「弱者の居場所がない社会 ― 貧困・格差と社会的包摂」
阿部彩 講談社現代新書
プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)
日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)
ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。
日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?
従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)
イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、
格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)
現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、
これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)
しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。
そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、
「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。
「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、
むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、
「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。
「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?
世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。
ちがう――?
阿部彩 講談社現代新書
プロローグでも述べたように、近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広くとらえ深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。
従来の貧困の概念は、ただ単に金銭的・物品的な資源(その人が持っているもの)が不足している状況を示したものであった。たとえば、所得が低い、所有物が少ない、大多数の人が楽しむ休暇やレクリエーションが金銭的な理由で楽しむことができない……などの状況を表したものであった。
これに対して「社会的排除」という概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(たとえば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての価値存在を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(ソーシャル・エクスクルージョン)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会の「関係」に着目した概念なのである。
(p.93)
日本の生活保護を始めとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で「就労支援」ばかりが強調されると、「働かざるもの、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。
繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまでも包摂の手段としての就労の支援なのである。
(p.111)
ここの最後の数行は、
少なくとも最近の報道からする限りは、
連立政権になってからの英国には当てはまらないような印象がある。
日本と同じような自己責任論による、
公的給付を代替えするための就労達成への努力を義務付けて、
それが達成されなければ一定期限で給付を切る方向に向かっているような?
従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。
社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。
(中略)
従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。
(中略)
そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的は維持御に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。
たとえば、なぜ、担任世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。……(中略)…
社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。
(p.124-126:ゴチックの個所、原文は傍点)
イギリス、ノッティンガム大学医学部の社会疫学者
リチャード・ウィルキンソン教授による「格差極悪論」を説明して、
格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
(p.127:ここのゴチックはspitzibara)
現在の日本の社会保険制度、
特に人々を労働市場に戻すことだけを目的とした就労支援など、
これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のようにふるまわなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。
社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。
(p.190)
しょーもないエピソードだけど、
何年も前に、ある場所にユニバーサル・デザインの公園を作る話があって、
その企画に関わっている人たちに障害のある子どもの親としての意見を、と言われて
夫婦で出掛けたことがあった。
そこには行政の人の他に、いわばコンサルのような立場の若い人がいて、
その人が、トイレもユニバーサルなものにして、
障害者も高齢者も男性も女性も子どもも
誰でも使えるようにするのだと力説した時に、
「だから安心して子どもも使えるように
女性の生理用品のゴミ箱は設置しません」
と宣言したのに度肝を抜かれた。
「じゃぁ、女性は使用済みの生理用品をどうするんですか?」
と、思わず、例によって真っすぐな口調で聞いてしまったのだけど、
むしろ相手にムッとされてしまい、
さも「だから無知なおばさんはダメなんだよ」とでもいったイライラ口調で、
「それは女性にはちゃんと自己責任で持ち帰ってもらわないと。
誰もが使える、すなわち子どもが使っても不快にならないトイレなんですから」。
「ユニバーサル・デザイン」もこうして排除の論理に繋がっていくなら
いったい何のためのユニバーサル・デザインなのよっ?
世の中には、たぶん、この手の話がウジャウジャしている。
そして、そういう話の根っこにある意識こそが「社会的排除」。
ちがう――?
2012.02.03 / Top↑
今朝のガウタマ・シンラン・ソリドゥスさんの以下のブログ・エントリーに衝撃を受けたので、
ナイジェリア「出産工場」
【学院倶楽部】科学と宗教ならびに教養と民族の【協同と連帯】(2011/6/2)
私も検索して、以下のBBCの記事を読んでみました。
------
ナイジェリアの警察は南東部のAbaにおいて
The Cross Foundation 病院を捜索し、
人身売買組織に閉じ込められていたとみられる妊娠中の32人の少女たちを救出した。
少女らは15歳から17歳で
生まれた赤ん坊は呪術目的や養子に売られていたとみられる。
既に売却契約が交わされ引き取られるのを待つ段階だった赤ん坊4人も
同時に救出された。
病院経営者は望まぬ妊娠をした少女たちの支援団体を名乗って
「赤ちゃん工場」だったとの疑惑を否定しているが
国連によるとナイジェリアでは毎日少なくとも10人の子どもが売買されており、
同国内の犯罪では麻薬の売買と詐欺に次いで人身売買が3番めとのこと。
ナイジェリア政府の人身売買監視団体Naptipによると
赤ん坊は最高6400ドルで売られており、男児の方が値段が高い。
呪術で赤ん坊を殺せば力が高まると信じている地域もあり、
未婚女性の妊娠への差別や排斥が強い文化風土からも
こうしたクリニックに誘われて赤ん坊を売ることになりがちだという。
生んだ子どもを売った少女たちに冒頭の病院から支払われたのは170ドル。
ナイジェリアでは新生児の人身売買は違法で
最高14年の禁固刑も。
Nigeria ‘baby farm’ girls rescued by Abia state police
BBC, June 1, 2011
このニュースで真っ先に頭に浮かんだのは、
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”の記事で読んだのだと思うのだけど、
インドでは代理母の妊娠中の健康管理のために
代理母である若い女性を出産まで一か所に集めて生活させ、
人権問題が懸念されるほどの管理をしている企業もある、という話。
BBCはナイジェリアの人身売買の被害に遭った子どもを取材して
2008年にも記事を書いている ↓
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7226411.stm
またナイジェリアでは魔女狩りという名目で
大人が子どもを虐待したり殺害している、というニュースも ↓
ナイジェリアの子どもたちの悲惨(2007/12/14)
タンザニアでも、呪術に使う目的でアルビノの人たちが殺されている ↓
アルビノは呪われていると殺害(2008/4/4)
ハイチの子どもの奴隷については、こちらのエントリーに ↓
restavekという名の幼い奴隷(ハイチ)(2008/9/24)
他にも世界中で子どもが売買されていると思われるニュースはあって、↓
子どもたちがこんなにも不幸な時代(2008/5/30)
なお、今年1月にも、ガウタマ・シンラン・ソリドゥスさんの記事に触発されて
世界の奴隷労働に関する当ブログ内の記事を、
こちらのエントリーに取りまとめていました ↓
世界の「奴隷労働」を、拾った記事から概観してみる(2011/1/20)
ガウタマ・シンラン・ソリドゥスさん、
いつもたいへんお世話になり、ありがとうございます。
ナイジェリア「出産工場」
【学院倶楽部】科学と宗教ならびに教養と民族の【協同と連帯】(2011/6/2)
私も検索して、以下のBBCの記事を読んでみました。
------
ナイジェリアの警察は南東部のAbaにおいて
The Cross Foundation 病院を捜索し、
人身売買組織に閉じ込められていたとみられる妊娠中の32人の少女たちを救出した。
少女らは15歳から17歳で
生まれた赤ん坊は呪術目的や養子に売られていたとみられる。
既に売却契約が交わされ引き取られるのを待つ段階だった赤ん坊4人も
同時に救出された。
病院経営者は望まぬ妊娠をした少女たちの支援団体を名乗って
「赤ちゃん工場」だったとの疑惑を否定しているが
国連によるとナイジェリアでは毎日少なくとも10人の子どもが売買されており、
同国内の犯罪では麻薬の売買と詐欺に次いで人身売買が3番めとのこと。
ナイジェリア政府の人身売買監視団体Naptipによると
赤ん坊は最高6400ドルで売られており、男児の方が値段が高い。
呪術で赤ん坊を殺せば力が高まると信じている地域もあり、
未婚女性の妊娠への差別や排斥が強い文化風土からも
こうしたクリニックに誘われて赤ん坊を売ることになりがちだという。
生んだ子どもを売った少女たちに冒頭の病院から支払われたのは170ドル。
ナイジェリアでは新生児の人身売買は違法で
最高14年の禁固刑も。
Nigeria ‘baby farm’ girls rescued by Abia state police
BBC, June 1, 2011
このニュースで真っ先に頭に浮かんだのは、
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”の記事で読んだのだと思うのだけど、
インドでは代理母の妊娠中の健康管理のために
代理母である若い女性を出産まで一か所に集めて生活させ、
人権問題が懸念されるほどの管理をしている企業もある、という話。
BBCはナイジェリアの人身売買の被害に遭った子どもを取材して
2008年にも記事を書いている ↓
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7226411.stm
またナイジェリアでは魔女狩りという名目で
大人が子どもを虐待したり殺害している、というニュースも ↓
ナイジェリアの子どもたちの悲惨(2007/12/14)
タンザニアでも、呪術に使う目的でアルビノの人たちが殺されている ↓
アルビノは呪われていると殺害(2008/4/4)
ハイチの子どもの奴隷については、こちらのエントリーに ↓
restavekという名の幼い奴隷(ハイチ)(2008/9/24)
他にも世界中で子どもが売買されていると思われるニュースはあって、↓
子どもたちがこんなにも不幸な時代(2008/5/30)
なお、今年1月にも、ガウタマ・シンラン・ソリドゥスさんの記事に触発されて
世界の奴隷労働に関する当ブログ内の記事を、
こちらのエントリーに取りまとめていました ↓
世界の「奴隷労働」を、拾った記事から概観してみる(2011/1/20)
ガウタマ・シンラン・ソリドゥスさん、
いつもたいへんお世話になり、ありがとうございます。
2011.06.03 / Top↑
MN州の障害者に対する公式謝罪を実現させたMarty議員の声明を読んで、
ここでも、ごく自然に「尊厳」が触れられている……ということを思い、
そのことと併せて、
ずっと前から考えているDiekema医師の
「尊厳」は定義なく使っても無益な概念……との主張のことを考えていたら
なぜ「尊厳」が無益な概念ではないか、反論のようなものが1つ、頭に浮かんだ。
まだ、まとまりを欠いているし、
私が考えつく程度のことは、誰かがとっくにどこかで書いているとは思うのだけど、
尊厳については、私なりに、ずっと継続して考えていきたいと思っているので、
1つの段階として、頭に浮かんだことを、以下に。
「尊厳」が定義なくつかわれても決して無益な概念ではないのは、「尊厳」は
例えば「神」とか「信仰」とか「愛」とか「理想」と同じ種類の概念だから――。
簡単に言うと、これが、今回、頭に浮かんだことの主旨です。
これらの概念は、
それが「ある」とか「ない」と万人で統一して決めたり、
それを万人が共有できるような形で定義することが難しいもので、
それは「ある」と信じることによって「ある」のであり、
「ある」と信じることによって、それがあることに意味が生じる、という種類のもの。
「神を信じるか?」と問われたら、
私は、特定の宗教の「神」は信じていないような気がするけど、
でも、そういう「神」を信じている人の「信仰」も否定しない。
一方で、私は、
この世界には、それを成り立たせている一定の法則性のようなものがあると感じていて、
人間をはるかに超えた「自然の意図」とか「大いなる計らい」と受け止めたりしつつ
そういうものが「ある」と漠然と信じているし、
それも、ある意味では
「神」を信じている、ということなのではないかという気がする。
(科学というのは、もしかしたら
「自然の法則性」の美しさや崇高さに魅せられた人が
それを解明する行為を通じて、それに近づけると信じる信仰……?)
定義しろと言われても、
それは、その人それぞれにとっての「神」だったり、
「神」とか「信仰」という名前ですらないものだったりもする。
でも、それで何も困らない。
それは、人がそれを感じるのが
その人の個人的主観的な体験においてだからで、
その点は「愛」とか「理想」も同じなんじゃないだろうか。
それぞれの人にとっての愛であり理想であり、
もっと言えば、それぞれの人と、ある特定の人との関係性の中でだけ
あり得たり、問題になったりする愛とか理想というものだってある。
でも、個人的、主観的に体験されるものだからといって、
「ない」わけでも「無意味」なわけでもない。
万人が共有できる客観的な定義などできないけど、
それが「ある」と信じることによって
それは、その人にとって「ある」のだし、
それが、その人にとって「ある」ことによって、
それは、その人にとって大切なものとして意味を持ってくるし、
その大切さを、
自分を超えた誰かとのつながりや関係性の中で体験することによって
その人は自分を超えた誰かとか、もっと大きな何かと繋がっていくことができるし、
その繋がりを信じたり、その繋がりに意味を見いだすことができる。
そんなふうにして、
それらが「ある」と信じることが
私たちの中の何か「善いもの」を生む力になっている。
それが大切だと感じることによって、私たちそれぞれの中で、
人として大切な何か「善いもの」が損なわれずに守られていく。
同じように、
一人一人が「ある」と信じるだけではなくて、
多くの人が「ある」と信じることによって
それが人々つまり社会の中で大切なものとして意味を持ち、
それが大切なものとして意味を持っていることによって
人間としての我々の中の、なにか善いもの、貴重なものが
損なわれずに守られていく。
それは、例えば、
なんだか身に沿わなくて使うのが気恥ずかしい言葉だけど「ヒューマニティ」とか。
もうちょっと自分の身の丈に沿った言葉を探してみると、
人としての良識とか品性とか、
ただ単に、なるべく「ひとでなし」にならずにいられる、ということとか。
例えば、インターネットで書き込みをする時に
実名で書きこむ際の「自分」から、匿名になった途端に、かなぐり捨ててしまう人がいる部分のこと。
実名で書けないことは、匿名でも書かない節度として、
自分からそぎ落とすことをせずに守る人もいる、そういう部分のこと。
だから、私たちは
「愛なんていくらでもお金で買える」と放言する人に不快になるし、
「理想なんて口にしたって仕方がない」と言う人がいたら心が痛んで、
そういう人が一人でも少ない社会であれかしと考えるんじゃないだろうか。
そういうものとして「神」とか「愛」とか「理想」とかがあって、
「尊厳」も、また、そういう種類の概念の1つなんじゃないだろうか。
もちろん「神」や「愛」や「理想」が、
人によって、場面や文脈によっては、
丸反対の意味で使われることだって可能だし、
時には非常に偏ったものになったり
武器として利用されたり、操作の道具として使われてしまうこともあるし、
まっすぐに信じるがゆえに危険な概念になり
多くの人が被害に遭うことがあるのと同じように、
「尊厳」も、
人によって、場面や文脈によって内容も使われ方も違っていたり、
何かの目的で利用されることや、時には、とても危険な使われ方をすることだってある。
でも、それだからといって、「愛」や「理想」と同じように、
「そんなものはない」とか「そんなものには意味はない」「無益だ」と
切り捨てることは、してはいけないんじゃないだろうか。
「尊厳」なんて無益な概念だ、と皆で躊躇いなく切り捨てる社会は、
「愛」や「理想」を「そんなものは無意味」と皆でかなぐり捨てる社会と、きっと同じ場所のはずだ。
そんなところには誰も住んでいたくないはずだ……と、
私はまだ信じているし、この先も信じたいのだけど、
最近、世の中に増殖しているよう見える
「機能」とか「能力」とか目に見えるもの数値化できるもののことしか言わない人たちには
な~にを無意味なタワゴトを……愛も理想も脳と遺伝子次第なのに……と、一蹴されるのかな。
ここでも、ごく自然に「尊厳」が触れられている……ということを思い、
そのことと併せて、
ずっと前から考えているDiekema医師の
「尊厳」は定義なく使っても無益な概念……との主張のことを考えていたら
なぜ「尊厳」が無益な概念ではないか、反論のようなものが1つ、頭に浮かんだ。
まだ、まとまりを欠いているし、
私が考えつく程度のことは、誰かがとっくにどこかで書いているとは思うのだけど、
尊厳については、私なりに、ずっと継続して考えていきたいと思っているので、
1つの段階として、頭に浮かんだことを、以下に。
「尊厳」が定義なくつかわれても決して無益な概念ではないのは、「尊厳」は
例えば「神」とか「信仰」とか「愛」とか「理想」と同じ種類の概念だから――。
簡単に言うと、これが、今回、頭に浮かんだことの主旨です。
これらの概念は、
それが「ある」とか「ない」と万人で統一して決めたり、
それを万人が共有できるような形で定義することが難しいもので、
それは「ある」と信じることによって「ある」のであり、
「ある」と信じることによって、それがあることに意味が生じる、という種類のもの。
「神を信じるか?」と問われたら、
私は、特定の宗教の「神」は信じていないような気がするけど、
でも、そういう「神」を信じている人の「信仰」も否定しない。
一方で、私は、
この世界には、それを成り立たせている一定の法則性のようなものがあると感じていて、
人間をはるかに超えた「自然の意図」とか「大いなる計らい」と受け止めたりしつつ
そういうものが「ある」と漠然と信じているし、
それも、ある意味では
「神」を信じている、ということなのではないかという気がする。
(科学というのは、もしかしたら
「自然の法則性」の美しさや崇高さに魅せられた人が
それを解明する行為を通じて、それに近づけると信じる信仰……?)
定義しろと言われても、
それは、その人それぞれにとっての「神」だったり、
「神」とか「信仰」という名前ですらないものだったりもする。
でも、それで何も困らない。
それは、人がそれを感じるのが
その人の個人的主観的な体験においてだからで、
その点は「愛」とか「理想」も同じなんじゃないだろうか。
それぞれの人にとっての愛であり理想であり、
もっと言えば、それぞれの人と、ある特定の人との関係性の中でだけ
あり得たり、問題になったりする愛とか理想というものだってある。
でも、個人的、主観的に体験されるものだからといって、
「ない」わけでも「無意味」なわけでもない。
万人が共有できる客観的な定義などできないけど、
それが「ある」と信じることによって
それは、その人にとって「ある」のだし、
それが、その人にとって「ある」ことによって、
それは、その人にとって大切なものとして意味を持ってくるし、
その大切さを、
自分を超えた誰かとのつながりや関係性の中で体験することによって
その人は自分を超えた誰かとか、もっと大きな何かと繋がっていくことができるし、
その繋がりを信じたり、その繋がりに意味を見いだすことができる。
そんなふうにして、
それらが「ある」と信じることが
私たちの中の何か「善いもの」を生む力になっている。
それが大切だと感じることによって、私たちそれぞれの中で、
人として大切な何か「善いもの」が損なわれずに守られていく。
同じように、
一人一人が「ある」と信じるだけではなくて、
多くの人が「ある」と信じることによって
それが人々つまり社会の中で大切なものとして意味を持ち、
それが大切なものとして意味を持っていることによって
人間としての我々の中の、なにか善いもの、貴重なものが
損なわれずに守られていく。
それは、例えば、
なんだか身に沿わなくて使うのが気恥ずかしい言葉だけど「ヒューマニティ」とか。
もうちょっと自分の身の丈に沿った言葉を探してみると、
人としての良識とか品性とか、
ただ単に、なるべく「ひとでなし」にならずにいられる、ということとか。
例えば、インターネットで書き込みをする時に
実名で書きこむ際の「自分」から、匿名になった途端に、かなぐり捨ててしまう人がいる部分のこと。
実名で書けないことは、匿名でも書かない節度として、
自分からそぎ落とすことをせずに守る人もいる、そういう部分のこと。
だから、私たちは
「愛なんていくらでもお金で買える」と放言する人に不快になるし、
「理想なんて口にしたって仕方がない」と言う人がいたら心が痛んで、
そういう人が一人でも少ない社会であれかしと考えるんじゃないだろうか。
そういうものとして「神」とか「愛」とか「理想」とかがあって、
「尊厳」も、また、そういう種類の概念の1つなんじゃないだろうか。
もちろん「神」や「愛」や「理想」が、
人によって、場面や文脈によっては、
丸反対の意味で使われることだって可能だし、
時には非常に偏ったものになったり
武器として利用されたり、操作の道具として使われてしまうこともあるし、
まっすぐに信じるがゆえに危険な概念になり
多くの人が被害に遭うことがあるのと同じように、
「尊厳」も、
人によって、場面や文脈によって内容も使われ方も違っていたり、
何かの目的で利用されることや、時には、とても危険な使われ方をすることだってある。
でも、それだからといって、「愛」や「理想」と同じように、
「そんなものはない」とか「そんなものには意味はない」「無益だ」と
切り捨てることは、してはいけないんじゃないだろうか。
「尊厳」なんて無益な概念だ、と皆で躊躇いなく切り捨てる社会は、
「愛」や「理想」を「そんなものは無意味」と皆でかなぐり捨てる社会と、きっと同じ場所のはずだ。
そんなところには誰も住んでいたくないはずだ……と、
私はまだ信じているし、この先も信じたいのだけど、
最近、世の中に増殖しているよう見える
「機能」とか「能力」とか目に見えるもの数値化できるもののことしか言わない人たちには
な~にを無意味なタワゴトを……愛も理想も脳と遺伝子次第なのに……と、一蹴されるのかな。
2010.06.17 / Top↑
銃を所持している患者が重症の精神疾患を発症し、
本人や他者への危険があると判断した際には、
本人の同意をとることなく、患者への守秘義務を侵して警察に連絡することを
英国のGPが申し合わせた。
カルテに目印をつけることで銃を所持している患者を判別する。
公共の安全という利益が患者に対する守秘義務よりも優先するとの判断は
英国医師会の倫理委員会によって承認された、とのこと。
英国医師会は
「ただし、銃を所持している患者個々が自分や他人を傷つけるリスクを監督せよと
警察が医師に求めるなら、医師会としては、それは警察長官の責任だと考える」
2008年8月にChristopher Fosterが妻と娘を銃殺し、
自宅に火を放って自殺した事件で、FosterがGPに自殺したいと話していたことから、
その事件の後、警察が医師会に検討を求めていたもの。
医師の中から出ていた懸念の声としては
そんなことをすると銃を持っている患者が健康を害しても受診しなくなるという点と、
患者に対する守秘は不可侵の義務であるとの点。
また、患者の乱射事件で被害者が出た時に医師が責められるのではないか、とか
適切なアセスメントの時間も研修もない、とか。
さらに警察からは
医師らのカルテの管理がどこまで厳重に行われるのか、
それによっては、カルテに印をつけることで
銃の所有者情報が犯罪者に流れやすくなるとの問題の指摘や、
銃所有ライセンスを取り消す権限が医師に移行するわけではなく、
あくまでもその権限は警察にあると確認する声も。
しかし、英国では今月初め、
英国カンブリア州で銃乱射 12人死亡 25人負傷という事件があり、
カルテに印をつけるという検討中の案が俄かにクローズアップされることとなったもの。
しかしカンブリア事件の詳細は、これからの捜査によって明らかにされるところで
自殺した犯人のBird容疑者に精神障害があったとの事実は確認されていない、と
The British Association for Shooting and Conservationは
今回の決定に一定のメリットは認めつつも、
事件の詳細を待つべきだ、と主張。
同協会のSimon Clarke氏は
「治療の必要があるのにライセンス取り消しを恐れて
受診しなくなる会員が出ては困るが、
メンタル・ヘルスに問題があるというだけで取り消しというのが
デフォルトになってしまうと、そういうことが起こる」。
現在、銃器ライセンスの担当部局 the Acpo と、英国医師会、内務省その他の関連部署が
協力体制づくりを進めている。
The Acpoの責任者は
「情報の共有について大筋の合意はできて、
現在テクニカルな詳細の詰めが進んでいるところ。
今の段階でこれ以上のことを話すのは時期尚早であり、
その他の変更も含め、英国の銃器ランセンスのあり方について今後議論されるだろう」と。
英国の銃所有許可の有効期間は5年。
申請者はライセンスに関わる健康問題を申告し、
健康問題について警察が医師に問い合わせることに同意しなければならない。
GPs agree to waive privacy of mentally ill gun owners
The Guardian, June 14, 2010
不思議なことに、記事のどこにも
「誰のカルテに印をつけるかの情報はどのようにGPに提供されるのか」については
書かれていませんが、大筋合意された「情報の共有」がそれに当たるのでしょう。
ざっと、頭に浮かんだ疑問は
① 精神科医ではなくGPが
どれほど正確に患者のメンタルヘルスと公安リスクを判断できるのか。
② GPから警察に通報されたら患者はどうなるのか。
警察によって監視されるのか。
それは本人に知らされるのか。
ライセンスを取り消されるのか。
③ こういう合意をした以上、事件が起きた時には
結果論でGPの判断ミスが責められるのは必定。
そうすれば、GPの意識としては自分が責任を問われないために
リスクを高く見積もり、早めに警察に連絡することになっていくのでは?
そして、目の前の患者の治療よりも、社会のリスク管理機能へと、
GPの診察行為の意味が少しずつ変わっていくのでは?
④ 警察や英国医師会の判断では、
「公共の安全」vs 「患者に対する医師の守秘義務」という構図で
問題が提示されているけど、実際には、これは
患者に対する医師の守秘義務とは無関係な、
「英国の銃規制のあり方の問題」ではないのか。
⑤ 「公益が医師の患者に対する義務よりも優先」という論理が
まかり通っていくなら、今後こういう動向は他にも広がって行くのでは?
――――
実は、英国政府は去年、狂牛病感染者数を把握するために、
法医学者らに解剖の際に調べてくれるように要望し、断られています。
その時の記事を拾った去年8月19日の補遺で
私は以下のように書きました。
今回は、まさに、この時の私の予測通りの論理が登場してきたぞ……という話。
その論理には確かにもう驚かないけど、
英国医師会がそれに易々と追随してしまったということには、ちょっと驚く。
Ashley事件しかり。
貧困層や障害者に対する強制不妊しかり。
医師による自殺幇助合法化しかり。
ゲイツ財団などがやっている途上国でのワクチンと避妊による貧困対策しかり。
社会の問題を社会の問題として、その原因に対処して解決を図るのではなく、
社会の原因を放置したまま、個々に表れてくる結果のところだけで
医療によって簡単に解決して済ませてしまおうという動きが
強まってきているような気がする。
それは、科学とテクノによってできることが増えて、
それだけ科学とテクノによる簡単解決文化がはびこってきたということなのだろうけど、
原因よりも結果のところで簡単解決を図ることのポテンシャルを
統治する権力の側が科学とテクノに期待することと
我々統治される側の一般人までが一緒になって
科学とテクノによる簡単解決万歳文化に浮かれ騒ぐこととは
まるで質の違う話だということが、もっと意識されるべきなんじゃないだろうか。
科学とテクノの分野の人たちにも、
ビッグ・ブラザー管理に組みし、権力による統治の手先となることに対して
もうちょっと敏感であってほしい気がする。
英語圏における生命倫理の絡んだ議論で、
医師が患者の側から、患者を差別・疎外・排除する社会の側へと
どんどん立ち位置を移しつつあると思われることに、
医師自身がもっと問題意識を持つべきじゃないだろうか。
もちろん、Ashley事件でも自殺幇助議論でも、
ヒポクラテスのDo not harm. を言う医師はいるのだけれど、
……あ、でも……もしかして、
そういう簡単解決を実現するポテンシャルを持っている自分たちこそが
権力の“手先”ではなく、権力そのものなのだ……と勘違いしているのが
Bill Gatesやthe Singularity Univ. を作ったトランスヒューマニストたちなのか……?
なお、ビッグ・ブラザー社会化する英国の実態については
こちらのエントリーなどに。
本人や他者への危険があると判断した際には、
本人の同意をとることなく、患者への守秘義務を侵して警察に連絡することを
英国のGPが申し合わせた。
カルテに目印をつけることで銃を所持している患者を判別する。
公共の安全という利益が患者に対する守秘義務よりも優先するとの判断は
英国医師会の倫理委員会によって承認された、とのこと。
英国医師会は
「ただし、銃を所持している患者個々が自分や他人を傷つけるリスクを監督せよと
警察が医師に求めるなら、医師会としては、それは警察長官の責任だと考える」
2008年8月にChristopher Fosterが妻と娘を銃殺し、
自宅に火を放って自殺した事件で、FosterがGPに自殺したいと話していたことから、
その事件の後、警察が医師会に検討を求めていたもの。
医師の中から出ていた懸念の声としては
そんなことをすると銃を持っている患者が健康を害しても受診しなくなるという点と、
患者に対する守秘は不可侵の義務であるとの点。
また、患者の乱射事件で被害者が出た時に医師が責められるのではないか、とか
適切なアセスメントの時間も研修もない、とか。
さらに警察からは
医師らのカルテの管理がどこまで厳重に行われるのか、
それによっては、カルテに印をつけることで
銃の所有者情報が犯罪者に流れやすくなるとの問題の指摘や、
銃所有ライセンスを取り消す権限が医師に移行するわけではなく、
あくまでもその権限は警察にあると確認する声も。
しかし、英国では今月初め、
英国カンブリア州で銃乱射 12人死亡 25人負傷という事件があり、
カルテに印をつけるという検討中の案が俄かにクローズアップされることとなったもの。
しかしカンブリア事件の詳細は、これからの捜査によって明らかにされるところで
自殺した犯人のBird容疑者に精神障害があったとの事実は確認されていない、と
The British Association for Shooting and Conservationは
今回の決定に一定のメリットは認めつつも、
事件の詳細を待つべきだ、と主張。
同協会のSimon Clarke氏は
「治療の必要があるのにライセンス取り消しを恐れて
受診しなくなる会員が出ては困るが、
メンタル・ヘルスに問題があるというだけで取り消しというのが
デフォルトになってしまうと、そういうことが起こる」。
現在、銃器ライセンスの担当部局 the Acpo と、英国医師会、内務省その他の関連部署が
協力体制づくりを進めている。
The Acpoの責任者は
「情報の共有について大筋の合意はできて、
現在テクニカルな詳細の詰めが進んでいるところ。
今の段階でこれ以上のことを話すのは時期尚早であり、
その他の変更も含め、英国の銃器ランセンスのあり方について今後議論されるだろう」と。
英国の銃所有許可の有効期間は5年。
申請者はライセンスに関わる健康問題を申告し、
健康問題について警察が医師に問い合わせることに同意しなければならない。
GPs agree to waive privacy of mentally ill gun owners
The Guardian, June 14, 2010
不思議なことに、記事のどこにも
「誰のカルテに印をつけるかの情報はどのようにGPに提供されるのか」については
書かれていませんが、大筋合意された「情報の共有」がそれに当たるのでしょう。
ざっと、頭に浮かんだ疑問は
① 精神科医ではなくGPが
どれほど正確に患者のメンタルヘルスと公安リスクを判断できるのか。
② GPから警察に通報されたら患者はどうなるのか。
警察によって監視されるのか。
それは本人に知らされるのか。
ライセンスを取り消されるのか。
③ こういう合意をした以上、事件が起きた時には
結果論でGPの判断ミスが責められるのは必定。
そうすれば、GPの意識としては自分が責任を問われないために
リスクを高く見積もり、早めに警察に連絡することになっていくのでは?
そして、目の前の患者の治療よりも、社会のリスク管理機能へと、
GPの診察行為の意味が少しずつ変わっていくのでは?
④ 警察や英国医師会の判断では、
「公共の安全」vs 「患者に対する医師の守秘義務」という構図で
問題が提示されているけど、実際には、これは
患者に対する医師の守秘義務とは無関係な、
「英国の銃規制のあり方の問題」ではないのか。
⑤ 「公益が医師の患者に対する義務よりも優先」という論理が
まかり通っていくなら、今後こういう動向は他にも広がって行くのでは?
――――
実は、英国政府は去年、狂牛病感染者数を把握するために、
法医学者らに解剖の際に調べてくれるように要望し、断られています。
その時の記事を拾った去年8月19日の補遺で
私は以下のように書きました。
これ、地味な記事だけど、昨今どんどんビッグ・ブラザー社会化している英国では、
とても今日的に本質的で重要な問題を含んでいると思う。
狂牛病が ひそかに蔓延して、実は多くの人が知らず知らずにかかっている恐れがあるため、
どれくらいの人が目立った症状がないまま感染しているかを調べる唯一の方法 として、
英国政府は法医学者らが解剖の際に調べてくれることを望んでいるのだけれど、
解剖は死因の特定のために行うものであり、
その際に研究への協力を遺族に求めることになると、
本来の法医学者の立場の中立性が失われ、仕事への信頼を失う、と法医学者らは反発。
その反発にエールを。
でも、 “科学とテクノで何でも予防、なんでも簡単解決万歳”の文化からは
「法医学の中立性と信頼という利益と、
狂牛病蔓延の実態が把握できないままに放置される害やリスクを検討すれば、
法医学の中立性がなんぼのもんじゃい」的な反論が出てきたって、もう、たぶん驚かない。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/8207034.stm
今回は、まさに、この時の私の予測通りの論理が登場してきたぞ……という話。
その論理には確かにもう驚かないけど、
英国医師会がそれに易々と追随してしまったということには、ちょっと驚く。
Ashley事件しかり。
貧困層や障害者に対する強制不妊しかり。
医師による自殺幇助合法化しかり。
ゲイツ財団などがやっている途上国でのワクチンと避妊による貧困対策しかり。
社会の問題を社会の問題として、その原因に対処して解決を図るのではなく、
社会の原因を放置したまま、個々に表れてくる結果のところだけで
医療によって簡単に解決して済ませてしまおうという動きが
強まってきているような気がする。
それは、科学とテクノによってできることが増えて、
それだけ科学とテクノによる簡単解決文化がはびこってきたということなのだろうけど、
原因よりも結果のところで簡単解決を図ることのポテンシャルを
統治する権力の側が科学とテクノに期待することと
我々統治される側の一般人までが一緒になって
科学とテクノによる簡単解決万歳文化に浮かれ騒ぐこととは
まるで質の違う話だということが、もっと意識されるべきなんじゃないだろうか。
科学とテクノの分野の人たちにも、
ビッグ・ブラザー管理に組みし、権力による統治の手先となることに対して
もうちょっと敏感であってほしい気がする。
英語圏における生命倫理の絡んだ議論で、
医師が患者の側から、患者を差別・疎外・排除する社会の側へと
どんどん立ち位置を移しつつあると思われることに、
医師自身がもっと問題意識を持つべきじゃないだろうか。
もちろん、Ashley事件でも自殺幇助議論でも、
ヒポクラテスのDo not harm. を言う医師はいるのだけれど、
……あ、でも……もしかして、
そういう簡単解決を実現するポテンシャルを持っている自分たちこそが
権力の“手先”ではなく、権力そのものなのだ……と勘違いしているのが
Bill Gatesやthe Singularity Univ. を作ったトランスヒューマニストたちなのか……?
なお、ビッグ・ブラザー社会化する英国の実態については
こちらのエントリーなどに。
2010.06.17 / Top↑
人口密度が中央アジアで最も高い国ウズベキスタンで
貧しい女性が出産時に無断で不妊手術を施されている。
20年間鉄拳独裁を敷いてきたIslam Karimov大統領の命令による大量強制不妊は
2003年に始まり、批判を浴びていったんは2年ほぼ中止されていたが、
今年2月に保健相が「効果的な避妊法」として医師らに命じて
再開されたと言われる。
医師一人につき月最低2人の女性の同意をとるようノルマが課せられ、
果たせなければ懲戒や罰金も。
実際には出産の際に無断でやられてしまうケースが多く、
そのため安全策として自宅での出産を選ぶ女性が増えているが、
それでも産後の検診などで病院に誘い出しては
偽りの病気を診断して手術されてしまったりしている。
人権団体によると
2月以降、本人の同意なしに不妊手術を施された女性は5000人とも。
Doctors sterilise Uzbek women by stealth
The Times, April 25, 2010
ずーん……と、心が沈む。
【関連エントリー】
知的障害・貧困を理由にした強制不妊手術は過去の話ではない(2010/3/23)
ペルー、フジモリ政権下で350万人の先住民女性に強制不妊手術(2009/4/9)
貧しい女性が出産時に無断で不妊手術を施されている。
20年間鉄拳独裁を敷いてきたIslam Karimov大統領の命令による大量強制不妊は
2003年に始まり、批判を浴びていったんは2年ほぼ中止されていたが、
今年2月に保健相が「効果的な避妊法」として医師らに命じて
再開されたと言われる。
医師一人につき月最低2人の女性の同意をとるようノルマが課せられ、
果たせなければ懲戒や罰金も。
実際には出産の際に無断でやられてしまうケースが多く、
そのため安全策として自宅での出産を選ぶ女性が増えているが、
それでも産後の検診などで病院に誘い出しては
偽りの病気を診断して手術されてしまったりしている。
人権団体によると
2月以降、本人の同意なしに不妊手術を施された女性は5000人とも。
Doctors sterilise Uzbek women by stealth
The Times, April 25, 2010
ずーん……と、心が沈む。
【関連エントリー】
知的障害・貧困を理由にした強制不妊手術は過去の話ではない(2010/3/23)
ペルー、フジモリ政権下で350万人の先住民女性に強制不妊手術(2009/4/9)
2010.05.08 / Top↑