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医師らは、倫理委員会での議論では「リスクとメリットを秤にかけてメリットの方が大きいと判断した」と説明しています。しかし、よく考えてみれば、「メリットがこんなにある。それに対してリスクはこんなに少ない。だから(アシュリーへの利益は論理的に考えれば自明の理であり)難しい判断ではない」というのは、両親のブログの論理であり、それはそのまま、とりわけ乳房芽の切除に気が進まない倫理委員会を説得すべく両親がプレゼンで力説した主張ではなかったでしょうか。

なぜ、倫理委の議論が、もともとの親の主張と全く同じなのでしょうか。

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1月4日のBBCのインタビューでのDiekema医師の発言には、またも彼らしい巧妙な摩り替えが見られます。

How do you argue that it would benefit her quality of life?
あなたは、どのように、それが彼女のQOLを利すると論じられるわけですか?

Well, I think the primary argument for that from the parents was that ……..
そうですね、両親が主に論じたのは……ということだったと思います。

インタビューアーは医師の論拠を聞いているのですが、Diekema医師は自分自身の論拠は述べず、親の考えはこういうものだったと主体を摩り替えて応えています。そして、この療法が具体的にどのように彼女のQOLを利すると自分たちが議論したかについては、説明せずにはぐらかしているのです。

この後、インタビューは以下のように続きます

それにしても、行われた介入は極めて激しく侵襲性の高いものですが?

アシュリーは普通に大人と呼ぶ意味での大人には決してならない、人と意味のある関わりなど持てないのだから、体が小さい方がむしろふさわしい(という趣旨の発言)

しかし同じ人間として、我々にはそのように決め付ける(that sort of judgment)資格があるのでしょうか?

Well…(つい失笑して、もしくは瞬時たじろいで?)……人間はそういう判断をしなければならないと思いますよ。もちろんたやすい判断ではないし、非常に例外的な状況でなければ私だって下したい判断ではないですけどね。

ここでは、両親の主張するメリットは行われた処置の侵襲度を正当化しないのではないかとの疑問が投じられているのですが、Dikema医師はまたも両親の別の主張を持ち出して、侵襲度の問題をアシュリーの知的レベルの問題に摩り替えてはぐらかし、求められた回答を出していません。

もしかしたら、彼らは自分たちの議論というものを持たないために、親の主張のいくつもの論点を操ってはぐらかすしかないのではないでしょうか。1月以降、医師らがやっているのは実はこのインタビューと同じことなのではないでしょうか。

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これまで医師らと親の発言が食い違っている点をいくつも指摘してきましたが、それらは去年の秋に医師らが書いた論文と両親のブログとの食い違いであることに注目してください。つまり医師らが事実を隠蔽したり誤魔化していることに起因する食い違いなのです。

それに対して1月以後、両者の言うことは、むしろぴったりと重なります。それは隠蔽に失敗した医師らが、ブログ以降は親の言うことをなぞるようになったからではないでしょうか。

たとえば、論文ではホルモン療法の副作用軽減が目的だったかのように書いていた子宮摘出について、1月以降は医師らも知的障害のある人は生理を理解できなくてトラウマになるとか、生理痛に耐えられないだろうなどと言い始めます。乳房芽の切除についても、論文で隠蔽したことなど忘れたかのごとく、病気予防になるとか病気の家系だったと親と同じことを言い始めます。リフトで吊られるよりも直接親に抱いて移動させてもらう方が尊厳があるというのも、親がブログに書いていたこと。中身が乳児なのだから、体が小さい方がふさわしいというのも、親のブログのままです。医療はもともと自然への介入であり、自然への冒涜だの神を演じていると批判するなら、がん治療も抗生剤すらもありえないというのも、親のブログに書かれている通りなのです。

BBCのインタビューのように、それらを医師としてどのように具体的に議論したか説明を求められたり、別の角度から突っ込まれた場合に、正面から答えず親のさらに別の論点を持ち出してはぐらかすしかできないのは、実は自分たちの議論というものの持ち合わせがなく、親の言うことをオウム返しにしているに過ぎないから、ではないでしょうか。

倫理委員会を開いて議論したはずの彼らに、なぜ自分たち自身の言葉で語る、親の論理とは別の筋道の議論というものがないのでしょうか。


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注:アシュリーの知的レベルについては、1月に入ってからも「生後3ヶ月相当」と「生後6ヶ月相当」と食い違っていましたが、1月12日にはDiekema医師もなぜか「3ヶ月相当」と言うことを変え、5月8日の記者会見で病院から出されたプレス・リリースでも「生後3ヶ月相当」となっています。どうやら病院サイドはアシュリーの知的レベルについても両親がブログで書いている「生後3ヶ月」説を採用することに“方針転換”したようです。
2007.06.30 / Top↑
ところで倫理委の実際の委員長は、ずっと表に出てきませんでした。そのこともまた、Diekema医師が委員長だったのだとの私の誤解を助長したように思われます。しかし、委員長はシアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターのDavid Woodrum医師です。Diekema医師と同じ所属になります。

Diekema医師は一貫して両親の要望を支持する立場に立ち、このケースの正当化こそ倫理カウンセラーとしての自分の役割なのだといわんばかりの活躍ぶりですから、委員長が彼とは別に存在したというのは、むしろ倫理委の議論の中立性を保障しているかのように思えます。

ところが、WUのシンポに姿を現した倫理委の委員長Woodrum医師は、思いがけない言動を見せる人物でした。なによりもまず、当日登壇した多くのパネリストの中で際立っていたのが、同医師の“態度の悪さ”。座っている姿勢からして「ばかばかしくて、やっていられるか」といわんばかりの態度。誠実な議論をしようという姿勢よりも、このような事態の展開がにがにがしくてならないという苛立ちが露骨でした。発言内容はDiekema医師と同じ立場ですが、批判的な意見に反論する際の口調は非常に攻撃的でした。居直ったかのような、また挑発的な響きの発言が多かったように見受けられました。もちろん自分が委員長を務めた倫理委の決定が問題視されているのだから防衛的になるのは当たり前かもしれませんし、もともと攻撃的な性格の人物なのかもしれません。が、逆にまた、それだけ脅かされ追い詰められているのかもしれません。

このシンポにおいて、Woodrum医師は居直って会場を舐めてかかるような挑発的な発言をした際に、倫理委員会の委員長としては実に驚くべきことを言います。

WUのシンポについては当日傍聴・発言された小山さんの詳細な報告がありますから、その報告からWoodrum 医師の発言を2つ引用してみます。

私は両親の味方であって、裁判官の味方でも法律家の味方でもない

(倫理委でのプレゼンで)両親が説得力ある議論を出してくれたおかげで、私たちの仕事を変わりにやってくれた

いずれも、この医療処置の妥当性を検討しゴーサインを出した倫理委員会の委員長の言葉なのだということを念頭に読んでください。

倫理委員会の委員長が「両親の味方」という言葉を口にしていることは、非常に興味深い現象です。小山さんが報告で書いておられるように、これはホンネがこぼれ出たものだと私も考えています。この発言には、3つの問題があるのではないでしょうか。

まず1つには、小山さんが当日会場から発言・指摘されたように、Woodrum医師の意識には患者が不在です。アシュリーのケースを検討するために招集された委員会の委員長の意識の中で、患者であるアシュリーは不在だったのです。ちょうどDiekema医師にとってアシュリーが透明人間であったように、彼らの意識にあったのはアシュリーではなく両親だけだったということでしょう。

2つ目の問題は、発言の後半でセーフガードが否定されていることです。委員長がセーフガードの必要を認めない「倫理委員会」では、倫理委員会そのものがセーフガードとしての機能を持ちえないことにならないでしょうか。

さらに3つ目の問題。 前回のエントリーでは、Diekema医師が担当医でありながら倫理委の内部にいることの不思議を指摘しましたが、今度は倫理委員会の中立な議論を保障する責任者であるはずの委員長が、自分は検討を申請した側の担当医と同じ立場だと表明しているのです。どのような医療を巡る検討であれ、委員長が初めから「やりたがっている担当医の味方」という立場に立っていたら、その倫理委員会は存在意義をなくすのではないでしょうか。

そして後者の「親が説得してくれて、自分たちの仕事をしてくれた」という発言。アシュリーのケースを検討するための倫理委員会の席で、委員長は「両親の要望が認められるように倫理委員会を説得すること」が自分の仕事だと認識していたことになります。担当の倫理カウンセラーだけでなく、委員長までが「両親の要望が認められるように出席者を説得しなければ」との意識で臨む倫理委員会……?

2004年5月5日の倫理委員会は、いったい何の目的で招集されたものなのでしょうか。果たして、本当に「倫理委員会」と称するに値する場だったのでしょうか。
2007.06.29 / Top↑
私はこの事件について調べ始めた当初、
Diekema医師がアシュリーのケースを検討した倫理委員会の委員長なのだと思い込んでいました。

メディアでの彼の発言の多くが、
当該倫理委を代表して解説・釈明するといった口調のものだったことから、
そういう予見を抱いていたことがひとつ。
そこへ、1月11日のCNNインタビューで「倫理委を率いた」医師として紹介されたことが
決定的な誤解の原因となりました。

やがて両親のブログの文章を読み返しているうちに、
別室で待っている両親の元へ倫理委の結論を告げにきた人物が
「Diekema医師と委員長」の2人とされており、
Diekema医師以外に委員長がいたことが分かりました。

しかし、それでは、なぜ彼はインタビューで「倫理委を率いた」人物を名乗ったのか。
今度はそちらが疑問になります。
CNNは当人の申告通りに紹介しただけでしょう。
自己申告とも事実とも違うのであれば本人が番組の中で訂正すればいいだけのことですが、
彼は訂正などしていないのです。

そしてまた驚くことに、1月4日のBBCでも、
Diekema医師はアシュリーの治療を認めた倫理委のメンバーだったと紹介されています。
この時もDiekema医師はインタビューに応じていますから、
その前に自分を倫理委のメンバーとして申告したものと思われます。
1月5日のNational Public RadioでもDiekema医師は倫理委のメンバーの一人とされています。
それでは、Salon.comの記事にあった、当該倫理委のメンバーの中の「倫理学教授」というのは
Diekema医師のことなのでしょうか。

しかし、Diekema医師はこのケースを論文発表した執筆者の一人。
いわば担当医の位置にいる人物であることを考えると、
彼が「倫理委を率いた」り、「倫理委のメンバー」だったというのは、妙ではないでしょうか。

倫理委に対して検討を申請する立場の担当医が、
倫理委の内部にも足を突っ込んでいたことになります。
まして「倫理委を率いた」とすれば、
初診直後から担当していた倫理カウンセラーが
当日の議論を主導したということにもなりかねないのですが……?

「彼はあくまでも倫理カウンセラーであり、倫理コンサルティングを提供する立場にあった。
一人で担当するには問題が大きすぎたから倫理委でやっただけ。
倫理委のメンバーであっても不思議はない」
という解釈も成り立つのでしょうか。
しかし、それならば今度は、なぜ通常の倫理委ではいけなかったのかが気になります。

さらに、それならば、
中立の立場でコトに当たるべき倫理カウンセラーが担当医然と論文を書いていることが
妙ではないでしょうか。

なによりも、Diekema医師が一貫して両親と全く同じ立場に立ってきたこと、
その一方で倫理委の詳細について巧妙に誤魔化し続けているのも彼であることを考えると、
彼が最初から中立な立場で倫理コンサルティングを提供する立場にあったとは、
考えにくいように思われます。

彼はあのマヤカシに満ちた論文を執筆した人物であり、
1月に論争が過熱してからは病院サイドの広報担当者のような役割を担い、
いわばディフェンスの最前線に立っているのです。
それは、当初からの担当医としての行為なのでしょうか。
それとも病院サイドの倫理上の判断を代表して釈明しているのでしょうか。
まさか、このケースを担当する倫理カウンセラーの役割とは、
当初から、病院サイドの判断に伴う倫理上の障壁を理論武装でクリアすることだったのでしょうか。

Diekema医師は、当該倫理委との関係において、一体どこに位置しているのか。

倫理委の内部にいるのか、担当医として倫理委の外部にいるのか。
それとも、そもそもの初めから、この倫理委には内部も外部もなかったのか。
2007.06.28 / Top↑
病院サイドからはアシュリーのケースを検討した倫理委についての詳細が出てこない、という話はすでに書きました。医師らの論文も同様です。

ところが、医師らは論文の中で当該倫理委のメンバーについてあたかも報告しているかのようなマヤカシを仕組む一方で、くどいほどにセーフガードの必要を説き、慎重な検討の必要を訴えてもいるのです。これは一見、非常に矛盾しています。この療法の適用には慎重な議論が必要だと説くならば、それはそのまま、アシュリーのケースでも如何に慎重な議論が行われたかを論証すべき必要を自覚していたことにもなるからです。執筆者自らnovel and untested と形容した療法の適用第1例であることを考えれば、なおさらでしょう。今回はこれほど念入りに厳密な議論を行ったとその過程をきちんと論証した上で、今後も同様のセーフガードが必要と説くのであれば筋が通りますが、彼らがやっているのは今回の検討メカニズムについてはほっかむりしたまま述べず、そのくせ今後のセーフガードの必要だけを説くという“ちぐはぐ”振りなのです。

しかし「他児への適用を巡る医師発言の変遷」の2回で検証したように、医師らが論文執筆時点において最も強く良心の呵責を感じていたとの仮説に立って眺めてみれば、どうでしょうか。この矛盾こそ、むしろ彼らの良心の呵責を表しているとは考えられないでしょうか。

当該倫理委のメンバー構成については書かなかったのではなく、書けなかった。悪質なマヤカシを仕掛けてでも誤魔化さざるを得ない事情があったからこそ、一方でセーフガードの必要をくどいほど強調しないではいられなかった……としたら?

同様の仮定に立って、たとえば以下のような論文の一説を読み返してみると、これまでに読んでいたのとは、また違うものが書かれているようにも思えてこないでしょうか。

成長抑制療法の恣意的な適用に対してガードするためには、適切な適用を保障するためのフォーマルなメカニズムが存在することが適当、いや恐らく必要ですらある

「フォーマルなメカニズムが存在することが適当」といったあとで、わざわざ「いや、恐らく必要ですらある」と言い直してまで強調したのは、いかなる無意識のなせるわざでしょうか。

なぜ「フォーマルな」という表現を使ったのでしょうか。そういえば、前回のエントリーで2004年5月5日の倫理委員会がSpecialと銘打たれていることを指摘しましたが、あの委員会は果たしてフォーマルだったのかインフォーマルだったのか。そもそも通常の倫理委との関係でどのような位置づけの“特別”倫理委員会であったのか、改めて気になるところです。

そして、なぜ、わざわざ「恣意的な適用」という表現を使ったのか。論文は過去の優生手術などに見られる「虐待」については、「過去に虐待があったからといって目新しい療法をやってみてはいけないことにしてはならない」などと、実に無頓着なのです。「虐待」についてはほとんど心配していないのに、なぜ「恣意的な適用」については再三にわたってセーフガードを説くほど強く案じているのか。

「インフォーマルなメカニズムによる恣意的な適用」が懸念されるような事態があったのでしょうか。

もしも医師らがこの段階では非常に強い良心の呵責を感じており、ここでセーフガードの必要を強調することによって無意識のうちに、ある種の警告を発していたのだとしたら……?
2007.06.27 / Top↑
WPASの調査報告書添付の同倫理委の職務規定によると、シアトル子ども病院に恒常的に設置されている倫理委員会のメンバーは議長のほか、医療職、他の病院の医療職、病院理事会それから地域それぞれの代表で構成されています。

それに対して、Slon.comの取材によると、アシュリーのケースを検討した倫理委員会のメンバーはワシントン大学とシアトル子ども病院の職員だけで構成されていました。内訳は医師、看護師、管理職、ソーシャルワーカー、倫理学教授、チャプレンそして弁護士。計18人だったとのこと。

内訳からだけ見ると恒常的に設置された倫理委と大きく違うのは、他の病院の医療職の代表と地域の代表とが排除されていた点です。

Salon.comの記事によると、地域の人が排除された理由の1つ(in part)は「患者のプライバシーを守る連邦政府の医療法」とのことですが、これはおかしいでしょう。患者のプライバシーを守るために倫理委員会に地域の代表が参加できないのであれば、アシュリーのケースを検討した委員会のみではなく恒常的な倫理委員会にも参加など出来ないことになってしまいます。

また、患者のプライバシーはあくまで理由の1つですが、それ以外の理由については不明。他の病院の医療職の代表を排除した理由も不明です。


WPASの調査報告書に添付されている2004年5月5日の倫理委員会の記録には、ちょっと不思議なタイトルが付いています。

5/5/2004 – Special CHRMC Ethics Committee Meeting/Consultation

CHRMCとは、Children’s Hospital & Regional Medical Center のこと。不思議なのは、その前のSpecial です。これは何を意味するのでしょうか。上記のメンバーの特異性を考えると、ここでいうSpecial とは、通常の院内倫理委員会とは別の組織であるという意味なのかもしれません。

しかし病院には既に院内倫理委員会が設置されて機能しているのに、なぜアシュリーのケースの検討だけはその院内倫理委員会の検討ではいけなかったのか。なぜわざわざSpecialな倫理委員会を招集しなければならなかったのか

他の病院のスタッフや地域の人など、部外者が含まれていては困る事情があったのでしょうか。
2007.06.27 / Top↑
これまでにいろいろなエントリーで述べてきましたが、この事件に関して病院サイドから公表された情報の中に、アシュリーのケースを検討した倫理委員会についての情報はほとんどありません。たとえば倫理委員会の委員の人数はどうだったのか。委員の構成はどうだったのか。実際の議論はどのように展開したのか。反対意見は出なかったのか。病院は明らかにしていません。

病院から出てくるのは、周辺的な倫理委員会についての情報ばかりです。たとえば、シアトル子ども病院に恒常的に設置されている倫理委員会の職務規定はWPASの調査報告書に添付されています。報告書には、同病院の成長抑制/不妊手術検討サブ委員会の規定も添付されていますが、これは2005年4月(アシュリーの手術は2004年7月)に設置されたものです。医師らが書いた論文にも、当時準備中であった(上記サブ委員会は既にあったはずなのに)という検討組織のメンバーが列記されています。しかし惑わされぬよう気をつけなければならないのですが、これらはいずれも、2004年5月5日に召集されアシュリーのケースを検討した倫理委員会とは別物なのです。

別物であるにも関わらず、これらの情報は常にあたかもアシュリーの件を検討した委員会の情報であるかのように装って、もしくは読者が勝手にそのように誤解して読む可能性のある紛らわしさとともに提示されています。WPASの調査報告書には、2004年5月5日の当該倫理委の記録が添付されていますが、この記録にも委員のメンバー構成や人数については述べられていません。

病院サイドは当該倫理委の詳細については未だに明かしていないのです。話が当該倫理委に及びそうになると、何故かするりと話を摩り替えて誤魔化し、そのまま口をぬぐっているのです。

それは何故でしょう。

アシュリーのケースを検討した倫理委員会には、なにか公表できない事情があるのでしょうか。

2007.06.26 / Top↑
 既に紹介したように、親の要望を倫理委員会に諮った理由について、論文では、成長抑制療法はunconventional でありcontroversial だと思われたので倫理委員会にかけたと書かれています。

 ところが、両親のブログで倫理委が開かれたいきさつを書いた部分は微妙にニュアンスが異なっています。

Since the “Ashley Treatment” was new and unusual, Dr.Gunther scheduled us to present our case to the ethics committee at Seattle Children’s Hospital, which we did on May 5th 2004.

”アシュリー療法“が新しく珍しいものなので、我々がシアトル子ども病院の倫理委員会に対して present our case するようにGunther医師がスケジュールを組み、2004年5月5日に我々はそれを行いました。

まず、両親が要望している医療処置についての認識が違っています。論文執筆者のunconventional やcontroversial と表現する意識に比べて、new and unusual とは、ほほえましいほどに無邪気な言葉の選択ではないでしょうか。前回のエントリーで紹介したthis pioneering treatmentに見られる考案者の自負がここにも感じられます。自ら命名した名称をわざわざ使って「“アシュリー療法”が新しく珍しいものなので……」という口調には、誇らしげな響きすらあるようです。

しかし、倫理委が開かれたいきさつを巡る両者の発言には、療法についての認識以上に重要なニュアンスの違いがあるのです。

両親のブログの表現では、2004年5月5日の倫理委は両親に自分たちの意図を説明する機会を設けるために、それを目的としてセッティングされたものだったように聞こえないでしょうか。

この件を検討した倫理委員会は5月5日の1度しか開かれていないことに注目してください。すでに委員だけの倫理委が開かれていて、その会議の場で「これは親のいうことも聞いてみなければ」という意見が委員の間から出たので、それで両親が説明に招かれた……という段階を経たいきさつではありません。1回きりの倫理委が、両親のプレゼンで始まるように、会合が開かれる前からセッティングされていたのです。しかもブログの文章から読む限り、それは自分たちが直接説明をするためにGunther医師がセッティングした機会だと両親は理解していたようです。
2007.06.26 / Top↑
資料を読み込みながら医師らと両親の発言をつぶさに追ってみると、そこから浮かび上がってくるのは以下のような対比の構図です。

     妙に堂々と自信に満ちた親

          vs

     妙にこそこそと姑息な医師ら


最も端的に両親の自信を象徴している言葉は、ブログの中で医師らに対して述べた謝辞の部分(以下)にある「この先駆的な療法」でしょう。

Our sincere thanks to Ashley’s doctors and the surgery team at Seattle Children’s for their world class expertise and support throughout this pioneering treatment.

両親は、自分たちの考案による“アシュリー療法”は医学的にも社会的にも大きな意義のある“先駆的な療法”であると一貫して確信し、純粋・単純な善意から世の多くの人たちのために自らその伝道者たらんとする明確な意思を持っているようです。子ども病院がWPASと共同で記者会見を開き子宮摘出について違法性を認めた5月8日にブログに発表した声明文でも、同じような子を持つ他の家族にも同様のことが不当な障壁なく出来るよう望むと書き、なおもこの療法を広めたいとの意図が繰り返されています。

これほどの自信に満ちている両親は、事実を隠したり誤魔化したりする必要など微塵も感じていません。ブログの文章にもディフェンシブなトーンはありません。むしろ批判する人は自分の言うことをちゃんと理解せず「誤解」しているのであって、きちんと自分の論理を把握してもらえれば、この療法の意義が分からないはずがないと信じこんでいるかのようです。

ブログを立ち上げた2つ目の理由を、彼らは「この療法に対する、また我々の動機に対する誤解(misconceptions)を解くため」と書いています。もしかしたら多くの批判が巻き起こったのは、2ヶ月前の論文で医師らの書き方が曖昧だったために誤解が広まったものであり、考案者の自分が自分の言葉で明確に説明すれば誤解が解けて世の中はむしろ拍手で歓迎してくれるはずだと考えたのかもしれません。まるで論文が隠し立てしていたことを「そうではなくて、これが自分の考えの真実だと」言わんばかりの詳細・厳密な説明ではないでしょうか。医師らが論文に書いたいくつかの点について、両親がブログできっぱりと否定していたことを思い出してください。

(追記1:「いくつかの点で否定していた」というよりも、論文のあれだけの隠蔽・ごまかしを考えると、詳細にすべてを説明したという点で、ブログの登場そのものが医師らの論文全体を否定しているともいえるのではないでしょうか。)

(追記2:1月2日の晩に受けたLATimesの電話取材で、父親は介護の便宜のためにやったと誤解している人には、「ブログに書いてあることを読んでくださいとお願いしたい」と語っています。読んでさえもらえば誤解は解けるとのニュアンスです。ちなみにブログの立ち上げは元旦の夜とされており、この取材はメディアでは一番早かったもの。この時点で人々の誤解があると父親が感じていたとすれば、それは医師らの論文に起因する誤解以外にはないでしょう。)


このように、自分が考案した“アシュリー療法”に親が絶大な自信を持っていることは、資料を読めばはっきり分かります。分からないのは、親が自信満々のアイディアを持ちこんできたからといって、一組の親の思い付きに過ぎないものが何故こんなに簡単に実施に結びついてしまったのかということ。なぜ医師らがこんなにも簡単に追随してしまったのかという点です。

患者として患者の家族として医師と向かい合った経験のある人は、この点に違和感を覚えないでしょうか。

「医師らはやっぱり“乳房芽”など認めていなかった」というエントリーでも書きましたが、親がこのような独自のアイディアを持ち込んできた場合に、果たして医師はまともに相手にするものでしょうか。しかも、そのアイディアはGunther医師ですら「これを聞いた人の最初のリアクションが拒否的になるのは理解できる」という突飛なものなのです。普通なら倫理委員会まで話をもっていってもらえるどころか、診察室で切り出したとたんに呆れられ、まともに相手にしてもらえず追い返されるのがオチなのではないでしょうか。

ところが、アシュリーの親の突飛な要望は、Gunther医師の診察室で持ち出されたその日のうちに具体的な計画となり、即座に担当する倫理カウンセラーまで決まるのです。(Diekema医師は1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、内分泌医の初診直後に、倫理カウンセラーとしてオン・コールだった自分に電話があり、この件を担当することになったとの事情を語っています。) 医師らの論文が異様なほど親の存在を意識して書かれたものであることは既に指摘しました。

私が両者の対比の構図に「妙に」という形容をつけるのは、この疑問のためです。この事件における「医師―親」の関係性には、なにか通常の「医師―親」の関係性とは異質なものが感じられないでしょうか。
2007.06.25 / Top↑
1月にメディアの取材やインタビューに対して医師らが繰り返しているのは、おおむね
「自立歩行の可能性がなく重篤な知的障害も併せ持った重症児に対しては、
こうした医療介入を行っても悪いとは思えない」という主張のように思われます。

そのトーンは
「だから、(アシュリーの両親が提唱しているように)広くやればいい」という方向ではなく、
「だから、アシュリーに対してやったことは正当化されうる」というディフェンシブな方向のようです。

論文で何度も繰り返し必要を説いたセーフガードへの言及はなくなり、
その代わりに以下に見られるような微妙な言い回しが多くなります。

虐待となる可能性は?

はい。虐待となる可能性はありますね。医療で行うことの多くに虐待の可能性はあるわけですから。今回のことは非常に慎重に使った治療なのです。もっと広く使われることになったら私は心配ですね。たとえばダウン症の子どもに成長抑制を使おうという人がいたら賛成しません。だからといって、虐待の可能性があるから誰にも使ってはいけないということにはなりません。

1月11日CNN

Diekema医師はいくつかの発言において、
ダウン症の子どもを「適応外」の例に挙げていますが、
その一方で彼は「なぜダウン症の子どもは適応外なのか」を解説するつもりも、
「どこにどのように線を引くのか」といった問題を分析してみせるつもりもないようです。

翌12日の「ラリー・キング・ライブ」においては、
「仮に手術するにしてもセーフガードがあるべきだ」と強く主張する障害当事者のJoni Tada に対して、
「アシュリーはジョニたちのような障害者とは違う、
自分の気持ちを表現することも理解することもない、
ずっと生後6ヶ月のまま両親に依存し続けるのだから」と反論します。

これもあくまで今回のケースのディフェンスではありますが、
セーフガードの必要を否定するかのような発言になっています。
つい2ヶ月前には、自分自身が論文の中で再三にわたってセーフガードの必要を強く説き、
ジョニと全く同じことを言っていたのは忘れてしまったのでしょうか。

そして、
WPASの調査によって手続きの違法性を公式に認めさせられてしまった後の、
5月16日WUでのシンポ。

Anita Silvers氏がプレゼンテーションの中で「思考実験」として挙げた2例は、
この処置の適用に当てはまらないと会場から反論した際、
Diekema医師は「この療法には厳密な基準(strict criteria)がある」とまで、ついに言い放ちました。

彼がその時に挙げた基準とは
「重篤かつ永続的な認知障害 profound, permanent cognitive impairment」と
「歩けないことnon-ambulatory」の2つです。

医師らの発言の時期ごとの変遷をまとめてみます。

2006年10月の論文
恣意的な適用を懸念
倫理委員会の検討のみでなく
施設内審査委員会の関与まで含めたセーフガードが望ましい

      ↓

2007年1月 親のブログが出て後
上記のようなセーフガードへの言及は消える
アシュリーのような歩けず知的障害の重い子どもには、やっても構わない
(あくまで今回のケースへのディフェンスとして障害像が語られている点に注意)

      ↓

2007年5月 手続きの違法性を認めさせられて後
この療法には厳密な基準がある
(ついにデイフェンスの範囲を超え、他児への適応を明確に前提とした発言が出てしまった)


こうした発言の変遷は、
医師らが次々展開する思いがけない周辺状況によって、
論文執筆段階では持っていた医師としての良心の呵責を、
段階的にかなぐり捨てざるを得ないところへと追い詰められていく姿
……だとは、見えないでしょうか?

そして今や、医師らがもはや後には引けないところに追い詰められてしまったために、
どこにもそのような検討を行った形跡などない「厳密な基準」が
いつのまにか出来ていたことになるとしたら、
これは非常に危険な兆候なのではないでしょうか。


2007.06.22 / Top↑
親への言及の多さの他にも、
もう1つ広く適用することに関連して
論文の中で医師が何度も言及している問題があります。
それはセーフガードの必要性です。

まず「症例報告」の中、
倫理委がrecognize したこととして、
以下のように書かれています。

この患者ではjustifyされるものの、将来の患者では成長抑制はケース・バイ・ケースでリスクと利点を注意深く評価した後にのみ考えられるべきである

さらに「倫理の議論」では

成長抑制療法の恣意的な適用に対してガードするためには、適切な適用を保障するためのフォーマルなメカニズムが存在することが適当、いや恐らく必要ですらある。

理想的には、このアプローチ(病院が準備中である検討委員会)は施設内審査委員会によって承認された治療実験綱領と組み合わせられるのがよかろう。

そして、いよいよ締めくくりの結論においても、

望むらくは、施設内倫理委員会の検討を経たのちに、
または施設内審査委員会の審査下にある研究の文脈で……
(専門医の監督の下に行われるべき)

ちなみに施設内審査委員会は倫理委員会とは別物です。
この点については、どなたか専門家の方に解説をお願いしたいところなのですが、
とりあえず簡単に説明すると、

施設内審査委員会は
法的な位置づけ(National Research Actなど?)の中で設置が義務付けられ、
連邦政府の管轄の医学研究・医療施設 (および補助金を受けている研究計画) での
臨床実験の対象となる人の人権の保護および倫理上の問題点の審査を含む
治験実施要綱の全体的審査を行う機関。

それに対して病院内倫理委員会は
設置が推奨されているのみで、
実施状況や活動の質・内容にもまだばらつきがあるようです。

(The American Journal of Bioethics 誌の2007年2月号で、
 総合病院の倫理コンサルテーションについて
 アメリカ初の全国調査の結果が報告されています。)


つまり、上記論文のセーフガードについての言及部分は、
今後考えられるケースについては倫理委員会以上の検討手段を加えて、
もっと慎重に厳密に検討するのが望ましい、
この療法については人体実験と等しいほどの慎重さで検討するべきだと言っているのです。

Diekema医師自身、
シアトル子ども病院のスタッフ紹介ページのプロフィールによると、
同病院の施設内審査委員会の委員長の一人です。
その彼が、アシュリーに行われた成長抑制療法を巡る論文で、
この療法の「恣意的適用」を懸念して、これだけのことを書いていたわけです。

ところが不思議なことに、
年が明けて1月、両親のブログがすべてを表に出してしまった後
医師らの発言からは、このようなセーフガードへの言及は消えてしまうのです。

(次回に続きます。)
2007.06.22 / Top↑
親が「そうだ、アシュリーだけではなくて広く多くの子どもたちにもやってあげればいいじゃないか」と考えを発展させた可能性があるのは、アシュリーのエストロゲン大量投与が完了する少し前の段階ではないかとの推論を前回のエントリーで提示しました。

親が広く推奨しようとの考えを抱いた可能性がある時期(もちろん、あくまで推測です)は、医師らの論文が書かれる数ヵ月前ということになります。

これまで指摘してきたように、どちらかというと執筆者の医師らは本当は書きたくなかったのではないかと思える節のある、あの論文です。乳房芽の切除の事実も子宮摘出の本当の理由も隠し、あたかも成長抑制療法のみについての論文であるかのように装って、ホルモン投与の時期は1年も過小に偽り、このケースを検討したという倫理委のメンバーについては書いてもいないのに書いたと読者が受け取るような手の込んだ誘導を仕組みこみ、そして政府の在宅化推進の方針まで持ち出して、しかし全体に何もかも曖昧模糊としたままに書かれている……といった論文。隠しておきたいことだらけで、それならいっそ論文発表などしなければいいではないかと思うほど隠蔽やごまかしに満ちた論文でした。だからこそ、医師らには本当は発表などしたくなかったのだけど、そこに何かどうしても書かざるを得ない事情というものがあったのではないかと推測するわけです。(「論文のマヤカシと不思議」の書庫を参照してください。)

これらの推測を念頭に、では論文で医師らは「この処置を広く推奨する」ということに関してはどのような書き方をしているかを当たってみると、この論文の思いがけない特性とでもいったものが浮かび上がってきます。

まず、アブストラクトの最後の1文。
もしも万が一親が要望した場合には、適正なスクリーニングとインフォームド・コンセントの後に、成長抑制療法がこのような子どもたちに治療のオプションとして提供されることを提唱する

さらに、イントロダクションの最後の1文。
親がこのような介入を望んだ場合には、この介入は医療的に実施可能でありまた倫理的にもdefensibleであると我々は提案する
defensible とは、ここでも医師らのホンネが”語るに落ち”ているのではないでしょうか。やったとしても、倫理的にもまぁ釈明はできそう(ごまかせそう)……だと?

そして興味深いことに「症例報告」の中では、
倫理委は、成長抑制と子宮摘出の要望はこの症例においては倫理的上適切であるとのコンセンサスに至った

倫理委がこれら処置そのものの妥当性についてコンセンサスに至ったとは書いてないのです。彼らが適切と認めたと言っているのは、あくまでも親の要望であることに注目してください。2006年5月5日の倫理委は、ホルモン投与によって重症児の身長の伸びを止め、健康な子宮と乳房芽を摘出するという医療介入そのものの倫理上の是非を検討する場ではなく、そういうことをやりたいとする親の要望の方の是非を検討する場だったのでしょうか。微妙な違いのようにも思えますが、これは非常に重大な違いだと私は考えています。

話を本題に戻します。

この、一体何についての論文なのか、何を報告したいのかしたくないのか、何を言わんとして書いたのか、すべてが曖昧模糊としている論文の、では結論とは一体なんだったのでしょうか。

「結論」の冒頭の1文。
生涯にわたって歩くということのない、重篤な発達・神経・認知障害のある子どもに成長抑制を望む親の気持ちは、理にかなっており理解できるものと思われる
A parent’s desire ……….seem reasonable and understandable.

「結論」の項目では、この後に「この論文ではリスクとメリットを秤にかけて、リスクがメリットを超えるものではないと論じてきた」という趣旨の文が続き、セーフガードの必要を強調した後に、論文は以下のように締めくくられます。

親はnovel and untested な医療介入のリスクと不確実性について知らされるべきである。それらのセーフガードが存在すれば、このような療法は倫理的かつ実施可能であり、親へのオプションとして提供されるべきであろう

novel and untested については既に指摘しましたが、こうして「結論」でまで繰り返されると、彼らはやはりこの療法の妥当性に実は口で言うほどの確信がなかったのではないかと思えてきます。「不確実性」を親に説明しておかなければならないとわざわざ付け加えているということは、独自にリサーチし自分で思いついたアイディアに親が自分で期待しているほど大きな効果があるかどうか、まだ分からないという懸念を医師の方は抱いていたのでしょうか。(もっとも、この効果の点を疑問視する声は論争の中でも他の医師から出ており、実際のところ、それについては先になってみないと分からないわけですが。)

ここでもまた、「親へのオプション」なのです。親が望んだ場合には……親の要望は倫理上適切……親の要望は理解できる……親へのオプションにすべき……。

この論文がそれまでの事実経過からして親を意識しているのはある程度やむをえないにしても、これは尋常な程度といえるでしょうか?

論文の結論が「こんなことをやりたいと言う親の要望はもっともなのだから、親が望めばやらせてあげるべきだ」という主張であったことを、論争に加わった多くの人は知っていたのでしょうか。
2007.06.21 / Top↑
「乳房芽切除の理由とメリット」で引用したように、両親は乳房芽の切除という処置はホルモン療法を受けて胸が膨らんでしまう男児に使えばいいと提唱していました。しかし実は、両親が名案だから広く使えばいいと提唱しているのは乳房芽の切除だけではありません。

両親のブログのタイトルは多くの人が知っているように、the Ashley Treatment ですが、このブログには副題があることをご存知でしょうか。

Toward a Better Quality of Life for “Pillow Angels”

Pillow Angelsと複数形になっていることに注目してください。「ウチの”枕の天使ちゃん“のより良いQOLのために」ではなく、「世の中の”枕の天使ちゃんたち“のより良いQOLのために」。アシュリーと同じような状態にある世の中の重症重複障害児たちのより良いQOLのために、このブログを立ち上げたと副題は謳うのです。

本文の中でもブログでの情報公開の理由について
寝たきりの”Pillow Angel”たちに同じようなメリットをもたらしてあげられるかもしれない家族を支援するため

ひとえに我々の経験を同じような子どもを持つ他の家族が役立て、彼らのピロー・エンジェルたちの生活が良い方向に変わることを願ってのこと
と書かれています。

この療法が広く受け入れられて、このような(他の重症障害児の)家族にも受けられるようになることを望んでいる
との記述もあります。

つまり、乳房芽の切除だけではなく、ホルモン療法による成長抑制と子宮摘出術を含めた3点セットである”アシュリー療法”を広く世間に広めようというのが、両親がブログを立ち上げたもう一つの大きな理由なのです。父親はメディアの取材に対しても、これと同じことを言っています。”アシュリー療法”というネーミングも、そうした意図から「覚えやすくて検索しやすい名前をつけたかった」ものです。

ところで両親は、2004年にアシュリーに3つの医療的処置を要望した最初から、ここまでのことを考えていたのでしょうか。最初から「これは自分が考えた素晴らしい名案だから、アシュリーにもやって、みんなにも広めましょう」という要望だったのでしょうか。

これは、ちょっと考えにくいシナリオのように思えます。いくらなんでも、いきなりそんな話が出てきたら、医師らにも受け入れられないでしょう。倫理委冒頭でプレゼンを行った際に、何らかの原因で乳腺が肥大する男性には切除手術が行われている事例を持ち出してはいますが、それもアシュリーへの乳房芽切除の妥当性を説くことが目的のようです。やはり2004年当初は「アシュリーに対してこういうことをやってほしい」というだけの話だったのではないでしょうか。そして、実際にわが子にやってみた結果として「案外、多くの人の悩みを解決できる名案かもしれない。広くみんなが使ったらいいじゃないか」と考えるに至ったと考えるのが自然なのではないでしょうか。

アシュリーのホルモン療法は、2004年7月の手術からの回復を約1ヶ月待って開始され、Gunther医師が3ヶ月ごとに診察し各種の検査を行っています。2007年年明け早々のブログでは「ちょうど2年半の治療が完了したところです。この間を通して悪影響は一切観察されませんでした」と書かれています。

やはりある程度の時期は治療経過を見守らなければ親としても心配だったことでしょう。そして、もう大丈夫そうだ、副作用はなかったようだと考えた時、この療法の安全性も確認できたように感じたのではないでしょうか。それが「副作用がないのだったら、アシュリーだけではなく、もっと広く多くの子どもたちのために使えばいいじゃないか」という考えに発展したということは、考えられないでしょうか。もし、そういう段階を踏んで考えが発展したのだとすれば、「アシュリーのため」から「みんなのためにも」へと考えが飛躍した時期は、アシュリーへのホルモン療法が終わりに近づいた頃と見るのが最も自然なように思われます。2年半の療法ですから、2年を過ぎる頃にもなれば、そろそろ副作用もなかったようだと安心するでしょうか。

仮に、両親が上記の推測のように考えを発展させたとすると、その時期は、2006年の夏に当たります。医師らが論文を発表する数ヶ月前です。 
2007.06.21 / Top↑
資料を読み直していたら、以前には気がつかなかった論文のウソをもう1つ発見しましたのでご報告します。

アシュリーに行われたエストロゲン投与の期間についてです。

両親のブログでは、2007年の外科手術からの回復を約1月待ってから開始し「2年半の投与がちょうど完了したところ」と書かれています。

ところが医師らの論文では、「現在、療法を1年ちょっと受けたところ」と書かれているのです。

論文発表は2006年10月。
ブログの立ち上げは2007年1月2日。

それぞれの発表時期は2ヶ月しか違わないことを考えると、これはやはり医師らの論文がホルモン投与の期間を実際よりも1年短く申告したかったためのウソだと考える以外にはないのではないでしょうか。
2007.06.20 / Top↑
1月12日以降、医師らはそれまでの隠蔽もゴマカシもウソもどこへやら、あたかも両親の主張する乳房芽の切除のメリットに最初から賛同していたかのような発言を繰り返しています。

ネットに流出したこの事件に関する情報は膨大なものでした。それを読む人にとっては、あらゆる情報が既に目の前に出揃っている形になるので、また情報操作があるなどという前提には立っていないので、どの時点の発言であるかにはさほど注意を払っていないものと思われます。しかし、これまで見てきたように、この事件では去年10月の時点、今年1月の時点が決定的に重要な分岐点となっています。私はそれに加えてWPASの調査によって病院サイドが手続きの違法性を認めざるを得なくなった5月時点が、さらに医師らを後に引けないところに追い詰めたという意味で、もう1つ大きな分岐点と見ています。

5月16日のWUのシンポでは、Diekema医師が「今だから乳房芽の切除で済むが将来病気になってからだとmastectomy(乳房そのものの切除)となる。だからmedical need からやったことだ」とまで発言しています。でも、これは時期の問題への摩り替えであり、はっきり言ってウソでしょう。「将来病気になる可能性があって、その際には乳房全体の大きな手術になるから先にとっておこう」というのがmedical need なのであれば、全女性から乳房芽を切除しなければならないことになります。

(追記:2004年5月5日の倫理委の時点では、医師らは両親の言う「乳房芽の切除」をmastectomyそのものと捉えていたという事実は既に指摘しました。)


Diekema医師のシンポでの発言は、1月当初に医師らがメディアで乳房芽の切除について説明していたよりも、さらに一歩踏み込んだウソだということができます。1月には彼らは両親の主張する範囲のことしか繰り返していません。ここに至って、彼は両親が言っている範囲を逸脱したウソをついてまで、乳房芽の切除の正当性を強調しようとしているのです。

そこで疑問になります。乳房芽の切除には気が進まなかったはずで、両親がプレゼンでいろいろ説得してやっと認めたはずで、それでも論文には書けなかったほど後ろめたかった乳房芽の切除について、なぜ1月の段階では両親に沿った発言へと転換し、今ではmedical need だったとまで苦しいウソをつくほどにさらに確信的になっているのか。

それは、両親がブログですべてを書いてしまうことも、WPASが調査に入って違法性を認めさせられてしまうことも、医師らにとっては想定外だったからではないでしょうか。

医師らにすれば隠しておきたかったことの全てが、あのブログで表に出てしまった。論文を書くに当たって知恵を絞って工夫し、必死で誤魔化したことも隠蔽したことも、一切があのブログで無に帰してしまった。そうなった以上、最初から両親と同じことを言っていたかのようなフリをする以外にはなくなった。当初試みていた隠蔽から人々の注意を逸らせるためにも、最初から両親の考えに全面的に賛成していたかのように装う以外になくなった……。そこへさらに思いがけず調査が入り、手続きの違法性を認めざるを得なくなってしまった。もう後には引けない、全力で誤魔化し抜いて我が身を守らなければならないところにさらに追い詰められてしまった……そう考えれば、つじつまが合うのではないでしょうか。

しかし、このように考えてくると、そこからまた無数の疑問が生じてきます。WPASの調査はともかくとして、1月年明け早々のブログは医師の意向に反して親が立ち上げたものなのか。医師らは知っていたのか。知っていたとすれば止めたかったのではないか。止めたかったとしたら、なぜ止められなかったのか。医師らが論文を書いてから親がブログを立ち上げるまでの2ヶ月間に、両者の間にはどんないきさつがあったのか。あの論文を医師らに書かせた事情とはなんだったのか。アシュリーの手術から医師らが論文を書くまでの2年間に何があったのか。

そして手術が行われた2004年に、本当は何があったのか。

多くの人がこれまで表に出た情報を確かな事実だと信じ、事実という強固な土で固められた土俵の上に立ってこの問題を議論していると考えている、その土俵が、実はベニヤ板でできたプロップに過ぎなかった……ということは、ないのでしょうか。

この事件には、まだ表に出ていない実相が隠されているのではないでしょうか。
2007.06.19 / Top↑
続いて、「初期の乳房芽の切除による乳房の生育の防止」。(3つの項目の堂々たる厳密さにも注目してください。)

ここでも冒頭、両親は明快に書きます。

授乳するということがないので、アシュリーには発達した乳房は必要ありませんし、そういう乳房の存在はアシュリーにとっては不快の元でしかありません。

両親それぞれに胸の大きな女性が多い家系で、アシュリーもそうなることが予想されました。しかし、横になった姿勢に大きな乳房は不快だし、車椅子やシャワーチェアに座る時に安全のために胸の位置にベルトを締める際に
乳房は邪魔になります。

この部分に続き、「手術前に、アシュリーは既に乳房の感じやすさを示していました」という記述があるのですが、これがベルトを締められることへの不快を示していたという意味なのかどうか、私は確信が持てません。これだけ明確に厳密な文章を書く人なのだから、それならそうと具体的に書くのではないかと思われ、そう考えると、「乳房の感じやすさ(感受性)を示していた」という表現はもしかしたら性的な感覚の意味なのかもしれません。

乳房芽切除のその他のメリットとしては、

①繊維のう胞ができやすい家系なので、将来つらい繊維のう胞が起きて手術をしなければならなくなることを予防する。(この手術は複数形になっているので、何度も繰り返すという前提で書かれているのかもしれません。)

②家系に乳がんの人がいるので、乳がんの予防。

③移動したり体を動かす際に介護者が体に触れるので、大きな胸は介護者に対してアシュリーを“性的な存在にする”可能性がある。

さらに乳房芽の切除については最後に付け加えられた一説が非常に興味深いので、以下に引用してみます。

アシュリーが将来に渡って体が楽であるように、またQOLが維持できるようにと我々が望んだことの中で、アシュリーの担当医と倫理委員会にとって最も大きな難題となったのは乳房芽の切除でした。上記の利点を詳細に説明し、乳房の病気が多い家系であることを話し、同じ処置が外見を理由に男性に行われていることやホルモンの関係で男性の乳腺が発達した場合にも行われていることを指摘することによって、我々は医師と倫理委のreluctance(気が進まないこと)を乗り越えました。将来、エストロゲン療法を受ける男児には、胸が膨らんでしまう副作用が気になりますが、アシュリーのケースと同じように対処することができます。

引用はすべて両親のブログ(1月22日のもの)より

倫理委の冒頭で行ったプレゼンでは、両親は多くエネルギーを乳房芽の切除について医師や倫理委員会のメンバーを説得するために費やしたようです。それはそのまま、医師らや倫理委員会の抵抗感の強さを表しています。

また医師らが論文で乳房芽の切除に一切触れず、1月11日のテレビインタビューではウソまでついて隠したのに対して、両親は無邪気なほどの率直さで、乳房芽の切除が低身長の男児へのホルモン療法の副作用への対応策として有効だと提唱しています。この点もまた、医師らと両親の発言の食い違いの中でも非常に重要なものの1つでしょう。

両親は嘘をついたり誤魔化したりする必要など微塵も感じていないのです。それどころか名案なのだから、広く使えばいいじゃないかと言っているのです。ホルモン療法で胸が膨らむ副作用に悩む男児にはアシュリーと同じように対処すればいいと語るこの最後の下りに感じられるのは、こんな名案を自分が思いついた誇らしさと、それによって誰かのためになればという善意なのではないでしょうか。
2007.06.18 / Top↑
次に「子宮摘出術による生理の不快回避」の理由とメリット。

両親は非常に明快です。短いので直接引用します。

子どもを生むことはないのでアシュリーには子宮は必要ありません。この処置によって、生理と生理に通常伴う出血/不快/苦痛/生理痛がすべて取り除かれます。

この処置はアシュリーの子宮を取り除くものですが、卵巣は残っているので生来のホルモンは維持されます。

決めた後でたまたまついてきた追加のメリットには、妊娠の可能性がなくなるということがあります。障害女性に対するレイプは、驚くことに実際に起こっている虐待なのです。また子宮摘出は、子宮がんやその他、女性特有のつらい問題も取り除きます。大人になってからこのような問題が起きたら、いずれにしても子宮摘出術を受けることになります。

子宮摘出については、それだけです。
2007.06.18 / Top↑
両親のブログでは、医療処置ごとに項目を立てて、それを望んだ理由とその処置がいかにアシュリーのQOLの維持向上に貢献するかが詳細に説明されています。これから3回に分けてそれぞれの説明を眺めていきますが、個々の点について医師らが論文で書いていたこと、メディアで述べていたことを思い出しながら読んでみて下さい。医師と両親の発言内容だけでなく、情報を提示する姿勢にも、くっきりとした対比が感じられると思います。

まず最初は「エストロゲン大量使用による最終身長の制限」。

この処置を望んだ理由として先ず挙げられているのは、現在のアシュリーの体重65ポンド(約34キロ)は、両親が抱え挙げられる限界に近いという事実。さらに50ポンド体重が増えると状況は大いに違ってくる。(成長抑制によって減じられる見込みの身長分の体重が50ポンドです。)さらに、両親以外に介護を託されているのは2人の祖母で、彼女たちにとってはアシュリーの体重は両親以上の負担になる。探してはみたけれども、「有資格者で、信頼するに足り、なおかつ経済的にまかなえる範囲の介護者を見つけることは不可能です」とも。

現在の状態なら介護者一人で抱え上げられるが、この先もっと大きくなったとすると、2人がかりになったり器具を使う必要も生じてくる。小さいままだと、アシュリーも直接家族の腕で抱いて移動させてもらえるし、1日中寝たままテレビを見ているよりも旅行や家族行事にも参加しやすい。また体を頻繁に動かしてもらえれば、血行がよくなり消化器の機能も活発になる。体が伸びて関節も柔軟になる。

さらに子どもサイズの体であることの現実的な利点として箇条書きで挙げられているのは、以下の2点。

①座位がとれない子どもなので、通常サイズの浴槽で入浴させるのは今が限界であり、このまま背が伸びたら入浴方法を考え直さなければならない。

②アシュリーは横になっている方がラクなので、家の中の移動には双子用のベビーカーを改造し、そこに横にならせて使用しているが、このベビーカーの体重制限が限界にきている。

特に③として項目を立ててあるわけではありませんが、「最近になって、ある医師から聞いた」として、体が小さい方が感染症のリスクも低下することが付け加えられています。寝たきりの人は感染症を起こしやすいが、体が小さいことそのものもリスクを減じるし、動かしやすいと、それだけ動きが増えて血行がよくなるため、リスクが低下する。体が小さいことでリスクが低下するとして挙げられている感染症は、辱そう、肺炎、膀胱炎の3つ。ただし、現時点で裏付けるデータはないとの但し書きもあります。

(なお、その後の更新によってこの箇所にはかなりの分量の追加が行われ、その他のメリットも紹介されていますが、当事者の発言を検証するに当たっては、2006年10月の時点と、2007年1月時点という時期に非常に重要な意味があるため、両親のブログの内容については1月22日時点のものを使用しています。)

(また追加部分では、その後ほかの重症児の親のメールの内容から、在宅介護の期間を延ばせることも成長抑制の大きなメリットの1つだと考えるようになったと書かれています。しかし、この検証では論文が書かれた時点と、両親のブログが立ち上げられてメディアに両者の発言が報じられていた1月時点のそれぞれで両者が何を言っているかということが重大な問題なので、この両親の考えの変更については検証の対象外としました。今後も触れませんが、追記の中にそう書かれていることは、ここで紹介しておきます。)
2007.06.18 / Top↑
「医師の言うことを否定して見せる親」で述べたように、両親はブログで、これら一連の処置を行ったのは本人のQOLの維持向上のためであり、それ以外は付随的な問題に過ぎないと繰り返しています。いかなる状況であっても自分たちは家でアシュリーをケアし続けるのだから、在宅介護の“期間“など、初めから問題にならないというのです。他人の手を借りるということもありえないのだから、そのことへの不安からしたことでもない。一連の処置は、ひとえにアシュリー本人のQOLのため。2004年5月5日に倫理委員会の冒頭でプレゼンを行った際にも、そう強く力説したことでしょう。

以上のことから、次のような疑問が生じます。

そのような親の主張を当然知っていたはずの医師らは、何故それとは違うことを論文に書いたのでしょうか。詳しくは「医師らの論文のマヤカシと不思議」という書庫にある記事を参照してもらいたいのですが、論文ではまずアブストラクトで家族介護の負担軽減というメリットを前面に打ち出しています。さらに本文冒頭では、連邦政府の障害児福祉施策の施設入所から在宅重視への転換が紹介されます。それに続く本文も、成長抑制は家族介護の負担軽減につながり、家庭でケアできる期間を延ばすことに繋がるとの趣旨のように読めます。副題もその線に沿ったものです。

このような論文の内容について、在宅介護の期間を延ばすためにやったことではないとゴチック体にしてまで否定する両親は、「自分たちの考えや言っていることを医師らが十分に分かっていない」と不満なのでしょう。が、医師らは本当に分かっていなかったのでしょうか。Gunther医師は最初に相談を受け、親のアイディアを具体的な計画にした人物です。その後の実施にも責任者として携わっています。Diekema医師もその時期から倫理カウンセラーとしてこのケースを担当しています。さらに倫理委ではパワーポイントを使っての1時間近いプレゼンも聞いたのですから、親の言っていることは分かっていたはず。それならば、自分たちが論文に書こうとしていることが親の主張と異なっていることも、十分知っていたのではないでしょうか。

それでもなお親の主張と違うことを書いたのは、なぜか。

それは医師らが、もうひとつ別のことも知っていたからではないでしょうか。本人のQOL向上のためだけにこのような医療介入を行ったと書いたのでは、世の中には受け入れられないということ。

ここに両親のもうひとつの否定が関わってきます。両親はブログで3つの医療処置をその目的と合わせて明快に挙げ、成長抑制のみを主に書いた医師らの論文の書き方を否定しています。確かに、もともと両親のアイディアであり、両親の主張と説明を医師らが受け入れ認めたうえで実施に至ったという経緯でした。両親にすれば、自分たちの主張を受け入れたのだから、その通りに書いてくれるものと思ったのでしょう。では、両親の認識の通りに書かれたとすると、論文の趣旨はどうなったでしょうか。成長抑制と子宮摘出と乳房芽の切除をそれぞれの目的とともに列挙し、それらすべてを「本人のQOL向上のため」に実施したという症例報告を行い、これは倫理委員会が承認したことである、同じ処置によって世の障害児のQOLも向上させることができる、よって広く提唱したい、という内容の論文になります。そんな論文は世の中には受け入れられない、と医師らは知っていたのではないでしょうか。

「重症児の身長をストップすれば介護負担が軽減されて在宅介護で親がケアできる期間が延長できる。QOLの向上など本人へのメリットもあるし、なによりも政府の在宅化推進という施策の方向にも合致している」とでも言いたそうな書き方は、論文を書くに当たって、なんとか世の中に受け入れてもらえそうな(誤魔化せそうな?)範囲を必死で探った執筆者が、かろうじて見つけたギリギリの線だったのではないでしょうか。だから、両親がブログで書いていることと、医師らの論文とは、いわば“ヴァージョン”が違わざるを得なかったのではないでしょうか。

ここからはさらに2つの疑問が浮かんできます。

1.そうまでして、なぜ論文を書いたのでしょうか。この点は既に「まだある論文の不思議 その5」   
の中でも簡単に触れましたが、論文発表まで、すでに2年以上もアシュリーに行われたことは表に出ていませんでした。医師らはその2年間ずっと口をつぐんでいたのです。もしかしたら、そのまま表に出ないことを望んでいた、本当は医師らは論文発表などしたくなかったのではないでしょうか。事実のままに書くわけにいかないと知っていたからこそ、上記のような工夫をしたはずです。既に詳しく述べましたが(「医師らの論文のマヤカシと不思議」の書庫を参照してください)、相当に苦しいゴマカシの工夫をしています。そこまでしなければ書けなかったということは、医師らが自ら望んで書いたというよりも、書かざるを得ない事情が何かあったから、そのような工夫をする以外にはなかったということなのではないでしょうか。

2.親が言っている通りに論文に書くわけにいかないと医師らが考えていたとすれば、親の言う理由で親の望んだ通りのことをアシュリーに行った自らの行為には倫理上の問題があると、実は知っていたことにならないでしょうか。そして、それは、倫理委員会がコンセンサスによって親の要望を承認したという医師らの主張と矛盾するのではないでしょうか。

  
2007.06.18 / Top↑
Anne McDonald さんは、Seattle Post-Inteligencerに寄せた記事の中で、
自分はピーター・シンガーの友人であり、倫理と障害について議論したこともあると書いています。
にもかかわらず、シンガーがニューヨークタイムズに既に有名になった例の論評を書いた際に、
自分に連絡がなかったと延べ、続いて以下のように書いています。

これはきっと、アシュリーは static encephalopathy だと説明されているからでしょう。
どちらかというとありふれた状態に対して、むしろ珍しい名前です。

static encephalopathyとは、ただ単に「悪化することのない脳損傷」という意味に過ぎません。

時として、妊娠中の薬物使用を原因とする脳損傷の言い替えに使われることもありますが、
この状態で最も多いのは薬物使用とは無関係な脳性まひです。

アシュリーも私も脳性まひなのです。

アシュリーのドクターたちは、
自分たちが提唱しているのが脳性まひの少女たちの成長を抑制し思春期を防ごうということだと知られたら当然起こる非難の声を避けようとして、
static encephalopathy という用語を使ったのかもしれません。

引用冒頭の「これはきっと」の部分は、ピーター・シンガーが
static encephalopathy と診断されているアシュリーの状態は、脳性まひであるMcDonald さんとは全く別の、
はるかに重篤な障害であると受け止め、
そのためにアシュリーの件について論評するに当たって
McDonaldさんに相談するには当たらないと判断したと推理しているわけです。

実は、このencephalopathy という診断名については、
「アシュリーはどのような子どもなのか」を巡って
親と医師らの発言が微妙に食い違っている点でもあります。

医師らは論文で、
アシュリーには様々な専門分野の検査が行われたが原因を特定できず、
顕著で広範な発達障害を伴うstatic encephalopathy (非進行性の脳障害)と「診断された」
としているのに対して、

両親はブログで
「様々な分野の専門家が知られる限りの検査を行ったが診断も原因も見つけられませんでした。
医師らはアシュリーの状態を“原因不明のstatic encephalopathy”と呼んでいます」
と書き、どちらかというと診断名としない立場をとっているのです。

それからもう1つ、
こちらは食い違いではなく、両親だけが書いており医師らが触れていないこと。

それは「アシュリーは健康な子どもである」という事実です。

「知的な発達が異常であることを除けば、アシュリーは健康な子ども」と両親はブログに書いています。この点は論争の中で誤解していた人が多いので、注意を要する点だと思います。

「障害者」の多様な実態に触れることがない人には、分かりにくい点なのかもしれませんが、
重い障害があっても健康で、滅多に病院の世話にはならないという障害者も世の中にはたくさんいます。
重症障害児・者の中には病弱な人も確かにたくさんいますが、
だからといって「重症の障害がある」ということが
必ずしも「病弱である」ということを意味するとは限らないのです。

メディアの報道では、static encephalopathy と書いた後に
非進行性の brain damage またはbrain impairment と解説を書いた記事が一番多く、
ついで最初から brain damage または brain impairment とのみ書いた記事もありました。
中には解説なしに static encephalopathy とのみ書いた記事もあったように思います。

static encephalopathyという診断名だけを書いた記事を読んだ人の中には、
いかにも高度な専門用語然とした単語の顔つきに目を奪われて
「なんだか、ややこしそうな難病なんだな」といった
誤った理解をした人もあったのではないでしょうか。

そのためか、アシュリーの状態について、論争の中で
「重い脳の病気」であるとか「現代医学では治せない難病」と誤解していた人が見られましたが、
こういう思い込みには、アシュリーが健康な子どもであるという事実を
見えにくくしてしまう危険性があるように思います。

そうしたイメージは、「療法」や「手術」という医療介入とアシュリーの距離を
最初から近いものと想定してしまうのではないでしょうか。
それによってアシュリーが手術を受けたり、何らかの“治療”、“療法”を受けることへの違和感が
最初から薄れてしまうとしたら、それは気をつけなければならないことのように思います。

Anne McDonald さんが言うように、
static encephalopathy という診断名によって、
シンガーを初め多くの人が、アシュリーの状態を「脳性まひ」や「重症心身障害」とはまったく別の、
非常に特異な障害であるかのように誤解したとしたら、

そしてもしも、

アシュリーの診断名が「脳性まひ」や「重症心身障害」とされていた場合に
周囲の受け止めが違ったものになっていた可能性があるとしたら、

我々はやはり、
言葉やイメージに左右されて
「健康な子どもから健康な臓器が摘出された」のだという事実を見失うことのないように、
気をつけなければならないのではないでしょうか。
2007.06.17 / Top↑
Seattle Post-Intelligencer 誌に6月15日付で、The other story from a 'Pillow Angel':Been there. Done that. Preferred to growという驚くべき体験談と論評が掲載されました。書いたのはAnne McDonaldというオーストラリア人女性。

彼女はアシュリーとほぼ同じ障害像の持ち主で、自分もstatic encephalopathyであるといいます。歩くことも話すことも自分で食べることも出来ない。運動機能は生後3ヶ月児相当。3歳の時に医師から重度(IQ35以下)の精神遅滞だと評価され、施設に入れられました。その後14年間、ベッドで寝たきりの生活を強いられます。12歳の時にも最重度(IQ20以下)の精神遅滞と再評価されました。施設の食事の量が少なく、食事介助の人手も不足していたことから、自分にも栄養不良による成長抑制が行われた、と彼女は言います。

しかし、16歳の時、アルファベット盤を指差してコミュニケートする方法を習った彼女は、2年後にはその方法で弁護士に指示して、14年間暮らした施設を出ることに成功します。その際に、医師は裁判所に対して、背の低さが知能の低さの証であるとの申し立てを行いました。その苦い経験から、彼女は「医師の言うことだからといって何もかも額面どおりに受け取ってはいけないことを学んだ」と書いています。

施設を出てから骨年齢を測ったら6歳でした。通常の低身長の人と違うのは、背が低いだけでなく2次性徴もなかったこと。食べることによって背が伸びて、18歳で思春期を迎えます。19歳で初めて学校へ行き、哲学と美学の専攻で大学を卒業。自分の体験を書いた本はオーストラリアで映画にもなりました。

今は正常な身長と体重。歩くことも話すことも自分で食べることも出来ないけれど、介護者の手を借りて旅行が趣味。サイズはその障害にはなりません。話せない、歩けないというだけで、アシュリーと同じように成長を抑制されてしまった体験から、彼女はアシュリーの親や医師やコメンテーターたちがあまりにも安易に彼女の知的レベルを評価してしまうことに、警鐘を鳴らしています。

彼らのアセスメントの根拠は何なのでしょう? アシュリーには自分が3ヶ月以上の知能があると証明する機会が与えられたのでしょうか? その機会を誰かが与えてくれればいいのにと願いながら何年もベッドに寝たきりだった私のような人間だけが、まるで意識などないかのように扱われることの恐ろしさを知っているのです。

(このブログでも既にアシュリーの知的レベルについてのアセスメントは医師らがその時々で言うことが違い、根拠が乏しいのではないかとの疑問を呈しています。)

近年、言語に頼らないコミュニケーションの方法が開発されているのだから、知能のアセスメントはそれらによってコミュニケーションが確立されて後に行うべきだと彼女は主張します。いったんコミュニケーションの方法が得られれば、教育も評価も可能になるとも言います。

どんな子どもも、話すことが出来ないからといって重篤な精神遅滞があると決め付けてはならない

アシュリーに自分自身の声を見つけてあげる、あらゆる努力をすることなしに、あのピローの上に寝かせきりにしておくのは、極めて非倫理的なことです

これだけの体験をした人が、この事件を受け止め、これだけのものを冷静に論理的に書くには、どれだけの思いをされたことか。Anne McDonald さんの努力と勇気に、拍手。

(McDonald さんは記事の中で、static encephalopathy というアシュリーの診断名について、非常に興味深い指摘をしています。それについては、「アシュリーに何が行われたのか」という点で私自身も指摘したかった点でもあり、このあと、別にエントリーを立てます。)
2007.06.17 / Top↑
「親と医師の言うことは違う ③論文の挙げる“なぜ”」で、「アシュリーにこのような処置が行われたのは何故か」について論文に書かれた一節を、両親がブログで否定していることを指摘しました。その箇所によると、このまま成長したら他人に託す以外になくなることを案じたからでも、在宅介護の期間を長くしたかったからでもないとのことでした。では、両親がこれら一連の処置を望んだ理由は何だったのでしょうか。

両親はアシュリーにこれらの処置を望んだ理由を、ひとえに「本人のQOLの維持向上のため」であるとブログで何度も主張しています。特にわざわざゴシック体にして強調している一説があるので、そのまま引用してみます。

療法について広く見られる基本的な誤解は、療法が介護者の便宜を意図したものだというものです。そうではなくて、主な目的はアシュリーのQOLを改善することです。アシュリーの最も大きな課題は不快と退屈なのですから。この中心的な課題に比べると、この議論の中のそれ以外の問題はたいしたものではありません。“アシュリー療法”はずばりこれらの課題に対応するもので、それによってこの2つの課題が大きく緩和され、アシュリーに生涯にわたってメリットをもたらすと我々は強く信じています。
ほとんどの人が考えているのとは異なり、“アシュリー療法”をやろうというのは難しい決断ではありませんでした。生理痛がなくて、発達しきった大きな乳房からくる不快がなくて、常に横になっているのによりふさわしく、移動もさせてもらいやすい小さくて軽い体の方が、アシュリーは肉体的にはるかに快適でしょう。
アシュリーの体が小さく軽いことによって、家族のイベントや行事にも参加させやすくなりますし、そうした機会はアシュリーに必要な安楽、親密さ、安心感と愛情を与えてくれるものです。たとえば食事の時間、ドライブ、触れてもらったり、抱いて甘えさせてもらったり、といったことなど。赤ちゃんというのはだいたい、目を覚ましている時には家族のいるのと同じ部屋においてもらって、家族のすることを見たり聞いたりしてはそれに注意を引かれ、それを楽しんでいます。同じようにアシュリーにも赤ちゃんと同じニーズが全てあるのです。遊んでもらったり、家族に関わってもらうことも必要だし、またアシュリーは家族の声を聞くと落ち着きます。さらに、アシュリーの精神年齢を考えると、完全に成熟した女性の体よりも9歳半の体のほうがふさわしいし、より尊厳があるのです。

両親のブログthe Ashley Treatmentより

主要な目的はアシュリーのQOLの改善であることをはっきり書き、その後、これらの処置のメリットが述べられています。恐らく、2004年5月5日の倫理委員会のプレゼンテーションでも、これと同じ主張が行われたものと思われます。メリットに関して言えば、医師らが論文に書いた内容やメディアでの発言は、ここに挙げられたものとぴったり一致しています。メリットの点では文句はなかったのでしょう。医師らの論文で両親が不満だったのは、行われたことの内容についての書き方と、自分たちがこれらの処置を求めた動機についての2点でした。

「親と医師は言うことが違う ②3つの処置の関係」では、行われたことの中心に成長抑制を据えて他は曖昧なままにした論文の書き方に対して、両親は「成長抑制はアシュリー療法の1つの側面に過ぎません」と否定していました。

「親と医師は言うことが違う ③論文の挙げる“なぜ”」では、自分たちでケアできる期間を延ばしたかったことが両親の動機だったように書いた部分について、やはり「在宅ケアの期間を延ばすためにやったことではありません」と明言し、どんなことがあっても赤の他人に託すことは決してしないと書いて、医師らの発言を否定していました。

いずれも、ニベもないほど、きっぱりとした否定です。私は医師らの論文を読み、次いで両親のブログを読んだ際に、この2つの否定に違和感を覚えました。患者の親が医師の言うことを否定しているのです。医師のほうが親の言うことを否定しているのではありません。通常の「患者の親―医師」の関係性で考えた場合、自分の子どもの主治医の発言をこれほどきっぱりと否定できるでしょうか。通常なら医師に対して失礼になると考え、あるいは医師の不興を買うことを恐れて、親の立場でこれほどあからさまな否定は出来にくいように思われます。

もちろん、大きな批判を受けている状況を考えると、自分たちの意図を誤解されたくない気持ちは強いでしょう。しかし、それでもなお、自分の子どもの担当医がすでに論文に書いた内容を否定するのであれば、もう少し軟らかな表現や婉曲な言い方を工夫するのではないでしょうか。アシュリーの両親は大胆とも思えるシンプルさで医師の言うことを否定します。

アシュリーの両親は、自分たち親の考えや言っていることを医師らが把握・理解し、そこから逸脱せず、その通りになぞって発言することを当たり前だと考えてでもいるのでしょうか。
2007.06.17 / Top↑
前回、論文の「メンスの始まりについても(両親は)心配していた」という1文が論文のどこにも繋がっていないと指摘しました。この点について、もう少し詳しく検討してみます。

論文の中で、あくまで「治療前」との形容つきですが、子宮摘出が初めて出てくるのは、この「メンスの始まりについて云々」の直後になります。著者は、これを書いたことで「一応は本当の理由も書いた」と安心したのでしょうか。次の段落が、「医師らの論文にはマヤカシがある その3」で引用した、ややこしくて分かりにくい、あの長いセンテンスで始まるのです。両親と医師とが話し合った結果、「エストロゲンの大量投与によって成長を抑制し、治療前子宮摘出術によって思春期一般の長期的な問題と特に治療の反作用を軽減するという計画ができた」という、あの文です。なににつけ、このセンテンスに話が戻ってしまうのは、それだけここにゴマカシがたくさん仕掛けられているからでしょう。

原文を引いてみます。

After extensive consultation between parents and physician, a plan was devised to attenuate growth by using high-dose estrogen and to reduce the long-term complications of puberty in general, and treatment adverse effects in particular, by performing pretreatment hysterectomy.

英語教師をしているネイティブ・スピーカー2人に別々に読んでもらって、2人ともが「悪文すぎて何が書いてあるのか分からない」と呆れたセンテンスです。が、受動態で書かれていること(誰が計画を作ったのかを示さなくて済む)を初め、必要なマヤカシをすべて盛り込むには、このような悪文にならざるを得なかったものでしょう。

A plan to attenuate and to reduce と読むことで、読みにくさが1つ解消すると思います。

reduce の目的語を the long-term complications of puberty in general and treatment adverse effects in particular の2つだと理解してもらうと、文の構造はつかめると思います。その手段が performing pretreatment hysterectomy です。

治療前子宮摘出術を行うことによって、「一般的な思春期の健康上の問題と、とりわけ治療の反作用
」の2つを軽減する計画が出来た……というわけです。(初出時に「治療前」と形容されていることは注目すべきと思います。)

さて、この直前に「親がメンスの始まりについても心配していた」という一文があるからといって、次にこの分かりにくいセンテンスを読んで、ここでいう「一般的な思春期の健康上の問題」とはメンスのことで、それを軽減(なくしてしまうのは本当は”軽減”ではありませんが)するために子宮を摘出したのだな、親はそのためにこそ子宮摘出を望んだのだな……と、事実の通りに理解できる人が、果たしているでしょうか。

それでも、なるべくウソだけはつきたくないらしい執筆者の心理としては、「子宮摘出の本当の理由についても、ちゃんと書いた」という言い訳(なぐさめ?)になったものでしょうか。それとも、このような書き方をもって、「誤魔化してなどいない、このように自分は子宮摘出の本当の目的についても、きちんと書いている」と主張するつもりなのでしょうか。

追記: 上記の記述があるのは「症例報告」の中ですが、その後「成長抑制療法の歴史」という項目をはさんだ、はるか遠く「治療のリスク」の項目に、以下の一節があります。
予防的子宮摘出術にはエストロゲン療法に付随するメリットがいくつかある。この一回限りの処置により生理のcomplications が取り除かれ、また多くの場合、生涯にわたって続けなければならないホルモン注射の支出、痛みと不便を本人と介護者から取り除く。

これもまた、こう書くことで「子宮摘出の本当の理由も書いた」という言い訳のつもりなのかもしれませんが、理解できないのは生理のcomplications が一体何を意味するのか、ということ。生理は病気ではないのにcomplications とは何のことなのか? それとも、その後に、まるで多くの障害女性が一生涯ホルモン注射で生理を回避しているように書かれていることから極めて親切な推測を行うと、これは「生理痛」のつもりなのでしょうか。しかし生理痛は生理のcomplications……? 

しかも、これは「治療のリスク」の項目。あくまでもホルモン療法の副作用軽減策としての「予防的」または「治療前」子宮摘出についての文脈です。
2007.06.16 / Top↑
これまで、あちこち横道に逸れながらでしたが、「アシュリーはどのような子どもなのか」という点と、「アシュリーに対して何が行われたのか」という点について事実関係を確認してきました。そして、その中から、両親と医師らの言っていることが食い違っている点を指摘してきました。これから「アシュリーにそれらの処置が行われたのは何故か」という点について眺めていくと、両親と医師らの言うことは、さらに大きく食い違ってきます。また、それぞれの発言内容の食い違いのほかに、今回の処置を説明するに当たっての両者の姿勢とトーンにも大きな違いが感じられてきます。そちらにも注意を払って資料を読んでいきたいと思います。

まず、論文が述べる「アシュリーにこのような処置が行われたのは何故か」。

先にも「アシュリーはどのような子なのか」で引用したように、論文の「なぜ」に関する部分では、内分泌の初診時点でアシュリーには陰毛が生え胸も大きくなり始めていたこと、背もそれまでの半年で本来の背の高さの50%から75%にまで伸びていたこと、そうした急速な成長と思春期の始まりに両親が将来への不安を覚えていたことが触れられています。さらに、このままの成長が続いたら、家で世話をしてやりたいと願っているにも拘わらず、「最後には“赤の他人の手に託す”しかなくなるのではないかと両親は案じていた。また思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについても心配していた」と書かれています。
以上が論文の述べる、アシュリーのケースに関する「なぜ」です。

また「倫理の議論」の中で、一般的な成長抑制療法のメリットとして、介護負担の軽減、体を動かす頻度が上がることから健康上の問題が起こりにくくなること、家族行事に参加しやすい、介護機器を使用するより親に直接移動させてもらえる、などを挙げ、最後に「サイズだけの問題ではないが、親によっては成長抑制は家庭で子どもを介護できる期間を延長する機会を与えるだろう」とも書いています。

この中で問題にしたいのは、アシュリーのケースについて書かれている部分の「両親が案じていた」2つのこと。
1つずつ検討してみます。

まず最初の「最後には“赤の他人の手に託す”しかなくなるのではないかと両親は案じていた」の部分。この文脈には「倫理の議論」で述べられている「家で介護できる期間を延ばしたかった」という含みがありますが、両親はこの両方について、ブログの中ではっきりと否定しています。「家で介護できる期間を延ばしたいからとやったことではありません。アシュリーがどんなに背が高く重くなったとしても、私たちは彼女のケアを赤の他人に託すなどということは決してしません。極端に言えば、仮にアシュリーが300ポンドになったとしても、私たちは家でケアするし、ケアする方法を工夫します」と書いているのです。特に「家で介護できる期間を延ばしたいからとやったことではありません」の部分はゴチックにしてまで強調しています。

ここでもまた、「親と医師は言うことが違う ②3つの処置の関係」で取り上げた「成長抑制はアシュリー療法の1つの側面に過ぎません」という発言と同じく、両親は医師らが論文で言っていることをきっぱりと否定していることになります。

次の「思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについて(両親は)心配していた」という記述は、論文の中でも非常に不可解な箇所です。なぜなら、この1文は、論文の中の他のいずれの箇所とも繋がっていないからです。

我々は現在、子宮摘出は生理と生理痛をなくすことが目的だったことを事実として知っています。(これは両親がブログでそう明示してくれたおかげ。これは案外に重要な事実だと私は考えています。)知った上で読むと、当然この記述は我々の意識の中で子宮摘出と結び付きます。しかし、この論文が発表された時点では両親のブログはなく、読む人にとっては論文に書かれていることがすべてだったことを思い出してください。この段階では、2ヵ月後に両親からあれだけの情報が出てくることは誰も予想していませんでした。予備知識なしにこの箇所を読んだ人が、果たしてこの記述を子宮摘出と結びつけたでしょうか。

これまで再三指摘してきたように、これは子宮摘出についてはわずかしか触れることのない、成長抑制についての論文です。少なくとも、そのように装って書かれています。そんな中で、この「思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについて(両親は)心配していた」という記述は、前後の脈絡とは全く無関係に投げ込まれたかのように見えます。そもそも論文のこの段階では、まだ子宮摘出そのものが登場していません。メンスの始まりについて「何が」心配だったのかが説明されているわけでもありません。その心配が子宮摘出と関連していることにも一切触れません。ただ「親がメンスの始まりについて心配していた」という事実の断片だけが、ここにぽんと提示されているのです。まるで、子宮摘出の本当の理由を隠蔽し、ホルモン療法の副作用軽減のためであるかのように装って書く自分自身の後ろめたさに対して、この1文を投げ込むことによって「一応は本当の理由も書いた」と言い訳でもしたかったかのように。
2007.06.15 / Top↑
2004年にアシュリーに対して「何が行われたのか」について、最も気になる点は、やはり論文では2つのことが行われたとする医師らの発言と、ブログで3つのことが行われたとする両親の発言の食い違いでしょう。

医師らの発言を資料で詳細に追っていると、ウソをついているかと言えばウソにまではならないものの、事実を隠したり曖昧にしたり誤魔化している、という発言が目に付くような気がします。Diekema医師は1月12日の「ラリー・キング・ライブ」の中で、自分は強い宗教上の信念を持った人間だと言っているので、そのことと関係するのかもしれません。特にDiekema医師には一種独特の回りくどい言い回しや、饒舌になることで巧妙に話題を摩り替える傾向が顕著なのですが、これらもまた、ウソをつくことは避けたい心理の表れなのかもしれません。

ところが、そのDiekema医師が明らかにウソをついている場面があるのです。彼は1月11日のCNNのインタビューで、アシュリーに行われたことを、はっきり「2つ」と言っています。「医師らの論文にはマヤカシがある その2」の最後に簡単に紹介した内容と一部重複しますが、以下に紹介しましょう。

CNN:倫理委員会がこのケースを検討するために開かれた際に、議論された主要な問題は何でしたか?

Diekema:両親の要望には2つの側面がありました。我々が検討したのは、成長抑制を認めていいかどうかということと、子宮摘出を認めていいかどうかということでした。最初の問題は、これらのことでこの少女のQOLを改善できるかどうかという点。それらによって彼女の生活は改善するかどうか、です。次の問題は、害を及ぼす可能性があるか、またそれは利益があると見込まれても実施を認めるべきではないほど大きな害かどうかという点。倫理委のコンセンサスは、生活を大きく改善する可能性があり、実害はほとんどないというものでした。

CNN:2004年にアシュリーに行われたことを説明してください。

Diekema:成長抑制は単純に大量エストロゲンを投与することによって達成されました。スーパー・バース・コントロールと同じようなもので、彼女が成長することの出来る時期を短くします。通常の女性は16歳か17歳で成長が止まります。アシュリーは9歳で成長がストップしました。子宮摘出は外科手術で子宮を取り除きました。卵巣は残してありますから、正常な人と同じようにホルモンは生成されます。

前半の問答で「2つ」と答えた時、Diekema医師は明らかにウソをついています。後半の問答でも、あからさまなウソではありませんが、彼の得意な微妙かつ巧妙な摩り替えが行われています。

「何が行われたのか」と正面切って問われてしまったDiekema医師は、すなわち「アシュリーに行われたこと」を総括せよと求められたわけですが、論文においてと同様、そんなことはしたくなかった、またはするわけにいかなかったのでしょうか。「アシュリーに行われたこと」を答える代わりに、「アシュリーに行われたことを実施した際の方法」を答えているのです。このように答えることで、彼自身もまた嘘をつくことを免れるのかもしれません。確かに、成長抑制は大量エストロゲンの投与で行われたし、子宮摘出は外科的に行われました。「子宮摘出は外科手術で子宮を取り除きました」などと、言わずもがなのことまで並べているのは、饒舌になることで問いと答えの微妙なズレから聞く人の意識を逸らせたいとの無意識でしょうか。

それにしても不思議なのは、この時点では両親のブログではもちろん、多くの報道で既に乳房芽の切除は表に出ていること。Gunther医師も既にいくつかの取材に答えて乳房芽を切除したと述べています。それを知らなかったということも考えにくいのですが、なぜDiekema医師は、ここで「両親の要望には2つの側面があった」と明らかなウソをついたのでしょうか。

さらに不思議なことには、この問答が放送された翌日には彼はこのウソを撤回するのです。(11日は生放送ではなかったので、インタビューが行われたのは前日10日かもしれません。)12日に「ラリー・キング・ライブ」に衛星中継で生出演した彼は、「ところで教えてください。あまり専門的にならずに、何が行われたのかを」とキングから、またも正面切って総括を求められます。そして「3つありました。アシュリーの両親が求めたのは……」と、今度は「3つ」だと答えているのです。もちろん「昨日(または一昨日)は2つといいましたが、実は3つでした」と断って撤回したわけではありません。

なぜ、1日か2日の間に言うことが変わったのでしょう?

本人の説明がない限り、そのナゾを解くことは不可能ですが、この直後に起こったこととしては、まもなく医師らはマスコミの取材に応じなくなりました。果たしてメディアへの露出や取材が厳密に12日で最後だったかどうかまでは確認できませんが、このあたりを境にGunther 医師もDiekema医師もメディアとのコンタクトを断ったように思われました。

では、この時期に何か特別なことがあったのでしょうか。

WPASがワシントン大学に対して調査開始を告げて情報提供を求めた、いわば宣戦布告のような書簡の日付は1月8日です。子ども病院に送られた同じ内容の書簡は1月10日付。この2日間の遅れはどういう理由によるものなのか、ちょっと気になりますが、8日付の書簡が大学に届いた時点で子ども病院も連絡を受けたであろうことは、容易に推測されます。

その後、求められた情報への答えを子ども病院が書簡にまとめ、さらに添付資料をそろえて両者が会談を行うのが22日。子ども病院が準備に10日以上もかかっていることを考えると、やはり障害者の人権擁護団体が調査を始めること、その団体が調査権限を持っていたことは、子ども病院にとっては全く寝耳に水の話だったのかもしれません。その衝撃は、書簡の文面にも見てとれます。以下の引用で、1月の2通の書簡と4月5日の書簡とのトーンの違いを比べてみてください。

We would like to discuss with you whether and how to proceed with such a survey….
このような調査を行うかどうかについて、またその方法についても、あなた方と協議いたしたく……(1月22日)

We look forward to collaboration with you as we do so.
我々はあなた方と協働できることを楽しみにしております。(1月22日)

Thank you for meeting with Jodi and me on Monday, January 22. We very much appreciated the spirit of collegiality and cooperation of our meeting, and we look forward to working with you in the future.
昨日はJodiと私に会ってくださり、ありがとうございました。我々は話し合いが共同と協力の精神で進められたことを大変喜んでおり、これからも協働できることを楽しみにしております。(1月23日)

As Jeff Sconyers stated in our meeting yesterday, we do not believe that this request falls within the scope of WPAS’s legal authority, but we are nonetheless providing you …… I trust you will find this information helpful. I will be away from the office….contact Jeff Sconyers at ….. if you need further relevant information while I am away.

昨日の会談でジェフが述べたように、この要求はWPASの法的権限の範囲を超えていると我々は考えておりますが、それでもなお我々はこれらの資料を提供するものであり……この情報でお役に立つはずです。私はしばらく事務所を留守にしますので、その間に関連情報がさらに必要になった場合は、この番号でジェフにご連絡ください。(4月5日)

4月の書簡では立ち直って、むしろ反発や反撃の構えさえ感じられますが、1月の22日、23日の書簡では極めて低姿勢です。書簡全体からも、強い警戒感を持って慎重に対応しようとしている様子が伺われます。

Diekema医師がCNNのインタビューを受けた可能性がある1月10日ないし11日、次いで「ラリー・キング・ライブ」に衛星生出演した12日あたりの時期、病院は相当に危機感を抱き、混乱していたのではないでしょうか。
2007.06.13 / Top↑
さらに私が、この論争における growth または grow という言葉が意味するものの曖昧さから抱く、もう1つの疑問は、多くの人々が「アシュリーは生涯成長することもなく、赤ん坊のまま」という際のgrow について。

アシュリーの認知・知能の発達は生後3ヶ月の時から変わっていない(両親のブログにある観察)
            または
アシュリーのメンタルレベルは生後6ヶ月である(根拠は不明ながら、おおむね医師らが言っていること)
           ということは、


アシュリーは、一人の人としても乳児以上には成長しない

ということと同じではないはずだと思うのですが、この論争では、これらが混同されてはいないでしょうか。


Time1月7日の記事 Pillow Angel Ethics で、Gunther 医師が次のように述べています。

これは、これから先成長していくといった子どもではなかったんですよ。ただ(体は)大きくなっていっただろうというだけで。

「ある人の知的発達段階が乳児レベルである」ということは、果たしてGunther医師がいとも簡単に決め付けているように、本当に「その人が一人の人として成長していくことは決してない」ということと同じなのでしょうか。
2007.06.12 / Top↑
以下の4行は当初 「何が行われたのか」のエントリーの最後に括弧で付記していたものですが、その後、この点に関してエントリーを立てることとし、こちらに移しました。

論争の途中で気になったことの1つに、この件では「成長」、「発達」、「成熟」、「背が伸びる」という、似ているけれども微妙にニュアンスが違い、人によっては意味していることが違う可能性のある言葉や概念が無造作に使われているのではないか、という点がありました。これは1つには grow という単語の多義性・幅広さによるのかもしれません。

たとえば、growth attenuation 「成長抑制」の「成長」を広い意味でとってしまうと、乳房が大きくならないように処置したことも、その中に含まれるような印象になります。生理が大人の女性であることを意味するのであれば、生理をなくすための処置まで「成長抑制」の中に含んでしまうことも、無理なことではないのかもしれません。そのためか、論争の中で、”アシュリー療法”全体がすなわち「成長抑制療法」のように語られている文脈というのもあったように思います。

その意味では、まさしくWUでの5月16日のシンポのタイトルも The Ethical and Polcy Implications of Limiting Growth in Children with Severe Disabilities となっており、やはり「成長制限」が一体どこまでを含んでいるのか曖昧です。それとも、まさか病院は子宮摘出での手続きの違法性を認めた5月に至っても、まだ論文と同じようにホルモン療法のみを主役に押し出しておきたかったのでしょうか。

これまでも何度か指摘してきたように、この事件には「よく考えてみたら曖昧なまま誰も確認していないことが、いつの間にか事実のように扱われている」という傾向が顕著に見られるのです。論文の中身しかり、倫理委員会の人数・メンバー構成しかり、そしてアシュリーの知的レベルしかり。きちんと事実関係を確認することが、この事件を理解するためには非常に大切なように思います。

両親がブログで明確に主張しているように、行われたことは2つではなく3つの医療処置だったこと、growth attenuation はその中の1つに過ぎないことをあやふやにしないためには、「成長抑制」のgrowth は正しくは両親の定義のように単純に「身長」のみを意味すると理解すべきと思われます。このブログでも「成長抑制」という言葉を便宜上使う場合がありますが、英文を訳している以外の場合は、両親のブログの定義と同じ「エストロゲン大量投与療法による身長抑制」の意味で使うこととします。
2007.06.11 / Top↑
前回のエントリーでアシュリーに対して具体的には何が行われたのかを確認しましたが、行われたことの内容に関する両親と医師らの発言や表現の違いについて、眺めてみたいと思います。

既に指摘したように、医師らの論文は成長抑制のみをタイトルに謳い、アブストラクトや本文においても、行われたのは成長抑制のみであったかのような書き方がされています。また成長抑制についての論文でありながら、その肝心の成長抑制がどこにも定義されていません。

定義はされていないものの、内容と書き方からすると、論文の言う「成長抑制」とは「副作用軽減のための治療前子宮摘出を伴う、エストロゲン大量投与による身長抑制」との意味と読めます。さすがに、こう定義するわけにはいかなかったのでしょう。何よりもそれではウソになります。さらに定義に含まれてしまうと、子宮摘出がホルモン療法とほぼ同じ大きさで表舞台に出てしまい、注目を避けられません。注目されてしまうと、身長抑制の目的のために手段として子宮を摘出することの是非も問題になりそうです。(また、2つが定義に含まれることで、もう1つの不在が際立ってしまう、ということも考えられます。)

論文の書き方では、表舞台に堂々と登場する主役はあくまでホルモン療法。子宮摘出は、いかにも副作用軽減のための必要悪であったかのような顔をして、なるべく目立たないように、わずかに登場する端役となっています。いわば、このような配役を成功させるための舞台設定として、ホルモン療法だけを意味しているようにも、子宮摘出までを含んでいるようにも(勝手に読者が含むと読んだ場合には、それがあたかも副作用軽減のためだったとの誤解も伴うように?)、どちらにも読めるべく、「成長抑制」は曖昧である必要があったのでは? だからこそ、「成長抑制」を定義することも、「アシュリーに行われたこと」を整理・総括して提示することも、できなかったのでは?

いずれにせよ、医師らの論文を通し読みして「ところで、成長抑制とは?」とか、「結局は何が行われたの?」という点を振り返ってみると、なんだか曖昧模糊としているのです。論文なら、もっと論理的にビシッ、ビシッと明快に書いてほしい。そんな苛立ちを覚えるほど、ぬらりくらりとしています。

それに対して、「大量エストロゲン投与療法による最終身長の抑制」と、極めて明快な定義をビシッと示しているのは、両親のブログです。前回のエントリーで引用したように、両親はアシュリーのQOLを向上させるための3つのゴールの1つを「大量エストロゲン投与療法により最終身長を制限すること」と明快に書いています。

さらに、医師らがホルモン療法を主役に、子宮摘出を目立たない端役に設定し、乳房芽については登場させることすらしなかったのに対して、両親は3者を対等に並べています。

行われた3つの医療処置それぞれの、論文と両親のブログでの関係をここで図示してみると、以下のようになります。

論文
  

両親のブログ
   ○   ○   ○

最初のマルが「ホルモン療法」、次が「子宮摘出」です。読む人によっては、論文の小さなマルは大きなマルの中にあるようにも読めるかもしれません。3つ目のマルは論文にはありません。乳房芽については一切書かれていないからです。それに対して、両親の認識では3つは対等に並んでいます。

そして、次の1文は大いに注目すべき発言だと私は考えているのですが、ブログの中で自分たちがこれら一連の医療介入を“アシュリー療法”と呼ぶ理由を述べた際に、両親は次のように付け加えています。

成長抑制はアシュリー療法の一側面に過ぎません

こんなことを、わざわざ断る意図は何なのでしょうか?
 
ブログが立ち上げられる2ヶ月前に、医師らのあの論文が既に発表されていることを思い出してください。これは、医師らが成長抑制だけを主役に論文を書いたことを意識したうえでの発言ではないでしょうか。つまり、上記に○で図示したような論文の位置づけを、両親は認めていないということにならないでしょうか。上の図ではない、下の図の3つの関係が正しいのだと、両親はここで明示しているのではないでしょうか。

医師らが論文に書いたことを、両親はブログで否定していることになります。「医師らと両親の言うことは同じ」だとの予見はやはり危険なようです。
2007.06.11 / Top↑
さて、このような障害像をもつアシュリーに対して、具体的には何が行われたのかを確認してみましょう。

一番単純明快に分かりやすいのは、両親のブログに箇条書きにされた部分でしょう。「以下の3つのゴールを達成することにより、大人になったアシュリーのQOLを大きく向上させることができることは明らか」と書かれている3つのゴールとは、

大量エストロゲン投与療法により最終身長を制限すること。
子宮摘出術により、生理と生理痛を取り除くこと。
初期の乳房芽の切除により、乳房の生育を制限すること。

 このゴールに従って、太字部分の医療処置が行われました(太字はspitzibara。) また、一般に5%の確率で炎症が起きるが盲腸炎になってもアシュリーは苦痛を訴える術がないとの理由で、手術の際に外科医が盲腸も切除しています。

まず①の最終身長を制限する目的で行われた大量エストロゲン投与療法とは、どういうものでしょうか。論文には次のように書かれています。

エストロゲンの大量投与によって成長を抑止し、それと同時に比較的短期間の治療で骨端線の成熟を促進して、それにより体の大きさを永続的に抑制することが可能となる

骨端線というのは骨の先端の一部分で、我々の背が伸びるのはこの骨端線が延びることによるのですが、骨端線は一定のところまで成熟するとそれ以上は伸びなくなるようです。我々の身長の伸びがある年齢で止まるのは、このようなメカニズムによるもの。したがって、論文のこの箇所に書かれていることは、人間の背が伸びるメカニズムの進行をホルモンの大量投与でいわば“早送り”し、アシュリーの身長の伸びを早々と“あがり”に至らせることで抑制しようという話です。

ただし実際に行われた処置の順番は、外科手術が先でした。(「医師らの論文にはマヤカシがある その3」 を参照してください。)2004年の7月にまず4日間の入院で子宮と乳房芽が摘出され、アシュリーは1ヶ月で回復。手術からの回復を待ってホルモン療法が始まり、ブログが立ち上げられた2007年新年当時、2年半の治療が終わったばかりのところだったといいます。

論文と両親のブログから具体的な内容を拾ってみると、

投与されたエストロゲンは1日400マイクログラム。3日ごとに交換するパッチで経皮的に投与。その間は3ヶ月ごとに身長と体重、骨年齢、インシュリン様成長ファクターⅠ、エストロゲンとプロラクチンのレベルと血栓症ファクターをチェック。ホルモン療法は順調に行われ、副作用は見られなかった。これによりホルモンを投与しなかった場合に比べて身長を20%、体重を40%減じることができると期待される。現在は4フィート5インチ(約135センチ)であり、9歳半の女児の平均身長に近い。骨年齢は15歳。身長の伸びは既にほぼ99%達成されたことになる。

両親は、「もっと早くにこの療法を開始していたら、アシュリーへのメリットはもっと大きかっただろう」と、ちょっと残念そうに書いています。

この「成長抑制」の内容については、センセーショナリズムに傾きがちなマスメディアの報道の中にも、それに続く論争の中にも誤解がありました。たとえば、1月4日のガーディアン紙のニュース・タイトル「時の中にフリーズされて」というのは、比喩としてはあり得るとしても、やはり正確な表現とは言えないでしょう。同記事の副題「生涯子どものままに」も同様。

Diekema医師は1月11日のCNNのインタビューと翌12日の「ラリー・キング・ライブ」で次のように述べています。

アシュリーはクラスメイトと同じレベルで成熟はしますよ。顔を見れば、年齢相応に年をとっていきますよ。別に外見を変えるためにやったことじゃないんです。本来なら伸びたであろう最終的な背よりも低くしただけです

「永遠に子どものままにしたわけじゃありません。15歳の時には15歳の外見、33歳になれば33歳の外見でしょう。生理がなくて胸が大きくならない。それ以外は(他の人と)同じように発達しますよ

このDiekema医師の発言に驚いた人もあるかもしれません。実は私も「あら?」と思った1人です。それまでは、私も「成長抑制」という言葉に引きずられて、成長そのものが止められてしまったようなイメージが先行していたので、ちょっと意表を突かれました。が、改めて処置の内容を冷静に振り返ってみると、確かにその通りなのです。背の伸びはストップしたけれど、アシュリーは年齢相応に成熟を続けるのです。ホルモン大量投与を通じて行われたのは、厳密に言えば、「成長抑制」というよりも、むしろ上記「3つのゴール」で両親が書いているように「最終身長の抑制」と呼ぶべきものです。

(「成長抑制」という表現には、医師らの論文でもともと定義されていないことなどの問題もあります。それについては「医師らの論文にはマヤカシがある その1」に。)

「何が行われたか」については、もう一つ、論争の中でよく見られた誤解がありました。摘出されたのは子宮だけで、卵巣は残されています。アシュリーには卵巣はあるので、普通の女性と同じようにホルモンは生成されます。そういう意味では、先のDiekema医師の言う「成熟」には女性としての成熟も含まれるのかもしれません。彼が「成熟」という言葉を使っているのは私の手元の資料ではここだけなので、ちょっと目を引かれるところです。

なお、乳房芽の摘出は何度も指摘したように論文の中では触れられていないので、詳細については両親のブログの説明しかありません。それによると、切除されたのはアーモンド大の皮下組織。その中には乳腺が含まれますが、乳輪と乳首はそのまま残されています。

以上が、当事者発言から私が確認した「アシュリーに行われたこと」の実際です。

このように行われたことの全体を把握し改めて冒頭に引いた両親の「ゴール」を見た場合に、科学的な正確さを別にすれば、ガーディアンの「生涯子どものままに」や「時の中にフリーズされて」という表現も、両親の動機という点では、本質をついた極めて鋭い比喩なのかもしれません。その点は、今後のエントリーでとりあげていく「なぜ」に繋がっていきます。
2007.06.11 / Top↑
ちょっと話が横道に逸れますが、アシュリーの知的レベルに対するDiekema医師の認識レベルを示唆する、非常に興味深い問答を1月11日のCNNのインタビューから、紹介します。

インタビューアーの質問
アシュリーに会って、彼女が家族とやり取りしているのを見て、気持ちが傾いたと言っておられますね?

Diekema医師の答え
とても頭のいい人たちなんです。思慮も深い。家族思いで、アシュリーのことを一生懸命に大事にしています。障害のある子どもは家族にとって本当に大変な場合があるのですが、娘の生活を出来る限りよくしてやることに自分たちの生活をささげているご家族です。

インタビューアーはここでアシュリーについて聞いているのですが、Diekema医師はそのことに気づいていません。彼は両親について答えています。まるでアシュリーが透明人間ででもあったかのように。

なぜ、こんなに答えが質問からずれてしまうのでしょうか。そのヒントは、このインタビューでの最初の質問「最初にアシュリーを見た時の印象は?」に対するDiekema医師の答えに伺われます。(インタビューアーはもしかしたら「アシュリーに会った時」と聞いているのかもしれません。)

When you see Ashley, it's like seeing a baby in a much larger body.
アシュリーを見ると、赤ちゃんがずいぶん大きな体の中にいるのを見ているような感じ

その後の問答でアシュリーの様子を聞かれているのに気がつきもせず、当たり前のように両親の様子を答えているのは、どうせ赤ちゃん、家族とのやり取りなどアシュリーの方は出来るはずがないと決め込んで、親の方しか見ていなかったのでしょう。

Diekema医師はまた1月4日のBBCのインタビューその他において、「アシュリーには、人と意味のある、いかなる交流も持つことはできない」とも語っています。彼はこの場面で、いかなる交流も持ち得ないアシュリーを相手に、親が一方的に「やり取り」を装っていた、とでも考えていたのでしょうか。

この問答から伺われるDiekema医師の知的障害に対する認識、知的障害のある子どもに関わる医師としては、あまりにもお粗末なのではないでしょうか? 「「重症障害児」を巡る思い込み」で触れた、重症児のことなど知らないから「重症児なんだから、どうせ何も分からないんだろう」、「どうせ赤ちゃんみたいなもの」、「どうせ人間らしい反応なんかしない」と思い込んで、現実のアシュリーの姿を確認しようともしなかった(目の前にいても見ようともしなかった)一般の人たちと、どこか違っているでしょうか。

そして、「親と医師は言うことが違う ①知的レベル」で指摘したように、このような意識の医師がアシュリーの知的レベルを、ある時は「生後6ヶ月」だといい、ある時は「生後3ヶ月」だといい、またある時は「乳児並み」と、コロコロと言うことを変えているのです。それでも医師が言うことだから、いつのまにか、それが科学的に証明された事実ででもあるかのように、メディアの報道やブロガーたちの議論で一人歩きをする……とても恐ろしいことではないでしょうか。

さらに、今後「うちの子にもやって」というケースが出てきた場合に、その子の知的レベルを彼のように最初に会った時から「体だけ大きな赤ちゃん」としか見ないような医師が判定するのだとしたら……? 
2007.06.08 / Top↑
私が事実関係を確認する作業を行った1点目は、
アシュリーがどのような子どもであるかを正確に把握することでした。

まず最初に、論文の症例報告でアシュリーの障害について書かれた部分を確認してみます。

小児内分泌科に紹介されてきた時点で、アシュリーは6歳と7ヶ月だった。通常の妊娠と出産で問題なく産まれた白人女児。生後1ヶ月を過ぎてから、筋肉の低緊張、授乳困難、舞踏用動作、発達の遅れの兆しが見られた。神経、遺伝、発達小児科の専門医の診察を受けたが、原因は特定できなかった。最終的にはstatic encephalopathy with marked global developmental deficits と診断された。

最後の部分の「診断名」には、いかめしい単語が並んでいるので、
ややこしい難病をイメージする人もあるかもしれません。
が、実は意味は案外にシンプルで「顕著で広範な発達障害を伴う脳障害」ということ。

論文から、その他の該当部分を抜き出すと、

「診断の後、彼女の発達が乳児以上に進むことはなかった。
6歳当時、上体を起こすこと、歩くこと、言葉を使うことができない。栄養は胃ろう依存。
しかし、世話をしてもらったり優しくしてもらうと、
それに応えて声を出したり微笑み、他者にははっきりと反応する。
専門家の意見をまとめると、認知と神経の基本ラインは将来大きく改善されることはないとされる」。

また
「内分泌医の診察を受けた時点で、既に1年前から陰毛が生え、3ヶ月前から胸が膨らみ始めていた」
とも書かれています。

両親のブログでは、最初に現在9歳のアシュリーの様子が詳しく語られています。
それによると、アシュリーは頭を上げておくことも、
寝返りをうったり睡眠中に自分で体位を変えることも、
おもちゃを持ったり、自分で上体を起こすことも、歩いたり話したりも出来ない、
いわゆる全介助状態です。

「びっくりしやすい」とか「常に腕を動かし足を蹴っている」と書かれているのは、
中枢神経系に異常がある子どもによく見られる特徴でしょう。
アシュリーには外見的な体の変形はなく、
身体的には正常に発達しており健康状態は安定しています。
また意識ははっきりしており、自分の周囲のことを分かっています。
家族のことも判っているようだけれど、確信は持てない。
これは
「そばに人がいることには明らかに気づいているのに目を合わせることは滅多にない」
からかもしれません。

別のところには
「家族の声を聞くと落ち着く」、
「家族の声かけにはよく微笑み、喜びを表す」ともあります。

また、頭が枕からずり落ちたり、髪の毛が顔に落ちかかったりして困った時には、泣いて訴えます。

アシュリーは学校のspecial education のクラスにも通っています。
熱心にテレビを見ているようにみえることもあるし、音楽が大好き。
気に入った音楽を聴くと、声を出して足を蹴り、
手で踊るような指揮を取るような動きを見せてはしゃぐといいます。
お気に入りのオペラ歌手がいて、
家族はその歌手を「アシュリーのボーイフレンド」と呼んでいます。
また、
「生後3ヶ月の時から認知と精神発達能力はずっと同じレベルにある」とも書かれています。

なお、両親はともに大学教育を受けた専門職。
アシュリーには弟と妹が一人ずつあり、
彼女のケアを担っているのは両親と祖母2人。

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以上が、論文と両親のブログから拾ったアシュリー像です。

これらの記述をきちんと読めば起こるはずのないことですが、
論争の中では彼女が植物状態にあるかのような誤解をした人たちが非常に多く見かけられました。

日本では最初に報道したニュースサイトの中に
「アシュリーの知的機能は既に失われており」との事実誤認があったので、
その影響は確かにあったと思いますが、

「こういう子は静かに死なせてやるほうが本人のため」など、
英語圏のブロガーたちの議論の中にも相当見られた誤解でした。

私の身近でも、植物状態に近いイメージで議論している方があったので、
上記の記述を抜き出して「アシュリーはこういう子どもですよ」と提示してみました。
返ってきた言葉が非常に象徴的です。
「送っていただいた資料を見ると、確かに人間らしい反応が見てとれます」。

いかに多くの人が事実を確認せず、
「重症児だから、どうせ人間らしい反応などないのだろう」とか
「どうせ何も分からないのだろう」との思い込みの上に立って、この問題を議論したかを考えると、
非常に恐ろしいものがあります。

ひとつには、
世の中の多くの人たちはアシュリーのような重症障害のある人たちに直接触れる機会がないので、
単純に「分からない」、「知らない」、または「想像もつかない」のでしょう。

けれど、もう1つ、このような誤解や混同を生んだ原因として、
論文にも両親のブログにもメディアの報道にも登場した、
あの”診断名”static encephalopathy with marked global developmental deficits
も寄与したのではないかと、私は推察しています。
2007.06.08 / Top↑