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オーストラリアの介護者週間を機に、
介護者支援団体 Carers Australia のサイトから介護者向けメッセージを
何度かに分けて訳しています。

Carers Australia のサイトにある介護者ニーズのカテゴリーから

「自分を大切にする」
      ↓
「自分の健康と幸福を維持する」
      ↓
「自分の気持ちを理解して受け入れる」という項目を開くと、
以下の文章が出てきます。
2008年10月17日付です。

自分の気持ちを理解して受け入れる

気持ちそのものには正しい気持ちも間違った気持ちもありません。
介護についての感じ方は人それぞれなのですから。
一般に介護者が感じる気持ちには次のようなものが含まれます。

・罪悪感
・フラストレーションと怒り
・愛情
・責任感
・不安
・悲しみと喪失感

このような自分の気持ちを受け入れて、
時間をかけて理解していくことによってストレスを軽減することが出来ます。
もしも、こうした気持ちがあまりにも強くなってどうにも出来なくなった時には
自分なりの対処方法を見つけましょう。
The National Carer Counselling Serviceや介護者支援グループが助けになります。

定期的に時間を取ってリラクセーションを行い、ストレスを解消しましょう。
自分に合ったストレス解消法を見つけましょう。
介護者が使っているテクニックの中には次のようなものがあります。

・リラクセーションと瞑想テクニック
・ポジ思考とネガ思考のコントロール方法を身につける
・ウォーキングなどのエクササイズ
・評価的でない人に話をする
・自分の興味のあることに時間を使う

毎日の生活のリズムの中にリラクセーションとストレス・テクニックを含めましょう。
1日にほんの10分歩くだけでも効果があります。
もしも1人になりたいのであれば、ジャマされないように
今は自分の時間が欲しいことを周りの人に伝えましょう。


このような情報が日本でも広く介護者に伝えられて

例えば、思うようにならない子どもにイラだって、つい
「こんな子なんか、いなくなればいいのに」と思ってしまった時にも
自分のことを「なんて酷い母親なんだ」と責めて
自分で自分を追い詰めるのではなくて、

そういう気持ちは介護者としては、ごく当たり前なのだと知ることによって、
「私はこんなに負担の大きな子育て(介護)をしているのだから
 疲れたり状況が手に負えなくなった時に、
 そういう気持ちになってしまうのも当たり前。
 一時的にそういう気持ちになったからといって、それは本来の私じゃない」と
自分に言い聞かせて、そう考えた自分に拘泥せずに流すことができたら、
ラクになれるお母さんたちは、たくさんいるんじゃないでしょうか。

高齢者の介護をしている人たちだって同じことのはず。

また、こうした情報が介護者に届くだけでなく
介護される人・介護する人を取り巻く周りの人たちにも広く知ってもらえると、
多くの介護者の救いになると思うのです。

例えば、介護を担っている人たちが怒りや悲しみといったネガティブな気持ちを抱くのは
ごく自然なことなのだと認識してもらうこと。

それを前提に、
介護を担っている人の話を聞く時に評価的にならず、
共感的に聞くことが大切なのだということを
多くの人に理解してもらえたら嬉しい。

評価的になったり、すぐに上から目線で励ましたり、一方的な説教をして
介護者の弱音を封じ、追い詰めたり傷つけてしまう人が
世間には本当にウンザリするほど多いので。
2008.10.31 / Top↑
Carers Australia の介護者向けページから
介護者が「自分自身を大切にする」というカテゴリーを選ぶと

「あなた自身の健康と幸福を維持する」として
2008年10月17日付の次のような文章が出てきます。
日付からすると、今年の介護者週間を機にアップデートされたものでしょう。


介護者として、あなたには自分の健康と幸福を大切にする時間と空間が必要です。
より良い健康と幸福があってこそ、あなたは人生を楽しみ
人生に訪れる困難をやりこなしていくことができるのだから。
また健康で幸福であることによって、
介護している人によりよいケアを提供できるエネルギーと力を
あなたは得るのだから。

多くの介護者が抑うつ状態や不安に苦しみ、
介護者自身が余り幸福ではないとの調査結果があります。
また介護者の多くは慢性の痛みや怪我を含めて
病気や体の異常を抱えています。

時間がないとかお金がないとの理由から
介護者は自分の健康問題をなおざりにしがちです。
金銭的な心配を抱えている人も少なくありません。
介護者の多くは介護を担っているために働いていないか
自分が望むようには働くことが出来ていません。

だからこそ、あなたは介護者として、
自分自身を大切にするためにできることを見つけ
それができるように支援を受けることが重要になるのです。

あなた自身の健康と幸福を維持するために
できることは何でしょうか?

ここから選べる項目は以下の3つ。

・自分の気持ちを理解して受け入れる
・自己主張をする
・介護に人の手を借りる
2008.10.31 / Top↑
高齢者や障害児・者の介護を担っている人にとって大切なことは何なのか。
介護者のニーズとは何なのか──。

「深い家族愛で献身する美しい姿」という非現実的な美意識に阻まれて
介護者(障害児の親も含む)自身の現実的なニーズに目を向けるということが
日本ではまだ充分になされていないのではないでしょうか。

以前のエントリーで紹介した豪の介護者支援団体Carers Australiaの介護者向けページのトップから
Carers Australiaへの意見投稿を除く8つのカテゴリーと
それぞれの簡単な解説を以下に訳してみました。


知識を身につける
あなたが介護している人のニーズを理解することが大切です。

現実的な問題
介護はあなたの日々の生活にいろいろな形で影響します。
家の改造をしたり、新しいスキルを身につけたり、
働き方をそれまでと変えたり、お金のやりくりなど、
ちょっと考えただけでも、必要なことは沢山あります。
日々の生活で介護責任を果たしていくためには
現実的な戦略が必要です。

サービスを見つける
介護しているあなたやあなたの介護を受けている人を支援するサービスが
いろいろ利用できます。
その中には、あなたのニーズに最も適した支援を決めるための相談窓口もあります。

あなた自身を大切にする
あなた自身の健康を大切にしなければ
他の誰かのケアもできません。
忘れないでおきましょう。
あなただって生身の人間なのだということを。
あなた自身のニーズを大切にするヒントを。

休みを取る
定期的に休みを取って元気を取り戻し
介護以外の自分の生活にも心を向けられるのでなければ
介護という大変な仕事をずっと担っていくことはできません。
レスパイトやその他、家族や友人の手を借りる方法を。

思いを言葉にする
あなたの状況を分かってくれる人と話してみると
ラクになることもあります。
あなたと同じような介護をしている人のグループや
専門のカウンセラーなどもいいでしょう。
あなたの話を聞いてサポートしてくれる人の情報。

声を上げる
介護者には沢山の大切な、そして差し迫ったニーズがあります。
そうしたニーズを上手く他の人たちに、
そして支援することのできる機関に
伝えていくことが不可欠です。
あなた自身の権利を訴えていく際のヒントと
アドボケイトとしての我々の活動について。

将来設計
日々の介護に追われていると
ずっと先のことを考えたり緊急時の計画を立てる余裕がなくなります。
前もって計画を立てておくための戦略をこちらで。


「あなた自身を大切にする」というカテゴリーの中で
「忘れないでおきましょう、あなただって生身の人間なのだということを」と訳した部分は

 Remember, you’re only human.

文字通り直訳すると
「覚えておきましょう。あなたは人間に過ぎないのだから」。



例えば福岡の小1殺害事件に対してネットで見かけたコメントの中には
「親ならたとえ血反吐を吐いてでも」といった、ものすごいのもありました。

しかし、「どんなに大変な介護や育児にも
決して笑顔を絶やさず優しく明るくたくましく献身し続ける美しい母の姿」というのは
ただ世間の人が見たいものを見せろと要求している非現実的な理想像であって、
生身の身体を張って厳しい現実と格闘している当事者には
何の助けにもならない傍観者の美意識に過ぎません。

また地方によっては今なお
訪問看護の車が家の前に止まったら近所から批判が出るから
バレないように訪問してほしという要望が出る……などといった話も耳にします。

そんな非現実的な美意識や道徳規範がいまだに持ち出されて
介護は家族が抱え込むものとする有言無言のプレッシャーがかかる、
また、それに乗っかって
家族責任を前提にした制度作りがお上にとっても好都合らしい日本では
最も見過ごされているのが、この「介護者の頑張りにも限界がある」という事実ではないかと
私は日ごろ感じているので、

その思いを込めて、
「介護者だって生身の人間なのだから」と訳してみました。
2008.10.30 / Top↑
まったく、なんでアメリカでは、こうも次々とありえないはずの事件が起こるんだか。

テネシー州Knox郡での事件。

14歳の自閉症の女の子が、
性犯罪歴から「強姦魔」とされ法的後見人から「目を離さないよう」注意が出ていた18際の少年に
養護学校の通学バス(一般の学校で特別教育対象児を拾うバスかも)の中でレイプされ、
郡の教育行政の責任主体である教育委員会を相手取った300万ドルの民事訴訟が起きています。

School board hit with $3M suit
Knox News, October 28, 2008

この少女は通学バスに乗る子どもたちの中で唯一の女子で、
「悪ガキどもの中にこんな女の子を1人で放り込んだら2日と持たない」と
バス会社は最初に学校側に警告したというし、
実際に性的ハラスメントがあったので
母親も学校に苦情を申し立てたが聞き入れられず、
当日も運転手以外の大人は乗り合わせていなかった。

18歳の方は性的犯罪性向を治療する目的のカウンセリングを受けさせられており、
そのために通学バスに乗っていた。

(高校に性犯罪者の治療プログラムがあるようで、それもまた驚きです)

少年は最初から少女の障害に付け込んで
計画的に仲間と申し合わせてバスを追尾させ、
音楽を聴いているフリをしてヘッドセットで仲間と交信しながら
自分のいうことを聞かなかったらあの車の連中に輪姦させると少女を脅した、とのこと。

現在、犯罪として検察局が捜査中。
少年は現在は単独で通学させられている。

事件は予見できたとして
教育委員会を相手取って300万ドルの民事訴訟が起こされた。

           ――――――――

バス会社と母親の警告がなぜ対応されずに終わったのか、
現場にいる人ならだれでも危機感を抱くはずの事態が
なぜ野放しになってしまったのか、

端から見れば、どう考えても「ありえない」し「あってはならない」事件で、
その、あまりと言えばあまりの「ありえなさ」に、
いったい学校は何をしていたのだと怒りを覚えてしまうのですが、

これもまた、予算削減に締め付けられる一方の教育現場の人たちにとっては
「我々がどんな過酷な状況で働いているか分かっているのか」
「現実問題として、これ以上どうしろというのだ」という類の話なのでしょうか。


グローバリゼーション、新自由主義の過酷な弱肉強食競争に
マクロとして国際競争力を維持して生き残るために必死になっているうちに、

そしてマクロとしての人類を
より健康で、より能力に優れ、より便利に、よりロー・コストで長生きの改良型に、と
遠くはるかな夢を「早く、早く」と追いかけているうちに

実はどの国でも、足元では教育、医療、福祉が最低限の機能すら失って
崩壊しつつあるのでは──?

それは社会そのものが機能を失って
無秩序状態に陥っていくということなのだから
いくらマクロとして国が生き残ったり、
病気も障害も老化もないスーパー人類が実現したとしても
人が人として暮らしていける場所の方が先になくなってしまうということなのでは──?
2008.10.30 / Top↑
今年6月にMS女性、自殺幇助に法の明確化求める(英)のエントリーで紹介したケースですが、

多発性硬化症の女性Debbie Purdyさん(45)が
いずれスイスのDignitasクリニックで医師の幇助を受けて自殺したいと考えており、
その際に付き添ったり、自殺に協力することによって
夫が罪に問われることを恐れて法の明確化を求めていた裁判で、

英国高等裁判所は明確化は法律の改変を必要とするので
それは議会の仕事であるとして明確化を拒否。

法が明確でないことはDebbyさんの人権を侵害しているという訴えについては
人権を侵害しているとまでは言えず現在のガイドラインは適切であると判断。

ただし、Scott Baker判事は次のように述べています。

Purdyさんやその夫、そして、
その他同じような立場にいる人たちへの同情を表明することなしに、
このケースを終えることは出来ない。

 自分がそれによって罪に問われるかどうかを予め知りたいと、この人たちが望んでいる行いとは、
多くの人が法律によって許されると考える行い、

すなわち愛する者が自分では死ぬことが出来なくなった時に
 外国に行って苦しみに終止符を打つ手助けをするという行いである



気持ちは分かる、許されてもいいと考える人が多いことも承知、
しかし法律を変えることができるのは議会だけ、というところでお茶を濁した、
ということでしょうか。

それに、上記記事によると
スイスのDignitasクリニックへ出かけて自殺した英国人は既に101人に達していますが、
そのいずれのケースにおいても、協力した親族が罪に問われたことはないとのこと。

明確にせずに、事実上黙認という形にしておきたいのがホンネなのかも?
2008.10.29 / Top↑
統合失調症、強迫神経症とADHDの診断が出ているという(母親情報)9歳の女児が
フロリダの養護学校のタイムアウト・ルーム(落ち着くための部屋)で
手がつけられない暴れ方をして、逮捕される、という事件が
10月14日に起きています。

警察官は少女に権利を読み上げ、手錠をかけて
タイムアウト・ルームから留置場に連行。
その後、家に戻されましたが、復学は未定。
教師への暴行で2つの重罪(felony)に問われている、とのこと。

スクール・ディストリクトも
「子どもの逮捕は最後の手段だが
 学校もすべての子どもにすべてのことをできるわけではなく
状況によっては学校外の支援も求めることになる。
今の行政制度では地域を巻き込みドミノ的に支援を行うためには
警察の介入を求めるしかなかった」

しかし、郡の精神衛生福祉を担当する子ども家族局がそのケースについて知ったのは
逮捕の翌日のこと。

母親は
「大変な子どもだということは分かっているが、それがこの子の病気。
 いくらなんでも9歳に投獄はないだろう」と。

「もう親としてこれ以上どうしたらいいのか分からない。
 途方にくれている」とも。


9-year-old arrested at school(ビデオあり)
WINK News, October 15, 2008


その日、少女は教師への暴力で受けた停学処分が解けて登校して来たばかり。
登校から2時間後に警察が呼ばれています。

行政サイドの説明では
制止する教師にツバを吐きかける、蹴る、椅子を投げつける、
ドアを教師めがけて蹴る、ナイフで刺すと脅す……などの行為が挙げられています。

その養護学校に入学したのも
前の学校が彼女に対応できないという理由で転校することになったため。
両親も転職を繰り返しています。
母親は日中娘の世話をする必要から
仕事を辞めざるを得なかった、と。

(あまり裕福そうではない黒人一家にとって
これは痛手だったろうと推測されます。)

クリニックで精神科の治療も受けていましたが、
何種類かの薬を服薬しても効き目がなく、
医師から実験的な薬を勧められて母親が拒んでいるうちに転居。
転居先で精神科の予約が取れず、そのままになっていたと母親の談。

(経済的な理由で受診しにくかったということもあるのかも?)

子ども家族局は報道を受けて、
郡の精神医療の中核を担う機関にアセスメント受診の予約手続き中とのこと。
しかし、その機関では成人の精神障害者の入院が増加しており、
子どものケースにまで手が回っていないのが実情だとの指摘も。

郡の青少年アセスメント・センターが去年、犯罪行為で対応した9歳以下の子どもは19人。
今年は今までに9歳以下は9人。10歳が13人、11歳は21人にも及ぶ、とのこと。

青少年アセスメントセンターの職員は
特に精神障害が問題になるケースでは
州の検察当局と協働して青少年のケースを支援プログラムに繋げることは多いと話し、
しかし、それに続けて次のように語っています。

あっちもこっちも予算削減で、
地域の精神保健・医療サービスはどんどん減ってきています。
学校もできることが非常に限られている。
これは、親はサービスを利用できなくて困っているということです。
成人の場合だと精神医療裁判所があって、
薬物裁判所と似たような機能を担っているので
青少年の司法制度にも同じものがあればいいのですが、
ここでもやはり予算が足りないという話になってしまいます。



ちょっと考えられない事件で、
表に出しにくい事情もあったのかもしれませんが、
養護学校が9歳の障害児に学校内で手錠をかけることを許すというのは
あまりにも配慮がなさ過ぎるでしょう。

さらに、記事以上に考え込まされるのは
記事に寄せられたコメント。

一方にはIDEAの理念はどうなっているんだ、
IDEAで保障された『しかるべき手続き』が行われていないじゃないか、と
教育現場の無責任を問う声や、

実際に障害のある子どもを養護学校に通わせている保護者から
ただ単に隔離するためにタイムアウト・ルームに閉じ込められたり
拘束されたりもしているとの報告があったりする一方で

とても気がかりなこととして、
「昔の子どもは親にぶったたかれて育ったから
年長者への敬意も社会秩序の尊重も身についていたのだ。
こういう子どもには体罰(good spanking)が一番」
「やったことには報いがあるのだと教えなければ」
と、体罰復活論と懲罰主義の大合唱。

精神障害の存在すら考える必要を否定するかのような。

病院から地域へ戻されたはずの精神障害者を
今度は監獄に閉じ込めろという声すら起こりかねないような。

いや、もしかしたら、
その手間とコストすら省きたいというホンネも
どこからか時間の問題で聞こえ始めるのかも。

そういえばスイスで、
裁判所が精神障害者に自殺幇助を認めたという話もありました。

親や学校、地域が子どものケアを担えるだけの支援を丁寧に整備していく手間とコストは
その必要が真剣に云々されず、手当てもされないまま、

障害者をジャマ者として排除する空気だけが
世界のあちこちで着実に広がっていくようで……。
2008.10.29 / Top↑
アントシアニンといえば最近その効能をよく耳にしますが、
大腸がん細胞の増殖速度を落としたり
心臓血管疾患や老化に関連した病気を予防する効果があるとされるほか、
抗炎症作用があるとか、眼にも良いとか、肥満も糖尿病も予防するとか
いろいろ良いことだらけの抗酸化物質。

このたび、そのアントシアニンを豊富に含んだ
むらさき色のトマトを遺伝子操作によって作ることに成功した科学者がいて、
そのトマトを食べたマウスは食べなかったマウスよりも長生きだったとのこと。

で、このトマトを作った英国Norwichのthe John Innes Centreチームは
トマトの他にも身近な果物や野菜の中でも身体にいい成分の含有量を上げて
より身体に良い食べ物を作ることを目指しているのだとか。

同センターのCathie Martin教授は
食を通じて健康を増進するための遺伝子組み換え技術の応用は
消費者に確実にメリットがあると言い、

「一日に果物と野菜を5皿も食べる人はあまりいませんが
ごく普通の果物や野菜に含まれるバイオアクティブな物質含有量を上げることができれば、
そういう人にもメリットがあることになります」と。

もっとも、こういう話がたいていそうであるように
例によって、あくまでも癌予防の効果がある「かもしれない」という話で、

癌研究の専門家は
マウスで癌予防効果が実証されたとしても、
それがそのまま人間にも当てはまるとは限らないし、

癌や心臓病をやっつける「魔法の銃弾」なんて存在しない、
基本は赤身の肉や加工肉を避け、繊維と果物、野菜たっぷりの
バランスのいい食生活、だと。



なぁ~んか、なぁ……

子どもがミルクを飲まなくなったし、外で遊ばなくなったから
ビタミンDのサプリを飲ませましょう、とか

肥満は万病と医療費高騰の元だから
精神障害と自殺のリスクはあるけど、とりあえずヤセ薬を飲んでもらいましょう、


そして今度は、みんなどうせ野菜も果物も食べないから
ちょっとだけ食べれば癌予防の効果が上がるようなマジック野菜を作りましょう……って、

科学者の方々、このごろ考えることの方向が本末転倒してません?
2008.10.28 / Top↑
豪医師会は
髄膜炎や肺炎を引き起こすバクテリアに抵抗するための肺炎双球菌ワクチンを
喫煙者に無料で提供すべきだ、と。

Doctors push to give smokers free vaccines
The Canberra Times, October 25, 2008


スモーカーは肺炎双球菌に対する保護機能が低下するために
こうした病気にかかりやすいことから、
既に豪当局はスモーカーに同ワクチンを推奨していますが、

このたびの医師会の主張は
「タバコを吸う人を責めても効果は薄いので、
そろそろリスクを最小化するためには
救いの手を差し伸べる戦略に切り替えましょう」というもの。

        ―――

メタボリック症候群という言葉によって肥満は病気になりましたが、
そういえば喫煙はそれ以前からニコチン依存症という病気になっていましたっけ。

無料というところが一見すると思いやりのように見えて
でも発想としては、恐らく一歩先には義務化もチラついているから無料なのだろうし、
いずれはタバコを吸うのは自由だけど、社会に医療費負担をかけるのだから
「その自由と引き換えにワクチン接種を受けなさい」ということになり
ワクチン接種証明書がないとタバコが買えなくなるとか、

(その場合、たとえワクチンに副作用が判明しても
 タバコを吸うリスクをもともと引き受けているのだからとして
問題にならないのでしょうし。)

英国で精神障害や自殺の副作用リスクが指摘されても
肥満対策としてヤセ薬がNHSで解禁されたことを思えば、
レストランでデザートを注文するためには
肥満予防のワクチン(これからゼッタイ出てくるでしょう)接種証明書または
肥満予防のヤセ薬(今後“副作用が少ない”新種が出てくるのでは?)服薬証明書または
肥満にならない遺伝子操作(既に可能というニュースどこかで見たような)済み証明書を
提示するように求められるようになるとか──?

そういえば日本のメタボ検診のスタート時に
「健康ファシズム」だと誰かがどこかで批判していたっけ。

【追記】
肥満予防のワクチンはやっぱり研究されているようなので
以下に記事をTBさせていただきました。
2008.10.28 / Top↑
たぶん一般的な子育てや、
障害のある子どもの子育て、
障害児・者のケアや高齢者のケアのいずれにも
形を変えて当てはまるのではないかとは思うので、
ちょっと乱暴ですが、ここでは便宜上
それらを全て「介護」という言葉に含めさせてもらって。


介護者による虐待(その最たるものとして殺害)が起こって事件になると
社会は「どうして支援が間に合わなかったのか」と専門家や行政の責任を問い、
「助けを求めることも出来たのに」と介護を抱え込んだ家族をいぶかるのですが、

その一方で、
介護者の姿に「献身的な親の愛」や「美しい家族愛」を見ては感動・賛美し、
暗に「介護が苦にならないのも深い愛情があればこそ」というメッセージを
日常的に送るのも、また社会です。

社会は介護者に対して2つのスタンダードを使い分けているのではないでしょうか。

介護者が虐待や殺害行為に及ばずに介護負担を抱え込んでいる限りは
賞賛や拍手と同時に「やっぱり家族介護がなにより」
「愛さえあればどんな過酷な介護だって」などのメッセージが送られて
介護者が悲鳴を上げたりSOSを出す声を封じています。
そうして介護に苦痛を感じる自分は愛情が足りないのだと介護者が恥じたり
自責や罪悪感を覚えなければならないプレッシャーが日常的にかかっているのだけれど
その結果として限界を超えた介護負担を抱え込み虐待や殺害に至ってしまった場合には、
「なぜ抱え込んだ」と今度は一転、抱え込んだことを責められる──。

社会のダブルスタンダードによって
介護者は一種のダブルバインドの状態に置かれているのではないでしょうか。

しかし、
そのような社会からのプレッシャーがなくとも、介護者は
自分自身の中で既にダブルバインド状態で葛藤しているのです。

介護を自らの直接体験として知らない人は
「人は思いにあることを全て行動にすることができる」という重大な誤解をしがちで、
遠方に住んで自らは介護負担を免れている親戚が介護者の不足を責めるという
よくありがちな場面も、この誤解によるものだろうと私は考えるのですが、

介護を自分の直接体験として知っている人は
そんなことは誰にも不可能だという事実を骨身に沁みて思い知らされている人でもあって、

「こうしてあげたい」、「ああしてあげられたらいいのに」と
どんなに頭で真剣に考え、どんなに心に念じても、精一杯の努力をしても、
生身の人間である介護者にできることには限界があります。

思いの全てを行動にして実現することは、どうしたって無理なのです。

そのために、たいていの介護者は「もっとしてあげたい」という思いと
「でも、そこまで頑張れない」現実の自分との相克に苦しんでいます。

その下敷きが既にあるところへ
社会が暗黙に理想とする「自分を棄てて我が子や家族のために尽くす」美しい介護者像が
「自分も本来そうあるべき姿」として内在化されてしまうと
介護が苦しくなればなるほど介護者は自分を責め、罪悪感に囚わることになります。

助けを求める声を奪われ、
ますます頑張り続けるしかないところへと追い詰められてしまうのです。


介護は、
その役割を担う人への肉体的、精神的、社会生活上の負担を伴って日々営々と続く営みです。
個々人の愛情や努力や能力・資質に帰するのではなく、
避けがたい負担がそこにはあるのだという現実を現実として認め、
それを前提に介護者自身への支援が制度の中に位置づけられていくことが
必要なのではないでしょうか。

そして世間の人には
介護や子育てを考えたり議論する際に、
そこに自分の美意識を持ち込まない、ということを意識してもらえないでしょうか。

美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎないのだから。
2008.10.27 / Top↑
月刊誌「介護保険情報」10月の「動静」欄(P.74)によると、
6月に開催された第50回日本老年医学会学術集会
シンポジウム「高齢者医療の現状と将来:介護の現場・医学・行政からのアプローチ」の中で、
東北大学病院老年科の大類孝氏が介護保険導入前後の「介護疲れ殺人」の現状を報告している。

その欄に紹介されているグラフが分かりやすいのだけれど、
出典元のthe Journal of American Geriatrics Societyで元論文にヒットできなかったので
大まかに言葉で説明すると、

1997年から2007年までの介護疲れ殺人件数のグラフは
最初の4年間が10数件で漸増、左に平坦な稜線の延びたM字型を描く。
2つのピークは2002年と2006年。

2002年のピークの後、2004年に一旦1997年水準まで下がった後で
20数件の2005年を経て、2006年には急増して30件を超える。
2007年もこの中では2番目の高さで30件。

「介護保険制度は介護者の負担感を軽減するものにはなっていない」
「特に寝たきり状態や認知症の場合は、
患者自身の社会生活のみならず家族を始めとする介護者の生活をも脅かし、
時には家庭崩壊をも引き起こすような重篤な疾患であることを再認識すべきである」と
大類氏は訴えている。


専門家でもなんでもない spitzibara が
ごく常識的な生活感覚で考えてみれば、
このM字型というのは、

2000年に介護保険ができて徐々に社会に浸透することによって2003年、2004年には
実際に介護疲れ殺人の増加を一旦もとの水準まで下げることが出来ていたのに、
2005年の総選挙での自民党の圧勝、それを受けて勢いづいたコイズミ改革……と
弱者切捨てへと向かう世の中の空気の急速な冷え込みと、

もっと直接的には
社会保障費の削減目標を受けた2006年の介護保険制度の改正で
介護保険も給付抑制の方向に動いたことが
2005 、2006年と再び介護疲れ殺人が増加に転じた要因なのでは?

そういえば障害者自立支援法や後期高齢者医療制度が相次いで決まって
私の周りでも人と人が顔を合わせれば
「貧乏人と年寄り、病人、障害者は死ねというのか!」と
激しい怒りの声が上がっていたのが、ちょうどその頃だった。

そういう統計があるのかどうか分からないけれど、
障害者自立支援法の成立以降、
親が障害のある子どもを殺して自分も死ぬ心中事件は
相当な数、見聞きしたように思うから、
誰かが障害児・者の介護者による殺人件数を大類氏のようにデータ化してくれたら
同じようなグラフが出てくるんじゃないだろうか。


        ――――――


福岡で発達障害のある子どもを母親が殺した事件から
「親が障害のある子どもを殺す」ことについて、
あちこちで議論が起こっていて、

あの事件を機に「親が殺した」「親が子どもを殺す」と
急に議論が起こっていることそのものに、ちょっと抵抗を感じることがあるのは

親が障害のある子どもを殺す事件なら
ここ数年、ずいぶん多発していると思うのだけど、
子どもを殺した後で親自身も自殺して「心中」ということになれば
世間もあまり「親が子を殺した」とは騒がずに、
なんとなく不問に付してしまうような空気があるんじゃないのかな、ということ。

親自身が死んでいようと生きていようと、
「親が子どもを殺した」という事実は変わらないはずなのに、
「連れて一緒に死ぬこと」はなんとなく許容されているのだとしたら、

そこでは「親が子どもを殺すこと」について
社会(世間か?)の側がダブルスタンダードを使い分けているのではないのかな、ということ。

そして、そのダブルスタンダードは
障害児・者の親や高齢者の介護者を縛ったり追い詰めている
介護や子育てを巡る世間のダブルスタンダードとも
もしかしたら繋がっているのではないのかな、ということ。

(介護を巡る社会のダブルスタンダードについては次のエントリーで。)
2008.10.27 / Top↑
乳幼児に嘔吐や下痢を引き起こすロタウイルスに抵抗するワクチンが
2年前に市場に出回るようになってから
入院やERへの受診が激減している、との報告が出ています。

本来は生後2ヶ月、4ヶ月、6ヶ月の3回にわたって飲むことが推奨されているワクチンですが、
調査段階で3回とも飲んでいる子どもは非常に少なかったにも関らず
1、2回でも飲んで感染者が減ることによって
ワクチンを飲んでいない子どもにまでワクチンの恩恵が広がっている格好で、
その効果の大きさには調査を行ったCDC(国立疾病予防管理センター)も
ビックリしているのだとか。

Vaccine slashes diarrhea illness in kids
The Washington Post (AP), October 26, 2008

記事には世界中で1日に1200人がロタウイルスの嘔吐下痢症で死んでいると書いてあるし、
いくつかの製薬会社が競って新ヴァージョンを開発しているようだから、
このワクチンも、また義務付けの方向に向かうのでしょうか。

でも、本当にそれほどして防がなければならないほどの重病なのかなぁ……?


ワクチン開発関連で気になるニュースを取り上げてあるブログを見つけたので
以下にTBさせていただきました。
2008.10.27 / Top↑
金曜日のエントリー新・着床前遺伝子診断MoT:遺伝病はもちろんアルツも糖尿も癌も心臓病も弾けるぞ
英国の同様の議論を紹介したばかりですが、

米国では遺伝子チップを使った胎児に対する出生前遺伝子診断技術が
実用に供するには時期尚早との批判をよそに既に提供され始めていて、
これまでより多くの遺伝病を発見できる、
病気が分かることによって生まれてくる子どもの治療に備えることができる、
などの利点が強調されている一方で、
不確かな情報で親を振り回すことになり、
結果的に正常な胎児が中絶されてしまうリスクも含めて中絶が増える、
将来の「カンペキな子供」を求めるデザイナー・ベビーに繋がる、
正常からちょっとでも違う状態をも許容しない社会に向かっていく、などの批判が出ている。

検査は1600ドルで(保険は利きません)
奇形または知的発達遅滞を起こす150の遺伝病と
その他の病気、行動障害を検出することができる、とのこと。

Fresh Hopes and Concerns As Fetal DNA Tests Advance
The Washington Post, October 26, 2008


結果の正確さがいまだに確認されていないことや倫理問題などから
広く使うのは時期尚早との指摘を受けながら
すでにこの検査を一般に提供しているのは
Texas州HoustonのBaylor College of Medicine と
Washington州 Spokane のSignature Genomic Laboratories。

そして、その2つに続いて静かに検査を始めているのがGeorgia州AtlantaのEmory 大学。

前者2つについて、なるほど、いかにもなぁ……と思うのは
Texas州といえば無益な治療法があって
去年 Emilio Gonzales 君の事件があったところ。

Washington州といえば言わずと知れたGates財団のお膝元で
世界中の保険・医療を費用対効果計算で再点検しようというWashington大学のIHMEならずとも
第2のシリコンバレーとなりつつあるSeattleに
“科学とテクノ万歳”のトランスヒューマニスティックな文化の素地があることは
容易に想像がつきます。
それを象徴するかのようなAshley事件の舞台もSeattleでした。
Oregonに続いて自殺幇助を合法化しようとの動きが活発化しているのもWashington州。

特にIHMEの価値観
社会的な要因を全くカウントせずに病気と障害を社会の負担と見なすものです。

未だに正確な結果が出せるわけではないし、
ある程度の病気の予測ができるとしても、それはあくまでも可能性に過ぎないというのに
それを承知で早々と検査を提供するということは
仮に不確かな情報で正常な胎児が堕胎されることになったとしても、
それでもなお遺伝病や障害を持った子どもが生まれないことのメリットの方が大きいと
“いかにも”なリスク対利益の計算があるのではないでしょうか。

それならば、それは、やはり
正常から外れる状態を許容しない社会に繋がり、

生まれてくる子どもだけではなく、いずれは
人生途上で病気になったり障害を負ってしまう人に向ける目も
ネガティブなものにしていくのではないでしょうか。

Baylor大の関係者は次のように言っています。

この検査で分かる障害の中には負担の大きなものがあります。
一生介護が必要となるような障害です。
一生歩くこともしゃべることも自分で食べることも出来ないまま。
そういう子どもが家族に与える影響は大きいですよ。
「前もって教えてもらいたかった。親の人生が台無しになったじゃないか」と
患者さんに言われますよ。
そういうことがあるから女性は知りたいんですよ。

生の始まりのところでの、この感覚が
そのまま生の終わりにも当てはめられれば
先月、英国の哲学者が言ったように
「家族や社会に迷惑をかける認知症などの要介護状態になった人には死ぬ義務がある
という話になるのではないでしょうか。
2008.10.26 / Top↑
NHSが解禁したというニュースに
こういうのは発想の方向そのものが間違っているんじゃないかという懸念を
NHS新たにヤセ薬を解禁という7月のエントリーで書いたばかりなのですが、

このほど
深刻な精神障害を生じ、自殺にまで至るリスクが高すぎるとして
The European Medicines Agency (EMEA:ヨーロッパ医薬品審査庁)により
抗肥満薬 rimonabantは使用が差し止められたとのこと。

Anti-obesity drug use suspended
BBC, October 23, 2008


英国ではこれまでに肥満や太りすぎの人97,000人に処方されており、
現在服用している人だけでも約2万人いると推計されているのですが、

治験に参加して、この薬を飲んでいた人の中から
6月から8月の間に5人もの自殺者が出たと言います。

製薬会社自身のものも含めた検査データで
Rimonabantを飲んでいる肥満や太りすぎの人に精神障害が起きるリスクは2倍。

製薬会社はEMEAの販売差し止めの決定に従うと言っていますが、
それでもやはり、この薬を
「大きな広がりと増加傾向を見せているのに、まだ対応できていない医療ニーズへの
重要な治療であり対応策である」とする見解は変えないようです。

リスクはそれ以前から指摘されていたのに、
NHSはなぜ充分に安全を確認することもなく解禁してしまったのでしょうか。
2008.10.25 / Top↑
ヒト胚をES細胞研究に使えない米国では
生殖補助医療で出る余剰胚が多数、冷凍保存されていて、
その胚を不妊に悩む夫婦が提供してもらって子どもを持つことに
連邦政府が力を入れ、斡旋する団体などに資金援助を行っている。

それを呼んで「胚提供」または「胚の養子縁組」。

冷凍されている余剰胚の約1%が
そうした形で不妊の女性に提供されて、すでに314人が生まれていると推計される。

人工授精よりもはるかに安価で、成功率も高い。
ドナーを(つまり胚の生物学上の両親についての情報)を選ぶこともできる。

胚性幹細胞研究に反対する立場にとっては
望ましい胚の利用の道であるという声もあれば、

いや、胚の養子縁組と幹細胞研究への利用とは
両立しないわけではない、どちらにも使えばいいではないかという声もある。

Embryo adoption grows as option
The Detroit News, October 21, 2008


しかし、凍結保存されている胚の方から見れば、
自分を選んでくれる親希望の誰かが現れるかどうかが、
人として生まれ育っていくことができるか
それとも研究利用されて破壊されて破棄されるかの
運命の分かれ目だというのだから、

それはつまるところ
人として扱われるか物として扱われるかの境目が
胚の養子縁組で選んでもらえるかどうかの1点にあるということであって、

改めて胚を研究利用することのきわどさを痛感させられるようにも……。


それにしても「余剰胚」という言葉も「臓器不足」と同じく
妙な言葉ですね。

「余剰」と呼べば、あたかも、
必要以上にあるなら本来の目的以外に有効利用するべき「資金」とか「物資」と同じように思えてくるし、

「臓器不足」と言えば、まるで
本来なら欲しい人には十分に行き渡るべきものなのに、
足りていない現状が異常だから急いで正さなければならないかのように聞こえる。
2008.10.25 / Top↑
ロンドンのBridge Center で開発された
着床前遺伝子診断の新らしい技術 “遺伝MoT”とは
IVFで作った胚が2日めになったところで、
それぞれの胚から細胞を1つずつ取り出して
karyomappingと呼ばれるテクニックで遺伝子を解析、
その後に健康な胚を着床させる、というもの。

現在の着床前診断と違い、ほんの数週間で完了する。

現在の着床前遺伝子診断で分かる遺伝病は限られているが、
遺伝MoTでは、ほとんどの遺伝病のスクリーニングが可能になり
嚢胞性線維症、筋ジス、ハンチントン病などの重病を避けられるだけでなく、
糖尿、アルツハイマー、心臓病や癌などの
一般的な病気にかかる確率が高い胚も見分けることが可能。

また不妊の女性には
最も正常発達の可能性が高い胚を選ぶことによって
妊娠の確率を上げることができる。

当然ながら「デザイナー・ベビー」に繋がるという懸念や
同意を与えることができない胎児の健康に関する個人情報の扱いを巡る
倫理問題が指摘されています。

このテクニックの開発を率いたAlan Handyside教授は
「現在このテクニックを固めているところで、上手くいけば革命的な技術となる」と語り、
ヒト受精・胚機構にライセンスを申請する予定で、
実現の暁には1500ポンドで受けられる。

もっとも、同じBridge Centerの他の科学者の話では
3つの条件を満たす胚を選ぶためには何千もの胚を作ることが必要となり
現実にはそんなことは不可能なので
所詮デザイナー・ベビーは無理なのだとのこと。

Genetic MoT will detect disease in unborn child
By Mark Henderson, Science Editor
The Times, October 24, 2008


Timesには、この記事と同時に、
Bristle大学の医療倫理の専門家による
“遺伝MoT”技術に疑問を投げかける記事が掲載されており、

“滑り坂”にならないためには
子どもの遺伝子を選ぶ技術ができたからといって使えばいいというのではなく
現実に機能する制約を設け、きちんと監督することも必要だし、
親の側にも常識を持った対応が肝要だろう、と。

There is no guarantee of the perfect child
By Ainsley Newson, Commentary
The times, October 24, 2008

Newsonはまず最初に
技術的にそんなことは出来ないのだから、
この技術がデザイナー・ベビーへの入り口だという誤解をするまい、と呼びかけます。

その次に、どの病気について、この技術を使うのかを慎重に考えなければならないが、
一度に複数の病気のスクリーニングを行うことが妥当なのか。
また命に関るほどではない慢性病のスクリーニングが妥当なのか。

選択が可能であるかぎり、
親には可能な限り最良の子どもを持つチャンスが与えられるべきだろうか。
しかし、予め設定した条件で子どもを選ぶということそのものが
親になるということにおける最も大切なものに反しているように思われる。

子の遺伝子情報がカルテに記載されてしまうと
親にはアクセスする権利があることになるが、果たして、それでいいのか?

今のところ、子どもの遺伝子診断は
子ども自身が判断できる年齢になるまで行わないで置くのが通例だというのに
その子が存在する以前から遺伝子情報全体が明かされてしまうことになれば
プライバシーとデータ保護の問題が出てくる。

この技術を適用する病気の種類と親に提供される情報のレベルについては
ヒト受精・胚機構やヒトゲノム委員会などの政府機関による慎重な監督が必要である。

「パーフェクトな子ども」の保障などありえないのだ。
だからこそ、たいていの親はごく普通に子どもを産んでいるのである。


私が共感したのは
Newson氏が冒頭に書いている問いの1つで
「いったい、どれだけの情報を手に入れたら満足するのだ?」

それから医療倫理の専門家にして
「親は常識を」という呼びかけにも。

「条件付けで子どもを選ぶことそのものが
 親になるということの何か大切なものに反している」という指摘にも。
2008.10.24 / Top↑
去年の暮れのエントリー象牙海岸の悲惨で取り上げた
2006年夏の事件ですが、

アフリカはもう何年も先進国のITゴミなど有害ゴミの捨て場と化しており、

象牙海岸に無造作に投棄された毒性ゴミによって
ゴミの中から金属片を漁るのを仕事にしている最も貧しい子どもたちを中心に
多くの死傷者が出た、という事件。

こうした有害ゴミは、いくつも国を経由し、
いくつかの会社の手を経て運ばれ処理されていくので
その過程で責任の所在が曖昧になったり、
言い逃れで責任を擦り合ったりということが起こっていたようですがが、

この事件で2人が有罪判決を受けた、とのこと。
1人は禁固20年、もう1人が5年。

他に7人に無罪。



アムステルダムで本来すべき処理にはお金がかかるために
そのまま船に積んで送り出したオランダの会社 Trafiguraは
民事訴訟では去年2億ドルで和解していますが、
被害者への同情から出したものだとして、ライアビリティは認めていません。

Trafiguraが処理を依頼した地元企業 Tommyが勝手にやったことだというのが言い分。
今年の3月、象牙海岸の上訴裁判は
Trafiguraを有罪とするには証拠不十分だとの
判断を下しました。

今回20年の禁固刑を言い渡されたのは、Tommyのトップです。
TrafiguraにTommyを紹介した、地元の港で働く人物が5年。

去年の暮れの記事では10人だった死者は
この記事では17人に増えています。
呼吸障害や嘔吐などの被害を受けた人は数千人。

       ――――       ――――

結局“トカゲの尻尾切り”に終わったということでしょうか。

去年読んだ記事でも今回の記事でも、
結局どこから出たゴミなのかという情報は出てきていません。
それがまた不思議であり、不気味でもあります。

日本では報道されることのない類のニュースですが(それ自体、なぜだろう……?)
せめて知っておきたい。

グローバリゼーションや新自由主義の背後ではこういうことが起こっている──。
2008.10.24 / Top↑
90年代にすばらしい薬だともてはやされた新世代抗ウツ剤(プロザックなどのSSRI)も
鬱病の若者に自殺念慮を生じたり、
Harvardの著名児童精神科医Biedermanが
製薬会社からの金銭授受を隠していたスキャンダルなどで
最近ではトンと売り込みにくくなったが、

強迫性障害のある子どもでは、リスクよりもメリットがはるかに大きいというのに
それを親に説明しても説得力がないのは
メディアがリスクばかりを取り上げるからだ、とこぼす精神科医も。

Prince of Wales 病院の青少年科の精神科医Michael Dudleyが
特に鬱病に焦点を当ててSSRIのリスクとメリットを調べるべく
様々な研究結果を検証したところ、
鬱病の場合と違って、強迫性障害の人に使うと効果があった、と。

で、結論はというと、

「これらSSRIは使い出はあるということ。
ただ、用心して使いましょう、ということ。
ちゃんと警告をつけて、必ずモニターを行う。
一時見られたような、お気楽な使い方をしてはいけない。
親には明快かつ正確な情報を提供し、
確かでもない効果を安売りするのではなく、薬の限界もちゃんと伝える。
この分野で尊敬されていて、なおかつ製薬会社のヒモつきでない学者で
私と同じ意見の人は沢山いる」


笑えるのは、この結論の後にDudley氏が

「私は製薬会社から一切資金提供を受けていないから
便宜を図るためにモノを言う必要などないのだ」と
付け加えていること。

考えてみれば
この記事の冒頭で記者が書いているように90年代の
「そんなにすばらしい薬なら
水道水に混ぜてみんなで飲んだら?
と思わせるほど」の騒ぎが尋常ではなかったのであって、

「医師は安易に効果を安売りしたり、お気楽な使い方をせず、
正直に情報提供して慎重に使いましょうね」というのは
もともと、ごく当たり前の常識のはずなのに

そんな当たり前のこと言うだけのためにも「私は製薬会社のヒモつきではない」と
いちいち断らなければならないというのも、なんだか可笑しい。

それに、妙なもので、
わざわざそこを強調されると、逆に
ヒモっていっても、製薬会社からもらうお金だけじゃなくて、
たとえば業界の権力構造の中を泳ぐためのヒモっていうのも
ないわけじゃないような気もしてきたりして、

そういえば、検証結果そのものは
「抗ウツ剤でありながら、鬱病には使えないけど強迫性障害に限っては使える」と
言っているようにも読めないことはないのに、

記事に出てくるこの人の「結論」は
病気を限定することなく「SSRIは有効だ、使い方の問題のみ」と、
微妙に変化しているところが気になったりもして……。


These drugs can work, but must be used with caution
The Sunday Morning Herald, October 23, 2008
2008.10.23 / Top↑
ああ、こういうのもアリなんだなぁ……と目からウロコ。


某所で耳にした話では
司法書士など専門家のアドバイスを受けて、
親の会が立ち上げるNPOでは主に身上監護を担っていこうという話だとか。

旭川荘の親の会、やるなぁ。すごいなぁ。

         ―――――

この件で検索していたら
旭川荘児童院では他にも「愛の訪問里親」制度というのも始められていた。

詳細は児童院通信9月号の2ページ目に。

法的な縛りや意味合いの一切ないボランティアで
重症者と関る上で必要な知識や技術に関する講座を受けた上で里親として登録した人が
行事や学校の参観日に親代わりとして訪れたり食事介助や散歩などで
親の高齢化や死去で面会者がなくなる入所者に外部の人との関りを、という趣旨。


かつて見学に行った時に
旭川荘では布オムツを使用していて、
洗濯から上がってきた膨大な量のオムツを畳む仕事を
ボランティアの人たちが担ってきた伝統があると聞いた。

そういう伝統があってこそ、
長年、旭川荘に通っているボランティアの人たちの中から
おのずと生まれてきた制度なのかもしれない。

自立支援法で施設の経営状況が厳しくなり
介護職も看護職も不足しがちな状況の中で、
どの施設もが飛びついたりすると同名の別物も出てきて
職員がするべき仕事を安易にボランティアに頼ることにもなりかねない懸念が
ないわけではないけれども、

それまでのボランティア活動の継続の中から
自然に「私はこの人のことがなんだか気になるのよ」という気持ちになってくれた人が
その人の「訪問里親」となって気にかけてくれるのであれば、
親亡き後ならずとも、入所者の生活が広がり豊かになる。

娘の施設を見ていると、
施設職員の方々の中にも利用者さんとの繋がりが仕事上のかかわりで終わらず
異動や退職をされた後にも「どうしているかと気になって」と
覗いてくださったり行事のお手伝いに来てくださることも多い。

そういう人が「訪問里親」となってくださるのもまた、
親にとってありがたく、将来への不安軽減につながるような気もする。

施設が閉鎖的な空間になるのも防げるし……などと考えていくと
「親の安心のために」というセコさ(エゴ?)がどうも先行しているなぁ……と
我ながら鼻についてもくるのだけど、

親が障害のある子どもを殺すことを、そのことの是非だけで論じて
ゼロか100かの議論をするよりも、

親だってそれが正しくないことだと判っていないわけでもなければ
殺したくて殺すわけでもないのだから、

ゼロか100かの間で見過ごされている障害児・者親子の置かれた現実を
その現実に則して細かく丁寧に理解していくことと同時に
どういう支援なり仕組みがあったら親が殺さずに済むのかという手立てを
丁寧に考えていくとしたら、
ゼロと100の間には、まだまだ無限の可能性があるはずで、
そっちの方が本当は大切なことなんじゃないだろうか。
2008.10.23 / Top↑
英国のジャーナリストKatharine Whitehorn
米国で唯一医師による自殺幇助を法律で認めているOregon州に出かけて取材し、
英国のリベラル紙the Guardian で論評しています。

世界で初めて尊厳死を認めたオランダでは
死が差し迫っていることという条件も付していないけれど、
現在、オランダほどリベラルではない条件付き尊厳死を認めているのがベルギー、スイス。

(2010年2月追記:その後2009年米国ワシントン州とモンタナ州、ルクセンブルクが合法化)

しかし、Whitehornは英米では無理だと考えていたと言います。
その理由がちょっと可笑しくて
まず英国人は「仕事ができないから」。

具体的には
「無力な高齢女性に、ウンコまみれのシーツすら、ろくに替えてあげることができない国で
その女性が本当に自己選択によって死ねるなんて保障できるものだろうか?」と。

そして米国人は「商売に走りすぎるから」。

そう考えていたWhitehornは米国Oregon州の尊厳死法が気になって
ついに実際に出かけて取材してみた、というのです。

取材を終えた彼女の結論を先に抜いておくと、

The Oregon way of dealing with death is principled, comforting and a model of how things might be, once we face up to rethinking the end of life as we have rethought the beginning.

Oregon式・死への対処法は原理原則によって整然と行われ、心に救いをもたらすものである。もしも我々が、生命の始まりを再検討してきたように、生命の終わりについても正面から考え直してみようとするのならば、おそらく1つのあるべき姿のモデルだろう。

「生命の始まりへの再検討」は完了形で表現されており、
ヒト受精・胚法の改正などを通じて英国に定着しつつあると思われる
「障害児は産まれないように」という動きは
この人にとっては既定路線なのだなぁ……と、
私はそちらの方が目に付いて

やっぱり
「死の自己決定権」や「無益な治療」論は「新優生思想」と対になっているなぁ……と
前から感じていたことをこのコメントに再確認した気がしました。

How to die ‘the Oregon way’
The Guardian, October 13, 2008


Oregonの尊厳死法についてはずっと気にかかっていますが、
だからといって直接自分で詳しく調べてみるほど入れ込めないので、
この長文の記事から、Oregonの自殺幇助の詳細を以下に拾っておくと、


・the Death With Dignity Act の成立は1994年、施行されたのは1997年。

・自殺幇助の要望は1回行われた後に2週間を置いて、もう1度、計2回行われなければならない。2名の証人の署名が必要で、そのうち1人だけは親族でよい。(子どもが結託して親を死なせるのはこれで防げる、とWhitehorn。)

・医師は患者の死が迫っていること(6ヶ月以内?)と、患者の精神状態が健全であることを確認しなければならない。(精神状態に懸念がある場合には精神科医への紹介が義務付けられているが、それが行われず鬱病患者に自殺幇助が行われていた可能性が報道されたばかり。)

・医師による自殺幇助(PAS)が受けられるのはOregon州の住民のみ。(死ぬ目的でOregonにやってくる人を排除するセーフガードだとWhitehorn。)

・97年の同法施行からこちら、実際に“Oregon方式”で死んだ人は“驚くほど少なく”431人(死者1000人に1人)。致死薬を要求した人のうち、実際にその薬で死んだ人は10人に1人。

・もっとも、実際に行われている自殺幇助はPASのみではなく、the Hemlock Societyという団体は周囲へのショックの少ない餓死による自殺をサポートしている。

・一方、Oregonはホスピスの充実度で全米第2位を誇る。ただし在宅での緩和ケア中心なので病院でのホスピスでは順位が低い。Oregonの調査では、PASの合法化以降、前より痛みの除去に積極的になったという医師が多い。PASを求める人の86%はホスピス患者で、当初はPASに反対姿勢だったホスピス側も現在はほぼ受け入れている。自らの信条によりPASを否定するホスピス看護師は、担当を代わることができる。家族がケアできない高齢者には、他の家族がケアを引き受ける、児童福祉における養親のような制度もある。(このホスピス関連の部分にはWhitehornの取材や解釈が非常に甘いか、または恣意的なのでは、という感じも。)

・尊厳死法の設立に尽力した尊厳死推進団体は Compassion and Choice。(全米に類似法を作ることを目指して活動しており、現在はWashington州で尊厳死法設立に向けた動きを支援中。)

・PASを選ぶ患者の理由は、意外なことに「取り除くことの出来ない苦痛」よりも、男性の場合は「正常な身体機能が失われて他者の世話にならなければならないこと」、女性の場合は「喜びと満足を与えてくれるものが自分の人生から奪われてしまったことの絶望感」であることが多い。

・法律が出来た当初、貧困層や意思決定の難しい人に死への圧力がかかると批判されたが、実際には反対の現象が起こっており、PASを選ぶ人には高学歴で意思決定能力が高く、医療保険も充分で医師との関係も良好な患者が多い。(貧困層には医師と良好な関係を築くだけの医療費がない、避けがたい死という条件によりエイズ、MSや認知症がカウント外になるためか、とWhitehornは書いています。)

   ---        ---

読んで、ものすごく気にかかったのは
男性の場合「正常な身体機能が失われて誰かの介護を受ける状態になること」が
PASを求める動機として多い、という部分。

この動機そのものが
「死が迫っていることという条件がエイズやMS、認知症患者を対象外とするセーフガード」だとする
Whitehornの楽観論を否定していると思うのですが、

当ブログで何度も取り上げてきたように、
男性中心社会にありがちな競争原理、能力至上の価値観の裏返しとして、
生産性を失うことや「正常な身体機能」を失うことが人間としての誇りの喪失に直結し、
その主観がそのまま他者の状態への客観的な価値判断にずれ込んでいくと
健康な人たちが勝手に「あんな状態になってまで生きているのは本人にも不幸」と決め付け、
さらに「死んだ方が本人の幸せ」だと
脳死と植物状態の境目も、植物状態と重度障害の境目もぐずぐずにして
「無益な治療」論の拡大・浸透へと繋がるのではないでしょうか。

それから、もう1つ、
記事冒頭にWhitehorn自身が提起していた疑問は
PASを巡る諸条件が整えられたとしても、
依然、それ以前の問いとして残っているのではないか、ということ。

障害者や高齢者に充分なケアを提供することができない社会が、
どうして彼らに真の意味での「死の自己選択」を担保することができるのだろう──?
2008.10.22 / Top↑
Washington州の親は自閉症の子どもの行動療法(ABA)に
毎週1000ドルを支払っていて、

Indiana州の親は年間3000ドルを払って
同様のセラピーを健康保険でカバーしてもらっている。

──というのが、自閉症児への行動療法を巡る米国の州による地域間格差。

記事の中には、夫婦ともフルタイムの共働きでありながら
保険がカバーしてくれない子どものセラピー料金を捻出するために
住居費を浮かせるべく親の実家に同居を余儀なくされているという夫婦も。

この2年間にTexas, Pennsylvania, Arizona, Florida, South Carolina, Louisianaの6州が
自閉症の子どものセラピーを保険でカバーするよう求める法律を通した。
子どもによっては年額5万ドルの保険料。

Autism Speaks では、2009年までに少なくともさらに10州において
同様の法律の成立を目指す。



読んでいて「なんだかなぁ……」とひっかかったのは
なんで行動療法が保険でカバーされにくいかという事情のところで、

もともと自閉症には治療法はないと考えている医師がほとんどで
行動療法の効果とか、効果がある年齢層について科学的なエビデンスが乏しいとか、
中には怪しげな療法を売り歩くセラピストもいるから
保険会社としてはチェックを厳しくして
2年もやって効果がなければ無駄なお金だと考えざるを得ないとか……。

あー、でも薬物の投与だったら
こんなにウザいことを言わずに出すんじゃないのかなぁ……と
ハスに構えて読んでいたら

保険会社の広報者が
科学的なエビデンスは次々に出てくるから
特定の療法をオーダーする法律は業界としては歓迎しないと述べた後で、
そもそも行動療法は医療なのか教育なのか、と疑問を呈している。

米国小児科学会もABAについての臨床報告は出しているものの
“教育的介入”と表現しているとのことで

そういう状況に対して、
自閉症への対応を学校から医療へ移そうという運動が起きているところなのだとか。

一方、Microsoftなどの大企業や米軍の保険では行動療法の効果を認めて
毎月受けられるように相当額の給付を認めたり、
セラピストの定義の範囲を広げたりしている。

連邦政府は先ごろ、
精神障害者への給付をその他の患者と平等にするよう保険会社に求める法律を作ったが
自閉症は心理症状ではないのでこの法律は当てはまらないと保険会社。

             ――――

自分が不勉強で、きちんとした知識がないからなのかもしれないけど、
こういうニュースを読むといつも不思議なのが
障害のある子どもに最も制約の少ない環境で最もその子に適した教育を無料で受ける権利を
保障しているはずのIDEAって、
こういう話のどこに繋がっているんだろう……ということ。

例えば肢体不自由の子どもなら
学校で理学療法や作業療法を受けられると聞いたような気がするのですが、
それなら自閉症児の行動療法は、それと同じ話にはならないのかな。
それとも地方のスクール・ディストリクト毎に費用の捻出が難しくて
実際には理想は理想であって現実には機能していないとか、
学校教育の枠内では時間数が少ないとか、
これもまた地域間格差があるという話なのかな。

教育と医療の連携を、まさか保険業界の存在がジャマしているとか?
2008.10.21 / Top↑
当ブログでも、いくらか追いかけてきた英国のヒト受精・胚法改正議論ですが、
来週29日に議会での投票が行われるようです。

(英国議会で法案が通過して法律が成立するまでのプロセスが理解できていないので
 最終段階がどこで、そこまでのプロセスのどの段階なのかがイマイチ分からないまま
 ニュースを追いかけてきたのですが、そろそろ終わりに近いんじゃないかと……。)

で、このニュースは
その投票に先立って法学者、倫理学者ら85名が連名で
人工妊娠中絶の際に医師2人からの許可を必要とする認定条件を撤廃せよ、
また経験のある看護師(助産師?)にも中絶処理をさせることを認めよ、
と議員らに求めた、というもの。



40年も前に出来た認定条件は
その後の医学の進歩を考えれば「異常」だとまで言い、
これまで中絶問題で様々な議論を行ってきた80人を超える学者が
同じことを要求して声をそろえるというのも珍しいことだと書かれていますが、

これだけの学者さんたちが認定条件を撤廃すべきだとする根拠は
ただもうひたすらに自己決定権。

いわく、

医療に関する決定が本人のものであることは
現代の医療の慣行が明らかにしてきたところ。
仮にその決定が他人の目には間違っているとか常識はずれと見えても
やはりそれは自分に決める権利があるのである。

例えば
妊婦や胎児の命を救うためには帝王切開が避けられない場合ですら
女性は帝王切開を拒否する権利があると裁判所は認めてきたではないか。


この理屈、
そのまま尊厳死、自殺幇助を認めろという主張も後押ししますよね……。



2008.10.21 / Top↑
障害のある子どもの子育ての負担や親への支援を考える際に、
案外、盲点になっているんじゃないかなぁといつも思うのは
家族の中に以前から潜在している、障害とは無関係な別問題の存在。

なんの問題もなく、いつでもみんなが仲良くてハッピーで……という家庭も
あるのかもしれないけれど、たいていの家庭では、
家族の人間関係にそれぞれ複雑な歴史というものがあり、
一口には他人に説明できない、ややこしい事情の積み重ねというものがあって、

何事も起こらない平穏な日常の繰り返しの中では
そうした事情や問題は表面化しないまま潜在しているけれども、
大きな行事やアクシデントという非日常が単調な生活に裂け目を生じて
家族に大きなストレスがかかったりすると、
それまで暮らしの営みに取り紛れて隠れていたり
意識のずっと下の方にくすぶっていたものがにわかに顕在化して、
波風が立ったり、諍いが起こってしまう──。

そういう問題はどこの家庭にも潜在しているものなのではないでしょうか。

障害のある子どもが生まれたり、
ある日突然に子どもに障害あると分かったり、
その後に負担の大きな子育てが続いたりする中で
潜在していた、そういう問題が、にわかに顕在化してくる……ということが、
実は障害のある子どもを育てている家庭にとっては
案外に大きな問題なんじゃないかと思うのです。

障害のある子どもが生まれたり、
ある日突然、子どもに障害があると知らされると、
家族はそれまでの価値観や人生観を根底から揺るがされて、
それぞれが相当なストレスを抱えこみます。

当初は「頑張らなければ」「みんなで助け合おう」と緊張し、
前向きな気持ちで団結していたとしても、

それまではしなくても良かった我慢や不快を強いられながら
家族一人ひとりが新たな日常というものを再構築していかなければならないのだから、
家族が団結して麗しく助け合う状態がずっと維持できるほどに現実は甘くない。

(逆にそんな状態を長く維持できるとしたら
案外に家族の誰かだけに過度な我慢を強いている可能性があるので、
むしろ維持できなくなって早めにトラブルが起こってしまう方が
長い目で見たらいいんじゃないかという気が私にはします)

家族それぞれにストレスがかかって不安定になり当初の覚悟もダレてくる、
みんなが疲れ始めて、ぴりぴりしてくる時期というのがあって

そういう時に、
それまでその家族の中に潜在化していた、
子どもの障害とは無関係な問題が一気に顕在化してくる。

夫婦の間に問題が潜在化していれば夫婦の関係に、
嫁姑問題がくすぶっていれば嫁姑の間のトラブルとして、
親子関係の火ダネがあったとしたら、そこから炎が上がる、といったふうに

子どもの障害とは直接関係しないはずの問題が、しかし障害をきっかけに、
顕在化し家庭には修羅場が出現します。

しかも
その修羅場の間だけ子どもの障害が消えてなくなってくれるわけでもなければ、
日々の子育ての負担はその間も誰かが担わなければならないのだから
別問題が引き起こす修羅場に子どもの障害を巡る思惑やら感情までかぶさり絡まって
ややこしく錯綜するのは必定で、問題がこじれることだって多々あるでしょう。

そういう中に置かれた親にとっては、
緊急事態が2つ(時にはそれ以上)重なって同時に起こっているようなものなので、
子育てだって平常時の何倍も耐え難く
負担感の強いものに感じられてしまうのではないでしょうか。

もちろん、そちらの別問題まで支援しろというのは
無理なことかもしれないのだけれど、

せめて、障害のある子どもの子育ての負担感や支援の必要度というのが
子どもの障害像や、その子と親との関係だけで測れるものではないということを
わかってもらえないものかな……と考えていたので、

前回エントリーのThe Canberra Timesの記事でSallyさんが言っている
「世間に分かってもらえないと思うのは
 介護は生活全体なのだということ」というのは、
もしかしたら、こういうことじゃないのかな、と。
2008.10.20 / Top↑
英国でも介護者週間にはメディアがこぞって介護者の日常の姿を取り上げますが、
オーストラリアの介護者週間にもThe Canberra Times が関連記事を出しています。

オーストラリア統計局のレポートA Profile of Carers in Australiaによると
介護者は、介護を担っていない人に比べて睡眠時間が少なく、
家事にも長い時間がかかっている。

また男性よりも女性が介護を担う確率が高く、
55歳から59歳の女性の25%はが
障害のある人または高齢者を家で介護している。

Loving can lose out when caring
The Canberra Times, October 19, 2008

この記事が紹介しているのは
重い知的障害があって言葉のない22才の息子Jacksonを介護している
Sally Richardsさん、56歳。

直接、間接のSallyさんの言葉を記事から抜いてみます。

・介護者になるということは生活がそれによって決まってしまうということです。

・Sallyさん夫婦が夜きちんと眠れることは滅多にない。

・一晩に5回も起こされることだってあります。時には夜中の2時・3時に起き出して、息子の身体をきれいにしてシーツを取り替えることも。

・夫婦は交代で休みの日をとることにしていて、人から招待されても息子を見てくれる人がいなければ断ることもある。

・介護って、ものすごく辛くなる時があるんです。世間から孤立してしまうし、気持ちが大きく落ち込んでしまうことだって。とはいえ、なかなか柔軟にやりこなせている自分をラッキーだとも思いますね。泣いてしまう日もまだありますが、そういうのはだいたい尾を引かず、またやるべきことに向かいますから。

 (統計局のレポートでは主たる介護者の35%が友人との接触がなくなるといい、
  介護者の3分の1以上の人が配偶者や家族との関係が難しくなったり、
 愛する人と共に過ごす時間がなくなったと答えた、との話に続いて)

・夫婦の間のストレスは本当に大きいですよ。私たちがまだ夫婦でいること自体すごいなと思うもの。

・世間の人に分かってもらえないのは、介護は生活全体なんだということ。生活の全てが介護になるんです。

・今ではJacksonも支援者と自分のビジネスを始めて介護もちょっと一段落しましたが、最終的な問題があります。私がもう面倒を見られなくなった時に、この子はどうなるんだろうということ。

夫妻は来年6月に旅行を予定している。
その間Jacksonのケアをどうするかについては1年前から計画を練ってきた。
息子は大丈夫と安心して出発できるだけの段取りを
当日までにきっちりしておきたいと考えている。

「きっと楽しい旅行になると思います。
 夫婦の関係もリフレッシュできるでしょう」



そう──。
子どもに障害があるからこそ、
夫婦がゆっくり語り合ったり、
一緒にすごす時間をちゃんと持てることが
子どもに障害のない夫婦以上に大事なのでは、と思う。

子どもに障害があれば、
妻にも夫にも求められる「親」役割はそれだけ大きいのだから。

子どもに障害があるからといって、
誰もが平気で四六時中「親」でいられるのではなく、
「妻」であり「夫」であり「女」であり「男」であり、
また「一人の人」であることのできる時間があってこそ、
自分を見失うことなく「親」もしていられるのだから。
2008.10.20 / Top↑
オーストラリアでも介護者週間Carers Weekが毎年行われており、
今年は今日からスタートして25日まで。

政府の社会福祉部局 Centerlink
介護者支援団体 Carers Australia の共催で。

Carers Week 2008のサイトはこちら

テーマがとてもいいのです。

“……because I care”


英語の中で好きな単語を挙げてみろといわれたら、
私の頭に真っ先に浮かぶのは care と share。

特に、このテーマに使われている I care. という表現の温かさが
私は好きです。

かつて、娘が入所している施設の職員研修に講師としてお招きいただいた時に、
私は “I care.” という言葉を引っ張り出して
子どもたちへの心のこもったケアをお願いしたことがあります。

中学校時代に take care of という熟語を「~の世話をする」と暗記させられるから
care とは「世話」であると考えている人が多いかもしれないけれども、
英語のcare という言葉には、ただ「世話」というよりも
もっとニュアンスの奥行きや深みがあって、

その言葉のココロというものがあるとしたら、
私は「気にかかること」だと思う。
それも、気にしようと意識して気にかけることではなく、
意識も努力もしなくても自ずと「気にかかって仕方がない」こと。

逆に I don’t care. といえば、
そこには突き放した無関心が冷たく響きます。
I don’t care. とは「自分にはどうでもいい」ということだから。

だから、”I care” や “I care about you” という言葉は
「私にとって、あなたはどうでもいい人じゃないよ」というメッセージ。

だから、そこに込められた想いは I love you.

愛するがゆえに、気にかかる。
気にかかって仕方がないから放っておけない。
気にかかって仕方がないから見えるものがある。気付くことがある。

無言のまま着替えをさせたり食事を食べさせたりすることは
「世話をする」ことかもしれないけれども、それはケアではない、と思う。
そこには I care. という心がないから。

誰かに“I care about you.” と言ってもらえる時、
その言葉を贈られた人は、ほのぼのと温かく優しいものに包まれる。
自分が「その他大勢の一人」ではなくて「大切な誰か」なのだと
その言葉に込められた心が伝えてくれるから。

だから、何年か前の重心施設の職員研修の場で
私はスタッフの方々に向かって、
子どもたちと向かい合う時、どうぞ “I care” という気持ちを持ってやってください、
ただの機械的な世話ではなく、care の心のあるケアをしてください、と
保護者としてのお願いをしました。


I care ……あなたは私にとって、どうでもいい人じゃないよ──

愛する人の介護をする家族にもいろんな思いがあります。
疲れたり追い詰められて、つい後で悔やまなければならない言葉を吐いてしまうこともある。
時には何もかも投げ出してしまいたい気持ちに駆られることもある。
だけど、結局もどってくるのは

……because I care. だって、あなたのことを放っておけないから──。


けれど家族介護者も生身の人間です。
だから、家族の介護を担う人たちが心も身体も擦り切れて、
“……because I care”というところに戻ってくることができなくなる前に、
「独りで頑張らなくてもいいんだよ」という支援の声と手を──。
2008.10.19 / Top↑
世界的な免疫学の権威で東大名誉教授、
脳梗塞で重度の障害を負い、
2006年の診療報酬改定でのリハビリ日数制限に対して激しい抗議を行って、
その後も弱者切り捨ての医療と福祉に怒りの声を上げ続けている
多田富雄氏の闘病記「寡黙なる巨人」を読んでいたら、
面白い話があった。

NHKが多田氏の闘病生活を取材してドキュメンタリーを放送したところ、
氏の元には激励や感想の手紙や電話だけでなく
怪しげな民間療法、代替療法の押し売りまがいの人たちが訪ねてきた、という。

厚かましくも上がりこんで、
その効能について延々と講釈を垂れる。

付き合わされる多田氏は
「私は曲がりなりにも免疫学の専門家だ。
素人の講義が間違っていることなどわかる」とムカつき

「私は民間療法を馬鹿にしているわけではない。
それを医療に取り入れるために、『補完代替医療学会』という学術団体も組織されている。
私も去年、その学会長を務めた」とも考えたりして、
たいそう不愉快なのだけれど

「しゃべれないから苦情を言いたてることも出来な」くて、さらに苦々しい。

科学的に実証されてもいない民間療法を自分が信じるだけでなく
他人の生活にまで介入するのは「善意の謀略」だと氏は怒りを込めて書いている。

訪ねていった人たちはテレビを見たのだから
もちろん氏の経歴は知っているのに
免疫学の専門家に向かって普通は出来ないはずのことが
その人の身体がひどくマヒして言葉が不自由だというだけで
何の抵抗もなく出来てしまうことの不思議──。

でも、これは、もしかしたら
誰の心の中にもありがちなステレオタイプの罠なのかも?
         
2008.10.18 / Top↑
去年3月に練習中の事故で脊髄を損傷し半身不随になった
英国ナショナルチームのラグビー選手 Daniel James(23)さんが
今年9月12日にスイスに自殺目的で出向きDignitasクリニックで死亡した件で
英国のWest Mercia 警察が捜査に動きました。

BBCの特派員によると、
Dignitasではターミナル、慢性病(マヒを含む)、精神病の患者に自殺幇助を行っており、
本人が自殺行為を行い、他の人が直接関与しない限りにおいてスイス当局は黙認してきたが

Dignitasの行ないはスイスでも論争を巻き起こしており、
現在、政府の調査対象となっている。

Dignitasによる相談とケア、スイス国籍を持たない人への自殺幇助の実態を調べ
来年早々にも結果が発表される見通し。


やっと……。
しかし英国人だけでも確か100人が既にDignitasで幇助自殺を遂げているはず。


関連エントリーはこちらにまとめてあります。
2008.10.17 / Top↑


今年の5月にもピッツバーグ大の研究で同じ話が出てきていましたが、
今度はワシントン大学の研究チーム。

サルの腕の神経の連絡を人為的にブロックしておいて、
脳とコンピューターを接続したら
脳の信号を読み取って麻痺しているはずの腕が動いた、

いや、正確には
腕を動かそうとする際に起こる最初の筋肉の緊張が見られた、と。

脳とコンピューターを接続する装置が 
ピッツバーグのチームよりもはるかに小さくなっています。

で、例によってメディアの過大広告で
USA TODAYがタイトルに「人間にも希望もたらす」。

でも、よく読むと本文では「いつの日か」と書かれていたりもして。




トランスヒューマニストさんたちが喜んで
「脊髄損傷の麻痺は治る!」などと言い始めるかも。
2008.10.17 / Top↑
Ugandaで唯一女性器切除(FGM)を行っているSabiny族が
既に時代に合わなくなり女性のメリットになってないとしてFGM禁止を決めた。

近く議会を経て、全国的禁止法が制定されることに。

アフリカでは毎年300万人の少女がFGMのリスクに瀕しており、
国連では2015年までに大幅な削減を目指しているとのこと。


よかった。
2008.10.16 / Top↑
米国の小児科学会が
小児が1日に摂取することが望ましいとするビタミンDの量を
それまでの200単位から成人に推奨されているのと同じ400単位に倍増。

以下のAP通信によれば
心臓病、糖尿病などの予防効果があるとされることから。
(ただし効果の有無や、それに必要なビタミンDの量は確認されていないとも。)

Doubling of Vitamin D for Children Is Urged
The NY Times (AP), October 12, 2008

CBSのサイトには、以下のものを始めとして4本のビデオがアップされており、
それらによると、

最近の子どもが骨折しやすくなっている原因として、
日光の下で遊ぶ時間が短いこと、
ミルクを飲まないなど食事から摂取するビタミンDの不足など。

そこで簡単な解決として
小児科医らはサプリメントを勧めている、といい

実際、ビデオの中でも小児科医が登場して
「子どもに飲ませるには、こちらのチュアブルタイプがお勧めですよ」などと。

Double Vitamin D, Kids’ Doctors say
CBS News, October 13, 2008

いや、しかし、
「もっと子どもを外で遊ばせましょう」
「食生活に気を配りましょう」というあたりが
まっとうな小児科医の言うべきことではないかと思うのですが。
2008.10.15 / Top↑
サイボーグ患者宣言を読むまでもなく、
いずれ、こういうのが出てくるのは時間の問題だろうとは思っていました。
が、実際に出てきて目の前にこうして現われてしまったら、
その醜悪さに狼狽する感じで、とりあえず絶句。


           
ついでに、入浴シャワーシステムベッドなるものも発見。


ベッド床の腰から下の部分が外れて、そこにバケツが仕込んであるので
オムツ交換が効率よく行えたり、
通常のギャッジベッドのように頭の部分や足の部分がせり上がるだけじゃなくて、
マットレスが左右に傾斜して寝返りをさせてくれるから
背中や臀部も無理なく洗える……んだそうな。

いろいろ詳細な説明が書いてあって、
読んでいるとそれなりにスグレモノのように思えるのだけど、
現実にいろんな不自由さの人がそこに寝ている状況とか
そういう人を実際に介護する場面を詳細に頭に浮かべてみたら
そう理屈で言うほど簡単に行くかなぁ……と疑問になってくる。

例えばベッド床の腰から下の部分が外れるので
オムツ交換と陰部のシャワー洗浄がラクにできるという謳い文句なのだけど、
マヒした脚は介護者が肩にでも抱えて陰部を洗うのかな。重いですよ。
不安定な姿勢だから本人だってキツイし危険だし、
介護者1人では無理だと思うけどなぁ。
それにベッドの床やマットレス部分が外れたとしても、
ベッドなんだから布団とか敷いてあるのはどうするんだろう??

いや、それよりなにより基本的に疑問に思うのは、
一体このベッドは居室用なのかシャワー用なのかどっちなのか、ということ。

オムツ交換の際に云々というのは居室用のベッドを前提としているのだろうけど、
それならシャワー用には使えないのでは?

居室用のベッドなら布団を敷いて本人が寝て普通に使用しているわけだから、
シャワーのたびに本人をどこかへ移動させ、
布団やら枕やらをいちいち全部取り除いたうえで
本人を裸にして再び寝かせてからシャワーに使うことになる。
そういう使用法は、どう考えても無理。

日ごろから布団など敷かず、ベッド床の上に直接寝かせて介護するなら別ですが。

居室用のベッドを濡らしたのでは
シャワーの後にベッドとして使えないだろうと思うし。

いや、そもそもベッドを入れられるようなおフロがどこの家にあるんだ?

じゃあ、これは施設のシャワー用ベッドなのか?

でも、この入浴シャワーシステムベッドのサイトには
こう書いてあるから不思議。

快適な在宅老老介護が遂に実現します!
これで家族が救われます!


感嘆符までつけて「快適な老老介護」を勝手に祝福してしまう
その神経こそ、あんまりじゃないかと思うよ。
2008.10.15 / Top↑