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7月22日のAP通信その他によると、家畜に管理追跡用に埋め込むマイクロチップの会社を親会社に持つVerichip という会社が、ID番号を記したマイクロチップを200人のアルツハイマーの患者に埋め込む実験を予定しているとのこと。Verichipは、既に世界中で7000個のマイクロチップを販売しており、その中の2000個は人間に埋め込まれています。

体内のマイクロチップで個人を認証……などというとまるでSF映画のようですが、案外にこのRFID(Radio Frequency IDentification)は、既に一般に普及し始めているようです。腕にチップを埋めておけば、事故に遭った際に意識がない状態で病院に運び込まれても、チップからスキャンしたIDで医師らがインターネット上の医療個人情報にアクセス……そうした緊急時への備えとして埋め込む人が増えているとか。他にも店側のコンピューターに口座情報を登録しておけば腕のチップをスキャンするだけで買い物ができたり、職場で高度機密のある場所へのアクセス認証のために埋め込む人も。アメリカでは2004年10月にFDAが人体への埋め込みを認可しています。

今後ターゲットになるのはアルツハイマー病の患者、軍のレンジャー部隊、性犯罪者、不法入国者などと見られていますが、マイクロチップが人体に埋められた場合には、周辺皮下組織への悪影響、チップが体内で移動する、MRI検査は受けられない(誤って受けると危険)などの影響があることをFDAも認めています。

こうした人体へのチップ埋め込み拡大の動きやアルツハイマー病の人への実験計画に反対運動が起きており、5月12日にはフロリダで「人はペットではない」、「人にチップを埋めるのは間違っている」、「Verichipは健康に危険」などと書かれたプラカードを掲げた抗議行動が行われたとのこと。人体へのマイクロチップの埋め込みに反対するウエブ・サイトAntichips.comには、以下のように書かれています。

……この(Verichipの実験)計画には深刻な倫理上の疑問が起こります。社会の最も非力なメンバーを侵襲的な医学研究に利用するのは正しいのでしょうか? 精神機能の障害のために完全なインフォームド・コンセントを与えることができない人にマイクロチップを埋めることを、この会社に許してもいいものでしょうか?

まるで犬や実験動物のように人にマイクロチップを埋めることはdehumanizingです。肉体の完全性(integrity)と尊厳(dignity)を侵害します。……(中略)……その人の完全な同意なくして他人の肉体にインプラントを挿入することは、暴力でありレイプに等しい侵害行為です。「いやだ」と言えないからといって、それは同意を与えたことと同じではありません。

アシュリー療法と問題の本質は全く同じではないでしょうか。

そして、ここでもアルツハイマー病の患者さんたちにチップを埋め込みたい人たちは、きっと「その方が患者さん自身の安全のため」だといい、「行動を制限されることが少なくなり、本人のQOLが維持向上する」、よってチップの埋め込みが「本人の最善の利益」だという論を展開するのでしょう。

Verichipのホームページで徘徊予防のRoamAlertというシステム(チップは今のところ腕時計タイプを装着しているようです)の説明を覗くと、施設入所者や入院患者を「守るため」と書かれています。また、こうしたシステムによって患者には比較的広範囲に行動の自由が保障されるとの説明も見られます。


【2010年4月2日追記】
その後、上記記事はリンク切れになっています。他に、当時の記事では
http://www.msnbc.msn.com/id/19904543/

Verichipも買収されて社名もHPも変わっています。
以前の徘徊防止システムは姿を消して、情報保護を前面に打ち出しているようです。
2007.07.28 / Top↑
とても単純に、ずっと頭に引っかかっていること。

アシュリーの両親と担当医が言っていることは、ノーマライゼーションの考え方に逆行しているのでは……?

「施設には絶対に入所させない、家庭で世話をする」と言えば、一見「地域で普通に暮らす」というノーマライゼーションの理念に沿っているように思えますが、Diekema医師は「アシュリーに必要なのは家族という小さな世界」、「アシュリーには、どんな人とも意味のある関りはもてない」と何度も言っています。

彼らの言っていることは、アシュリーには家族という限られた人間関係の中に留めおかれるのが幸福、家族以外との関りは不要ということです。「いくつになっても、ずっと親とのみ密着して暮らす」ということは、ノーマライゼーションでも何でもありません。

家族さえいればいい、家庭の中だけに閉じ込めて外の世界との接触がないのが幸せというのでは、それは施設にいること以上にアブノーマルな生活ではないでしょうか。

アシュリーの抱えている問題のひとつが「退屈」だというのであれば、「アシュリーのいるべき場所は両親の温かい腕の中」などと言って家庭という小さな世界に閉じ込めておくのではなく、他人との関りというダイナミックな世界の中に出してあげるのが何よりの対策だろうと私は思うのですが。

  
2007.07.26 / Top↑
前のエントリーで書いたように「遺伝子診断で癌罹患率が高いから臓器を摘出する」ということは、実際に行われているようです。アシュリーに行われたことのうち「病気予防で子宮と乳房芽を摘出する」という部分をこの点に沿って考えてみると、どうでしょうか。

両親のブログには、乳房芽の切除の理由として繊維のう胞と乳がんになりやすい家系であることが挙げられています。また、子宮摘出の理由の中にも子宮がんの予防が書かれています。

シアトル子ども病院は両親から要望を受けた際に、遺伝子診断を考えなかったのでしょうか。

「繊維のう胞と乳がん」と「子宮がん」の予防が臓器摘出の理由の一部に挙げられているのであれば、その妥当性を検討するに当たって、アシュリーがこれらの病気に将来罹患する確立はどの程度か、調べてみるべきではなかったでしょうか。子宮摘出にせよ乳房芽の切除にせよ、非常に過激で侵襲的な行為なのですから、病気予防を理由にするのであれば、そのくらいの慎重さは必要のはず。

アシュリーの遺伝子診断を行って非常に高い確率が出たら、それで初めてその病気の予防を理由の一部に含めることが可能となるでしょう(もちろん、未成年に関するこのような判断が親の決定権に含まれる場合のみです。)しかし逆に非常に罹患率が低く出たとするならば、それらの病気の予防はアシュリーの臓器を摘出する合理的な理由として成立しないことになります。

仮に遺伝子診断におけるアシュリーのこれらの病気の罹患率が低く、臓器摘出の理由から「病気予防」が消えた場合、残された理由は「性的虐待予防。大きな胸も生理も本人にとって不快」のみとなります。果たしてこれだけの理由で、子宮と乳房芽の摘出は妥当とされるものでしょうか。

ブログの内容から想像すると、両親はあくまで本人のQOL向上のためならそれだけの理由でも妥当と考えているようですが、医師らの主張する妥当性は病気予防に大いに依存しているので、罹患率が低い場合には医師らの論拠は破綻することになるように思えるのですが……。
2007.07.25 / Top↑
Mike Slabaughの一族は、代々珍しい遺伝性の胃がんが多い家系だった。おばあちゃんも、お父さんお母さんも、叔父さんも叔母さんも胃がんで死んでいった……。そこで彼と従兄弟たちが、そろって遺伝子診断を受けたところ、従兄弟17人のうち11人までが、おばあちゃんの欠陥遺伝子を受け継いでいることが判明。将来胃がんになる確率は70%。11人は全員が迷うことなく胃の全摘手術を受けた。「慣れるのには時間がかかったけど、胃がんの恐怖におびえながら暮らすくらいなら、何度にも分けて少量ずつ食べることなど何でもない。」と、全員が満足している。

遺伝子診断の技術の進歩で、問題遺伝子を見つけた人が予防的に臓器を摘出するケースが増えている。これまでに、がん予防のために摘出された例があるのは、胃、乳房、子宮、腸、甲状腺。将来は遺伝子診断がコレステロール値を測るように当たり前の検査になると予測する専門家も。
(AP 2006年6月18日)

このニュースを知ってまもなく、28歳のアメリカ人にこの話をしてみたことがあります。彼はあっさりと「それは良いアイディアだ。遺伝子診断で癌の確率が高く出たら、僕も迷わずにとってもらう」と言うので、びっくりしました。彼は数ヵ月後に結婚を控えていたのですが、「(将来うまれる)自分の子どもにも是非やらせたい。それで子どもを守ってやれるのだから」とも言いました。

「でも手術なんて痛いし、子どもじゃなくてもコワイじゃない。病気ならともかく健康なのに……。それに手術そのものにリスクがあるわけだし」と疑問を呈しても、「いや。癌になった場合のリスクを考えたら、手術のリスクなんか小さいもんだ。子どもの幸福を考えてやるのは親の義務だ。その子のためにやってあげるべきだと思う」。

今のアメリカで、親が彼のように「遺伝子診断で遺伝性の胃がんの確立が70%と出たから、がん予防のためにこの子の胃を摘出してほしい」と望んだ場合、それは果たして認められるのでしょうか。このニュースを知った去年は彼の言葉を聞いても、ただ単純にびっくりするだけでそこまで考えなかったのですが、アシュリーの事件を知って以来、障害のない子どもの場合に癌予防を目的とした健康な臓器の摘出が「親の決定権」に含まれているのかどうかが気になります。

私は、子どもが成人して自分の意思で選択できるようになるまで待つべきではないかと思うのですが、癌になる確率が70%とか80%とかの高率とされた場合に、成人するまでに発病したら取り返しが付かないから、と考える親もいるような気もします。その場合、今はまだ健康な状態にある臓器を摘出することが「子どもの最善の利益」と捉えられるのかどうか。

健康な子どもの場合にこのような親の決定権がもしも認められないのであれば、障害のある子どもの場合だけに、それが「子どもの最善の権利」とされるとも思えない気がしますが……。今のところ、子宮摘出についての手続きの違法性だけが問題にされていますが、アシュリーの子宮と乳房芽の摘出は、このような観点からも検討されるべきなのでは?


いずれにしても、アシュリーの両親のような思いつきが起こってくる背景として、このようなアメリカ社会の動向も無関係ではないのでしょう。

(もっとも、特にインターネットに出回っているようなお手軽にオーダーできる類の遺伝子診断は信頼性に問題があるとの指摘もあるようです。)
2007.07.24 / Top↑
絶対に他人に介護を任せることはない、ずっと家で家族が面倒を見るというのであれば、なぜレイプを心配しなければならないのでしょうか。

「介護者に体が触れるときに大きな乳房は彼女を性的な存在とし、虐待を招く可能性があるから」というのが、両親のブログで乳房芽の切除のメリットの1つとして挙げられていました。しかし、この点も上のレイプと同じく、ずっと家で家族が面倒を見ると断言していることを考えると、アシュリーの体に触れる「介護者」は家族しかいないはずなのです。

非常に大きく矛盾していることにならないでしょうか。

  ―――――――――――――――――――――――――――

Diekema医師は1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、キングに「これらの処置を受けなかった場合、成人したアシュリーはどのようだったか説明してください」と求められて、驚くべき発言をします。

こうした処置がなかった場合、アシュリーはだいたい5フィート6インチの身長で、両親には抱えあげられないほど重くなっていたでしょう。生理がありますから、おそらく生理をコントロールするためにも妊娠の可能性を防ぐためにも、毎月定期的に避妊薬を飲み続けることになったでしょう。

大人になったアシュリーには生理があるというだけで、どうして避妊薬を飲まなければならないのか。

他人に託すことは絶対にしない、ずっと家で家族がケアすると親がいっているのに、そういうアシュリーの生活のどこに「妊娠の可能性」があるのか。家で、家族の誰かがアシュリーをレイプするとでも言うのでしょうか。

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彼らの発言には、アシュリーの状態や彼女がおかれた状況を実際以上に過酷なもののように思わせようとしているフシがあるように思われます。それは、これら処置を行う決定が「初めにありき」であって理由が「後付け」されたと仮定すると、なんら不思議ではないでしょう。

しかし、医師らにとってはそうであったとしても、親の発言にまで、そういう傾向が見られるのは、なぜなのか……?
2007.07.21 / Top↑
Arthur Caplanの論評を読み返していて、ふと疑問に思ったこと。

アシュリーは学校のSpecial Educationのクラスに通っています。ブログでは「アシュリーは学校の障害児のためのクラスに行っており、毎日バスに乗って通い、彼女に合わせた活動が組まれて、先生とセラピストが十分な注意を払ってくれます」と書かれています。

ということは、両親は学校の先生やセラピストには、少なくとも数時間程度はアシュリーを託しているということでしょう。通学バスにまで乗せているのです。

アシュリーを学校の先生には託すことができるのに、なぜプロの介護者に託すことはできないのか? なぜ家庭での介護に他人の手を借りることができないのか? なぜ、この先もずっと他人に託すことなど絶対にないと断言するほど、他人が信じられないのか? 

学校の先生とセラピストと、プロの介護者とでは、一体何が違うのか?
2007.07.21 / Top↑
5月16日のWUのシンポの際に会場から、
ある障害児の父親の手紙が朗読されました。
非常に激しい文面でした。

逐一メモれたわけではないので、
厳密に言葉どおりではありませんが、
私の耳に聞こえたYouの響きのまま大意を訳してみたものを以下に。

うちの子が生れた時、あなたがたはどこにいたというのですか? 
この子が手術室から出てきた時に、あなたたちはどこにいたのです?
私が抱いてこの子にミルクをやっていた夜中に、
……の時にも……した時にも、どこにいたというのですか?
 
それなのに何の権利があって私のすることに口を出す?
責任を取るのは我々なんだ。
あんたらは、これから先もどこにもいない(ここで会場から拍手)。

自分は53歳。先が短いのは承知している。
だけど、この子は絶対に施設になど入れない。
私か妻か、我々の親かが必ずこの子の面倒は見る。

どこかのsicko(異常者)がうちの子をレイプで妊娠させやがったとしたら、
生まれてくる子どもの面倒を一体誰が見ると思っているのだ?
その子を育てるのも我々じゃないか。

それなら、オマエらはみんな、つべこべ言わず、すっこんでいろ。

これらの激しい言葉の一つ一つが読み上げられるにつれ、
いたたまれない気持ちになりました。

この父親が何十年も心に抑え込んできた悲鳴が、
ここに堰を切ってほとばしっている、という気がしました。

この家族の恐らく30年近い年月は、
今ほどの支援も資源もなく、
つかの間のレスパイトすらままならず、
常に気を張って無理を重ね、
家族だけで頑張って、

もうこれ以上は体も心も頑張れないという限界まで頑張っているのに、
それでもどこからも助けの手は差し伸べてもらえない……という年月だったのではないでしょうか。

長く苦しかった年月から残ったものは、
助けてくれることのなかった社会への憤りと、人間への苦い不信。
そして、社会も人間も信じられないからこそ、
自分がもう53歳だというこの父親にはCaplanのいう「希望」が持てない。

この家族にとって何よりも悲痛なことは、
その「希望」がないことなのではないでしょうか。

しかし、どんなに「私か妻か、我々の親が必ずこの子の面倒は見る」と念じてみたとしても、
親もまた、いつ病気になったり怪我をするか分からない生身の人間です。
障害のある子どもの親だけが病気からも怪我からも事故からも、
その愛情の力で逃げ切れるというものではないでしょう。

「この子を幸せにしてやれるのは親だけ」と介護を背負い込み、
苦難にもめげずに頑張りぬこうとする親の姿は傍目には確かに美しいでしょう。
感動もするしエールを送りたくもなるでしょう。

しかし、その考え方に立つ限り、
何らかの事情で家族がケア出来なくなった時には
「子をつれて死ぬ」選択しか残されていないのだということを、
アシュリーの両親の決断に賞賛を送る人は、
考えてみるべきなのではないでしょうか。

Caplanがいう「親亡き後にも子どもが幸福に生きていけるという希望」は、
重い障害のある子どもを社会に託して死んでいけるだけ、
親が人間と社会を信頼し得るという「希望」なのではないでしょうか。
2007.07.21 / Top↑
ペンシルバニア大学・生命倫理センターのディレクターであるArthur Caplanは、
この問題について一貫して批判的な立場をとり積極的に発言しています。

1月5日にMSNBC.comに寄せた
Commentary:Is“Peter Pan” treatment a moral choice?(“ピーターパン療法”は正しい選択か?)“という論評で、Caplanは、
ちゃんとした社会であれば、このような家族には各種用具や在宅ケアの人的支援が行われるはずなのに、
「アシュリーを小さなままにしておくのは社会の失敗を医療で解決するものである」
と書いています。

また
「虐待を防ぐという意味では性的に発達しなければよいのかもしれないが、
それはどの女性についても言えることだ。
だからといって体の一部を切り取っていいことにはならない」と書いた後で、
次のように主張します。

She needs a safe environment at home and if the day comes, a safe environment in an institution.

彼女に必要なのは家庭での安全な環境、
そして、いつかその日が来たならば、
それからは施設での安全な環境なのだ。

この論評を、彼は以下のように締めくくっています。

Families like Ashley’s need more help, more resources, more breaks from the relentless pressure of providing care and some hope that their daughter can be somewhere safe and caring after they are gone.
America has not yet made that promise to Ashley or her parents or the many other parents and kids who face severely disabling mental illness and impairment. We should.

アシュリーの両親のような家族に必要なものは、
もっと多くの支援であり資源であり、
介護負担の過酷なプレッシャーからもっと頻繁に解放される機会であり、

そして、
自分たちが逝った後にも娘がどこか安全な場所で暖かくケアしてもらえるという希望なのである。

アシュリーやその両親、他の多くの重い知的障害を持つ子どもと家族に対して、
アメリカはまだその約束をしていない。我々はその約束をするべきなのだ。
 
2007.07.21 / Top↑
もう1つ、こちらは今年2月に報道された英国のケースです。

8歳で89キロという超肥満児Conner McCreaddieの生活ぶりがテレビ番組で取り上げられたことをきっかけに、彼の肥満は親のネグレクトであるとして地方自治体が介入。シングルマザーとして子ども2人を育てている35歳の母親は「だって、この子は生まれつきお腹がすくタチなんです」、「どうしても野菜や果物は嫌がって食べないんだから、好きなものを食べされるしかないでしょう。飢え死にさせるわけにはいかないんだから」などと発言。

母親の姿勢に改善が見られなければ親権が剥奪され、子どもは施設に移されるという話に。しかし子ども保護会議でのヒアリングに母親が出席し、息子のダイエットに努力する旨で自治体側との合意に至ったため、子どもは母親と暮らせることになった。合意の詳細はプライバシー保護のため明らかにされていない。

ヒアリングは、子どもが苦しんでいたり、苦しむことや重大な害が及ぶことが予測される場合に地方自治体に調査を行う義務を課したthe Children Actに基づいて開かれ、合意についての発表はthe Local Safeguarding Children Board によって出された。

うがった見方をすれば、近年、大人ばかりか子どもの肥満も医療費圧迫の要因と予測されて深刻な社会問題となっていることから、あえて「子どもの肥満は親のネグレクト」とのメッセージを送り啓発効果を狙った対応という可能性も考えられなくはありません。

しかし、それはともかく、私が前回のAbrahamのケースとこのケースとで目に付いたのはソーシャル・サービスの存在です。子どもの健康を守る義務・責任が行政にあるという考え方と、それによる行政の介入権。

ディズニー映画の「リロ&スティッチ」に登場したコワモテのソーシャル・ワーカーも、両親が事故で死んだ後に姉と暮らしているリロの生活状況を確認にきたのでした。失業中の姉が次の仕事を見つけられなければ、リロは行政の介入によって姉から引き離されてしまうというのが物語の設定でした。

最近、英国で親族の介護を担っている子どもたち(young carers 若年介護者)への支援が急務になっているというニュースに触れる機会があったのですが、そこでも子どもが介護を担っている事実が知られるとソーシャル・サービスによって引き離されてしまうので、それを恐れて子どもも親もそうした事実を隠すために、必要な支援を受けられないで事態が深刻化していると指摘されていました。

ソーシャル・サービスの介入は、健康だけでなく、広く子どものwell-beingについて行政が責任を負っているという考え方に依拠したものでしょう。その家庭では子どものwell-being が守れないと判断した場合には、ソーシャル・サービスが子どもを家庭から引き離し施設に移すことを考えれば、行政は子どものwell-being の方を家庭で暮らすことよりも重視しているということになります。

一方、アシュリーのケースでは両親と医師らの主張は、重症児にとっては家庭で暮らすことこそ彼らの何よりのwell-being だとの前提に立っています。それが聞く人に簡単に受け入れられてしまうのは、彼らの議論が常に「愛のある暖かい家庭か、さもなくば冷たく危険な施設か」の2者択一の中でのみ語られるからでしょう。しかし、それなりに親の愛があっても家庭で必ずしも子どものwell-beingが守れるとは限らないとの前提で機能しているソーシャル・サービスの立場からは、アシュリーに行われた医療介入はどのように見えるのでしょうか。

アシュリーのケースを検討したとされる倫理委員会のメンバーにはソーシャル・ワーカーが含まれていました。病院のワーカーではありますが、それでも彼または彼女はソーシャルワークの視点から、両親や医師の議論をどのように受け止めたのか。その席で発言しなかったのか。発言したとしたら、どのような発言をしたのか。

医師らの論文が掲載されたジャーナルにJeffrey Broscoら編者が書いたEditorialにおいても、またArthur Caplanなど批判的な立場をとる生命倫理学者らの発言においても、「このケースでは、本来は社会的問題であるものを誤って医療で解決しようとしている」といった指摘がされているのですが、それでもなお5月16日のWUでのシンポにおいて、スピーカーの中に社会福祉の専門家は含まれていませんでした。病院サイドはあくまでも医療の問題にしておきたいのかもしれません。
2007.07.20 / Top↑
未成年の医療において、なにが最善の治療か、それを誰が決めるのかという問題を巡って、興味深いケースが去年ありました。

当時15歳、ヴァージニア州在住のStarchild Abraham Cherrix がホジキンス病(リンパ腺ガンの一種)と診断されたのは2005年10月のこと。彼は化学療法を受けるが、副作用に大変苦しむ。

化学療法を3ヶ月間で4回受けた後、Abrahamは「さらにこんなに大量の薬物と放射線にさらされたら死んでしまう」と医師がさらに追加で処方した治療を拒み、代替療法を選ぶ。息子が化学療法の副作用に苦しむ姿にこのまま死んでしまうのではないかと案じた両親も息子の決断を支持。

ところが彼らが選んだ砂糖抜きのオーガニック食とハーブによる代替療法というのは、いわくつきの療法だった。考案者のHarry Hoxseyはテキサスの癌クリニックで薬効のない薬を売ったとしてFDAに摘発され、その後癌で死去したという人物。アメリカでは1960年からHoxsey療法は禁止されている。Cherrix一家は06年3月にメキシコのHoxsey 療法クリニックまで行き、体験者の話などを聞いて父親がすっかり信者になった。以来、Abrahamはそのメキシコのクリニックの指導でHoxsey療法を行う。

病院の担当医はこの親子を郡のソーシャル・サービス局に通報。調査の結果、ソーシャル・サービス局はAbrahamの両親の医療ネグレクトだと判断する。ソーシャルワーカーの訴えを受け、少年審判の裁判官はAbrahamの両親は息子の健康をネグレクトしていると判断。親権を部分的にソーシャル・サービス局にも認め、さらに7月21日には、4日後の火曜日までにAbrahamを病院に連れて行き主治医の指示通りの治療を受けさせるように両親に命じた。

両親は即座に上訴。7月25日のAccomack郡巡回裁判所は、同日午後1時までに病院に連れて行くよう両親に命じた少年審判の決定を覆し、両親に完全な親権を取り戻す。8月に裁判の日程が決まる一方で、州知事も関心を寄せ両党の政治家を巻き込んだ議論に。息子の命を危険にさらしていると州は両親を非難。両親は代替医療の方が有効だと主張し従来の医療を拒否。子どもの医療については親に決定権があるのか。それとも子どもの健康を守る行政の義務がそれを上回るのか。問題は親の決定権VS行政の介入権という対立の構図を呈していく。

最終的には、Abrahamは自分の意思に反して化学療法を受けなくてもよいとの和解が成立。Abrahamは、放射線治療の免許があり代替医療にも関心のある医師を自分で選んで新たにかかり、両親はAbrahamの治療と状態を3ヶ月ごとに裁判所に報告することに。代替療法を続けながら、いずれ放射線治療も受けることになる見通し。合意文書には、両親は医療上のネグレクトを犯していないことが明記された。

州や連邦政府の裁判の決定では、子どもの医療に関しては親に決定権があるとされることが多いものの、ヴァージニア州などいくつかの州では子どもの健康があやぶまれるケースでは裁判所の判断が親の決定権を上回ることが認められているとのこと。

もちろんこれは治療すべき重い病気のある子どものケースです。本人もすでに16歳。メディアに対しても能弁に治療拒否の意思を語っており、当時のニュース映像でも非常にしっかりした(少年というよりも)青年という印象でした。和解の席で裁判官が最後に本人に“God bless you, Mr.Cherric”と語りかけたとの報道もありましたが、裁判官が当人の判断力を認めた語りかけだったのではないでしょうか。彼自身に医師を選ばせていることをとってみても、和解の内容は両親の決定権を認めたものというよりも、むしろ患者自身の自己決定に近いものではなかったかという気もします。
2007.07.20 / Top↑
日本ではあまり報道されませんでしたが、

2004年にアメリカで重症障害のある1人の女の子に行われた
ホルモン療法による成長抑制ならびに、子宮および乳腺芽の摘出という過激な医療処置が、

今年の1月から2月にかけて世界中で大きな論争を巻き起こしました。

この”アシュリー療法“論争には、
実は多くの人が考えているのとはまったく別の実相が隠されているのではないかと私は考えています。

このブログは、資料に見られる医師らの発言の矛盾を検証し、
本当は何が起こったのかについて1つの仮説を提示しようとするものです。

   ―――――――――――――――――――――――――――

“アシュリー療法”……なに、それ? という方のために、事件の概要を以下に。

2004年7月にシアトル子ども病院で、
重症重複障害をもつ寝たきりの女児(当時6歳)から子宮と盲腸、乳房芽が摘出され、
それに続いて身長の伸びと体重の増加を抑制する目的で
2年半に渡って大量のホルモン投与も行われました。
本人のQOLの維持向上のためであるとして両親が希望し、
病院の倫理委員会の承認を経て行われたとされる医療処置です。

このケースについては2006年秋、
担当医2人がアメリカ小児科学会のジャーナルに論文を発表しており、
ロイター通信などが報じているのですが、この時はあまり広く一般の関心は呼ばなかったようです。

ところが、両親が2007年元旦にこの処置を望んだ理由を説明するブログを立ち上げたことから、
メディアが広く取り上げ、にわかに賛否の議論が巻き起こって激しい論争となりました。
少女の名前はアシュリーとのみ明かされており、
両親のブログのタイトルは ”The Ashley Treatment“。
これは、アシュリーに行われた一連の医療処置に対して両親がつけた呼び名でもあります。

2月から報道も論争も下火になったかに思われましたが、
5月8日にWashington Protection and Advocacy System (現在はthe Disability Rights Washingtonと改名)という障害者の人権擁護団体が上記の事件に対する調査報告をまとめたのを機に、
病院は同日、記者会見を開いて子宮摘出について手続き上の違法性を認めました。

それに続いて5月16日にはワシントン大学でこの問題に関するシンポジウムが開かれましたが、
病院サイドは違法性については手続き上のミスに過ぎず、
アシュリーに行われた医療処置の決定は妥当なものだったとの主張を崩していません。


  ーーーーーー-----------------------------ーーーーーーーー

結論をお急ぎの方は「A事件の裏側(仮説)」をお読みください。

また「シアトル・タイムズの不思議」→「当面のむすび」を読んでもらうと、
このブログが示唆している仮説の中心部分はご理解いただけるように思います。

しかし、いきなり結論を読まれると、
あまりにも荒唐無稽な仮説のようにも思われるかもしれません。

この仮説は簡単にかいつまんで論証できる性格のものではなく、
納得していただくためには、煩雑な検証にある程度お付き合いいただく以外になさそうです。

この事件に興味をお持ちの方であれば、
エントリーの日付順につまみ食いしていただくか、
または気が向いた書庫を上の方から適当に読んでいただき、
最後に「シアトル・タイムズの不思議」→「当面のむすび」を読んでいただけると幸いです。

基本的には、日付順に書いた文章です。

この仮説の論証を目的とした記事は7月12日のエントリー「むすび」で一段落となっていますが、
大きなナゾがまだ解けていません。

中流階級どころか大変なお金持ちで他の解決方法だっていくらでも可能だったはずのアシュリーの親が、
どうしてわざわざ過激な医療的介入という手段をとったのか?

現在は
7月12日までの仮説の検証プロセスよりも問題を捉える射程をもっと広く取って、
このナゾを考えていきたいと思っています。

基本的には「当面のむすび」より上の書庫が”アシュリー療法”論争に隠れた実相に関するエントリー。

それ以下の書庫が、

その後英国で類似の要望が母親から出され、検討の末に却下されたKatieケースや
Ashley事件でのその後の動き、

また
現在の社会で起こっていることや、それを巡る生命倫理を中心とした議論など、
アシュリーの身に起こったことと関連しているかもしれない動き
逆に言えば、Ashley事件がまさに象徴しているのかもしれない世の中の動きについてのエントリーです。
2007.07.19 / Top↑
私はゲイツ夫妻の社会貢献の純粋な善意を疑うものではありません。
アシュリーに行われた医療介入とそれを巡るプロセスに、
ビル・ゲイツ夫妻が何らかの形で関与したとも考えていません。

アシュリーの両親が「娘にこのようなことをやってほしい」と病院に申し入れた2004年に、
病院サイドは、このような財団との長年の関係
進行中だったと思われる建物買収計画
そのためのメリンダ・ゲイツ夫人によるキャンペーン支援を十分に意識したうえで、
その要望と向かい合わざるを得ない状況にあったのではないかと、
あくまでも病院側の立場を想像するものです。

WPASの報告書に添付された弁護士から父親への手紙には、
誠実な法解釈を提供して弁護士としてのアドバイスを行うよりも、
クライアントが望んでいる結論に繋がる法解釈を捻出しようとの姿勢が見られます。
これは小山さんがブログで指摘しておられる通りです。

考えてみれば、ここで弁護士がやっていることは、
両親の要望が通るように委員会を説得することを自分の仕事と捉えていた、
あの倫理委員会の 委員長の意識と同じ、
単なる迎合なのではないでしょうか。

もちろん、このブログでの検証が示唆しているものは、あくまでも仮説に過ぎません。

しかし何が起きたかについて、
誰もが納得できる検討プロセスがあったことを実証して見せなければならないのは、
他ならぬ医師らの責任のはず。

このブログで検証してきたように、この事件には不可解な点があまりにも多いこと、
それに対して医師らがきちんと説明責任を果たしていないことは、
紛れもない事実ではないでしょうか。

この事件で真に問われるべき本質は、これまで議論されてきたように、
本当に「重症児に対するこのような医療介入は是か非か」という問題なのでしょうか。

実はコトの本質は

「特殊な政治経済的文脈の中で、シアトル子ども病院の医療倫理はきちんと機能したのか否か」

という問題に帰する……という可能性はないのでしょうか。

もし万が一にも、シアトル子ども病院の医療倫理がきちんと機能しなかったことによって、
今後、重症児に対するこのような処置への道を開く前例が誤って作られてしまったのだとしたら、

やはりそれは許されないことなのではないでしょうか。
2007.07.12 / Top↑
シアトル・タイムズの2006年10月27日のビジネス欄に、
シアトル子ども病院に関する次のようなニュースがあります。

シアトル子ども病院は2006年10月にシアトル・ダウンタウンに新たに2つの建物を取得し、研究棟として利用する予定。それにより、研究部門のスタッフを増強する。同病院は患者治療では名高いものの、研究部門では全米11位に甘んじており、今後特にバイオテクを中心に研究部門でもトップクラスの仲間入りを目指す。記事によると、この購入代金を病院は現金支払いする予定だという。貯蓄を切り崩すほか、一部は過去5年間に渡ってメリンダ・フレンチ・ゲイツが率いてきた資金集めキャンペーンで集まった2億5千万ドルから支払われる。

また、今後予定されている研究部門の強化などに向けて、
大々的な資金集めのキャンペーンも改めて始まっていたようです。

上記の記事より8ヶ月前の2006年2月6日に、
シアトル子ども病院はこれまでで最大の資金集めキャンペーンに乗り出すことを発表しています。

子どもへの無償治療、施設の改善と研究のための資金で、目標額は3億ドル。

病院の公式サイトによると、
同病院がキャンペーンで支援を求め始めたのは2001年のことだと書かれているので、
上記の記事のいう「5年にわたって行われ、メリンダ・ゲイツが率いてきたキャンペーン」のことでしょう。

今回新たに打ち出された最大規模のキャンペーンを率いる提唱者は15人で、
先頭に立つのは再びメリンダ・フレンチ・ゲイツ夫人。
キャンペーンの発表が行われた祝賀会では、
彼女が基調講演を行っています。

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病院がシアトルのダウンタウンに2つの建物を購入した時期に注目してください。

2006年10月。

このような大きな組織のこれほど大規模な買い物は、ある程度の年月をかけて準備されるものと思われます。

2004年には、シアトル子ども病院では既に
この巨額の建物取得の計画が進行していたのではないでしょうか。

また、メリンダ・ゲイツ夫人はその3年前から既に病院の資金集めキャンペーンを率いていました。

【追記】

2006年10月というと、ちょうど医師らの論文が発表された時期に当たります。

アシュリーに行われた医療行為については表に出したくなかった医師らに対して、
論文を書かざるを得ないプレッシャーが何らかの形でかかったのが、この数ヶ月前だったと仮定してみると、

この時期の符号は

医師らが抵抗しにくい時期でもあった……という可能性は考えられないでしょうか?
2007.07.12 / Top↑
コンピューターソフト・ウインドウズの開発者であり、マイクロソフト社の創設者、現会長のビル・ゲイツ氏が2000年にメリンダ・フレンチ・ゲイツ夫人とともに創設したビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて、世界中の医療や福祉・貧困や女性と子どもを巡る様々な問題の解決のために巨額を投じ、高い評価を受けていることは周知の事実です。

ビル・ゲイツ氏は自分を育んでくれたアメリカ北西部に感謝し、またその地域がいまなお貧困に喘ぐ姿に心を痛め、わざわざ太平洋北西部の団体や事業を対象にした助成を別立てで行っています。助成を受けている団体は公共性の強いものである以上、シアトル近郊に集中するのも当たり前のことでしょう。

例えば2002年の財団の年次報告によれば、「太平洋北西部助成」を受けた金額が一番多かったのはワシントン大学財団で7000万ドル。第2位が子ども病院財団の2000万ドル。子ども病院への支援には但し書きがあって、「歩行ケア施設と無償ケアのための資金キャンペーンを支援するため」となっています。

ビル&メリンダ・ゲイツ財団のHPで、シアトル子ども病院への支援を検索してみると、膨大な資料が出てきます。あまりにも膨大な量なので全貌はとても把握しきれませんが、少なくとも1997年からは毎年「一般的な支援」として1万ドル。そこに年によって、具体的な目的を持った支援金が5万ドル、10万ドル、50万ドル、と追加されています。

シアトル子ども病院のHPで資金提供を呼びかけるサイトには、メリンダ・ゲイツ夫人に対する長文の謝辞が掲載されています。1997年の早くから、彼女はシアトル子ども病院の支援に力を入れてきたようです。この謝辞の最後には、新しい歩行ケア病棟ができたことについて、多くの資金提供者の協力に感謝する一文もあります。上記のゲイツ財団2002年の年次報告に但し書きされていた「歩行ケア施設」のことでしょう。

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恒常的に病院に設置された倫理委のメンバーは他病院の医療職や地域の代表を含んでいるのに対して、2004年5月5日に召集され、アシュリーの両親の要望にゴーサインを出した特別倫理委員会のメンバーは、ワシントン大学とシアトル子ども病院の職員のみから成っていました。
2007.07.12 / Top↑
WPASの調査報告書には、アシュリーが手術で入院した際に病院に支払われた明細書が添付されています。

全額が保険で支払われたとされており、おそらく被用者保険で支払われたことを意味するのだろうと思われる箇所がこの中にあります(なぜか下線が引かれています)。

PREMERA MICROSOFT の部分。

PREMERAは大手保険会社の名前です。
2007.07.11 / Top↑
1月3日付けのLAタイムズの記事と
翌4日にシアトル・タイムズに再掲された記事とを注意深く突き合わせてみると、
既に触れた2行の他にも手を入れた形跡はあちこちに見られます。

細かく言葉を置き換えたり、小さな削除や追加がある以外に、
丸ごとのセンテンスの脱落が3箇所あります。

シアトル・タイムズで削除されていたセンテンスをLAタイムズから抜粋すると、
以下の3つになります。


①療法の主なリスクは手術から来るものだが、子宮がんと乳房癌のリスクをなくすという利点の可能性もあると医師は言っている。

②「もちろん成長抑制という選択肢が成長抑制の義務化につながるなどということは、決して望みません」とガンサー医師は言った。

③ガンサー医師の小児科ジャーナルでの症例報告によると、両親が医師らに相談した時に「家で娘の世話をし続けたいと望んでいるのに、成長が続くと、それがいずれは無理になってしまうということを両親は特に恐れているのだということがはっきりした」。


この時点で既に「だれに、何が、なぜ行われたのか」の基本的事実を確立するべく、
両親のブログと医師の論文を何度も読み込んで突き合わせていましたから、
上記3センテンスの共通項はすぐにピンときました。

これらは3点とも医師の発言に関する部分ですが、以下のように、
それぞれ発言の内容が両親の主張からは微妙にズレているのです。

①医師らは、子宮摘出はホルモン療法の副作用軽減の為であるかのように論文では書いていましたが、
ここでは子宮がん予防が目的と言い、また言を左右しています。

しかし両親の考えでは、「子宮摘出は生理と生理痛を除くため」、
「乳房芽の切除は大きな胸になるのを防ぐのが主な目的」で一貫しています。
がん予防はあくまで副次的なメリットに過ぎない、というのが両親の主張。
ここで医師の言っていることもまた、論文で書いていたこと同様に、
両親の主張に沿ったものではありません

②既に述べたように、両親のブログの副題は「(世の中の)Pillow Angelたちのために」です。

両親の考えでは、
この療法は他の障害児家族を助けるために広く受け入れられて実施されるべきものなのです。

③この部分については、「親と医師は言うことが違う ③論文の挙げる”なぜ”」のエントリーで紹介したように、
両親の考えはブログに明確に書かれています。

「私たちはアシュリーを家で世話できる期間を延ばすためにこの療法を求めたのではありません。
彼女の背が高くなり重くなっていったとしても、
私たちは決して赤の他人にケアを託すようなことはしませんでした」。

ケアが無理になって他人に託すなどということは元々彼らにとってありえないことなのだから、
恐れる必要もないのです。
彼らの目的は、何度も強調されているように、本人のQOLの向上。
それだけなのです。

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両親がブログで医師らの論文の内容をいともあっさりと 否定してみせていたことが、
改めて思い返されないでしょうか。

シアトル・タイムズに再掲された際に
元のLAタイムズの記事から消えてしまった上記3箇所の共通項とは、

医師らの発言が両親の主張とずれている、
つまり両親の気に入らなかったであろうと想像される内容だという点です。
2007.07.10 / Top↑
この事件について調べ始めてまもなくから、私がずっと不思議に感じていたことがありました。

調べ始めた当初、どこかの記事で父親の仕事はソフトウエア会社の重役だと読んだ覚えはあるのに、
その後の報道にはそれがまったく出てこないのです。

倫理委の席上、パワーポイントを使ってプレゼンテーションを行ったという情報も同様でした。

あれは自分のカン違いだったのかな、と一時は思い込みそうになったくらいです。
それくらい、最初の数社を除き、どこのメディアもこの2つの事実に触れていないのです。

「ラリー・キング・ライブ」では予め文書で両親に質問を送り、
届いた回答を番組中で紹介しています。
父親の個人情報をCNNは明らかに掴んでいるはずです。
それは多くのメディアで同じことでしょう。

既に報じられた事実なのだから、他のメディアが書いたところで、
とりたてて問題はないと思われるのに、なぜ申し合わせたように触れないのか? 

それは、ずっと、この事件を巡って私の頭に沢山あった小さな疑問の一つでした。

LAタイムズの記事から消えた2行を見ていると、その疑問がだんだん大きく膨らみました。

最初に父親に直接取材できたメディアがどれくらいあったのか、
私も全てを把握していない可能性はあるのですが、あまり多くはなかったと思います。

私の手元の資料では、まず3日のLAタイムズ。4日のガーディアン。それから5日のデイリー・メール。

このうち、
「父親はソフトウエア会社の重役である」、「倫理委でパワーポイントを使ってプレゼンを行った」
という2つの情報を含んでいるのはLAタイムズとデイリー・メール。
後者では、プレゼンで乳房芽の切除は比較的小さな手術だと主張したとの父親の言葉も紹介されています。
この前後に、この2つの情報を流したメディアが他にもあった可能性ももちろんありますが、
大事なのはどこが出したかということよりもむしろ、
その後でこの2つの情報がぱったり消えてしまったことではないでしょうか。

私の手元の資料では、この2つの情報が再び出てくるのは2月9日の例のSalon.comの記事。

しかし、
いったん表に出た情報がそれまでの1ヶ月間まったく消えてしまったというのも、
不思議な現象ではないでしょうか。

地元紙なのに、わざわざLAタイムズの前日の記事を再掲するシアトル・タイムズ。

その記事から消えた2行。

しかもその2行には、その後のメディア報道からぷっつりと消えてしまう情報が含まれていた……。

そして、

シアトル・タイムズがこの記事の2週間後に書いたのが、
あのヒステリックとも思える全面擁護の社説なのです。
2007.07.10 / Top↑
シアトル・タイムズの1月16日付の社説を読んだ時、
私は非常に注意を引かれました。

それまでに読んだ新聞の記事や論説はほぼ批判的なトーン、
少なくとも懐疑的なトーンに終始していたのに対して、
擁護の姿勢があからさまで、トーンにもヒステリックな響きを感じたからです。

(シアトル・タイムズの他は、1月5日のデイリー・メール紙の記事に強い擁護の姿勢が見られます。
もちろん見落としの可能性もありますが、私の手元の資料では,
メジャーな新聞ではっきり擁護を打ち出して書いたのはこの2紙のみです。)

この社説には「へぇ……」と、ちょっと驚きましたが、
一方で「地元の大病院だからかなぁ……」とも考えました。

とはいえ、この段階では、
この事件がシアトルで起こったという事実に特別な意味があるとは、
まだ気づいていなかったのです。

むしろ、この社説を読んだことで、
地元メディアならではの取材力というものがあるのでは……と、初めて考えました。
アシュリーの父親は最初の数日にほんのわずかの電話取材に応じただけでひっこんでしまったし、
医師らもその頃には取材に応じなくなっていましたが、
シアトル・タイムズなら、地元の強みを生かした独自の取材力で何かを書いているかもしれない
と思ったのです。

さっそく同紙のホームページでキーワード検索をかけてみると、1月4日の記事にヒット。

しかし、開いてみたその記事はとても不思議なものでした。
独自取材どころか、前日のロサンジェルス・タイムズの記事が再掲されていたのです。

確かにLAタイムズの1月3日の記事は、年明けの報道の皮切りでした。
3日にこのニュースを流したのはここだけです。
どこよりも早く2日に父親に電話取材を行い、
両親がブログを立ち上げたのは元旦の夜11時という詳細な情報まで掲載しています。

このLAタイムズの報道は貴重な第一報であり、
私もそれまでに何度も読み返していました。
しかし、翌4日には既に他のメディア各社がこぞって自社記事を掲載したのです。
その4日に、どうして地元の新聞社がわざわざこんなことをするのでしょう。
地元で起こった事件なら、「すわ」とばかりに自社記者を送り出すはずなのに?

再掲記事は、当然のことながら書いた記者の名前も同じだし、
その下にはthe Los Angeles Times とちゃんと元のソースも明記されています。
版権の問題もあるのだから内容は同じに決まっているとは思いましたが、
せっかく再掲だと気づかずにプリントアウトまでしてしまったのだからと、
軽い気持ちで読み始めました。

そして、まもなく不審を覚えました。

もう何度も読み返した3日のLAタイムズに含まれていた情報が、
シアトル・タイムズでの再掲には欠けているような気がしたのです。

そこで、この頃には既にかなり厚くなっていたファイルから
3日のLAタイムズの記事を引っ張り出して、突き合わせてみました。

すると、

A4版のプリントアウトで2行分。

LAタイムズにはちゃんと存在する2行分が、シアトル・タイムズの再掲では削除されているのです。

この削除に気づいた時、私はしばらく身動きできないほどの衝撃を受けました。
それまで、ある疑念が不定形に漠然と蠢いているだけだったのですが、
この2行を見つめているうちに、それは1つの仮説へと形を成し始めました。

シアトル・タイムズで消えた2行とは、

(倫理委の)会議で、父親――検討に関わった人の話ではソフトウエア会社の重役――はパワーポイントでプレゼンテーションを行い、この療法の利点をいくつか挙げた。
2007.07.09 / Top↑
シアトル・タイムズ紙は、シアトル子ども病院が子宮摘出についての違法性を認めた直後の5月10日にも、社説で擁護を繰り返しました。今度のタイトルはThe right decision for a “Pillow Angel”(「枕の天使ちゃん」のための正しい決断)。

冒頭の1文で「障害のある患者の特定の治療には裁判所の命令を求めるとの、子ども病院の方針転換は正しい」と書いてあるので、タイトルの言う「正しい決断」とはこの「方針転換」のことなのかと、つい考えてしまいます。しかし本文を読むと、この社説全体の趣旨はむしろ逆に、アシュリーにこのような医療処置を行うとした当初の決断そのものが正しいとの主張のようです。後半から終わりにかけての論旨は、ざっと以下のようなもの。

アシュリーへの明らかに急進的な治療の選択は軽率に決められたものではない。医師らは40人から成る倫理委員会の承認を得ている。無分別に決められたものではなく、慎重に検討されたうえでの決断なのだ。

医学的なメリットとしては……

……行われる対象としてはほとんどの人で正しくないかもしれないが、しかしこの療法はオプションとして残されるべきである。

……裁判所の役割とは、障害のある患者の医療決定が適切な人によって正しい理由で行われることを保障することであろう ――アシュリーのケースは、まさしくそういうものだったのだ。

この社説は「親が望んだ理由は正当なものであり、親が意思決定者となったことも正しいし、その検討過程も正しい」と言っているのであり、タイトルの「正しい決断」とは実は病院の方針転換のことではなく、アシュリーに行われた医療処置についての親と医師らの決断が正しかったと、改めて擁護しているのです。シアトル・タイムズ紙は全面的に親と医師らと同じスタンスに立っていることを、またも社説で表明しているわけです。

これに対して、同紙のウェブ・サイトの読者の声の欄で、Mark Merkensという人が「5月10日の社説は知らず知らずのうちに傲慢な行いを擁護している」と書いています。別記事で担当医が「いちいちこんなことを言われたら、病院でやっていることの半数で裁判所の命令が必要になってしまう」と発言していることに対して、裁判所の命令を要する医療処置は非常に少ないし、何よりアシュリーのケースでは意見が割れているではないか、と指摘する内容です。

鋭い指摘なのですが、しかし私がこの人の投稿の中で目を引かれた部分はunknowinglyという単語です。シアトル・タイムズはこの人が書いているように、本当に知らず知らずのうちに擁護してしまったのでしょうか? この捉え方はこの人の「新聞の社説だから中立の立場で書かれているはず」という予見、思い込みに過ぎないのではないでしょうか。
2007.07.09 / Top↑
1月早々の両親のブログ立ち上げから、メディアの報道は概ね批判的だったように思われました。そんな中、はっきりと全面擁護に回った新聞があったことをご存知でしょうか。

報道が最も過熱していたさなかの1月16日、the Seattle Times 紙は社説でこの問題を取り上げています。A careful decision to comfort an angel (天使を慰める慎重な決断)と銘打ったタイトルからして、擁護の意図をはっきりと打ち出しています。アシュリーを“Pillow Angel”と呼ばわることに対してはinfantilization(赤ちゃん扱い) ではないかと疑問の目を向けるメディアが多い中で、ここではニックネームですらない、引用符すらない「天使」。そして、またもお馴染みのcareful。もちろん内容も、タイトルが示唆する通りです。

この社説は「テレビでアンダーソン・クーパーやポーラ・ザーンが枕の天使アシュリーのケースを論じている映像には、どこか不快な(unsavory)ものがある」との1文で始まります。アンダーソン・クーパーとポーラ・ザーンはCNNの看板キャスター。執筆者は自分自身の不快感を多くの新聞読者も共有していることを前提に書いているようですが、多くの読者は私と同じく、なぜそれが執筆者にとって不快なのか理解できないのでないでしょうか。この冒頭の1文から受け取る印象は、タイトルと同じく「執筆者は完全にアシュリーの両親と同じ視点に立って書いている」というメッセージでしょう。実際、それほど長くもないこの社説の論点は以下の2点なのです。


アシュリーに行われた処置を批判する人の多くは障害児を抱えた家族の苦難など何も知らない。他人の事情をすべて分かるわけでもないのに親を批判すべきではない。

医療の専門家の倫理を疑う人もいるが、40人ものメンバーからなる倫理委員会が承認した以上、医師を批判するには当たらない。


倫理委のメンバーが40人もいたというのは、既に指摘したように、プレゼンを行った際に父親が誤解したものであり、 実際は18人だったようです。が、それよりも目を引かれるのは、They shouldn’t. という1文に象徴されるような、どことなくヒステリックなトーン。要するにこの社説は、アシュリーの両親と処置に関わった医師らを批判する人たちに対する、強い非難なのです。

しかも社説で。
社の公式見解として。
社をあげて、批判するなと金切り声を上げているかのように。

ちなみに結びは、「両親はアシュリーに可能な限りの最善の生活をと望んでいる。そして一番よく分かっているのも両親なのである(両親のブログを読んでみてほしい)」。

最後のカッコ部分は、「両親のブログさえ読んでもらえれば、そのことが理解できるから、誤解が解けるから」と言っているかのようです。


次回に続きます。
2007.07.08 / Top↑
2月9日付Salonの記事には、このたびの処置に批判的な立場の病院内の医師らの懸念として、「倫理委から外部の人が排除されたために、病院内の議論のニュアンスと複雑さが一般の人たちに伝わらない。そのために、他の障害児にそれだけ簡単に“アシュリー療法”が行われてしまうことになりはなしないか」との心配が書かれています。

この心配が言う「病院内の議論のニュアンスと複雑さ」とは、つまり「この一家だったから病院側の特例的な判断により認められたことであり、他の家族だったら起きなかったこと」との事情の特殊性のことなのではないでしょうか。アシュリーのケースは特例中の特例だったという事情が伝わらないために、本来は一般化されるべきでない“アシュリー療法”が他の子どもへと一般化されやすくなることを、反対した医師らは懸念していた、ということはないのでしょうか。

上記の心配に続いて、彼らが当初手術に反対した理由の1つは「このケースが前例を作ってしまうことを心配したため」だとも書かれています。

私が最も懸念するのも、この点です。もしもアシュリーのケースが実は「この一家だったから起こったことであり、他の子どもではまず認められなかった」と言えるほどに特殊な事情の下で行われたことであると仮定するならば、そんな極めて例外的なケースで重症児に対するこのような医療介入の前例が出来てしまうことは、恐ろしく危険なことなのではないでしょうか。

アシュリーに行われたことは、2年間も表に出ることはありませんでした。医師らの論文の内容や書き方を振り返っても、最初から論文発表が予定されていたとは思えません。

もしも万が一にも、2004年、病院サイドはずっと表に出さないつもりでやったことだったのだとしたら……? 

ところがその後、当時は予想もできなかった展開から論文発表を強いられ、さらに彼らの意に反して全てが表に出てしまったために、病院サイドは引くに引けないところに追い込まれてしまったのだとしたら……?

そのために医師らは、もはや倫理委で通常通りの検討を行ったかのようにごまかし続け、本当にこうした処置が重症児のメリットになるのだ、知的レベルが低い子どもにはそのほうがふさわしいのだと言い張る以外になくなっているのだとしたら……? 

そして、本当は前例になるはずのなかった症例が、今では危険な前例になりつつあるのだとしたら……? 
2007.07.07 / Top↑
前回、Cowan医師の「この家族には、そんなことは言えない」という意味深な発言を紹介しましたが、もう一人、シアトル子ども病院の神経発達プログラムのディレクターであるJohn McLaughlin医師も、同じ記事の中で病院内に相当な反対意見があった事実を明かした後で、重大な発言をしています。

In the end, the parents’ articulate and assertive approach to wanting this done is what carried the day for that one child. However, most of us have major reservations about it for anyone else.

結局、両親がこれをやってほしいと説く能弁と熱心(強硬?)な姿勢が、「その子1人については」その日の議論を決めたことになったけれども、「他の子どもについては」ほとんどの人が大きなためらいを抱いている、というのです。that one child というのは非常に興味深い表現です。ここには、「この子についてだけは認めてあげよう」とのニュアンスがありはしないでしょうか。

そういえば、医師らの論文の中にも、次のような記述がありました。

The committee also recognized that, although justified in this patient, growth attenuation should be considered in future patients only after careful evaluation of the risks and benefits on a case by case basis.

この患者においてはジャスティファイされるものの……」。どのようにジャスティファイされるのかの説明は例によって皆無なのですが、なぜか「この患者ではOKであるものの、今後の患者については慎重な評価の後にのみ検討するべき」。この文脈では、「この患者については慎重な検討をしなくてもOKだけど、今後の患者はそうすべき」とも読めてしまうのですが、それはともかく、ここでも「この患者」には「今後の患者」とは違う特殊な位置づけが感じられないでしょうか?

Cowan医師は「この家族に向かって、間違っているなんて言えない」と言い、McLaulin医師は「親が強力に主張したから、この子についてだけはやらせてあげようということになった」と言わんばかり。論文でも、理由は分からないものの「この患者ではジャスティファイできるが今後は……」。

この家族、この子一人、この患者……そういえば、論文も異様なほど親を意識して書かれていました。アシュリーの親と医師の関係性にも、通常の患者または家族と医師の関係性からすると不可思議なことが沢山ありました。(「親と医師らの関係性の不思議」の書庫を参照してください。)

この事件に関する資料を読むと、常に疑問に思われるのは「なぜアシュリーの親は医師に対してこれほど強いのか」という点、「なぜ医師らの意識の中で、こんなに親の存在が大きいのか」という点なのです。

アシュリー一家は、いわば特殊な、むしろ例外的な家族なのではないでしょうか。
そして、そのことが倫理委員会を“初めから結論ありき”にしたということは、ありえないのでしょうか。
2007.07.06 / Top↑
前回のエントリーで、「もしかしたら、当該倫理委の議論は親の要望を認める結論が“最初からありき“だったのではないか」との仮説を提示しました。実は、その仮説に立って読んでみると行間から医師らの苦悩(pain)がひしひしと読み取れる記事があるのです。

既に紹介した、2月9日付けのSalon.comの記事。年明け早々に論争に火がついて以来、子ども病院サイドがGunther, Diekema両医師以外にはメディアとの接触を禁じていた中で、唯一その他の医師らに取材したニュース・サイトです。病院内にはいわゆる“アシュリー療法”について深く懸念している医師らがおり、彼らによると、病院内の反対はそれまで言われているよりも大きなものだった、と記事は書いています。この記事の中で、生後5ヶ月時からアシュリーの主治医でもあり、WUのシンポでモデレーターを務めていたCharles Cowan(文書によってスペリングが違っているのでCowenかもしれません)医師は、倫理委の雰囲気を次のように語っています。

It was a really complicated discussion and everybody was emotionally distraught. Nobody was cavalier about this.

非常に複雑な議論」で、「誰もが激昂していた」のです。このような会議での検討で出席者全員が感情的になるというのは、ちょっと不思議な現象です。しかも誰もが激昂しているにもかかわらず、「誰も自分から進んで意見を述べようとはしなかった」のです。非常に緊迫した雰囲気が感じられます。率直にものを言いにくい重苦しい雰囲気。その場の雰囲気は、率直に語られることのない鋭い対立をはらみ、強い抗議をはらんでいたのではないでしょうか。

Cowan医師は、さらに続けて次のように言います。

On the one hand, we wanted to make it right for the family. When children are severely disabled, you can’t untangle their interest from their parents. (But when it came to backing the treatment, it was a very hard thing for us to violate our instincts and do that for parents and this to the child.

一方では、家族を助けてあげたい」との思いがあったといいます。「重症児の利益は親の利益と分かちがたい」のです。しかし、医師の苦悩を最も強く表しているのは、最後のセンテンスでしょう。

自分たちの本能(感覚が命ずるところ?)に逆らって、親のためにそれをしてあげ、(そのためにはすなわち)子どもにこれをすることは、私たちにとって非常に難しいことでした」。

violate our instincts とは非常に強い表現です。「医師としての良心を(自ら)踏みにじり」とも読めるのではないでしょうか。家族を助けてあげたいと親の希望をかなえてあげることは、同時に「子どもにこれをする」ことになる。「子どもにこれをすること」は彼らのinstinctsをviolate したのです。医師として、それはしてはならないことだと、彼らはやはり知っていたのではないでしょうか。

彼は他にも非常に興味深い発言をしています。

To say to this family, “You are wrong, you can’t have this procedure because we know what’s better for you and your child for the rest of your life,” is impossible for us to say.

この家族に向かって「あなた方は間違っています。生涯にわたってお子さんを含めあなた方にどちらがいいかを分かっているのは我々なのだから、あなた方はこの処置は受けられません」などと言うことは不可能だった、というのです。この発言からしても、医師らにはやはり「この親は間違っている」との認識があったのではないでしょうか。

しかし不思議なことに、間違っているとは思っていても、親に向かってそうは言えないというのです。医師は親のように一生子どもの世話をするわけではないから、とも聞こえますが、それならどの親に対しても医師は何も言えないことになってしまいます。最初の to this family に注目してください。Cowan医師は意図してか意図せずにか、ここで非常に重大な発言をしているのではないでしょうか。彼は to this family と言っているのです。「ほかならぬ、この家族に向かっては、そんなことは言えない」と彼は言っているのではないでしょうか。

次回に続きます。
2007.07.05 / Top↑
前々回、当該倫理委当日の記録の中の一節を引用しましたが、実はその中に不思議な形容詞が使われています。

The discussion was ………. painful….

倫理委の議論がpainful、苦痛に満ちたものだった、というのです。

倫理委の議論を形容するのに頻繁に繰り返されているのはcareful, extensive, lengthy, long などですが、ここで使われているpainfulとは、それらとはかなり趣の違う形容詞です。その他の形容詞が比較的客観的なものであるのに対して、painfulはどちらかという主観的な、ニュアンスの濃い言葉のように思われます。

これまでDiekema医師が倫理委について説明してきた内容からすると、まったく矛盾して不思議な形容なのですが、ここでもまた、うっかり「語るに落ちて」しまったのでしょうか。倫理委の議論の何が、誰にとって、どのようにpainful だったというのでしょう。

今ではセーフガードなど不要といわんばかりの発言に終始している医師らですが、実は去年秋の論文では「恣意的な適用」を懸念し、くどいほどセーフガードの必要を説いていました。もしかしたら論文を書いた時点では医師らには非常に強い良心の呵責があったのだけれど、その後は状況の変化と共に自己保身の必要に迫られて、それをかなぐり捨てざるを得なかったのではないかとの仮説を「医師らの論文の矛盾」のエントリーで提示しました。2006年秋にそれほどの良心の呵責があったと仮定すれば、実施を決定した2004年の倫理委員会では、彼らの良心の呵責はもっと強かったのではないでしょうか。

当該倫理委の記録に唐突に、場違いに登場するように見えるpainfulという形容を、この仮説の文脈で考えてみたら、どうでしょうか。つまり、倫理委での議論は医師としての彼らの良心にとってpainfulなものだったと考えてみたら、彼らがついこんな形容詞を使ってしまったことも、さほど不思議ではなくなるのではないでしょうか。

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これまで①~⑨のシリーズで検証してきた「倫理委の不思議」と、それ以前の様々な角度からの資料の検証からは、多くの不可思議が浮かび上がってきました。それらの不可思議に対して説明のつく状況というものを想像してみた時に、そこから立ち上がってくる疑問とは、次のようなものではないでしょうか。

2004年5月5日の倫理委は、もしかしたら“最初から結論ありき”だったのでは……? 
2007.07.05 / Top↑
この事件に関する直接的な資料(医師らの書いた論文、両親のブログ、メディアに引用・紹介された両者の発言)を原文で詳細に読んだ人は、特に論文を中心として医師らの発言に、ある種の誘導の意図を感じておられるのではないでしょうか。

誘導しようとの意図を誰かに感じる場合、我々は往々にして「ある特定の方向への誘導」を考えます。ところが、この事件で医師らが試みている誘導は「ある1つの方向に誘導しようとする」性格のものではなく、逆に「ある1点から遠くへと」人々の意識を逸らせるための誘導のように思われないでしょうか。

初めて医師らの書いた論文を読んでみた際、私はこんなに論理性を欠いたものが医学論文として通用するのか、という軽い驚きを覚えました。論理のパターンというものがないように感じられたのです。たとえば、2本の線を平行させて論じていくパターンだとか、蚊取り線香のようにぐるぐる周辺を回りながら核心に迫っていくパターンだとか、そのようなイメージ化をこの論文の論理について敢えて試みてみると、以下のような感じになります。

        ➙        ↓  ➚
             ←              ↓
                       ↑
        ←       ➘
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デタラメなところからデタラメな方向に論理の矢が放たれ、それぞれが交差することも並行して論じられることもなく、ただ放たれっぱなしにブツ切れていく。たとえば、政府の在宅化推進福祉施策について触れた論理の矢。たとえば両親が娘のメンスの始まりについて心配していたという記述の矢。過去に背の高い少女に行われたホルモン療法についての情報という矢やその副作用について語られた矢は、放たれてはいるものの議論が噛み合わないうちに、いつのまにか「リスクはない」ということになってしまいます。過去の優生手術に触れた部分の矢も同様です。これらはすべて、「触れた」、「挙げた」ということで役目を果たしているかのようです。このように「放たれた」というだけで役割を終えて、てんでに勝手な方向に失速して消えていく何本もの矢の間を縫うように、定義のない成長抑制の「方法」という矢、その「メリット」という矢、「症例報告」という矢、「リスク」という矢などが、矢継ぎ早に放たれます。倫理委のメンバーについて触れてもいないのに触れたように見せかける悪質なマヤカシの矢も紛れ込んでいます。そして、最後に「知的レベルが低い子どもの背を低くしたからといって、害が考えられるだろうか?」という極めて乱暴な論理の矢が放たれ、そのまま、あの奇妙な「親が望む気持ちはもっともだから、認めてあげればいい」との結論に終わるのです。

それぞれ交差することも平行して論じられることもないままに、一見デタラメな方向に放たれ、そのままブツ切れて終わっているように見えるこれらの論理の矢が、実はある1点から遠くへと読者の注意をそらせるために放たれたものであると仮定してみると、どうでしょうか。

もともと医師らは書きたくなかったのに、何らかの事情で書かざるを得なくなった論文なのではないかとの疑問は、既に何度も提示してきました。そこで書かざるを得なくなった医師らは、行われたことの内容を隠蔽し誤魔化すと同時に、これだけはどうしても知られたくないという1点から遠くへと読者の意識を逸らせようとの誘導を試みたのだとしたら?? 

論文での隠蔽とゴマカシが水泡に帰した1月以降、アシュリーに行われたことについては 両親の主張がそのまま自分たちの考えでもあるかのように必死に装いつつ、実は医師らはこの1点だけは隠しぬこうと、やはり「ある1点から遠くへ」と人々の注意を逸らせるために腐心しているのだとしたら?? 

医師らが、そこから人々の意識を逸らせたい1点、どうしても知られたくないらしい事実とは、なんでしょうか。

彼らが未だに詳細を語ろうとしないこと。
この点についてだけは触れようとしないこと。

それは、やはり倫理委員会での議論の中身ではないでしょうか。医師らが人々の意識を向かわせたくない1点とは、倫理委員会。すなわちアシュリーに対する今回の処置が承認された本当のいきさつなのではないでしょうか。
2007.07.04 / Top↑
WPASの調査報告書には、2004年5月5日の「シアトル子ども病院特別倫理委員会」の記録がExhibit Lとして添付されています。

この記録によると、委員会がアシュリー一家に会って担当医らから意見聴取をするのに1時間(なぜか親がパワーポイントを使ってプレゼンを行ったことは記録されていません)、その後の委員会内部での議論に1時間。議論の内容については、それぞれの処置についてリスクとメリットを秤にかけて、メリットの方が大きいとの議論が行われたと、記録されています。

ということは、倫理委の冒頭で両親が主張したことが、そのまま彼らの退室後の議論でもなぞられた、ということになります。両親のリーズニングがそもそもリスク対メリットの枠組みだからです。したがって、この記録だと、両親の退室後の議論は、親の主張を繰り返し確認するだけの議論だったということにならないでしょうか。既に検証したように、委員長自ら、両親の主張が通るように委員を説得することが自分の仕事だと考えてこの席に臨んでいたらしいこと、Diekema医師のこれまでの言動から推測すると、委員会内部の議論においても両親の意向を強く説く動きがあったということなのでしょうか。そうした動きが当日の議論を強くリードした(率いた?)ということなのでしょうか。

細かく挙げればこの記録にも不思議がいくつもあるのですが、特に不思議な箇所を1つ挙げると、以下の一節でしょう。

これらの問題についての委員会の議論は徹底的な、苦痛に満ちたものであり、提案を支持するかどうかについてメンバーが当初は大いに分かれてもいた。話題に上った点としては、

1.身長抑制が具体的にはどのようにアシュリーのメリットになるのか。
2.生理をなくす他の方法があるのではないか。子宮摘出よりも、そちらの方法を用いるべきでは?
3.乳房摘出がどのようにアシュリーのQOLを向上させるのか?
4.利益を受けるのは、ここでは患者なのか両親なのか?

不思議なのは、この一節が「議論/要約」という項目の最終部分であり、この次はもう「結論」であること。疑問をはさむ声があったと4点を挙げ、しかしその4点を巡る議論については一切触れないまま、次には早々と「よって委員会はアシュリーへのメリットがリスクを上回るとのコンセンサスに至った」と「結論」して記録が終わっているのです。

出席者から出されたという4点の疑問は、論争の中でも多く聞かれたものです。最初の2点は「倫理委を巡る不思議 ⑥親の主張をオウム返しする医師ら」で紹介したBBCのインタビューでインタビューアーがDiekema医師に投げかけた疑問とも全く同じ。が、そのインタビューでも同医師がはぐらかして答えなかったように、この記録でも、これらの疑問に対してどのような議論がされたのかは全く説明されません。

それらの疑問を巡る議論の具体は一切なく、しかしながら議論は「徹底的」に行われたと主張する。この「徹底的(thorough)」という形容詞を「慎重(careful)」と置き換えれば、この記録は1月以降Diekema医師がメディアに向かってやってきたのと全く同じ「はぐらかし」ではないでしょうか。

倫理委員会の記録には、一番肝心の議論の中身がありません。

それとも、当日行われたのは記録に残すわけにいかない議論だったということなのでしょうか。
2007.07.03 / Top↑
2004年5月5日の倫理委を巡る不思議について検証を続けているところですが、資料を読み返していると現在の病院サイドのウソが非常に気になるので、ここでちょっと閑話休題。

5月8日の記者会見のプレスリリースで、病院サイドはまたも大きなごまかしを行っています。

①成長抑制はアシュリーの幸福を保証する「唯一の方法」だった?

両親は「成長を抑制することが自分たちの娘の長期の健康と幸福を保証する唯一の方法である」と考えたと書かれています。両親は唯一の方法とまでは言っていなかったのではないでしょうか。また「成長を抑制する以外にアシュリーの健康と幸福が保障できない」というのは考えられません。これは医師らが正当化のために作ったウソでしょう。

②計画の具体化に関わった人が増えている

これまで検証してきたように、アシュリーの両親が思いついたアイディアを具体的な計画にする場にいたのは、Gunther医師でした。ところが、プレスリリースでは「両親、医師ら、神経科医、外科医、発達の専門医それに倫理学者(複数)で広範に検討した後に、アシュリーの成長を抑制する計画が出来た」とされています。しかし、それ以前に流出した情報から見る限り、親が持ち込んだアイディアが計画として具体化される過程にそのような多人数・多職種が関わっていた形跡はなかったのではないでしょうか。

③子宮摘出の本当の目的をここでも誤魔化している。

子宮摘出の理由についてプレスリリースは、両親が目的としていた生理と生理痛の除去には全く触れていません。「エストロゲンの副作用として予想された出血予防」と「レイプ被害にあった際の妊娠予防」の2つが理由であったように読めます。特に後者については「両親は大変心配していた」とも書かれていますが、両親のブログでは妊娠予防は、子宮摘出を決めた後で「たまたまくっついてきた利点」に過ぎませんでした。

④裁判所の命令が必要だと実は知っていたことを誤魔化している

この点についての事情は、記者会見・プレスリリースでは以下のように説明されています、

The committee’s opinion ….also noted that a “court review” would be required. The parents consulted an attorney and obtained a legal opinion that concluded the treatment was permissible under Washington state law without the need for a court order. This is where our system broke down --- our medical staff and administration misinterpreted this guidance from the family’s lawyer as adequate “court review”. However, the law is clear that a court order should have been obtained before proceeding with the hysterectomy.

倫理委は両親に対して裁判所の判断を仰ぐように勧告したけれども、両親が相談した弁護士が不要との判断を示したことから、担当医と病院幹部がそれでよいものと判断した。そこに「意思疎通の齟齬」があったが、法律では裁判所の命令が必要であることが明確である、との意。

しかし、WPASの調査報告書にはワシントン大学のインフォームド・コンセント・マニュアル(2001-2004)が添付されており、そこでは知的障害のある人の不妊手術には代理決定は不可、裁判所の命令が必要だと明記されています。また精神科の治療で代理人が同意できないものを挙げた箇所には、「この制限の意図は、その人の身体の尊厳に影響を及ぼす、侵襲性が高く不可逆な治療については、法的代理人が同意する前に裁判所の命令が必要であるということである」と書かれているのです。子宮摘出のみならず、成長抑制も乳房芽の摘出も、「その人の身体の尊厳に影響を及ぼす、侵襲生が高く不可逆な治療」に当たるのではないでしょうか。

担当医として一連の処置を主導したGunther医師はワシントン大学の職員です。このマニュアルの内容を知らなかったはずはなく、「法律を知らなかったから、親の弁護士が不要だと言うなら不要だと考えた」では、通らないのではないでしょうか。
2007.07.02 / Top↑
倫理委で具体的にどのような議論があったかについて、「リスク対メリット」の議論を行ったという以外に、医師らはどのように説明しているでしょうか。

まず去年秋の論文の記述から。
The treatment was requested by the parents and initiated after careful consultation and review by our institutional ethics committee.

我々の病院の倫理委員会による慎重な相談と検討の後に……

The committee met with the family, the patient and the patient’s physicians and carefully explored the family’s reasons for their request. After a lengthy discussion, the committee reached consensus that both the requests for growth attenuation and hysterectomy were ethically appropriate in this case.

委員会は……家族の要望の理由を慎重に調べた長い議論の後に委員会は……とのコンセンサスに至った

次に1月11日のCNNインタビューから
This is the kind of treatment we used very carefully.

これは我々がとても慎重に用いた治療なのです。

….it was our assessment after very careful consideration that the potential benefits would ultimately outweigh the risks.

可能性のあるメリットが最終的にリスクを上回るだろうというのが、とても慎重な考慮の後に我々が至ったアセスメントでした。

「長い議論」といっても、これまでにも見てきたように倫理委は2004年5月5日の1度きり。今年1月5日のSeattle Post-IntelligencerでのGunther医師の証言では、親のプレゼンと関係者の意見聴取の後「委員が反対ではないとのコンセンサスに至るのに1時間しかかからなかった」とのこと。これだけの問題に関して、たった1時間しかかけず「長い議論」と言えるでしょうか。

「とても慎重な検討」という抽象的で漠然とした表現は、何も説明していません。その議論がどのようにCarefulだったかという具体的な説明こそ、もっと出てきて然りと思われます。また批判を浴びている医師らの立場からしても、どのように「慎重」な議論が行われたかを具体的に説明する方が釈明としても有効なはずなのですが、そういう話はどこにもありません。Diekema医師は具体を語らず、ひたすらcareful な議論だったと繰り返しているのです。

ところで、5月8日に子宮摘出の手続きの違法性を認めた記者会見では、病院はこの点についてどのように説明しているでしょうか。

And it was in that context that after extensive review by physicians and ethicists that Children’s decided to go forward.

……子ども病院が実施に踏み切ったのは、医師と倫理学者による広範な検討の後で……

ここでは倫理委の議論のことのみを言っているとは限りませんが、やはり漠然と抽象的な「広範な検討」。

The ethics committee at our hospital was convened to discuss whether the treatment options suggested were in Ashley’s best interests. The committee’s opinion supported the recommended treatments……

この治療の選択肢がアシュリーの最善の利益に当たるかどうかを議論するために、我々の病院の倫理委員会が招集された。委員会の意見は勧められれた治療を支持し……

この箇所に至っては、議論の過程については言及そのものが皆無。召集された倫理委は、即座に意見が一致したかのようです。

(それにしても、いつ、誰が、誰に対して、この「治療」を「勧め」たのだったでしょうか?)

さらに
The decisions in this case were achieved only after long deliberation and discussion.

この症例における決定は長い考察と議論の後にのみ行われたものである。


これまで、このブログで検証してきた中に、医師らの「長い考察と議論」の形跡があったでしょうか。

両親のブログの方には「我々はたくさん考え、リサーチを行い」という下りがあり、確かに両親が“アシュリー療法”の考案から実現にかけて費やしたエネルギーと時間は、あの詳細なブログに注ぎ込まれた情熱と、これを世に広めたいとの熱意が物語っていると言っていいでしょう。

その一方、医師らがエネルギーを注いでいたのは、両親のブログ以前は、いかに事実を隠し誤魔化して論文を書くかという点であり、隠蔽の努力が無に帰した1月以降は、いかに両親の主張をなぞって自分たちの議論の不在をごまかすかという点でしかなかったのではないでしょうか。

そして、5月8日の記者会見当日、The Seattle Times の取材に対してDiekema医師の答え。
A very careful ethics committee determined that those procedures would most likely be in her best interest.

とても慎重な倫理委員会がそれらの処置は彼女の最善の利益になりそうだと決定したのです
 
ここに至ってもなお、Diekema医師は倫理委員会の議論を説明するに当たって、carefulしか形容詞を持たず、慎重な倫理委員会が決めたことだから問題はないのだと主張しているのです。抽象的で何も語っていないに等しいこの形容詞を何度も繰り返せば、人々が本当に慎重な議論が行われたと信じてくれると、Diekema医師は考えているのでしょうか。

確かに1月の“アシュリー療法”論争において、医師らが「倫理委員会で慎重に検討したことだから」と繰り返すのを、いかに多くの人が真に受けたかを振り返ると、Diekema医師の作戦は成功したのかもしれません。
2007.07.01 / Top↑