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Ashley事件の真相については、
前のエントリーで書いたように、
資料の詳細な検証から一定の仮説に至ったわけですが、

その後、当ブログがトランスヒューマニズムにこだわっている背景には、
以下のような、いくつかの疑問があります。

なぜ(どこで?)Ashleyの父親はこんなアイディアを思いついたのか。

子宮摘出だけなら、確かにこれまでも聞いたことがないわけでもない話ですが、
医師ですら聞いたことがないという乳房芽の切除
ホルモン大量投与による成長抑制と一緒にして、
一度に3点セットでやってしまおうなどというアイディアは相当に奇抜で、

いかに頭脳明晰なAshleyの父親にしても、
これほど複雑なアイディアが、ある日突然に天啓のようにひらめいたはずはなく、
どこかに“アイディアの種”があったはずだと思うのです。

その種が父親の頭の中で後日芽を出し、
ITならお手の物である彼の熱心なリサーチを経て
“アシュリー療法”という具体案に結実した──。

その種を、彼は一体どこで拾ったのだろうか……という疑問。

それから、

本当に本人のQOLが目的だったのかどうか……という疑問。

Microsoftの役員である以上、
一部メディアが書いていたように「中流階級」などではなく
Ashley専属の看護師でも介護者でもセラピストでも好きなだけ雇って
QOLくらい簡単に維持できるお金持ちのはずだから

本当に、親のブログに書いてあるように
本人のQOLが目的でやったことなのかどうか……?
(詳しくは、「とても単純な疑問」の書庫を。)

もう1つ、

なぜこの事件の擁護に登場する人たちには
一風変わった、しかし同じような匂いが漂っているのか……という疑問。
(詳しくは、「擁護に登場した奇怪な人々」の書庫を。)

(この点については、中断したままになっている
シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスの後半を聞いてから、
改めてまとめるつもりです。)

【追記】
その後、”A療法”擁護者の2つの系譜というエントリーにまとめました。



④それから、この事件の今日性というものが非常に気になること。
(詳しくは、「アシュリーの父親化する世界」の書庫を。)


……といった関心から、今年の年明けの論争からこちら、
気が向くままにあちこちの情報をつまみ食いしてきたわけですが、

トランスヒューマニズムがどういうものかという輪郭くらいは見えてくると同時に、
新興技術の発展が社会に様々なひずみをもたらしつつあることや
弱い者を押しのけ、踏みつけてでも、
強い者の論理がゴリ押しで通ろうとしている気配
を感じるにつけ、

今、Ashleyの問題に興味を持っている、
それゆえに、まだ結論が出ていない英国のKatieの問題にも注目している多くの人に、
ぜひ考えてみて欲しいと思うのは、

AshleyのケースとKatieのケースは
一見すると全く同じもののように思えるけれど、
実はまったく異質なものではないか、ということ。

どういう点で異質なのかについては、
今後、様々な角度から複数のエントリーで説明を試みようと考えていますが、

ここでとりあえず大雑把なくくり方をしてみると、

多くのトランスヒューマニストや
リベラルな(または過激な)生命倫理感覚を持った人たちと同じく、

Ashleyの父親は「強いもの」の側にいる人物であり、
“アシュリー療法”のアイディアも
最もきっぱりと白黒つけてモノが言える強者」の論理から生まれたものと思われること。

それに対して、Katieの母親のAlisonは、
彼らに切り捨てられようとしている弱者の側にいる人だということ。

娘の子宮を摘出したいと、子に対しては親の権力を行使しつつ、
世間に対しては弱者の側に立って声を上げているのだということ。
弱い立場から声を上げるからこそ、金切り声になるのだということ。

あのブログでのAshley父の
冷静この上ない論理的な文章とは違って。


------------------


この回、できればAshley父とKatie母の決定的な違いのエントリーと一緒に読んでいただければ。
2007.11.30 / Top↑
いわゆる“Ashley療法”を強く擁護した
Wisconsin大学のNorman Fost医師について、

当初は彼がAshley論文の著者であるDiekema医師の恩師であることから、
「助っ人を頼まれたか、または自ら助っ人を買って出たのだろう」と簡単に考えていたのですが、

その後、様々なところでFost医師の発言を読み聞きするにつけ、
コトはそれほど単純ではないかもしれない
と考えるに至りました。

私には、
Fost医師はAshley事件でキーパーソンの1人だったのではないか
という感触が強まりつつあります。

そこで、つい、
このブログの記事で「あのFost」と書いてしまうことが多くなってきたので、

彼がどのような人物であるか、
これまで当ブログで取り上げたエントリーを以下にまとめてみました。

これらFost医師の言動からは、
最も急進的な生命倫理感覚を持った研究者ら(例えばワトソンのような)のホンネが
透けて見えるような気がします。


“アシュリー療法”論争でのFost発言


その他の問題でのFost発言



シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでのFost発言

(Fostはプレゼン冒頭でAshley事件に触れ、
プレゼンでは主に「無益な治療」について語っています。)


(今のところカンファ第1日目しか聞いていませんが、
1月のDiekema講演までには2日目のプログラムも聞きたいと考えています。)


【追記】
で、こういう人物がFDAの小児科研究の倫理問題を検討する委員会の委員長を務めている。
これ、相当コワイことなのでは?

この回、できれば「生命倫理学者とは」のエントリーと一緒に読んでいただければ。
2007.11.29 / Top↑
“リベラルな生命倫理学者”どころか“過激派”と呼びたいNorman Fostの
またぞろコワイ発言が、お膝元Milwaukeeの地方紙に。

Child health study stirs compensation question
Journal Sentinel (JSOnline 11月25日)

子どもの肥満や喘息に影響する環境要因を調べようと
連邦政府の助成を受けてWaukesha郡が行う長期追跡調査に参加者を募るに当たり、
謝礼をどうするかという倫理問題を巡って議論が起こっている、
というニュースです。

その追跡期間が21年間に及ぶものだから、
ボランティアで我が子を参加させてもいいと考える親が少ないのも道理。

そこで、
子どもに検査を受けさせるたびに現金だ、
いや野球のチケットだ、
電気代支払いチケットだ、
無料の音楽レッスンだ……
とケンケンガクガク議論になった挙句、
担当者らは医療倫理学者に意見を求めた。

そう。あのFostに。

難しいのは参加登録させることよりも、
長期に渡って参加を続けさせることだと
まずは当たり前のことを言うのですが、

それに続いてFostは、
「現金や物品の提供で誘うのが倫理上の問題になることはあるが、
この場合はそうする方が適切である」との判断を示し、
さらに以下のように述べます。

研究の被験者は社会に貢献しているわけだから。

大きなリスクを負えば負うほど、不便を引き受けるならそれだけ、
そのリスクと不便に相応のお金を払われて然り。

Fostは、つい先日も米医師会のジャーナルで、
医学実験で患者を守るためのプライバシー法が施行されてから
医師らが実験をしにくくなったことに不平を鳴らし、
同法の見直しを提言したばかり。
(詳しくは、Fostらが「プライバシー法は医学研究のジャマ」のエントリーに。)

あちこちでの発言をみると、
障害者や知能の低いものへの蔑視が露骨な人物でもあります。

一方、世間では
シアトルのバイオ産業が行った
遺伝子治療の治験で関節炎の患者が急死したケースでは、
実験の様々な疑問が指摘されているにも関わらず、
それらが特に問題となることもなく、
「被験者は深刻な反作用で死んだが、使用したウイルスによる死ではない」
とワケのわからない話のうちに実験が再開されたりもしている昨今。

このような背景の中で、
「被験者にはリスクと不便に応じた金銭が支払われて当然。
社会に貢献しているのだから」
との発言を読むと、

そこからは功利主義のホンネが聞こえてこないでしょうか?

「多数の幸福のために、
一部を犠牲にすることはやむをえないコラテラル・ダメージ

そして、過激派生命倫理学者のホンネも。

「医師や科学者が不便をしのんで被験者を守る必要などない。
リスクには金銭で報いてやればいいのさ。
 そうすれば貧乏な連中が喜んでリスクを引き受ける。
 実験がやりやすくなり、テクノロジーはさらに進歩する。
それが社会貢献ってものだろ?」
2007.11.28 / Top↑
思ったのですよ。

京都大学の山中教授チームが万能細胞を作った、
米Wisconsin大学のThomson教授チームもまもなく同様の成果を発表する、
と聞いたときに。

「あ、あのFostのいる大学だ」と。

でも、まさか直接Thomson教授とつながりがあったとまでは、
想像していなかったのですが、

Thomson教授にインタビューしたNYTimesの記事(11月22日)の中に、
Norman Fost医師の名前が出てきました。

インタビューによると、
Thomson教授は最初からES細胞研究には倫理上の懸念を抱えていた、
といいます。

大学院生の時にサル胚からES細胞を取り出すことに成功し、
その後、本当に意味のある研究をするには次の段階はヒトのES細胞でなければ、
と考えたものの、躊躇があったとのこと。

そこで彼はWisconsin大の倫理学者2人に相談します。
95年のことです。

1人はR.Alta Charoという法学の教授。
もう一人が、このブログで頻繁に取り上げてきた、あのNorman Fost です。

相談を受けたFostは感服したと語り、その理由を以下のように述べています。

科学の歴史の中で、
科学者が実際に実験を始める前にその倫理上の問題を慎重に考えてみようとするなんて、
滅多にないことだよ。

倫理学における最も大きな問題は、問題を予測しないことさ。

ところが、Thomson教授とFost教授は、
世論が問題にする点については読みを誤ったのです。

世論が一番問題にするのは、
例えばラットの頭に人間の脳を作ることだってできる「ES細胞の技術上の力」
だろうと、2人は考えたのでした。

当時はこれが一番問題になるだろうと考えた。
生物学の歴史に前例のないことだからね。
ラットの体に人間が閉じ込められてしまう図というわけだろう。
ラットの脳が全部完全に人間の細胞になってしまったら、どういうことになる?
それは人間の脳なのかね? 
しかし、どうやって研究する? 
まさかラットに尋ねるわけにもいかないだろ。

(Fostは生命倫理カンファレンスのプレゼンを聞くと、こんな口調で上からモノを言う人なので。)

結局Thomson教授は、
人間の細胞発達のメカニズムを解明して、
アルツハイマー病やパーキンソン病の治療の可能性を開く重要な研究であること、

使用する胚は生殖医療のクリニックから得て
研究利用されなくても破壊される余剰胚であること

の2つの理由から、
ヒトES細胞の研究に着手する決断をしたとのこと。


        ===


しかし、Fost自身が述べているように、
「倫理学の問題は、問題を予測しないこと」であり、

「科学者が倫理上の問題をろくに検討しないうちに
さっさと実験を始めてしまう」ことが問題であるなら、

なぜ彼自身、

事実上の解禁状態になる前に慎重に検討しようという世論の声に耳を傾けず、
スポーツでのステロイドの使用問題でも
“Ashley療法”論争でも
むしろ擁護・推進論の先頭に立つのか?


生命倫理関連の諸問題について、
Fost医師のあちこちでの発言を読み聞きすると、

「周辺の雑音など相手にせず、
医師・科学者の思い通りに既成事実をどんどん作れ」

と過激な号令をかけているようにすら思えるのですが?
2007.11.28 / Top↑
11月17日のNYTimesに
個人の遺伝子情報を提供するサービスが
アメリカで始まりつつある(少なくとも3社)とのニュースがあり、


自分のDNA情報をゲットするのに必要なのは
1000ドルと唾液サンプルだけ。

記事は記者の体験記で、
大して役に立つ情報はまだ手に入らないというのが結論のようですが、
記事の中で注意を引かれたのは以下の3点。

①記者が自分の遺伝情報を入手する前に
その結果によっては保険契約ができなくなるのかどうか
保険会社数社に問い合わせたところ、
「現時点ではそんなことはないが、
このようなサービスを提供する会社が成功して
個人の遺伝情報が一般化してくれば
将来的には契約に影響する可能性はある」

②送られてきた自分の遺伝情報を開く前にモニターにあった警告文は、
以下のようなものだったようです。

これは決定的な情報ではなく、
今後の発見によって全く覆ってしまう可能性があります。

仮にある病気にかかる確率が高くても、予防するすべがない可能性もあります。

また、この情報は医学上の診断ではありません。

これらの点をよく考えた上で、なおかつ検査結果を見たいと望む方は、
こちらをクリック。

③自分のDNAサンプルは検査に出しても、
現在3歳の娘のDNAサンプルは検査に出さないことにした記者が
その理由を語る下り。

なぜなら娘のことでは、
どんなことであれ前もって決まっているとは考えたくなかったから。
娘がピアノを弾きたいと言い出したら、
少々リズム感が悪かろうと、そんなことはどうでもいいし、
100メートル走に出たいというなら、
別に彼女が短距離走者向きの遺伝子を持っていなくたって全然気にならない。


それで思い出したのは、
いつだったか見たCNNのLarry King Liveの1コマ。

「頭のいい子を育てるための○箇条」的な本を出したばかりの人が登場した回で、
どんな「頭のいい子」、「能力の優れた子」だって親の育て方次第との自説を
能弁に展開する著者が勢いに乗り、
「Larry、 あなたは子どもに何を望みます?」と、
答えが何であれ、自分には可能にしてあげられるとのニュアンスで問うた際に、
King が答えたこと。

「私が子どもに望むこと、ですか?
子どもたちには、ハッピーになってほしい」

その時の、ゲストの鼻白んだ顔。
え……?
と、一瞬まるで理解できない言葉を聞いたかのような。

「……いや……だから、それはもちろんなんだけど、
だからこそ、そのために親は、
子どもにいろんなことを望むし、身につけさせようと思うわけでしょう? 
これができて欲しいとか、こういう才能があったらいいとか」
と、盛大なスムース・トークを再開した彼の顔に書いてあったのは、

子どもにハッピーになって欲しいって、
なんてバカなことを言うんだ?
そんなの当たり前だから、こうして、
「子どもをハッピーにするための方法」を説いているんじゃないか……。

でも、

「子どもがハッピーになる」のと
「子どもをハッピーにする」のとは、

別のことなんですよね。
2007.11.27 / Top↑

FRIDAは

生命を尊重する立場(pro-life)と障害女性問題運動家とは
表面的には同じ主張をしているように見えるが、
実際には全く異なった立場に立脚して問題を眺めているのだ、
ということを書いています。

それを読んで、ふっと思ったのは、

これはなんだか、
生命倫理のリベラル派と保守派とが
非常に限られた問題においては反対の主張をしているように見えながら、
それぞれ、その背景でどういう価値観をもっているかを考えると、
実はかなり近いところに立っているように感じられることの
(私にはどちらもレッドネックに思えるというだけのことですが)
ちょうど裏返しみたいな現象なんじゃないかなぁ……と。

一方、
障害を理由に命を切り捨てることに対しては、
Emilioのケースで病院側の「無益な治療」宣告に抗議はしたものの、
FRIDAの中には女性の選択権を尊重する立場(pro-choice)をとる人が多く、
そのことのジレンマも上記FRIDAの文章からは感じられます。

私自身、
「ケア負担を担うのは母親だから、母親に中絶の選択権がある」と主張するLindemann論文
「子育てとは不確定な未来を引き受けること」だとして反論するDreger論文(共にHastings Center report)
を読んだときに初めて、

pro-choiceの立場のフェミニストは選択的堕胎にどういうスタンスを取るのだろう?

と、遅ればせながら、やっと考えがそこに至って以来、
ずっと頭に引っかかっていることもあって、

FRIDAの文章に、そのジレンマの悩ましさを感じた時に、

「神聖な義務」の問題で血友病患者の人たちが直接の抗議行動に出られなかったジレンマ
も思い起こされて、
(これも、ずっと考えるのをやめられないでいるので)

外に向かって白黒きっぱりしたものを言うのが難しく、
グレーで曖昧なところに立ちつくしたまま、
自分の中にあるものを手探りしてみるかのように、
両義性とか迷いとか揺らぎとかの中で、
ぐるぐるしてしまう人の歯切れの悪さ、

その割り切れなさのことを、
やはり、また考えてしまう。

         ―――――――

例えば、

白人と黒人、
男と女、
健常者と障害者、
親と子ども
富者と貧者

といった、権利・利益が衝突する関係を軸に眺めてみた時に、

「神聖な義務」に憤りながら直接の抗議に踏み切れなかった
血友病患者の人たちにあった割り切れなさというのは、
「健常者と障害者」の衝突の中では「障害者」の側に立って憤っている自分が、
「親と子ども」という衝突の中では、「親」の側に立たざるを得ないジレンマ
だったのでは?

(「障害のある子どもの親」もまた、
弱者である子を守る役割を担い、
障害児親子として差別される側に置かれると同時に、
自分自身は子どもに対して抑圧者にもなりうる強者の位置にいる
というジレンマを背負っているのだなぁ……と。)

pro-choiceの障害女性問題活動家の割り切れなさもまた、
「健常者と障害者」「男と女」「親と子ども」の権利の衝突の中で、
一貫して弱者の側に立てないことの悩ましさなのかも?

……ということを考えていると、

いわゆる生命倫理の「リベラル」とか「保守」というのは
主張していることは一見まるで反対のように思えるけれど、
それぞれの背景にある価値観に目を向ければ
権利が対立する上記の関係の中では、結局どちらも前者の側に立っているように思え、

だからこそ、彼らは白黒きっぱりとものが言えているのかもしれず、

(この段で行くと、最もきっぱりとものが言えるのは
「裕福な白人成人男性の健常者」ということになりますね。)

そういう、きっぱりと割り切れた議論だけが進んでいくと、
上記のような利益・権利の衝突の中で
後者の利益はイデオロギーの生命倫理の中で見えにくくされたまま、
結局は切り捨てられていくのではないか、と。


それならばこそ、
こういう割り切れなさを抱えている人が、
その割り切れなさの中にあるものを言葉にして
議論の中に投げ込んでいかなければならないのでは……と思うのですが、

なにしろ「割り切れなさ」を語ろうとするのだから、
言葉になりにくく、どうしても歯切れが悪くなって、
それがまた悩ましいのですね。
2007.11.27 / Top↑
以前、以下のエントリー


で、遺伝子治療の治験で死者が出たケースを取り上げましたが、

NIH(国立衛生研究所)の調査報告が来週12月3日に出るのに先駆けて、
FDAがこの研究の再開を許可したとのニュースが。

Gene Therapy Study Is Allowed to Resume
the Washington Post (11月26日)

被験者の死因が
遺伝子を運ぶために使われたウイルスによるものではないため再開だというのですが、

被験者の夫にはこの決定は知らされていませんでした。
その他にも不可思議だと思うのは、

Targeted Genetics社が
「今後は熱がある被験者に注射は行わない」
との改善点を挙げている他には、
被験者の死が報じられた際に指摘された
研究の手続き上の問題点について、
なにも説明されていないこと。

8月に指摘された問題点とは、例えば

・もともと連邦遺伝子組み換え諮問委員会に諮られた際に、
インフォームドコンセント用資料における説明の不十分をはじめ、
いくつもの疑問が指摘されていた点。

・患者の関節炎の治療を担当している主治医が実験への参加を促した点。
(参加者を募ることで利益を得る医師が自分の担当患者を誘っては、利害が衝突する。)

・インフォームドコンセント用の説明資料を手渡したその場で
同意書にサインさせている点。

・実験のデザインを審査する審査委員会が
Targeted Genetics社に雇われた民間企業であった点。


-----------

Targeted Genetics社のHPにも11月26日付でその後の経過報告がアップされているので、
それを覗いてみると、

同社のCEOは死亡した被験者と家族に対して遺憾の意を表明した後で、

死因は実験で使われたウイルスによるものではないとしながら、
同社は今後もFDAと独立したデータ安全監査委員会と協力して
なるべく早く深刻な反作用の原因究明に努める、
と述べています。

ということは、
実験の反作用で死んだことは認めているということではないでしょうか?

それなのに、どうして実験が再開されるのか????

また、同じ文章の後半は、
この実験については既にあちこちの学会で中間報告が行われ、
治療の可能性が評価されているといった内容になっています。

まるで、被験者が1人死んだことなど、
取るに足らない些細な出来事ででもあるかのように。
2007.11.26 / Top↑
”Ashley療法”について当初から抗議行動を続け、
アメリカ医師会とも交渉している
FRIDA(Feminist Response In Disability Activism)が
Ashley事件についてこれまでの動きをまとめた記事を
11月25日付でHPにアップしています。


FRIDAがアメリカ医師会に要求しているのは、

①公式に“アシュリー療法”に反対すること
②the Community Choice Actを支持すること
③アメリカ医師会内部に障害のある患者と障害のある医師の利益を代理する委員会を設置すること。

(③の要求など、 あのFost医師がさぞや頭から火でも噴いて激怒していることでしょう。)


これまでのところ、医師会側はthe Community Choice Actは支持。

The Community Choice Act of 2007とは議会に提出されている法案で、
障害者と高齢者に地域生活への支援サービスを保証するべく、

メディケア・メディケイドの給付対象を現在の入所施設でのケアだけでなく、
本人の選択により在宅生活を選ぶ場合の在宅ケアサービスも給付対象とするもの
のようですが、

The Community Choice Act of 2007の詳細は以下に。


【追記】

FRIDAのHPには Emilio Gonzalesの事件についての記事も同時にアップされたので以下に。



ちなみに当ブログの同事件に関連したエントリーは以下。

2007.11.26 / Top↑
米国医師会ジャーナル(JAMA. 2007; 298(18):2164-2170)に
医療プライバシー法は疫学研究の邪魔だ、とする論文が掲載されています。

著者は次期疫学学会会長のDr.Roberta B. Ness
(Pittsburgh大学Graduate school of Public Health)。

疫学専門医へのアンケート調査を行ったところ、
患者情報へのアクセスを限定するこの法律のおかげで医学研究が阻害されて、
無駄にコストが嵩んでいる、と。

ここで問題とされている医療プライバシー法とは、
1996年に医療におけるIT化の推進とその安全な運用を促す目的でできた法律である、
医療保険の相互運用性と説明責任に関する法律(医療プライバシー法)
HIPAA : the U.S. Health Insurance Portability and Accountability Act

2003年に最終的なセキュリティ規制が発表され、
2005年4月から施行。

ところで、このジャーナルの同じ号には、
この論文に関連してEditorialが掲載されているのですが、

その著者が、
あのNorman Fost医師(Wisconsin大学)とRobert J. Levine医師(Yale 大学)。

Fost医師はAshley論文の執筆者Deikema医師の恩師で、
Ashleyを「シボレーのエンジンを搭載したキャデラック」に喩えるなど、
Ashley療法の擁護に大奮闘した人物。
また、その他の問題でも
スポーツでの薬物による能力強化をよしとする「ステロイドの専門家」、
さらに重症障害新生児の治療などコストがかかるばかりで無益だと「無益な治療」論を提唱しており、
考え方が全体にトランスヒューマニズムに非常に近い医師です。

そのFost医師らが上記の問題に関連して書いているのは、

この問題の根源はOffice of Human Research Protection とFDAであり、
彼らが些細な揚げ足を取ってペナルティを科すから、研究組織が萎縮して研究が滞る。
連邦当局、研究組織、認定機関、研究者と研究参加者が加わって
現制度を見直すことが必要。

Fost医師はシアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスでも、
無益な治療をテーマにしたプレゼンにおいて、
「医療の現場で決定を行えるのは医師だけであり、
裁判所の関与など認める必要はない」といった発言を繰り返し、
“医師の裁量で決めるべきことに介入してくる裁判所”への敵意が顕わでした。

ここでも、
「些細な揚げ足を取ってペナルティを科すから……研究が滞る」
といった表現にチラついているのは
Fost医師らしい攻撃性であり、

プライバシー法によって自由な研究ができなくなったじゃないかと、
やはり“医師の裁量権を侵害するもの”は許しがたいようです。



2007.11.26 / Top↑
あまり論理的な考えとはいえないのですが、
ずうっと前から漠然と考えているのは、

医学・医療の中には
「バブリーな医学・医療」と「スローな医学・医療」とがあるのではないか、と。

「治す医学」と「支える医学」と言い替えてもいいのかも知れず。

もちろんバブリーな医学・医療の典型は、
再生医学や遺伝子治療などの最先端医学でしょうか。
果敢に不可能に挑戦する「攻めの医学」。
また「死は敗北」と捉えてきた「治す医療」。

スローな医療の典型は……なんだろう???
僻地医療。
在宅で寝たきりのお年寄りを支える地域医療。
ホスピスもそうかもしれない。
障害児・者の医療もそうでしょう。
治しようのないものを見捨てることなく、
病や障害と付き合いながら如何に生きるかを「支える医療」。
死を敗北と捉えず、その人らしい死に方に「寄り添う医療」。

例えばアルツハイマー病の医学・医療でも、
治療法を求めて地道な研究を続ける先端医学もあるだろうし、
現に今苦しんでいる目の前のアルツハイマー病の患者さんを支えるために、
医療になにができるかを現場で試行錯誤しながら模索する医療もあるとすれば、

アルツハイマー病の治療法も見つかって欲しいけれど、
今現在もアルツハイマー病にかかっている人はいるし、
これからもいなくなりはしないことを思えば、
告知されたばかりの初期から終末期に至るまで、
いつ、どのようなケアが望ましいかというノウハウも
忘れずに研究して欲しいと思うわけで、

そういうことを考えると、
往々にしてバブリーな医療のほうが権威が大きくて
スローな医療よりも上位にあるものとされがちなのは、
本当にそれでいいのか、ということ。

そして、

医療倫理、生命倫理という学問は、
バブリーな医療の論理とだけ繋がっていて、
スローな医療の論理とは連絡が切れているのではないかと思えること。

今の社会の空気に滲んでいる要請とは
バブリーな医療への支出は問題視しないけど、
(コストで考えたらこちらの方がよほど大きそうなのに)
スローな医療は無駄な支出だから切り捨てたい
ということなのではないか、と思えること(注)。

しかし、

「限られた医療資源の分配」という問題は
バブリーな分野の視点からだけでなく、
スローな分野の視点からも考えてみるべきではないのかということ。




(注)
Ramez Naamは「超人類へ!」の中で、
人間がみんな元気になり不老長寿になれば、
莫大な医療費が節約できると主張していますが、
(そして、それはNaamだけの主張でもないですが)

彼は節約できる「スローな医療」費だけを問題としているのであって、

みんなが不老長寿になるべく新興テクノロジーが駆使されるわけだから、
そのための「バブリーな医療」費こそ莫大なものに嵩むのでは……?

【追記】
でも、バブリーな医療は莫大な医療費を使わせて、それが膨大な富を生むのですよね。
スローな医療はお金を生まないけど。
だからこそ前者はバブリーな医療なわけで……?
2007.11.24 / Top↑
恥をさらすようですが、
なにしろ無知なので、

生命倫理学者というのは、
「急速に進歩・発展する科学の暴走に歯止めをかけ、
人の命や尊厳がおろそかにされないための仕組みを
検討・考案してくれる人たち」
のことなのだと、

つまり「命を守るための倫理学を研究する人」なのだと、

取り立てて深く考えることなどしないままに、
漠然とイメージしていました。

ところが、Ashley事件から興味と注意を引かれるままに、
ちょこちょこ読み聞きしてみると、

どうも、そうではない……?

むしろ、例えば
「弱者にはもうお金も手間も無駄遣いしたくない」という社会のホンネを
「限られた社会資源の公平な分配」というフレーズに置き換えるワザに
象徴されるように、

強者の論理による命や弱者の切り捨てを
もっともらしく合理化する屁理屈をでっちあげることが
生命倫理学者の生業だったのかもしれない……。
と、

つまり、生命倫理学者とは、
「命の切り捨てを合理化する理論武装を担う人」のことだったのか、
と思えてきたりもして、

だから、その段でいけば医療倫理学者とは、
「限られた医療資源をいかに公平に分配するか」という問題提起によって
「君たちには、もう医療費を使わせない」と決める相手を選定し、
それをもっともらしく合理化して批判を封じる作業を
担っている人たちなのかも知れず……。

もちろん、そういう学者ばかりではなく、
命を守る倫理学をやっておられる方も沢山おられるのでしょうが、

しかし、命の切捨てを合理化するナントカ倫理学者が沢山いるということは、当然ながら
そういう要請が社会の側にあるということなのでもあり、

(そして、もちろん、
 そこには新興技術の発展がもたらす膨大な利権を巡って
 しのぎを削る人たちがいるということでもあり)

それこそがコワイ事実なのではないかと思う。

Ashley事件でも、
メディアには多くの生命倫理学者が登場しましたが、

その中にも当然のことながら、
社会の強者らの“御用学者”みたいな生命倫理学者もいたわけで、

そういうことを考えるにつけ、
Ashley事件については、

「重症障害児の体に過激な医療で手を加えることの是非」
の問題として捉えるだけではなく、

むしろ、このように強者の論理が弱者を切り捨てていこうとしている
世の中の大きなうねりの中に位置づけた上で、考えなければならないのではないか……と。
2007.11.24 / Top↑
Hughesはその著書 “Citizen Cyborg”において、

近未来の民主的サイボーグ社会は、
生命のタイプ別に与えられる権利を規定するとしています。

彼の分類では生命のタイプは4つ。

まず、最も上のランク。
完全な市民権(自己決定、投票と契約を結ぶ権利)を与えられるのは、

「理性ある成熟した人格」という意識状態にある
「強化されている・いないを問わず大人の人間と、認知能力がそれに匹敵するもの」。

障害市民権(生命と、完全な自己決定を行うための補助への権利)が与えられるのが、

人間の子ども
認知症と精神(知的の意?)障害のある人間の大人
Great Apes

彼らの意識状態は「人格(自己意識)」。

「感覚のある財産」というステイタスで
(不要な苦しみを味わわない権利)を与えられるのが、

ほとんどの動物
胎児
植物状態の人間

意識状態は「Sentience感覚がある(快と痛)」

権利を持たない「財産」と規定されるのは、

脳死の人間

植物
物品

彼らの意識状態は「Not Sentient 感覚がない」。

       ―――――

ところで、

この表の次の225ページで、
Hugesはロックト・イン症候群について次のようなことを書いています。

ロックト・イン症候群にかかっている人がアメリカでは25000人もいて、
彼らは徐々に体の機能を奪われてコミュニケートできなくなっていく。

耳も聞こえ目も見えるし、
体の内部では意識もあり覚醒しているのだが、まぶたさえ動かせない。

このような恐ろしい状態に陥りつつある患者は、
自分で命を断ちますか、それとも命を維持する手段を差し控えますか、
と尋ねられる場合が多いが、

脳に埋め込んだチップによって、無線信号を使って筋肉を動かしたり、
幹細胞で痛んだ神経の修復する、といった現在行われている研究が進めば、
彼らのように全身が麻痺した患者も失った機能を回復することができる。

(太字部分を除き、要約。)

私に理解できないのは、

・どんな患者に対してであれ、
「自分で命を断ちますか」と医療者が問うことはありえないでしょう。

・ロックト・イン症候群の患者がどうやって「自分で命を断つ」ことができるのか?
まず不可能でしょう。その意味でも、こんな問いはありえません。 

・仮に可能であるとして、問うた人は、では目の前で患者に自殺させるのでしょうか? 
それとも幇助でも? それは犯罪では?

・自分で死ぬか、生命維持をやめるかと問われて、
 それに、どんな手段であれ返答ができるのであれば、
 その人は工夫次第でコミュニケーションが取れるということでは?

(いよいよ瞬きもできなくなった患者の肛門に指を突っ込んで
コミュニケーションをとったという医師の話を読んだこともあります。)

・ロックト・イン症候群が、すなわちターミナルだというわけではなく、
生命維持を取りやめることは違法な殺人行為なのでは?

……と考えると、太字部分の記述は明らかに事実に反してるのはないでしょうか。

そもそも彼自身の分類によると、
ロックト・インの患者は①の完全な市民権を与えられる「人間の大人」のはずですが、
なぜか「安楽死や生命維持の差し控えの対象となる患者」と捉えられており、

Hughesはロックト・インの患者を、どこか植物状態と混同しています。

「重い障害」 = 「すぐに安楽死させていいほど悲惨な状態」
という短絡的な等式が彼の無意識の中に出来上がっているのではないでしょうか。

そして、それは自分が作った分類すら超越するほど強烈に刷り込まれているのでは?

それとも、これは意図的にやっていることなのか──?


Ashley療法論争の時にも、
擁護するためにメディアに登場した人たちの発言には
これと同様の混同が見られました。

AshleyはHughesの分類でいけば②に当たるはずなのですが、

その分類に従えばAshleyに与えられるはずの
「完全な自己決定を行うための補助を受ける権利」によって、
英国でKatieのケースで行われることになったように、
Ashley自身の利益を代弁する代理人をつけて然るべき代理決定の手続きを……
という考え方を採らず、

Ashleyを②ではなく③と捉えていました。

Hughesのみならず、上記のHughesの分類に影響を与えたと思われるSingerも同様

ロックト・イン症候群と同じく重い知的障害も植物状態と混同して、
「自ら命を断ちますか? それとも生命維持を差し控えますか?」と
問われてもおかしくないほど悲惨な状態だと考えていたわけです。


「これが新時代の民主主義」だとの触れこみで、
このような分類を提示しておきながら、

彼らの主観や勝手な思い込みで
①や②に当たるはずの人がいつのまにか
ターミナルな状態や植物状態とすりかえられてしまうのであれば、

それは、なんと恐ろしい民主主義であることか。
2007.11.23 / Top↑
アフリカ人は遺伝的に知的レベルが低いとの人種差別発言を謝罪し、
ワトソン博士は責任を取って公職を辞しましたが、

人種と知能の相関関係について、
むしろ科学者以外の間で先走った関連付けが広がっていることを懸念する論評が
11月11日のNew York Timesにありました。


世論の批判を浴びて研究資金を失いたくない科学者たちは、
むしろ、この問題に慎重な姿勢を保っている一方で、

肌の色の違い以外にも、特定の薬への感受性や遺伝病の有無の違いなど、
人種による差異を生じているDNA断片が少しずつ見つかったり、
今後見つかっていくと思われる昨今、

社会的に望ましい資質と望ましくない資質の遺伝子配列が解明された場合には……
といった前提そのものが曖昧な議論が科学者以外のブログなどで、まことしやかに行われつつあり、

例えばGene Expressionというブログにワトソン擁護の記事を書いた28歳のアーティストは、

遺伝情報の示すところによると、
黒人の子ども一人に達成度のギャップを埋めさせるためには
我々は2倍の時間を使わなければならない

と書き、

人間それぞれの固有の才能と限界に応じた教育と職業を考えるべきだ、と。

また、

the Half Sigmaというブログの著者である、40歳のソフトウエア開発者は、

人種間に遺伝子の違いが存在する以上、全ての人種は平等だというセオリーは
間違っていることが証明された

と主張。

それに対して、読者から以下のようなコメントも。

ここに書かれているのが事実だと信じるとして、私にどうしろと?

黒人は我々ほど頭が良くないから差別しましょうと呼びかけるのですか?

もっと頭のいい白人が雇えるのだからと自分の会社に黒人を雇わないことにでも?

ある集団が自分たちの集団よりも遺伝的に劣っていると
証明しようとするのは、やめてください。


NYTimesは、

IQと特定のDNA断片との関連が確認されたわけでもなく、
彼らがあげつらっている遺伝子情報以外に
高いIQに繋がる断片がアフリカ人に見つかってもいるというのに、
知能には、それ以外の何百、何千の断片が関わっているというのに、
そして、
それら全てが集まってもなお、
環境要因の方がはるかに大きな影響を及ぼすにも拘らず……

と。



あっちでもこっちでも、
強い者たちが新興テクノロジーを体のいい合理化に使って

力づくで弱い者をねじ伏せようと屁理屈をこね始めている……。

そういう気がしてならない。
2007.11.22 / Top↑
国際的な非難にも拘らず日本が大規模な捕鯨操業に乗り出したというニュースが
以下のように、ここ最近あちこちで目につくのですが、



私自身はこの問題については、まったく無知で、
特に意見なるものを持っているわけではないものの、

しばらく前に、英米のメディアで
国際捕鯨委員会で批判を浴びた日本が会議途中で席を立った
というニュースを目にした際にも
「こんなの、日本のニュースにあったっけ?」
と素朴な疑問を抱いたことがあり、

今回の大規模な捕鯨には
オーストラリアではハワード首相が抗議の声を上げようかというのに……?

日本でニュースにならないことが、とても不思議。

胚を使わずに幹細胞を作った日本の技術が国際的に評価されたというニュースは
日をおかず大々的に報じられるのにね。

         ―――――

もちろん、それは日本のメディアにのみ覚える疑問では全然なく、



そんなことにはツユほども触れず、
中には「中流家庭」だなどと明らかなウソを書いたメディアまで……。

そして1月には比較的冷静に批判的な記事を書いていた英国メディアが、
自国でKatieのケースが出てきたとたんに、
話題になったばかりの障害者の権利擁護の理念も法律も知らぬかのように、
ニュースを読むに当たっては、警戒心と猜疑心が必携……?
2007.11.22 / Top↑
前のエントリーでJames Hughesの著書(の目次)について書いた際に、
ごく一部を読んでいて、とても不可思議な文法に気づいたのですが、

意識してか無意識にか、Hughesがチンパンジーを受ける人称代名詞は she なのです。

別に特定のチンパンジーが話題になっているわけではなく、

生命のタイプによって動物を含む生命体をランク付けし、
それぞれに与えられる権利を規定する“サイボーグ市民”たちの民主社会のルールを
解説した下りで、

Incompetentな(自己決定をすることができない)大人と子どもには
通常の権利を与えることができないと述べたのに続いて、

遺伝子的に強化されているなら別だが、
チンパンジーに通常の権利を与えても無意味だとする箇所(P.222)で

she 。

明らかに、具体的なチンパンジー個体ではなく、種としてのチンパンジーを受けた表現。



トランスヒューマニズムというのは、いろんな表向きを装ってはいるけど、

所詮は

知的レベルが高いことを鼻にかけた白人男性の我田引水的な価値観。

要はただのインテリ・レッドネックなのでは──? 

と、かねて感じてはいたのですが、

まさか人間を受けるのが he で、チンパンジーが she とは……。


      ―――――

ところが、その出来事があった翌日、

全くの偶然なのですが、
また同じ she の用法に、出くわしました。

新作ハリウッド映画「ダーウィン・アワード」の批評で、

ダーウィン賞とは実在の賞で、
「進化に不適合な遺伝子を減らした功績」でバカげた死に方をした人に与えられる賞
だと読んだので、

the Darwin AwardsのHPを覗いてみたところ、

ルールを説明するセクションで
賞の候補者を受けている代名詞が、やはり she。
もちろん特定の候補者個人を指しているのではなく。

英語の he と she は、実際の性別ではなく、
特定のグループを見下したい時に、その蔑視を表現する代名詞になりつつあるのでしょうか。


ちなみにHPの説明によると、ダーウィン賞の対象となる条件は

受賞の対象となる人は死んでいるか、少なくとも生殖不能になっていなければならない。

なぜなら、ダーウィン賞とは
自分自身の命を究極的に犠牲にすることによって
我々の遺伝子プールを守った人々を称えるもの

なのだから。
2007.11.21 / Top↑
今年の前半のいつだったかにNaamの「超人類へ!」を読んだ後で、
Ashley事件で大活躍をしたJames Hughesの”Citizen Cyborg”という本を買い、
何度も読もう、読もうと努力はしているのですが、
Introductionの先へと、これが、どうにも進めない。

Hughesは2004年から最近まで世界トランスヒューマニスト協会の事務局長だった人物です。

タイトルにある”サイボーグ”については、
トランスヒューマニストたちは、この点でも大体同じようなことを言っており、

例えば現在でも、
白内障の手術をして人造レンズを目に入れている人や
心臓にペースメーカーを入れている人などは既にして“サイボーグ”なのだそうで、

そういう、現在もすでに見られる“サイボーグ”から、
将来に向けて増えていくであろう、
脳とコンピューターを繋いで双方の能力を増補させた人とか、
脳と脳のインターフェイスで言葉なしに情報交換できる人とか
ナノボットを血管に入れて腎臓の機能をさせたり、
ナノボットの働きで、肥満の心配などなく思う存分に美食を堪能できる人、
などなどまでを含め、

これから先、テクニカルにヴァージョンアップしていく人間は、
みんなある程度サイボーグになっていくのである──。

──と、ちょっと衝撃的なタイトルすら、
こんなふうに透けて見えることを考えると、

「読まねば」とは思っているのに、
なんでこんなにも読む気になれないのかというと、
たぶん、この本は目次だけ見れば中身の想像がついてしまうからではないか、
という気がするので、

実際に中身を読んで、目次以上の内容があったら、
その時には改めてエントリーを立てて書くこととして、

Ashley療法の擁護に大奮闘したトランスヒューマニストが考えていることが一目瞭然の、
本書の目次を以下に。

「サイボーグ市民:
 なぜ民主的社会は未来の改良人間に対応する必要があるのか」

第1部ベターなあなたになるためのツール

1. 科学と民主主義を通じてベターに生きる
2. 肉体をコントロールする
3. もっと長く生きる
4. もっと頭が良くなる
5. もっと幸福になる

第2部 新たなバイオポリティカルな風景

6. 未来の衝撃からバイオポリティックスへ
7. サイボーグ市民権
8. 自然法の擁護者たち
9. 左翼のバイオ・ラッダイトたち
10.アップ・ウィンガー(1)、エクストロピアン(2)、そしてトランスヒューマニスト

第3部 サイボーグ間の自由と平等

11.民主的なトランスヒューマニズム
12.トランスヒューマンの民主主義
13.未来を擁護する
14.セクシーでハイテクな、ラディカルに民主的な未来像


(注1)アップ・ウインガーとは、

トランスヒューマニズム思想の形成過程の90年代にFM-2030という人物が作った造語で、
自分たちの思想は左(レフト・ウインガー)でも右(ライト・ウインガー)でもなく、
上(アップ・ウインガー)なのだという意味。
それがどういう意味であれ。

(注2)エクストロピアンとは、

上記と同じくTHニズム形成過程で現われた概念というか思想で、エントロピーに引っ掛けた造語。
それがどういう意味であれ。
2007.11.21 / Top↑
ADHD児へのリタリン使用について、英国で疑問が投げかけられています。

現在日本で起こっているリタリン問題の背景には、
複雑な事情があるように思われ、
詳しいことを知らない私には安易なコメントはできないので、
そうした調査結果を取り上げたBBCの記事を以下に。


リタリンを服用しているADHD児の長期追跡調査の結果、
短期的には効果があると見える一方で、
3年以上の長期服用で成長が抑制されたり、
行動がより攻撃的になったりする反作用があったというもの。

BBCの番組the Panoramaが取り上げたもので、
Craig Buxtonという14歳の少年のケースのビデオが上記サイトにあります。


保健省の反応は以下。


NICE(国立医療技術評価機構)に、ADHDへの介入ガイドラインを作成するように要請。
NICEは、薬物療法は社会・心理・行動療法と併用した包括的な治療の一環と位置づけるべき、と。

             ――――――

Craigのビデオと、番組のキャスターと取材担当者のやり取りからは、
少年の行動がより攻撃的になったということには、
体が大きくなって行動のインパクトがそれだけ大きくなったことや、
通常でも攻撃性の高まる思春期であることも影響があるようにも思えたのですが、
いずれにしても、1つのケースを見て簡単にどうこう言えることでもなく。

また、記事の中では、
(急増している)リタリンなどの処方にかかるNHSのコストが2800万ポンド
とも触れられているので、
そうした背景も影響しているのかも。

ただ、こういうニュースに触れると、改めて懸念を覚えるのは、

トランスヒューマニストたちが
薬物を使って体や性格や気分を自分で選ぶのは個々人の自由の範疇と主張したり、

様々なパフォーマンスを薬物によって強化して人類を改造しようと考えていること。
そうした動きにアメリカ政府も関与していると思われること。


“アシュリー療法”論争でも、
Gunther, Deikema、Fostら関係医師らや、
擁護に出てきたトランスヒューマニストたちは
「Ashleyに行われたホルモン大量投与による成長抑制は
ADHD児にリタリンを使うのと同じ」だと主張していました。

Ashleyに行われた成長抑制を報告した論文において、
重症児に使われた前例がないので効果も副作用も推測する以外にない、と
とんでもなく無責任なことを書きながら。
2007.11.20 / Top↑
アメリカ政府は本気でトランスヒューマニストと同じ方向を向いているのだなぁ、
と、思わせられる資料を以下に。

CONVERGING TECHNOLOGIES FOR IMPROVING HUMAN PERFORMANCE
June 2002
National Science Foundation
Department of Commerce

全米科学基金と米商務省が2001年の12月にワークショップを組織し、
そこで産官学それぞれの主導的な専門家から出た見解や、
その後、米国の科学と技術の専門家から提出された論文等を取りまとめた報告書。

表紙にはロケットを思わせる大きな突起が描かれ、
その先端は4つに仕切られて、それぞれに
nano, bio, info, congno と。

(これを「NBICの矢」と呼び、収斂テクノロジーの発展を象徴するのだそうです。)

そのロケットの、山でいうとふもとに当たる部分に、
脳の断面と人影が左右に描かれています。

報告書のタイトルのconverging technologies とは、
ナノ、バイオ、情報、認知の4分野のテクノロジーを収斂することを意味し、

これら4分野の新興テクノロジーをうまく使い合わせて、
人間の能力向上に利用しよう、と将来を展望する報告書。
(Kurtzweilはロボット工学を重視していましたが。)

まだ、ろくに読んだわけではないし、
専門的な論文の集まりなので、読んでも分かるかどうか……。

ただ、目次を見ると、
トランスヒューマニストたちと
とても似通った視点と内容だという印象は強いし、

EXECUTIVE SUMMARYの中の 7.Future Prospects の中に、
Mental Health という項目が目に付いたので、読んでみたところ、

ナノテクを駆使してスマートドラッグを
神経障害を起こしている脳の部位に直接届ければ云々……と、

書いてあることは、
あのRamez Naamが精神障害者について言っていたこととあまり違わないのですね。

Ashley事件をインターネットでたどっているうちに行き着いて以来、
ずっと非常に気になりつつ、ちょっと敷居が高い資料です。

よほど体力・気力が充実した日に気が向けば、
少しずつ齧ってみようと思ってはいるのですが……。
2007.11.20 / Top↑
おそらく、
Internet ExploreやOutlookの開発者の頭が悪いはずはないのでしょうが、

Ramez Naamの著書を読むと、正直、
この人の知的能力は特定の分野だけに限定されたものなのかなぁ……
と、ちょっと首を傾げたくなってくるのも事実。

でも、だからといって、
彼の言うことや、トランスヒューマニストたちの描く「ひたすらハッピーなことだらけの近未来」を
「そんなのSFじゃん」と一笑に付して終わるわけにいかないのは、

例えば、

Naamの著書の スマートドラッグ云々の下りには、
アンフェタミンと違って、覚醒後のリバウンドがないモダフィニルに注目した米軍が、
「連続補助能力(Continuous Assisted Performance)プログラム」の一環として
パイロットをはじめ兵士への使用を実験している、
という話が出てくるのですが、

(このプログラムの名前の訳だと「何度も補助する能力」みたいですが、
実は「薬の力を借りてパフォーマンスを持続させるプログラム」の意です。)

そこのところの訳注には以下のように書かれています。

米国防総省国防高等研究計画局「DARPA」のプロジェクト。

長時間の集中を要求される爆撃機パイロットは、
出撃時には覚醒剤、休息時には睡眠薬という服用サイクルでミッションをこなすという。

しかしこれらの薬剤には副作用があり、
また数日間連続する戦闘に用いるわけにはいかない。

そこでDARPAは最新科学の成果を取り入れて、
1週間24時間ぶっ通しで兵士に任務を遂行させられる手段を開発しようと試みている。

また、5日間食料なしで戦える方法なども研究している。

(P.62)

(こういうのって、兵士の人権問題にはならないのでしょうか……?)

その他にも、やはりDARPAが、
脳とコンピュータをインターフェースでつなげて、
マヒ患者にロボットアームをコントロールさせる実験に
2400万ドルを提供したり、

サルの脳に電極を埋め込んでロボットアームを制御させる実験にも
(こちらは好調で、人間への応用実験が既に始まりそうだとか)
資金提供しているのは、

それが兵士の戦闘能力向上に利用できるとの目論見があるからだ、とも。

これと同じようなことを、
Kurtzweilも「ポストヒューマン誕生」の中で書いて]おり、
彼自身が米陸軍科学顧問団の1人だといいます。

いかにトランスヒューマニストたちの言っていることが
他愛無いユートピアやSFのように思えたとしても、

アメリカ政府が本気で彼らと同じ方向を向いているのだから、
障害者へのテクノロジー応用実験はこれからも進められていくのでしょう。

軍事利用を最終目的に。
軍事利用に繋がる分野でだけね
2007.11.19 / Top↑
以前のエントリーでRamez Naamの描く、
「みんなで頭が良くなって長生きすしようねっ」的ユートピア近未来像を紹介しましたが、

世界トランスヒューマニスト協会のサイトの感触では、
Naamは彼らのサークル内で、小粒だけど“若手ホープ”という感じの人。

そのためか表現も稚拙で、底の浅さが剥き出しという観は否めないのですが、

もともとトランスヒューマニストたちが言っていることというのは
ディテールや使っている言葉が違っているとしても
いかにもサイエンスなデータや大層な言葉を駆使して
読者をいかに幻惑するかという技術の巧拙に過ぎず、
内容的には、なんと没個性なのかと驚くほどに、
誰も彼も同じ近未来を描いているのです。

それを念頭に、大物の諸先輩方と同じく、
新興テクノロジーが進めば、障害者も障害を克服することができるのだと説く、
この“若手ホープ”の障害観の1例を挙げると、

……「頭のよくなる薬」「頭のよくなる遺伝子」だけでも、現在、精神障害と闘っている何千万という人々が救われることになるのだ。

「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」 (P.67)

頭が良くなりさえすれば精神障害は改善される……って、
精神障害というのは「頭が悪い」ことでした?

いまどき、こんな無知・蒙昧・認識不足がまだ残っているのかと唖然としますが、

しかし、あのワトソンの差別発言の背景にチラつく意識だって、
一皮剥けば、このI Tニイチャンのお粗末な偏見と実はまったく違わないのであって、

つまるところ、「頭がいい」ことが至上価値である彼らにとって、
知的障害や精神障害は、きわめて単純に「その対極」とイメージされているだけ
ということなのですね。

実際の障害については何の知識も持たないままでね。

          ―――――

ところで、彼がここで言っているスマートドラッグ、「頭のよくなる薬」とは、
アンフェタミンや、日本で今いろいろ問題になっているリタリン、プロザックなど。

それらの使用によって、
(もっと理想的には今後開発される新薬や、いずれ可能になる遺伝子操作によって、)
「感情や性格を自分で形作れる世界」(P.72)が来るのであり、

そういう時代においては自分がどういう人間であるかについて
自分で「しっかりと責任を持てるようになる」のだから、
「基本的には望ましい変貌である」(同)のだとか。

この文脈に平行して、
アルツハイマー病や精神障害者の介護や治療、生産性の損失などが
いろいろ算出されており、

さらに知能の向上が社会の生産性に直結しているエビデンスのつもりのデータも
いろいろ挙げられて、

また別のところでは、
カリフォルニア大学サンフランシスコ校とワシントン大学の研究者チームが
全ての妊婦が出生前診断を受けるのが望ましいと主張した(2004)ことに触れて、

その論文の主張の根拠とされた、
診断なしに生まれる障害児にかかる費用と、
全妊婦の診断にかかる費用との差し引き計算も
取り上げられている(P.155)ことなどを考え合わせると、

自分がどんな人間であるかが自己責任になった、
彼が「基本的には望ましい」と考える未来社会では、

自分が社会の生産性に寄与できない人間であることを放置している人、
または、そうした人間を産もうとする人は、

もしかして、粛清でもされるんでしょうか。

……なるほど“衝撃の”近未来社会。
2007.11.19 / Top↑
サルのクローン胚からES細胞ができた、とのニュースを受け、
トランスヒューマニズム系のブログpracticalethicsに以下の2本のエントリーが。

まず11月14日にはDominic Wilkinsonによる

Clone human embryos not monkey embryos
サルのクローン胚ではなく人間のクローン胚を作れ



その主張しているところは、ざっと以下のようなことと思われます。

サルのクローン作りは許されるのに、なぜ人間のクローン作りは許されないのか。

人種が違うという根拠に基づいて
あるグループに属する人間の扱いを他のグループに属する人間と違えることが
人種差別(racism)であるならば、

人間以外の霊長類に対して
種が違うという根拠でもって扱いを違えることは種差別(speciesism)である。

人間のクローンからES細胞を作り出す方が
サルのクローンからES細胞を作り出すことよりも望ましい理由とは、

①人間の卵子のドナーは
自分がどういう処置を受けるかを理解したうえで 研究利用に同意する。
 つまり人間の女性にはインフォームド・コンセントが可能である。

②人間のクローンから創ったES細胞を研究に使えば、
その成果から人間は恩恵を受けることができるが、
サルのクローン胚から作ったES細胞の研究から得た成果が
サルに恩恵をもたらすことはない。

以上の理由により、
人間はサルのクローン胚ではなく、
人間のクローン胚からES細胞を作るべきである。



11月15日のエントリーは、Rafaela Hillerbrandによる、

Reproductive Cloning Reconsidered
再生クローニング再考


非常に長い文章なのですが、
その主張するところは、どうも以下の1点ではないか、と。
(というか、それ以外は私には意味不明。)

自分の子孫を選ぶ権利は非常にプライベートなものであり、
クローニングによって自分の子どもを作りたいと望む場合も含めて、
国家が介入すべきではない。

          ――――

ちなみに、

このブログはトランスヒューマニストのグループが書いているものですが、
その著者の中には、

Hastings Center ReportにAshley療法を擁護するエッセイを書いていた、
Julian Savulescu と S. Matthew Liaoも含まれています。

そのエッセイと著者らについては、以下のエントリーにて。



(ここで引用したSavulescuの発言にも
「個人の選択によるもので国家の介入ではないから、
出生前診断は優生思想にはあたらない」
との考えが見られます。)

2007.11.18 / Top↑
トランスヒューマニストたちの言うことの中から、
彼らの人間観というものに目を向けると、
あまりにも索漠とした感じがするのですが、

そのパサパサ・冷え冷えした感じの中から立ち上がってくる感想が2つあって、
まず、その1つは、

彼らの人間観の中には「かけがえのない」という言葉はありえないのだろうか……?

彼らはどうやら、人間をその人の持っている「能力の総和」と捉えて、
しかも独立してばらばらに存在している個体単位でしか考えないために、

彼らが人間を語るとき、
その人間はいずれも取替え可能な、
つまり「かけがえのある」存在のように感じられてしまう。

トランスヒューマニストたちの人間観から抜け落ちているのは、
人は他者との関係性の中に生きているという視点、

そのことゆえに人は、一人ひとりが「かけがえのない存在」になるのだ、
という視点なのでは?


もう1つの感想は、

そういう人間観には、「持ち味」とか「芸」というものも、ありえないよなぁ……。

昔の学生時代をちょっと振り返って、
「頭さえよければ教師は優れた授業・講義ができるのか」ということを考えてみたら、
決してそうとは言い切れないし、

そこにはやはり、その先生ならではの味というものがあったりして、
同じ内容で講義をしても、「あの先生だからこそ面白い」という受け止めの中には、
頭のよさ以外の、ほとんど理屈では説明不能で「持ち味」としか呼びようのないものがあった。

音楽でも美術でも文学でも芸能でも、
その人にしかない「芸」にかけがえのなさを見出すから、
特定の人のファンになるのであって、

誰が書いていたのだったか、もう忘れたけれど、
作家が円熟してくると、文章に”照り”とか”艶”が出てくる、と。

そんなふうに、その人が生きてきた長い年月の良いことも悪いことも含めた年輪の中から
滲み出て結晶した、えもいわれぬコクみたいなものこそが
ものを創る人の「芸」であり、人を魅了する作品の命でもあって、

でもそれは、とうてい科学的に説明もできなければ、数値で測れるようなものでもないし。

そして、

人が生きるということは、その人なりの人生や”人となり”を創っていくことでもあり、

だからこそ、人にはそれぞれ、その人にしかない「かけがえのない持ち味」があって
それなりの痛みや苦しみをかいくぐってきた人の人生や人となりには
独特の照りや艶、コクや厚みが感じられたりもするし。

だからこそ、人にも人生にも面白みや味わいがあるのであって、


そういうのを抜きにして、
頭のいい人間ばっかりになれば社会は豊かになるって言われても、

それは、ならないと思うよ。
2007.11.17 / Top↑
トランスヒューマニストたちが思い描く理想の未来像が、
どれほど他愛ないかという話を。

Internet Explorer とOutlookの開発者の一人で
Ashleyの父親ともマイクロソフトつながりのある
Ramez Naamというトランスヒューマニストの著書から。

実際に老化を遅らせる、つまり若さを引き延ばすことができれば、社会にも少なからぬ利得がもたらされる。現在の総死亡例のおよそ半分を占める、加齢に伴う疾患の発生を減少させることができるだろうし、世界全体では、医療費を何千億ドルも削減できるだろう。若年層の医療費は老年層のそれに比べて少なくてすむからだ。また、精神的にも身体的にも良好な状態が長く続き、若い世代の稼いだ分を使い尽くすようなこともなく、自分で自分の身を処するに足る分を稼ぐことが可能だろう。要するに、若さを引き延ばすことができれば、寿命延長で引き起こされる問題が解決できると考えられるのだ。

「超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会」(P.95)

で、そうやって増える一方の人口をどうやって養うんだ──???

と、ごく当たり前の疑問が読者には生じるわけですが、
これに続く部分でNammも、その疑問を予測して一応答えています。

しかし、書かれているのは、
「たぶん、最終的にはそんなに人口は増えないから
大丈夫じゃないかなぁ……」という程度の内容。

そういえばRay Kurzweilはこの点に関して、
クローニング技術を使って食肉を無限に供給する未来を語っていましたが、

……食べたいです? そういう肉?


Nammはこうも言っています。

もしもアルツハイマー病、うつ病、そのほか深刻な精神障害の発症を減らせば、年間何百億ドルもの費用が浮くことになる。それに加えて健常者の学習スピードや集中力を向上できれば、さらに何千億ドルもの生産力が得られることになるだろう。

記憶力がよくて頭の回転が速い人は高収入を得ることができ、社会全体の生産性向上にも寄与すると考えられる。人間の学習思考能力や、対人関係能力を増進させるようなテクニックとは、私たちの問題解決能力や科学的な大発見をする力を高め、よい成果が得られるようにしてくれるものだ。早く知識を身につけられる科学者は、専門分野の最先端に立てる。医師や看護師が長時間疲れることなく働ければ、患者を扱う上でエラーを犯すこともほとんどなくなる。頭のよいエンジニアはよりよい製品を生み出して、生活を豊かにしてくれる。頭のよいプログラマーは、よりよいソフトウエアをつくる。頭のよい建築家はよい建物を設計する。頭のよい生物学者は新しい薬剤を開発する。こうして社会全体が豊かになっていくのではないだろうか。

(同 P.67,68)


いつだったか、どういう番組のどういう場面のことだったかすら覚えていないのですが、
テレビで爆笑問題の大田が何かの弾みにつぶやいたのが妙に印象に残って、
忘れられない一言。

「頭のいいヤツって、どうしてこんなにバカに見えるんだろう……。」
2007.11.17 / Top↑

という、タイトル通りのニュースが15日に。

Washington Postには、この件を巡って以下の2本。



これまで失敗が多く、霊長類のクローニングの可否には疑問視もあったが、
この技術が人間の再生医療に応用されたら、拒絶反応の心配のない臓器ができる。
というのが、拍手でこのニュースを歓迎する見方。

その一方で指摘されるのは、
胚を作って壊すというプロセスを巡る倫理上の問題と、
アメリカのES細胞研究助成を巡る政治的な状況(議会でまた議論が再燃するだろうと。)

さらに、
人間への応用研究の過程で莫大な数の卵子が必要となることから、技術上の困難点と、
卵子採取のために女性が搾取の対象となる懸念。

カリフォルニア再生医学研究所のAlan Trounson所長が
「幹細胞を創ろうという試みは人間や人間以外の霊長類のクローンを作ろうというものではありません。
私はそういうクローニングには断固として反対です」
と語っているのは、

行間を正しく読めば、

新興技術への偏見に満ちた人間がすぐに騒ぐように
別に人間のクローンを創ろうというんじゃないんだから、
治療的クローニングについては冷静に受けとめて、受け入れろ、
とのメッセージなのでしょう。

            ―――――

「新興技術への偏見に満ちた人間」のことをトランスヒューマニストたちは
産業革命に際して技術の導入に反対した時代遅れの人間たちと同じだとの侮蔑をこめて
ラッダイトと呼ぶのですが、

私も含めて、彼らの言う「ラッダイト」たちが懸念しているのは、きっと
人間のクローンが創られることよりも、
もっとはるかに手前の現在すでに、

生命が操作可能なものになっていて
生命を操作するために、さらに生命や人体が道具に使われていること。

それが命の選別を推し進め、

さらにそれが、他の社会経済の動きと表面的には見えにくい形で絡まりあって、
今の社会にいろんな差別がじわじわと広がりつつあるように思われること。



こうしたテクノロジーの進展に科学者たちは
「難病を治せる可能性のある大きな光明」だと明るく将来を展望し、

「将来はみんながもっと健康に、もっと頭がよくなって、もっと長生きする」と、
トランスヒューマニストたちは他愛なく夢想するのですが、

仮に本当にそれが実現した時には、
彼らのいう“みんな”の中に仲間入りして、
自分の幹細胞を使った再生臓器で治療してもらえる側にいるためには、
一定の“資格”を満たした人間であることを求められる──。
そういう世界なのでは?

「障害者なんて、どうせ社会の負担になるだけ」と平然と言い放つ人は、
無意識のうちに自分を“みんな”の側においているのだろうなと、
私には感じられるのですが、

一度よ~く考えてみた方がよくはありませんか。

本当に、そうなのかどうか。
2007.11.16 / Top↑
とうとう日本でも病院による患者遺棄が起こってしまいました。

アメリカの患者遺棄(patient dumping)については、
ちょっとだけメディアの報道をチェックしたことがあるのですが、

認知症のあるホームレスの患者をオムツに病院着のまま、荒廃地域に“捨てる”とか、

そういう地域の路上に置き去りにされた知的または精神障害があると思われる男性は、
マヒがあって自力歩行ができない上に人工肛門。
私物を入れた袋を口にくわえて、2月の路上を這いずり回っていたとか。

救急車に一度に5人も乗せてきて、
そういう地域のホームレスのシェルター前にどさどさっと“捨て”ていったのが、
シェルターが設置した患者遺棄監視カメラ(dumping cam)でバレたとか。

ちょっと記事を検索しただけでも、すさまじい実態がぞろぞろ。


背景には無保険者問題や
救急部門は患者を拒めないと定めた法律、Emergency Medical Treatment and Active Labor Act

(Fost医師が生命倫理カンファレンスで、
法律というのはだいたい病院に患者を捨てさせない目的でできているんだから」
と忌々しそうに言っていたのが、86年にできたこの法律のこと。)

この法律で、あらゆる患者に検査を行い、状態を安定させる治療をすることが義務付けられたERは、
無保険者や貧困層、不法移民らのセーフティネットとなって、今やパンク状態。
患者の受け入れ拒否も続出して、本来のERとしての機能が危うくなっているとのこと。

そういう患者は入院させても支払う保険会社も自分のお金もないのだし、
かといって退院してもらう先もなければ、
病院としては捨てるしかないのかもしれませんが、

救急搬送を断られて流産したり亡くなったりという話は、最近、日本でも聞くようになって、
似たような状況になりつつあるのかなぁ、と思っていたら

ついに患者遺棄が日本でも起こってしまいました。
こちらも全盲の患者さん。

アメリカでも、“捨て”られる患者さんには障害のある人が目立ちます。
そりゃ、そうですね。障害がなかったら、そう簡単に“捨て”られてくれるもんじゃない。

明らかに、障害者は“捨てやすい”のです。

でもね。

私は思うのですが、これは

捨てやすいから、障害者を捨てているんじゃない。

捨てやすいから、まず障害者から捨てているんだ、と。




患者遺棄と上記法律については、知的障害者だからと助けなかった医師のエントリーでも触れています。
2007.11.16 / Top↑
障害者は社会の負担になるから、
重症障害児を産む確率が高い人は自粛するのが
社会の成員たるものの「神聖な義務」だと主張した、

渡部昇一氏の「神聖な義務」に関する北村論文を読みながら思い出したこと。

シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスで、

障害新生児などコストの無駄だから治療しなくていい、
裁判所のいうことにはどうせ強制力などないのだから、無視すりゃいい、と
“無益な治療”論を強引に説くFost医師に対して、

Ashleyの担当医Diekema医師の上司、Wilfond医師が言っていたこと。

「コスト重視で“無益な治療”を考えるのはやめよう
医療費全体の中で考えれば大したコストではないのだから」


       -----

年金だ医療だ介護保険だ障害者自立支援法だという話になると、
やれ財源がない、財源はどうすんだ、という議論が必ず出てくるのだけれど、

インド洋でアメリカ軍に給油する件で財源をどうするんだという話は、
聞いた記憶がないこと、ない……?
2007.11.15 / Top↑
昨日 「そろそろご老体」などと無礼なことを書いた渡部昇一先生について、
ご指摘下さる方があったので、amazonを覗いてみたら、
今年だけでも3冊もの本を上梓しておられ、現役でばりばり活躍しておられました。

1980年に先生が「神聖な義務」を書かれた背景には、
このように社会に貢献すること大なる方の、

ご自身を含め(あのワトソン博士のように)優れた資質の持ち主の努力によって
営々と築かれてきた社会に対する責任感と

仮にこの先老いて医療や介護の世話になるとしても、
生涯にわたる貢献度の方が社会にかける負担をはるかに上回るに違いないとの自負とが、

あったのでしょうか。

         ――――――――――

そのうち限られた資源である医療費や介護費用を公平に分配するために、
社会への貢献度がポイント制になったりしてね。

あなたの生涯を通じての社会への貢献度は、

まず、業種・職種・ポストによって細かく決められたポイント×働いた年数。
次に産んだ子どもは社会資源なので、その能力・資質に応じて決められたポイント×人数。
(ただし障害児を産んだ場合は大幅な減点となります。)
地域のボランティア活動に対しては加算がありますので忘れずにご申告ください。
その他、紫綬褒章をとったの、ヨッパライ運転で捕まったのという賞罰を加算減点の後、

あなたには最終的には何ポイントさしあげます。

高齢者向け医療と介護のサービスには、それぞれ利用ポイントが決められております。
こちら、それぞれの一覧表。お持ち帰りください。
例えば風邪の初診は1回3000ポイント。
アルツハイマー病の検査は25000ポイントになります。
介護ではおむつ交換が1回10ポイント。(30ポイントの大便加算にご注意ください。)

お手持ちのポイントの範囲内で、
お好みのサービスをご自由にお使いいただくことができます。

ただし、お手持ちのポイントを超えると自己負担となりますので、
ご利用は計画的に。

脳卒中を起こして手術、2週間入院したらポイントを使い果たした?
あらま、社会貢献度の低い人生だったんですね。
自己負担のお金もない? 
あ、じゃあ、ポイントを使い切ったところまでで終わりです。はい、さようなら。

【追記】
ドナーカードにチェックしたら追加ポイントがもらえたりしてね。
2007.11.14 / Top↑
日本でも1980年に渡部昇一氏がエッセイ「神聖な義務」の中で、
障害者・病者が生まれるのは社会の負担だから、
「劣悪遺伝子」を受け継いだ人は子どもを産むべきではない、
と主張し、論争になっていました。

同エッセイで具体的に例として挙げられた病気である血友病者の立場から、
その論争をまとめた論文が以下。

血友病者から見た「神聖な義務」問題  北村健太郎 
Core Ethics Vol.3 (2007)

今なぜ80年の「神聖な義務」なのか。

論文の冒頭では、
出生前診断について様々な議論が行われてきた一方で、
医療の現場ではそんな議論などないかのように、
淡々と進められている(既成事実が積み重ねられている?)ようにも見える、と。

上記のエッセイで渡部氏が主張したのは、例えば

既に生まれた生命は神の意思であり、その生命の尊さは、常人と変わらないというのが、私の生命観である。しかし未然に避けうるものは避けるようにするのは、理性ある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病を持つ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。

また、それに抗議した青い芝の会への反論として、さらに、

特に、重症児たちの親たちの負担と苦労は大変なものでしょう。世話をする人は親だけでは足りず、他に見てくれる人も必要になりましょう。そうした場合、高い確率で重障害児を産む可能性のある親は特に慎重な配慮があってしかるべきだと思います。

この中の「他に見てくれる人も必要になりましょう」というのは、
その部分が社会の負担になるから、そういう障害児を生む確率の高い人は産むな、
ということですね。

渡部昇一氏はWikipediaによると1930年生まれなので、現在77歳。
そろそろご老体と思われますが、

社会の方もその後の財政逼迫と少子高齢化により、
現在では年金も医療も介護保険も破綻しそうだという、もっぱらのウワサで、
先生が意気軒昂な壮年でいらした1980年よりもはるかに厳しい状況。

そんな現在、
「社会の負担になる障害者も病者も少ない方がいい」という持論を撤回も謝罪もせず堅持されるならば、
高齢者も追加されるべきではないかと思われますが、

御年77歳の渡部先生はなんとおっしゃるのか、
ぜひとも聞いてみたいもの。

先生が主張されたような世の中では、
老いていく身も肩身が狭くはないですか?


            ====


一方、北村氏の論文を読んで最も心に残るのは、

血友病患者の人たちが当時、抗議するという行動に出なかったこと。
その背景にある、ある種の歯切れの悪さのようなもの。

出血した時の激痛を身をもって知っているだけに、わが子にはそんな思いをさせたくない。
だから出生前診断で分かった場合には避けたいという気持ちもある。

渡部氏の発言に憤りがないわけじゃない。
でも一方に、親である自分たちですら可能なら避けたいと思う現実もあって、
その相克の中から生じてくるのは、

「正しいか正しくないか」だけで断罪できない歯切れの悪さ。割り切れなさ。


“アシュリー療法”が報じられた当初の衝撃の中でも、
重症児の介護の現実、QOL維持の難しさをリアルに知っていればいるほど、
「気持ちはすごく分かる。でも……」
「間違っているとは思う。でも……」
と、簡単に白黒がつけられないところで揺らいでいた人が沢山ありました。

問題のありかに近いところにいればいるだけ、
簡単に答えが出ないところで、ぐるぐるする。
白と黒のグラデーションの間を行ったりきたりする。
それはその現実を日々生きるということが、そういうことだからなのかもしれない。

子どもの体調がよく、自分も明るい気持ちで過ごせた日と、
子どもや自分の体調が崩れていたり、
障害を巡って周囲との間に心の波立つ出来事があった日とでは、
気持ちの向かう方向がまるで違っていたりもする。

今を大事にしようと前を向ける時もあれば、
自分が死んだ後の子どもを案じて物思いが尽きない日も
あるのかもしれない。

だからこそ、簡単に割り切れる合理的な答えを出す前に、
その割り切れなさの中にあるものを丁寧に考えていかなければならないんじゃないか

……という気がする。
2007.11.13 / Top↑
Katie Thorpeのケースを受けて、

イギリスの障害のある芸術家グループが
「私と私の子宮(Me and My Womb)」というドキュメンタリー映画を準備中。

なるべく多様な障害像や年齢の女性を取り上げて、
Katieのケースが提示する問題をいろんな角度から検討し、
障害のある女性が子宮をもつ権利について考える
というのがコンセプトのようです。

出演を希望する人は来年2月1日までに
自分のことを語ったビデオを送るか、
イギリスでの面接をセッティングするか
してください、とのこと。

詳しくは以下のサイトに。

2007.11.13 / Top↑
以前のエントリーで紹介した、
選択しないことを選択してダウン症の子どもを産んだ夫婦のドキュメンタリー“Choosing Naia”に、
アメリカではお腹の子どもがダウン症だと知った夫婦の9割が妊娠中絶を選んでいる
と書かれていたように記憶しているのですが、

私が選別的中絶の問題でとても気になるのは、
選別的中絶の対象になる「障害」が、主にダウン症だということ。

ダウン症が主に選別的中絶の対象となっている理由は、
「妊娠中に分かるから」ですね。

しかし、その一方で、
その他の多くの障害と比べると
ダウン症の子どもを育てるケア負担はむしろ小さい方ではないでしょうか。

もちろん本人にとっては自分の障害が世界で一番重度だろうし、
親にとっても常に自分の子どもの障害が一番重度なわけで、
その苦悩を比較することなどできないし、
もちろん個別には様々なケースがあるのですが、

一般的に見ると、
ダウン症の子どもは他の障害のある子どもよりも育てにくさが際立って大きいわけではない、と
言えるのではないでしょうか。

また障害があっても、それなりに自立して生きていける人の割合も、
ダウン症の人では高いようにも思うのですね。

ところがダウン症は羊水穿刺で妊娠中から分かるからというだけの理由で、
「障害児の子育て負担が親にとって大きいから」
「障害児は生まれてきても本人が不幸だから」
「生きるに値する人生は送れないから」
などとして選別的中絶の対象となり、既成事実化していく。

(こういう場合に選別的中絶を是とする人は
ダウン症の子育てが親にとって負担だから」とは言わずに、
障害児の子育てが負担だから」と一般化しがちなのも気になるところです。)

しかし、
「手段がある以上、おなかの子がダウン症だと分かったら中絶するのが常識」
となってしまったら、

ダウン症は妊娠中に分かるから中絶するのが当然

   ↓

ダウン症の子どもを持つことを避けてもいいのだから、
それ以上に子育て負担が大きいと予想される障害のある子どもは持たなくてもいいはず

   ↓

妊娠中に分からなくても、生まれてすぐに分かる場合には
選別的安楽死をさせることも可では?

というふうに、
もともとは「回避の手段があるから」を前提に始まったことが
さらに他の回避手段を認める理由付けになっていく……という危険はないのでしょうか。

「ダウン症は妊娠中に分かるから」との理由で選別的中絶が当たり前になっていくことは、
おのずと、社会が許容する障害の重篤度にダウン症で線を引き
「ダウン症よりも重いのは避けるべき障害」
という社会の暗黙の合意を作っていくことになるのでは?

【追記】
その後、二分脊椎も出生前検診で分かるようになってから出生率が下がっているのでは、
と教えていただきました。

熱心な啓発活動をしておられる二分脊椎の方が以下のHPでそうした情報と共に、
出生前診断の問題を詳細に掘り下げておられました。

2007.11.12 / Top↑