前の慣行となっていただけでなく、
FDAの警告を受けた後にも、研究成果を出すことが優先されて
混入を隠蔽したまま使用続行が責任者によって容認されていたと証言。
St. LouisのWashington大学・放射性薬物研究委員会のDr. Barry Siegelは
患者の安全問題と同時に、
不純物が結果のデータに影響している可能性を指摘し、
役に立たないデータをとるために人を放射性物質にさらすなど倫理問題だ、と。
Studies Halted at Brain Lab Over Impure Injections
The NY Times, July 16, 2010
【関連エントリー】
米国で行われた人体実験(2009/3/17)
ドイツ医師会はずっとドイツの医師は自殺幇助に反対だと言って、ガイドラインでも禁じてきたが、見てみろ、3割もの医師がターミナルな患者は死なせてもいいと考えているじゃないか、4人に1人は積極的安楽死だってありだと答えているんだぞ(「そんなにも多くの医師が患者を殺すことを考えているとはショックだ」と医師会会長)、医師会のガイドラインの方が実態に合っていないぞ、医師会だって意見は割れているじゃないか、国民だってマジョリティは自殺幇助を支持しているし、政治家だってそうだ。医師の考え方がやっと国民に追いついたということだろう、今のガイドラインは変えるべきだろ、 倫理観なんて人それぞれだろ、医師と患者本人で決めたっていいじゃないか、だいたい今だって消極的安楽死だの栄養と水分の停止だの、実際にはやってるじゃないか、今のガイドラインは憲法で保障された個人の自己決定権に反しているぞ、Oregonを見てみろ、合法化したって、すべり坂なんて起こっていないぞ、だいたい医療倫理と法律の間にギャップがあんだよ、ギャップが……みたいな。良いカッコしようと勢い込んだ時の古館さんみたい。それにしても、「憲法で保障された自己決定権」がそこまで絶対視されてくるか……。
http://www.spiegel.de/international/germany/0,1518,707438,00.html
不況で、これまで25の州が高齢者と障害者の在宅ケアのカットに踏み切っている。具体的には受給資格の所得制限を下げるなど。しかし在宅ケア・サービスは施設入所を遅らせることができるため、長期的に見れば州にとっても節約になるはずなのだけれど。:冒頭でとりあげられているのはOregon州の障害者。 Oregonは尊厳死法があって、http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/44588937.html抗がん剤はダメだけど自殺幇助ならメディケア支給しますよ、というところだからなぁ。
http://www.nytimes.com/2010/07/21/us/21aging.html?_r=1&th&emc=th
Biedermanスキャンダルを始め、ここ数年の研究者と製薬会社とのスキャンダルを受けてHarvard大学が医大の中でも異例の厳しさの方針を打ち出し、医師らに企業からの物品・金銭の授受を規制することに。アカデミズムと医学の価値を守るべく、アカデミアと企業の協働のあり方のモデルを作る、と。
http://www.bloomberg.com/news/2010-07-21/harvard-doctors-to-shun-industry-gifts-meals-under-new-conflicts-policy.html
http://www.boston.com/news/education/higher/articles/2010/07/21/harvard_puts_tighter_limits_on_medical_faculty/
19日付で英国老人医学会から
医師による自殺幇助に関する意見声明が出されています。
一番こういうことを言ってほしかったところから、
非常に的確な声が上がった感じ。
また先週、ずっと考えていた問題(詳細は文末にリンク)に
簡潔ながら核心をついた、頼もしい答えをもらった気持ちになったので、
全文をざっと日本語にしてみました。
自殺を斡旋したり幇助したり、または容易にすることは、医師やその他医療職の役割ではない。最近出されたDPPのガイドラインでも、医療職が関与した場合は起訴ファクターに含められている。患者や患者のアドボケイトに生命を終わらせるように求められ、それに応じるとしたら、老人医療の専門家は法律的義務、専門医としての義務を果たすことができない。
英国の死亡年齢の中間値は80歳を超えており、英国老人医学会の会員は多くの死にゆく患者をケアする中で、患者との間で安楽死についての会話の増加を経験している。多くの場合、「このまま死なせてもらうわけにはいきませんか」という言葉で出てくる。多くの人が安楽死を望む背景には、望みもしないのに負担の大きな治療をされて死を引き伸ばされることへの不安がある。しかし、こうした不安は、医師と患者の間の信頼関係の中で、患者の希望に細やかに耳を傾けることによって、軽減できるものである。
進行性の病気や障害のある人がだんだん自立できなくなり、尊厳を失っていくことに苦しみ、不安を感じることは理解できるが、英国老人医学会は意図的な殺人は正当化されるものではないと考える。むしろ、老人専門医こそ、複合的で進行性の障害のある人々に包括的にアセスメントを行い、前向きなアプローチの計画を立てるスキルを持ち、個々の患者の福祉の改善に大きく資するものである。当学会の会員は緩和ケア医療と緊密な連携関係にあり、終末期の苦痛の軽減に大きく貢献している。
仮に自殺幇助が合法化されれば、弱者の生命が脅かされ、中には自分が他者への負担にならないように自分の命を諦めるようプレッシャーを受ける人も出ることになる。合法化はまた医師の倫理綱領を甚だしく損なうだけでなく、治療する者としての医師の役割とも相容れない。
だいじょうぶ、終末期の苦痛については、
医師と患者の信頼関係の中で個別に十分ケアできるのだから、と。
だから、本当の問題は、
人生の一回性の中で死んでいく患者を全人的に支えることができるかどうか、
以下にすれば、それが可能になるかという「医療の質」の問題で、
「死の質」の問題ではないだろう……というのが、
当ブログの先週とりあえずの結論だった。
Physician-Assisted Suicide – BGS Position Statement
British Geriatrics Society, July 19, 2010
医療現場で、「このまま死なせてもらえんものですか」と
口にする患者さんたちが増えている、というのは
予想はできたことながら、非常に気になる情報。
その背景には、ここに書かれているように、
無益な治療で苦しみながら死のプロセスを長引かされたくない、という不安も
もちろんあるでしょうが、
こう波状攻撃的に、次々と「死の自己決定権」を訴える人たちが事件や訴訟を起こし、
そのいちいちにメディアが偏向報道を行っていれば、
無駄な医療費を使ったり、家族に介護で迷惑をかけるような状態には尊厳がなく、
それよりも、自ら死を選んで、美しく死んでいく権利を主張しましょう、と
せっせと説かれていることの洗脳効果が何よりも大きいのでは?
【先週考えていた「死の質」調査に関するエントリー】
「死の質」は英国が1位だという調査(2010/7/15)
「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか(2010/7/15)
「死の質」について、もうちょっと(2010/7/16)
「ターミナル」診断に対する医療職の意識調査:“生の質”も“死の質”も本当はただ“医療の質”の問題では?(2010/7/17)
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/19/bill-clinton-gates-aids-conference?intcmp=239
たぶん、上記ニュースの関連。女性が性交前に使うことでHIV感染を予防できるジェルが開発されて、国連もWHOも歓迎している。これもまた途上国向け。:な~んか、被害に遭うのも女性なんだけど、対策のターゲットにされるのも女性……という気がしないでもなくて。直接的な関連があるのかないのか、面倒なので突きつめて考えてはいないけど、“Ashley療法”の論理でも、胸が大きかったら介護者からレイプされるから乳房切除だとか、レイプされても妊娠しないように子宮摘出だとか……それに対して「性的虐待の責めが潜在的被害者であるAshleyに負わされている」という批判が出ていたのを思い出した。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/19/aids-infection-risk-women-halved-gel-study
いわゆる“試験管ベビー”では癌の発生率が高い、早産の可能性や出生時の呼吸障害の可能性も高い。しかし癌の高率については、不妊で生殖補助医療を必要とした親の遺伝子上の問題ではないか、と研究者。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/19/AR2010071900031.html?wpisrc=nl_cuzhead
職業倫理に反する行為のあった看護師を各州が全国データベースにちゃんと登録しておらず、州を移動することで職についている。患者の安全は? ProPublicaの調査報道。シリーズの1。
http://www.propublica.org/article/states-fail-to-report-disciplined-caregivers-to-federal-database
乳がんの初期だとの生体検査には間違いが多い、という調査結果。冒頭、摘出手術の後で間違いだと分かった人の話。
http://www.nytimes.com/2010/07/20/health/20cancer.html?th&emc=th
PETだとか脊髄液の分析だとか、アルツハイマー病を早期に診断すると言われて昨今あれこれ登場している新たな診断法はお勧めしない、とNational Institute on Aging とアルツハイマー病協会。
http://www.nytimes.com/2010/07/20/opinion/20pimplikar.html?th&emc=th
米国の親の53%が自宅でできる子どもの遺伝子検査に興味を示している、という調査。:親による新手の虐待が用意されている感じがしないでもない。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/195152.php
Obamaの新たな医療制度に向け、保険会社が患者の選択肢を狭めて保険料を下げた商品を売り出している。
http://www.nytimes.com/2010/07/18/business/18choice.html?_r=2&th&emc=th
54歳の Tony Nicklinsonさんは、頭と目以外はどこも動かすことができない。
文字盤を使って会話は可能だが、面倒なので最近はコミュニケーションの意欲をなくしているとのこと。
ターミナルではなく苦痛があるわけでもないが、
全介助で、ろくに知りもしない相手に赤ん坊のように世話をされる生活に倦み、
この先まだ20年もこうして生きたくない、
こんなことになると分かっていたらアテネで倒れた時に
救急車なんか呼ばなかった、と。
首から下が麻痺しているNicklinsonさんが自分で自殺できる唯一の方法は餓死のみ。
それはしたくないので、妻に毒物を注射してもらって死にたいのだという。
DPPの自殺幇助ガイドラインで起訴判断に公益が勘案されるのは
あくまでも死ぬ「手伝い」のみであり、
自分で自殺行為を行うことができないNicklinsonさんの場合、
妻の行為は「自殺幇助」ではなく「殺人」と扱われることになる。
ガイドラインは殺人については、慈悲殺であろうと殺人であり、
殺人は起訴が基本としている。
そこで、Niclinsonさんは
自分の場合のように自分で自殺が出来ない人の「同意殺人」の場合にも
公益を検討してもらって、妻が不起訴になるよう、法の明確化を求めている。
Locked-in syndrome man demands right to die
The Guardian, July 19, 2010
‘Locked-in syndrome’ sufferer launches landmark legal bid to end his life
The Mail, July 19, 2010/07/20
Locked-in man seeks right to die
BBC, July 19, 2010
これら3本の記事はそろって、この男性を”ロックトイン”と書いているのですが、
いつものことながら、本当に”ロックトイン”と呼ぶべき状態なのかどうか……?
MS患者のDebbie Purdyさんが自殺幇助に関して求めた法の明確化を、
“ロックト・イン”のNicklinsonさんが今度は殺人に関して求めている、ということですね。
手を休めることなく間を置くことなく次々に策が打たれ、波状攻撃が続いて
英国政府に向けて法改正へのプレッシャーがかけ続けられているなぁ……という印象。
私がちゃんと読んだのは今のところGuardianだけですが、
BBCにある妻の言葉では
「他の人と同じ権利を求めているだけです。
あなたや私は自殺できますが、この人は自分で死ぬことが出来ないんですから」と。
いや、でも、餓死するという方法があるのだとしたら、
この訴訟は「自殺する権利」を求めているのではなくて、
「自分が選んだ方法で殺してもらう権利」に過ぎないんでは?
もう1つ、頭に浮かんだ疑問として、
奥さんの方が「罪に問わないと約束してもらったら、
私が毒物を注射します」と言っているのだけど、
毒物って、そんなに簡単に手に入るもの?
その場合、毒物を調達し渡した人物の罪はどうなる?
……てなことをあれこれ考えると、
この訴訟の背後にも、やっぱりC&Cの影が、チラつくどころか、
毒物入り注射器を山ほど準備して背後霊のように貼りついているのが見えるような……?
【DPPガイドライン関連エントリー】
DPPの自殺幇助に関する起訴判断のガイドラインを読む 1(2010/3/8)
DPPの自殺幇助に関する起訴判断のガイドラインを読む 2(2010/3/8)
英国の自殺幇助ガイドライン後、初の判断は不起訴(2010/3/26)
英国で、介護者による自殺幇助を事実上合法化する不起訴判断(2010/5/25)
自殺幇助の元GPに英国公訴局長「証拠はそろっているけど、公益にならないから不起訴」(2010/6/26)
患者をターミナルな段階だと認定するにあたっては
医療職の感情などが影響し基準が一定していない、と。
Granada地域の病院で42人の終末期の患者のケアに当たる
21人の医師と21人の看護師に詳細な面接を行った。
17人が地域の医療センター勤務、
18人が公立病院、3人が民間の医療センター、4人が合体型ユニット勤務。
患者は23歳から52歳で、22人が女性、20人が男性。
その結果、
プライマリー・ケア(地域のセンター)と専門病院の医療機関のタイプによって、
また医師か看護師かの職種によって
ターミナルの診断姿勢が異なった。
地域の医療センターでは患者の状態を定義する用語として
医師も看護師も「ターミナルな病気」の診断用語を使いカルテにも記入している一方、
公立病院勤務の看護師は「ターミナルな病気」という表現を避けてその他の言い方に置き替えている、
医師は医療職同士では使うものの、カルテには書かない。
医療職の中に、緩和ケアの役割と目的に対する誤った認識があり、
ターミナルと診断づけることを「死の宣告」と捉えている、とも。
また、ほとんどの医療職が癌患者についてはターミナルと診断していた一方、
特に地域の医療センターの医療職の多くは
癌以外の慢性病や進行性の病気についてもターミナルとの診断と結びつけていた。
ターミナルな病気の診断の基準と参考事項は
少なくとも癌については20年前に定義されているが、
いまだに十分に診断が行われているとは言い難い、と論文は強調。
ターミナルとの診断によって医療が切りかえられて
患者と家族が緩和ケアを受けられるようになることを考えると、
ターミナルと指弾することへの医療職の感情的な抵抗感で
緩和ケアを必要とする状態の患者と家族が受けられていないのでは、との疑問が生じる。
また、ターミナルな患者と関わる医療職の
感情的な負担感についての研究も不足している、と指摘。
Health Professionals Believe There Is Inadequate Criteria for Certifying That An Illness Is Terminal
The MNT, July 14, 2010
調査対象の医療職が担当していた患者さんが
23歳から52歳と、比較的若いことがちょっと気になる。
これが高齢者だったら、また違うんじゃないだろうか。
医療職側の内訳は説明されている一方で患者側の病気が何だったのかについては、
例えば癌とそれ以外の患者さんの割合とか、癌以外の患者さんの病気とかは、
この記事では説明されていないので、
「癌だとターミナルという概念と結びつきやすいが
地域の医療センターでは、それ以外の慢性病や進行性の病気でも結びつけている」というのも
今一つ、しっくりこない感じもある。
記事のタイトルが「ある病気をターミナルと認める基準が不適切だと医療職は感じている」と
ちょっと曖昧なものだったこともあって、
例えば、英国で医師らが告発していたように
どうせターミナルな高齢者だから、さっさと脱水、死ぬまで鎮静でいいと考えていれば
さっさとターミナルだというラベル貼りがされるとか、
そういう意味で基準が一定していない懸念の話かと思って読んだら、
(やっぱり患者さんの年齢による違いも大きいと思うんだけど)
表面的にはともかく、実質的には、まったく逆だったという印象。
昨日から「死の質」調査のことを考えている影響もあって、
やっぱり考えるのは去年の秋の医学雑誌での認知症患者の緩和ケア論争。
「認知症患者の緩和ケア向上させ、痛みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/18)
「認知症はターミナルな病気」と、NIH資金の終末期認知症ケア研究(2009/10/18)
NYTもMitchell, Sachsの論文とりあげ認知症を「ターミナルな病気」(2009/10/21)
このGranada大学の調査が念頭に置いているのは
「どうせターミナルなんだからアグレッシブな医療は一切やめましょう」というだけの
Mitchell医師の主張のようなスタンスなんじゃないかという気がする。
でも、この論争でSashs医師が主張したように、緩和ケアは
単に「アグレッシブな医療か一切医療をしないか」という選択の問題ではなく
「良質なケアを減らす」ことでもなく、
「アグレッシブに細やかに症状管理を行い患者と家族をサポートすること」なのだとすれば、
必ずしもターミナルと診断してラベル貼りをして
「医療を切り替える」ことを徹底しようと声を大にしなくても、
また、必ずしも緩和ケアの専門家やホスピスでなくても、
やっぱり個別性の中で、丁寧に個々の患者と家族に向き合う中から
ある程度おのずと出てくることなんじゃないかという気がするのだけど。
ついでに、日本の
徳永医師の緩和ケアについて書いたエントリーを。
「医師の姿勢で薬の効き方違う」と非科学的なことを言う、緩和ケアの「こころ医者」(2010/6/3)
――――――
一昨日からの「死の質」に関するエントリーはこちら。
「死の質」は英国が1位だという調査
「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか
「死の質」について、もうちょっと
この問題に関連して、昨日、某MLに投稿したものの一部を以下に。
「良い死」だったとか「豊かな死」だったというのは、
あくまでも人の人生の一回性の中で主観的にしか決められないことだと思うし、
私は、その一回性の中でドロドロしたり、グルグルしたりしながら、
ギリギリのところで何かを選択するという、そのドロドロやギリギリからこそ
人が生きることにまつわるいろんなことの意味というものは生まれてくるのだと考えるのですが、
「死の質」という言葉がそこにもちこまれることによって、
死に方に外側からの客観的な評価の視点が持ち込まれてしまうんじゃないのか、
で、それは結局、切り捨ての新たなツールになっていくんじゃないのか……
ホスピスが充実していて緩和ケアの質が仮に高いとしても、
だからといって個々の患者の「死の質」が高いことになるのかどうか、
という問題もあると思うのですが、
終末期の医療のいくつかのファクターによって評価された「死の質」が、
日本の記事のように、そのまま個々の患者の「死の豊かさ」として
翻訳されて流布されてしまうことには、それ以上の違和感があります。
じゃぁ、そこで何が飛び越えられてしまっているのか、ということ……
こんなことをぐるぐる考えていたら、
今朝、ふっと頭に浮かんだことがあった。
この調査が対象としているのは「死の質」でも「豊かな死」でもなくて、本当は
ただ、単に「40ヵ国の、緩和ケアの整備量と、ある一面から見た質」に過ぎないということ。
そこから、更に金魚のウンチ的に頭に浮かんできたこととして、
QOL(生活の質であれ生命の質であれ)とは
もしもどうしても使うつもりなのであれば「死の質」にしても
本来、「医療の質」を改善し、向上させるための指標として、医療の内部で、
医療職に対して、その実践を問い、医療の質を測るツールのはずではないのか、ということ。
それが、いつから、どのようにして、「医療が自らの質を問う指標」から
「医療に値するかどうか、医療が患者の質を問う指標」や、
「生き方や死に方を医療が評価して社会に提言するための指標」へと
転換されられていったのか、また転換させられていきつつあるのか。
そもそも緩和ケアの本来の理念が
患者さんが、その人の人生の一回性の中で死んでいくことを支える、というものだったはず。
そして、患者さんが人生の一回性の中で病むことの全体を見る医療が
たしか「全人的医療」と呼ばれて提唱されていたはず。
本当は、これら一切、「医療の質」の問題に過ぎないのでは――?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/194639.php
組織的なことが良く分からないのだけど、これまで個別に儲けちゃいけなかった foundation trust と呼ばれる独自運営のNHSの病院に、いわゆる自由診療の市場への参入が認められることに。:結局、富裕層を相手にしたショーバイで生き残ることによって、最低限の(これがどこまで低くなるかは別の問題で)“公平な”社会保障のセーフティネットを守る、という方向しかないということ……?
http://www.bbc.co.uk/news/10619463
前にドイツの医師が英国の病院に着任した当日に、薬の過剰投与で患者を死なせた事件があったけど、他にも同じくドイツから来た医師2人で類似の間違いが起きていたことが判明。EU内での医療職の移動の問題がクローズアップされている。:でも、なんでみんなドイツ人医師? 関係ないかもしれないけど、Dignitas への自殺ツーリズムはドイツ人がダントツに多い。
http://www.guardian.co.uk/society/2010/jul/14/nhs-inquiry-german-gp-overdose
ローマ・カトリック教会の女性差別。女性司祭は児童虐待と同じくらいの悪だと。:なによ、これッ……と目がつり上がりそうになって、次の瞬間、思った。まぁ、日本の相撲界も大差ない……。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/15/vatican-declares-womens-ordination-grave-crime
ワシントンDCの上訴裁判所、同性婚を認める。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/15/AR2010071503618.html?wpisrc=nl_cuzhead
MI6の元職員のIT専門家が、現ナマでいっぱいのスーツケースと引き換えにオランダのスパイに英国の機密を売った、と罪状認否で認めた。:これだけ各国政府の機能にIT技術が不可欠になったら、例えばMSとGoogleが手を結んで世界を乗っ取ることだって可能なんじゃないのかなぁ……と思ったりする。インターネット上に、全く現実と異なったヴァーチャルな現実を用意して、世界中の人をだまし、コントロールすることも可能なんじゃないか……とか。
Computer expert ‘bored with MI6’ sold British secrets for suitcase full of cash
The Times, July 15, 2010
「死の質」は英国が1位だという調査
「死の質」は果たして「生の質」の対極にある概念なのか
そこでとりあげた「死の質」40ヵ国調査とランキング
The Quality of Death: Ranking End-of Life Care Across the Worldについて
調査を実施した the Economist Intelligence Unit からのリリースを見つけました。
http://www.eiuresources.com/mediadir/default.asp?PR=2010071401
対象となった40ヵ国すべてのランキングや、調査方法など、詳細情報があります。
調査の結果として以下の5点を挙げています。
① 緩和ケアの改善には、死の捉え方、スティグマや文化的なタブーと闘うことが不可欠。
② 安楽死と医師による自殺幇助の国民的議論は啓発にはなるが、その議論で扱えるのはごく少数者の死のみ。
③ 現実問題として最も重要なのは薬へのアクセス。
④ 終末期医療に割かれる国の予算は少なく、医療現場でも従来型の治す医療が優先されている。
⑤ 緩和ケアが増えることで医療費は削減される可能性がある。
調査の依頼主は Lien 財団というシンガポールの慈善団体。
Lien 財団公式サイトの財団に関する説明(about us)は、こちら。
Gates財団と IHME その他の繋がりに疑いの目を向けてきた私の
個人的な偏見なのかもしれないけれど、
どうして終末期医療の質の調査を依頼する先が経済調査を専門とするらしい企業で、
医療に関する調査を専門とする企業じゃないんだろう?
the Economist Intelligence Unitのサイトをのぞいいてみると、
「グローバル・ビジネス情報収集における世界のリーダー」がキャッチ。
なお、quality of death で検索してみてヒットした情報としては、
① 2000年前後から米国の医学論文では「死の質」が問題にされていたらしい。
http://www.promotingexcellence.org/resources/qod.html
② 全文読めるものとして、
2003年の米国内科学会誌に以下の論文「死の質を計測し改善すること」。
(私はまだ読んでいません)
Measuring and Improving the Quality of Dying and Death
Ann Intern Med. 2003; 139:410-415
③ かなり気になるのは、ドイツの動物ホスピスの院長さんが2008年に書いた文章で、
(ざっと目を通した程度です)
Quality of Life- Quality of Death
byElla Bittel
動物なら苦しめないために安楽死させるのだから、
人間も無用に苦しめずに安楽死させるべきだ、と説いている。
これは安楽死や自殺幇助アドボケイトがよく主張することではあるけど、
ここでは、なぜか
「動物の子ども」と「人間の子ども」と話を子どもに限定して
「弱いものを守る」というイメージが多用されているような気がする。
【16日追記】
去年の秋に認知症患者の緩和ケアの捉え方を巡って行われた、以下の論争を思い出しました。
「緩和ケア」がどういうものとして捉えられ、用意されているかという問題もある、と思う。
「認知症患者の緩和ケア向上させ、痛みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/18)
「認知症はターミナルな病気」と、NIH資金の終末期認知症ケア研究(2009/10/18)
NYTもMitchell, Sachsの論文とりあげ認知症を「ターミナルな病気」(2009/10/21)
ついでに、日本の
徳永医師の緩和ケアについて書いたエントリーを挙げておきたくなったので、
「医師の姿勢で薬の効き方違う」と非科学的なことを言う、緩和ケアの「こころ医者」(2010/6/3)
ずっと気になっている。
Independentの記事には、
「生活・生命の質 quality of life」には注意がはらわれてきたけれど、
今まで「死の質」にはそれほどの注意がはらわれてこなかった、として
この調査を歓迎しているようなトーンがあるのだけれど、
本当に quality of death は、quality of life の対極にある概念なんだろうか。
……な~んて、タカビーな問いを立ててみたところで、
私にそう簡単に、この問いを巡る考えがさささっと湧いてくるわけはないのだけれど、
とりあえず、今までの議論の流れからすると、QOL という概念は、
当初こそ患者の生活を無視した医療のパターナリズムへのアンチだったにせよ、
昨今の英語圏の人の生の入り口と出口の医療を巡る議論における QOL は
とっくの昔に切り捨ての指標になり果てていて、
そういうものとしての「生命の質」の対極に「死の質」があるわけはないだろう、
むしろ「生命の質」のすぐ先に、実は同じ概念の別の顔として
「死の質」が待機しているだけなんじゃないか……みたいな違和感というか警戒感。
例えば、
つい先日、総括されたベルギーの安楽死の調査では、
本人の明示的な要望なしに安楽死が行われたケースまでが「死の幇助」と形容されていて、
それを違法行為として問題にする視点が全く欠落している。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60609024.html
英国医師会も先週、自殺幇助合法化反対を確認した際に、
やはりベルギーの実態で、この点に大きな懸念があるとして、
現実の殺人リスクと、それによる社会の意識の変容リスクの2つを指摘していた。
(以下の記事では約半数が本人の明示的要望なしの安楽死とされています)
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/61053071.html
今のところ、ベルギーで本人の明示的な要望なしに行われる安楽死は、
なんとなくグレイなエリアにとどまって、誰も違法行為として暴かないままのようで、
報告書も「減らしていかなければならない」と平然と”今後の課題”扱いしているけれど、
このギャップのところにquality of death という概念と言葉が持ち込まれると、
簡単に正当化の道筋がついてしまう……ということは???
重症障害新生児の救命で、基本は親の選択権だとしても、
じわじわと、それを超えて「生命の質」の評価としての「無益な治療」概念が
病院側に治療停止の決定権を確立していきつつあるように、
終末期医療のところで自己決定権による延命措置の差し控えや中止の先に、
「死の質」という客観的な装いの評価指標が導入されることによって、
「これ以上の延命は”死の質”を低下させて本人の最善の利益になりません」という判断権限が
本人でも家族でもない医療サイドに認められていくための土壌づくり……とか?
でも、これはやっぱり、一人の人の「生の質」とその対極にある「死の質」でもなければ
一般的な「生死」をはさんでの「生の質」と「死の質」というセットでもないと思う。
とりあえず、「死の質」だから単純に「生の質 QOL」の対極として、
セットで語ったり、対置してモノを考えたりする前に、
ここのところには、もっと考えないといけないことがある……という気がする。
特に我々日本人は、英語圏のこれまでの議論の流れを知らされていないだけに、
この調査の結果だけを報道されて「豊かな死」などという言葉に
簡単に踊らされないようにしたい。
そもそも、日本語の報道では、いつのまにか
「豊かな死」と早くも価値判断を含んだ表現に
置き換えられていることそのものが、何か、クサくない?
【16日追記】
調査を依頼したシンガポールの慈善団体 Lien 財団の、この調査に関するリリースは、こちら。
なお、Lien 財団公式サイトの財団に関する説明(about us)は、こちら。
こういうことを調べていたら、いろいろ出てきたので、
またこちらの追加エントリーを書きました。
共同ニュースの記事を取り上げておられるのを今朝、読ませていただきました。
★「豊かな死」1位は英国、日本は23位。
【学院倶楽部】科学と宗教ならびに強要と民族の【共同と連帯】 2010年7月14日
その後、たまたま、この調査に関する Independent紙の記事に出くわしたので、以下に。
Its’ official: Britain is best place in the world to die
The Independent, July 15, 2010
大した内容はないのですが、
「パーフェクトからは程遠い医療制度」を指摘されたにも拘らず
それでも英国では「死の質」が高いんだってさぁ……と
単細胞的に喜んじゃってるみたいな記事のトーンは、
それってブラック・ユーモアなんでしょうか??
英国の終末期医療の指標として「死の質」を1位とする根拠は
ホスピスのネットワーク、NHSの緩和ケアと鎮痛剤へのアクセスなど。
記事は、QOLばかりが注目される中で
毎年、世界中で1億人もが緩和ケアを必要としていながら
実際に緩和ケアを受けることができる人はその8%に過ぎない現状の中で、
調査が「死の質」を問題にしたことを評価。
ちなみにスイスは19位だとのこと。
一昨日の豪タスマニアの自殺幇助合法化関連エントリーとの関連情報として、
オーストラリアのノーザンテリトリーの安楽死法を1996年に連邦政府が無効とした際には、
終末期医療への国家予算が増額された、とのこと。
なお、英国の終末期医療に関する当ブログのエントリーは以下。
それなりに恐ろしい内容となっています。
“終末期”プロトコルの機械的適用で「さっさと脱水・死ぬまで鎮静」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/55363347.html
肺炎なのに終末期ケアで脱水死
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56149532.html
英国の終末期医療は医師の個人的信条次第
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56447570.html
「米国の終末期高齢者は英国に比べて手厚い医療を受け過ぎ」とコロンビア大の研究者
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/56403474.html
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/13/french-ban-face-veils
現在のところFDAのライセンスを受けた唯一の炭そ菌感染予防ワクチンBioThraxの大規模な製造に向け、Emergent社が米政府保健省と1億700万ドルの準備契約。:それはテロの危険がそれだけリアルに大きいということなのか、それとも、よく言われているようにテロを誘導の理由に使ったワクチン市場形成の話なのか。フランスのヴェールの件もそうだけど、テロの可能性とか、財政逼迫というのが、すごく偏ったところにだけ集中的に使われているような……?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/07/13/AR2010071305953.html?wpisrc=nl_cuzhead
2歳児に双極性障害を診断し、2種類も3種類も強い薬を飲ませる米国のトレンドに、「子どもが子どもであるというだけのことを病気扱いするのはやめよう」との提言。
http://www.patriotledger.com/opinions/opinions_columnists/x104355462/COMMENTARY-We-must-stop-treating-childhood-like-a-disease
ビタミンDのレベルが低いとパーキンソン病を発病するリスクが高い、と。:またビタミンD……。
http://www.bbc.co.uk/news/10601091
ハリケーン・カトリーナの翌日、橋の上で出会った無実の一家に発砲し、17歳の息子を殺し、他の4人にけがを負わせたとして、現職警官4人、元警官2人を起訴。
http://www.nytimes.com/2010/07/14/us/14justice.html?_r=1&th&emc=th
史上最も思い切ったNHS改革を断行する、と英連立政権。
http://www.bbc.co.uk/news/10557996
英国の教員の能力給制度で、小学校長の年俸が20万ポンドと言うケースが現れ、論争になっている。労働組合は反発。保護者の中には擁護も。首相よりも高額なんだそうな。
http://www.bbc.co.uk/news/10609273
http://www.guardian.co.uk/education/2010/jul/13/teacher-pay-prime-minister
このところ、英国で前首相Brown叩きがすごい。それにしても、Blair元首相がBrown氏を mad, bad, and dangerous だと思ったって。
http://www.guardian.co.uk/politics/2010/jul/14/mandelson-memoirs-blair-brown-mad-bad
1年前から行方不明でイランがICAに誘拐されたと主張していた核科学者が、ワシントンに突然表れて帰国したい、と。:イラン関連ニュースは、なにかと不可解。内容とか時期とか。
http://www.guardian.co.uk/world/2010/jul/13/iranian-nuclear-scientist-washington-dc
30万ドルの予算を追加して法案を作成し、来年にも自殺幇助合法化法案が州議会に提出される見通し。
それに先立って、まずパブコメ募集が行われるだろう、とのこと。
もしも合法化されれば
オーストラリアで自殺幇助を合法化する最初の州となる。
合法化反対活動家らが、米国からWesley Smithを招いて講演会を開催したようです。
以下の記事はいずれも、Smithの講演を報じるもの。
Smithは一旦合法化されれば対象者は拡大されて
ウツ病でも離婚の苦痛からでも死にたいという人には
死が認められることになる、などと警告。
Warning over euthanasia Bill
Tasmania News, July 13, 2010
Euthanasia ‘bad medicine, worst policy: campaigner
ABC News, July 12, 2010
Wesley SmithのブログSecondhand Smokeの記事は
当ブログでも何度も取り上げています。
自殺幇助関連では「尊厳死」の書庫で、Wesley Smith で検索してもらうと出てきます。
NJ州最高裁の判決後、しかし病院は呼吸器の取り外しを拒否。
徐々に慣らして「乳離れ」を行い、カレンは完全な自発呼吸を開始する。
すると病院は態度を一変して退院を迫り、
カレンは6月にナーシングホームに移る。
その後1985年6月13日肺炎で息を引き取るまでの約10年間、
家族や施設の「通常以上の看護と援助ケア」が続き、
カレンは遷延性植物状態のまま生きる。」
マーク・シーグラーは
第1の物語を「見知らぬ者の医療」を
第2の物語を「親しい仲間の医療」を象徴する、と。
(この医療の分類には、いろいろ考えさせられます。
例えば、「治す医療」と「支える医療」とか、医療と生活との関係とか……)
両親は1980年に「カレン・アン・クインラン希望センター」を設立し、
NJ州に2か所のホスピスを開設。
カレンの父親ジョセフは「……強調すべきはケアであって、治癒ではありません。
愛情ある援助が機械的援助よりも重要なのです」と。
―――――――
アームストロングの戦略や、事件への世論の反応が
そのままAshley事件の正当化論、擁護論に重なっていくことに、
次々に驚かされながら本書を読んだ。
最も大きく印象に残ったのは、
高裁で検察の一人が指摘した事実で、
カレンの父親がカレンから呼吸器をはずしてやりたかったら、
最も迅速・確実にそれが出来る方法は訴訟を起こすことではなく、
呼吸器をはずしてくれる病院を探して転院することだった、と。
Ashley事件ではシアトルこども病院のWilfond医師が
もともと胃ろうの重症児の体重管理なら家庭でのカロリー調整で可能なのだが、
この事件では家族が医療職の関与を求めたことが特徴だと述べている。
どちらも、1つの家庭の中での問題解決だけを求めるならば
わざわざラディカルな行動を起こして世論に訴えることをせずとも
どちらのケースにも家庭内で解決の選択肢はあった、という事実――。
A事件でも
子どもの医療については親のプライバシー権の範囲内だとの擁護論は多かったけれど、
上記事実を考えると、コトの本質はやはり親のプライバシー権ではないと思われ、
(spitzibara仮説では、シアトルこども病院は2004年に、
Ashleyにおいてのみ、特例的に親のプライバシー権を認め、
それが一般化されることがないように水面下にとどめる判断をしたのだと考えます)
むしろプライバシー権を議論の表看板に据えつつ
実はプライバシー権を超えた問題提起をすることに
クインラン事件での訴訟の意味も
敢えてラディカルな成長抑制を実施・公開したAshley父の行動の意味も、あったのでは?
それは高裁で検察側が指摘しているように
コトがクインランという1つの家族を巡る権利の問題ではなく、多くの人の権利の問題であり、
Ashleyという一人の重症児の権利の問題ではなく、
すべての重症児・障害者の権利の問題である、ということなのだけれど、
しかし、それだからこそ、その事実を見えなくするために、またその結果として、
どちらの事件でも次の6つのことが行われていると思う。
① クインラン事件のアームストロング弁護士もA事件のDiekema医師も
問題を「家族の愛と信仰と勇気」の問題に矮小化し、感情に訴えて世論を誘導した。
② 延性植物状態のカレンには脳死状態だと事実に反する主張がなされ、
重症障害児のAshleyには遷延性植物状態と誤解させる表現が多用されたり、
重症児は何も分からない赤ん坊と同じだというイメージ操作が行われた。
③どちらの事件でも、重症障害がある外見が「グロテスク」だと繰り返し語られて、
言外に「われわれと同じ人間ではない」と印象付けられていく。
つまり、そこに線引き・切り離しが行われていく。
ちなみに、前のエントリーに出てきている「無脳症のモンスター」の意味を当時は知らなかったので
エントリーの文中では使っていませんが、07年のシアトルこども病院生命倫理カンファで、
重症新生児の救命を「無益な治療」概念で否定する際に、
Norman Fostが「無脳症のモンスター」という言葉を使い、無脳症児を例にあげました。
カレンが「医学の進歩が死期に創出する終末期のモンスター」だったのだとすれば、
Ashleyは「医学の進歩が出生時の救命で創出する重症障害のモンスター」として描かれて、
クインラン事件が植物状態の人からの呼吸器の取り外しの容認への分水嶺となったのだとしたら
Ashley事件は障害新生児の救命差し控えや停止、それ以前の遺伝子診断などの新・優生思想と、
それでも自己選択で生み育てることを選択するなら介護を親の自己責任とする福祉切り捨てへの
分水嶺とまでは言わなくとも、一里塚くらいにはなっていくのかもしれない。
④クインラン事件で
通常の医療か通常でないかの判断は患者の認知レベルによって分かれるが
治療の拒否権があることに患者の認知レベルは影響しないというダブルスタンダードが
最善の利益論による代理決定を正当化しているのは、
権利・尊厳の侵害や背が高いことの利益を、Ashleyの認知レベルの低さを理由に否定しつつ
QOLの高さや親にケアされることが幸せだと主張する点では認知レベルの低さを問題にしないという
ダブルスタンダードを用いた「害とリスク」と「利益」による最善の利益で
Ashleyケースの医療介入が正当化されていることと並行する。
⑤このシリーズの2つ目のエントリーで引用した部分(以下に再掲)に書かれているように、
脳死はカレンの満たすことのない死の定義である。しかし、そのことを示すために反復される詳細な議論は、読む者に原告側の主張に対するたんなる論駁以上の印象を残す。脳死概念が、いまだそれを人の死とする法の成立していないニュージャージー州においても、確かな法的地位を既に獲得しているという印象である。しかし、実際には、事実は逆だというべきである。そうして倦むことなく繰り返される議論が脳死概念の社会的需要そのものを創出するのである。
(P.66)
クインラン事件で論争が起こり、続けられること、そのものによって、
未だに法制化されていない脳死概念が法的地位を既に獲得しているような印象を与え、
世論が脳死概念の法制化への受容の土壌を創り出したように、
Ashley事件でも、論争が続いていることによって、
“Ashley療法”・成長抑制療法は未だに倫理的に正当化されていないにも関わらず、
特に医療職と重症児の親を中心に社会の人々がその考えに馴染み、抵抗を薄れさせていく。
英国のKatie事件がAshley事件ほどの衝撃を持って受け止められなかったように、
オーストラリアのAngela事件に至っては、もはや誰も大した興味を持たないように、
重症児の“QOL向上のための”身体の侵襲は徐々に受け入れられ、
正当な根拠なしに、医療の中に位置づけられようとしている。
2007年の論争当時に、米国のメディアが本来の機能を果たしていれば、
論争のテーマは「“Ashley療法”の倫理的妥当性」ではなく
「シアトルこども病院の倫理委員会がしかるべく機能したかどうか」になったはずで、
そうすれば、クインラン事件の州最高裁が出した
医療職に権限を委譲し、セーフガードとして倫理委員会を利用する、という提案の、
その倫理委員会に政治的ぜい弱性があることを
Ashley事件こそが、あぶり出すことが出来たはずだったのだけれど。
⑥「かけ離れた権利が結び付けられるというねじれによって」
「歴史的な分水嶺としての意味を獲得していく」。
癌の叔母に関しての発言を根拠とするカレン自身の医療を拒否するプライバシー権と
実は成人したカレンには及ばないはずの家族のプライバシー権とが、
無理やりに家族の愛情神話で情緒的にごまかされて結び付けられてしまい、
世論の同情と涙のうちに、いつのまにか司法にすら政治的配慮が働いて
OKにされていくマジックは、
子どもの医療を巡る親のプライバシー権については、
特に知的障害者に対する侵襲度の高い医療は例外とされており、
身体の統合性に対するAshley本人の権利が守られるための
然るべき意思決定プロセスには一定のスタンダードが設けられてきているにもかかわらず、
親の愛情と、赤ちゃんと同じ重症児が愛情深い親の腕に抱かれケアされるイメージによって
メディアにも操作が行われ、いつのまにか世論が誘導され、
Angela事件では豪の司法までが操作されたかとすら思われるマジックとそっくり。
でも、①から⑤によって世論が情緒的に盛り上げられているので、
そのマジックが見破られにくくなっていることもまた、共通項。
A事件では操作が米国内にとどまらず、グローバルに及んでいることは
時代の違いを象徴していると言えるでしょうか。
1976年1月から州最高裁での審理開始。
原告側弁護士アームストロングが持ち込んだ新たな論点は「無益な医療」。
通常/通常以上の医療の区別から、論点を医療の無益性へと転換し、以下のように主張した。
(1990年代から本格的に議論される治療の無益性がここで既に持ち出されている)
個人は無益な医療行為の中止を求める権利を持つ。
それは、最近親者が後見人として適切に代行できる権利である。
無能力者にも拒否権はある。
本人の最善の利益を検討することで後見人によって適切に行使される。
(「無益な治療」概念については、後に90年代の議論で、ロバート・トゥルオグが
生命維持処置の制限に「倫理的に一貫した根拠は提示しえない」と、
またロバート・ヴィーチが「価値判断であるにもかかわらず
客観的な指標のように装われがち」と問題を指摘している)
3月31日 最高裁は7名の判事全員一致で逆転判決。
事件を終わらせるための、最初から結論ありきで理由づけした判決。
父親の家族のプライバシー権の行使ではなく、カレンのプライバシー権の後見人による代行として。
最高裁の判決文にも「カレンの姿勢は胎児様でグロテスク」。
アームストロングが敢えて避けた「通常/通常でない」の区別を持ち出し、
治癒可能な患者の場合は「通常」とみなされる治療が
回復の見込みがない患者の心肺機能を無理やり維持するような場合には「通常以上」となりうる、と。
無益性による停止ではなく、通常以上の治療の停止として認めたもの。
医師に裁量権を認めながら
判断のバランスを保障する装置として倫理委員会の利用を提案し、
責任を分散することによって、訴追の懸念を減少する狙いもうかがわれる。
そこで判決の宣言的救済は、次のように書く。
カレンの後見人と家族の協力のもと、責任ある主治医が
カレンが現在の昏睡状態から脱して認知と知性のある状態に回復する合理的可能性がいっさいなく、
現在カレンにほどこされている生命維持の機器は停止すべきだと判断した場合、
カレンが入院している病院《倫理委員会》ないし類似の組織に相談すべきである。
もしそうした助言機関が
カレンが現在の昏睡状態から脱して認知と知性ある状態に回復する合理的可能性が
いっさいないことを認める場合、現在の生命維持装置は取り外すことが許されるし、
その行為については、後見人であろうと、医師であろうと、病院や他のものであろうと、
いかなる関係者についても、刑事上、民事上の法的責任を問われるものではない。
(p.211)
ここまでが世の中によく知られたクインラン事件の「第1の物語」。
その後の「第2の物語」については次のエントリーに。
【無益な治療論に関するTrouog発言エントリー】
TrougのGonzales事件批判(2008/7/30)
「無益な心肺蘇生は常に間違いないのか?」とTruog医師(2010/3/4)
1975年4月NJ州のカレン・クインランさんが
交通事故で昏睡状態となり人工呼吸器を装着。
(4月末、ベトナム戦争ではサイゴン陥落)
9月、呼吸器をはずしてやりたいとする父親が
自分を後見人として認めるよう求め、訴訟。
州高裁で弁護士アームストロングは、まずは、
カレンが脳死であり、既に死んでいる以上、呼吸器を外しても殺人にはならないと
主張する戦略に出る。
この際の論争によって、脳死の医学定義が承認されたと考える学者も。
脳死はカレンの満たすことのない死の定義である。
しかし、そのことを示すために反復される詳細な議論は読む者に
原告側の主張に対するたんなる論駁以上の印象を残す。
脳死概念が、いまだそれを人の死とする法の成立していないニュージャージー州においても、
確かな法的地位を既に獲得しているという印象である。
しかし、実際には、事実は逆だというべきである。
そうして倦むことなく繰り返される議論が脳死概念の社会的需要そのものを創出するのである。
(P.66)
カレンは脳死ではなく遷延性植物状態であることは明らか。
そこでアームストロングは戦略を変更。
クインラン一家がカトリック教徒であることから
今度は教会の助言を得て「通常以上の手段」を終わらせるための代理決定を主張する。
(「通常/通常でない手段」については前のエントリーに)
本人が生前、癌の末期の叔母についての家族との話などで、
通常以上の手段で無益な延命をされたくないと語っていたことが語られ、
アームストロングはシュトランクvsシュトランク(1969)や
ハートvsブラウン(1972: 7歳10カ月の双子間での腎臓移植)の判例を引いて議論。
ともに、無能力者を巡る代理決定において
利益の比較考量によって臓器提供を正当化したもの。
カレンの昏睡は不可逆的で、
自立と身体的統合性の崩壊は既に避けがたく、死は単に遅らされているに過ぎないので、
呼吸器を外しても殺人には当たらない、との主張と同時に、
本人の意思と、家族のプライバシー権の主張へと。
しかし、実際には本人の意思はカレン自身のプライバシー権であり、
成人であるカレンに対して父親のプライバシー権がそのまま通用するわけではない。
そこでアームストロングはその2つのかけ離れた権利をつなげるマジックとして、
個人のプライバシー権を確立した2つの判例(シュトランク、ハート)には敢えて触れず、
家族のプライバシー権の問題として論じる戦略に加えて、
「特にプライバシー権を擁護するはずの補足的議論は
法理論の展開というよりも、人々の感情に訴えるものへとずれ込んでいく(p.103)」
「ここでも、
かけ離れた権利が結び付けられるというねじれによって、脳死問題の場合と同じように、
むしろクインラン事件が歴史的な分水嶺としての意味を獲得していくことになる(p.104)」
「『家族の愛と信仰と勇気』、それを拠り所にしてアームストロングは、
法的、医学的な問題に対処する姿勢を明らかにした。
法と医学に家族の愛を対置すること、問題をあくまでも私的な次元に引き戻しながら
論じることが原告側の方針だった。(p.107)」
これに対して検察側は、「法による裁きの場」と言う言葉を繰り返し、
「この法廷は愛の場ではありませんし、同情の場でもありません」
「カレンは死んでいない」、生きているという事実のみが重要であり、
回復の見込みの有無も関係がない、尊厳死も自己決定も宗教の自由も、問題のごまかしであり
「これは安楽死なのです」と説き、
事件を家族の問題に矮小化することは許されない、
「われわれがここで論じているのはこの不幸な若い女性とその家族の権利だけではなく、
無数の他の人々の権利でもあるのです」(p.109)と主張する。
(このあたりの擁護論の展開とそれに対する批判は、まさにAshley療法論争でも同じ。、
ついでに言えば、英国の家族による自殺幇助・慈悲殺合法化論の展開と批判のパターンにもそっくり)
原告側の証人として出てきたNY大学神経学教授 ジュリアス・コライン医師は
カレンの「精神年齢を示すことは可能か」と問われ、
精神年齢で捉えることの不適切を言おうとして
「無脳症のモンスター・奇形児 an encephalic monster」を例にあげた。
その事例は同医師の意図に反して、
カレンがモンスターであるとの印象と、そういう事態への不安を人々に与えた。
その後のクインラン事件が「現代医学の進歩が創り出すモンスターの恐怖」の象徴となった一因。
被告側の証言でもカレンを診察したダイヤモンド医師がカレンの状況を説明した後で
「……きつい胎児姿勢をなしていました。実際、胎児といった人間的な言葉で説明するには
あまりにもグロテスクでした」。(p.157)
(次のエントリーで出てきますが、最高裁の判決もカレンの状態について
「グロテスク」という文言を使っています)
1975年11月10日、ミューア判事は父親ジョセフ・クインランの請求を却下。
世論が既に父親への同情を集めていたこともあり批判が集中する。
専門職からは治療継続の判断を医療職にゆだねた、との批判も。
クインラン事件は
英語の勉強に熱心だった10代の終わりから20代にかけての事件なので
「事故で植物状態になった女性の親が呼吸器を外したいと裁判ですったもんだがあった。
最後には許可が下りたけど、いざ外したら、その人は自力呼吸ができて長いこと生きた」
という程度には記憶している、私の中でも比較的大きな出来事だった。
この本は、膨大な資料から、
複雑な事実関係と議論とを丁寧にわかりやすく組み立ててあって、
ちょっとしたドキュメンタリーのように面白く読んだ。
と同時に、世の中がある一定の方向に傾れ込んでいく時に
その時代の力動によるのか、もっと作為的なものなのかは別にして
その方向への動きを大きく誘導することになる事件での議論というものが
この事件でもAshley事件でも同種の欺瞞・マヤカシを含んでいることに
新鮮な驚きも感じつつ読んだ。
前半の内容はクインラン事件の内容と展開。
後半は、クインラン事件を分水嶺として範囲を拡大していく、その後の米国の
「死ぬ権利」議論と、生命倫理の役割についての整理。
どちらもまとめるつもりだったのですが、
読み終えて、いざ取り掛かってみたら、前半だけで力尽きてしまったので、
クインラン事件についてのみ、特にAshley事件との関連で興味のあることについて
以下4つのエントリーに分けて。
1. クインラン事件に関係する出来事や情報の整理
2. NJ州高裁
3. NJ州最高裁
4. 裁判後の「第2の物語」と、Ashley事件との類似点について
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1. クインラン事件に関係する出来事や情報の整理
【クインラン事件以前の関連の出来事】
1968年 脳死基準
統一州法委員会によるモデル法「統一遺体贈与法:Uniform Anatomical Gift Act」
1970年 カンザス州で脳死を人の死とする州法。これを皮切りに相次ぐ。
「脳死基準がつくられたとき、移植研究の専門家たちは生命倫理による後押しを必要とした。
医学の専門家が登場しつつあった生命倫理に期待したのは、「臓器の収穫」に対する恐怖感を和らげ、
人々にハーバード基準を受け入れさせることだった。……そうしたところに、1975年、
クインラン事件が登場し、生命倫理学者にアドバイザーの役割が与えられることになったのである
(P.26)」と捉える学者も。
1971年 ヘストン事件 ニュージャージー
エホバの証人の輸血拒否
「死を選ぶ憲法上の権利はない」
カトリックの見解(ピウス12世)
通常/通常以上の区別。その区別が義務/義務でないものとの判断と重なる。
1972年 遷延性植物状態 コーネル大のフレッド・プラムと英ブライアン・ジェネットが提唱。
【プライバシー権】
プライバシー権についての概要は、本書に沿って
堀田義太郎氏と立岩真也氏がこちらにまとめておられます。
医療におけるプライバシー権については
「成人に達し、健全な精神をもつすべての人間は、
自分の身体に何がなされるべきかを決定する権利がある。
したがって患者の同意なしに手術をする主治医は暴行を侵すことになり、
その損害への責任を負う」(1914年カートゾ判事。後のIC法理の出発点の1つ)
家族の自律(family autonomy)
家族のメンバーに関わる基本的な意思決定を下す家族の権利’(the right of the family)
個人のプライバシー権と家族のプライバシー権については、
「ケアの絆 - 自律神話を超えて」のエントリーでちょっと考えました。
1965年 グリズウォルドvs コネチカット事件
CT州エステル・グリズウォルドはCT州家族計画同盟(Planned Parenthood League in CT)の会長。
結婚しているカップルに避妊の情報提供をしたことが州法違反に問われて、
同盟の医学部長と共に逮捕された。
州裁判所では1審、2審ともに有罪。
連邦最高裁で「プライバシーの権利」を理由に逆転無罪。
「プライバシーの権利をたんに情報を他人から守るだけでなく、
政府の介入から自由な個人を保護する活動領域を創り出すものとして初めて論じた」
画期的判決と、倫理学者。
1973年 テキサス州 ロー vs ウェイド判決
プライバシー権を妊娠第一期の中絶に適用。
プライバシー権は結婚、出産、家族関係や子どもの育て方にまで適用されるとの解釈。
【英米の安楽死議論】
1906年オハイオ州で安楽死法案(積極的安楽死を認めるもの)を皮切りに続くが未成立。
1930年代、英国でも議論が起こり始める。
1936年、英国議会に安楽死合法化法案。否決。35対14。
1938年 米国安楽死協会設立
事件以前に「死ぬ権利」と言う言葉を多用していた生命倫理学者ジョセフ・フレッチャーは
現代医学の進歩によって人間の誕生と死の場面に登場する「モンスター」の治療停止を
「死ぬ権利」の問題として提起し、安楽死を肯定していた。
同様の論法で1980年にヘムロック協会が設立される。
創設者はデレク・ハンフリー。
(Hemlock SocietyはC&Cの前身。
メディアによってFENの前身としているものもあるようですが
FENがHumphryの著書Final Exitをテキスト扱いしていることでもあり、
Humphry自身もどちらにも関わっているというのが本当のところではないでしょうか)
ちなみにDerek Humphry の著書は
Final Exit : The Practicalities of Self-Deliverance and Assisted Suicide for the Dying
Derek Humphry, 2002
日本でも翻訳が出ているようです。
「安楽死の方法(ファイナル・エグジット)」徳間書店から。
Amazon.comの内容説明には
「苦痛なく死ぬ権利を求めて。
本書はまさに人間最後の「至福」のありかを探る問題作である」と。
Derek Humphryのブログはこちらの、その名もAssisted-Suicide Blog。