2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
Ashleyに行われた成長抑制と子宮ならびに乳房芽の摘出が明らかになった去年の1月に
即座に英国で「ウチの子にもやって」と手を上げたAlison Thorpeは
その後夏から秋にかけて実際に娘Katieの子宮摘出を求めて医師を説得し、
英メディアにも連日登場して自分の要望の正当性を訴えました。
(詳細は「英国Katieのケース」の書庫に)

結果的にはNHSトラストがAlisonの要望を却下して一件落着しましたが、
それまでの過程でAlisonは重症児のケアがいかに大変であるかを詳細に語り、
「この苦労を知らない人に私を批判する権利はない」と、子宮摘出要望批判の声に反撃を続けました。

彼女の正当化の論理ははっきり言って無茶苦茶だったし、
Katieの状態について語る言葉の選択にも表現にも
彼女の要望を批判する障害当事者らに向けた言葉にも
首をかしげてしまう部分が多かったのですが、

彼女が何度も言い続けたことの中に、
私にはとても気にかかるものがありました。

私がこの子の介護者であるという割合は
私がこの子の母親であるという割合よりも、はるかに大きいんですよ。
私はこの子の母親でいたいのに」

Alisonのヒステリックな物言いをニュースで読むにつれ、私は途中から、
もうとっくに限界に来ているのに「助けて」と言えない人の、
声にならない悲鳴を聞くような気がし始めたのですが、
今でもなお、彼女がメディアに繰り返し訴えていたのは、
実はこのような嘆きだったのではないかという気がしてならない。

Katieは介護者以上に母親を必要としているのに、
自分だってKatieにとってまず母親でいてやりたいのに、
でも、もうこれ以上どうやって頑張ればいいのか分からない、
Alisonは嘆いていたのではないでしょうか。

家族としての自分をとりあえず棚上げしなければ日常を回すことができなかったり、
親としての自分、妻や夫として子どもとしての自分を見失ってしまうほど
介護者にとって介護負担が大きい場合に、誰よりも不幸なのは、
その人に介護されている人だと私は思うのです。

そうなった時、
物理的には家族の介護を受けて自分の家で家族と暮らしていても、
精神的には大切な家族を失ってしまっているに等しいからです。

食事介助やおむつ交換、汚物の処理、着替えや入浴や服薬や体位交換やその合間の家事など
一日の時間を隙間なく数珠つなぎに埋め尽くしている「仕事」に介護者が追われ、
それらを着実にこなしていくことだけで精一杯になると、
次にやらなければならない「仕事」にしか目を向けられなくなります。
人間は追われ、疲れると、視野も心も狭くなるのです。
介護されている人が一番求めているのは
「自分を理解し愛する存在として、そこにいてくれる人」であり「かけがえのない家族」、
それだけはプロの介護者には絶対になり変わることのできない部分なのに、
その一番大切な家族としての関係が介護者役割に押しのけられていく。
身体はきちんとケアされていても、心はつながれなくなる。

AlisonはKatieが生まれてから15年間、通しで朝まで眠ったことがないといいます。
泣き叫ぶKatieをなだめ、近所に気を使って神経をすり減らす長い夜があけ、
ガンガンする頭に耐えながら着替えさせたKatieを車椅子に乗せたら、
ベッドはそこらじゅうウンチだらけで!……と、Alisonは金切り声で訴えました。
そこには手早い介護の手つきと、うんざりした溜息が感じられるだけで、
Katie自身に向けられる温かいまなざしというものが感じられません。

が、もしも夜の間だけでもKatieを引き受けてくれる人がいたら、
ゆっくり眠って朝を迎えることのできたAlisonは
手早く効率的だけれども不機嫌な介護者ではなく、
子を案じる優しい母親としてKatieのベッドに歩み寄ることができるのではないでしょうか。

矢嶋嶺医師が「医者が介護の邪魔をする!」の中で書いていた、
老人の介護は社会化して、家族は心の交流を大切にする」方がよいというのは
そういうことではないかと私は思うのです。

家族の誰かが介護を要する状態になっても、
「親は子に対して親であり続けられるように」
「妻や夫は、それぞれ妻や夫であり続けられるように」
「家族は介護者であるよりも、家族として傍にいられるように」ということ。

そのために必要ならば施設入所も受け入れよう、と矢嶋医師は提言していたのでしょう。

人は性格も環境も価値観も生きてきた道筋もそれぞれで、
家族のあり方も様々です。

どこで誰と暮らすのがベストだとか、
誰の介護を受けるのが幸せだとか、
そんな“形”にとらわれるのではなく、

その固有の家族が固有の家族のあり方の中で、
介護する人もされる人も家族であり続けられる介護を支援する……という視点で
柔軟な介護支援が考えられたらいいのに、と私は思うのです。
2008.04.30 / Top↑
去年イギリスで刊行された自閉症の少年と犬の交流のノンフィクション
Friend Like Henry: The Remarkable True Story of an Autistic Boy and the Dog That Unlocked His World
ペーパーバックになったのを機に、
The guardianに、その一部抜粋が掲載されています。

適切な支援を受けられない孤立無援の中で自閉症の息子をケアする生活に
著者がどのように追い詰められていったか、
ついに自殺を図ろうと思いつめるに至る過程が描かれている部分。

The day I could no longer cope with my autistic son
By Nuala Gardener
The Guardian, April 28, 2008

著者であり自閉症の少年Daleの母親であるNuala Gardenerは看護師ですが、
Daleの幼児期、親の方は自閉症であると確信しているのに、
どこの病院を受診しても専門家からは否定されたといいます。

そのために適切なサポートを受けることができず、
母親は仕事を減らして毎日ほとんど1人で息子の世話をすることに。

どんどんひどくなるDaleのこだわりと格闘する生活の中で
夫婦ともに精神的にも肉体的にも疲れていき、
息抜きに外出する気力どころか、まともに食事を取る気力もなくなっていったこと。
翌日もまたどんな日になるのかを考えるとパニックとなり、夜も寝られなかったこと。
やがて夫が仕事から帰宅すると同時に家を飛び出さずにいられなくなったこと。
週末には実家に帰ってDaleの世話から逃げないではいられなかったこと。
夫婦の間にひびが入り、離婚話も出たこと。
たまの外出時に鎮痛剤を買っては隠しておくようになったこと。
とうとう「これ以上耐えられない」と薬を飲もうとした時に、
家具の隙間に息子のオモチャが転がり込んでいるのを見つけて、思いとどまったこと。
そのまま「助けてほしい」と保健訪問サービスに電話をかけたこと。
それを機に数ヶ月後にDaleは保育所に通えるようになり、やっと自閉症と診断されたこと。

著者はその後、自殺介入について学び、
仕事を通じて介護という戦いにやぶれそうになった多くの人と出会い、気づきます。

当時は自分の命を断とうとしたことに深い罪悪感を持っていましたが、
フルタイムで介護をしている人は、それほどの絶望に至るものだということを
今では知っています。
私はあの時、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたのです。
ぎりぎりのところにいたのです。
……(中略)……
私たちはみんな、ただの人間。
耐えられることには限界があります。
でも支援もあるのです。
私は幸い、手遅れにならないうちに助けを得ることができました。

著者は自分の体験を物語りながら何度か、
当時の気持ちを表現して「もうこれ以上耐えられない」という言葉を使います。

これは介護に疲れ果てた経験を持つ人なら
誰もが知っている切羽詰った感情でしょう。
そして、「もう、これ以上耐えられない」と切羽詰った時に、
どこからも助けの手を得ることができないことほど、
介護者の孤独と絶望を深め、追い詰めるものはないという気がします。

しかし、「もうこれ以上耐えられない」という気持ちになった時に、
それを率直に口に出して外に助けを求めることができる介護者は
実はとても少ないのではないでしょうか。

多くの介護者にとって、「もうこれ以上耐えられない」と考えることは、
介護している相手への愛情が自分には足りないという自責の念と表裏だからです。
「これ以上耐えられない」、「逃げ出したい」と切迫すればするほど、同時に
「自分はなんてひどい親(妻・夫・娘・息子)なのだろう」と自分を責めてしまう。
そして自責の念が強ければ、それだけよけいに
介護を自分だけで背負い込んでしまう悪循環に入り、
さらに追い詰められてしまうのではないでしょうか。

過酷な介護を担っている人は、そんな悪循環に身動きが取れないまま、
自分の中の相反する思いに引き裂かれて暮らしているように私には思えるのです。
自分自身がそんなふうに引き裂かれてしまって、
そこから逃げ出すすべが見当たらない時、
人は心を病みがちです。


そろそろ社会も、介護を担っている人も、
「どんなに愛情があっても、生身の人間に耐えることのできる介護負担には限界がある」という現実を認め、
それを介護の共通認識にしていく努力を始めるべきなのではないでしょうか。
2008.04.30 / Top↑
昨日明らかになった調査結果によると、FDAは
人造血液代替物には心臓発作の確立が3倍に跳ね上がり、
命を落とす確率も30%上がる大きなリスクがあることを
2000年には把握していながら公表せず、

その後も人造血液を使った臨床実験を承認し続けてきた、と。

(ただし、いずれの商品もまだ認可はされていません。)

2004年に714人の患者を対象とした実験では
人造血液を使われた11人の患者が心臓発作を起こし、47人が死亡。

人造血液は室温で保存可能なため、
救急医療、田舎や戦闘での外傷患者の治療に便利だとされてきたものの
開発そのものに何かと問題が指摘されている背景には、

外傷患者は意識がない場合が多く、家族の同意も得にくい状況があることから
患者からのインフォームドコンセントなしで使ってもよいとのルールで
研究実験がおこなれている事実なども。


2008.04.29 / Top↑
「医者が介護の邪魔をする!」(矢嶋嶺 講談社)というタイトルを見て「その通り!」と手を打つ一方で、
扇情的なタイトルの本はだいたい内容が薄いのが通り相場のようにも思えて、
あまり期待せずに読んでみたら、

書いてあることはタイトルのように威勢がいいわけではなく、むしろ、
患者さん個々の暮らしと向き合いながら地道に地域医療を実践してきた信州の医師が
「無理せず力まず、ほどほどで自然に老いて死ぬのがベスト」という考えを基調に、
そうした老いと死を地域で支えるには……という問題を丁寧に考え語るもの。

また、弱い者の側に立つ屋台骨が一本しっかりと通っているのにも敬服。

このたび始まった後期高齢者医療制度が
老人を地域で支える仕組みを本気で作ろうとするものなのであれば、
テキストとして地域のお医者さんたちに読んでもらいたいような……。

トランスヒューマニストさんたちにも、
できれば一読してもらいたい本だと思ったのは、
「努力しても永遠に健康でいられるわけはない」と、著者が医療に幻想を抱く愚かさを指摘し、
「老いを受容し、寝たきりも肯定する健康観もいま必要だ」と説いているから。

「寝たきりも肯定する健康観」とは、
予防の不可能な老化現象に「生活習慣病」という名前をつけて病気にしてしまって
医療によって予防や治療ができるかのような幻想を追うのではなく、
老いも障害も生きていることの一部として受け入れようということでしょう。

……「尊厳死」などとことさらに言うのは、私は好きではない。苦痛をある程度和らげてもらい、意識がいつの間にか薄れ、あの世に行く。偉い人も、貧乏人も、天皇でも立派な科学者でも、哲学者でも、死は平等である。痛みも不安も、皆同じである。それが良いのだ。
 死の評価は、他人が見て「あのように死にたくない、こう死にたい」と評価することであって、死につつある本人はあずかり知らぬことだ。残った家族や診ていた医者などの価値観が、自分勝手によい死に方かどうか評価する。死に掛けている人はこれら価値観の異なる人の介護を受けて死んでゆくわけだから、いろいろな死に方を強要される。だが、死に方まで強要されるのは真っ平である。その前の段階で「健康長寿」などの理想の健康を押し付ける大衆追随派のマスコミドクターも同様に真っ平だ。(p.87-88)

ここで主張されていることは、死に方に限らず、
認知症や寝たきり状態や植物状態に関して
「あんなになるくらいなら死んだ方がましだ」と考える他者の視点が、
検証されることもないまま本人の視点に横滑りさせられて、命の質がランク付けされ、
命の質が低いと決め付けられた人の治療を中止する口実に使われつつある
英米での動きにも当てはまるのではないでしょうか。

「尊厳死」については著者はユニークな指摘をしており、
かつて国家権力のための死が「尊厳ある死」として祭り上げられたことがあったし、
今は家族が年金を掠め取る目的の「延命」や金儲けのための「医療」がまかり通って、
もともと死に瀕した際の志の高さを指していたはずの尊厳ある死が今や変質している。
医師は反省し、もう一度医療のあり方を考え直すべきだ、と。

政府の作る「在宅ケアブーム」についても、
老人医療費亡国論による欺瞞に過ぎないと鋭く指摘。

「老人は自宅に帰って主婦やボランティアに面倒を見てもらえ」が政府のホンネだが、
そんなボランティアは充分に育っていないし、本腰を入れて育てるつもりもない。
ボランティアではどうにもならない状態というものもある。
行政はすぐに「地域で支える」とか「ボランティアを」というのが、
そんなのは偽善に過ぎない、と。

一方、本当の意味で尊厳ある老いと死のためには在宅ケアが望ましいのも事実。
そのためには医療がしっかり介護の下支えを担わなければならない。
この辺りが著者の最も大きな主張でしょう。

実際、この本を読んでいて最も感銘を受けるのは、
老人患者の往診に行くたびに著者が
介護する人・される人の間の緊張関係や
介護を担っている嫁の疲労度や息子夫婦の関係にまで目配りをする細やかさ。

(介護者を追い詰めるのが介護負担そのものであるよりも
むしろ周辺的な人間関係の縺れなどからくる精神的ストレスであることを
著者はちゃんと見抜いています。)

長年の介護の後に亡くなった老人の死亡確認に行く著者は、
その場に集まっている大勢の親戚の前で
がんばって介護してきた嫁の立場を立ててやるために
言葉を探し、声を張るのです。

(これは確かに、医師の権威があって初めて担える役割かもしれません。)

こうした配慮は介護負担の過酷さと、その負担が家族を崩壊させる様を
いくつも見てきた経験から身につけられたものでしょう。

このような介護の過酷な現実を見てきた著者は、
老人を在宅で支えることが最善であるにしても
現実にはそれがかなわない家族が沢山あることも知っていて、

理想的なのは老親がケアつきアパートでプロの介護を受けて暮らし、
近くに住む息子夫婦が頻繁に顔を見せに通うことだ、と。

さらに施設と在宅支援の連携を密にし、介護サービスの底上げを訴えると同時に、
老親とケアを担う子ども世代の両者に対して、概ね以下のような提言をしています。

・子どもが親を介護して当たり前という考えに縛られず、施設入所の(老人は)覚悟と(息子夫婦は)決断を。そうして、むしろ家族の心の交流を大切に。

・介護で女性を家に縛り付けるのは、もはや現実的ではなく男性のノスタルジーに過ぎない。介護はきちんと社会化して、女性は外で仕事を持って働くほうが社会も近代化するし、老人を大切にすることができる。

場合によっては
施設介護のほうが老人本人が愛されて暮らすことができるという真実も
著者は見抜いています。


本当は、みんなとっくに知っていることなのではないでしょうか。

家庭で1人の家族だけが主として担う介護には限界があることも、
限界が来てしまった時には、家族介護が施設介護以上に
介護する人だけでなく介護される人にとっても、はるかに残酷なものとなることも。

介護を直接知らない人たちと
ソロバン勘定を仕事にしている人だけが
まだ「美しい家族介護」、「温かい家族介護」という幻想を見たがっている。
2008.04.29 / Top↑
国立生育医療センターで過去5年間に
間もなく心肺停止が予測された小児30人について
家族の同意をとった上で、人工呼吸器をはずすなど延命治療を停止。

その他にも50人で
投薬などの積極的な治療を差し控えた。
いずれも臨床的にみて死期が迫った段階で、病院側と親の相談によるもの。

小児の終末期を巡っては親に判断がゆだねられるケースが多いこと、
基準作りの議論すら始まっていないことなどが課題。

センターとしては「議論が深まるきっかけに」と。


実は
「まもなく心肺停止が予測される状態」で呼吸器をはずすということの意味というのが
私にはよく分からないのです。

それほど本人に耐えがたい苦痛があって、
親が見ていられないほど辛いから、早く楽にしてやりたいということなのでしょうか。

それなら、この記事では
なぜ「間もなく心肺停止が予測される状態」としか説明されていなくて、
本人の苦痛についての言及がないのだろう。

「心肺停止が予測される」というのは
「呼吸器をつけたままにしていても心肺停止が差し迫っている」ということと私は受け取ったので、

それなら、ごく単純に
「そういう状態なら呼吸器をつけているほうが本人はラクなのでは?」
という疑問を抱いてしまうのですが……。

【追記】
その後、上記記事を読み返して目に付いたのですが、
「呼吸器を外すなど」と「など」がついていました。
Terry Shiavo事件のように、栄養と水分をやめたケースもあったということなのでしょうか。


もうひとつ気になるのは、
積極的な治療を差し控えた50人が
具体的にはどういう状態の子どもたちだったのか、という点。

「臨床的にみて死期が迫った段階」というのは、
「積極的に治療しても効果はまったく見込めず、死期が迫っていた」ということでしょうか。
表現が抽象的すぎて、ほとんど何も言っていないに等しいような……。

特に「臨床的にみて」という文言は
確か脳死議論の際にも「臨床的に見て脳死」などと
現場医師の専門性を聖域化する意図を持って使われたような記憶があったりして。

日本では事情が違うのかもしれませんが、
英米で障害新生児の安楽死が提唱されたり
米国・カナダで「無益な治療」による病院側の治療中止決定権が法制化されたり
……といった動きを念頭にこのニュースを読むと、やはり気になるのは、

医師にも親にも様々な価値観の人がいるのだから
医師と親との相談だけで決められていくということには、
その組み合わせによっては「何でもアリ」の危険性があるのでは、ということ。

【追記】
以前、自分自身のメモとしてアップしていた読売新聞の記事を。

2008.04.28 / Top↑
重い障害のある子どもを持つと、
親は子どものためにできる限りのことをしてやろうと努めます。

親ならではこその細やかな配慮や繊細なケアをし、
不幸にも我が子が背負ってしまった障害の影響を
なんとか最小限に食い止めてやろうと
親は必死の努力をするのです。

障害を負ったがゆえに
我が子には得ることができないものばかりだというのでは辛いから、
親が与えてやれるものは力の及ぶ限り親の力で与えてやりたいし、
失ったものは親の力でできる限り取り戻してやりたい
……というのが、その心なのだと思います。

その思いや努力そのものが
親ならではの愛情なのです。

しかし子どもの成長と共に、
どんなに努力しても
どんなに深い愛情をもってしても
親が子にしてやれないことが出てきます。

障害によっては重度化を食い止めるのにはどうしても限界があるとか、
親の年齢と共に肉体的に精神的に限界が来る介護負担の問題もあるけれど、

子が幼児期から子ども時代へ、子ども時代から青年期へと成長するにつれ、
親にはどうしても与えてやれなくなるものの1つは、
「他者と関わるダイナミックな世界」ではないかと私は思うのです。

重い障害を持った子どもを身近に何人も見てきましたが、
「親が遊んであげる」、「親に遊んでもらう」ということだけで心が弾むほど楽しいのは
どんなに重い障害を持った子どもでも、やはり子ども時代までのように思えます。

幼い時期にたっぷりと親の愛情を注がれて
他者を信頼するということを肌に知って成長すれば、
親とだけの閉塞した小さな世界から
他者とのダイナミックなやり取りの世界へと出て行く準備が
子どもにはできているし、それは障害のある子どもでも同じだと私は思う。

(評価のツールとしての“発達”でも“発達段階”でもなく、
人としての“成長”は、 どんなに重い障害があっても
その子その子なりに遂げていくものだと私は考えているので。)

だからこそ、重い障害を持った子どもたちも
少しずつ慣れれば保育所や幼稚園や通園施設などで
他の子どもたちや先生たちとの時間を楽しめるようにもなるし、
親から離れて養護学校やデイケアで過ごすこともできるようになるのでしょう。

重い障害があると、
親は「自分のケアでなければ、この子は生きていけない」とか
「自分のケアでなければ、この子は幸せになれない」と
いちずに思い込んでしまいがちですが、

案外に親が勇気をもって手を引き、身を引いて子を託してみたら、
どんなに重い障害を持った子どもの中にも
他者とのかかわりを持ち、それを楽しむ力があることに
親自身が一番驚かされるもののようです。

子は、親が思っているよりも、はるかに大きな力を持っている。
それは障害がある子どもでも、ない子どもでも実は同じなのではないでしょうか。

親が「自分でなければ」と子を抱え込んでいる限り、
子はむしろ自分の持つ力を発揮することができないでいるのかもしれない。

「いろんな他人と関わる広い世界のダイナミズム」だけは
どんなに頑張っても、親が自分で直接子どもに与えてやることはできません。

むしろ、それは、親が敢えて手を引き、身を引いて
他者に子どもを託すことによってしか子に与えてやることのできない広い世界であり、
また生きていることの手応えなのではないでしょうか。

どんなに重い障害を持った子どもであっても、
もしかしたら障害のある子どもだからこそ、
親はむしろ、ある年齢からは少しずつ手を引いて
子を他者に託すことを始めなければならないのではないでしょうか。

他ならぬ我が子が暮らす世界が
親兄弟とだけの小さく閉塞した世界ではなく、
いろんな人と関わるダイナミックな世界であるために。

        ――――――――

Diekema医師は
「Ashleyに必要なのは家族との小さな世界」と言い、
「Ashleyには、人と意味のあるかかわりを持つことなど生涯できない」と言い、

成長抑制も子宮摘出や乳房芽の切除も一般の障害児にやってはならないが、
Ashleyのような重症児にはやってもかまわないことの根拠がそこにあると主張しました。

子どもたちの可能性や世界を広げるアドボケイトであるべき小ども病院の医師が
こんな、子どもの可能性を乱暴にぶった切って投げ捨てるような発言をする──。

そうしたDiekema医師の姿勢は、もっと批判されるべきだと私は思う。
それが、ただ自己保身のために弄した言辞であるならばなおのこと。
2008.04.28 / Top↑
レーザーで角膜に手を加えて近視、遠視、乱視を回復させる、
タイガー・ウッズもやっているというLasik(レーシック)手術で
ものが二重に見える、ぼやけて見える、ひどいドライ・アイになった……などの反作用が起こっており、

FDAが患者へのリスクの周知徹底を求めると同時に
反作用の程度を把握すべく調査に乗り出すようです。

アメリカで90年代半ばに認可されるや大人気の手術となり、
今までに70万人が受けているとか。

FDA Plans to Examine Scope of Complaints About Lasik
Washington Post, April 25, 2008/04/25

FDA Examines Laser Eye Surgery Complaints
CBS News, April 23, 2008/04/25

レーシックについてはあちこちの眼科でポスターやパンフを見たことがあるので、
こんな田舎でも身近な医療になっている以上、
それは安全が保障された技術なのだとばかり思いこんでいました。

で、上の記事を読んで、日本語で検索してみたら、
すごい。こんなに人気だとは知らなかった……。
インターネット上でも患者のぶん捕り合戦のにぎやかなこと。

タイガー・ウッズは実は最初の手術のあとで視野が乱れて頭痛がしたため、
再手術をした……という話もあるのですが、
それには触れてないサイトが多いし。

よくよく読めば、どこのサイトもさりげなく「失敗」に言及していたり、
「○年間保障」という文言が結構目に付くのも
「失敗」の確率がそれだけ高いからのようでもあり……。

珍しく、利点だけでなくて
欠点も詳細に書いてある日本語サイトがあったので、こちらに。

こんなに沢山のリスクがある技術が、
こんなに良い面ばかりを謳われて流行していて、本当にいいんだろうか……。

確かに科学の進歩は人間の未来に沢山の夢をもたらしてくれるし、
トランスヒューマニストたちが「こんなことも、あんなことも出来る時代が近いぞ!」と
せっせと盛り上げてみせる、いいことだらけの「夢のテクノロジー」は
安全・お手軽に人間の様々な能力の低下や喪失を補うばかりか
これまで考えられなかったレベルに能力を高めてくれるかのようにも見えますが、

そういうユートピア話に煽られて未来型「夢のテクノロジー」に憧れるあまり、
消費者の方が「早く、もっと早く実現を」と焦れて、その結果、
実際には安全性が確認されていない技術や薬が見切り発車されることに繋がっているのでは?

そして、多くの人に取り返しのつかない反作用が起きてしまった後になって、

(儲けるべき人が儲けるだけ儲けてから? 
技術開発に掛けた費用が回収できた頃になってから?)

やっとおもむろに安全性を確認し始める……というのでは
本来あるべき手順が逆転している。

「ある」と証明されていないというだけで
「あるかもしれない」リスクが、あまりに安易に
「ないかもしれない」や「たぶん、ない」に摩り替えられている。

それは、ただ消費者が求めているからではないでしょう。
むしろ見切り発車される技術や薬の方がニーズを創り出しているのだから。
2008.04.27 / Top↑
ワシントン大学の新しい研究機関IHMEがどういうものか、
とりあえず匂いくらいを嗅いでみたところで
もう一度Lancet誌がIHMEとコラボするという話に戻って、
以下の文章を読んでみました。

The Lancet誌(2008;371:1139-1140)のコメント欄に掲載された
A new initiative and invitation for health monitoring, tracking, and evaluation というお知らせ。

著者は Lancetの編集長 Richard Horton と IHME の所長 Christopher Murray と、もう1人。

(無料の登録をすればLancetのサイトで全文が読めますが、
 登録しなくても、Gates Keepersのブログ記事で読むことができます。)

このお知らせはまず、これまでWHOやUNICEFなどの機関が行ってきた
世界の保健医療のデータについて、
今後は学問的に科学的分析を行う必要があると
IHMEのサイトで繰り返されているChristopher Murrayの持論そのままを述べた上で、

以下の2点をアナウンスするものです。

Lancet誌とワシントン大学に新しくできた研究機関IHMEとが協働すること。
その協働を中心に新たにGlobal Health Tracking というセクションを誌面に設けること。

まず第1点のコラボについて、著者らは以下のように書きます。

Given a shared mission and vision for global health monitoring, The Lancet and the Institute for Health Metrics and Evaluation (IHME) are pleased to announce a collaboration that should stimulate researchers around the world to apply the best science to the challenges of monitoring global health.

地球の保健医療モニターに関して同じミッションと展望を持つもの同士として、
Lancet誌とIHMEとは協働することを表明する。
その協働によって世界中の科学者らが刺激を受けて
地球の保健医療をモニターするという大きな仕事に
この最善の科学を適用するに違いない。

(「最善の科学」というのはHealth Metrics and Evaluation のこと?
 それともIHMEの研究そのものをいうのか?
 もしやIHMEが作ったDAILY基準のこと?)

第2点の新セクションについては、

・少なくとも2ヶ月に1度はセクションを掲載。
・すべての科学者の公募とするが最終的な採用判断はLancet誌が行う。
・応募を促す手始めとして、IHMEが毎年6本以上の論文を掲載する。

つまり、このセクションの基調トーンはIHMEが作るということですね。

              ――――――

IHMEはゲイツ財団から巨額の資金提供があってできた研究機関であることから
Gates Keepers というブログがこの動きに対して、
Lancetの特集はゲイツ財団に買収されたのか?」と疑問を投げかけているのですが、

この疑問に対して、編集長のRichard Hortonがすぐに反応しています。
Gates Keepers の記事に紹介されたHortonの文章の一部を以下に。

協働が陰謀を意味するわけではない。癒着を意味するわけでもない。協働が意味するのは共通の目的である。ここでの目的は、今日の若い科学者たちが余り目を向けない分野である、地球の保健医療のデータ活用を拡大させること。また、どんな論文であれ、たとえ全ての論文を拒否することになろうとも、たとえそれがIHMEの論文であろうとも、拒絶する権利は依然としてLancet誌にある。

しかし「共通のミッションと展望」とか「共通の目的」と言うからには、
本来は様々な見解が議論を戦わせる場でもあるべき学術誌が
新セクションの編集方針はIHMEの路線でいくと
ここに表明したことになるのでは……?

私が研究者でもなんでもないから知らないだけで、
学術誌のウラ側ってのは、本当はこんなもんなんです?

(ここでは堂々と表に出てきちゃってますけど。)
2008.04.25 / Top↑
死亡率に障害も加えて医療データ見直す新基準DAILY」のエントリーで紹介した
ワシントン大学の研究所IHMEで進んでいるプロジェクト
Global Burden of Disease(GBD 病気の世界的負担)について。

たとえばGBDの目的はと言えば、

As a whole, the study stands to significantly revise our comprehension of global health, while providing information in a way that is maximally useful for funders and policy-makers.

この研究全体としての狙いは世界の保健医療についてのわれわれの認識を大きく改変し、
資金提供者と施策立案者が最大限に利用できるような情報提供を行うことである。

そのために彼らは
エビデンスに基づいた科学的な方法でこれまでの保健医療データに体系的かつ包括的な見直しを行い、
病気、怪我そしてリスク・ファクターの世界的負担を新たに推計する、と。

burden assessment, burden estimates , burden staticticsなど
キーワードのように繰り返されているのは「負担」の数値化のことでしょう。

保健医療施策と資源における「負担」である病気・障害と、
さらにそのリスク・ファクターを数値化し、それを施策と資金の配分に生かすという話。

研究の中心となるのは
Washington, Harvard, Queensland, Johns Hopkinsの各大学とWHOの研究者。

GBDプロジェクトが出す数値の正確さと、意思決定ツールとしての有効性の根拠として
以下の4点があげられています。

権利擁護と疫学を切り離し、すべての病気と障害に体系的で客観的な分析、つまりエビデンスに基づいた評価をおこなう。

・年齢尚早の死、病気、障害の原因情報を統合して、うつ病やマヒなど、これまでの統計に見えにくい病気のデータも拾う。これまで予測もできなかった形へと世界の様々な保健医療の認識を変える

コスト効率を分析する。世界中のどこの人の命も平等に重んじて保健医療介入の利益とコストの意思決定が行われるよう、同一の通貨単位を創設する。

・インターネットを介した教育、研修、透明性に重点を置き、それによって研究者、専門家、施策立案者などグローバルなコミュニティの参加を促す。

つまり、これは、
死に至る重病だけではなく、世界中のありとあらゆる病気と障害について
保健医療プログラムのコスト・パフォーマンスという視点からのみ数値化します、

その際に、世界の地域ごとの社会的、環境的その他諸々のファクターは一切カウントしません、
権利擁護の視点も一切カウント外になります

……という話ですね。

どんな政情とどんな環境のどんな国のどんな地域であれ、
世界中の人の病気と障害を同一の物差しで計るなどという乱暴な話が
どうして「すべての命を平等に重んじる」ことになるんだ?????

それに、

彼らのいう「保健医療」にも、それを巡る研究にも意思決定にも、
患者・障害者当人の視点は全く一切入っていない。

きっと、これはもう医療ですらなくて、ただの功利主義なんですね。

限りある資源は、最大多数の最大幸福のために――。
2008.04.25 / Top↑
去年5月、Ashleyの子宮摘出の違法性を病院が認めた翌週、
ワシントン大学がこの問題を巡ってシンポジウムを開き、
その模様がWebcastで世界中にリアルタイムで公開されました。

その後、シンポのWebcastはシアトル子ども病院のHPにアップされています。

リアルタイムで見たときには無線LANが不安定で
それでなくても不十分な聴き取り能力に水を差してくれたので、
ここで一度落ち着いて聞いてみなければ……と思いながら
まだ果たせてないのですが、

当ブログでは何度もこのシンポに触れているのに
資料を挙げていないことに気づいたので、

(もう一度ちゃんと見る、という自分の目標設定としても)

これらWebcastが見られるシアトル子ども病院の当該サイトを以下に。


なお、既にいくつかのエントリーで触れましたが、
シンポ当日、直接会場で聴かれて発言もされたオレゴン州在住の小山エミさんが
詳細な報告を書いておられます。


ここで報告されている倫理委委員長Woodrum医師の「自分は両親の味方である」という発言や
「倫理委には障害者コミュニティの代表が既に入っている」という発言など、
当時は見過ごしていたけれど、今にして振り返ると
改めて大きな示唆を含んで立ち上がってくる箇所がいくつもあります。

(倫理委に障害者コミュニティの代表が入っているというのがハッタリでなく事実だとすると、
 それは1週間前のWPASとの合意によって加えられた人と思われます。それ以前には
 病院常設の倫理委には「他の医療機関の代表」と「地域の代表」しかいないし、
 ましてAshleyケースを検討したのは、その倫理委ですらなく、
 外部の人間をシャットアウトして行った「特別倫理委員会」でした。) 

また、小山さんはとても貴重な場面を目撃されており、
上記報告後編の終わり部分には、当日、Ashleyの父親が会場にいたことが書かれています。

そしてDiekema医師は自分のパネルが終わった後で父親のところに行って
「あなたの娘の件についての報告はあれで良かったですよね」と話しかけた、と。

この詳細な報告を初めて読んだ時に私が一番興奮したのはここでした。

Ashleyの両親と医師らの力関係が
どうも通常とは逆転していると感じられる不思議は
「親と医師の関係性の不思議」の書庫で指摘しています。
2008.04.25 / Top↑
「このブログについて」のエントリーはこちらです。

2004年にシアトルの重症障害を持つ少女Ashleyに行われた
エストロゲンによる成長抑制と子宮摘出ならびに乳房芽の切除の倫理問題について、
2007年初頭から世界中で論争となりました。

その事件について当ブログでは、関連資料を検証しつつ、
父親がマイクロソフトの幹部と思われることから
ゲイツ財団と関係の深い病院と大学側が
実は政治的配慮で行ったことだったのでは……
との疑惑を提示してきましたが、

この問題について、このたび英語でブログを立ち上げました。

Mysteries and Questions Surrounding the Ashley X Case

読むのはともかく、英語で自在に書けるわけではないので、
ずっと思い切りがつかずにいたのですが、

1月のDiekema講演前後の動きやAshley父のブログ更新内容から
いわゆる“Ashley療法”を他の重症児らにも広げていこうとする動きが懸念されて、
いたたまれない気持ちに駆られた2ヶ月ほど前、つい後先も考えずに立ち上げたものです。

(Deikema講演前後の動きについては「Diekema講演08年1月」の書庫に。)

さすがに日本語で書くようなわけにはいかず、
いまのところ、週に1つくらいのペースが精一杯です。
ここと同じく拙いブログですが、時に覗いていただけると幸いです。

無益な治療論や新・優生思想の広がりなど、
障害児・者をとりまく世の中の空気が急速に冷淡なものに変わりつつある中、

極めて例外的な事情であった可能性のあるAshley事件が悪しき前例となって、
同じことがこのまま、なし崩し的に広くその他の重症児に広がっていくことは
非常に怖いことだと思われ、どうにも懸念されてなりません。
2008.04.24 / Top↑
カナダのコラムニスト Helen Henderson がまた良いものを書いてくれました。

障害者らが如何に病院を危険な場所だと感じているか、
一般病院の医師が如何に障害について無知であるか、という話。

「ケアを装う無知」。

Ignorance masquerades as care
By Helen Henderson
The Toronto Star, April 19, 2008


例えば、仕事を持ち自立生活を送っている、ある筋ジスの女性。
出勤前の飲み物を誤嚥して病院に運ばれ、すぐに呼吸は回復したのですが、
様子を見るために入院することに。

大変だったのはそれからで、
また誤嚥してはいけないからといって経管栄養にしようとする医療スタッフと、
食事の摂り方を始め障害との折り合いのつけ方は身に着けていると主張する女性は
6日間の入院の間ずっと闘い続けて
それでも食べ物は一切出してもらえなかった、と。

障害者が病院に入院すると
医療職が障害について無知であるばかりでなく、
患者の自己選択を尊重するという意識も持っていない。

結果として医療職の障害についての無知とネグレクトで
障害者らは病院で殺されたり死ぬほどの目に遭っている。

Queen’s 大とToronto大の研究者らによる調査では、
多くの医学生が将来、知的障害のある患者を想定しており、
医学教育に知的障害者についての学習が必要だと考えている。

……などとして、
医学教育にもっと障害者ケアを盛り込め、と訴えています。

まったく同感。

           ―――――――

もう10年近く前のことですが、
重症児の娘が腸ねん転の緊急手術を受けて総合病院の外科に入院した際、
「外科スタッフが重症児医療に疎いことによって、この子は命を落とすことになるのでは?」と
私も危機感を抱いたことがあります。

例えば、以下のような点。

・てんかん発作の知識がないので、外科医は目の前で発作が起きていても気がつかない。

・外科病棟の看護師も発作が分からないことは同じ。夜中に発作が続いてひどくなる一方なので「このままでは重積状態になる」と小児科ドクターに連絡してもらっても、情報を中継する看護師に知識がないので、話がまともに伝わらない。必死の思いで訴えているのに「要求度の高い親」、「うるさい親」という受け止めしかしない。

・医師にも看護師にも重症児の細い血管に点滴を入れる技術がない。小児科に助けを求める謙虚さもない。かといって「重症児だから何が起こるか分からない」との保身ばかりが先走って、中心静脈からラインを取ることは躊躇し続ける。その間、患者の脱水の可能性には目をつぶったまま。(そもそも中心ラインを確保せずに手術を行ったことが考えられない。)

・手術翌日から痛み止めを処方しない。ベッドサイドにきても、本人なりに必死に痛みを訴えている声や目の表情が、彼らには聞こえないし、見えない。家族や、日ごろ本人をケアしている医療者までが「相当に痛がっている」と訴えているのに、一切取り合わなかったのは「どうせ重症児だから」という意識としか思えない。

・口と鼻の呼吸が充分に分離していない重症児の呼吸特性が分かっていないので、嘔吐が起こる可能性が高いのに酸素マスクで鼻と口を覆ってしまう。窒息の危険性を訴えても、親の言うことは素人の言うことだとバカにして取り合わない。

・点滴も入れられない、口からも食べられないのに、またお腹の傷は開いて化膿しており、水分の補給も栄養状態の改善も急がれる事態なのに、こちらから頼むまで経管栄養の決断ができない。

・やっと経管栄養にしてくれたと思えば、健常児よりも身体も胃も小さいことへの配慮もなく、いきなり普通分量を通常の速度で注入して全部吐かせてしまう。当人にとって初めての経管栄養だというのに、まず重症児に詳しい小児科医に相談する配慮もない。

・「こういう呼吸になるとこの子は熱を出す」と親が訴えているのに、医師は「大げさだ」と相手にしない。この会話の半日後に38度の発熱。手術の傷口が開いて化膿している状態で風邪を引いて咳き込むのが本人にはどんなに苦しいか。体力が弱っているところに高熱がどれほどのダメージになるか。


きっと重症児が思わぬ転機をたどる、医師としては不本意なケースを
いくつも経験してこられたのだろうと拝察はしましたが、
「何が起こるか分かったものじゃない厄介なケース」という偏見と
「だからなるべく手を出さず、なるべく余分なことはしたくない」というホンネが
医師には一貫して感じられました。

そのため結果的には
繊細にすべきところで無神経、大胆にすべきところで臆病……という医療判断が行われ、
それら要点をはずした判断はことごとく
本来なら無用のはずの苦痛となって患者本人の負担に追加されていきました。

親にとって一番辛かったのは、
ただ言葉がない子だというだけで、
言葉で表現できる患者さんであれば当たり前のように配慮してもらえる痛みや苦痛に
まったく意識すら向けてもらえなかったこと。

Hendersonの記事にあった筋ジスの女性のように、
私も娘の入院中は細かいことの一つ一つを巡ってスタッフと闘い続けるしかなく、
それによって途中からは冷たい視線や意地の悪い言葉を浴びるようになりました。

ただ、看護師さんたちの対応は
本人が元気になり指差しや音声で自分の言いたいことを主張し始めると、
みるみる変わっていきました。

枕元のCDを「かけて」とか「替えて」など、
音声と指差しや顔の表情による要求を通じて
娘が自分の力でスタッフとのコミュニケーションを獲得していきました。

最初は親にしか質問を向けず、娘には直接声を掛けてくれなかった人たちが
退院前には娘とちゃんと会話してくれるまでになり、
「ミュウちゃんは楽しい子だねぇ」といってくれる人まで。

が、外科医らの姿勢は最後まで変わらず、
ベッドサイドに来た際に娘に声をかける人はいなかったし、
見るのはお腹の傷だけ。顔の表情になど目も向けないままでした。

20センチもお腹を切られて痛み止めも処方してもらえず、
点滴が入らないまま脱水が案じられる一方で、
延々と続くけいれん発作に、どんなに頼んでも対応してもらえなかった、あの夜中──。

私はどこにも娘を助けてくれる人が得られない無力感に打ちのめされて
「このままだと重症児のことを何も知らない医師・看護師になぶり殺しにされる」と思い詰めたし、

正直、あの夜は
「もう、この子を連れて病院を抜け出して親子でどこかで死ぬしかないのか……」
という思いまで頭をよぎりました。

Helen Hendersonがコラムで書いた、
専門医でなければ障害については無知で、
だから障害者は病院をむしろ危険な場所だと考えている、
医療職の無知と意識の低さに殺されるほどの目に遭っているというのは、
決して大げさではなく、まぎれもない事実です。

Hendersonが主張するように
医学教育の見直しが必要だと私も思います。

けれど、それ以前に、

せめて専門以外の医師には
自分たちが障害については決して詳しくないことを自覚してほしい。

そうして本当に患者のための医療を行うためには
診療科間や病院間にある垣根を越えて、
その人の障害について知っている医師に助言を求めてほしい。

あの垣根は医療者のプライドのためにだけ高々とそびえて、
患者の利益にはなっていないのだから。

そして、医療職の人たちは
日々の生活の中で試行錯誤を重ねながら「自分だけの障害」と長年つきあってきた本人や家族にして
初めて持つことのできる「経験知」というものに、
もっと敬意を払ってほしい。


【Helen Henderson 関連エントリー】

2008.04.23 / Top↑
ワシントン大学の新しい研究所IHMEの所長に就任した
Christopher J. Murrayのことを少しずつ調べてみようと思っていた矢先、
Washington Postの今日のニュースで
Murrayが主導した調査報告が紹介されていました。

ただしワシントン大学のIHMEで行った研究ではなく、
ハーバード時代に仲間とやった調査研究をこのたび発表したというもの。
Murrayらは61年から99年までの米国人の死亡率と死因データを調べて
由々しき結果を報告しています。

地域限定で女性の寿命が短くなる現象が起きている、というのです。

Life Expectancy Drops for Some U.S. Women
Washington Post, April 22, 2008

元論文はこちら

米国で女性の寿命が短くなるというのは
1918年のスペイン風邪流行以来初めてのことですが、
いずれかの人種や民族に限ったことではなく
むしろ田舎と低所得地域に当たる1000の郡の地域限定で起こっているのが特徴的。

こういう結果が出た場合、
上記記事にあるNIHの心臓・肺・血液研究所の所長のコメントのように
このデータは米国における非常に危険で気がかりな健康格差の広がりを示しています
というのがまっとうな読み方だと思うのですが、

Murrayらの分析はなぜか、そうはならない。

彼らは様々なデータの数値をこねくり回すことによって「他の場所でも起こる前兆だと考えている」と、
この現象が地域限定だという事実をいとも簡単に無視してしまって
なんと自己責任論を持ち出してくるのです。

これら1000の郡で何が起こっているのか厳密には分かりようがないが、
喫煙や食事内容の悪さ、運動不足といった
数少ない“変容可能な”行動が原因と思われるので、
こうした地域の人たちに対してアグレッシブに保健キャンペーンを行うのが
理にかなった戦術ということになるだろう

地域限定で寿命が短くなっているのは
その地域の住民の意識や生活態度に問題がある、という自己責任の論理ですね。

喫煙にせよ肥満にせよ、貧困との関連が指摘されて久しいというのに、
貧しいから教育もロクに受けられず、安価で高脂肪の食べ物しか食べられない人たちに向かって
いったいどんなアグレッシブな保健キャンペーンを行うというのか。

アグレッシブという言葉が非常に気になるのですが、
これは例えば何らかの罰則的な制度でも作るつもりなのか、
ただ積極的な指導を行うというだけではない
嫌なニュアンスがここにはあるように感じます。

共同研究者であるハーバード大学のMajid Ezzatiはこの研究結果について
これは喫煙と高血圧と糖尿病の話なのです」。

いや、それは所得格差と健康格差の話でしょうが。


        ----

米国で流行した病気や、糖尿病患者数の推移、心臓発作で死ぬ人の統計の推移など、
Murrayらは様々なデータを延々と並べ立てていますが、

なんだか、数字をやたらめったら並べて、
「どうだ、これが科学的に証明された事実なんだぞ」とミエを切るみたいな……。

「都合の悪いことは調べないで無いことにする科学」的……のくせに。

数字を並べるコケオドシで貧困による健康格差を自己責任に摩り替えるよりも、
これら1000の郡とその他の郡と間に差を生んでいる原因を次には調べなければ……
と考えるのが科学的な思考というものではないのでしょうか?


【追記】
C.Murrayについては、
UWの同窓会誌が大きな人物紹介特集を組んでいます。

Strong Medicine
The University of Washington Alumni Magazine, December 2007
2008.04.22 / Top↑
ワシントン大学の(というかゲイツ財団の?)新しい研究所IHMEについては
前のエントリーで紹介したSeattle Post-Intelligencerの他に
Seattle Timesも報道していますが、

こちらはタイトルからして、
その無神経さが非常に象徴的で

シアトルの研究所、世界の医療データ障害の治療を支援」。

Seattle institute aims to help cure world-health data disorder
By Sandi Doughton,
The Seattle Times, April 9, 2008


Ashley事件のリサーチを通じて、
Seattle Timesは極めてゲイツ財団・マイクロソフトに近く、
ほとんど御用新聞に堕しているのではないか……という印象を私は持っていますが、

この記事でも、
ゲイツ氏の慈善資本主義に対する批判については
WHOという官僚機構の中には
アメリカの大金持ちが自分たちの縄張りを荒らすとムカついている向きもあるが
世界で最も金持ちの慈善事業家を公に批判する勇気のあるものは少ない」と。

記事の大半を占めているのは
WHOやUNICEFなどの国連機関の各種プログラムについて
公表されるデータが如何にずさんなものであるかという指摘と、
IHME所長Christpher Murrayが提唱する方法論でデータを見直すことによって、
如何に現実を反映したデータが得られて、
如何に保健医療プログラムの効率的な運用に役立つか、という話。

なお、記事のデータ欄によると
IHMEの職員数は現在45名ですが、
2010年までに130人に膨れ上がる予定とのこと。

この欄の「ゴール」に書いてあるのは

発展途上国と先進国の双方において、
保健医療の厳密な科学的評価に「ゴールド・スタンダード」を設定すること。

可能な限り最善の保健医療データを提供することによって
世界中の人々の健康を改善すること。

いくら公立大学の組織だとはいっても
ゲイツ財団が支援しているプログラムの効率計算の依頼がIIHMEに対して出ていたり、
いわば1人のスーパー・リッチが私物化しているような組織が
全世界の保健医療の「黄金律」をって……

それはちょっと独善が過ぎやしませんか?
2008.04.22 / Top↑
Nurses.co.uk という看護師向け求人情報サイトで行われた最近の調査で
英国の看護師で自殺幇助の合法化に賛成する人は2割に留まり、
他の8割は現在の法律のまま、自殺幇助は違法とするのがよいと答えた、と。

ただし対象者の内訳や設問の仕方など、
調査の詳細はこの記事からは不明。

Nurses.co.ukのサイトを覗いてみましたが、
当該情報は発見できず。

2008.04.22 / Top↑
民主党のEdward Kennedy上院議員と共和党の Sam Brownback上院議員が提出していた法案
The Prenatally and Postnatally Conditions Awaraness Act
が、原油高対策優先で一旦つぶれたことを前のエントリーで紹介しましたが、

この法案がまた別の形で復活して上院につづいて9月25日に下院を通過。

これにより、出生前後の検査でダウン症候群を始めとする病気や障害が判明した場合には
その障害や病気に関する正確な最新情報が親に提供されること
そして地域の支援サービスに繋げることが義務付けられることになります。

これまでは出生前診断の結果を告げる際に医師から不正確な情報がもたらされたり
医師の個人的な意見が大きく影響していたけれど、
この画期的な法律によって正確な情報が提供されるとダウン症協会では歓迎しています。

Prenatal Screening Bill Passes
Down Syndrome Communities Celebrate as Historic Legislation Ensures that Accurate and Updated Information on Down Syndrome Will Be Supplied To Expectant Couples
Market Watch, September 26, 2008


かつて読んだ本の中で、
成人して仕事をしながら暮らしているダウン症の女性に
わざわざ会いに行ってから最後の決断をした夫婦の誠実な決断の姿が印象的でした。

正確な知識も支援に関する情報ももちろん必要ですが、
実際にその病気や障害と共に生きて暮らしているナマの家族に触れることも
頭の中の知識や情報だけでは決して分からないものを伝えてくれる貴重な体験ではないでしょうか。

頭だけでなく心でも選択のプロセスを丁寧にたどれるような支援が
これから整っていってほしい。

法案がつぶれたと知った時には、
障害児を切り捨てようとする動きに抵抗する努力は
こんなにも簡単に踏みにじられるのかと考えたこともあったけれど、
復活・成立して、本当に良かった。


……ところで日本では、こういう情報の保障について
どういうふうに考えられているんだろう……?


2008.04.22 / Top↑
前のエントリーでとりあげたGolubchuk氏の「不毛な治療」ケースで
きちんとした裁判で判断が下されるまで生命維持装置をはずしてはならないと
禁止命令を出した裁判官がその理由を述べた言葉が目に付きました。


この禁止命令によってGolubchuk氏には
本人の法律、宗教、人権における立場が充分に主張される機会が与えられる

(注)人権と仮に訳してみた箇所、原語は charter position です。

修正することのできない害と便宜とのバランスという問題について
それなりに知識のある国民なら大半が私の判断を支持してくれると思う


Ashley事件を含め、
世界中でいろいろ起こっている生命倫理がらみの事例を考えると
この裁判官の発言の含蓄は重い……と思う。



(Winnipeg Free Press の同日の記事を転載したもの)


――――――

 
不可逆的で過激な医療の判断を巡っては
決定までのプロセスにおいて
自分で意思表示や意思決定ができにくい人の権利擁護は
しっかり保障されてほしいと思うし、

そのためにも
FostParisがシアトル子ども病院生命倫理カンファで主張しているような
司法を軽視する医療の動きには警戒すべきじゃないかと思う。

日本でも
「そんなことを言っていたら医師になり手がいなくなる」などの口実で
医療を司法の治外法権化しようとする動きがあるように感じるのですが、

医師不足の問題と、医療過誤や医療不信とは別問題であって、
そこはきちんと整理して議論しなければ、
結局「診てもらえるだけで感謝しろ」ということに落ちていくのではないでしょうか。
2008.04.22 / Top↑
シアトルのワシントン大学に新しくできた研究所IHME(医療数値基準評価研究所とでも?)と、
IHMEが新しい事務所の公開をかねて4月9日から2日間開催した科学研究カンファレンスについて、

Ashley事件で御馴染みの地元2紙がそれぞれ報道していますが、
この2つの記事を読み比べてみると、とても面白い。

いずれもの記事も焦点を当てているのは
HIME所長にハーバードから引き抜かれてきたChristopher Murraysなのですが、
2つの記事の切り口はかなり違っています。

ここでは、まずSeattle Post-Intelligencer の記事から。

UW hosts key players in global health effort
The Seattle Post-Intelligencer, April 9, 2008


SP-I紙が焦点を当てるのは
Murray氏の「爆弾言動」をめぐる“過激さ”と
彼の爆弾発言の洗礼をかつてのWHOの職員時代に浴びて以来
一緒に世界の医療データの見直しを行ってきた
豪のクイーンズランド大教授Alan Lopezとの関係。

それによってSP-Iの記事はIHMEの目的を具体的に浮き彫りにしていきます。

Murray氏の爆弾発言が過激だと見なされる理由としては、
1つには数値で証明することと、
もう1つは、それによって従来の資金配分順位や既に確立された活動目的を揺らがせること。

データ見直しに用いる方法論を彼らは
病気が世界に負わせる負担を評価する全く新しい方法」と説明するのですが、
その名称は「障害を考慮して調整した生存年数」DALY。

the disability adjusted life year (DALY)

つまり、これまで使われてきた生死の基準だけではなく
障害という基準から生存年数データを見直す……というやり方。

DALY は Murray とLopezがすでに立ち上げたプロジェクトで作られた基準なのですが、
このプログラムの名称もすごい。

Global Burden of Disease (病気のグローバルな負担)

プログラムがDALY基準を確立した今後の目的として考えているのは
病気傾向や保健医療における優先順位の決定、
病気撲滅プログラムの効果の検証や保健医療ケアの配分と質などに
よりよい評価の方法論を見つけること

例えばマラリアにかかったからといって必ずしも死ぬわけではなく、
毎年何百万もの人が障害を負ったり虚弱になって
引いてはそれが共同体の貧困や弱体化を招いているのだけれども、
その影響は単に死亡率だけを見ていたのでは計測できない、と。

プロジェクトの名前の通り、
障害は投入される保健医療費のお荷物(burden)という捉え方なのですね。

もちろんデータが見直されるということは、
資金の配分先も見直されるということです。

こうした基準の使用には
人の生の質を相対化するもので非倫理的だとの批判が出ていますが、
Murrayの反論は、これまたIHMEの持つ価値観を非常に象徴しており、

しかし、もうそれぞれが適当な数値を上げていればいいという時代ではありません。
世界の医療に関する医師らや各国政府の関心(利益)は爆発的に大きくなり、
今まで以上に各種プログラムの正確なモニターとアセスメントが必要となっています。

企業が一定のスタンダードに基づいた損益報告を出さなかったら市場はどうなります?
基本的には世界の医療も今やそういうふうに運営されているのです。
2008.04.22 / Top↑
カナダ、米国で
新生児スクリーニングの制度化が相次いでいます。

カナダOntario州で先週、新生児スクリーニング・プログラムが始まり、
British Columbia州と Saskatchewan州でも導入が検討されているとのこと。

以下の記事は特に話を嚢胞性線維症(CF)に限ってあり、
早期診断早期治療に結び付けられることのメリットが描かれています。

カナダCF財団もこの動きを歓迎。


        ――――――

また米国でも同様の新生児スクリーニング法案が4月8日に議会を通過したばかり。
かつてのフットボールの選手で息子を神経難病で失くしたJim Kelly議員が
10年がかりでロビー活動を続けた法案で、
文言などの微調整の後、ブッシュ大統領の署名を経て成立の見通し。

新生児スクリーニングに全国的な基準を設けることが目的で、
情報プログラムに年間1500万ドル、
スクリーニング・プログラムの評価に500万ドルなど、
総額で4450万ドルの予算が組まれ、
早期診断される病気に関して教育と家族支援サービスのための情報センターを
保健省が設置・運営することになります。


Kaiser Daily Health Policy Report
The Henry J. Kaise Family Foundation, April 14, 2008/04/21


「産まれた時に病気が分かっていたら息子は死なずに済んだ」という
Kelly議員の思いは純粋に子どもたちのために早期発見を願うものでしょう。

施行の暁には、Kelly議員の亡き息子の名前にちなんで
「Hunter Kelly新生児スクリーニング・プログラム」と通称されるのだとか。

しかし、世の中の空気が空気だけに、
今後、このプログラムが他の意図に利用されることはないのかどうか……。

The Henry J. Kaiser Family Foundation のニュースによると、
米国でスクリーニングの対象となるのは
「先天性、遺伝性、代謝の disorder 」となっていますが
対象となる病気がイマイチはっきりしません。

カナダ、Ontario州のスクリーニングも
報道はCFを取り上げているにせよ、
もっと広くネットを張ってスクリーニングにかけている様子。

そこのところが非常に気になる。
2008.04.21 / Top↑
このところ気になっているので、
ワシントン大学の(実はゲイツ財団の?)研究機関IHMEについてちょっと当たってみていたら、
たまたまWHOのこんなランキング(2000年)に出くわしました。


投入した医療費に対して、どのくらい効果が出ているかという費用対効果を計算して
どの国の医療制度が最も効率的かというランキングを出したもの。
(「効果」の算定基準など詳細は、この資料では不明。)

2000年にWHOが出した統計なので今さらというデータではあるのでしょうが、
私はこういうランキングがあることも知らなかったので、それなりに「へぇ」と。

GDPに対する医療費の割合で言うと先進国の中で30何番目だとかいう話を考えると、
そりゃ効率からいえば、日本の医療はランキングが高くて当たり前でしょうし。

このたびの後期高齢者医療制度の創設でまたまた順位を上げるかもしれませんしね。

けど、高齢ペットについては
ペットフードの会社が「高齢ペットの幸福度に関するアンケート」をやったという話だってあるのだから、

「効率のいい医療制度のランキング」を調べるのだったら、
人間だって、各国の高齢者や病者・障害者の幸福度を調査して、
つき合わせるくらいのことをしてもらったってバチは当たらないんじゃないだろうか──。

【追記】
その「国別幸福度ランキング」調査が実際に行われており、
結果を紹介してくださっている記事があったのでTBさせていただきました。
           ――――

なんでWHOのこんなデータが
ワシントン大学の同窓会誌に掲載されているかというと

このデータは実はWHOが独自に調査したものではなくて、
UWの新しい研究所IHMEの所長Christopher Murrayがハーバード大にいた時に
調査して出したランキングだから。

Murrayらは2000年に自分たちが出したこのランキングを持ってWHOに乗り込み、
世界の保健医療施策に「費用対効果」の検証が必要だと訴えたという逸話が
UW同窓会誌のMurrayの人物紹介記事に紹介されており、
問題のランキングも一緒に紹介されているというわけです。

そういう資料なので、ここでは「費用対効果」の算定方法とか基準などは一切不明ですが、
MurrayらのランキングがそのままWHOのデータとして公表されているということ、
ずっとこういうことを言ってきた人がIHMEを率いているということ、
理事には前WHOの事務局長がちゃんと加わっているということは
それだけで多くを物語っているような……。

ちなみにトップ3はフランス、イタリア、サンマリノ。

英国18位
ドイツ25位
米国37位
キューバ39位

ノルウェイ11位
スウェーデン23位
デンマーク35位
2008.04.21 / Top↑
夕方、CNNjで”Broken Government(壊れた政府)”という特集番組を一部だけ見たのですが、
私が見た部分は科学情報にブッシュ政権の操作が行われているという指摘でした。

例えば、NASAの職員(たぶん広報関係)が語っていたのは以下の話。

NASAにはボスの希望する結果を出さなければならないというプレッシャーがある。
ボスというのはもちろんブッシュ大統領のことで、
実際に我々の持っている情報の扱いについて政府からの介入がある。

”The Day After Tomorrow”という映画が公開された時に、
地球温暖化による異常気象で北半球が壊滅的ダメージを受けるというストーリーだったことから
公開翌日からNASAにメディアの問い合わせが殺到したことがあった。

その時にも
政府筋から「科学者を表に出すな」、「科学者にしゃべらせるな」という指示が入った。
当時どうしてもメディアの取材を避けられない場合には
自分たち広報の人間が発言内容について科学者らに細かく指導を行った、と。

      ―――――

そういえば、ハリケーン・カトリーナの衛星写真を見た時に、
“The Day After Tomorrow”に出てきていた超大型ハリケーンの映像とそっくりだったことに
ぞうっとした記憶があります。

映画で見た時に、あの巨大ハリケーンの映像は衝撃的でしたが、
あんな化け物みたいなハリケーン、
現実にはとうていありえないという前提で見ていました。

ところが映画を見ていくらも経たない内に
現実のハリケーンの衛星写真として全く同じものを目にしたわけで、
「同じだ」と思ったあの瞬間は、ものすごく不気味な瞬間だった。

トランスヒューマニストのKurtzweilは
人類は指数関数的速度でヴァージョンアップされていく」と予言するのだけれど、

このNASAへの政治介入の話を考えてみても、
トランスヒューマニズムにしても、
逆に指数関数的速度で人類が破滅に近づいているように思えてしまう。

だって、
知恵を失った「頭のいいバカ」がどんどん増えている……と思えてならないのだもの。
2008.04.20 / Top↑
前のエントリーでAshley事件の観点から紹介したワシントン大学の研究機関IHME
(The Institute for Health Metrics and Evaluation)については、

例えば理事会メンバーなどを見るだけでも、
この研究所の存在や意図に懸念を覚える方が多いのではないでしょうか。

その懸念、的中です。

IHMEは簡単に言うと、
世界中の保健医療データを生死だけではなく障害の点からも洗いなおして
保健医療に費やされる資源の効率的な配分と医療施策の効率化を提言するための研究機関。

つまり
「利益vs負担」原則(ひいては「無益な治療」原則?)を世界の医療スタンダードにしようというのが
どうやらIHMEの目的のようです。

さらに英国の科学誌LancetもIHMEとの提携を発表しています。

これらを実現させているのはもちろん、
前のエントリーで紹介したように
10億ドルを超えるゲイツ財団からの資金。

そういうことになってくると、これはゲイツ財団による
世界中の科学・医学研究の私物化といってもいいのでは──?

現在、IHME周辺のことをちょっと調べてみているところですが、
どうにも気になることが次々に目に付きます。

新たに「ゲイツ財団」という書庫を作りました。
IHMEの詳細については、当面こちらの書庫に入れていく予定です。

2008.04.20 / Top↑
4月9日、シアトルのWashington大学(UW)に新しい研究機関がオープンしました。


ゲイツ財団(the Bill & Melinda Gates Foundation)から巨額の資金が出ています。

ゲイツ財団サイトで
去年6月4日IHME開設計画発表時のアナウンスメントを覗いてみると、

同財団からの1億500万ドルの資金提供について
UWの学長は「UWのマイル・ストーン」、「民間からとしては大学史上最大の贈り物」と。

ところでIHMEサイトの「歴史」ページによると、
IHME設立の提案書が医学部長らによって大学理事会に提出されたのは去年2月15日。

この段階で提案書には既にゲイツ財団からの1億500万ドルの資金提供と
所長としてハーバード大学からChristopher J. L. Murrayの招聘とが盛り込まれています。

(新聞報道によると、Murrayはこの時点で既に別の名目で
 ハーバードからUWに移籍していたようです。)

理事会メンバーを眺めてみると、

理事長はゲイツ財団の役員(メキシコの保健医療界の大物でもあるらしい)
前WHOの事務局長、
中国から医療委員会の委員長
米国から医療研究所所長
エチオピアから保健大臣、
オーストラリアから医療・高齢局の局長
インドから保健財団のトップ
トルコから小児・新生児医療と行政の重鎮らしき人物

(ゲイツ財団の保健医療関連委員会に日本人がいて、
 日本からは、この人がIHMEに関わるのではないかと思われます。)

これだけの大型プロジェクト、
2007年2月の提案書提出までにどれだけの準備を要することか。

Ashleyの親がシアトル子ども病院に対して
娘の成長抑制と子宮および乳房芽の切除を希望したのは2004年初頭から春にかけてのことなので、
IHMEの提案書提出の約3年前ということになります。

既に当ブログが指摘したように、
この当時、シアトル子ども病院では
Melinda Gates指揮のキャンペーンによりダウンタウンの建物取得の準備が進んでいました。

同時期、UWでもゲイツ財団からの途方もない巨額の資金提供を前提に
世界に類を見ない医学データの研究所を開設する準備が進んでいた可能性も低くはないでしょう。

子ども病院とUWとが当時置かれていた、このような状況を踏まえて
Ashleyの父親がマイクロソフト社の役員であるという事実を
当ブログが指摘してきた担当医らの説明の一貫性のなさや数々の矛盾と照らし合わせると、

Ashleyに行われた医療処置が本当に病院側の倫理判断だったのかどうか、
むしろ政治判断によるものだったのではないか……という疑念は
ますます色濃くなってくるのでは?

【追記】
ゲイツ財団でグローバル・ヘルス・プログラムを担当している日本人Dr. Tanakaについて、
以下の方のブログ記事で紹介されていました。

2008.04.20 / Top↑
このままAshley事件が前例になって行くのは怖いなぁと思っていましたが、
歯止めとなりそうな判断がイリノイの上訴裁判所によって下されました。

よかった。


子どもの時に交通事故で脳に損傷を負い、
火の始末や家事に単独では不安のある女性K.E.Jさん(29歳)について
法定後見人である叔母から2003年に
他の方法は副作用があるとして
卵管結紮の希望が出されていたもの。

2006年に裁判所(Cook County Probate Court)が却下したので叔母が上訴していたのですが、
18日に上訴裁判所が認められないとの判断を下したとのこと。

3人の裁判官の全員一致。

卵管結紮は自分で同意できにくい人の妊娠を防ぐ方法としては非常に過激であり
もっと侵襲度の低い、心理的悪影響の少ない避妊方法がある、

叔母の主張では手術が本人の最善の利益だとは証明されないというのが理由。

裁判に当たって24人の生命倫理学者を代表して意見書(? A friend-of-the –court brief)を提出した
Northwestern大学のKatie Watson生命倫理学教授は
障害者に裁判所の審理を保障する大変意味深い決定だとし、

今までは後見人と医師との間で決めてしまわれる可能性があったが
 その決定は目に見えるところに出てこなければならない」。

よかった。
本当に嬉しい。
2008.04.19 / Top↑
"Just Another Emperor: the Myths and Reality of Phlilanthrocapitalism"
「新たな帝政:慈善資本主義の神話と現実」という本(著者Michael Edwards)が刊行されたことに寄せて、
著者と同じチャリティ財団に所属し、
かつて英国首相の社会施策アドバイザーを務めたことがあるGeoff Mulgan氏が
open Democracyというサイトに慈善資本主義を批判する一文を寄せています。

The new philanthropy: power, inequality, democracy
By Geoff Mulgan,
Open Democracy, April 10, 2008


ヨーロッパにはまだ本格的に押し寄せてはいないものの、
“暫定的な独占企業”の資金と限られた個人によってコントロールされるアメリカ型巨額慈善事業は
じわじわと英国の経済にも変革をもたらしている。

フォードやカーネギーなどの独占企業が始めた慈善事業が普及した後に、
金融と情報分野が突出する経済構造の変化が
限られた数人の手に富を集中させたものだから、

彼らは“本来の慈善や博愛精神”など全く持ち合わせてなどいないくせに
イメージアップのために慈善事業を始めたのだ、と。

(引用符にした部分、
貴族による慈善事業の伝統が厚い英国人のプライドなのでしょうか?)

しかし、これまで社会変革をリードしてきたのは社会運動と政治であり、
ビジネスは常にそれらのリードに従ってきた。

社会活動は共助と協力の精神と繋がっているもので
本来、慈善や博愛とはつながりを持たない。

市場原理もまた、消費者の側に選択を通じて最終的な権力を持たせるもののはず。

資金の提供者が人々に必要なものを選択する慈善資本主義は
アダム・スミスの市場原理にも理念にも反するものである。

経済分野の権力が、社会分野での権力になり代わってはならない。
異なる分野の原理はそれぞれに独立していることが民主主義の基本である。

        ――――――

ブッシュ政権と製薬会社が
FDAの専門性を盾に薬害訴訟つぶしを目論んでいることや、

医療の世界でFostらによる裁判所軽視発言が見られることからも、

司法は独立どころか存在そのものが危ういところに押しやられつつあるのではないか
という危惧を私は個人的に感じているのですが、

科学の進歩に法整備も倫理上の議論も追いついていないからといって、
このまま勢いに任せて司法がなし崩しに軽視されていったら、
弱い者を守る砦は崩され、社会は本当の弱肉強食世界に陥ってしまうのでは──?
2008.04.19 / Top↑
前に紹介したことのあるGates Keepersというブログで
面白い新語を拾いました。

Bill Chill

ゲイツ財団から支援金や助成金をもらった人々が
そのお金の背後にいるBill Gates 氏の存在にブルってしまって、
財団やゲイツ氏自身から直接何かを要求されるまでもなく
自ら進んでBill氏の意向を忖度・斟酌し、
必要もない自己点検を行ってしまうこと。

(chillというのは冷蔵庫や冷蔵食品のチルドの元単語で
 「さむっ」……ブルッ……とくる、あの感じ。
 転じてここでは Bill にビビッてしまうこと。)

ちなみにGates Keepers は
ゲイツ財団の慈善事業をMicrosoft社の独占による世界支配への手段と位置づけて、

同財団の動向に関するニュース記事やブログ記事に目を光らせ
同財団を見張ろうとするブログです。

そして、
Ashley事件の本質は実はこのBill Chillなのではないか……
というのが当初から一貫して当ブログが提示している疑惑

2008.04.19 / Top↑
「移植臓器不足は誇張されていた」という3月のエントリーでちょっと書きましたが、

ペンシルバニア大学の倫理学者Arthur L. Caplanについては
Ashley事件で初めてその発言に触れ、
その後も様々なニュース記事でコメントを読むにつれて
ちょっと気になってきたので、

読みやすそうなところで、Caplanによる生命倫理の入門書を買ってみました。
頭のいいマウス、それほど頭が良くない人間」というタイトルも楽しかったので。
(買ったのは2008年版のPB。ハードカバーは2006年刊。)

まだ半分も読んでいないので、
あれこれの感想を一応保留ということにして少しずつ読み進んでいるところなのですが、
たまたま製薬会社の巨悪(?)ニュースに目が向いていたところで
この章に行き当たった。

Commercial Concerns Should Take a Backseat to Public Awareness
(商売の思惑は後部座席に退いて、情報提供に席を譲れ)

章タイトルそのものが製薬会社へのメッセージです。

この章の中に、
あらゆる医薬品の人体実験データが公開されるようなルールを作れと
米国医師会が政府に対して要望することで意見が一致したという話が出てくるのですが、

初版が2006年とすると、このAMAの決議は
今月NY Times取り上げていた避妊パッチ事件なども進行していた時期でしょう。

AMAがこんな決議を行った背景にはそうした事件の影響もあったでしょうが、
臨床試験の実態があまりにも酷いことを医師らが知っていたからでもあって、
その実態をCaplanは次のように書いています。

いい結果でなければ、論文を掲載してもらうことそのものに研究者は苦労する。否定的な結果に終わった実験は、まず雑誌の編集者がOKしない。影響力が小さな研究なら結果がネガでも掲載されることはあるが、話題にはならない。「一般的な風邪薬で風邪は治らない」という話がニュースになることはないし、誰かの口に上ることもないのだ。

でも、掲載される論文にバイアスがかかっているという問題以前に、
多くの実験や研究のスポンサーが製薬会社なのだから
「ああ、これはマズい結果になりそうだ」と見れば、その研究がつぶされるだけのことだ、とも。

ちょっとびっくりするのですが、
製薬会社には都合の悪いデータをFDAに知らせる義務はあっても
一般や医療者に公開しなければならない義務はないのだそうで。

子どもに使われた抗ウツ剤が自殺に繋がると製薬会社の実験データが指摘された時にも、
州検事が強硬に裁判に持ち込むまで、製薬会社はデーター提供を拒否した、と。

(そういえば、この敏腕検事はつい先ごろセックス・スキャンダルで失脚したっけ。)

AMAとしても、
こんな状況では製薬会社の売り言葉だけで患者に医薬品を処方するのは危険、と
判断したということでしょう。

この章のメッセージは「ソロバン弾くよりも情報公開が先だろー」ということで、
今年の3月に英国当局が製薬会社に訴えた「お願いだから倫理観念をもって」と同じ。

しかし、NY Timesの記事などを読むと、
その後も改善はなく、事態は悪化の一途と見えます。

             ――――

しかし……
こういう実態を知って懸念もしている倫理学者が
スポーツにおけるステロイドなどパフォーマンス向上薬物については
「認めればいいじゃないか」という立場であるということを始め、

全体に薬とテクノロジーの人体への応用には非常に前向きであるということが
私はイマイチ理解できない。

今のところ、Caplanのスタンスは
「テクノロジーそのものが悪だというわけではないから規制の必要はない。
問題はそれを使う人間の側のセルフ・コントロールである」
という辺りのように思えるのですが、

なんとも楽観的だなぁ……。

そんなに簡単に人間の欲望がコントロールできるものなら、
なんで製薬会社がこんなにもコントロール不能状態で野放しになっているんだ──?
2008.04.18 / Top↑
……というタイトルどおりの動きを NY Times が指摘しているのですが、

そこで製薬会社と政府が盾にとっているpre-emptionという法理論というのは、
どうやら専門家の専門性に絶対的な免罪符を与えて司法判断より上位に置くといったもの。
これでは専門性を隠れ蓑に何でもやりたい放題じゃないか……と唖然とする。

そして、これは、もしかしたら
「無益な治療」での訴訟つぶしにも応用できる論法ではないか……と考えると、
なんだか今度は慄然とする。



The Dangers in Pre-emption
The NY Times, April 14, 2008



数年前、Johnson&Johnsonの避妊薬パッチOrtho Evraが問題になりました。

経口避妊薬より何かと便利で
世界中で400万人の女性に愛用されていたOrtho Evra、

実はエストロゲンを通常の避妊薬の1,6倍も含み、
それだけ使用者のエストロゲン血中濃度を上げるものだったのですが、
Johnson & Johnsonがそれを発表したのは
同パッチが原因と見られる血栓症によって多くの死者と脳卒中患者が出た後の2005年秋。

3000人もの女性や家族が同社相手に訴訟を起こしています。

裁判過程で判明したのは、
Johnson & Johnson社が社内的に同パッチを認可した2001年以前に
パッチがピルよりも血中濃度をあげることを把握して、
FDA提出資料の上では「修正」を行っていたという事実。

そしてその「修正」情報に基づいてマーケティングが行われた
(つまりウソ情報で売られた)ということ。

しかし、
現在は新ラベルに正確な含有量と適正な使用方法を記載し、
正しく使えば安全な薬だと主張する同社は
裁判ではpre-emptionという戦術で訴訟そのものを否定してかかっています。

pre-emptiveはイラク開戦の際の「先制主義」でも使われた言葉ですが、
ここでは、

製薬会社を規制することのできる専門知識を持っている唯一の機関がFDAである以上、
FDAの決定を裁判所が疑うことはできない、という主張。

従って、同社を訴えることはできないはずだ、というわけ。

驚くことに
Bush政権もこの論理を後押ししており、どうやら、
頻発している製薬会社に対する訴訟崩しにpre-emptiveを慣例化する狙いがあるのではないか……
というのが、ここ10日間で2度もこの問題を取り上げた NY Times の論旨。

なにしろ過去10年間に認可を取り消された薬や訴訟を起こされた薬は
統合失調症治療薬のZyprexa
鎮痛剤のVioxx
糖尿病治療薬のRezulin
胸焼け治療薬のPropulsid
さらに抗ウツ薬が数種類。

Zyprexaの訴訟では
独自の検査を行わず製薬会社のデータ頼み、
リスクを把握しても消費者に強く警告することは製薬会社に求めない
FDAの弱腰体質が明らかにされているところ。

(こちらの事件の当初報道を紹介して下さっているブログがあったので、
 TBさせていただきました。)

こんな状態でpre-emption原則がまかり通るということになると

FDAと癒着している製薬会社のやりたい放題、
患者・消費者は製薬会社の食い物で、
いいかげんな臨床試験やデータ改ざんの犠牲になっても
裁判も起こせなくなるということです。

そして、このpre-emption、
医薬品以外にも拡げていける理屈ではないでしょうか?

私には今でも裁判所など無視せよと提唱しているNorman Fost医師が
pre-emptionに飛びつく声が聞こえてくる――。

「医療の専門家は医師である。裁判所に医師の医療上の判断を疑う資格はない」

(そういえば最近、日本でもこういう声をたま~に耳にしますね。)



英国では米国のFDAに当たるMHPRAが3月に製薬会社に対して
倫理観を持てと異例の訴えを行っています。
FDAやブッシュ政権よりもマシなのか?
それとも、この「お願い」、最後に残った良心を振り絞っての絶叫──?
そのまま制御不能状態に突入する“いまわの際”の──?
2008.04.18 / Top↑
CNNが4月6日に「ダウン症の決断」と題した特集を放送し、

おなかの子がダウン症だと分かって産むことを選択して
現在4歳になった娘Faithと息子と幸福に暮らしているMitchell夫妻と、

ダウン症だと分かって中絶することを選び、
その後、障害のない子どもを産んだという夫婦とに
それぞれインタビューしています。

Down Syndrome Decisions
CNN Video, April 6, 2008


後者の夫婦は姓を隠してインタビューに応じ、
中絶の決断を後悔していないし間違ったことをしたとも思わないが、
自分たちがしたことを軽蔑する人たちが世の中には沢山いることは感じている、と。

Mitchell夫妻は
ダウン症だと分かった時に医師からネガティブな情報ばかりが出てきた、
この子を産むと「お兄ちゃんの重荷になりますよ」とまで言われた、と。

医師らは最悪のシナリオだけを頭において話をしているが、
出産前の夫婦には偏った情報ではなく、
情報をすべて提供して欲しい、と。

上記リンクから、
バースデイ・ケーキのろうそくを吹き消し、
友達と遊んだり、シャボン玉を吹いている
Faithちゃんの可愛らしくほほえましい姿が見られます。

障害の種類も程度も様々なのに、
その具体的な障害像や現実を置き去りにしたまま、
「障害児は自立できず家族のお荷物になる」とか
「生まれてこないほうが本人のため」だと考える人は
彼女の姿を見て、一度自分に問うてみて欲しい。

この子の姿を前にしても
果たして同じことを同じ口調で言えるのかどうか。

       ――――――

障害の多様性も個別性も置き去りにしたまま、
“障害”という言葉で一括りにしてイメージだけで語ると
すべての障害に最悪のシナリオが思い描かれてしまう。

シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスで
障害新生児への「無益な治療」停止を提唱していたNorman Fostが引いた
「重い障害を持った新生児」の例が無脳症児であったように。


障害児・者を功利主義で切り捨てようとする人たちは
意図的に敢えて最重度のイメージを付加して語るのかもしれないから、

それだけ余計に、
両義的なところで迷いつつ悩みつつ
自分なりに真摯に考えてみようとして
“障害児”の選別的中絶や安楽死や「無益な治療」論による治療停止を論じる人は

自分が語っている“障害”とは
具体的にどういう障害が
どの程度にひどい場合を想定しているのかを

まず具体的にしっかり確認し、
その障害についてせめて基本的な知識を身につけた上で
初めてその問題を考える……というくらいの慎重さ・繊細さを持ってほしい。



2008.04.18 / Top↑
statins に代わるコレステロール低下薬として
強力な売込みが進んでいるVytorinとZetiaの2つの薬について、
先週明らかにされた臨床試験のデータでは
実は動脈硬化予防の効果はさほどなかったことが判明。

しかも製薬会社が副作用に関するデータを1年間も隠蔽していた疑惑も。

この2つは、
薬効ではなく売り込み戦術によって売れている薬である、と。

Overpromoted Cholesterol Drugs
The NY Times (Editorial), April 2, 2008/04/16


患者というか消費者の側としては
臨床試験で安全性が充分に確認されたからこそ認可されて医師が処方しているのだという前提で
薬を買って飲んでいるわけですよね。

だから、
薬が認可されて、もう沢山の患者が飲んだ後になって
臨床試験の結果が後出しされるということが、どうにも分からない……。

日本でも繰り返されている薬害事件を考え、
英米のこうしたニュースを読むと、
どうも、そういうふうに安穏とナイーブであってはいけないらしい。

じゃぁ、何を信じて患者は薬を飲めばいいんだ?

           ――――――

数年前から総コレステロール値がほんのわずかに正常値を上回っていて、
私は「高脂血症」の患者ということになり、
かかりつけ医から薬を飲んだ方がよいと時々言われていたのですが、

正常値の見直しが必要だとする議論を読み齧ってもいたので、
悪玉、善玉、中性脂肪は正常だというのを盾にとって
3年くらい「ダイエットで下げる努力をします!」と抵抗し続けていたら、
(私のダイエットは3年間ずっと効果がなかったことになりますが……)

ある日、突然、総コレステロール値が高脂血症の条件からはずされて、
私は「病人」ではないことに。

かかりつけ医もいつのまにか
「ま、たまには検査はしましょうね」くらいのことしか言わなくなった。

そういえば、高脂血症の基準が変わったころ、
なんとなく頭をよぎったことがあった。

これ、製薬会社がスタチンでもう充分に稼いだってことなんかなぁ……と。


2008.04.17 / Top↑