今年の1月、
3か月前から担当してくれている支援者と映画を見に行った
ダウン症の男性、Robert Ethan Saylorさん(26歳)。
その映画が気に入ったので、もう一度見たいと言っていたが、
映画館を出たところで、機嫌を悪くして毒づいたり店のウインドウを叩いたりしはじめた。
その日はそれ以前にも癇癪を起していたので
困った支援者の女性が母親と他の支援者に電話で対応を相談。
しかし、その間にイーサンは再び映画館の中に戻って座席に座ってしまった。
2度めはチケットを買っていないので
劇場側は支援者の女性に退場させるよう求め、女性は自分が対処すると答えた。
ところが、
そこへ非番のアルバイトで警備員をやっている保安官代理が3人やってきて、
イーサンと口論に。
支援者の女性は、身体に触るとパニックすると警告したが、
強引に連れだそうとした警官らはイーサンに手をかけた。
体重が100キロ以上あるイーサンはパニック。
暴れながら、大声で母親を呼んだ。
保安官代理ら3人がとり押さえて連れだそうともみ合ううちに
イーサンは手錠を3つかけられたが、そこで突然、動かなくなった。
保安官代理らは手錠を外して心肺蘇生を行い、
息は吹き返したが、意識不明のままいびきをかいていた。
バルティモアの検死官局チーフは
イーサンの死因は窒息による殺人と断定。
喉にも原因不明の傷があった。
(これがいつの段階なのか、記事からはちょっと不明)
3月、Frederick郡の陪審員は警官らを不起訴にしただけでなく、
情報の自由法では公開されるべきエビデンスは
先に警察の内部調査が終わるまで無理だと言って家族にも公開されなかった。
その後、家族の代理やアドボケイト団体などが
米国司法省やメリーランド州当局に独立した調査を求め、
このほど98ページに及ぶ報告書がだされ、
事件の詳細が明らかになった。
保安官事務所の弁護士は
内部調査は終了しているとしつつ、
詳細についてはコメントできない、と語り、
「徹底的な調査が行われました。
明らかに悲劇的で不幸な出来事ですが、
しかし保安官代理には何も非はありませんでした」
Aide to man with Down syndrome who died in theater had warned police, report says
The WP, July 16, 2013
相手への配慮も理解も何もなく
問答無用の強権で何でも抑えつけようとする空気の広がり、という点では、
例えば以下のようなことが頭に浮かぶし、
授業中にケンカをすればスクール・ポリスがやってくる。そして逮捕(TX)(2012/1/12)
些細な問題行動でスクール・ポリスに逮捕される黒人生徒、白人生徒の4倍(2013/4/20)
また、
弱い者が不当な暴力にさらされた事件で、
強い側のものが守られる仕組み……という点では、
このところ米国社会を騒然とさせているジマーマン事件が頭に浮かぶ。
ただ道を歩いていただけの丸腰の黒人少年を
勝手に不審者だと決めつけた元自警団のピスパニックの青年ジマーマンが
銃を持って追いかけて、もみ合いになり、少年が射殺されてしまった。
それでもフロリダ州では正当防衛とする州法があるとされて
1カ月間も警察はジマーマンを放置。
世論の非難を浴びて逮捕したものの、
陪審員は無罪判決――。
ジマーマン事件の概要は、例えばこちらに ↓
全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味(ニュースウィーク日本版 7月16日)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130716-00010000-newsweek-int
3か月前から担当してくれている支援者と映画を見に行った
ダウン症の男性、Robert Ethan Saylorさん(26歳)。
その映画が気に入ったので、もう一度見たいと言っていたが、
映画館を出たところで、機嫌を悪くして毒づいたり店のウインドウを叩いたりしはじめた。
その日はそれ以前にも癇癪を起していたので
困った支援者の女性が母親と他の支援者に電話で対応を相談。
しかし、その間にイーサンは再び映画館の中に戻って座席に座ってしまった。
2度めはチケットを買っていないので
劇場側は支援者の女性に退場させるよう求め、女性は自分が対処すると答えた。
ところが、
そこへ非番のアルバイトで警備員をやっている保安官代理が3人やってきて、
イーサンと口論に。
支援者の女性は、身体に触るとパニックすると警告したが、
強引に連れだそうとした警官らはイーサンに手をかけた。
体重が100キロ以上あるイーサンはパニック。
暴れながら、大声で母親を呼んだ。
保安官代理ら3人がとり押さえて連れだそうともみ合ううちに
イーサンは手錠を3つかけられたが、そこで突然、動かなくなった。
保安官代理らは手錠を外して心肺蘇生を行い、
息は吹き返したが、意識不明のままいびきをかいていた。
バルティモアの検死官局チーフは
イーサンの死因は窒息による殺人と断定。
喉にも原因不明の傷があった。
(これがいつの段階なのか、記事からはちょっと不明)
3月、Frederick郡の陪審員は警官らを不起訴にしただけでなく、
情報の自由法では公開されるべきエビデンスは
先に警察の内部調査が終わるまで無理だと言って家族にも公開されなかった。
その後、家族の代理やアドボケイト団体などが
米国司法省やメリーランド州当局に独立した調査を求め、
このほど98ページに及ぶ報告書がだされ、
事件の詳細が明らかになった。
保安官事務所の弁護士は
内部調査は終了しているとしつつ、
詳細についてはコメントできない、と語り、
「徹底的な調査が行われました。
明らかに悲劇的で不幸な出来事ですが、
しかし保安官代理には何も非はありませんでした」
Aide to man with Down syndrome who died in theater had warned police, report says
The WP, July 16, 2013
相手への配慮も理解も何もなく
問答無用の強権で何でも抑えつけようとする空気の広がり、という点では、
例えば以下のようなことが頭に浮かぶし、
授業中にケンカをすればスクール・ポリスがやってくる。そして逮捕(TX)(2012/1/12)
些細な問題行動でスクール・ポリスに逮捕される黒人生徒、白人生徒の4倍(2013/4/20)
また、
弱い者が不当な暴力にさらされた事件で、
強い側のものが守られる仕組み……という点では、
このところ米国社会を騒然とさせているジマーマン事件が頭に浮かぶ。
ただ道を歩いていただけの丸腰の黒人少年を
勝手に不審者だと決めつけた元自警団のピスパニックの青年ジマーマンが
銃を持って追いかけて、もみ合いになり、少年が射殺されてしまった。
それでもフロリダ州では正当防衛とする州法があるとされて
1カ月間も警察はジマーマンを放置。
世論の非難を浴びて逮捕したものの、
陪審員は無罪判決――。
ジマーマン事件の概要は、例えばこちらに ↓
全米を揺るがせたジマーマン無罪判決の意味(ニュースウィーク日本版 7月16日)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130716-00010000-newsweek-int
2013.07.28 / Top↑
今日、「私らの子」が、
また一人亡くなった。
それで、
09年3月29日に書いた
以下のエントリーを再掲したくなった。
葬式(2009/3/29)
身近な子どもが、また1人亡くなった。
とても重度ではあるけれど元気な子だったのに……と
知らせを聞いて絶句する。
電話で知らせてくれた人と、
いつもこういう時に繰り返す儀式のように
「○○さんちのAちゃんの時には、こうだったよね」
「そういえば△△さんちのB君の時も、こうだったっけ」
いつのまにか数えることをやめてしまった子どもたちの死を1つずつ振り返る。
ずっと身近で見て、よく知っている子もいたし、
顔を知っている程度という子もあった。
時には子どもですらなくて、いい年のオッサンだったりもした。
中学校まで娘のクラスメートだった男性は、
かつて就学猶予を強制された年齢超過者で私よりも年上だった。
でも、どの子もどの人も、亡くなったという知らせを受けると、
私はいつも「私らの子が、また1人死んだ……」という感じがする。
私らの子が、また1人死んだ――。
そういえば、あの子もこの子も、いなくなった。
いつのまにか、私らの子が、もう、こんなにたくさん死んでしまった――。
養護学校の卒業式の後とんと会わなくなった重症児の親たちが葬式で顔を合わせて、
通園時代や養護学校時代の親の同窓会みたいだ。
焼香で人が動く時に見知った顔を見つけて、同時に、
その人の子どもがずっと前に危篤状態になったことを思い出す。
ウチの娘と同じで、幼児期には健康でいる日など数えるほどしかない子だった。
お母さんも「この子はそう長くは生きないだろうから」とよく口にしたし
「そんなことないよ」と言いながら、周りの人たちだって本当は心の中でそう思っていた。
それでも彼女の娘は数年前に成人式を迎えて、今もちゃんと生きている。
そういえば、あの子も、そして、この子も……と指を折ってみれば
ちゃんと生きている子だって沢山いることに驚かされる。
へんな言い方だけれど、仲間内で子どもたちが初めて死に始めた頃は
誰かの子どもが亡くなると、次はどこの子だろう、
もしかしたらウチの子だろうかと、みんな疑心暗鬼に駆られて
内心で子どもたちを重症度や体の弱さで順に並べてみたりしたものだったけど、
この子たちは決して、障害の重い順、弱い順に死んでいくわけじゃない。
とても重度で虚弱で、長くは生きられないだろうと誰もが思っていた子どもが
ある年齢から急に元気になることもあるし、
弱いまま何度も死にそうになったり、医師や親にいよいよだと覚悟させたりしながら
それでもちゃんと生きている子どもたちもいっぱいいる。
そうかと思うと、
それほど重度なわけでもなく、障害があるなりに元気だった子が
ある日突然に体調を崩し、あっという間に逝ってしまったりする。
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの不思議を
説明することなど誰にもできない。
人の生き死には、人智を越えたところにある。
今日、葬式で
いっぱい死んでいった子どもたちや、
まだいっぱい、ちゃんと生きている子どもたちの顔を一つ一つ思い浮かべて、
改めて、そのことを思った。
同じように重い障害を持って生まれてきて、
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議を
いったい誰に説明できるというのだろう。
そんな、人智をはるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。
「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、
そんなのは、みんな人智の小賢しい理屈に過ぎない。
生まれてきて、そこにある命が
生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。
障害があろうとなかろうと、
どんなに重い障害があろうと、
生きてはいけない人なんて、どこにもいない。
重い障害を負った私らの子は
次々に死んでいくように見えるけれども、
本当は障害のあるなしとは無関係に
誰がいつ死ぬかなんて、誰にも分からない。
だから、
あの子もこの子も、生きてこの世にある間は
生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──
それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と
亡くなった子の遺影を見上げて、心の底から祈った。
また一人亡くなった。
それで、
09年3月29日に書いた
以下のエントリーを再掲したくなった。
葬式(2009/3/29)
身近な子どもが、また1人亡くなった。
とても重度ではあるけれど元気な子だったのに……と
知らせを聞いて絶句する。
電話で知らせてくれた人と、
いつもこういう時に繰り返す儀式のように
「○○さんちのAちゃんの時には、こうだったよね」
「そういえば△△さんちのB君の時も、こうだったっけ」
いつのまにか数えることをやめてしまった子どもたちの死を1つずつ振り返る。
ずっと身近で見て、よく知っている子もいたし、
顔を知っている程度という子もあった。
時には子どもですらなくて、いい年のオッサンだったりもした。
中学校まで娘のクラスメートだった男性は、
かつて就学猶予を強制された年齢超過者で私よりも年上だった。
でも、どの子もどの人も、亡くなったという知らせを受けると、
私はいつも「私らの子が、また1人死んだ……」という感じがする。
私らの子が、また1人死んだ――。
そういえば、あの子もこの子も、いなくなった。
いつのまにか、私らの子が、もう、こんなにたくさん死んでしまった――。
養護学校の卒業式の後とんと会わなくなった重症児の親たちが葬式で顔を合わせて、
通園時代や養護学校時代の親の同窓会みたいだ。
焼香で人が動く時に見知った顔を見つけて、同時に、
その人の子どもがずっと前に危篤状態になったことを思い出す。
ウチの娘と同じで、幼児期には健康でいる日など数えるほどしかない子だった。
お母さんも「この子はそう長くは生きないだろうから」とよく口にしたし
「そんなことないよ」と言いながら、周りの人たちだって本当は心の中でそう思っていた。
それでも彼女の娘は数年前に成人式を迎えて、今もちゃんと生きている。
そういえば、あの子も、そして、この子も……と指を折ってみれば
ちゃんと生きている子だって沢山いることに驚かされる。
へんな言い方だけれど、仲間内で子どもたちが初めて死に始めた頃は
誰かの子どもが亡くなると、次はどこの子だろう、
もしかしたらウチの子だろうかと、みんな疑心暗鬼に駆られて
内心で子どもたちを重症度や体の弱さで順に並べてみたりしたものだったけど、
この子たちは決して、障害の重い順、弱い順に死んでいくわけじゃない。
とても重度で虚弱で、長くは生きられないだろうと誰もが思っていた子どもが
ある年齢から急に元気になることもあるし、
弱いまま何度も死にそうになったり、医師や親にいよいよだと覚悟させたりしながら
それでもちゃんと生きている子どもたちもいっぱいいる。
そうかと思うと、
それほど重度なわけでもなく、障害があるなりに元気だった子が
ある日突然に体調を崩し、あっという間に逝ってしまったりする。
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの不思議を
説明することなど誰にもできない。
人の生き死には、人智を越えたところにある。
今日、葬式で
いっぱい死んでいった子どもたちや、
まだいっぱい、ちゃんと生きている子どもたちの顔を一つ一つ思い浮かべて、
改めて、そのことを思った。
同じように重い障害を持って生まれてきて、
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議を
いったい誰に説明できるというのだろう。
そんな、人智をはるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。
「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、
そんなのは、みんな人智の小賢しい理屈に過ぎない。
生まれてきて、そこにある命が
生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。
障害があろうとなかろうと、
どんなに重い障害があろうと、
生きてはいけない人なんて、どこにもいない。
重い障害を負った私らの子は
次々に死んでいくように見えるけれども、
本当は障害のあるなしとは無関係に
誰がいつ死ぬかなんて、誰にも分からない。
だから、
あの子もこの子も、生きてこの世にある間は
生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──
それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と
亡くなった子の遺影を見上げて、心の底から祈った。
2013.07.28 / Top↑
【3日追記】
昨日このエントリーを書いた時には
「涙活」を使ったプロモが、私が行った映画館単体の作戦だったのか、
それとも全国規模の作戦なのかということが判断できず、
以下のような書き方をしましたが、
その後のツイッターでのコメントなどからすると、
どうやら全国的に「涙活」とつなげたプロモが行われているように思われます。
----------
この映画については、何も言うまいと心に決めていたのだけれど、
今日やっとこういう声が出てきてくれたと知ると、
(声)映画「くちづけ」強い違和感 (朝日新聞Dignital, 2013年6月30日)
http://www.asahi.com/opinion/articles/OSK201306290018.html
心の歯止めが効かなくなってしまった……ので。
ひと月ほど前、
映画館のトイレに入ったら、
個室ドアの裏側、ちょうど便器に座った目の高さに、
映画「くちづけ」の
その映画館が独自に作成したと思しきチラシが貼られていた。
そこに書いてあったのは、
女性の皆さま 必見!!
「涙活」をご存知ですか?
涙を流すとストレス解消になるんです。
泣きたくても泣けない
あなたにおススメの映画はこちら。
「くちづけ」については
この時に予告編を見ただけなのだけれど、
公式サイトはこちら ↓
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/
これ、癌になった父親が
知的障害のある娘を残してはゆけないと思い詰めた挙句に、
自分の手で殺す、という話ですよね。
障害のある人が親の手で殺されることが、お手軽に「泣ける」娯楽ですか?
人がひとり殺されることが、「可哀そう」と泣いてすっきりするための消費材ですか?
人が人を殺す話を
実話だからこそ切なくて泣けますなどと言って、
「泣きたくても泣けない」人はいらっしゃい、
「ストレス解消」や「涙活」にもってこいですよ、
だから「必見」「おススメ」ですよ、と売り込むことには、
なにか根本的なところに、とてもおかしいものがありはしませんか?
私は障害のある子どもを持つ親として、ずっと、
「障害や介護の問題を語る時に、そこに美意識を持ちこまないで」と訴え続けてきました。
なぜなら、その無責任な美意識は親や介護者から助けを求める声を奪い、
自分と子ども(介護される人)だけの狭く閉塞した「自己責任」の世界へと
親や介護者を追い詰めていくからです。
そして、例えば以下のエントリーで書いたように、
「美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎない」からです。
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
そうして、さらに、
例えば「くちづけ」の公式サイトのどこかに、
ほんの“付け足し”のように書かれている
「ひたすらにマコを愛し、彼女の幸せを望んだいっぽんが、
なぜ、こんな選択をしなくてはならなかったのか?」という
本当は問われるべき問いが、涙と共に簡単に流し去られて、
「こういうことが起こらないために、社会はどうあるべきか」という問題としては
誰も考えなくなるからです。
子どもに障害があろうとなかろうと、
我が子を我が手で殺したいと望む親などいません。
それなのに
他にどうしようもないと思いこむほどのところに追い詰められた親が
その挙句に子どもを殺すという愚かな決断をしてしまった時に、
世間からそれを賛美され、涙ながらに称賛の手を叩かれてしまうなら、
親は、いったい、どうすればいいのでしょう?
【その他、できたら読んでもらいたいエントリー】
「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)
「どうぞ安心して先に行ってください」(2009/3/17)
「Gilderdale事件はダブル・スタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
ケアラー連盟設立1周年記念フォーラムに参加しました(2011/7/1)
――――――
もう一つ、
以下の公式サイトの内容紹介のページを見て、愕然としたこと。
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/introduction.html
そこには以下のような、古色蒼然としたステレオタイプな記述が並んでおり、
これは、アシュリー事件の擁護論の世界そのものだ……と。
「カラダは大人、精神は子供のままの人たち」
「30歳のカラダに7歳の心をもった、天使のように無垢な娘マコ」
「そこの住人たちもマコも、天使のように無邪気で陽気」
「そんな彼女の命が、なぜ、この世から消えなくてはならなかったのか?」
そこには、父娘の悲しい愛情の物語がありました」
アシュリーは生後3カ月の赤ちゃんと同じだから。
アシュリーは6歳の身体に赤ちゃんの精神。
そんなアシュリーが、なぜ子宮と乳房を摘出され、
ホルモン大量療法で身長の伸びを抑制されなくてはならなかったのか?
そこには父と母の深い愛情とデジタル思考の物語がありました。
だって、ほら、
このまま成熟した女性の身体に赤ちゃんの精神が宿ったのではグロテスクで、
アシュリーが周りの人たちから愛してもらえなくなるから――。
中身が赤ちゃんのアシュリーには
小さな体の方が似つかわしいから――。
アシュリーは、寝たきりの
無垢な心の「枕の天使」なんだもの――。
昨日このエントリーを書いた時には
「涙活」を使ったプロモが、私が行った映画館単体の作戦だったのか、
それとも全国規模の作戦なのかということが判断できず、
以下のような書き方をしましたが、
その後のツイッターでのコメントなどからすると、
どうやら全国的に「涙活」とつなげたプロモが行われているように思われます。
----------
この映画については、何も言うまいと心に決めていたのだけれど、
今日やっとこういう声が出てきてくれたと知ると、
(声)映画「くちづけ」強い違和感 (朝日新聞Dignital, 2013年6月30日)
http://www.asahi.com/opinion/articles/OSK201306290018.html
心の歯止めが効かなくなってしまった……ので。
ひと月ほど前、
映画館のトイレに入ったら、
個室ドアの裏側、ちょうど便器に座った目の高さに、
映画「くちづけ」の
その映画館が独自に作成したと思しきチラシが貼られていた。
そこに書いてあったのは、
女性の皆さま 必見!!
「涙活」をご存知ですか?
涙を流すとストレス解消になるんです。
泣きたくても泣けない
あなたにおススメの映画はこちら。
「くちづけ」については
この時に予告編を見ただけなのだけれど、
公式サイトはこちら ↓
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/
これ、癌になった父親が
知的障害のある娘を残してはゆけないと思い詰めた挙句に、
自分の手で殺す、という話ですよね。
障害のある人が親の手で殺されることが、お手軽に「泣ける」娯楽ですか?
人がひとり殺されることが、「可哀そう」と泣いてすっきりするための消費材ですか?
人が人を殺す話を
実話だからこそ切なくて泣けますなどと言って、
「泣きたくても泣けない」人はいらっしゃい、
「ストレス解消」や「涙活」にもってこいですよ、
だから「必見」「おススメ」ですよ、と売り込むことには、
なにか根本的なところに、とてもおかしいものがありはしませんか?
私は障害のある子どもを持つ親として、ずっと、
「障害や介護の問題を語る時に、そこに美意識を持ちこまないで」と訴え続けてきました。
なぜなら、その無責任な美意識は親や介護者から助けを求める声を奪い、
自分と子ども(介護される人)だけの狭く閉塞した「自己責任」の世界へと
親や介護者を追い詰めていくからです。
そして、例えば以下のエントリーで書いたように、
「美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎない」からです。
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
そうして、さらに、
例えば「くちづけ」の公式サイトのどこかに、
ほんの“付け足し”のように書かれている
「ひたすらにマコを愛し、彼女の幸せを望んだいっぽんが、
なぜ、こんな選択をしなくてはならなかったのか?」という
本当は問われるべき問いが、涙と共に簡単に流し去られて、
「こういうことが起こらないために、社会はどうあるべきか」という問題としては
誰も考えなくなるからです。
子どもに障害があろうとなかろうと、
我が子を我が手で殺したいと望む親などいません。
それなのに
他にどうしようもないと思いこむほどのところに追い詰められた親が
その挙句に子どもを殺すという愚かな決断をしてしまった時に、
世間からそれを賛美され、涙ながらに称賛の手を叩かれてしまうなら、
親は、いったい、どうすればいいのでしょう?
【その他、できたら読んでもらいたいエントリー】
「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)
「どうぞ安心して先に行ってください」(2009/3/17)
「Gilderdale事件はダブル・スタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
ケアラー連盟設立1周年記念フォーラムに参加しました(2011/7/1)
――――――
もう一つ、
以下の公式サイトの内容紹介のページを見て、愕然としたこと。
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/introduction.html
そこには以下のような、古色蒼然としたステレオタイプな記述が並んでおり、
これは、アシュリー事件の擁護論の世界そのものだ……と。
「カラダは大人、精神は子供のままの人たち」
「30歳のカラダに7歳の心をもった、天使のように無垢な娘マコ」
「そこの住人たちもマコも、天使のように無邪気で陽気」
「そんな彼女の命が、なぜ、この世から消えなくてはならなかったのか?」
そこには、父娘の悲しい愛情の物語がありました」
アシュリーは生後3カ月の赤ちゃんと同じだから。
アシュリーは6歳の身体に赤ちゃんの精神。
そんなアシュリーが、なぜ子宮と乳房を摘出され、
ホルモン大量療法で身長の伸びを抑制されなくてはならなかったのか?
そこには父と母の深い愛情とデジタル思考の物語がありました。
だって、ほら、
このまま成熟した女性の身体に赤ちゃんの精神が宿ったのではグロテスクで、
アシュリーが周りの人たちから愛してもらえなくなるから――。
中身が赤ちゃんのアシュリーには
小さな体の方が似つかわしいから――。
アシュリーは、寝たきりの
無垢な心の「枕の天使」なんだもの――。
2013.07.11 / Top↑
これもまた、09年10月に書いたものなのですが、
ここしばらく集中的に考えていることに関連するので、発掘してきました。
訴える言葉を持たない人の痛みに気づく
もう何年も前のことだけど、重症重複障害のために言葉を持たない娘が腸ねん転の手術を受けたことがある。術後、本人は必死に目で訴え、声を出して助けを 求めていたし、親も痛み止めの座薬を繰り返し強く求め続けたにもかかわらず、外科医は娘の痛みに対応してくれなかった。回腹手術直後の痛みを、娘は痛み止 めもなしに放置された。ただ口で「痛い」と言えないというだけで──。
以来、私は、言葉で訴えることのできにくい患者の痛みに対して、医療はあまりにも鈍いのではないか、という強い疑念を抱えている。
アルベルタ大学作業療法学科が認知症の人の痛み行動ワークショップ
Medical News Todayの記事「認知症の人の痛みはしばしば見過ごされている」(9月3日)によると、認知症の人で見過ごされがちなのは、関節炎、糖尿病神経障害、骨折、筋肉の拘縮、打撲、腹痛、口腔潰瘍の痛みだそうだ。
「アルツハイマー病または認知症の人に痛みがある時に、あなたは気づけますか?」 こんな問いを投げかけて、認知症と痛みに関する情報を提供し、認知症の人の痛みに気づくためのツールを紹介するオンライン・ワークショップが、その記事で 紹介されている。カナダ、アルベルタ大学作業療法学科のキャリー・ブラウン准教授が主催するプログラム、Observing & Talking About Painである。
オンラインでブラウン准教授の講義を聴くことができる他、痛み行動について、認知症の人を介護する家族向けに半日コースのワークショップを開催する場合 のツールキットもダウンロードできる。プレゼン内容や開催までの準備手順を詳しく解説した文書、当日の配布資料、パワーポイントのシートまで、懇切丁寧な 資料となっている。
プログラムでは、池の水面に散り敷いた落ち葉の写真が、あちこちにシンボルとして使われている。「水面下で起きていることが落ち葉に覆い隠されているように、認知症の人々が経験している痛みの深さを知ることも難しい」と、ブラウン准教授は言う。
例えば、認知症の人が熱いコーヒーで口の中にやけどをしたとしよう。言葉で伝えられなければ家族には分からないし、本人が痛みの原因を忘れてしまうこと もある。ものを食べようとしない理由が理解されないため、周囲は食べさせようとし、本人はそれに抵抗する。拒絶が攻撃的な行動や閉じこもりに至ると、それ は脈絡のない問題行動とみなされてしまう。痛みが見過ごされることの影響は決して小さくないのだ。
プレゼンの内容は5つの章に分かれており、①「痛みはない」との神話について。なぜ認知症の人の痛みは理解されないのか? ②認知症の人に痛みがある理由、③痛みを見つけるヒント、④痛みを見つけるためのツールPAINAD、⑤痛みへの対応。
③では認知症の人が一般的に見せる痛み行動について、顔の表情、言葉や音声、身体の動き、行動や感情の変化などを詳細に解説。認知症の人を定期的に観察 し、項目ごとに0点から2点でチェックできる痛み行動のアセスメント・シートがPAINADである。米国老年医学会やオーストラリア痛み学会が作った「高 齢者入所施設での痛みのマネジメント戦略」(右に仮訳を掲載)を元に、アルベルタ大学作業療法学会が提唱しているもの。⑤では家族介護者が日ごろ配慮した い注意点をアドバイスする。
「医療の無関心が知的障害者を死に至らせた」とオンブズマンの報告書(英国)
英国では、2007年に知的障害者のアドボケイト団体Mencapから、知的障害者に対する無理解、無関心から適切な医療が行われないために、救えるはずの命が奪われていると訴える声が上った。
医療オンブズマンの調査が行われ、今年3月に刊行された調査報告書では、医療サイドの偏見から、障害がなければ当たり前に行われるはずの痛みへの基本的 ケアが行われず、不幸にも死に至ったケースの存在が確認された。オンブズマンは関係者らに患者家族へ賠償金の支払いを命ずると同時に、NHSと社会ケア組 織、ケアの質コミッション、平等と人権コミッション、保健省のそれぞれに対して、システムの見直しや改善計画の策定を命じた。
言葉で訴えることができない人たちが経験している痛みの深さを知ることは難しい──。日本でも、まず、その難しさを知り、「痛みはない」との神話を疑ってみることから始めて欲しい。
ワークショップのサイトはこちら
http://www.painanddementia.ualberta.ca/
連載「世界の介護と医療の情報を読む」
「介護保険情報」2009年10月号
【関連エントリー】
「認知症の人の痛み気づく」ワークショップ(2009/9/9)
高齢者入所施設における痛みマネジメント戦略(2009/9/9)
「認知症患者の緩和ケア向上させ、痛みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/19)
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(2009/3/31)
オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト(2009/3/31)
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失
「NHSは助かるはずの知的障害者を組織的差別で死なせている」とMencap(2012/1/3)
助かったはずの知的障害児者が医療差別で年間1238人も死んでいる(英)(2013/3/26)
ここしばらく集中的に考えていることに関連するので、発掘してきました。
訴える言葉を持たない人の痛みに気づく
もう何年も前のことだけど、重症重複障害のために言葉を持たない娘が腸ねん転の手術を受けたことがある。術後、本人は必死に目で訴え、声を出して助けを 求めていたし、親も痛み止めの座薬を繰り返し強く求め続けたにもかかわらず、外科医は娘の痛みに対応してくれなかった。回腹手術直後の痛みを、娘は痛み止 めもなしに放置された。ただ口で「痛い」と言えないというだけで──。
以来、私は、言葉で訴えることのできにくい患者の痛みに対して、医療はあまりにも鈍いのではないか、という強い疑念を抱えている。
アルベルタ大学作業療法学科が認知症の人の痛み行動ワークショップ
Medical News Todayの記事「認知症の人の痛みはしばしば見過ごされている」(9月3日)によると、認知症の人で見過ごされがちなのは、関節炎、糖尿病神経障害、骨折、筋肉の拘縮、打撲、腹痛、口腔潰瘍の痛みだそうだ。
「アルツハイマー病または認知症の人に痛みがある時に、あなたは気づけますか?」 こんな問いを投げかけて、認知症と痛みに関する情報を提供し、認知症の人の痛みに気づくためのツールを紹介するオンライン・ワークショップが、その記事で 紹介されている。カナダ、アルベルタ大学作業療法学科のキャリー・ブラウン准教授が主催するプログラム、Observing & Talking About Painである。
オンラインでブラウン准教授の講義を聴くことができる他、痛み行動について、認知症の人を介護する家族向けに半日コースのワークショップを開催する場合 のツールキットもダウンロードできる。プレゼン内容や開催までの準備手順を詳しく解説した文書、当日の配布資料、パワーポイントのシートまで、懇切丁寧な 資料となっている。
プログラムでは、池の水面に散り敷いた落ち葉の写真が、あちこちにシンボルとして使われている。「水面下で起きていることが落ち葉に覆い隠されているように、認知症の人々が経験している痛みの深さを知ることも難しい」と、ブラウン准教授は言う。
例えば、認知症の人が熱いコーヒーで口の中にやけどをしたとしよう。言葉で伝えられなければ家族には分からないし、本人が痛みの原因を忘れてしまうこと もある。ものを食べようとしない理由が理解されないため、周囲は食べさせようとし、本人はそれに抵抗する。拒絶が攻撃的な行動や閉じこもりに至ると、それ は脈絡のない問題行動とみなされてしまう。痛みが見過ごされることの影響は決して小さくないのだ。
プレゼンの内容は5つの章に分かれており、①「痛みはない」との神話について。なぜ認知症の人の痛みは理解されないのか? ②認知症の人に痛みがある理由、③痛みを見つけるヒント、④痛みを見つけるためのツールPAINAD、⑤痛みへの対応。
③では認知症の人が一般的に見せる痛み行動について、顔の表情、言葉や音声、身体の動き、行動や感情の変化などを詳細に解説。認知症の人を定期的に観察 し、項目ごとに0点から2点でチェックできる痛み行動のアセスメント・シートがPAINADである。米国老年医学会やオーストラリア痛み学会が作った「高 齢者入所施設での痛みのマネジメント戦略」(右に仮訳を掲載)を元に、アルベルタ大学作業療法学会が提唱しているもの。⑤では家族介護者が日ごろ配慮した い注意点をアドバイスする。
「医療の無関心が知的障害者を死に至らせた」とオンブズマンの報告書(英国)
英国では、2007年に知的障害者のアドボケイト団体Mencapから、知的障害者に対する無理解、無関心から適切な医療が行われないために、救えるはずの命が奪われていると訴える声が上った。
医療オンブズマンの調査が行われ、今年3月に刊行された調査報告書では、医療サイドの偏見から、障害がなければ当たり前に行われるはずの痛みへの基本的 ケアが行われず、不幸にも死に至ったケースの存在が確認された。オンブズマンは関係者らに患者家族へ賠償金の支払いを命ずると同時に、NHSと社会ケア組 織、ケアの質コミッション、平等と人権コミッション、保健省のそれぞれに対して、システムの見直しや改善計画の策定を命じた。
言葉で訴えることができない人たちが経験している痛みの深さを知ることは難しい──。日本でも、まず、その難しさを知り、「痛みはない」との神話を疑ってみることから始めて欲しい。
ワークショップのサイトはこちら
http://www.painanddementia.ualberta.ca/
連載「世界の介護と医療の情報を読む」
「介護保険情報」2009年10月号
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オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト(2009/3/31)
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失
「NHSは助かるはずの知的障害者を組織的差別で死なせている」とMencap(2012/1/3)
助かったはずの知的障害児者が医療差別で年間1238人も死んでいる(英)(2013/3/26)
2013.05.14 / Top↑
移送手当で障害者に車をリース
「モータビリティ・スキーム」―英国
英国のキャメロン首相が社会政策を慈善団体や社会的企業家に委ねるべく提唱した「ビッグ・ソサエティ(大きな社会)」構想を受け、独立したビジネスとして利益を上げつつも、利益追求よりも公共の利益を重視して活動するソーシャル・エンタープライズが注目されつつあるようだ。今回は、英国の「モータビリティ・スキーム」という興味深い取り組みを紹介したい。
モータビリティ・スキームとは、英国の障害者に給付される移送に関する各種手当と引き換えに、それぞれの障害に合わせて改造した車や電動車いす、スクーターをリースする仕組み。リースは、改造費用や保険費用、トラブル時の対応などを含むパッケージとなっており、手当だけでは車を購入することのできない障害者は、このスキームを利用することで資金援助を受けることができる。また車選びや改造の相談にも乗る。
スキームを担うのは、1977年に英国政府の主導で作られ、英国王室の認可を受けた全国チャリティ、モータビリティ。78年に1台目の車を届けて以来、60万人の障害者と家族がこのスキームの恩恵にあずかってきた。特に大きな改造を要するケースに利用できる政府のファンドも運営するほか、資金集めも大きな仕事だ。
実際の運用事業はモータビリティ・オペレーションという非営利企業が担っており、車をリースする障害者の手当ては全額またはその一部が、同社に直接支払われる。モータビリティのサイトには以下のように書かれている。「このスキームによって、障害のある人々が職場や大学に通い、友達と会い、家族と外出し、病院に行く自由を得ることができる。我々の多くが当たり前と考えている、自分で行動することの喜びを手に入れることができるのである」。
ところが、英国政府が昨年クリスマス前に発表した個人自立手当(PIP: the Personal Independence Payment)の基準の見直しには、移送手当分の該当者要件をそれまでの「50メートルを超えて歩けない人」から「20メートルを超えて歩けない人」に変更することが含まれていた。この変更により、移送手当の対象者は42万8000人減る見通し。
これを受け、1月に入って、We are Spartacusという障害者チャリティが、雇用年金省などのデータに基づいてPIP基準見直しによる経済的・社会的影響を試算し “Emergency Stop”と題したレポートを刊行した。レポートはモータビリティ・スキームを「多くの障害者のライフ・ライン」と呼び、同スキームの利用により通勤が可能となっている障害者や介護者が、今回の基準変更で働けなくなるなら、GDPで年間約10億ポンドの損失になると試算。今回の基準変更は障害者の就労支援という政府の方針と相いれないと批判している。
一方、キャメロン首相の「ビッグ・ソサエティ(以下BS)」構想は、ガーディアン紙の記事How not to creat a ‘Big Soceity’(1月29日)で、既に失敗だと手厳しく批判されている。
BS銀行の創設など政府の功績はあるが、年明け早々にボランティア組織リーダーの団体から「チャリティの持つ潜在的な力がほとんど活かされないままになっている」と批判が出たように、BS概念そのものが「すでに死んでいる」と書く。
ガーディアンが失敗の要因として挙げているのは以下の6点。
① 政府が唱えるBSは、そもそものスタートから間違っていた。
② 根拠もなく楽天的な予測ばかりが描かれ、却って構想に対する信頼性を失わせてしまった。
③ 民間や福祉セクターの各種団体が構想の要として活躍できるよう必要な制度改正をせず、それらセクターを批判したり地方自治体の予算を削減するなど、逆にやる気を削いでしまった。
④ 明確な計画なしにいきなり委ねようと言っても、12年間も先の政府が細かく規制してきた後では無茶な話だった。
⑤ 政府は「おいでと呼びさえすれば来る」と思っていたようだが、それは「政府が邪魔さえしなければ市民が自ら社会と未来を作る」の間違い。この誰もが忙しい時代に、インセンティブなしには関わろうとする人は少ない。
⑥ キャメロン首相のBSは、自らが主導する中央集権トップダウンでしかないが、BSとは横のつながりのリーダーシップと、それを可能とする足場のこと。それなら、英国には歴史的にその伝統は根付いているし、これからも失われないことを望みたい。
「世界の介護と医療の情報を読む」81
『介護保険情報』2013年3月号
「モータビリティ・スキーム」―英国
英国のキャメロン首相が社会政策を慈善団体や社会的企業家に委ねるべく提唱した「ビッグ・ソサエティ(大きな社会)」構想を受け、独立したビジネスとして利益を上げつつも、利益追求よりも公共の利益を重視して活動するソーシャル・エンタープライズが注目されつつあるようだ。今回は、英国の「モータビリティ・スキーム」という興味深い取り組みを紹介したい。
モータビリティ・スキームとは、英国の障害者に給付される移送に関する各種手当と引き換えに、それぞれの障害に合わせて改造した車や電動車いす、スクーターをリースする仕組み。リースは、改造費用や保険費用、トラブル時の対応などを含むパッケージとなっており、手当だけでは車を購入することのできない障害者は、このスキームを利用することで資金援助を受けることができる。また車選びや改造の相談にも乗る。
スキームを担うのは、1977年に英国政府の主導で作られ、英国王室の認可を受けた全国チャリティ、モータビリティ。78年に1台目の車を届けて以来、60万人の障害者と家族がこのスキームの恩恵にあずかってきた。特に大きな改造を要するケースに利用できる政府のファンドも運営するほか、資金集めも大きな仕事だ。
実際の運用事業はモータビリティ・オペレーションという非営利企業が担っており、車をリースする障害者の手当ては全額またはその一部が、同社に直接支払われる。モータビリティのサイトには以下のように書かれている。「このスキームによって、障害のある人々が職場や大学に通い、友達と会い、家族と外出し、病院に行く自由を得ることができる。我々の多くが当たり前と考えている、自分で行動することの喜びを手に入れることができるのである」。
ところが、英国政府が昨年クリスマス前に発表した個人自立手当(PIP: the Personal Independence Payment)の基準の見直しには、移送手当分の該当者要件をそれまでの「50メートルを超えて歩けない人」から「20メートルを超えて歩けない人」に変更することが含まれていた。この変更により、移送手当の対象者は42万8000人減る見通し。
これを受け、1月に入って、We are Spartacusという障害者チャリティが、雇用年金省などのデータに基づいてPIP基準見直しによる経済的・社会的影響を試算し “Emergency Stop”と題したレポートを刊行した。レポートはモータビリティ・スキームを「多くの障害者のライフ・ライン」と呼び、同スキームの利用により通勤が可能となっている障害者や介護者が、今回の基準変更で働けなくなるなら、GDPで年間約10億ポンドの損失になると試算。今回の基準変更は障害者の就労支援という政府の方針と相いれないと批判している。
一方、キャメロン首相の「ビッグ・ソサエティ(以下BS)」構想は、ガーディアン紙の記事How not to creat a ‘Big Soceity’(1月29日)で、既に失敗だと手厳しく批判されている。
BS銀行の創設など政府の功績はあるが、年明け早々にボランティア組織リーダーの団体から「チャリティの持つ潜在的な力がほとんど活かされないままになっている」と批判が出たように、BS概念そのものが「すでに死んでいる」と書く。
ガーディアンが失敗の要因として挙げているのは以下の6点。
① 政府が唱えるBSは、そもそものスタートから間違っていた。
② 根拠もなく楽天的な予測ばかりが描かれ、却って構想に対する信頼性を失わせてしまった。
③ 民間や福祉セクターの各種団体が構想の要として活躍できるよう必要な制度改正をせず、それらセクターを批判したり地方自治体の予算を削減するなど、逆にやる気を削いでしまった。
④ 明確な計画なしにいきなり委ねようと言っても、12年間も先の政府が細かく規制してきた後では無茶な話だった。
⑤ 政府は「おいでと呼びさえすれば来る」と思っていたようだが、それは「政府が邪魔さえしなければ市民が自ら社会と未来を作る」の間違い。この誰もが忙しい時代に、インセンティブなしには関わろうとする人は少ない。
⑥ キャメロン首相のBSは、自らが主導する中央集権トップダウンでしかないが、BSとは横のつながりのリーダーシップと、それを可能とする足場のこと。それなら、英国には歴史的にその伝統は根付いているし、これからも失われないことを望みたい。
「世界の介護と医療の情報を読む」81
『介護保険情報』2013年3月号
2013.04.07 / Top↑