「乳房芽」という言葉は、この件を巡って、まるで誰でも知っていて日常的に使われている言葉でもあるかのように使われていますが、本当のところ、どの程度広く認知された言葉なのでしょうか?
私は知りませんでした。この事件のニュースに触れるまで、見たことも聞いたこともない。名前はもちろん、乳房に「ここをとったら胸が大きくならない」という組織が存在するなんてこと自体、私はこの件が報道されるまで一度も聞いたことがありませんでした。
ステッドマンを引いてもbreast bud という項目はないし、breast という項目にある乳房の組織図の中にもそれらしきものはありません。
身近な医師(発達小児科医2人と内科医1人)に聞いてみたのですが、3人とも「聞いたことがない」との答え。その中の一人に詳しく調べてもらうよう頼んだところ、「mammary bud 乳腺芽という組織があるので、これのことではないか。乳房の発達は器官形成期に始まり、乳腺芽と乳管の原基が分化してできるらしい。理論的にはこの原基を取れば、乳房の発達や発ガンを抑えられるのかもしれないが、現実にそういう治療や予防がされているかどうかは分からない」という返事でした。
この件で広く流布している「乳房芽」という言葉は厳密に言えば「乳腺芽」の方が正確なようです。が、名前の違いはともかく、実際のところ、乳腺芽切除の前例についての文献や、乳腺芽を切除すれば乳房が大きくならない効果についてのデータ、それによってガン予防になるとのデータは、どのくらいあるものなのでしょうか。
たとえば医師がシンポで「こんなのはconventionalな医療なんだから」と一括して述べた際など、彼らが言うconventionalとは、ホルモンを投与するという処置そのもの、子宮摘出手術そのものが、医療行為としては通常いくらでも行われているものだと主張しているのでしょう。ここで問題になっているのは医療行為そのものではなく、その適用であるのに、彼らはまたも都合よく問題を摩り替えているわけです。
前に「まだある論文の”不思議“ オマケ」で指摘した、論文執筆者のホンネが語るに堕ちた箇所のリーズニングを、もしも極力親切に読み解いてあげるとしたら、「conventional な医療行為を、このようなunconventional で novelな用い方をしたのだから、これはcontroversial になるだろう」と考えて倫理委にかけた、ということだったのではないでしょうか。
一方、その論文執筆者ですらホッカムリした乳房芽の切除。こちらは逆に、その用い方を云々する以前の問題として、乳腺芽を切除するという医療行為そのものが、医療においてどの程度conventionalなのか。
乳房芽の切除とは、医療において一体どの程度認知された処置なのでしょうか。
追記: その後、このエントリーの内容については、新たな発見がありました。「医師らはやっぱり”乳房芽”なんか認めていなかった」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/8281753.html を参照してください。
成熟した女性の体に乳幼児レベルの知能しか持たない人が宿ることを「グロテスク」だと放言したGeorge Dvorskyという人がいて、その発言が両親のブログに引用されていることは、周知の通りです。論争の中でも5月16日のWUのシンポでも何度かその引用箇所が取り上げられていました。
彼はその「グロテスク」発言でいっぺんに名前が知れ渡ったわけですが、案外に彼がどういう人物で、どういう組織と関わっているのかについては知られていないように思います。
Dvorskyは、テクノロジーを使って不死を模索しようとするネット・コミュニティBetterhumansの主催者です。さらにトロントのトランスヒューマニスト協会の会長でもあります。
http://www.betterhumans.com/
両親のブログでもメディアに登場した際も、Dvorskyはthe Institute for Ethics and Emerging Technologiesのexecutive directorとして紹介されますが、
http://ieet.org/
IEETのHP、タイトルが Institute for Ethics and Emerging Technologies: Promoting the ethical use of technology to expand human capabilities。やはりトランスヒューマニズム関連の組織であることがわかります。ここのディレクターの顔ぶれを見てみるとDvorsky の他にも、1月4日にCNNのNancy Grace の番組に出てアシュリーの両親の判断を強く擁護していたJames J. Hughes がいます。彼もまた世界トランスヒューマニスト協会の幹部です。もともとthe Institute for Ethics and Emerging Technologies そのものが、2005年にHughesら世界トランスヒューマニスト協会のメンバーによって立ち上げられた組織のようです。
世界トランスヒューマニスト協会のChairは、Nick Bostrom というオックスフォード大学の哲学者ですが、the Oxford Future of Humanity Institute の長官でもあり、またCIAのコンサルタントもしているとのこと。
アシュリーの両親のブログにあったDvorsky の「グロテスク」発言は、去年の秋の論文が報じられたのを受けて彼が11月6日にブログに書いたHelping Families Care for the Helplessというエッセイの一節ですが、果たしてアシュリーの親は、彼がどのような人物か、どういう組織につながっているか、まったく知らずに不用意に引用してしまったのでしょうか?
http://sentientdevelopments.blogspot.com/search?q=helping+families+care+for+the+helpless
追記: Dvorskyは1月4日のBBCニュースにも登場して、両親の決断は「自分の意見では完全に適切なものだ」と述べています。
http://news.bbc.co.uk/nolavconsole/ifs_news/hi/newsid_6230000/newsid_6231200/nb_wm_6231213.stm
Gunther医師とDiekema医師の論文が掲載された Archives of Pediatrics & Adolescent Medicine 2006年10月号には、なんとも皮肉な取り合わせの以下の論文も掲載されています。
“Tall Girls: the Social Shaping of a Medical Therapy”
Joyce M. Lee, MD, MPH ; Joel D. Howell, MD, PhD
40年代から始まった背の高い女児へのエストロゲン療法は70年代にピークを迎え、77年には学会が開かれるほどの領域となった。背景にあったのは、家庭に入り子どもを生むのが女性の仕事とする社会通念であり、多くの親が療法を望んだ理由は、social attractiveness 。しかし、その後、副作用、特に発がん性の指摘や、ジェンダー意識を巡る社会変化とともに廃れた。文献も、当初の治療法や副作用抑制法についての内容から、徐々に「背が高い」の定義や療法の必要性そのものを問う内容へと変化。3.6 センチから7.1センチの身長抑制効果があるともされるが、反作用として軽いものでは吐き気、頭痛、体重増加、出血(Gunther, Diekema論文で、子宮摘出の理由の摩り替えに利用されたのがこの点でした)から、重大なものとなる可能性がある反作用として、軽度の高血圧、良性の乳房の病気、卵巣脳腫、治療後の無月経、まれに血栓症。治療を受けた少女たちには悪性のものはなかったが、エストロゲンに発ガン性がある可能性について、いくつもの研究で触れられている。
一方、現在は低身長の男児への成長ホルモン投与が盛んで、この療法を受ける男児は女児の2倍。2003年にはFDAも認可し、かつての背の高い少女に行われたホルモン療法の21世紀版となっている。「背の低い男と背の高い女」の結びつきは、社会にとってこれほどまでに offensive to tasteらしい。ただし、効果はいずれの療法もプラス・マイナス2~3インチ程度。
「以上の例から、医学の進歩は常に特定の社会的文脈の中で適用され、その文脈の中では、臨床医の医療行為の決定にも、理想とされるジェンダー間の関係が科学的研究と同程度に重視される可能性があることがわかる」と結論。
(この”Tall Girls”という論文については、1月15日にLos Angeles Times がアシュリー療法と関連付けて、”Estrogen’s history as a growth limiter”という記事を掲載しています。)
両親のブログでは、Gunther 医師に成長抑制という案を相談し、ホルモン大量投与でそれが可能とわかった事情を書いた際に、かつて背の高い少女に行われたホルモン療法には「長期的な副作用はなかった」と書いています。ホルモン大量投与の副作用について、両親がどのような説明を受けていたか、気になります。
また、こちらの論文が指摘している“背の低い男”と“背の高い女”の組み合わせへの社会の嫌悪感とは、そのまま“成熟した女性の体”と“乳幼児レベルの知能”の組み合わせへの嫌悪感にも当てはまるのかもしれません。
“成熟した女性の体”と“乳幼児レベルの知能”の組み合わせを「グロテスク」だと放言したGeorge Dvorskyという人がいて、その発言が両親のブログに引用されていることは、周知の通りです。シンポでも何度かその引用箇所が取り上げられていました。
(ところが驚くことに、Dvorsky本人は1月27日に自分のブログSentient Developmentsで、自分は仏教徒として過ちから学ぶ人間だと前置きし、このグロテスク発言にある「心と体はつりあうべき」という発想を翻しています。今では、いろんな体にいろんな心が釣り合い得るという考え方の方がよいと思うのだとか。ただ、アシュリーに行われたことへの支持は、QOLや本人・介護者の利益や権利などの見地から変わらないそうです。)
この辺でいったん論文そのものの検証から離れます。そこで、論文にこだわってきたエントリーのオマケとして、私にはとても興味深いと思える表現を論文中から2つ、ご紹介します。
まず1つは、「症例報告」の中、アシュリーが内分泌医の診察を受けた段階で、すでに早熟な思春期の発達を見せていたという下りに続く部分。思春期の兆しで娘の将来への両親の不安に火がついたのだと分かった、という内容の箇所に、After some probing, it was clear that the onset of puberty had awakened……という表現があります。私があれ?と思ったのは、probing という言葉。Probeとは、よく分からないことがあるときに、本当のことを確かめようとか真相を突き止めようと、あれこれと探りを入れてみることを言います。
ここは内分泌科に紹介されてきた初診時のことを言っているので、前のエントリー「まだある論文の”不思議” その3」で検証したGunther 医師の初診時になります。その時に医師の側がprobeした。両親から「私たちのオプション」を相談された医師のほうが、よくわからないから、あれこれと両親に探りを入れてみたというのです。
この言葉から見えてくるのは、両親が持ち出した話に一体これはどういうことかと面食らっている医師の姿ではないでしょうか。オプション(複数形)というからには、両親には既にいくつか「こうしたらどうだろう」、「こういう方法もどうだろう」という案があったのだろうと思われます。それらをいきなり突きつけられて面食らった医師が、そんな突飛なことを言い出す親の真意を図りかねて、あれこれ聞いてみている。そんな場面が私の頭には浮かびます。
1月3日付のLATimes の記事では、Gunther 医師が「この件を聞いた人の最初の反応が拒絶的になるのは当たり前だが、本当に内容を検討し子どもへのメリットを並べてみたら、ここにはthe possible wisdom が見え始める」と述べています。The possible wisdomとは、「ああ、これも知恵かな」、「案外かしこいかも」と思えてくるということでしょう。最初は拒絶反応を起こしたけれど、親の言うことを聞いてみたら、なるほど、確かにこれもひとつの知恵か、案外いいのかも、と考えるようになった、というのこそ、もしかしたらGunther 医師自身がたどったプロセスだったのかもしれません。
もう1つ、論文の面白い表現。
「倫理の議論」で、障害者に対する優生手術の歴史についてざっと書いた直後の一文です。このような虐待の教訓は忘れてはならないと書いたのに続いて、but past abuses should not dissuade us from exploring novel therapies that offer the potential for benefit. この中には面白い単語の選択が3つもあります。Explore と novelと potential 。
初めて読んだ時に目に留まり、読むたびに気にかかるセンテンスです。もちろん内容は、「過去に優生思想による虐待があっても、そんなの関係ない」といっているのに等しいものです。が、これら3つの言葉の選択をじっくり眺めてみると、他の箇所で何をどう言いつくろおうと、ちゃんとホンネはこの1文で語るに堕ちていると言えないでしょうか。メリットがあると本当は確信してなんかいない。この療法がほとんど実験的なものに等しいことも、実はちゃんと分かっている。こうした単語の選択に、またも語るに堕ちたホンネを聞いてしまうのは、私の気のせいでしょうか。
ワシントン大学のシンポで、子ども病院の医師らが「これまでも行われてきた治療法なのだから、別に大騒ぎするほどのことでもない」といったニュアンスで、この一連の処置をconventionalと形容した場面が何度かあったように思います。novel と形容するほかにも、論文ではこの療法について「unconventinal でcontroversial になりそうだから倫理委にかけた」とも書いているのですが……。
⑤論文発表の時期の不思議
アシュリーの手術は2004年7月のことでした。論文発表までに2年以上経過しています。論文発表時、ホルモン療法は開始から1年ちょっと。まだ継続中です。(追記:事実はこの段階で「2年とちょっと」だったようです。その後 ここで論文のいう「開始から1年ちょっと」はウソと判明しました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/9980853.html 「論文のウソ 追加」のエントリーを参照してください。)
なぜ、この時期まで発表しなかったのでしょうか。
なぜ、この時期になって発表したのでしょうか。
これまで見てきたように、この論文には、磐石の自信がある症例を「どうだ」と報告するといったトーンはありません。障害児福祉の難題を解決する新たなアプローチを発見したと、胸を張って堂々と提唱するというふうでもありません。むしろその逆に、隠蔽したり誤魔化したり姑息なトリックを忍ばせたり、自分で論文発表していながら「バレてほしくない」という本音がコソコソと聞こえてきます。内容に関連するその他の発言でも、隋所に責任転嫁の無意識が作用しているようです。これらを総合して考えると、はっきり言って、この論文は「うさん臭い」し、そこから匂ってくるのは執筆者の後ろめたさではないでしょうか。
しかし不思議なのは、論文が発表されたこの段階で、アシュリーの手術は当事者以外には漏れていなかったことです。(アシュリーに行われたことの一切が、それまでの2年間、世の中にはまったく知られないままだったという事実は、もっと重視して考えなければならないのではないか、と私は思っています。)2年間もバレずにきていたのだから、そんなに隠したいことや誤魔化したいことばかりだったのであれば、わざわざ論文など書かず、そのままにしておけばいい。そうすれば、直接関与した病院関係者とアシュリーの両親以外、世の中には知られないまま、すべてが隠蔽されて終わっていたはずなのです。
それなのに、なぜ、わざわざ論文を書いたのでしょうか。しかも、こんな中途半端な時期に。こんな中途半端な内容の論文を。
ちょっと荒唐無稽にも思えるかもしれませんが、彼らは本当は自分たちがやったことがマズイと知っていたし、できれば隠しておきたかった、論文だって書きたくなどなかった、でもどうしても書かなければならない事情があった、と仮定してみたら……?
④倫理カウンセラーであった医師が論文執筆者であることの不思議
このような医学論文で、倫理カウンセラーという立場でそのケースにかかわった医師が執筆するということが、どの程度当たり前のことなのか、私はまったく無知なので分かりません。が、倫理委員会での審議過程とその判断に彼らがなんら後ろめたさを感じる必要がなく、この療法のメリットにも本当に心からの自信を持っていたのだとしたら、今回の一連の処置の責任者である内分泌医のGunther医師が一人で論文を書けばよかったことなのではないでしょうか。
WPASは調査で、アシュリーへの処置の担当医として内分泌医と外科医の2人に聞き取りを行っています。内分泌医はもちろんGunther 医師でしょう。おそらく調査報告書Exhibit Lにおいて、倫理委で意見陳述したとされるO'Neil医師がこの外科医と思われます。この聞き取りで、外科医は手術前に、アシュリーの弁護士の手紙のコピーと倫理委の勧告文書の両方を手に、診療ディレクターのところに確認に行ったと語っています。そして、そこでアシュリーの弁護士の見解でもって法律的な問題がクリアされたとの判断から、診療ディレクターが手術の実施に最終的な承認を与えたとのこと。(WPASの調査報告書添付のExhibit J によると、その後、診療部長は別人に代わっているようです。)この外科医の行動は、執刀医・主治医として自分が責任を問われることへの懸念から出たものでしょう。論文を書いて症例報告を行うのであれば、直接的に医療行為に携わっていない倫理カウンセラーよりも、この外科医のほうが本来ふさわしいのではないのでしょうか。
けれど、もちろん、この不思議は、Diekema医師がその後も一貫して、いわば病院サイドの広報担当者のような役回りを演じてきたことと無関係でもないのでしょう。
それにしても、Gunther医師はシンポにも出てきませんでした。WPASが聞き取りを行ったという外科医も出てきていません。アシュリーの個別のケースをテーマにした午前の部のシンポに、病院側からのパネリストは倫理の検討にかかわった2人で、直接的にこのたび問題になっている医療行為を担当した医師は加わっていなかったということになります。(Cowen医師はアシュリーの昔からの主治医ですが、モデレーターでありパネりストではありませんでした。)
③親のアイディアが具体的な計画となった場面に居合わせたのがGunther 医師である事実を伏せていることの不思議。
両親のブログに書かれている事実関係を整理してみると、いわゆる“アシュリー療法”のアイディアが生まれ、それが具体的な計画となるまでの経緯は以下のようになります。
2004年初頭、6歳6ヶ月のアシュリーに思春期初期の兆候が見られる。
↓
アシュリーの母親が「アシュリーの医師」との会話の中で、思春期を加速させて最終身長を抑制するというアイディアを思いつく。(この時医師に会ったのは母親のみ。この「アシュリーの医師」は特定できません。)
↓
シアトル子ども病院の内分泌医Gunther 医師の予約を取り、両親そろって「私たちのオプション」を相談。エストロゲン大量投与で成長抑制が可能と分かる。60・70年代に背の高い少女に行われたホルモン療法では副作用がなかったことも分かる。(この時は両親がそろっていた。)
この経緯に重なる部分を論文から探すと、「医師らの論文にはマヤカシがある その3」で引用した、あの長くややこしいセンテンスに行き当たります。
「両親と医師(なぜか無冠詞単数形)が長い間相談した末に、大量エストロゲンを使って成長を抑制し、治療前に子宮摘出術を行って思春期の一般的な長期的な問題と、とりわけ治療の反作用を軽減するという計画が作られた」。
受動態になっているため、誰がその計画を作ったのかは不明です。如何に長く、構造上ややこしいセンテンスになろうとも、受動態で書かなければならなかった理由は、恐らくこのあたりなのでしょう。
両親のブログの描写と突き合わせてみると、この場面では両親がそろっていることから、論文のこのセンテンスの「医師」はGunther 医師のことと思われます。Gunther医師自身が、このケースで行った療法をアメリカの障害児福祉施策に貢献するnew approach だとまで言って論文発表しているというのに、なぜその計画を具体化したのが自分自身であることを隠すのでしょうか。
ちなみに、1月12日に「ラリー・キング・ライブ」に出演した際にDiekema医師は、自分が倫理カウンセラーとしてこのケースにかかわるようになった経緯について、両親がシアトル子ども病院で「われわれの医師の一人と、彼らが娘にメリットがあると考えていることを行うことについて話をした後で関与を求められた」と説明しています。「両親が娘にとってメリットがあると考えていること」はもちろん成長抑制、両親のブログの言葉で言えば「われわれのオプション」に当たるのは明らかですから、両親がそろってGunther医師に「われわれのオプションを相談」した場面でしょう。ここでもまたDiekema医師の言う「われわれの医師の一人」とはGunther医師のことになります。
1月12日といえば、両親のブログはすでに世界中の人に読まれています。今年に入って最初に報道したロサンジェルスタイムズの1月3日の記事をはじめ、多くの記事でGunther医師はアシュリーに行われた一連の処置の考案者だとか監督者と書かれてもいます。いまさら「われわれの医師の一人」などと隠したところで無意味だと思うのですが、これもまた何らかの無意識のなせる業だったのでしょうか。
無意識といえば、この「両親が娘にとってメリットがあると考えていることを行うことについて話をした」というのも面白い表現です。(Ashley’s parents )had a conversation with one of our physicians about doing the things they thought would benefit their daughter. ここには「彼らが勝手にそう思っているところの」というニュアンスが、ありはしないでしょうか。
②冒頭で、在宅化を進めようとする政府の障害児福祉施策から論を起こしながら、2度とその問題に戻っていかないことの不思議。
「イントロダクション」は、脱施設をうたう政府の障害児福祉施策と、それに対してアメリカ小児科学会障害児セクションが賛意を表したことから話が始まります。後者の「障害の有無を問わず子どもは本来家族のもとで育つべきであり、多くの親がそれを望んでいる」とのコメントも紹介されます。それに続く部分でも、成長抑制療法を、在宅ケアを続行するための難問のひとつを解決し、親が家庭でケアできる期間を延ばす方策としています。
論文の副題も「古くからのジレンマへの新たなアプローチ」。ここでいう「ジレンマ」とは、親が在宅でケアしたいと望んでも介護負担からそれが難しくなっていくことを指していると思われます。やはり論文の姿勢としては、重症障害児の在宅ケアの負担軽減策として成長抑制療法を提唱しているのでしょう。
しかし、その割には在宅サービスの現状についてデモグラフィックな情報は一切出てこないし、何の言及もありません。その後のメディアでの発言でもシンポでの発言でも、医師らは介護サービスの現状については、ほとんど興味がないように(もしかしたら知識もないのかも?)思えます。論文でも、イントロダクションの冒頭の後、本文では脱施設をうたう障害児福祉施策の話には2度と戻りません。
しばらく脱線してしまいましたが、話を2人の医師が書いた論文に戻します。
いまさら、何故まだ去年の論文の話なのかと思われるかもしれません。が、この論争の非常に際立った特徴の1つとして事実誤認の多さがあげられます。倫理委のメンバーが40人という広くメディアが報じた事実誤認は、シンポのパネリストにすら見られました。日本では1月にネットでニュースがブレイクした際に、あるニュースサイトから「アシュリーの知的機能はすでに失われている」という事実誤認が広まりました。もちろん、この事件の背景が非常に複雑だということも影響していますが、もう1つ見逃せない傾向として、これまでも指摘してきたように、元になる情報、特にその提出の仕方に大いに問題があるように思われます。
「何故そんなことになっているのか」という疑問は、そのまま「何故こんなことが許されてしまったのか」という疑問にも直結します。私はその疑問を解く大きな鍵の1つが、まだ親がその後ブログを書くことなど予想されていなかったであろう段階で医師らによって書かれた論文だと考えています。
Gunther医師とDiekema医師によって発表された論文について、明らかに問題があると思われる点はこれまでに指摘した3点です。が、マヤカシと呼ぶほどではないにせよ、それ以外にも“不思議”がいくつかあります。主に以下の5点です。
①幼い子供では前例がないので、この療法の効果もリスクも科学的に検証されていないことに何度も触れながら、それでもリスクと利益を秤にかけたら利益が上回ると結論する非論理性の不思議。
②冒頭で、在宅化を進めようとする政府の障害児福祉施策から論を起こしながら、2度とその問題に戻っていかないことの不思議。
③親のアイディアが具体的な計画となった場面に居合わせたのがGunther 医師である事実を伏せていることの不思議。
④倫理カウンセラーであった医師が論文執筆者であることの不思議。
⑤発表時期の不思議。
まず①については、シンポでもAnita Silversさんが、論文における「リスク対利益」という論理の枠組みは一貫していないといった指摘を行い、Diekema医師と思われる人が会場から「それだけではなく、もっと多様な枠組みを使い、広い枠組みの中で論じている」と反論していたように思います。しかし、これは論文が掲載されたのと同じジャーナルの同じ号で、Jeffery P. Brosco医師(シンポでも歴史的背景について講演しています)らの編者がEditorialを書いて指摘している第1点めでもあります。効果とリスクについて細部が十分に検証されていないとの指摘。the highly speculative aspect to the medical strategy proposed by Gunther and Diekema という表現さえ使っています。
実際、過去に背の高い少女に行われたホルモン療法を検討し、いくつかの副作用があったことも、さらにエストロゲン大量投与には血栓症のリスクがあることも書かれている「治療のリスク」という項目には、以下のような記述があります。
「エストロゲンの大量投与が成長を抑制するメカニズムについては完全に解明されていない」
「エストロゲン大量投与を使って、幼い子どもでどれほど成長抑制が期待できるか? これまでの経験がないので、reasonablyに推測する以外にない」
「幼い子供では前例がないので、副作用とリスクを明確に評価することは難しい」
「エストロゲンが血栓症の確率を上げるメカニズムは完全には分かっていない」
「発達に遅れがある子どもたちにおける血栓症の実際のリスクは、評価が難しい」
こう書いておきながら、効果が検証されていない療法がもたらす利益を、どうして認めることができるのか。明確に評価できない副作用とリスクの大小を、どうして論じることができるのか。
また、その一方で「倫理の議論」の結論部分は「こういう(乳幼児の精神レベルから成長しない)人たちにとって、単に体が小さいということから生じる害というものが、想像できるだろうか?」というナイーブな問いかけで始まり、一気に飛躍して、知能が低い人には背が高いことのメリットがなく、むしろ精神年齢相応に子ども扱いしてもらうことが本人の幸せなのだから、「医学的なリスク以外に害はない」と強引に結論付けるのです。
これらが「もっと多様な論理の枠組み」であり、「もっと広い枠組み」なのでしょうか。むしろ、この論文を読んだ人の中には、あまりの論理性の欠如、論文としてのあまりのお粗末に首をかしげた人も少なくなかったのではないかと、私は推測しています。しかしもちろん、執筆者たちが論理的思考が不得手だとか、文章を書くのが極度にヘタクソだったというわけではないでしょう。
ちなみに、Diekema医師は11日のCNNのインタビューでは、血栓症のリスクについて問われ、エストロゲン大量投与のリスクは経口避妊薬と似たようなもので、「多くの女性が喜んで引き受けているリスク」だと述べています。論文では、アシュリーのような幼い子どもへのリスクも発達障害児へのリスクも不明だとしていたのに、ここでは障害のない成人女性の避妊のリスクで話が摩り替えられて、リスクが小さいことの根拠とされているのです。
②以下は次回に。
Salon.com の2月9日付の記事を紹介したついでに、同じ様な医療処置を望んでいる親の数についての医師らの発言の不一致をここで指摘しておきたいと思います。
Salon.com の記事では、シアトル子ども病院のMcLaughlin医師が少なくとも3家族から要望が出ていると語っています。その1ヶ月前、1月8日付けのガーディアン紙の記事では、Gunther 医師は4家族からコンタクトがあったと語っていますが、これについては1ヶ月の間にそれら家族に変動があったと考えられないこともありません。
しかし、ここでも不思議な発言をするのはDiekema医師。彼は1月11日のCNNのインタビューで「成長抑制を考えている子どもが他にいますか」との質問に、Not that I know of. (私の知る限りではいません)と答えています。
Salon.comの2月9日付の記事の中には、病院が当初メディアに対してGunther, Diekemaの2人の医師以外との接触を禁じていたとも書かれています。いわば2人が病院の”広報”であったわけです。さらに2人が去年秋の論文の共同執筆者であることを考えても、同病院でアシュリーと同じ様な療法を望んでいる家族の数について、2人の認識がこれほど違っているというのは、ちょっと考えられないことのように思われます。
しかし、仮にGunther医師のいう4家族からコンタクトがあったというのが事実だったとしても、あれほどメディアの報道が加熱していた最中に、Diekema医師がそれを知らなかったなどということが万が一にもあるならば、確かに「自分の知る限りではいない」という言い方は、ここでもまた、ウソにはなりません。
前のエントリー( http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/7325845.html)で紹介した2つの記事の要旨を以下に。
これらの記事を読むと、倫理委の「コンセンサス」がシンポで言われていたようにすっきりしたものでもなかったことが伺われます。
Salon.com (2月9日 Behind the Pillow Angel)
・Dr.Charles Cowan、シアトルこども病院の発達小児科医、アシュリーの主治医の一人で、倫理委のメンバーではないが当日、委員会の席にいた。「非常に複雑な議論で、誰もが感情的になっていました。Nobody was cavalier about this. ある面では、みんな家族のためになんとかして上げたいと思っていました。重症児の場合、子どもの利益は両親と重なりますから」が、治療を支持するかという点では「自分の直感にそむいて、親の望みを聞きいれ、子どもにこういうことをやるというのは難しいことでした。」(注:ワシントン大のシンポ午前の部でモデレーターをしていたCharles Cowen医師と同一人物と思われます。WPAS調査報告書に添付された倫理委員会の記録によると、やはりCowan医師が意見陳述に立ったとされており、名前の不一致については、いずれかがミス・タイプということでしょうか。)
・親からの要望を受けてシアトル病院の医療ディレクターが倫理委を召集した。メンバーはシアトル子ども病院とワシントン大学医学部の職員で、医師、看護師、行政職員、ソーシャルワーカー(以上それぞれ複数)、倫理学教授一人、病院牧師一人、弁護士一人の計18名。倫理委の名前は非公開。議論の記録も公開されていない。
・委員会が開催されたのは2004年5月4日。最初にアシュリーの両親がパワーポイントを使って彼女の生活を紹介、なぜ希望するかという理由を説明した。両親が話した内容の記録は存在しない。(注:WPASの調査レポートによると5月5日なので、日付については間違いのようです。)
・委員会のメンバーは車椅子に乗ったアシュリーに会い、彼女と両親とのやり取りを観察。父親の声に反応する様子を見た。「この少女に会って、日常生活がどういうものかa little slice of what her life was like を知らなければね。アシュリーの生活が相当に小さなもので、ほぼ家族との生活がすべてだというのは明らかです。グラウンドを走り回ったり、デートするという話じゃない。アシュリーの生活というのは生後3ヶ月の生活のようなものです」とSalonの取材にDr.Diekema 。
・アシュリーと両親が退出した後、委員会は2時間の議論を行った。最後に手を上げて決を採ることはなかったが、議論は複雑で、その場には緊張が満ちていた。
(注:以下の1月5日のGunther 発言と、WPASの調査報告書に添付された5月5日の倫理委の記録からすると、アシュリー一家の退出までが1時間、その後委員のみの協議が1時間ということだったようです。)
・「易しい答えはありませんでした。最初はどうするべきかみんなの意見が食い違った。でも、色んな意見を聞き、討論し、議論し、最後には両親にやらせてあげようというところにほぼ一致していったんです。部屋を出るときには誰もが確信が持てなくて、どこかでこれで本当にいいのかという気持ちを持っていた。でも、間違いを犯したという気持ちで部屋を出た人はいない。害が起きる可能性よりも利点があるだろうと考えましたから。あそこで一番乗り気でなかった人でも、(最後には)少なくともa draw (害と利点が差し引きゼロという意味?)だと感じていたと思います」とDr.Diekema.
・連邦医療法の患者のプライバシー保護の点から、病院と倫理委での議論からは一般の人がはずされた。が、そのために一般に議論のニュアンスも複雑さも伝わることがないまま前例となることに懸念を抱く医師もいる。
・John McLaughlin,同病院の神経発達プログラムのディレクター、「このアイデアにあまり良い気持ちでない人も何人かいたし、まったく反対の人もいました。結局、両親がこうしたいとはっきり強く求めたことが、この子に対してのみ、その日の議論を決定したということです。が、他の子に関しては大いに慎重であるべきだと我々の多くは考えています。私の結論としては、今回のことは障害のある子どもに対して善意からではあるが思慮の足りない処置がされてしまった例です。」
・Gregory Liptak, Upstate Medical University at Syracuse, professor of pediatrics アシュリーのような発達障害児を診ている。アメリカ小児科学会障害児委員会のメンバーでもある。「一線を越えていると思う。What they did to this child takes away her personhood. アシュリーは人間であり、あなたや私と同じように正常な発達も性的な喜びも経験する権利がある。」「これは、とても激しい医療です。手術で死ぬ子どもは毎日出ている。手術で重篤な感染を起こしたり、出血があったり、それで回復できずに死ぬことがあるのです。私にいわせれば、ここでの利点よりもリスクの方が大きい」
・Dr.Mark Merkens, Oregon Health and Science University in Portland の神経発達専門医は、非医療的問題を補うのに医療行為で当てるのは問題と。アシュリーは病気ではないし、痛みがあったわけでもないのに、基本的には介護の問題であることを“医療化”している。「ちょっと過激ですね。発達抑制はともかくとして、子宮と乳房芽の摘出は bordering on mutilation。唖然とします。」
・Cowan(前述)、アシュリーが自分で意思決定できない以上、親が子どもの最善の利益を考えて愛情からやることだから、との趣旨の発言に続いて、「この家族に向かって、“その考えは間違いです。あなた方にとってもお子さんにとっても何が一番いいか知っているのは自分たちの方だ”なんて言えませんよ」
・が、Merkensは、どんなに子どものために良かれと思っていて、どんなに能力の高い親であるように思えても、親が子どもに関してそんな決断を下すことを自分は絶対に認めないという。
・Merkensを始め他の医師や倫理学者が懸念するのは、この症例の肝心な詳細が伏せられていること。発表された論文で、重要な詳細ポイントが明らかにされていない。例えば、論文に書かれているように、すでに本来の最終背丈の85%まで達していたとすると、ホルモンで抑制できるのは、ほんの数インチと、Dr.Robert Nickel,Oregon Health and Science University in Portland の発達小児科医。「本当の問題は:この療法に利点があるのかという点。私だったら、もうちょっと様子を見たら、と言っていただろう。子どもの背は、放っておいてもそこまで伸びなかったかもしれない」
・Dr.Christopher Feudtner ペンシルバニア大学の小児科医・倫理学者。「全体として、アシュリー療法は実際よりも利点が大きいように言われている。これは問題。虐待に繋がる可能性がある療法なのに。」
・McLaughlinによると、シアトル子ども病院には少なくとも3家族から希望が出ている。Liptakも先週、シラキューズの患者の母親が9歳の重症の娘に希望を申し出たという。Liptak自身は反対だが、倫理委員会にかけると同意はしたという。
・倫理委の議論の詳細が明らかにされないことを懸念する医療関係者もいる。Feudtner 「裁判官が判決理由を公開せずに評決を下すようなもの。仮にそうでなかったとしても、内部合意や討論を監査・検証できる記録がないということは、安易な決定をしたのだという感じを残す」
Seattle Post-Intelligencer (1月5日)
・Dr. Gunther の発言では、倫理委は15人から20人で、医師、看護師、ソーシャルワーカー、チャプレン、それから地域の人たちも含まれていた。親の話を聞いて医療面の話を聞き、それから委員が1時間話し合って、反対ではないということになった。
・UWのTreuman Katz Center for Pediatric Bioethics のDr. Benjamin Wilfond:倫理委員は決定するわけではない。問題があれば決定するのはメディカル・ディレクター。通常多くのケースは5人いる倫理問題の専門家のいずれかのところに行く。Wilfond一人で月に3,4件扱い、同僚で検討するために月ごとのまとめ文書を作る。完全なかたちの委員会に出すアシュリーのようなケースはまれ。
追記:誰も「賛成」とか「やってもいい」というコンセンサスに至ったとは言っていないのです。むしろ「反対ではない」という非常に消極的なコンセンサスだったというニュアンスでしょう。Diekema医師ですら「ほぼ一致」といっています。しかも「両親にやらせてあげようということで、ほぼ一致」と。この言い方には、あの「両親は乳房芽が切除されることも望みました」という言い方に共通するものがないでしょうか。
追記2:Diekema医師は「ラリー・キング・ライブ」では「I can tell you that there was no one in the room who disagreed with the decision その決定に非同意の人はあの部屋には一人もいなかったということです」といっています。いつもながら、微妙な言い方をする人です。同じ番組で自分は信仰心が厚いほうだと語ってもいるので、よほど嘘はつきたくない人なのでしょう。しかし、この人はそのために、「語るに落ちて」しまっていることも多いように思われます。
この先、論文の内容と、メディアでの医師らの発言に見られる、さらにいくつかの“不思議”を指摘したいと考えていますが、その前にここで、前のエントリーで書いた「アシュリーの親がブログで書いた倫理委のメンバーが40人というのは、彼らのカン違い」と考える根拠となった資料をご紹介します。
アシュリーの問題を検討した倫理委については、あまり知られていないようですが、実はこれまでにもある程度具体的な数字が出てきています。以下の2月9日のSalon.comの記事によると、委員は18名。シアトル子ども病院とワシントン大学の職員のみで構成されていたとのこと。当日、会場には委員ではないけれどもその場にいた人があったようです。これらを合わせて部屋に40人近くがいたのではないでしょうか。それをプレゼンを行った際にアシュリーの父親が全て委員だとカン違いして(誇張したのではなく、恐らく彼は本当にそう信じたのでしょう)ブログに書いたのではないかというのが私の推理です。2月からずっとそう推理していたので、シンポでのCarter医師の発言「40人のように見えたんだよ」には思わず「やっぱり!」と手を打ちました。
この記事では、シンポでモデレーターを務めていたCowen 医師(生後5ヶ月からアシュリーの主治医)の舞台裏を語る証言など、行間を読むと大変興味深いものがあります。
http://www.salon.com/news/feature/2007/02/09/pillow_angel/index_np.html?source=rss
また、この記事を読んだ後に、1月5日付の以下の記事で、論文執筆者のGunther医師が倫理委のメンバーについて話していることと比べてみると、ここにもまた興味深い食い違いがあります。彼は「委員の数は15人から20人」と語っており、それはSalon.comのいう18人と照らし合わせても確かにウソではないのですが、自分が担当する症例を検討した倫理委の委員の数を、これほど曖昧にしか知らなかったということがあるでしょうか。Deikema医師の発言にも共通している傾向なのですが、彼らはどうやらウソはなるべくつきたくないらしい。でも、本当のことを言うわけにいかない場合に、こういう曖昧な言い方、姑息な誤魔化し方をする傾向があるようです。
ただ、彼はこの中でメンバーには「地域の人」が複数入っていたと述べており、Salon.comの記事がいう「子ども病院とワシントン大学の職員のみで構成されいてた」というのが事実だとすると、この点ではGunther 医師はウソをついていることになります。
http://seattlepi.nwsource.com/local/298543_stuntedside05.html
私はSalon.comの記事には相当な信憑性があると考えていますが、それにしても、1月、2月の段階で、倫理委のメンバーについては既にこれだけの具体的な情報が出ていたにもかかわらず、多くのメディアがこれらを検証せず、親のブログで40人と書いてあったことを真に受けて、そのまま流し続けたわけです。また多くの人がそれを疑いもせずに議論の前提として今に至っているということになります。
私が最も気になるのは、40人というのが親のカン違いだと知っていたはずの病院側が、何故この間ずっと、その誤解を指摘せずにきたかということです。ワシントン大学のシンポでも、Dregerさんが「だって、40人いたんでしょう」と正面から倫理委のメンバーの数を問題にしたからこそ、「40人に見えたんだよ」という発言が出てきたのでした。もしも誰も数を問題にしなかったら、病院はシンポでも、あのまま委員は40人だったということにして済ませていたような気配があったように思います。
敢えて誤解を指摘・訂正しなかったのは、the Seattle Times(1月16日、5月10日ともに社説)を始めとして擁護に回ったメディアが「40人もの倫理委が承認したのだから、批判するには当たらない」などと書いたことを考えると、今回の処置の妥当性の根拠として40という大きな数字が、こども病院にとっても都合が良かったからではないでしょうか。そして、その姿勢は、どこか、あの論文の敢えて誤解を招くような書き方にも通じていないでしょうか。
病院側の姿勢がこの期に及んでもなお、明らかに誤って流布している倫理委の委員数を敢えて訂正せずにいるという不誠実なものであるとしたら、我々は議論をさらに先に進める前に、既に知っているつもりのこの問題についての基本的な事実関係の諸々を、一度確認してみる必要があるのではないでしょうか。
去年の秋に発表された論文は「いかに分かりやすく誤解を招かないように書くか」という常識的な注意を払って書かれたものというよりは、わざわざ「いかに紛らわしく誤解を招くように書くか」という点に知恵を絞って書かれたもののようにも思えます。言い換えると、「実際に起こったことの一部がバレないように」書いてあるといってもいいかもしれません。執筆者にとって特に「バレてほしくなかったこと」は、これまで見てきたように以下の3点のようです。
1.乳房芽を切除した事実
2.子宮を摘出した本当の理由
3.倫理委員会のメンバー構成
論文が書かれた時点では、両親のブログはまだ存在しないことに注意してください。
おそらく執筆者は、論文発表の2ヵ月後に両親がブログを立ち上げることは予測していなかった、という推測が成り立ちます。なぜならば、知っていたとしたら乳房芽の切除の事実や子宮摘出の本当の理由について、わざわざ苦労して論文で隠しても意味がなくなるからです。両親のブログのおかげで、我々は真実を知ることになったとも言えるわけですが、しかし、これを裏返して考えてみると、大変コワイことにならないでしょうか。もしもアシュリーの両親がブログを立ち上げて彼らのバージョンの事実説明を行わなかったら、未だに乳房芽が切除された事実も子宮摘出の本当の理由も隠蔽されたままだったかもしれないのですから。
ところで、上記3.の倫理委員会のメンバー構成については、どうでしょうか。この点については乳房芽の切除や子宮摘出とは違って、WPASの調査報告書が出た現在になっても、我々は何も知らないままなのではないでしょうか。
(両親のブログでは倫理委員会のメンバーは約40人で男女半々だったと書かれています。これを受けて、多くのメディアが「40人ものメンバーの倫理委で検討した」と報じました。が、これは今後の回でまた詳しく述べますが、両親のカン違いと思われます。目立たない場面でしたが、ワシントン大学のシンポでも、この点についてのやり取りがありました。Alice Dregerさんが「だって倫理委のメンバーは40人もいたんでしょう?」と会場の質問者に問いかけた際、彼女の隣に座っていた子ども病院のCarter医師が They LOOKed like 40.「40人のように見えたんだよ」と「見えた」を強調して答えました。)
⑤アシュリーの件を検討した倫理委のメンバーについては触れていないのに、触れてあると思わせる巧妙な誘導が仕組まれている。
この問題に重大な興味関心を持っている人の中には、この論文を実際に読まれた方もあるでしょう。多くの人が「あの論文には倫理委のメンバー構成が書かれていた」という印象を持っておられるのではないでしょうか。実は私もそう思っていた1人でした。
論文には2箇所、検討委員会のメンバーとして医師の専門領域が列記された箇所があります。内訳は内分泌、神経学、発達、外科、そして倫理学の分野の小児科専門医。私も最初に論文を読んだ時には、「アシュリーの問題を検討した倫理委には一通りの分野の専門医が揃っていたのだな」と理解して次に読み進みました。まだ情報収集を始めたばかりで、事件の全貌すらよく分かっていなかった頃のことです。
人はよほど何らかの特別に強い理由や動機を持って読むのでなければ、いちいち指で押さえて細部を確認するような読み方はしません。他の情報とつき合わせてみるということもしません。なるほど、こういう人たちが倫理委員会にいたのね、くらいの把握で先に進み、それきりになります。
が、これは全くのカン違いなのです。注意深く論文を読み込んでみると、ここに書かれているメンバーはアシュリーのケースを検討した倫理委員会のメンバーのことではありません。今後出てくる可能性のあるケースに対応すべく、「これから用意しようという検討委員会」のメンバーのことなのです。
今回のアシュリーへの医療処置で前例ができたことで、今後の症例への適用が当然のことながら問題となります。それは執筆者も念頭にあったようで、このような療法が恣意的に適用されてはならないので、きちんと公式な検討グループが必要だとの見解が「倫理の議論」という項目に述べられています。そこで目下、組織内に検討グループを召集しているところであり(注)、その構成員が先ほどの内分泌、神経うんぬん。こちらの箇所については項目からしても前後の文脈からしても自然なので、読み誤ることはないでしょう。
私が読み誤ったのは、これと同じことが言葉を少し変えて、「症例報告」の中にまで書かれているためです。「イントロダクション」に続く「症例報告」の中。先の「倫理の議論」よりもずっと前です。「倫理委員会は家族にも本人にも会って協議し、このケースについては妥当とのコンセンサスに至ったという一連の流れに続いて、改行もせず、「倫理委員会は今後の検討委員会の必要にも気づいたので検討委が計画されており、その構成員は小児専門医で内分泌と神経と……」と、一息に書いてしまうのです。
今後の課題なのだから、一般的には論文の後半に置かれるはずの話でしょう。それがこんなに前の段階で、しかもアシュリーの症例報告の中に紛れ込んでいる。普通にこの論文を読む人が「症例報告」の中で、この文脈で、無意識に予測するとしたら、それは当然アシュリーの委員会についての詳細です。しかし、それはないのです。その代わりのように置かれているのが、この、今後に向けての検討委員会のメンバー。まるで誤解してくれといわんばかりに。
確かに執筆者が嘘を書いたわけではありません。が、これが誘導でないのならば、なぜ、まだ出来上がってもいない検討委員会のメンバーをこんなところにわざわざ並べる必要があるのか。これは相当に手の込んだ、知恵を絞り周到に準備されたトリックと言えないでしょうか。
「従来行われている医療ではなく論議を呼びそうなので、病院倫理委員会にかけた」と論文に書いたのは、執筆者自身です。また、「成長抑制療法の恣意的な適用を防止するためには、公式なメカニズムが存在することが適切、いや恐らく必要ですらある」、「この(準備中の倫理委員会による)アプローチは、施設内審査委員会が承認した治験実施要綱と併用されれば理想的だろう」とまで書いています。つまり、今後考えられるケースについては、倫理委員会以上の検討手段を加えて、もっと慎重に厳密に検討する必要がある、この療法については人体実験と等しいほどの慎重さで検討する必要がある、と述べているのです。
Deikema医師自身、シアトル子ども病院のスタッフ紹介ページのプロフィールによると、同病院の施設内審査委員会の委員長の一人です。その彼が、アシュリーに行われた成長抑制療法を巡る論文で、この療法の恣意的適用を懸念して、これだけのことを書いているのですから、この件での倫理問題の大きさを充分に認識していなかったはずはありません。controversy な療法だとの認識はあったのだから、普通に考えたら執筆者としても今後予想される批判をかわすためにも、明示しておくべき情報であるはずです。それなのに、どうしてその詳細を書かず、こんな手の込んだ姑息なトリックを論文の中に仕掛けるのか・・・?
(注)WPASの調査報告書に添付されたExhibit F(子ども病院からWPASに宛てた1月22日付書簡)によると、子どもの成長抑制/不妊検討サブ委員会が2005年4月に立ち上げられています。時期的には、論文が発表された2006年秋の時点で既にできていたことになるのですが、論文の中ではplans were instituted to convene an interdisciplinary review panel そして we are convening an interdisciplinary group という表現しかありません。これまた奇妙な点です。
さらに、Exhibit Fの書簡に添付されていたサブ委員会に関する規定(Exhibit G)によると、このサブ委員会の位置づけは病院の質改善推進委員会の下部組織です。論文で人体実験に比するほど慎重な倫理上の検討が必要だと述べていたことを考えると、これは奇妙な位置づけだと疑問に感じるのは私だけでしょうか。この文書のⅡScope and Activitiesの項目に、再び質改善推進委員会のサブ委員会であることを明記した後、この委員会の会議については州の規定に基づいて非公開だとあります。病院のサービス向上の取り組みの一環としての委員会の位置づけに加えて、記録の一切が非公開の会議。これで本当に、論文が懸念していた「恣意的な適用」へのセーフガードといえるのでしょうか。
とはいえ、病院倫理委員会と質改善委員会のサブ委員会という位置づけとの違いというのは、本当のところ、よく分かりません。ご存知の方、教えていただけると幸いです。Exhibit F で挙げられているのはRCW 70.41.200。品質改善と医療過誤防止プログラムについてのワシントン州の規定のようです。
(追記)ここで私が気にかかるのは、もしかしたら記録を非公開にするために、わざわざこのような位置づけにしたのではないかという疑問です。でも、それならば弁護士を沢山動員したはずのWPASの調査でも当然問題になったはず、という気もするのですが。
④子宮摘出があたかもホルモン療法の副作用軽減のために必要だったかのように書かれている。
論文の中で子宮摘出が触れられているのは、ごくわずかです。
初出は「症例報告」という項目の後半。
両親と医師とが話し合った結果、
「エストロゲンの大量投与によって成長を抑制し、
治療前の子宮摘出によって思春期一般の長期的な問題と特に治療の反作用を軽減するという計画ができた」
という文です。
このセンテンスが原文でも日本語でもややこしくて分かりにいのは、
この中に、いくつものマヤカシが仕掛けられているためです。
ここでは子宮摘出に関連した点だけに絞りますが、
それでも2つのマヤカシがあります。
まず「思春期一般の長期的な問題」というのは、
両親がブログで書いていることで言えば「生理と生理痛」のことでしょう。
それとも、もしかしたら子宮を摘出する副次的なメリットとして両親が挙げている
「レイプされた場合の妊娠予防」までを含めたつもりなのでしょうか。
いずれにしても、両親が子宮摘出を望んだ本来の目的を隠蔽する巧妙な表現です。
ざっと読んだ人は、あまり気にも留めずに通り過ぎてしまう箇所でしょう。
「思春期一般の長期的な問題」とは、よくも考えたものです。
確かにウソではない。でも、何も言っていないに等しい。
これは、特にDeikema医師の発言には非常によく見られる傾向です。
2つ目のマヤカシは、
ここで初めて登場する「子宮摘出術」という単語に「治療前の」という形容詞がくっついていること。
論文には子宮摘出術という言葉が全部で8回使用されていますが、
そのうち半分の4回には「治療前」または「予防的」という形容がついています。
箇所でいうと「症例報告」で2回、「治療のリスク」の項目で6回。
つまり論文の中での子宮摘出は、ほぼホルモン療法のリスク予防のコンテクストで語られているわけです。
実際にネット上の論争で、生理をなくすための摘出を批判した人に対して、
「それは違う。子宮の摘出はホルモン療法の副作用を防ぐために必要だった。論文にそう書いてある」
と書いた人もありました。
確かに論文から受ける印象は
「ホルモン療法の反作用防止のために、前もって子宮をとっておくことが必要だったのだ」
というものです。
実はDeikema医師は、
5月16日にワシントン大学で行われたこの件に関するシンポジウムでも同じことをやっています。
会場から「将来トラブルとなる可能性があるからというだけで、
体の一部を摘出するというのは納得できない」という指摘があった際、
彼は論文と同じ論理の摩り替えトリックを使って反論しました。
もちろん乳房芽の切除は既にバレていますから、隠すことはできません。
「今やるからリスクの少ない乳房芽の切除手術で済むが、
将来病気になってからだと乳房の切除になって手術のリスクも大きくなる。
子宮摘出もホルモン療法の反作用を防ぐためにはこのタイミングでやらなければならなかった。
いずれも、このような医療上の必要があってやったことだ」
といった内容のことを言っていました。
が、会場からの指摘は摘出そのものの必要を疑問視していたのに対して、
彼が言っているのは摘出を前提とした、あくまでタイミングと順番の問題に過ぎません。
明らかに論文で使ったトリックと同じ、論理の摩り替えです。
論文で、実際には生理と生理痛を回避するために行われた子宮摘出を、
あたかもホルモン療法のために必要だったかのように書くのは、
やはりマヤカシではないでしょうか。
もっとも、逆に考えれば、
将来の生理と生理痛を回避するために子宮をとってしまうということに
倫理上の問題があると分かっていたからこそ書けなかった、とも言えるかもしれません。
しかし、この論文には、もっと巧妙かつ悪質なマヤカシが潜んでいます。
倫理委員会についてのものです。
報道だけを鵜呑みにしていたのでは見えない実相がこの問題には隠れているのでは……と
私が考えるようになったきっかけの1つが、次に指摘する⑤の、
さらに手の混んだ仕掛けでした。
追記: 1月5日のSeattle Post-Intelligencer紙の記事Controversy rages around stunting girl's growth のインタビューにおいて、Gunther 医師も「アシュリーは治療中の出血を避けるため、子宮がんのリスクと生理の不快をなくすために子宮摘出術を受けた」と、やはり副作用軽減が主な目的であるかのような発言をしています。
引き続き、論文のおかしな点について。
③乳房芽の切除については、一切触れられていない。
この点は既に多くの人が指摘しているところですが、論文は乳房芽については一切触れていません。倫理委員会の検討について書かれた一説でも、倫理委員会は「成長抑制と子宮摘出術の要望はいずれも、この症例については倫理的に妥当とのコンセンサスに至った」と書かれて、乳房芽の切除を省いています。もちろん書き忘れたわけではないでしょう。
ところで、アシュリーの両親はブログの中で「担当医にとっても病院内の倫理委員会にとっても、一連の処置の中で最も判断が難しかったのが、この乳房芽の切除だった」と書いています。さらに、乳房芽の切除でどんな利点があるかを述べた後で、「上記の利点を詳しく説明することで私たちは彼ら(担当医や倫理委のメンバーを指す)のreluctanceを乗り越えた」とも書いています。アシュリーの親は倫理委員会の会議の冒頭でパワーポイントを使ってプレゼンを行っているので、その際に特に乳房芽の切除については利点を力説したのでしょう。それでようやく説得できた、というニュアンスです。
また5月8日のWPASの調査報告書に添付されたExhibit L(アシュリーの症例を検討した倫理委の報告書)にも、話題になった点の1つとして「乳房切除がどのようにQOLに結びつくのか」という問題が挙げられています。
病院サイドはホルモン療法による身長抑制と子宮摘出についてはともかく、乳房芽の切除には最後まで倫理的な問題を感じて躊躇していたことが想像されます。論文で乳房芽の切除が伏せられていることと無関係ではないでしょう。
さらに論文執筆者の1人Deikema医師はメディア報道が沸騰した直後の1月11日と12日に立て続けにCNNに登場した際に、非常に興味深い発言をしています。
11日に放送されたインタビューでは「2004年にアシュリーに行われたことを説明してください」という質問に対して、成長抑制と子宮摘出の2つについてのみ答え、やはり乳房芽の切除については触れていません。ところが翌12日に「ラリー・キング・ライブ」に衛星中継で生出演した際には、キングに「何が行われたのですか」と問われ、ちゃんとホルモン療法、子宮摘出、乳房芽の切除の3つについて答えているのです。
内容だけではなく、答え方も微妙に変わっています。11日の答えは「成長抑制は……子宮摘出は……」と処置の方法について説明する形をとっているのに対して、12日の答え方では3つの処置全てについて「両親が求めたのは……」という表現を使っているのです。もちろん乳房芽の切除についても「そして最後に両親は乳房芽が切除されるよう求めました」と言っています。
人間の無意識というのは興味深い作用をするものです。両親に責任を転嫁する表現を選択させたのは、Deikema医師の中のいかなる無意識だったのでしょう……?
年明け早々のニュースから、この件の事実関係にこだわって、主に当事者の発言を1つ1つ突き合わせては確認するという作業を続けてきました。資料をつき合わせて細部を検証してみたら、多くの人が議論の前提として疑いもなく受け入れている事実関係そのものが、案外まったく違う様相をしているのでは……と思えてきました。
この問題には、まだ表に出ていない実相があるのではないか、と私は考えています。いわゆる“アシュリー療法”の背景について私見を述べながら、「何故こんなことが許されてしまったのか」という不思議を考えていきたいと思っています。
この問題について考えたり議論している多くの人が疑いもなく受け入れている議論の前提の1つに、「この症例は去年の秋に担当医によって論文発表されている」というものがあります。確かに去年の秋にAttenuating Growth in Children With Profound Developmental Disability : A New Approach to an Old Dilemma (Daniel F Gunther,MD,MA; Doughlas S. Diekema, MD, MPH, Archives of Pediatrics & Adolescent Medicine、Vol.160 NO.10, Oct.2006)という論文が発表されています。しかし、本当にこの論文は「アシュリーの症例について、きちんと報告している」と言えるかどうか。
注意してよくよく読むと、この論文には不可思議な点がいくつもあります。明らかにおかしい以下の5点について、まず考えてみたいと思います。
①「成長抑制」のみについての論文らしい。
②アシュリーに何が行われたのかという事実が整理、総括、提示されていない。
③乳房芽の切除については、一切触れられていない。
④ホルモン療法の副作用軽減のために子宮摘出が必要だったような書き方がされている。
⑤アシュリーの件を検討した倫理委のメンバーについては触れていないのに、ちゃんと報告していると思わせる巧妙な誘導が仕組まれている。
①「成長抑制」のみについての論文らしい。
論文のタイトルは「重症発達障害児における成長抑制」です。多くの人が考えているように「アシュリーに行われた一連の医療的処置についての論文」ではなく、「アシュリーに行われた成長抑制療法のみについての論文」として提示されているということになります。
アブストラクトの内容も「ホルモン療法を早期に行うことで成長は永久的に抑制される。それにより将来の介護負担を軽減し在宅ケアが可能となる。それは本人にも介護者である親にとっても利益である。親の希望があった場合には適切なスクリーニングとインフォームドコンセントを前提に、治療の選択肢に加えるよう提唱する」というもの。
しかし、タイトルとアブストラクトが規定するように「成長抑制療法」を治療のオプションとして提唱する趣旨の論文であるにしては、奇妙なことに「成長抑制療法」そのものが1度も明確に定義されていません。
このケースを巡る論争では、メディアの報道でも多くの人の議論においても、「成長抑制」という言葉がホルモン大量投与による身長抑制のことのみを指すのか、それとも子宮と乳房芽の摘出まで「女性としての成長抑制」という意味で含めているのか、使い方に混乱が見られます。これはやはり、論文がこの用語をきちんと定義していないことからくる混乱ではないでしょうか。
②アシュリーに何が行われたのかという事実が整理、総括、提示されていない。
「症例報告」という項目においてすら、「何が行われたのか」という事実整理も総括も一切行われていません。アシュリーの症例報告でありながら、「アシュリーに何が行われたのか」という、通常であれば最初に提示されなければならない基本的な事実がないままに、ここでも①で指摘したのと同様に、なし崩し的に話が進められています。
どういう症例に基づいて、何について書くのか、という基礎的事実をいずれも確立しないまま、なし崩し的に書く。これは、まるで土台がないところに建てられた家のような論文なのです。
しかし、もちろん執筆者らがうっかりしていたわけではないでしょう。むしろ、①の成長抑制の定義の不在、②アシュリーに行われたことの事実整理の不在は、次に述べる③「乳房芽の切除について触れていない」という不思議にさらに繋がっているように思えます。
③以降については、次回に。