生活書院さんから毎年3月に刊行される『支援』という雑誌があります。
これまでの関連エントリーは以下 ↓
「支援」創刊号を読む(2011/4/17)
「支援2」からのツイート集 1(2012/4/17)
その第3号が今月末に刊行されるのですが、訳あって、そこに
「母親が『私』を語る言葉を取り戻すということ」というタイトルの
つたない文章を書かせていただきました。
書くことになったいきさつや、
この原稿は書く時よりも書くことを決断するまでが壮絶に苦しかったという事情も
その文章の中に書いていますので、
よかったら読んでいただけると嬉しいです。
それから、中根成寿さんが
拙著『アシュリー事件』の書評を書いてくださっています。
私もまだ内容を知らないのですが、
「善意と専門性に対峙する、児玉真美の軌跡」というタイトルに
もうそれだけでジンと来てしまいました。
以下、生活書院のサイトからの紹介です。
3月28日刊行予定とか。
★特集 逃れがたきもの、「家族」/トークセッション 支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために 川口有美子×柳本文貴 ほか
「支援」編集委員会=井口高志・岡部耕典・土屋葉・出口泰靖・星加良司・三井さよ・山下幸子【編著】
支援 Vol.3
特集 逃れがたきもの、「家族」
________________________________________
A5判冊子 312頁 1575円(税込) ISBN 978-4-86500-005-4
第3号の特集は、「逃れがたきもの、『家族』」。支援やケアをめぐって「家族」が語られるときの私たちの逡巡や曰く言い難い不自由さはどこから来ている のか。そこに押し付けるのでもなく、ただ「敵」だと言って終わりにするのでもなく、しかし持ち上げるのでもなく……さまざまな射程からあらためて「家族」 にまつわる問題群に向き合います。 他に、川口有美子と柳本文貴のトークセッション「支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために」、尾上浩二へのロングインタ ビュー「パーソナルアシスタンスのこれまでと、これから──関西障害者運動からのとらえなおし」、難民を助ける会の野際紗綾子に聞く「東北・東日本大震災 支援における国際NGOの活動」など
【目次】
特集 逃れがたきもの、「家族」
関係を取り結ぶ自由と不自由について──ケアと家族をめぐる逡巡 土屋葉
閉じること/開くことをめぐる問い──家族介護を問題化する〈まなざし〉の変化を素材として 井口高志
母親が「私」を語る言葉を取り戻すということ 児玉真美
看護職である私の「家族」についての臨床の『知』 吉田澄恵
家族を家族とするものは──家族をひらこう 渡井さゆり
「家族」からの離れがたさ──セクシュアルマイノリティの「病院での面会」から 三部倫子
「子育て〈支援〉」にこじれ、「〈支援〉される家族」にこじれて。
──家族ケアの「私事化」と「脱私事化・脱家族化」とのはざまで 出口泰靖
トークセッション
支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために
川口有美子×柳本文貴(司会/山下幸子)
ロングインタビュー1
パーソナルアシスタンスのこれまでとこれから──関西障害者運動からのとらえなおし
尾上浩二に聞く (聞き手/岡部耕典・山下幸子)
ロングインタビュー2
北・東日本大震災支援における国際NGOの活動
難民を助ける会・野際紗綾子に聞く (聞き手/土屋葉・井口高志・岩永理恵)
エッセイ
道しるべ 越智須美子
円満自立で、安心隠居生活 岡部知美
近すぎて届かないもの──バルネラブルな知識の交換のために(2) 飯野由里子
支援の現場を訪ねて
1 むつき庵(京都市)──モノは使いよう! 三井さよ
2 若年認知症サポートセンター絆や(奈良市)──ゆるくていいじゃない 井口高志
3 さっちゃんの家(成田市)──「利用者」とならず、「支援者」となる。 出口泰靖
支援の周辺
1 〈できない人〉はすごい、のその先へ 岡部耕典
2 自分の足元から、想像力を広げる。 山下幸子
3 「可能性」を問うことの先に 星加良司
シンポジウム報告
支援のフィールドワーク──調査と実践のはざまで 前田拓也
書評
1 善意と専門性に対峙する、児玉真美の軌跡
(『アシュリー事件──メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』児玉真美著) 中根成寿
2 介護や支援の「責任」をどう考える?
(『介護事故の法政策と保険政策』長沼健一郎著) 三井さよ
3 架空座談会──「ケア」と「自立」の新たな関係
(『フェミニズムの政治学──ケアの倫理をグローバル社会へ』岡野八代著) 星加良司
くまさんのシネマめぐり
もう一人の「他者」として「精神病者」をみる──『人生、ここにあり』『精神』 好井裕明
ブックガイド
出会いのきっかけとしての民俗学
(『驚きの介護民俗学』六車由美著) 伊藤英樹
子どもの病を生きる親たちの生活史
(『小児がんを生きる──親が子どもの病いを生きる経験の軌跡』鷹田佳典著) 山崎明子
きれいに割り切れず片づけられないこと、それを切り捨てないまなざし。
(『ケアのリアリティ──境界を問いなおす』三井さよ・鈴木智之編著) 出口泰靖
「発達障害」はテーマだけどテーマじゃない
(『プロチチ1~2巻』逢坂みえこ著) 三井さよ
子どもを「もらう」、から始まる「家族」の日常
(『産めないから、もらっちゃった!』うさぎママ著) 土屋葉
「私の経験」も語ってみたくなるような
(『障害者介助の現場から考える生活と労働──ささやかな「介助者学」のこころみ』杉田俊介・瀬山紀子・渡邉琢編著) 山下幸子
口絵 大阪・堺 グループホームぴあハウスのひとびと 写真・矢部朱希子
これまでの関連エントリーは以下 ↓
「支援」創刊号を読む(2011/4/17)
「支援2」からのツイート集 1(2012/4/17)
その第3号が今月末に刊行されるのですが、訳あって、そこに
「母親が『私』を語る言葉を取り戻すということ」というタイトルの
つたない文章を書かせていただきました。
書くことになったいきさつや、
この原稿は書く時よりも書くことを決断するまでが壮絶に苦しかったという事情も
その文章の中に書いていますので、
よかったら読んでいただけると嬉しいです。
それから、中根成寿さんが
拙著『アシュリー事件』の書評を書いてくださっています。
私もまだ内容を知らないのですが、
「善意と専門性に対峙する、児玉真美の軌跡」というタイトルに
もうそれだけでジンと来てしまいました。
以下、生活書院のサイトからの紹介です。
3月28日刊行予定とか。
★特集 逃れがたきもの、「家族」/トークセッション 支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために 川口有美子×柳本文貴 ほか
「支援」編集委員会=井口高志・岡部耕典・土屋葉・出口泰靖・星加良司・三井さよ・山下幸子【編著】
支援 Vol.3
特集 逃れがたきもの、「家族」
________________________________________
A5判冊子 312頁 1575円(税込) ISBN 978-4-86500-005-4
第3号の特集は、「逃れがたきもの、『家族』」。支援やケアをめぐって「家族」が語られるときの私たちの逡巡や曰く言い難い不自由さはどこから来ている のか。そこに押し付けるのでもなく、ただ「敵」だと言って終わりにするのでもなく、しかし持ち上げるのでもなく……さまざまな射程からあらためて「家族」 にまつわる問題群に向き合います。 他に、川口有美子と柳本文貴のトークセッション「支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために」、尾上浩二へのロングインタ ビュー「パーソナルアシスタンスのこれまでと、これから──関西障害者運動からのとらえなおし」、難民を助ける会の野際紗綾子に聞く「東北・東日本大震災 支援における国際NGOの活動」など
【目次】
特集 逃れがたきもの、「家族」
関係を取り結ぶ自由と不自由について──ケアと家族をめぐる逡巡 土屋葉
閉じること/開くことをめぐる問い──家族介護を問題化する〈まなざし〉の変化を素材として 井口高志
母親が「私」を語る言葉を取り戻すということ 児玉真美
看護職である私の「家族」についての臨床の『知』 吉田澄恵
家族を家族とするものは──家族をひらこう 渡井さゆり
「家族」からの離れがたさ──セクシュアルマイノリティの「病院での面会」から 三部倫子
「子育て〈支援〉」にこじれ、「〈支援〉される家族」にこじれて。
──家族ケアの「私事化」と「脱私事化・脱家族化」とのはざまで 出口泰靖
トークセッション
支援の多様な可能性──ケアの制度の縛りの中で、歩みを続けるために
川口有美子×柳本文貴(司会/山下幸子)
ロングインタビュー1
パーソナルアシスタンスのこれまでとこれから──関西障害者運動からのとらえなおし
尾上浩二に聞く (聞き手/岡部耕典・山下幸子)
ロングインタビュー2
北・東日本大震災支援における国際NGOの活動
難民を助ける会・野際紗綾子に聞く (聞き手/土屋葉・井口高志・岩永理恵)
エッセイ
道しるべ 越智須美子
円満自立で、安心隠居生活 岡部知美
近すぎて届かないもの──バルネラブルな知識の交換のために(2) 飯野由里子
支援の現場を訪ねて
1 むつき庵(京都市)──モノは使いよう! 三井さよ
2 若年認知症サポートセンター絆や(奈良市)──ゆるくていいじゃない 井口高志
3 さっちゃんの家(成田市)──「利用者」とならず、「支援者」となる。 出口泰靖
支援の周辺
1 〈できない人〉はすごい、のその先へ 岡部耕典
2 自分の足元から、想像力を広げる。 山下幸子
3 「可能性」を問うことの先に 星加良司
シンポジウム報告
支援のフィールドワーク──調査と実践のはざまで 前田拓也
書評
1 善意と専門性に対峙する、児玉真美の軌跡
(『アシュリー事件──メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』児玉真美著) 中根成寿
2 介護や支援の「責任」をどう考える?
(『介護事故の法政策と保険政策』長沼健一郎著) 三井さよ
3 架空座談会──「ケア」と「自立」の新たな関係
(『フェミニズムの政治学──ケアの倫理をグローバル社会へ』岡野八代著) 星加良司
くまさんのシネマめぐり
もう一人の「他者」として「精神病者」をみる──『人生、ここにあり』『精神』 好井裕明
ブックガイド
出会いのきっかけとしての民俗学
(『驚きの介護民俗学』六車由美著) 伊藤英樹
子どもの病を生きる親たちの生活史
(『小児がんを生きる──親が子どもの病いを生きる経験の軌跡』鷹田佳典著) 山崎明子
きれいに割り切れず片づけられないこと、それを切り捨てないまなざし。
(『ケアのリアリティ──境界を問いなおす』三井さよ・鈴木智之編著) 出口泰靖
「発達障害」はテーマだけどテーマじゃない
(『プロチチ1~2巻』逢坂みえこ著) 三井さよ
子どもを「もらう」、から始まる「家族」の日常
(『産めないから、もらっちゃった!』うさぎママ著) 土屋葉
「私の経験」も語ってみたくなるような
(『障害者介助の現場から考える生活と労働──ささやかな「介助者学」のこころみ』杉田俊介・瀬山紀子・渡邉琢編著) 山下幸子
口絵 大阪・堺 グループホームぴあハウスのひとびと 写真・矢部朱希子
2013.03.07 / Top↑
本来なら、ミュウは昨日の朝から帰ってくる予定だったのだけれど、
おとといの晩に熱を出し、そればかりか喘息気味だとの診断で、
当面は外泊は見合わせ、とドクター・ストップがかかってしまった。
年末年始は、家でゆっくり過ごせる滅多にない機会なのに、
あららぁ。がっくり……。冷凍庫にはミュウ用の介護食おせちも待っているのに……。
まぁ、仕方ないねー。お父さんとお母さんが毎日くるから。
おせちも持ってくるから、あんた、ここで食べる? ……なんてことを言いつつも、
DVDを独占しては「おかあさんといっしょ」に歓声を上げているミュウは
さほどに「やられている」観はないだけに、「お正月」がすっ飛ぶのは無念……。
看護師さんたちも、なんとか数日中には帰れるようになったらいいね、と
心を砕いて細かくケアしてくださるが、やっぱ腹くくるしかないかぁぁ。
そこで今朝も、コンビニに寄って親の分の弁当を買い、園へ。
廊下を詰め所に向かっていると、
途中にある職員休憩室から出てきた夜勤明けの看護師さんに、呼び止められた。
ニコニコしながら弾んだ口調で、
「さっき先生が診られたんですけど、いいニュースがありそうですよ~」
それから夜の間のミュウの様子を詳しく教えてくださって、
「先生から直接お話あると思いますけど、本当に良かったですね~」
まさか今日つれて帰れるなんて思ってなかったのと
看護師さんがこんなに一緒に喜んでくれて、わざわざ声をかけてくれた気持ちが嬉しくて、
むっちゃハッピーになり、思わず、その看護師さんに抱きついてしまった。
そして、連絡を受けてやってきたドクターは部屋に入ってくるなり、
「ミュウさん、どうする、帰ろうか? やっぱり家が一番いいよね?」
父にでもなく母にでもなく、ベッドを覗き込み、ミュウ自身に声をかけてくれた。
ミュウは「ハー!」と大きな口をあけて答え、
先生は「この顔なら大丈夫みたいだし」とつぶやく。
――母は、ちょっとしびれた。
実は私は、園長でも娘の主治医でもない、このドクターAとは、あまり話をしたことがないのだけれど、
数ヶ月前、今回とまったく同じシチュエーションで、ちょっと印象的な場面があった。
たまたまその日の当直だったA先生と、家に帰っても大丈夫かどうかを相談していると、
ミュウが突然ものすごく不機嫌になった。
その頃、ミュウはことあるごとに、
「あたしはここで自分でちゃんとやっているんだから、
親は余計な口を出さないで」とでも言いたげなそぶりを見せていて、
気付いてみたら、本当はかなり前から
ミュウなりに、そういう意思表示をしていたのだけれど、
鈍い親がミュウの気持ちとメッセージに気付いてやれるのには1年近くかかった。
なかなか分かってもらえず、
幼児の頃と同じように親が何もかも職員さんと相談して決めてしまうたびに
とっくに大人になったミュウにとっては、どんどん憤懣がたまっていったのだろうと思う。
そういう場面で猛烈に不機嫌になってゴネる……ということが増えていた。
ただミュウは言葉を持たないから、何を言いたくてゴネているのか、
私にはなかなか分からなかった。
初めて気付いてガ――ンと来た時のことは、
来春刊行される『支援』という雑誌のVol.3に書かせてもらった。
少しずつ気付き始めてからのことは、
こちらの気付きというエントリーに書いた。
数ヶ月前に、A先生と「家に帰ってもいいか」どうかの相談中に
ミュウが不機嫌になった時には、もうかなり分かっていたので、
「あ、ミュウは自分で先生と直接話したいんだね。これはミュウのことだからね」と、すぐに気付いた。
すると、私の言葉を聞いたA先生は、ごく自然にミュウの車椅子の前に身をかがめて、
「じゃぁ、ミュウさん、先生は大丈夫じゃないかと思うけど、家に帰りますか?」と聞いてくれた。
「私のことは私に言わせろ」とゴネまくっていたくせに、
いざ話を自分に振られるとミュウは俄かに緊張し、ただワナワナして、
まるで「帰りたくないみたいじゃない!」と皆を笑わせてくれたけれど、
こうしてこの子も、こういう場面に慣れていけばいいのだろうな、と私は思ったし、
A先生が自然に応じてくれたことからも、
私が受け止めることで周囲の専門職にも気付ききは広がっていくのかも、とも感じさせてもらった。
その後、私はミュウの前で担当職員の方にミュウの最近の思いを話し、
「ミュウが決めて終われることことは、ミュウに直接聞いてやってください」とお願いした。
また主治医の説明も一緒に聞いて、何かを決める時にはミュウに了解を取ることにした。
そうして、ミュウは最近ゴネなくなった。
まだ母が自分に都合よく解釈しているのかもしれないけれど、
親が自分のメッセージを受け止めてくれたこと、それをスタッフに繋いだことで、
ミュウが抱えていた「存在を勝手に消されるような、やりきれない思い」が一段落して、
この子なりにとりあえず親を許せたんじゃないか、と私は想像している。
でも、数ヶ月前のあの日にA先生があれほど自然に応じてくれていなかったら、
ミュウなりの思いをスタッフに繋ぐことまで私が考えたかどうか、分からない。
もしかしたら、親が受け止めてやって、そこで終わっていたかもしれない。
今日、改めて聞いてみたら、
あの時のことをA先生ははっきり覚えていないらしいのだけれど、
でも、やってくるなりミュウに向かって
「ミュウさん、どうする、家に帰る?」と問うてくれた先生の中には、
やっぱりあの数ヶ月前の出来事は何らかの形で残っていたんじゃないだろうか。
もしかしたら、A先生は最初からそういう人だったのかもしれないし、
あの日だって、そういう人だったから自然に応じてくれたのでもあろうし、
だから私はあの日から、A先生が園にいてくれることを心からありがたいと思っているのだけれど、
同時に、
これほど重い障害があり言葉を持たないミュウが彼女なりに上げたのは
Nothing About Me Without Me(私抜きに私のことを決めないで)という声だったこと、
それは親への堂々たるチャレンジだったのだ……ということを思うと、
その声には、
私たち親はもちろん、ミュウの周りの専門職にも届き、変える力があったということ、
これからも彼女にはそれだけの力があるのだということを、私は信じたいと思う。
そして、そのことを、こうして語っていきたいと思う。
「どうせ何も分からない重症(児)者」と、彼らの現実など知らずに決めつける人たちに向かって
「それは違う」と言い続けるためにも――。
今朝、先生のおかげで家に帰れることになったミュウは
車いすに乗せられて「じゃぁ、先生にありがとう言って帰ろう」と促されると、
ちょっとテレながら、そっと先生を見あげて口を開けた。
A先生はそれに「はい。よかったね。気をつけて」と応えた後で、
「先生も今日で仕事終わりなんだよ」と、ちょぴり嬉しそうに付けくわえていた。
1日遅れになったけれど、
とても素敵な冬休みの始まりとなりました。
明日は例年通り親子3人揃って迎える大みそかです。
皆さんにも平穏な年の瀬が訪れていますように。
おとといの晩に熱を出し、そればかりか喘息気味だとの診断で、
当面は外泊は見合わせ、とドクター・ストップがかかってしまった。
年末年始は、家でゆっくり過ごせる滅多にない機会なのに、
あららぁ。がっくり……。冷凍庫にはミュウ用の介護食おせちも待っているのに……。
まぁ、仕方ないねー。お父さんとお母さんが毎日くるから。
おせちも持ってくるから、あんた、ここで食べる? ……なんてことを言いつつも、
DVDを独占しては「おかあさんといっしょ」に歓声を上げているミュウは
さほどに「やられている」観はないだけに、「お正月」がすっ飛ぶのは無念……。
看護師さんたちも、なんとか数日中には帰れるようになったらいいね、と
心を砕いて細かくケアしてくださるが、やっぱ腹くくるしかないかぁぁ。
そこで今朝も、コンビニに寄って親の分の弁当を買い、園へ。
廊下を詰め所に向かっていると、
途中にある職員休憩室から出てきた夜勤明けの看護師さんに、呼び止められた。
ニコニコしながら弾んだ口調で、
「さっき先生が診られたんですけど、いいニュースがありそうですよ~」
それから夜の間のミュウの様子を詳しく教えてくださって、
「先生から直接お話あると思いますけど、本当に良かったですね~」
まさか今日つれて帰れるなんて思ってなかったのと
看護師さんがこんなに一緒に喜んでくれて、わざわざ声をかけてくれた気持ちが嬉しくて、
むっちゃハッピーになり、思わず、その看護師さんに抱きついてしまった。
そして、連絡を受けてやってきたドクターは部屋に入ってくるなり、
「ミュウさん、どうする、帰ろうか? やっぱり家が一番いいよね?」
父にでもなく母にでもなく、ベッドを覗き込み、ミュウ自身に声をかけてくれた。
ミュウは「ハー!」と大きな口をあけて答え、
先生は「この顔なら大丈夫みたいだし」とつぶやく。
――母は、ちょっとしびれた。
実は私は、園長でも娘の主治医でもない、このドクターAとは、あまり話をしたことがないのだけれど、
数ヶ月前、今回とまったく同じシチュエーションで、ちょっと印象的な場面があった。
たまたまその日の当直だったA先生と、家に帰っても大丈夫かどうかを相談していると、
ミュウが突然ものすごく不機嫌になった。
その頃、ミュウはことあるごとに、
「あたしはここで自分でちゃんとやっているんだから、
親は余計な口を出さないで」とでも言いたげなそぶりを見せていて、
気付いてみたら、本当はかなり前から
ミュウなりに、そういう意思表示をしていたのだけれど、
鈍い親がミュウの気持ちとメッセージに気付いてやれるのには1年近くかかった。
なかなか分かってもらえず、
幼児の頃と同じように親が何もかも職員さんと相談して決めてしまうたびに
とっくに大人になったミュウにとっては、どんどん憤懣がたまっていったのだろうと思う。
そういう場面で猛烈に不機嫌になってゴネる……ということが増えていた。
ただミュウは言葉を持たないから、何を言いたくてゴネているのか、
私にはなかなか分からなかった。
初めて気付いてガ――ンと来た時のことは、
来春刊行される『支援』という雑誌のVol.3に書かせてもらった。
少しずつ気付き始めてからのことは、
こちらの気付きというエントリーに書いた。
数ヶ月前に、A先生と「家に帰ってもいいか」どうかの相談中に
ミュウが不機嫌になった時には、もうかなり分かっていたので、
「あ、ミュウは自分で先生と直接話したいんだね。これはミュウのことだからね」と、すぐに気付いた。
すると、私の言葉を聞いたA先生は、ごく自然にミュウの車椅子の前に身をかがめて、
「じゃぁ、ミュウさん、先生は大丈夫じゃないかと思うけど、家に帰りますか?」と聞いてくれた。
「私のことは私に言わせろ」とゴネまくっていたくせに、
いざ話を自分に振られるとミュウは俄かに緊張し、ただワナワナして、
まるで「帰りたくないみたいじゃない!」と皆を笑わせてくれたけれど、
こうしてこの子も、こういう場面に慣れていけばいいのだろうな、と私は思ったし、
A先生が自然に応じてくれたことからも、
私が受け止めることで周囲の専門職にも気付ききは広がっていくのかも、とも感じさせてもらった。
その後、私はミュウの前で担当職員の方にミュウの最近の思いを話し、
「ミュウが決めて終われることことは、ミュウに直接聞いてやってください」とお願いした。
また主治医の説明も一緒に聞いて、何かを決める時にはミュウに了解を取ることにした。
そうして、ミュウは最近ゴネなくなった。
まだ母が自分に都合よく解釈しているのかもしれないけれど、
親が自分のメッセージを受け止めてくれたこと、それをスタッフに繋いだことで、
ミュウが抱えていた「存在を勝手に消されるような、やりきれない思い」が一段落して、
この子なりにとりあえず親を許せたんじゃないか、と私は想像している。
でも、数ヶ月前のあの日にA先生があれほど自然に応じてくれていなかったら、
ミュウなりの思いをスタッフに繋ぐことまで私が考えたかどうか、分からない。
もしかしたら、親が受け止めてやって、そこで終わっていたかもしれない。
今日、改めて聞いてみたら、
あの時のことをA先生ははっきり覚えていないらしいのだけれど、
でも、やってくるなりミュウに向かって
「ミュウさん、どうする、家に帰る?」と問うてくれた先生の中には、
やっぱりあの数ヶ月前の出来事は何らかの形で残っていたんじゃないだろうか。
もしかしたら、A先生は最初からそういう人だったのかもしれないし、
あの日だって、そういう人だったから自然に応じてくれたのでもあろうし、
だから私はあの日から、A先生が園にいてくれることを心からありがたいと思っているのだけれど、
同時に、
これほど重い障害があり言葉を持たないミュウが彼女なりに上げたのは
Nothing About Me Without Me(私抜きに私のことを決めないで)という声だったこと、
それは親への堂々たるチャレンジだったのだ……ということを思うと、
その声には、
私たち親はもちろん、ミュウの周りの専門職にも届き、変える力があったということ、
これからも彼女にはそれだけの力があるのだということを、私は信じたいと思う。
そして、そのことを、こうして語っていきたいと思う。
「どうせ何も分からない重症(児)者」と、彼らの現実など知らずに決めつける人たちに向かって
「それは違う」と言い続けるためにも――。
今朝、先生のおかげで家に帰れることになったミュウは
車いすに乗せられて「じゃぁ、先生にありがとう言って帰ろう」と促されると、
ちょっとテレながら、そっと先生を見あげて口を開けた。
A先生はそれに「はい。よかったね。気をつけて」と応えた後で、
「先生も今日で仕事終わりなんだよ」と、ちょぴり嬉しそうに付けくわえていた。
1日遅れになったけれど、
とても素敵な冬休みの始まりとなりました。
明日は例年通り親子3人揃って迎える大みそかです。
皆さんにも平穏な年の瀬が訪れていますように。
2013.01.04 / Top↑
去年のちょうど今ごろ、
ミュウは生まれて初めてのぜんそく発作を起こして、
久しぶりに「今度こそダメかと思ったぁぁ」エピソードを更新した。
ディズニー・オン・アイスに行くことにしていたのだけれど、
酸素マスクにサチュレーション・モニター装着ではどうにもならない。
園に入所している方の中で誰か連れて行ってもらえる人があったら、差し上げてください、と、
スタッフにチケットを託すことにした。
ベッドのミュウは「えーっ!!」と、顔で盛大に抗議したけれど、
「この状態じゃぁ、どうしたって行かれまー。
今年は誰か行かれる人に行ってもろーて、ミュウは来年いこうや。
その代わり、来年は必ずいこうね」というと、
しぶしぶ「ハ」と納得した。
なので、今年は春にチラシを見た時に
すぐさま事務局に「車いす席を!」と勢い込んで電話して、
冷たく「チケットの売り出しはまだ先です」と返されるくらいに、
「今年は行くぞ!」気分満々だった。
無事にチケットを買い、
中休みには、おむつ交換のために
授乳室を使わせてもらえるよう段取りもちゃんとつけた。
そして、先週末にミュウが帰ってきた時に
「いよいよ来週じゃねー。去年いけんかった分、楽しもうぜぇ」と盛り上げたところだったんである。
で、つい3日前のこと――。
「突然、全身にじんましんが出て、顔までむくんでいるので点滴をしたい」と
療育園から電話がかかってきた。「本人はいたって元気なので、ご安心を」とのこと。
電話を受けた父親の談では、ドクターの声の背後で
テレビだかDVDだかに大騒ぎしている娘の歓声が響き渡っていたというから、
まぁ、さほど心配はしなかったけれど、
あっちゃ~。ディズニーがぁぁぁ……。
いやいや、まだ日にちはある。大丈夫。
イヤな予感は、そう考えて宥めた。
……で、今朝。
どうやら、まだ、じんましんは出たり引っ込んだりしているらしい。
むくみのために採血も大変だったという。そうか。まだむくんでいるか……。
帰省はドクターからOKが出そうだけれど、
ディズニーを、どうする……?
間の悪いことに、日曜日には台風の暴風圏に入るとの情報もある。大雨はまず間違いなし。
もしも諦めて、誰か園の入所者の方に行ってもらうとしたら、
明後日のこととて決断を急ぎ、行ける人を当たってもらわなければならない。
私の頭には、
去年のまさにこの時期のぜんそくで
酸欠となり白目を剥いた娘の姿がよみがえっている。
じんましんが収まりきっていない状態で連れて行き、
台風で予測不能な事態もあり得る中、万が一にもぜんそくでも起こしたら……。
やめよう。来年にしよう。
夫婦で話し合って、そう決めた。
園に電話をかけ、
誰か、行ける方があれば行ってもらってください、と当たってもらうよう依頼した。
「家族が連れて行ける人がなかったらチケットは捨てますから」と言ったら、
電話に出た園の幹部は「家族に聞いてみてダメなら、あとは、
こちらから連れて行ってあげるか、ですね」と応えてくれた。
その言葉が嬉しかった。
もしもスタッフが出てくれるのなら(ボランティアになるのかもしれないけど)
日頃あまり外出できない子どもさんを連れて行ってあげてもらえたら、と思った。
よかった。……と、電話を切って、しばし……。
この間ずっと、「なにか」重苦しいものが心に引っかかっていた。
意識の上にはなかなか上ってこないけど、心がザワついてしまう「なにか」――。
……!
ミュウだ!
去年は、命が危ぶまれる状況もあって毎日通っていた。
だから「ディズニー中止」を決めたのもミュウのベッドサイドでのことだった。
スタッフとその話をしながらミュウの抗議を受けて、その場で説明し、ミュウも納得した。
でも、さっき私たちは
ミュウには断りも相談もなく勝手に決めてしまった!!
いかん!!
「今からミュウのところへ話をしに行ってくる。
親が勝手に決めてしもーたけん」
夫にメールを入れ、急ぎパソコンをシャットダウン。
今日の仕事の予定なんぞ、くっそぉ。このさいチャラよ。
夫からも
「たしかに。じゃぁ、ミュウによろしく!」と即座の返信。
そだ。“病人部屋”でテレビを独占させてもらっているなら
「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」DVDの新しいのを持っていってやろう。
そそくさと着替えて、車に飛び乗る。
ちょうど、お昼前でもある。
どうせ行くなら、お昼ごはんに間に合って食べさせてやりたい。
なんだか急いで取り返さなければならない者があるみたいに気持ちがせいて、
コンビニで買ったおむすびをかじりながら園に急ぐ。
着いたら、
看護師さんの介助でもう8割がた食べ終えていたけれど、食欲は旺盛。
足はまだむくんでいるものの、顔のむくみも赤みも引いていた。
あー、えかったぁ。顔見たら安心したぁ~。
いきなり現れた母親に、ミュウは固まっている。
ふっふ、ええもの持ってきたでぇ。ジャーン。
DVDを取り出すと、ミュウはいっそう驚愕の表情で固まる。
(これが喜びの表情だというのは、慣れぬ人にはたいそう分かりにくい)
食事介助を代わって、2人になってから、
おもむろに本題を切り出してみる。
ミュウちゃん、明後日のディズニー、
すっごく残念じゃけど、またまた来年ってことにせん?
ちょっと、この状態じゃぁ、行かれんじゃろーじゃない。
ミュウは気抜けするほど素直に「ハ」と言った。
自分でもこりゃダメだと思っていたのかもしれない。
その代わり、来年こそ絶対に行こうな。「ハ」。
ゴハンの後、ベッドにくっついて寝ころび、
親の方はとっくに見飽きた「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」を見る。
昼下がりの療育園の詰め所奥の部屋は、
親子でそっとしておいてくださる皆さんの心遣いで、
立ち働く職員の方々の声や気配をうっすらと感じつつ、眠くてのどかな時空間。
時々まぶたが閉じそうになっているくせに、
誰かが新たに舞台に登場すると「わ、出たよ、おかあさん」と
イチイチ感動とともに振りむいて知らせてくれるミュウに付き合いながら、
私も時々うとうとする。
コンサートが終わった後、
本格的なお昼寝の体制を整えてやり、
「明日の晩、お父さんと迎えに来るけんね」。
眠気でぼお――としたミュウは、
それでもバイバイの腕を振り上げてみせた。
―――――
自分から求めたつもりは全然ないのに、
いつのまにか気が付いたら、障害者自立生活運動の人たちの世界の
真っただ中みたいなところに、迷い込んでしまっていた。
それ以来、私の頭の中はなんだかわけがわからないまま、
痛くてならないことだらけになった。
一体なんの祟りかと思うほどに
この人たちと出会ってから私は苦しくてならない。
この人たちは重心のことなんか何も知っていなくて分かっていなくて、
知らないし分からない人には自分は分かってないということが分からないのが常だから
そこのところが、なかなか分かってはもらえなくて、通じなくて、
重心の話をしているのに平気で身障の文脈で返されて、否定されて、
別にそんなこと言っていないのに単に運動を批判していると決めつけられて、
だから、この人たちの言うことは私にはイチイチ気にくわないことばっかりで、
その通じなさに一人で悶絶しては「もう知らんわっ!」と何度ブチ切れたか分からない。
でも、この人たちの言葉と出会わなかったら、
私はたぶん「いかん! 勝手に決めてしもた!」と気付くことはなかったと思う。
父親の方だって即座に「たしかに」と返すことはなかったと思う。
だから、今も気に食わないことはいっぱいあるんだけど、
だから、これからも「もう知らん!」と何度も思うのはゼッタイ間違いないのだけれど、
だから、もしかしたら、
自分の心身の安定を守るためにも、他人さまに迷惑をかけないためにも
そろそろ「さようなら」と言う方がよいのでは、という気がしてもいるのだけれど、
でも、出会えたことに、感謝している。
ミュウは生まれて初めてのぜんそく発作を起こして、
久しぶりに「今度こそダメかと思ったぁぁ」エピソードを更新した。
ディズニー・オン・アイスに行くことにしていたのだけれど、
酸素マスクにサチュレーション・モニター装着ではどうにもならない。
園に入所している方の中で誰か連れて行ってもらえる人があったら、差し上げてください、と、
スタッフにチケットを託すことにした。
ベッドのミュウは「えーっ!!」と、顔で盛大に抗議したけれど、
「この状態じゃぁ、どうしたって行かれまー。
今年は誰か行かれる人に行ってもろーて、ミュウは来年いこうや。
その代わり、来年は必ずいこうね」というと、
しぶしぶ「ハ」と納得した。
なので、今年は春にチラシを見た時に
すぐさま事務局に「車いす席を!」と勢い込んで電話して、
冷たく「チケットの売り出しはまだ先です」と返されるくらいに、
「今年は行くぞ!」気分満々だった。
無事にチケットを買い、
中休みには、おむつ交換のために
授乳室を使わせてもらえるよう段取りもちゃんとつけた。
そして、先週末にミュウが帰ってきた時に
「いよいよ来週じゃねー。去年いけんかった分、楽しもうぜぇ」と盛り上げたところだったんである。
で、つい3日前のこと――。
「突然、全身にじんましんが出て、顔までむくんでいるので点滴をしたい」と
療育園から電話がかかってきた。「本人はいたって元気なので、ご安心を」とのこと。
電話を受けた父親の談では、ドクターの声の背後で
テレビだかDVDだかに大騒ぎしている娘の歓声が響き渡っていたというから、
まぁ、さほど心配はしなかったけれど、
あっちゃ~。ディズニーがぁぁぁ……。
いやいや、まだ日にちはある。大丈夫。
イヤな予感は、そう考えて宥めた。
……で、今朝。
どうやら、まだ、じんましんは出たり引っ込んだりしているらしい。
むくみのために採血も大変だったという。そうか。まだむくんでいるか……。
帰省はドクターからOKが出そうだけれど、
ディズニーを、どうする……?
間の悪いことに、日曜日には台風の暴風圏に入るとの情報もある。大雨はまず間違いなし。
もしも諦めて、誰か園の入所者の方に行ってもらうとしたら、
明後日のこととて決断を急ぎ、行ける人を当たってもらわなければならない。
私の頭には、
去年のまさにこの時期のぜんそくで
酸欠となり白目を剥いた娘の姿がよみがえっている。
じんましんが収まりきっていない状態で連れて行き、
台風で予測不能な事態もあり得る中、万が一にもぜんそくでも起こしたら……。
やめよう。来年にしよう。
夫婦で話し合って、そう決めた。
園に電話をかけ、
誰か、行ける方があれば行ってもらってください、と当たってもらうよう依頼した。
「家族が連れて行ける人がなかったらチケットは捨てますから」と言ったら、
電話に出た園の幹部は「家族に聞いてみてダメなら、あとは、
こちらから連れて行ってあげるか、ですね」と応えてくれた。
その言葉が嬉しかった。
もしもスタッフが出てくれるのなら(ボランティアになるのかもしれないけど)
日頃あまり外出できない子どもさんを連れて行ってあげてもらえたら、と思った。
よかった。……と、電話を切って、しばし……。
この間ずっと、「なにか」重苦しいものが心に引っかかっていた。
意識の上にはなかなか上ってこないけど、心がザワついてしまう「なにか」――。
……!
ミュウだ!
去年は、命が危ぶまれる状況もあって毎日通っていた。
だから「ディズニー中止」を決めたのもミュウのベッドサイドでのことだった。
スタッフとその話をしながらミュウの抗議を受けて、その場で説明し、ミュウも納得した。
でも、さっき私たちは
ミュウには断りも相談もなく勝手に決めてしまった!!
いかん!!
「今からミュウのところへ話をしに行ってくる。
親が勝手に決めてしもーたけん」
夫にメールを入れ、急ぎパソコンをシャットダウン。
今日の仕事の予定なんぞ、くっそぉ。このさいチャラよ。
夫からも
「たしかに。じゃぁ、ミュウによろしく!」と即座の返信。
そだ。“病人部屋”でテレビを独占させてもらっているなら
「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」DVDの新しいのを持っていってやろう。
そそくさと着替えて、車に飛び乗る。
ちょうど、お昼前でもある。
どうせ行くなら、お昼ごはんに間に合って食べさせてやりたい。
なんだか急いで取り返さなければならない者があるみたいに気持ちがせいて、
コンビニで買ったおむすびをかじりながら園に急ぐ。
着いたら、
看護師さんの介助でもう8割がた食べ終えていたけれど、食欲は旺盛。
足はまだむくんでいるものの、顔のむくみも赤みも引いていた。
あー、えかったぁ。顔見たら安心したぁ~。
いきなり現れた母親に、ミュウは固まっている。
ふっふ、ええもの持ってきたでぇ。ジャーン。
DVDを取り出すと、ミュウはいっそう驚愕の表情で固まる。
(これが喜びの表情だというのは、慣れぬ人にはたいそう分かりにくい)
食事介助を代わって、2人になってから、
おもむろに本題を切り出してみる。
ミュウちゃん、明後日のディズニー、
すっごく残念じゃけど、またまた来年ってことにせん?
ちょっと、この状態じゃぁ、行かれんじゃろーじゃない。
ミュウは気抜けするほど素直に「ハ」と言った。
自分でもこりゃダメだと思っていたのかもしれない。
その代わり、来年こそ絶対に行こうな。「ハ」。
ゴハンの後、ベッドにくっついて寝ころび、
親の方はとっくに見飽きた「おかあさんといっしょ ファミリーコンサート」を見る。
昼下がりの療育園の詰め所奥の部屋は、
親子でそっとしておいてくださる皆さんの心遣いで、
立ち働く職員の方々の声や気配をうっすらと感じつつ、眠くてのどかな時空間。
時々まぶたが閉じそうになっているくせに、
誰かが新たに舞台に登場すると「わ、出たよ、おかあさん」と
イチイチ感動とともに振りむいて知らせてくれるミュウに付き合いながら、
私も時々うとうとする。
コンサートが終わった後、
本格的なお昼寝の体制を整えてやり、
「明日の晩、お父さんと迎えに来るけんね」。
眠気でぼお――としたミュウは、
それでもバイバイの腕を振り上げてみせた。
―――――
自分から求めたつもりは全然ないのに、
いつのまにか気が付いたら、障害者自立生活運動の人たちの世界の
真っただ中みたいなところに、迷い込んでしまっていた。
それ以来、私の頭の中はなんだかわけがわからないまま、
痛くてならないことだらけになった。
一体なんの祟りかと思うほどに
この人たちと出会ってから私は苦しくてならない。
この人たちは重心のことなんか何も知っていなくて分かっていなくて、
知らないし分からない人には自分は分かってないということが分からないのが常だから
そこのところが、なかなか分かってはもらえなくて、通じなくて、
重心の話をしているのに平気で身障の文脈で返されて、否定されて、
別にそんなこと言っていないのに単に運動を批判していると決めつけられて、
だから、この人たちの言うことは私にはイチイチ気にくわないことばっかりで、
その通じなさに一人で悶絶しては「もう知らんわっ!」と何度ブチ切れたか分からない。
でも、この人たちの言葉と出会わなかったら、
私はたぶん「いかん! 勝手に決めてしもた!」と気付くことはなかったと思う。
父親の方だって即座に「たしかに」と返すことはなかったと思う。
だから、今も気に食わないことはいっぱいあるんだけど、
だから、これからも「もう知らん!」と何度も思うのはゼッタイ間違いないのだけれど、
だから、もしかしたら、
自分の心身の安定を守るためにも、他人さまに迷惑をかけないためにも
そろそろ「さようなら」と言う方がよいのでは、という気がしてもいるのだけれど、
でも、出会えたことに、感謝している。
2012.09.29 / Top↑
(前のエントリーの続きです)
私がこの問題にこだわらないでいられないのは、先に拙著からの引用部分に書いたように
アシュリー事件という窓から私が今という時代の世界のありようを見てきたから。
そこに今という時代の底知れない恐ろしさを感じるから。
70年代は中絶の問題を挟んで
障害者は「女性により殺し殺される関係」を問題とし、
リブは「女性と障害者が殺し殺される関係として対立させられる社会」を問題としたけど、
今度は、
生まれる時と死ぬ時の間の問題(端的に言えば介護の問題)を挟んで、
親と障害当事者は対立させられ、その挙句に殺し殺される関係へと
また追い詰められようとしているんじゃないか、と思う。
在宅介護の重症児・者が親に殺される事件が起こると、
「殺した」「殺された」とツイッターやブログが騒がしくなるけれど、
その時に「殺した」一人の親の背後には、
今この時にも寝たきりの重症児者を家で介護している何千人という親たちがいる。
その多くは既に高齢だ。親の方が要介護の障害者になっていることもあり得る。
(たしか去年奈良で寝たきりの娘を「殺した親」は自身が車いすの障害者だった)
必ずしも支援やサービスの整った都会で暮らしている人ばかりではない。
私には、世の中の動きは「地域移行」という名目で、
そういう暮らし方をする親子をさらに増やしていこうとしているように思えてならない。
「殺した」「殺された」と言っている人たちは、
そういう何千組もの、今この時にもどこかでそうして暮らしている親子が
共に人権を侵害されて日々を暮らしているという事態の方には
なぜ、あまり興味がないのだろう。
今この時に一番苦しみ痛んでいる人の声は社会の表には出てこない。
今この時に苦しみのさなかにいる人は社会に向かって声を上げる余裕も気力もないから。
だから介護の問題で言えば、一番過酷な介護を担っている人の声は私たちには届かない。
そういう人の介護の中に抱え込まれてしまっている、
もともと言葉を持たない重症心身「障害者」の声も、
私たちには届いてこない。
でも、だからといって、
そういう親子が今この時に存在していないわけじゃない。
聞こえてくるのは、なぜ
「親は抱え込むからダメだ」という声(これが何を解決する?)ばかりで、
「親はなぜ抱え込まざるを得なくなるのだろう」と問うてみる声ではないのだろう。
障害者運動の側も「親が一番の敵」と
親だけは個人モデルに置き去りにした捉え方から
「なぜ親が一番の敵にならざるを得ないのか」と
親をも社会モデルに含めた捉え方へと、一歩を踏み出してもらえないだろうか。
そうでなければ、介護の問題を挟んで対立させられているうちに、
親はそれ以外に自分が生きられないところに追い詰められて「殺させられる」だけではなく、
殺したことを称賛されるところまで連れて行かれてしまう。
あのケイ・ギルダーデールのように。
(ギルダーデール事件の詳細は文末にリンク)
「死の自己決定」や「尊厳死」さらに例えば「慈悲殺」といった概念が、
そのツールとして巧妙に利用されていくのだとも思う。
そこでは「自己決定」や「自己選択」という名目で
障害当事者だけでなく親や家族介護者も一緒に「自己責任」の中に廃棄されようとしている。
ギルダーデール事件の時に、
あるME患者さんが書いたように、
「介護者が助けてほしいといっても、その願いは無視されますよ、
でもね、もしも、どうにもできなくなって自殺を手伝うのだったら、
同情をもって迎えてあげますよ」という社会からのメッセージを通じて――。
そのことを、最近ずっと考えている。
考え込んでしまっては、
ミュウを抱いて崖っぷちに追い詰められていくようで、怯えてしまう。
こんなに酷薄な時代だと知りながら、いったい何ができるというのだろう、と
無力感に打ちひしがれ、絶望しそうになる。
森岡先生は、生命学の営みについて、
以下のように書いていた。
……私は何も強制せず、ただ、問いを発し続けるだろう。そうやって、私は、この社会の支配的価値観を担った人々を、世界の一隅から、執拗に揺さぶり続けていくのである。
(p.352)
私には森岡先生やリブの人たちのような「揺さぶ」るほどの力はないけれど、
これまでも殺されてきたし今も殺されている重症障害のある人の一人を娘に持ち、
これまでも殺させられてきたし、今からまさに殺させられようとしている親の一人として、
障害者運動も女からの声、親からの声に一度とり乱してみては、と思うのだから、
例えば、「親は障害児を邪魔だと言って施設に入れたり殺すから敵だ」と言う人は、
その一方で自身の人生では、自分が社会的存在として生きるのに邪魔だから
子育ても年寄りの介護も身近な誰か(例えば背負わせやすい女)に背負わせてきた、
または、状況によっては背負わせる可能性があるのではないか、と
自分をまず問うてみてはどうか? と思うのだから、
そう思うなら、私はそう思うと言うしかないんだな、と
この本を読みながら、思った。
そんなふうに、70年代の米津さんと同じことを
私は私自身の言葉で、呼びかけていくしかないのだな、と思った。
「私はそうして行きたいと思っています」という
米津さんの言葉が、すがしい。
私も、そうして行きたいと思います。
【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)
「Gilderdale事件はダブルスタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
私がこの問題にこだわらないでいられないのは、先に拙著からの引用部分に書いたように
アシュリー事件という窓から私が今という時代の世界のありようを見てきたから。
そこに今という時代の底知れない恐ろしさを感じるから。
70年代は中絶の問題を挟んで
障害者は「女性により殺し殺される関係」を問題とし、
リブは「女性と障害者が殺し殺される関係として対立させられる社会」を問題としたけど、
今度は、
生まれる時と死ぬ時の間の問題(端的に言えば介護の問題)を挟んで、
親と障害当事者は対立させられ、その挙句に殺し殺される関係へと
また追い詰められようとしているんじゃないか、と思う。
在宅介護の重症児・者が親に殺される事件が起こると、
「殺した」「殺された」とツイッターやブログが騒がしくなるけれど、
その時に「殺した」一人の親の背後には、
今この時にも寝たきりの重症児者を家で介護している何千人という親たちがいる。
その多くは既に高齢だ。親の方が要介護の障害者になっていることもあり得る。
(たしか去年奈良で寝たきりの娘を「殺した親」は自身が車いすの障害者だった)
必ずしも支援やサービスの整った都会で暮らしている人ばかりではない。
私には、世の中の動きは「地域移行」という名目で、
そういう暮らし方をする親子をさらに増やしていこうとしているように思えてならない。
「殺した」「殺された」と言っている人たちは、
そういう何千組もの、今この時にもどこかでそうして暮らしている親子が
共に人権を侵害されて日々を暮らしているという事態の方には
なぜ、あまり興味がないのだろう。
今この時に一番苦しみ痛んでいる人の声は社会の表には出てこない。
今この時に苦しみのさなかにいる人は社会に向かって声を上げる余裕も気力もないから。
だから介護の問題で言えば、一番過酷な介護を担っている人の声は私たちには届かない。
そういう人の介護の中に抱え込まれてしまっている、
もともと言葉を持たない重症心身「障害者」の声も、
私たちには届いてこない。
でも、だからといって、
そういう親子が今この時に存在していないわけじゃない。
聞こえてくるのは、なぜ
「親は抱え込むからダメだ」という声(これが何を解決する?)ばかりで、
「親はなぜ抱え込まざるを得なくなるのだろう」と問うてみる声ではないのだろう。
障害者運動の側も「親が一番の敵」と
親だけは個人モデルに置き去りにした捉え方から
「なぜ親が一番の敵にならざるを得ないのか」と
親をも社会モデルに含めた捉え方へと、一歩を踏み出してもらえないだろうか。
そうでなければ、介護の問題を挟んで対立させられているうちに、
親はそれ以外に自分が生きられないところに追い詰められて「殺させられる」だけではなく、
殺したことを称賛されるところまで連れて行かれてしまう。
あのケイ・ギルダーデールのように。
(ギルダーデール事件の詳細は文末にリンク)
「死の自己決定」や「尊厳死」さらに例えば「慈悲殺」といった概念が、
そのツールとして巧妙に利用されていくのだとも思う。
そこでは「自己決定」や「自己選択」という名目で
障害当事者だけでなく親や家族介護者も一緒に「自己責任」の中に廃棄されようとしている。
ギルダーデール事件の時に、
あるME患者さんが書いたように、
「介護者が助けてほしいといっても、その願いは無視されますよ、
でもね、もしも、どうにもできなくなって自殺を手伝うのだったら、
同情をもって迎えてあげますよ」という社会からのメッセージを通じて――。
そのことを、最近ずっと考えている。
考え込んでしまっては、
ミュウを抱いて崖っぷちに追い詰められていくようで、怯えてしまう。
こんなに酷薄な時代だと知りながら、いったい何ができるというのだろう、と
無力感に打ちひしがれ、絶望しそうになる。
森岡先生は、生命学の営みについて、
以下のように書いていた。
……私は何も強制せず、ただ、問いを発し続けるだろう。そうやって、私は、この社会の支配的価値観を担った人々を、世界の一隅から、執拗に揺さぶり続けていくのである。
(p.352)
私には森岡先生やリブの人たちのような「揺さぶ」るほどの力はないけれど、
これまでも殺されてきたし今も殺されている重症障害のある人の一人を娘に持ち、
これまでも殺させられてきたし、今からまさに殺させられようとしている親の一人として、
障害者運動も女からの声、親からの声に一度とり乱してみては、と思うのだから、
例えば、「親は障害児を邪魔だと言って施設に入れたり殺すから敵だ」と言う人は、
その一方で自身の人生では、自分が社会的存在として生きるのに邪魔だから
子育ても年寄りの介護も身近な誰か(例えば背負わせやすい女)に背負わせてきた、
または、状況によっては背負わせる可能性があるのではないか、と
自分をまず問うてみてはどうか? と思うのだから、
そう思うなら、私はそう思うと言うしかないんだな、と
この本を読みながら、思った。
そんなふうに、70年代の米津さんと同じことを
私は私自身の言葉で、呼びかけていくしかないのだな、と思った。
「私はそうして行きたいと思っています」という
米津さんの言葉が、すがしい。
私も、そうして行きたいと思います。
【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)
「Gilderdale事件はダブルスタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
2012.09.29 / Top↑
(前のエントリーからの続きです)
第6章の「障害者と『内なる優生思想』」では、
もう一度青い芝の会とリブとの衝突を振り返りつつ、
内なる優生思想問題が掘り下げられていくのだけれど、
青い芝の会の考え方が簡潔に取りまとめられている個所は、例えば以下。
健全者のエゴイズムは、一般の健常者の心の中にあるだけではない。それは、障害児の世話をしている親の心の中にも存在する。親は、障害児の世話という重い荷物を背中からおろして安心したい、心の平安がほしいと思っている。これこそが、健全者のエゴイズムである。さらに悪いことには、親は、「障害児が死んでしまえば自分が楽になる」という思いを、「障害児が死んでしまうことが障害児にとって幸せになる」とごまかしていくのだ。
障害者は、社会に広く蔓延している「健全者のエゴイズム」と闘わなければならない。それと同時に、そのようなエゴイズムにまみれた親からの「解放」が必要なのである。彼らが自立生活を始めた一つの理由は、親から解放されることだった。
「青い芝の会」は、社会に向かって訴える。なぜあなたたちは、障害者を不幸と決めつけるのか。障害者は生まれてこなかった方が幸せだと言うのか。障害者はこの社会に存在しない方がいいと考えるのか。……
(p.292)
「青い芝の会」のすごさは、
「健全者幻想」がほかならぬ障害者自身の心の中にもあることに気付いたこと。
……彼らは、健全者たちを仮想的にして、彼らを叩きつぶせばいいとする闘いの欺瞞に気づいてしまったのだ。闘うべき敵は目の前の相手だけではない。闘おうとする自分自身の内部にも、敵は潜んでいる。だから、障害者解放運動は、自己との闘いを不可避的に含まざるを得ない。このきわめて「生命学的」な状況から目を逸らさなかったのが、「青い芝の会」の治世の深さだ。そこから目を逸らさなかったがゆえに、彼らは、後にウーマン・リブの女性たちと、深い次元でのやりとりをすることができ、彼女たちの大きなインパクトを与えたのであろう。
(p.299-300)
リブの側からも重要な呼びかけがされている。
米津知子(このまえ福島菊次郎さんの映画で見た人だ)の発言。
確かに殺される側の障害者とそして殺す側の女というのはこの世の中で対立させられていると思うし……(spitzibaraによる中略)……
…… 女が殺したのだと言うところで女が糾弾されると言うのは、一面では正当だけれども、でもやっぱり何故女に障害児殺しをさせたのだと言うところで権力に対する恨みとして怒りとしてそれを向けていってほしいと言う気がします。私はそうして行きたいと思っています。
(p.308)
こうしたリブからの応答について、
森岡先生は以下のように書く。
障害者と女性の対立というのは、権力によって仕掛けられた図式であり、表面上の対立を超えて両者は共闘できるという考え方が、ここにあらわれている。
(p.309)
……すなわち、女性と障害者は権力によって対立させられているのであるから、われわれは、われわれをそのような対立に追い込もうとする権力に対して、共に闘わなければならないという「女性と障害者の共闘パラダイム」が成立したのである。
(p.309)
でも、私はこのパラダイムは本当は成立していない、と思う。
なぜなら、
70年代に、
「障害理由での中絶は女性の権利の中でどうなんだ?」という障害者運動からの問いを
リブは正面から受け止め、少なくとも応えようとその痛みを引き受け考えた、
(解決は今だにしていないとしても)と思うのだけれど、
「母親は殺すんじゃない、殺させられているんだ」というリブからの問い返しを
70年代にも障害者運動は受け止めなかったし、今だに受け止めていないのでは?
実は、この疑問こそが、
この本をどうしても読みたいと私が思った理由だった。
ものすごく僭越なのかもしれないけれど、
「アシュリー事件」で以下のように書いた時、
私は米津さんと同じことを呼び掛けたのだと思う。
(これを書いた時の私は、優生保護法改悪反対運動についても、
そこでのリブと障害者運動の対立についても米津知子についても何も知らなかった。
田中美津も名前くらいしか知らなかったけど)
……「親が一番の敵」とは、本当に、逃れようもなくズバリと真実を突いた言葉だ。親はその真実にまず気付かなければならないのだと思う。抑圧する者としての自分を自覚しているべきなのだろうと思う。一方、「親が一番の敵」だという指摘が真実だというのは、「親が敵になってしまう一面が確かにある」ということであって、「全面的に敵だ」ということでも「敵でしかない」ということでもないはずだ。「親が一番の敵だ」と対立的なところから責めて終わるのではなく「親が一番の敵にならざるを得ない社会」にも目を転じることによって、親とも共に考え闘う障害学や障害者運動というものはありえないだろうか。そんなおずおずとした問いかけをしてみないでいられなかった。
アシュリーの父親やディクマらが描いて見せる「親の愛」vs「障害者運動のイデオロギー」という対立の構図を乗り越えていく方策がどこかにあるとしたら、そこから探し始めることができるのではないか。そして、実はそれは非常に切迫した急務ではないのか……。
拙著「アシュリー事件」(p.253-254)
でも、この呼びかけは
障害者運動からは「障害者運動を批判した」と受け止められて、
「だから障害者は自立生活を目指したんじゃないか」と返されてしまう。
そこに、私が感じるのは、
障害者運動という運動がもつ男性性に対するやりきれなさ、とでも言ったもの。
それは例えば、
重症重複障害のある子どもの親としての立場で
「ピーター・シンガーには重症児・者の現実が見えていない」と言っているのに対して、
「おまえにはシンガーが分かっていない」と学者から返されてしまうことに感じる
やりきれなさと、とても似ている。
じゃぁ、私がシンガーの本をもっと読み、シンガーを正しく理解すれば
シンガーに重症児・者の現実が見えるようになる、というのだろうか、というような。
それは単に「もっと勉強して出直してこい」と聞く耳もたず
高いところから門前払いを食らわせているだけではないのか、というような。
そんな中で悶々としながら頭の中でグルグルしてきたことが
「アシュリー事件」の後で田中美津と出会い、それからこの本を読んで
やっと、くっきりとした言葉になってきた気がする。
それが先の疑問。
障害者運動はリブに問題提起をしたけれど、
女性の側からの問い返しと共闘の呼び掛けには、いまだ応えていないのではないか――。
(次のエントリーに続く)
第6章の「障害者と『内なる優生思想』」では、
もう一度青い芝の会とリブとの衝突を振り返りつつ、
内なる優生思想問題が掘り下げられていくのだけれど、
青い芝の会の考え方が簡潔に取りまとめられている個所は、例えば以下。
健全者のエゴイズムは、一般の健常者の心の中にあるだけではない。それは、障害児の世話をしている親の心の中にも存在する。親は、障害児の世話という重い荷物を背中からおろして安心したい、心の平安がほしいと思っている。これこそが、健全者のエゴイズムである。さらに悪いことには、親は、「障害児が死んでしまえば自分が楽になる」という思いを、「障害児が死んでしまうことが障害児にとって幸せになる」とごまかしていくのだ。
障害者は、社会に広く蔓延している「健全者のエゴイズム」と闘わなければならない。それと同時に、そのようなエゴイズムにまみれた親からの「解放」が必要なのである。彼らが自立生活を始めた一つの理由は、親から解放されることだった。
「青い芝の会」は、社会に向かって訴える。なぜあなたたちは、障害者を不幸と決めつけるのか。障害者は生まれてこなかった方が幸せだと言うのか。障害者はこの社会に存在しない方がいいと考えるのか。……
(p.292)
「青い芝の会」のすごさは、
「健全者幻想」がほかならぬ障害者自身の心の中にもあることに気付いたこと。
……彼らは、健全者たちを仮想的にして、彼らを叩きつぶせばいいとする闘いの欺瞞に気づいてしまったのだ。闘うべき敵は目の前の相手だけではない。闘おうとする自分自身の内部にも、敵は潜んでいる。だから、障害者解放運動は、自己との闘いを不可避的に含まざるを得ない。このきわめて「生命学的」な状況から目を逸らさなかったのが、「青い芝の会」の治世の深さだ。そこから目を逸らさなかったがゆえに、彼らは、後にウーマン・リブの女性たちと、深い次元でのやりとりをすることができ、彼女たちの大きなインパクトを与えたのであろう。
(p.299-300)
リブの側からも重要な呼びかけがされている。
米津知子(このまえ福島菊次郎さんの映画で見た人だ)の発言。
確かに殺される側の障害者とそして殺す側の女というのはこの世の中で対立させられていると思うし……(spitzibaraによる中略)……
…… 女が殺したのだと言うところで女が糾弾されると言うのは、一面では正当だけれども、でもやっぱり何故女に障害児殺しをさせたのだと言うところで権力に対する恨みとして怒りとしてそれを向けていってほしいと言う気がします。私はそうして行きたいと思っています。
(p.308)
こうしたリブからの応答について、
森岡先生は以下のように書く。
障害者と女性の対立というのは、権力によって仕掛けられた図式であり、表面上の対立を超えて両者は共闘できるという考え方が、ここにあらわれている。
(p.309)
……すなわち、女性と障害者は権力によって対立させられているのであるから、われわれは、われわれをそのような対立に追い込もうとする権力に対して、共に闘わなければならないという「女性と障害者の共闘パラダイム」が成立したのである。
(p.309)
でも、私はこのパラダイムは本当は成立していない、と思う。
なぜなら、
70年代に、
「障害理由での中絶は女性の権利の中でどうなんだ?」という障害者運動からの問いを
リブは正面から受け止め、少なくとも応えようとその痛みを引き受け考えた、
(解決は今だにしていないとしても)と思うのだけれど、
「母親は殺すんじゃない、殺させられているんだ」というリブからの問い返しを
70年代にも障害者運動は受け止めなかったし、今だに受け止めていないのでは?
実は、この疑問こそが、
この本をどうしても読みたいと私が思った理由だった。
ものすごく僭越なのかもしれないけれど、
「アシュリー事件」で以下のように書いた時、
私は米津さんと同じことを呼び掛けたのだと思う。
(これを書いた時の私は、優生保護法改悪反対運動についても、
そこでのリブと障害者運動の対立についても米津知子についても何も知らなかった。
田中美津も名前くらいしか知らなかったけど)
……「親が一番の敵」とは、本当に、逃れようもなくズバリと真実を突いた言葉だ。親はその真実にまず気付かなければならないのだと思う。抑圧する者としての自分を自覚しているべきなのだろうと思う。一方、「親が一番の敵」だという指摘が真実だというのは、「親が敵になってしまう一面が確かにある」ということであって、「全面的に敵だ」ということでも「敵でしかない」ということでもないはずだ。「親が一番の敵だ」と対立的なところから責めて終わるのではなく「親が一番の敵にならざるを得ない社会」にも目を転じることによって、親とも共に考え闘う障害学や障害者運動というものはありえないだろうか。そんなおずおずとした問いかけをしてみないでいられなかった。
アシュリーの父親やディクマらが描いて見せる「親の愛」vs「障害者運動のイデオロギー」という対立の構図を乗り越えていく方策がどこかにあるとしたら、そこから探し始めることができるのではないか。そして、実はそれは非常に切迫した急務ではないのか……。
拙著「アシュリー事件」(p.253-254)
でも、この呼びかけは
障害者運動からは「障害者運動を批判した」と受け止められて、
「だから障害者は自立生活を目指したんじゃないか」と返されてしまう。
そこに、私が感じるのは、
障害者運動という運動がもつ男性性に対するやりきれなさ、とでも言ったもの。
それは例えば、
重症重複障害のある子どもの親としての立場で
「ピーター・シンガーには重症児・者の現実が見えていない」と言っているのに対して、
「おまえにはシンガーが分かっていない」と学者から返されてしまうことに感じる
やりきれなさと、とても似ている。
じゃぁ、私がシンガーの本をもっと読み、シンガーを正しく理解すれば
シンガーに重症児・者の現実が見えるようになる、というのだろうか、というような。
それは単に「もっと勉強して出直してこい」と聞く耳もたず
高いところから門前払いを食らわせているだけではないのか、というような。
そんな中で悶々としながら頭の中でグルグルしてきたことが
「アシュリー事件」の後で田中美津と出会い、それからこの本を読んで
やっと、くっきりとした言葉になってきた気がする。
それが先の疑問。
障害者運動はリブに問題提起をしたけれど、
女性の側からの問い返しと共闘の呼び掛けには、いまだ応えていないのではないか――。
(次のエントリーに続く)
2012.09.29 / Top↑