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People誌の電子版にMcCain, Palin両夫妻へのインタビューがあり、
今年の4月に生まれた次男のTrig君のダウン症についても
Palin知事に質問されています。

Q:妊娠13週の去年12月に羊水穿刺を受け、Trig(夫妻の5人目の子ども)がダウン症だと判明しましたね。

A:あの何ヶ月か準備期間を持てたことに感謝しています。最後の最後に(子どもの障害に)びっくりするお母さんたちのことは想像もできません。私よりも、もっとずっと辛いと思います。

う~ん。このニュアンス、ちょっと微妙に受け止めが難しい……。



それからこの記事に掲載の2夫妻おそろいの写真。




別にもう一枚、両家族揃った写真もあるのですが
(Palin家の長男はイラクへの派兵を前に欠席)

それだけに夫婦だけでいいはずの写真に
わざわざTrig君を抱いて写る──。

まぁ、政治家なんだから、あざといのは織り込み済みといってしまえばそうなのですが。

こういう人が副大統領になるということは、
もしかしたら案外、世論誘導がされやすいということなのかも……。

----- -----

これも、People Magazine なんだから、といってしまえばそうなのですが、

ついでに言うと、記事のタイトルは「McCainとPalinでガラスの天井を打ち破ろうと」で、

Palin氏も副大統領候補の発表の際のスピーチで
「ヒラリーはガラスの天井にヒビを入れたけど、アメリカの女性はまだ終わっていない」と
女性であることを鮮明にウリにしているわけですが、

そういうタイトルのインタビューの中に、

「5人の子どもの母親が副大統領になったら家庭がおろそかになるのでは、という声に対しては?」
「副大統領という仕事と家庭をどうやって両立されられますか」
「ご主人が無期限に仕事を休んで、Mr.Mom をやられるわけですね」

などという質問がしつこく紛れ込んでいることそのものが「ガラスの天井」なのでは――?
2008.08.31 / Top↑
今朝のニュースでMcCain氏の副大統領候補がアラスカ州の女性知事だと知り、
その顔と名前に、記憶のどこかで微かに呼応するものがあるような気がしたので、
お粗末なことながら自分のブログ記事を遡ってみたら、
やっぱり5月に取り上げていました。

(ついこの前の5月に自分で書いた記事を
どういう内容だったか、まるで思い出せないまま探すなんて……ショックだ……。)



妊娠中におなかの子どもがダウン症だとわかったけれども、
きちんとダウン症についての事実を自分で納得するまで調べて
「産む」という選択をした人。

4月にその子を産んだばかりの、なんと5人の母ですが、
石油会社と真っ向対決で増税したという豪腕でもあり。

こういう人が副大統領になったら、
共和党でもいろんなことが変わるんだろうか……?
2008.08.30 / Top↑
ハマス関係者の捜索途中に警察が偶然見つけたのは、
鉄格子のドアの向こうにあるコンクリートむき出しの部屋に
閉じ込められた知的障害男性(38)と女性(42)の姉弟。

男性は裸で、女性は簡素な衣服のみをまとい、
排泄物の匂いが強烈に立ち込める部屋に
幼児期からずっと閉じ込められていたとのこと。

母親は既に死んでおり、父親を逮捕。
しかし、他に行き場もないため
父親の後妻が世話をするといっている自宅に戻された。
とりあえずは身奇麗にしてもらい、部屋も片付けられたようだが
警察ではイスラエルの施設に引き取ってもらえれば、と言っている。

家族の伝統を重んじるアラブの文化では
障害の発生率が上がるとされる、いとこ同士の結婚がよく行われている一方で
障害児・者にはスティグマが強く、家族に障害者がいると結婚が難しくなる。

去年は17才の知的障害のある少年がゴミ箱に棄てられる事件もあった。
少年のおなかや首や手足に明らかに縛られていたとわかる傷が。

今回発見された姉弟の叔父は
「介護の術がなく、障害者がいるのは家族の恥になるから閉じ込めた」と。

「それに、外に出ていけば、本人たちだって嘲られるじゃないか」とも。

2008.08.30 / Top↑
前回のエントリーで
親が人間というものを信頼するところからしか
子の世界も親の世界も、子の可能性も親の視野も広がらない……と、
ずいぶんエラソーなことを書いた。

重症児だから家族とだけの小さな世界で生涯を終えるのが幸せだとする
”Ashley療法”の背景にある思い込みは間違っているということを
何よりも言いたかったのだけど、

重い障害を持った子どもの親が人間を信じるということは、本当はとても難しい。
それは私自身にとっても、実はとても難しい。

自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

障害のある子どもの親になるということは、
生涯、目の前にこの究極的な問いを突きつけられているということなんじゃないか……と考えることがある。


私たち親子は、それなりに幸運な専門家との出会いにも恵まれて、
今の私は一定のところまで娘を他人に託すことができる。
その程度にまでは人間を総体として信頼できているのだと思う。
そして、そのことは娘にもプラスに働いていると思う。

「お母さん、ミュウはもう1人で生きていけるだけ成長しているよ」と
長い付き合いの看護師さんが言ってくれたのは、もう何年も前のことだ。

親が親として、ここにこうして存在していてやれて
定期的に娘の愛情タンクをいっぱいにしてやれる限りにおいて、
私たち夫婦も娘はそこまで成長してくれたと考えている。

でも、そこに「でも……」がくっつかないわけではない。

もちろん、今の信頼はある長いプロセスを経て少しずつ築かれてきたものなのだけれど、
それでもなお時に大きく揺らいでしまうこともあれば、
裏切られた思いで親も子も傷つかなければならない経験だってないわけじゃない。


自分は総体としての人間をどこまで信じることが出来るのか──。

自分の老いを意識するようになってから
この問いを切実なものとして自問してみることが増えてきた。

それは畢竟、

自分はこの人間の世の中に娘を託して死んでいくことが出来るか。
総体としての人間を信頼して、娘を残して死んでいく勇気が自分にあるか──

という問いなのだと思う。


自分が直接世話をできる能力を失ったとしても、せめて何かがあった時に駆けつけたり、
最後の砦として、親として、ただそこに存在してやることすら出来なくなる時に、
それでもこんなにも非力な我が子を「よろしく」と託すことができるだけ
自分は人間というものを総体として信じられるのかどうか──。

障害のある子どもを持った親が問題意識を持ってものを考えたり、
社会に向けてメッセージを発したり、さまざまな社会活動をしたり、
なんらかの行動をしないではいられないのは、
もしかしたら、この問いへの答えを自分自身の人生を通して
探し続けているんじゃないだろうか。

そして自分自身の人生が終わりに近づいてきたことを実感する時に、
この問いにYESと答えることができる人だけが
子どもを残して死んでいくことが出来る。

YESと答えられない人が子どもを連れていくんじゃないだろうか。


今の私には、まだ答えが出せていません。

ただ、今のところ、
心のどこかに信じたいと願っている自分がいるんだろうな、とおぼろに感じています。

だから自分はいつもこうして言葉を探しているのだと思うし
私に何が出来るというわけでもないのに
Ashley事件に見られる重症児への誤解や無理解を見過ごしておけないのも、
それをきっかけに英米のニュースを読んでは心に点滅する危機感の赤ランプを
こうしてブログで発信しないではいられないのも、
基本的には人間というものを信じていて、
娘のためにもこの先も信じたいと願っているからじゃないかなぁ、という気がするから。


障害のある子どもの親たちは、きっと
自分の生涯を通じて、それぞれ自分にできるやりかたで答えを探している。

みんな、NO と答えたくて探しているわけじゃない。

1人でも多くの親がYESと答えて、子どもを托し、安んじて死んでいける世の中であって欲しい。
2008.08.29 / Top↑
去年2月の末、ちょうど“Ashley療法”論争もそろそろ静かになりかけた頃
大阪に野暮用があって夫婦で旅行をした。

その際、時間調整の必要があって、
海遊館近くの天保山マーケットに寄った。
「ミュウが5年前に来たところだね」
「そういえば、ここで買ったライターがお土産だった」
などと話しながら、初めて訪れるマーケットに入った。

娘の養護学校中学部の修学旅行の行き先はUSJと海遊館だった。
オフィシャルホテルを奮発したので予算が足りなくなって、夕食は天保山マーケット。
旅行前の説明会で先生方は気の毒そうな口調だったけど、

帰ってきた時、写真に写っていたのは
ジャンクフードを前に眼を輝かせる子どもたちの笑顔だった。
そしてホテルで「枕投げ」の代わりに先生の髪の毛を引っ張って遊ぶ写真は
「ウヒヒヒッ」というカメラ目線の、ウチの娘だった。

「あの子たちが食べたのはこの店かね、それともここだったかね」などと話題にしながら、
私たち夫婦はショッピングや食事で時間をつぶした。

そして夕方になって外に出たら、マーケット前の広場はちょうど、
暮れていく町に木々のライトアップが幻想的な陰影を投げかけるマジックアワーだった。

キラキラした海の底のような広場を横切り始めた時、ふいに
向こうの横断歩道を渡ってくる娘の姿が見えた。

赤い車椅子を押しているのは中学時代の担任。
娘はキャピキャピの笑顔で先生を振り仰ぎながら、
同じような車椅子の子どもたちと一群れになって渡ってくる。
オウ、オウと、はしゃいだ声まで聞こえてくるかのように
その姿は私の眼にくっきりと見えた。

あの子は、ここに来たんだ──
クラスメートや先生方と一緒に、この広場を歩いていったんだ──

そう考えると、まるで今ここで5年前の娘たちとすれ違ったかのようで、
思わず振り返って、マーケットに入っていく5年前のみんなの後姿を見送った。

お父さんもお母さんも来たことがなかった、この場所に、
そうかぁ、ミウの方が先に足跡を残してたかぁ……そっかぁ……

私にとってそれは、眼からウロコのような、ものすごく大きな発見だった。
ものすごく嬉しい発見だった。

考えてみれば、娘は小学部、中学部、高等部と3回も、親とは別の旅行を経験している。

もちろん、それを事実として知らなかったわけじゃない。
だけど、天保山のマジックアワーが見せてくれたものは、

先生や友達との旅の思い出が、こんなに重い障害のあるウチの娘にもあるということ、
それはみんな、親との旅行では決して取って代ることのできない種類の思い出なのだということのリアリティ。


急になつかしく特別な場所に思え始めた天保山マーケットの広場を歩いていきながら、
1月からずっと頭を離れないAshleyのことを、また考えた。

寝たきりのAshleyの課題である「退屈」は、
ホルモンで成長を抑制して、いつまでも家族行事に参加できれば解消する。
だって乳児並の知的レベルのAshleyに必要なのは家族という小さな世界──

違う。そうじゃない。
Ashleyに必要なのは、きっと
まず親が、我が子の持っている力を含めて、人間というものをもっと信頼すること。

親が他人を信頼して、娘をまずはちょっと託してみること。
そこからしか、子の世界も親の世界も決して広がりはしない。
子ども自身の可能性も、親の視野だって、そこからしか広がっていかないのだから。
2008.08.29 / Top↑
前々回のエントリーゲイツ氏、今度は世界の外交施策にも口を出すつもり?で紹介したように、

Gates財団はこれまでに
外交問題評議会(2003)とJohns Hopkins 大学(2006)、Washington大(2007)に
巨額の資金援助を行って医療・外交関連の研究助成プログラムや研究所を創設してきていますが、

上記エントリーで同じく取り上げた論文末尾の参考文献の中に
それらとはまた別の、Gates財団出資のグローバル・ヘルス関連プログラムを見つけました。


Gates財団が2003年に4億5000万ドルを投じて作った研究助成プログラムで
米国国立衛生研究所やカナダの衛生研究所とも連携しているようです。
特に貧困国の保健医療問題の解決に向け、
ワクチン開発、害虫駆除、栄養改善など14の課題を設定して
それらの改善に意欲的な研究に助成するもの。

2007年10月には
さらに1億ドルを投じて、そのプログラムを拡大・刷新。

その際のプレスリリースはこちら (October 9, 2007)

そして、このGrand Challenges in Global Healthの中に
ワシントン大学IHMEの所長であるChristopher Murrayが筆頭研究者を務めるプロジェクトもあります。


こちらは貧困国の人々の保健医療に関するデータを収集し
科学的エビデンスに基づいて標準化できる分析方法を見つけ出すのが目的。

このプロジェクトでは
インドで2箇所、フィリピンとタンザニアで1箇所ずつ
データ収集のためのフィールドスタディに向けて計画が進行中だとのこと。
当たり前のことですが、それぞれ現地の研究機関が協力しています。

       ――――――――――

1つずつのプロジェクトがおかしいと思うわけじゃない。
きっと、いずれも大きな意味のある研究なのだろうとは思う。

ただ、こうして世界中の研究機関にGates財団のお金がどれほど流れているのだろうと、
想像すらつかないなりに思いを巡らせてみた時に、どうしても考えてしまうのは、

Johns Hopkins 大学のGlobal Health and Foreign Policy Initiativeのサイトに書かれていた
ゲイツ財団からの寛大な資金提供をいただいたお陰で」という文言──。

あれと同じような文言が世界中のどれほど多くの
科学・医療その他の研究機関のHPに書かれているのだろう。

そういうHPを持つ研究機関では、
本当に研究機関としての独立性が守れるものなんだろうか。

財団とはいえ一組の夫婦の持つ莫大な資金が、夫婦の価値観をその上に乗せて
世界中の科学・医学・政治研究を動かしていくということは、
仮にそれが善意からであったとしても、危ういことではないんだろうか。

Ashleyの父親が思いついた“Ashley療法”を
トランスヒューマニスティックな価値観を持つと思われる彼自身は
徹頭徹尾、本当にAshley本人のためだと信じ込んでいるように。

そして病院がshley父の求めを拒まなかったのは、もしかしたら
彼がMicrosoftの役員であるために働いた政治的配慮だったかもしれないように。
2008.08.28 / Top↑
日本で後期高齢者医療制度と一緒に始まったメタボ検診については、
なにかと批判の声も上がっているところみたいですが、

“お上”がそこまで個人の生活に口を出すかよ……などと文句を言われながらも
口を出さずにいられない“お上”の事情としては、なるほど、要はこれか……という調査結果が
the Journal of the American Geriatrics Societyの8月号に
英国の Peninsula Medical Schoolによって発表されていて

それを報じたニュースがこちら。

高齢期の肥満は障害リスクを高めるものの死亡リスクは高めない
したがって医療・福祉制度にとっては「すでにスイッチが入った時限爆弾」


4000人の高齢者をBMIによって4つのグループに分けて5年間追跡したところ、
肥満と死亡との関係が見られたのは最も肥満しているグループのみで、
他のグループではむしろ移動や日常生活の困難との相関が顕著だった。

若者や中年層での肥満で死亡率が高くなることから、
これまでは、そのデータがそのまま高齢者にも当てはめられてきたが
高齢者の肥満は死に至るよりもむしろ障害を負うリスクを高めると考えた方がよい。

ということは、高齢者の中に肥満が広がりつつある現在、
医療と福祉の制度は将来爆発する時限爆弾を抱えてしまったようなものであり、
既に爆弾の時計はチクタクいっている……。

         ―――――――――

つまり、これは、もしかして、

いっそ肥満で死んでくれるんだったら、
“お上”も、まだ肥満を黙って見逃してくれるってことなのか?

死なずに要介護状態に陥られるとゼニがかかって困るから
「やせろ~、ほら、やせるんだ~」と号令をかけているというわけで。

実はそれがホンネだというのは、日本でも、ネットで読む限り英米でも
そこはかとなくニュースに漂う空気でみんな察知してもいるのだろうけれど、

こういうのを読むといつも不思議でならないのは、
医療や福祉が破綻するから、さっさと死んでくれた方がいいというのがホンネなら、

どうしてその一方で
不老不死に向けた研究に膨大なゼニを投入して血道をあげているのかということ。


 ---          ---        ---

昨日、NHKの「クローズアップ現代」の特集で
世界経済にパラダイム・シフトが起こった、もう元には戻らない……という話を聞いた。
その直後に、番組とは全然関係ない以下のブログを見かけたところ、
頭の中でこの2つが連結した。


番組では誰もそうは言わなかったけど
もう起こってしまったという、その世界の経済構造のパラダイム・シフトというのは、
こんな気色の悪い街づくりに狂騒している人たちが世界経済の主役であり、
彼らのニーズに応じて各国の産業構造や経済政策を変えていくしかない時代が到来してしまった、
(もうこれからは国家や政府は当てにできない?)ということなんですよね、きっと。

ということは、もしかしたら

「湯水のごとくに研究費・医療費を使って
150歳までぴんぴんして長生きを目指す」対象に入れる人たちと
(詳細は「トランスヒューマニズム」の書庫に)

「ああ、あんたたちの方はもともと生産性が低いんだから
その生産性までなくなったら、さっさと死んでいいよ。
要介護状態なんてジャマくさいことになったら、悪いけど死んでもらうから」と
冷たく言い渡されてしまう人たちとに、

世界人口そのものが国籍や人種を越えてそのうち新しく分類されてしまう──
今の障害児・者切り捨ての動きはそのトバ口に過ぎない──

そういうパラダイム・シフトも同時に起こりつつあるということなのでは?

だって、ほら、世界の保健医療施策研究を既に私物化したとも見えるゲイツ財団
世界の医療にもコストパフォーマンスとアカウンタビリティ、
しかも、もう政府の出る幕じゃないって言っているのだし。
2008.08.27 / Top↑
Washington大学のIHMEについては
Ashley事件の背景として重要と思われる同大学とGates財団の関係を追いかけているうちに
Gates財団の私設研究機関に等しいと思われるこの研究所に行き着いたものだから、
IHMEについてあれこれ覗いてみたら、なんとも驚くことに
コスト・パフォーマンスの市場原理でもって世界の保健医療施策をチェックし改変していこうと
ものすごい野望を抱えた研究機関だった。

そしてWHOを始め各国の保健衛生の要人が理事に居並んでいるのだから
これはリアルに怖い話でもあるのですが、

(詳細は「ゲイツ財団とUW・IHME」の書庫に)

そのIHMEが4月にBritish Medical Journalに発表した論文が
一部メディアで話題になりました。

世界の戦争死のデータを洗いなおしてみたら、
戦争による死者の実数はこれまで言われてきた3倍に達している、という内容。

統計だらけで私には到底読めませんが、元論文はこちら
(もっとも一部データは推論に過ぎないという批判も出ているようです。)


春にこの論文に関するニュースを見た時には
IHMEの意図との関係において、この内容をどう解釈すればいいのか
よく分からなかったのですが、

ここへきて、上記論文関連でちょっと面白い記事が目に付きました。
ゲイツにとっては、世界の医療は外交施策を動かさなくちゃ」というタイトルの記事。

For Gates, global health should drive foreign policy
Robert Fortner
Crosscut, August 22, 2008


何よりこの記事が面白いと感じるのは
これを書いたRobert Fortnerという人が元マイクロソフトの社員で
Bill Gates と Paul Allen が研究にかける熱意について
もっか本を執筆中の人物だということ。

従って、全文、Gates氏寄りの視点から書かれており、
無批判なので、それだけホンネが不用意に露呈されているらしいところ。

確かに戦闘テクノロジーの進歩によって
戦闘現場で激しい死に方をする兵士は減っているのだけれど、
その周辺で、巻き込まれる一般市民の死や、
戦争が引き起こす病気や飢餓による死者の数までカウントすると
戦争死の数は決して減ってはいないというのが上記IHMEの論文の調査結果であり、
従ってグローバル・ヘルスの観点から言って戦争は得策ではないというのが
その論文の主張のようです。

それだけなら、たいしたことない話ですが、
そこで、Fortner氏はこれまでのGates財団のこの方面での努力をたどって見せるのです。
こっちの話が、なかなかすごい。

2003年には外交問題評議会(Council on Foreign Relationsに資金を提供して
Global Health and Foreign Policy Fellow という研究助成制度を創設。

初めてその助成金を受けたのはジャーナリストで
AIDSの流行は国家の安全保障に関わるという論文をまとめて
当時、予防に軸足を移そうとしていた世界のAIDS施策に対して、
ワクチン研究を中心にすえた施策続行の重要性を訴えた、とのこと。
(ワクチンによる集団的な医療活動collective actionは
ゲイツ氏が考える最も効率的な世界保健施策なのだし。)

2006年にはJohns Hopkins Universityにthe Global Health and Foreign Policy Initiativeを設立。

そのHPによると「ゲイツ財団からの気前の良い資金提供を受けて」
「医療と政治・経済・安全保障とを繋ぐ」研究をするべく設立されたとのこと。

で、2007年には冒頭で触れたワシントン大学のIHMEを創設。
この記事はIHMEについて次のように、あられもない書き方をしています。

IHMEは
エビデンスに基づいた施策とアカウンタビリティを追求するGates財団の姿勢を代表するもので、

現に効果を見せているのはどの施策であり、
(世界中の人々の)死因はなんなのか(何の、または誰の責任で死んでいるのか)を
見極めようとするものである。

ワシントン大学の研究機関であるIHMEは
やはりゲイツ財団の私設研究所だというホンネがここにはボロッとこぼれていますね。

で、その財団の私設研究所IHMEは2010年までに
世界中の保健医療施策の“通知表”を作成してくださるのだそうで。

さらに、この記事によると、
ここ最近にGates夫妻があちこちでしゃべっていることの要点は
「もう世界の保健医療をどうにかするのは国家レベルでは無理。
 食糧も医療も教育も得られないでいる貧しい人を助けることが出来るのは
もはや非営利セクターのみ」
ということのようなのですが、
この「非営利セクター」って、その辺のNPOのことではなくて、
ひとえにGates財団のことを指して言っているわけでしょうね。もちろん。

……ということは、
「もう国家だの政府だのはすっこんで、
世界の保健医療施策はゲイツ財団に任せなさい。
ついでに言わせてもらうと、
効率的な保健医療施策を有効に打つためには
我々は外交にも口を出させてもらいますよ」って?

確かに、この記事を読んでいると、
FortnerはGates氏を既に「世界の帝王」として位置づけており、
「帝王様」はかしこくもこのように考えておられる……みたいなトーンでもあり……。
2008.08.27 / Top↑
去年1月の“Ashley療法”論争の際に
世界の障害者団体や当事者、支援者らに連帯を呼びかけたブログがありました。
(日本では当時、筑波大の名川勝先生のブログで紹介されました。)

そのDISABLED SOAPBOXというブログを時々覗いてみているのですが、
管理者のSusanという人は
中学生の時にボランティアをやって以来の障害者アドボケイトだという筋金入りとあって、
今回のTropic Thunder の問題でも
Thunder ボイコットのデモをおこなっています。
しかも、参加者がほとんどいなくて、
障害のある夫など身内と仲間総勢5人でという勇気あるデモ。

その時のことを書いたエントリーが、
障害者に対するネガティブな世間の反応ばかりに目が向いて悲観的になりがちな心を
ほっと暖めてくれるものだったので。

Essentially No Turn-Out
DISABLED SOAPBOX IDEAAS ABOUT LIVING LIFE WELL, August 14, 2008


デモをやっている間に2度警官がやってきて
「どういう理由でのボイコットか」と聞かれたが
理由を話すと親指を立てて賛意を示してくれた。

この映画を見ようと考えていた人の中にも「やめた」といってくれる人たちがいた。

通りかかった車から応援のクラクションが鳴ったり、
親指を立てて見せてくれた人もいた。


そう──。
インターネットの世界を通してものを見ていると、
例えば日本だと2チャンネルの空気が世論みたいに思えてしまって
背筋が冷えたり、時に生きていく元気までなくしそうになったりすることもあるけど、

新聞に投書するわけでも
ネットに書き込みをするわけでもなくても、
差別される人の痛みを思いやることのできる人
人としての良識を失っていない人が
きっと世の中にはまだまだ沢山いる──。




その他、「切り捨てられていく障害児・者」の書庫に。
2008.08.26 / Top↑
DreamWorks 製作のハリウッド映画 Tropic Thunderの
retard など知的障害者への差別用語使用の問題を
当初からブログで熱心に取り上げていたPatricia E. Bauerさん
自身でWashington Postに批判記事を書いています。

Bauerさんはダウン症の娘がある元WP紙の記者で、
それだけに問題意識が鋭くてブログの情報も広く速く、
私もいつも勉強させてもらっています。

この記事でも触れられていますが、
Thunderについては彼女のブログが批判に火をつけたようなものでした。

強く深い思いを込めて書かれた記事です。

A Movie, a Word and My Family’s Battle
By Patricia E. Bauer
The Washington Post, August 17, 2008

個別障害者教育法(IDEA)や障害者法(ADA)ができてなお、
充分な支援を受けることができないでいる
米国の障害者の現状を統計で描き出し、
そこに加えて世の中のネガティブな姿勢も手伝って、
障害当事者も家族もどんなに大変な思いをしているかを訴え、

そうした状況の中、
この映画がretardという言葉を安易にキャッチとして使ったことで
世の中の人たちが、それが及ぼす影響を深く考えることもないままに
この言葉を多用するようになり、
自ずと障害者への抑圧が進んでしまうのだ、と
批判が展開されているのですが、

何よりも印象的なのは冒頭で語られるエピソードです。
使う方は軽い気持ちで口にするretardという言葉が
どれほど当事者を傷つけているか、
当事者がいかに日常的にそういう体験を重ねているかが
くっきりと描き出されています。

Bauerさんの娘のMargaretさん(24)はアパートで1人暮らしをしながら
病院や高齢者センターでボランティアをしています。

BauerさんがMargaretさんと一緒に映画を見に行ったある日、
いま見たばかりの映画について話しながら2人が歩いていると、
傍を通り過ぎていった少女たちの中から「ほら、パァ(retard)だよ」という声が。
その瞬間にMargaretさんは立ちすくみ、頬を震わせますが、
そんなMargaretさんを少女たちは1人ずつ振り向いて見ては、
肘でつつきあってささやき合います。
最後の1人は、じっとMargaretさんを見ながら
わざわざ後ろ向きになって歩き去っていきました。

この痛みを何度も経験してきたからこそ
「この言葉は人を傷つける」と目に付くたびに指摘してきたけれども、そのたびに
「考えすぎ」、「そんなことを言っていたら何も言えない」「ただのジョークじゃないか」と
指摘する方の感覚がおかしいように言われてしまう。
今回もまたコメディとヘイト・スピーチの間の線引き、
政治的正しさと過剰反応との線引きが問題になってしまっている、と。

記事タイトルにあるように、
多くの人にとっては、ただの映画、ただの言葉に過ぎないかもしれないけれど、
当人や親にとっては「闘い」なのだ、と。


記事冒頭に書かれたこのエピソードに
私はBauerさんの「言葉や声ではなく、痛みを伝えたい」との切実な思いを感じたのですが、
このエピソードそのものが、もしかしたら同じ痛みを知っている者でなければ
「それが、どうした?」、
「アメリカだぜ、思ったことを言って何が悪い?」
「障害者だからって甘えるなよ」と読まれてしまうのだろうか……と考えると、

なんだか、もう人の感性にすら、どこまで信頼を持っていいのか
わからなくなってくる……。
2008.08.26 / Top↑
先週末辺りまではブログやローカル紙で繰り広げられていた
ハリウッド映画 Tropic Thunderを巡る批判が
ぼつぼつメジャーなメディアにも登場し始めている様子です。

言葉の問題だけに留まらず選別的中絶の問題や
また日本で起こったばかりの若者による知的障害者への暴力とも繋がって
特に目を引いたのが以下のGuardianの記事。

この映画は劇場に足を運ぶ若者を中心に
「障害者はいじめても構わない」というメッセージを送るものである、

また中には
親はどんなことをしても障害児を持つことは避けたほうがいいとのメッセージを
送るに等しいシーンもあって、
障害新生児の切り捨てや選別的中絶の容認にも繋がると指摘。

キング牧師の死後40年も経って、
米国史上初めての黒人大統領が誕生するかもしれないという時代に、
過去50年間に米国社会が作り上げてきた万人の平等を目指すシステムを
こんな不用意な作品が逆行させてしまってはならない、と。

Tropic Thunder sets back a movement
By David Tolleson
The Guardian, August 22, 2008


どっちが先なんだろう……と、ふっと思った。

この映画が「障害者は差別してもいいジャマ者」だというメッセージを世の中に送る
というのは確かにそうだろうけれども、
もともと世の中にそういう空気が既にじわじわと蔓延しつつあって、
だからこそ、こんな映画が出てくる、そして映画がさらにメッセージを強化する……という、
もはやどっちが先とも言えないサイクルが始まってしまっているのかもしない。

そういえば、先週だったか朝日新聞の新刊書の広告の中に、
「オバハンでもわかる○○」というタイトルの本があったっけな。

数年前までは確かこういうのは「サルでもわかる」だったと思うのだけど、
「みんなで誰かをバカにしてエラソーにしよう」という空気が
ここにも確実に漂い始めている。


2008.08.25 / Top↑
7月22日に発表された障害児支援の見直しに関する検討会の報告書
しばらく前に読んでみました。

既に成人した娘が「障害児」であった頃の体験や
親としての自分の当時のあれこれの思いを振り返りながら読むと、
いろんなことを感じ、思い、考えるのだけれど、

とても素朴に、胸に響いてきたのは、

家族の形は様々であると考えられるが、障害児のいる家族にあっても、男性も女性もともに働きともに子育てをする男女共同参画の視点も踏まえた支援が必要である。

という下り。

ちょうど20年前、いろいろな事情から窮して
市役所の福祉課に電話をかけたことがあった。

「重度の脳性まひの1歳児なんですけど
昼間の保育をお願いできるところはないでしょうか」

返って来た答えは

「その子のお母さんはどうしておられるんですか」
「私が母親ですが、フルタイムで働いているんです」

すると、相手は呆れた口調になって
「普通、子どもが障害を持っていたらお母さんが仕事を辞めて
子どもの面倒を見ておられますよ」

それが当たり前だろうと言わんばかりの口調には非難のトゲがあった。

実際には、その後、個人的に掛け合ってみたら受け入れてくれる市の保育所もあったし、
それやこれやと動いてみたことが功を奏して、
知的障害児の通園施設にたどり着くことが出来たのだけれど、
「子どもに障害があるのに母親が仕事をしようなんて……」と
それだけで愛情の薄い母親であるかのように言われることはその後も多かった。

そして、実際には
障害があっても健康な子どもしか現実には保育所には通えないし、
ウチの娘のように障害があるために言語道断なほどに虚弱で病気ばかりしている子どもは
通園施設の重症児のクラスにすら半分も通えなかった。

その他にも諸々の事情があって結局は私は離職するしかなかったし、
そのことのインパクトは今なお私自身の内面や周辺との人間関係に尾を引いている。

だから「報告書」の中でも
この部分はまるでゴシック体で書かれているかのように眼に飛び込んできたし、

ああ、時は流れたのだなぁ……社会の意識がここまで変わったのかぁ……と
感慨がひとしおだったのだけれど、

しかし、ずっと読み進んでいくと、
相変わらず「母子入園による養育方法の支援」とあって、

なんだ、障害児の親でも男女問わずに働きましょう、でも子育ては母親の仕事だよ……
というのがホンネかよ……とガクッと。


そしたら今日、こんなニュースを見つけた。


なんだ、現実はちっとも変わってないんじゃないか……。
2008.08.23 / Top↑
顔の部分移植というと、
2005年にフランスで犬に襲われた女性が世界初の顔の移植症例として話題になりましたが、

その後、中国で熊に襲われた男性と、
フランスで顔の腫瘍を患った男性で
ともに顔の部分移植が成功したとのこと。

移植のお陰で、
それまで出来なかった飲食や話も普通に出来るようになったと
担当の移植医らは興奮しておられて、
この手術は既に「倫理論争から外科の現実へと移り変わった」とまで言い放ち、

また英国の医師らを始めとして、あちこちで
「次はフル・フェイスの移植!」と張り切っておられるようなのですが

2005年から倫理問題となっているのは

・症状が命に関るものではない
・顔はアイデンティティに関る部分でもあり心理的な影響
・拒絶反応を抑えるために死ぬまで強い薬を飲まなければならない
 その薬には癌やその他の病気のリスクがある
・ドナーの家族の気持ちの問題

などなどであり、
これらの倫理問題と外科技術としての成功率とは別問題なのであって、
前者から直線的にその延長で後者に移り変わるという性格のものではないのでは―――?




そういえば、世界初の顔移植のIsabelle Dinoireさんのその後は……?
と、気になったので、Wikipedia を覗いてみたら、
New England Journal of Medicineに担当医が2年目の報告を書いていて、
微笑むことが出来るようになったという本人の感想がある一方で、
その2年間に腎臓障害が起き、拒絶反応が2回あったとのこと。

手術の1年後にAP通信が掲載した写真というのがあって、
これは私もはっきり覚えているのですが、
驚いたことに、その後削除されています。
どうやら写真の一部に修整が施されていたことが判明したのがその理由。

ちなみに、万が一拒絶反応を抑える薬をやめたらどうなるかというと、
新しく移植した部分がずり落ちてきて「悲惨なことになる」のだそうです。

そういうことが起きてしまった場合には
患者にはもちろん相当な精神的なダメージがあると思うし、
顔だけでなく身体も副作用でボロボロになっている可能性もあるのだけど、

担当医らはその時に
患者をその「悲惨」から救うために、
どれほど熱心な努力を払ってくれるのでしょうか。



こうした記事を読んでいると私の頭には聞こえてくる。
「千と千尋の神隠し」で「千ほしい…ほしい、千……」とつぶやいていた顔なしの声で

やってみたい……本当は、ただ、やってみたい……
2008.08.23 / Top↑
Archives of Surgery の8月号に掲載された論文で、
救急搬送スタッフは高齢の外傷患者を若い患者ほど外傷センターに搬送していない
という調査結果が報告されています。

無意識のうちに高齢患者に対して、どうせ治療しても無益だという偏見が
あるのではないか、と。

外傷センター内部では高齢者治療のプロトコルなども研究されてきているのに、
搬送段階で年齢についての偏見があればそれが生かされないことになる、
高齢者でも治療によって生産的な生活に復帰することは可能だとの文献を紹介するなど、
社会全体で高齢者に対する偏見を打ち消す努力が必要、と。

Possible Age Bias Among Emergency Medical Personnel
The Medical News Today, August 20, 2008


読んだ時にすぐに頭に浮かんだのは、
きっと重度障害者について調査しても同じような結果が出るんじゃないのかなぁ……と。

(日本でも個人的に、娘が腸ねん転で手術を受けた際に、
健常な人には行われるはずの治療を外科医の偏見から手控えられた経験があるので。)

救急医療の内部では高齢者に応じた治療のあり方が研究されていたり、
またこのような調査が行われていることそのものも、
そうしたエイジズムへの修正の動きであって、喜ばしいことなのですが、

「高齢者でも治療すれば生産的な生活に復帰できるという文献を紹介して啓発に」という下りの
「生産的な生活」というところが引っかかる。

ここにある感覚すらが無意識のうちに
「生産的な生活に復帰できること」を「救命コストに見合う対価」として求めているような、
これを裏返すと、「どうせ助けても生産的な生活に戻れないなら治療は無益」と
いうことにもなりかねないような。

もちろん「生産的」という言葉の定義にも幅がいろいろあるとは思うのですが、

一方に、重度障害者を巡って米国で「あやうく第2のシャイボ事件」という出来事が
続いていること、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)

そこには栄養と水分の供給すら
「どうせ回復しないなら無益」と中止してしまいたいらしい誰かの思惑が
チラチラしていること、

その背後にあるのは医療費削減というもっと大きな思惑であり
それを使命として背負った
「社会全体が背負うコストと個人の利益のバランス」論であることを思えば、

そのうち平常時でもトリアージを受けて
年齢と全身状態と治療にかかるコスト予測から、
「この人は治療すれば生産的な生活に復帰できるかどうか」
「その後のこの人の生産性の予測は、社会が引き受ける治療コストに見合っているか」と
判定を経なければ治療が受けられない日が来るのかも……?


         ――――――

そうして現在、真っ先に切り捨てられようとしている重症障害者にかかっている医療費は
全体からすれば ごくわずかなものだという指摘
医療費を押し上げている元凶は実は保険会社・製薬会社だとの指摘
随所でされていながら大きく取り上げられることがないままに、

医療費が嵩んで医療制度が崩壊しつつあると危機感を煽り、
状況を一気に短絡した「非常事態」だと演出してしまえば、
「限られた資源を最も効率的に分配するため」のトリアージは
「当たり前」だし「止むを得ない」と受け入れる社会の空気は
実は既に作られようとしている気がするし、

現に、ゲイツ財団から膨大な資金を受けて設立されたワシントン大学のIHMEは、
世界規模でそうした価値観による保健医療の変容を進めていこうとしているのだから。
(詳細は「ゲイツ財団とUW・IHME」の書庫に)
2008.08.22 / Top↑
18日のエントリーD医師の不妊手術許容条件はA療法を否定する
新たに見つけたDiekema医師の論文について梗概を元に書いたところ、
論文のフルテキストを探し出してくださった方があり
全文を読むことが出来ました。
(kさん、本当にありがとうございます)

Involuntary sterilization of persons with mental retardation: an ethical analysis
(精神遅滞者の自らの意思によらない不妊手術:倫理的分析)
Ment Retard Dev Disabil Res Rev. 2003; 9 (1): 21-6 (ISSN: 1080-4013)

Diekema医師が2003年に発表したもの。
Ashleyの両親が子宮摘出を含む“Ashley療法”の要望を出す前の年です。

まず、結論を先にまとめると、

知的障害者の不妊手術は
永続的に意思決定の能力を全く欠いている人について、
一定の条件を満たした場合にしか許されない。
例外的なケースでのみ行われるものである。


論の展開としては、
まず米国における知的障害者への優生手術の歴史を振り返ります。

「白痴が3代続けばもう充分」という有名な文言と共に
施設入所の知的障害女性の不妊手術を認めてその後の優生手術合法化への流れを作った
1927年のBuck v. Bell 判決について、
75年後にヴァージニア州知事が公式に謝罪し、
「州政府が関与すべきでない恥ずべき試みだった」と明言したことに言及。

徐々に生殖権が意識されるようになり、
強制的不妊手術が基本的人権の侵害だと見なされるようになったが、
60年代からは親やガーディアンが不妊手術を求める裁判が相次ぐ。

それに続く近年の特筆すべき変化として、Diekema医師は2点を挙げています。

まず、1つとして、80年代からは、
不妊手術が必ずしも知的障害者本人の負担になる一方ではなく、
むしろ本人の利益になる場合もあることが認識されてきたこと。

もう1点は、手術以外に多様な避妊方法が開発されてきたこと。
ここで挙げられている具体的な避妊方法は
経口避妊薬、皮下注射、パッチ、子宮内常置のホルモン剤投与装置(10年間有効)。
いずれも手術に比べて中止が容易で、侵襲度が低いという利点があり、
しかも効果が確認されている避妊方法は多彩、と強調しています。

注目しておきたいのは、
さらに将来的に新たな避妊法方が開発される可能性も重視されていること。
不妊手術は「実際に必要になる時まで、やってはならない」し、
「如何なる場合でも思春期前にはやってはならない」と後に述べる際にも、その根拠の1つとされます。

このように米国における知的障害者の不妊手術の歴史を振り返った後、
本人の意思決定能力が完全な場合、部分的な場合、まったく欠いている場合の3つに分けて、
考え方を論じ、最後の永続的に意思決定能力を完全に欠いている人についてのみ
一定条件を満たしていれば知的障害者の不妊手術が検討の対象となると主張します。
満たすべき条件は以下の4つ。

不妊手術が差し迫って必要となっていること。

したがって、
性行為を行うことがなかったり、妊娠するはずのない人にやってはいけないし、
実際に不妊手術が必要になるより前にやってはいけないし、もちろん
どんな場合であれ、思春期以前にやってはいけないのです。

②知的障害のある人の不妊手術を求める人は
 それが本人の最善の利益であるという「明白で説得力のあるエビデンス」を
提示しなければならない。

この辺り、イリノイ州の上級裁判所と同じく
証明責任は手術を求める側に要求されています。

さらに、この項目で興味深いのは、
例えば知的障害のある男性が女性を妊娠させる恐れから
人との接触から遠ざけられて行動を抑制されてしまう場合に、
不妊手術をすることで、その心配がなくなり抑制から解放されるかといえば、
依然として性的虐待の可能性がある限り、同じ抑制が続くと考えられる以上、
不妊手術は簡単には正当化できるものではない、との見解を示しています。

(これはそのまま「レイプされたら妊娠するから」との理由による
Ashleyからの子宮摘出を否定するものです)。

③不妊手術を求める側の証明責任の中には、
より侵襲度の低い永続的な他の手段では最善の利益が得られないことの
明白で説得力のあるエビデンスによる証明も含まれる。

④知的障害者本人のために公正で善良な決定を保障すべく、
手続き上のセーフガードがなければならない。
 
ここでセーフガードとしてDiekema医師が具体的に挙げているのは、

・ 「独立した専門家と素人のグループ」による評価が、対象となっている人の
医療、心理、社会、行動、そして遺伝データの全てに渡って行われなければならない。
・いずれの地域にも当該制度があり、裁判所の権限による決定が求められる場合もある。
・上記の条件が満たされた場合には、知的障害者の代理決定者の決定が尊重されなければならないが、
その一方、介護者の利益が知的障害のある人の利益と同じだと想定してかかってはならない


最後に、と彼は5つ目の条件を付け加えています。

その手術の真の性格とその理由について、
知的障害のある本人に対して正直にコミュニケートするあらゆる努力をしなければならない。

ほぉ。
じゃぁ、Ashleyに説明したんですかね。

「こんなふうに、どこをとってみても僕自身の倫理にももとる
本当は許されない手術なんだよ。
だけど、みんなキミのお父さんが怖くてね」とでも?
2008.08.21 / Top↑
前のエントリーでNYTimes掲載のステロイド解禁論と
その中でのNorman Fostのコメントを取り上げたついでに、
それとは別に、かなり前から机の上に置いて眺め暮らしていた
Fost のステロイド解禁論の特集記事があるので。


今年1月15日、Norman Fostがニューヨークで行われたドラッグ解禁ディベートに出た日の記事です。
ディベイトへの参戦は、やはりAshley事件で擁護の論文を書いたTHニストのJurian Savulescuと一緒でした。

記事内容としては、
「米国で最も孤独な男」とか「Wisconsinの変人」などとメディアに揶揄されつつ
1983年の早くからステロイド解禁を訴え続けてきた解禁論の最先鋒
Norman Fostの歩みと主張を紹介し、
彼に同調する科学者や医師が増えてきたと最近の変化を伝えるもの。

ここで展開される解禁論そのものは
これまでの関連エントリーで紹介してきたのと同じですが、
1つだけ目新しかったのは
Fost自身は頭痛薬すらなるべく飲まないようにしていると書かれていたこと。

つまり
「ステロイドの副作用については科学的に実証されていない(だから副作用はないと思え?)」と言いつつ
自分自身は薬物の副作用リスクにはとても敏感・慎重で、
要は「どうせ他人事」のステロイド解禁論だということですね。
(医師なんですけどね、この人。)

その他、この記事のFost発言を読んで、
特にAshley事件との関連で「おや?」と思った点として、

①Fostは「治療と強化の境界について」考え始めたのは
米国の水泳選手が金メダルを剥奪された72年のミュンヘン・オリンピックからだと語っています。

去年のシアトル子ども病院生命倫理カンファの講演でも
背の低い男児にホルモン障害があれば成長ホルモン使用が「治療」として認められるが
普通に背の低い男児に成長ホルモンを使おうとすれば「強化」だからダメだというのはおかしい、と
Fostが強く説いて、聴衆がちょっと引いてしまったような場面もありました。

この考え方において、
Fostは非常にトランスヒューマニスティックな医師だと言えるでしょう。

しかも、ずいぶん前から、治療と強化の境目をなくして
強化のためにも医療技術を利用すべきだと彼は考えていたわけです。

②しかし、その一方、上記の記事の中でFostは
青少年へのステロイド投与には断固として反対だと述べています。
その理由は「成長を抑制するから」。

「ステロイドの専門家」であるNorman Fostは
ホルモン剤の成長抑制効果についても、もちろん誰よりも詳しいわけですね。

だたし、彼は「ホルモンが成長を抑制する」がゆえにこそ
若年のスポーツ選手に対しては厳格な検査を行うべきだと、ここで主張しています。
子どもにステロイドを与えるような輩には「公正な裁判の後で絞首刑」だとまで
厳しい言葉で糾弾しているのです。

それで、よくも6歳のAshleyに行われたホルモン大量投与による成長抑制を擁護できたものだなと
最初に記事を読んだときには呆れたのですが、

その後、この記事を机の上に置いて眺め暮らしながら
よくよくNorman Fostという人物の言動を振り返ってみると、
彼は重症障害新生児の治療は無益だからやめろと説いているし、
“Ashley療法”論争での発言にも障害児への蔑視が大変露骨です。

重症障害児をもともと人として認めていないのですから
健常な子どもに使ってはいけないはずのホルモン剤を大量投与しても
別に構わないと考えるのでしょう。

それにしても……上記2点から考えると、

Diekema医師の恩師でありメンターでもあるNorman Fost医師
ホルモン剤が子どもの成長のコントロールに有効だということを
誰よりも前から、誰よりも知悉・意識していた──。

そして「治療」以外の目的で「ホルモン治療」を行うことについて
恐らく誰よりも抵抗感のない人物だった──。


私にはAshley父のブログを初めて読んだ時から疑問があって、それは、
「いくら頭のいい人でも医療の素人である父親が自分の力だけで独自に
これだけぶっとんだ医療技術の応用を、しかも3点セットで思いつけるものだろうか」
というもの。

「最終的に考えをまとめたのは父親だったとしても、
少なくとも彼はどこかで“Ashley療法”のアイディアの種を拾ったはず。
それは一体どこだったのか」という疑問です。

その後、メディアに登場して擁護した人たちの顔ぶれの奇妙から
「トランスヒューマニスティックな文化または、そういう考えの人物との接点が
父親にはあるのではないか」という推測をしていたところです。

Norman Fost――。Ashley事件を考えるに当たって、どうにも気になる人物です。

(ここ最近のDiekema医師の小児科生命倫理分野での華々しい活躍ぶりも
 彼が米国小児科生命倫理界のボスであるFostの愛弟子だという事実を思えば、
 ただAshley事件で名前が売れたからという単純な理由ではないかも……。)
2008.08.20 / Top↑
北京オリンピックを機に、
ステロイド解禁論がまたぞろ出てきているようで、NYTimesにも。

Let the Games Be Doped
By John Tierney
The New York Times, August 11, 2008

解禁論者の主張は大体いつも同じなのですが、ここでもまた、

現在のドーピング検査は不正確、不完全で
そのためにヤリクチの巧妙な選手ほど罰せられずに通っている。

ドラッグの方も次々に開発されて検査技術が追いついていない。
(ものすごい勢いで走り続けるマイティ・マウスを作った、あの薬物なども
 このオリンピックで使われるかもしれないという予測もあったとか?)

それにバイオで遺伝子レベルでの操作が可能になると
これはもう検知可能範囲を超えた無法地帯である。

よって、いっそのことドーピングを解禁・合法化した方が
アクセスが平等になり、ズルをする選手がいなくなって
より安全で信頼性のあるスポーツを取り戻すことが出来る……という主張……

……なのかな、と、この記事もざっくり読むとそう思えるのですが、

しかし、

記事をずっと読んでいくと、
あるところで、くいっと論旨がひねられて別のところに向かう感じがあります。

その転換点に登場するのが例のNorman Fost

「(Alzado選手の脳腫瘍は)ステロイドよりもビールの飲みすぎが原因だったといった方が
まだしも科学的な根拠があるでしょう。
アナボリック・ステロイドは死に至るとか不可逆なダメージを起こすとか
よく言われていますが医学的な根拠はありません。
フットボールや野球を普通にやる以上にリスクが大きいと考える理由はありません」。

(「スポーツがもともと危険なのだから薬物のリスクなど小さい」は一貫してFostの持論
 小児科医であるばかりか、FDAの臨床実験審査委員会の委員長でもある方なのですけど。)

このFostの発言を転換点として、その後
この記事はだいたい以下の論旨となります。

「栄光と引き換えにリスクを侵す」ことを社会は冒険家たちに認めてきたではないか、
オリンピック選手というのは世界中で最も高度な肉体機能を持った人間であり、
そういう人間が人体のパフォーマンスの限界を押し上げて見せてくれることによって
普通の人間の体が老化に抗うヒントが見出せるはず。
ドラッグであれDNA操作であれ、なんでもありのウルトラスポーツというのがあったら
そこでは一体何が起こるのか、みんな見てみたいと思わないか?

だって、ほら、人間の身体って改良可能なんだからさ。

この人たち、他人の身体をなんだと思っているんだろう?

要はトランスヒューマニストたちが、
アスリートの鍛え抜かれた身体を
人体改造実験のマウスとして使いたいってことなのでは――?


2008.08.20 / Top↑
今回のオリンピックで8冠を達成した米国のMichael Phelps選手が
子どもの頃に落ち着きがなく集中力もなく、
ADHDと診断されて9歳から2年間リタリンを飲んでいたという話は
すでに日本語でもあちこちに出回っている話のようで、

これもまた、そうしたストーリーのひとつなのですが、



最後のところでちょっとびっくりしたのが、
現在、中学校の校長先生であるPhelpsのお母さんは去年の夏から
コンサータの製造元、Ortho-McNeil-JanssenのHPに起用され、
ADHD Momsというコーナーに寄せられるADHD児の子育てについての質問に
専門家と一緒に答える相談役に抜擢されたんだとか。

ADHD Momsに関するOrtho-McNeilのプレスリリースはこちら

      ―――――――


この話に気持ちの引っかかりを覚えたのは、
その前に、こちらの英国ニュースがらみの体験があったからかも。


英国で家族性高コレステロール血症の可能性のある10歳までの子ども全員に
スクリーニングを行い、遺伝性の高コレステロール血症だと分かったら
スタチンを飲ませることにするんだというニュース。

10歳から飲ませるというのが気になったのですが、
私は家族性高コレステロール血症については何も知らないので
日本語で勉強しようと思って検索したら、
製薬会社が主催している患者会というのに真っ先にヒット。

それ自体にもちょっと驚いたのだけれど、
もちろん他にも厚労省が関与したり医師がHPで書いている解説サイトもあって、
そうした解説をいくつか読んでいると、

データや情報が違っているわけではないのだけれど、
トーンがずいぶん違うのに、びっくりした。

明らかに製薬会社の患者会の患者向け解説の方が、
はるかに重症で深刻な病気のようなトーンで書かれている……ような気がする。

気の、せい――?
2008.08.20 / Top↑
先ごろ英国上院を通過したヒト受精・胚法改正案が秋に下院に降りてくるとあって
プロライフの議員からは妊娠後期の障害児の中絶を禁じる法案を
提出する動きがでているとのこと。

そんな折、
重症の脳性まひの息子(6)がある野党保守党党首のDavid Cameron氏が
概ね以下のように発言、物議を醸しています。

息子はかわいいが障害児の子育ては負担が大きい。
その大変さを考えると、
おなかの子どもに障害があると分かった母親に
中絶を禁じることは間違っていると思う。


現在の英国の法律では
胎児に「重大な障害」があった場合にはいつの段階でも中絶が認められており、
しかも「重大な障害」に医学的な定義が欠けている為に、
手指の欠損や口蓋裂のような軽微な障害でも中絶される例も。

Cameron氏の発言にプロライフの議員からは
「これは平等の問題。
 障害を理由にどの段階でも中絶を支持するなんて、
 世の障害者にとっては恐ろしいメッセージが送られたものだ。
 要するに、障害者には健常者ほどの人権はないよと言うようなものではないか」


2008.08.19 / Top↑
California州でも、あやうく第2のシャイボ事件。

こんなことが現実に起こるのだったら、
いずれ多くの障害者から医療も栄養補給も引き上げられていくことになるだろうし、

もしも、ある日突然に脳卒中や心臓麻痺で倒れ、
意識が戻っても体が思うように言うことをきかなくなっていたとしたら、
意識はあるんだ、ちゃんと分かっているんだと必死で瞬きや顔の表情で訴えても、
「この人には意識はありません。瞬きも涙も生理的な反応です」と無視され
「どうせ回復することはないから治療は無益」と医師が宣告すれば、
あなたはその時点から餓死させられてしまう──。
そういう社会が少なくとも米国では、すぐそこまで来ているということであり

日本でも起こらない保障もない、ということでは……というニュース。


Janet Riveraさん(46)が心臓発作を起こしたのは2006年2月。
当初は人工呼吸器がついていたのですが、現在は自立呼吸。

法律的な知識がないので両者の違いが分からないのですが、
guardian(代理人?)は従姉妹に、conservator(保護者?)は夫に決まっていたようです。

ところが夫がJanetさんの医療費を支払えなくなったために
6月17日から保護者の任がFresno郡の検視官に移り、
Janetさんが回復することはないとの医師らの見解を受けて
この検視官が栄養チューブを取り外すことを決定。

代理人であった従姉妹も州外へ引っ越すことになったために
裁判所に別の従姉妹が代理人になるべく申請を出していたようです。
14日に裁判所がその人を有資格と認め、
またJanetさんの兄が別途、保護者となるべく手続きを進めているので、
Janetさんの栄養と水分の供給については改めて判断されることとなるようです。

この間、Janetさんは11日間栄養と水分の供給をストップされていました。
シャイボ事件でTerri Schiavoさんが息を引き取ったのは13日目だったので、
餓死寸前だったということでしょう。

こういう事件の記事を読むたびに、いつも首を傾げてしまうのは2つ。
1つは、兄がJanetさんは瞬きと口の動きで反応するといっているのに
「心臓発作から一度も意識を回復したことがない」と書かれていること。

お兄さんまでが、「妹はまだ意識がある状態だと思う」と言いながら
同時に「かならず目覚めさせてみせる」と矛盾したことを言っているのですが、



記事に掲載されているこちらの写真を
見てもらいたいのだけれども、
眼が開いて、
その眼にこれだけの力があり、
(眼球が寄っているのは麻痺のためかも)
瞬きや口の動きで反応できるこの人は
本当に意識がないのでしょうか。

重度障害のある人との意思疎通には、受け止める側に
非常に繊細な感受性と感度の高いアンテナが必要です。
「どうせ何も分からない人だ」と考えている人には、
どんなに必死の信号も届きません。

言葉という表現手段を失ったら、
それだけで「意識がない」と決め付ける文化がいつの間にか蔓延しているとしたら、
それが如何に怖いことか、重症障害者の介護に携わっている人なら分かるはずです。


もう1つは、
一体いつから「回復しない」ことが「無益な治療」の根拠になったのか、という点。
「無益な治療」とは本来は死が差し迫ったターミナルな状態の患者でのみ、
本人に苦痛を与えるだけで益のない治療を意味していたのではなかったでしょうか。
それがいつのまにかターミナルでもなんでもない患者に、
ただ「回復しないから」という理由で
栄養と水分の供給までが「無益な治療」として停止される。

もしも「回復しない」のが栄養と水分停止の理由になるのであれば、
重度障害はもちろん不治の病も「無益な治療」論による治療停止の適用対象になります。

しかも医療費が支払えなくなったことが境目になっていることを思えば
「どうせ治らない患者への治療は医療費の無駄」という
本来はまったく別の動機がそこに紛れ込んでいるわけで、それならば
治る病気の人以外は医療を受けられない日がくるのかもしれない、ということでしょう。

Janetさんのケースに関与している
Right to Life of Central Californiaというプロライフの団体のディレクターが
以下のように警告しています。

いわゆる「無益な治療」論について国民レベルで議論する必要があることを、
この事件は示しています。
……
現在のところ、医師や病院の個人的な考えで治療をやめることが可能なのです。
こんなものは医療決定ではなく、価値観による判断に過ぎません。
みんなで強く反対の声を上げて行政が動かなければ、
「一番よく分かっているのは医師」で殺されてしまう新たな慣行が
あなたの身近な病院にも間もなくやってくることになるでしょう。

        ―――――

日本でも、大きな改善に結びつかない維持期のリハビリが認められなくなった
数年前の激震は記憶に新しいところですが、
あの背景にもまた「医療費の削減に結びつかないリハビリはゼニの無駄」という考えがあるわけで、
案外、似たようなことは日本の医療でも形を変えて進行しているのかも。
2008.08.19 / Top↑
久々にDr.Gunther とDr. DiekemaのAshley論文を読み返していたら
これまで見落としていた箇所に眼を引かれました。

この論文では子宮摘出についてはほとんど前面に打ち出されず、
ホルモン療法の副作用防止のための必要悪であり、
さも何でもないことであるかのように装ってあるのですが、
それだけではさすがに気が引けたのか
「ここで子宮摘出について一言」といった書き出しで
いかにも言い訳の匂いのする一節が挿入されています。

その一節の最後に
子宮摘出の決定は慎重に行われなければならない、
その倫理的法律的な議論は別のところで行っている、とさらりと書かれていて、
その「別のところ」についている注をたどると、巻末の参考文献で
Diekema医師が発表した論文にたどりつくのです。

発表されたのはAshley事件の前年。

Diekema DS
Involuntary sterilization of persons with mental retardation: an ethical analysis
Ment Retard Dev Disabil Res Rev. 2003; 9 (1): 21-6 (ISSN: 1080-4013)

この論文は今までうっかり見落としていたので探してみたところ、
以下のサイトで梗概を見つけました。


この梗概によるとDiekema医師は

知的障害のある人自らの意思によらない不妊手術が行われてはならない条件として
・生殖に関する意思決定の能力
・子どもを育てる能力
・結婚に同意できる能力
が本人にある場合を挙げています。

そして、この3つの条件をすべて欠いている知的障害女性は
自らの意思によらない不妊手術を検討する対象になるとしているのですが、
もちろんそこには一定の条件があって、
彼が挙げている条件は以下の4つ。

・その処置が必要であること
・不妊手術が知的障害のある女性本人の最善の利益にかなうこと
・より侵襲度が低く一時的な避妊方法や生理のコントロールの選択肢が使えないこと
・公正な意思決定プロセスを保障するため手続き上のセーフガードが実施されていること

この4つの条件を満たす場合にのみ、
知的障害女性の不妊手術は検討されるべきだというのがDiekema医師の主張です。

Ashleyに行われた子宮摘出について
同医師は「最善の利益」論によるジャスティフィケーションを繰り返していますが、
その根拠が「生理痛の除去」と「将来の病気予防」だというのでは
あまりにも無理があるでしょう。

つまり、2004年のAshleyの両親からの「娘の子宮を摘出したい」という要望は
その前の年にDiekema医師自身が発表した論文の条件の
いずれをも満たしていなかったということになるのです。

それが倫理委員会の承認を得て実施されてしまうとは、
なんたる摩訶不思議。
2008.08.18 / Top↑
ハリウッド映画 Tropic Thunderの知的障害者差別問題を
精力的にフォローしているジャーナリスト Patricia Bauerさんのブログに、
日曜版で‘Thunder’を批判した新聞の記事が7本挙げられています。

Sunday’s crop: ‘Thunder’ commentary
PatriciaEBauer NEWS & COMMENTARY ON DISABILITU ISSUES
August 17, 2008

知的障害のある子どもの親の立場や障害者団体として書かれたものを含み
一応7本すべてを読んでみました。

客観的な立場から一番簡潔に論点を突いていると思ったのは、

Movie should be catalyst for change
Journal Star, August 15, 2008

例えば

Words hurt. Some words can destroy lives.
言葉は人を傷つける。言葉が命を壊すこともある。

This is not a plea for political correctness. It is a demand for basic human decency.
これは政治的な正しさを求める声ではない。
人として基本的な心遣いを求める声である。


この記事が問題を皮相的な言葉の問題ではなく、
誰かと向かい合う自分の人としてのあり方の問題なのだと書いていることは
とても正しい問題の捉え方だと思う。

ただ、この記事のメッセージもまた、やはり世の中の多くの人には届かない。

私が読んだ時点で寄せられていたコメント30のほぼ全部が
「たかが映画やギャグに、なにマジになってんだよ」
「この程度の言葉にいちいち目くじら立ててたら何も言えないだろーが」
「バカをバカと呼んで何が悪いんだ」
「ホントのretard だったら何と呼ばれようと気にならないだろ」
など、記事への反論・批判であり、
そこにこそヘイトが満ち満ちていることに
改めて障害者を取り巻く空気の冷たさを感じ暗澹とさせられます。

それから、もう1つ気になるのが、
ここに挙げられた7本は全てローカル紙の記事であり、
メジャーなメディアは概ねDreamWorks寄りのスタンスでこの問題を眺めているらしいこと。

         ――――――

上記記事の一部を訳す際にdecencyを一応「心遣い」としてみましたが、
なんとも日本語一言ですくいきれない言葉のような……。
今ちょっと手垢に汚れて本来の意味を失っていますが「品格」の方が近いかも。

この言葉は大江健三郎さんがノーベル文学賞受賞の際のスピーチで
日本語に翻訳せずに、そのまま「ディセンシー」として使われて、
(もちろん私ごときには計り知れない高度に文学的哲学的ディセンシーのことだったのだけど)
人類の未来への希望を自分は人のディセンシーに託したいと言われたような記憶があって

そんなことを思い出しながら読むと、
実際、この記事に寄せられているのは decency の感じられないコメントばかりだなぁ。

さらに、そういえば、
グローバリズムだ、ネオリベラリズムだ、科学とテクノロジーで「もっと、もっと」と
急速に便利になりつつ過酷さを増していく世の中から
どんどん失われていっているのもまた、basic human decency のようでもあり。
2008.08.18 / Top↑
AAPD(American Association of People with Disabilities)が娯楽業界に向け、
ハリウッド映画 “Tropic Thunder”への抗議文を作成、
ネット上で署名を求めています。

“Tropic Thunder”におけるretardなど差別的な用語の多用は
障害者のステレオタイプや障害者への恐れを定着させる hate speech の典型であること、

特に知的障害のある人たちを中心に障害者が
こうした差別に如何に傷ついてきたかということを述べ、

他のマイノリティと違って障害者はハリウッドで雇用されていないので、
それだけ障害当事者の声がハリウッドの仕事に反映されにくいのでは、と指摘しています。

そして、同業界に”Tropic Thunder”の悪影響を正すとともに
障害者の就労を進めることを通じて障害者を尊重するモデルたれ、と呼びかけるもの。

抗議文と署名はこちらから。

住所を記入する欄もありますが
やってみたところ、メールアドレスのみでも署名は可でした。

他人のメルアドの悪用を避けるため確認のメールが送られてくるので、
そこにある確認用サイトアドレスをクリックして署名完了。

17日夜現在720をちょっと超える署名数となっています。

2008.08.17 / Top↑
米国のナーシングホームが入所者を合法的に退所させることが出来る理由は以下の6つ。

・家に帰れるだけ健康
・その人が必要とするサービスがナーシングホームでは提供されない
・他の入所者やスタッフの健康を害する
・他の入所者やスタッフの安全を脅かす
・費用を支払いない
・ナーシングホームが閉鎖になる

これら6つの理由のいずれかをこじつけての入所者追い出しが増えている。


狙い目になるのはメディケイドで長期入所している高齢者で、
中でも認知症があったり、家族の要求度が高い人など
施設にとって費用が嵩んだり手がかかる人。

連邦法も州法も入所者の権利擁護には目配りされており、
退所させる30日前までに通知しなければならないとか
不服を申し立てる権利について説明しなければならないとか、
退所が利用者を害することがないように計画を作らなければならないとか
ルールが定められてはいるものの、守られていない。

それに退所についての法律上の入所者保護はナーシングホームの入所者には適用されても
もう少し自立度の高い人向けに生活の自由度の高いアシスティッド・リビングと称される施設の
入所者には適用にならない。

手口としては、いきなり追い出すのではなく、
他のホームに一時的に移したり病院に入院させて
その後引取りを拒否するというもの。

こうした追い出しを巡る苦情は96年から06年で倍増している。
公式に苦情を申し立てない人もいることを考えれば、
実はもっと多いだろう、と。

高齢者福祉に市場原理を導入して民間企業を参入させれば
競争原理が働いてサービスの質が向上するというのは
日本でも介護保険のスタートから散々言われてきたことで、

(それで悪質な事件を起こしたのは、民間最大手のコムスンだったのだけど)

これからさらに入所施設から在宅への制度誘導が進むだろうことを考えれば、
こういうことって、日本でも起こるんじゃないのかなぁ……。

高齢者だけではなく障害者施設でも。
2008.08.14 / Top↑
ハリウッド映画 Tropic Thunder の知的障害者差別問題について、
ニュースやブログ記事で周辺情報は読めるものの、
なかなか映画そのものの問題シーンが見られなかったのですが、
以下のCNNニュースに問題シーンの1つがありました。


Tropic Thunderという映画はどうやら
自分を売りこむために必死で知恵を絞っては愚かしく奮闘する俳優たちの姿を描いて
ハリウッドの文化そのものを笑い飛ばそうというコメディのようですが、

売り込み策の1つとして、
Stillerが演じるSimple Jack(おバカのジャック)が
知的障害のある人間を演じてみようとしていて、
ただ、その演技はやりすぎてはいけない、と仲間が彼にアドバイスしているシーン。

「フォレスト・ガンプ」のトム・ハンクスみたいに、と言っているので、
ここで使われている retard という言葉が知的障害者を指しているのは確かでしょう。

その上で、このシーンで仲間が言う Never go full retard. というセリフが
販促キャッチに使われ、Tシャツまで売られていた、と。

(抗議を受けて、いつのまにやらTシャツはネットから消えたらしいですが。)

Special OlympicsのShriver会長が
秋になって学校が始まった時に障害のある子どもが
他の子達から『オマエ、full retard?』などとイジメに遭うと案じているのがこれ。

CNNはプレミアの際に監督・脚本・主演のBen Stiller と俳優Jack Blackを捕まえて
インタビューを敢行しているのですが、
Stillerの方はまだしも「見てもらえば、映画の意図が分かってもらえると思う」と
冷静に答えているものの、
Jack Blackの発言は反発に満ちて、

Everyone’s entitled to their opinion, obviously that’s what America’ s all about. If you’ve got something to say, you are free to say it.

誰だって自分の意見くらいあるさ。
アメリカってのは、そういう国だろ。
言いたいことがあれば、自由に言っていいんだよ。

hate speech とは、決して retard とか idiot という言葉面のことじゃない。
このJack Black の発言こそが hate speech でなくて、なんだ?


2008.08.13 / Top↑
11日のエントリーで紹介したハリウッド映画 ”Tropic Thunder” での
retard をはじめとする"hate speech"問題ですが、

11日月曜日、ロスでのプレミアに際して、
劇場前で障害当事者らが50人ほどが抗議行動を行っています。

Ban the movie, ban the word.
「この映画を禁止せよ。retardという言葉を禁止せよ」




一方、障害当事者の中にもプレミアを見て
「ただの風刺に過ぎない。風刺ではいろんなものをバカにするもんさ。
この映画には特に障害者を貶める意図はない。悪意もないし、自分は別に問題を感じなかったね」
という障害当事者もいたとのこと。

とはいえ、車椅子で人工呼吸器使用だというこの人は
知的障害があるわけではないので、
その辺が、ちょっと微妙な感じ。

人工呼吸器を使っている障害者を“風刺”の対象にされた時にも、
この人は同じことを言えるかどうか……。

(USAToday の記事の方は Life 欄でもあり、
冒頭の書き出しからして「コメディ映画というのは所詮は誰かを怒らせるのが宿命」といったトーン。
こちらの重症身体障害者の言葉を引いているのも、もちろん USA Today の方。)


Special Olympics 会長の Timothy Shriverは
ボイコットや公開中止が現実になるとは思っていないが
「見ないでもらいたい。障害のある子どもたちが秋に学校が始まった時に
他の子どもたちから『オマエって、もろバカ(full retard)?』などと言われないように」

また、
「つまるところ、これを機に学んでもらいたいのです。
 問題なのは映画ではない。問題は、他者の人としての尊厳を考えようということなのです」とも。


この人が言うとおりだ。

「映画を禁止せよ。そんな言葉を禁止せよ」と示威行動に出る人が求めているのは
本当は、その言葉が要求している映画や言葉の禁止じゃない。

そんな映画や言葉に傷つく自分たちの痛みをわかって欲しいと訴えているのだと思う。

それなのに、こういう時、世の中の多くの人には「禁止せよ」という言葉と声しか届かない。
そして「なに勝手なこと言ってんだよ」と、その言葉と声は跳ね返されてしまう。

受け止めて欲しいのは声や言葉じゃない。
そう言わないでいられない経験を積み重ねてきた心の方。

その心が、なぜ届かないんだろう……と空しくなるから、
どちらの記事にもコメントが沢山寄せられているのだけれど、読まないことにした。
2008.08.13 / Top↑
日本人男性がインド女性に代理出産で生んでもらった子どもが
出国できなくなっている問題が話題になっていますが、

しばらく前にGuardianがインドの生殖医療ツーリズムの詳細を報じていたので。

The fertility tourists
The Guardian, July 30, 2008

冒頭で紹介されるのはドイツ人女性Ekaterina Aleksandroyaさん(42)。
経営コンサルタントとして世界中を飛び回っている彼女は
独身女性にもIVFを認めるリベラルな国だと考えて2004年に英国に移住。
3年間大変な費用をかけて妊娠を目指したものの、失敗。

そこであれこれ調べた末に思い切って昨年末にインドに行ってチャレンジし
今年9月に念願の母親になる。

もちろんおなかの子どもと遺伝上のつながりは皆無。
精子はオンラインでカタログから選んだデンマーク人男性のもの。
購入すれば直接インドのクリニックに送ってくれた。
送料込みで800ポンド。
卵子はインド女性のもので詳細は不明。
女性には500ポンドが支払われたという。

そもそもインドは体外受精では先進国なのだそうで
1978年に英国で世界初の試験管ベビー、ルイーズ・ブラウンちゃんが生まれたが
実はその67日後に世界で2人目の試験管ベビーが生まれたのはインドだったという。

英国はルイーズ・ブラウンの誕生後、30年間をかけて
倫理問題と技術使用に関して法とシステムを整備してきた。
ハイリスクの多胎児を防ぐために子宮に戻す受精卵の数にも制限がある。
卵子は常に不足していて高価だ。

それに対してインドは生殖補助医療を縛る法律がなく、
形だけのガイドラインはあっても実態は市場主義。つまり、野放し。

患者の年齢も人種も肌の色も問題にならない。
英国のように生まれた子どもが18になったら遺伝上の親を知る権利があるなどと
面倒くさいことも言わず、ドナーのプライバシーは守られる。
それに何より、同じ医療が英国よりもはるかに安価に受けられる。

インドの生殖医療専門医の一人Aniruddha Malpani医師は
「金を払う人に決定権がある」だけのこと、それが患者の権利だ、と。

また、自分の患者は「生殖難民」であり、
求めている医療を受けられないのはdisempowered(エンパワーの反対)されているのだ、
一夜の関係で子どもを産む女性に父親のことなど誰も尋ねないのに
どうして精子のドナー情報を明かす必要があるものか、とも。

しかし、インドで英米よりもはるかにやすく卵子が買えるのは
貧しくて教育を受けていない女性がリスクの説明もないまま体よく搾取されているからで、
彼女たちには効率よい卵子の採取のために通常の何倍ものホルモンが投与されている恐れも。

            ――――――

前にちょっとインドの医療ツーリズムを調べてみたことがあるのですが、

医療ツーリズムが2012年には23億ドル産業に成長すると見込む政府が
民間医療サービスへの助成にも力を入れていることもあり、大繁盛。

インド最大の医療コンツェルン、アポログループのウェブサイトはこちら
外国からの富裕な患者対象に通訳完備の至れり尽くせりの受け入れ態勢が整えられて
到着時には空港まで迎えに来てくれる。

インドの他にもタイ、シンガポール、フィリピン、マレーシア、トルコ、ドイツ、
ハンガリー、ラトビア、コスタリカ、キューバ、レバノン……などが参入。
国によって得意分野があるようだけど、
治療費は欧米の3分の1から10分の1。
それでも人件費が安いから手厚い医療と看護が受けられる。

なにしろ「お客様」として大事にしてもらえるのだから、
医師も看護師も足りない崩壊医療、効率医療、高飛車医療が当たり前になっている患者から
「こんなに甘やかしてもらったのは人生で初めて」という感想が出てくるのも
そりゃ、当たり前というものでしょう。

もっとも、アフターケアや医療過誤の際の対応など、
不安材料が全くないわけではないし、
そもそも、それぞれ自国の医療が崩壊しているのが問題で、
華やかな医療ツーリズムが云々される陰で、
海外で暢気に病気治療なんかしていられない人たちこそ
自国の医療でも阻害されているはずなのであり。

それは格差が拡大する一方のインドだって同じことで、
基本的な医療を受けることも出来ずに、ただの下痢で死んでいく人は
年間60万人とも言われる。

国からの補助金に守られた米国の農作物との国際競争が激化する一方の農村部では
インドの農夫たちの自殺が相次いでいて、
2003年には17000人以上の農夫が自殺。
その後も続いている。
先日のWTOの決裂のニュースの時、この話を思い出して
これからも続くんだろうなぁ、と思った。

なんだか、あっちを向いてもこっちを向いても、
起こっていることは同じパターンばっかりだ。
2008.08.12 / Top↑
DreamWorksの新作映画が知的障害者への差別で問題視されている。

問題になっているのは、
「ミート・ザ・ペアレンツ」、「ナイトミュージアム」などで御馴染みのBen Stillerが監督主演
8月13日に公開予定の DreamWorks 作品“Tropic Thunder”。

登場人物の1人Simple Jackを巡って
retard, idiot, moron, imbecile, stupid などの蔑称(脳たりん、白痴、バカ、アホの類)を多用し、
障害者への hate speech に満ちているとして

The Arc of the United States, the National Down Syndrome Congress,
The American Association of People With Disabilities など
障害者のアドボケイト団体が
抗議活動とDreamWorks側との交渉を続けてきたが、
DreamWorks側は
「役者として成功するためなら何でもやるハリウッドの文化を取り上げたコメディで、
障害者を蔑視する意図はない」として修正をつっぱねており、

アドボケイト側は公開に向けてピケやボイコット運動も検討中とのこと。

Nationwide ‘Thunder’ Boycott in the Works
The New York Times, August 11, 2008


既に削除されたらしいですが、
ウェブサイトの予告ポスターのキャッチは
Once upon a time there was a retard.
(昔々、あるところに1人の脳たりんがいました。)

スペシャル・オリンピックの委員長 Timothy P. Shriver氏は
かつて奴隷貿易についての映画Amistadのプロデューサーでもあったことから
「最も信じがたく最も愕然とするのは、誰もこの問題に気づかなかったことだ」と
黒人の描き方には気を使っても障害者の描き方にははなはだしく無頓着な映画関係者を批判。

“Tropic Thunder”の予告編はこちら

私の聴き取り能力を超えているので断言できませんが、
予告編は既に修正されているようです。
もちろん本編が修正されたわけではありません。

ダウン症の息子を持つジャーナリストのPatricia E. Bauerさんが
自分のブログでこの問題を継続して取り上げており、
いくつもエントリーがありますが、
特にこの件の事実関係をまとめたのはこちら

公開前のプロモ関連の映像やグッズが
「バカ」「アホ」「知恵遅れ」を売り文句にしていたことは明白なのですが、
それらは一切の説明なしに、いつのまにやら消えてしまったようです。


          ―――――――――

これ、世の中にじわりじわりと障害児・者切り捨ての空気が広がっていることと
決して無関係ではないと思う。

そして、それは日本でも同じなのかもしれない。

ずっと個人的に引っかかっていたことが
この記事を読んで、またぞろ強烈に引っかかってきたのですが、

最近、流行っている「3の倍数でアホになる」というくだらないギャグ。
あれが私にはどうにも気になってならない。

あのギャグには、「アホ」は顔のゆがみや体の一定の動きを伴うという前提があって、
あそこでギャグにされている「アホ」とは障害者に他ならないのではないかと
私にはどうしても思えてしまうのだけど、

なぜ、そのことを指摘する当事者団体も専門家もいないのだろう。

あれを、みんなで無邪気に笑っているうちに、
それを指摘しようとする姿勢そのものを
「空気が読めないヤツ」、「シャレの分からないバカ」と省みない空気が
いつのまにか広がっていくのでは?

上記のBauerさんのブログに寄せられたコメントにも
「あなたたちがジョークとかユーモアを解さないだけ」
「人の気持ちを傷つけてはいけないっていうのがいつから政治的正しさになった?」
「自分が気分が悪いというだけで、他人を非難できると考えるのは思い上がり」
などの声が目に付くのですが。
2008.08.11 / Top↑
テキサス州青少年協議会(The Texas Youth Commission)のオンブズマンへの報告書によると

テキサスの学校教育は
障害のある子どもたちにIDEAで保障されているはずの特別教育を受けさせずに
問題行動があれば停学・退学処分にして切り捨て、町に捨て放っている、

州は各地方自治体に対して障害児に連邦法で保障された教育を受けさせるよう指導し、
また少年院などの教育体制と中央からの監督体制を強化すべきである、と。

Writing Off Disabled Children
The New York Times, August 9, 2008


公教育が連邦法を遵守し障害のある子どもたちへの特別教育を保障すれば
米国の青少年向けの監獄は空になってしまう……という記事冒頭の問題提起は
日本でも指摘されている累犯障害者の問題に通じるところがありますが、

特にテキサス州を名指しでNYTimesの社説が書かれていることは
それなりに意味があることかな、と。

病院側に治療の中止を決定する権利を認める、いわゆる「無益な治療」法があり、
去年、1歳半の重症障害児を巡って病院が治療停止を決定し母親と対立した
Emilio Gonzales 事件が起こったのもテキサス州でした。


2008.08.11 / Top↑
どんな子どもでも例外なく良いところがあり、
指導方法によっては誰でも伸びる……という教育理論で
特に学習障害の権威として
Boston子ども病院、Harvard大学病院、さらに
North Carolina大学発達学習研究臨床センターで要職を歴任し
著書はベストセラー、独自理論を学校や教師に指導するNPOも立ち上げて大人気という
高名な小児科医 Dr. Melvin D. Levinが、かつての患者らから
子ども時代に診察室で性的な虐待を受けたとして訴えられている。

この長文のニュース、読めば読むほど唖然としてしまう。

長年にわたって実は苦情も出ていた、病院長への訴えもあった、
裁判になったケースまであったというのに、
病院は親や患者に事情聴取すらせず放置していたということらしく、

これが権威に弱い医学界の隠蔽体質というものか……?

Star Pediatrician Fights Accusations of Sex Abuse
The New York Times, August 6, 2008


今回訴訟を起こしたのは1967年から1985年の間にLevin医師の患者として
診察時に性的虐待を受けた男性5人。

成績不振から学習障害を疑った親に連れて行かれた子どもたちが
親を退出させたり親を入れずに診察室でLevin医師から裸になるように命じられ、
性器を弄ばれた、または夢精があるかと聞かれた、などというもの。

現在68歳で既に現役を引退しているものの
NPOでがっぽり稼いでいるLevin医師は強く否定しているが、

なんと、過去にも、この医師の行くところ、
常に性的虐待の苦情や訴訟が付きまとっていたらしい。
今回の被害者の1人が過去の患者にインタビューを重ねたところ、
かつての男性患者43人が同様の被害に遭ったと認めたとのこと。

病院へ苦情が寄せられたり、
Levin医師が病院を移動する際に院長に手紙を書いて、
次の職場に伝えた方が良いと警告した母親もいたが、
いずれも病院が患者の子どもや親に事情聴取をした形跡はなく、

裁判になったというウワサを聞いた同僚もあったが
立証されずに終わったため、病院が調査することもなかった。

訴訟に加わった男性の1人は
今回のニュースを見て被害者が自分だけではなかったのだと知り、
こんなに長い間放置されてきたことへの怒りから被害を名乗り出たのだという。

それにしても、つくづく嫌らしいなぁ……と感じるのは、
こうした被害者らの声に対して、医師らがLevin医師を庇い立てする声。

曰く、
「子どもの発達を調べるために性器をチェックするのは通常の大事な診察行為であり、
子どもの受け止めや記憶の方に問題があるのだろう」

「Levin先生は平均的な医師より慎重な、より伝統的な診察をされる方だから」

(しかし、性器のチェックは最初の診察1度でよいはずで、
被害者らは複数回診察されているとの反論も。)

また曰く、
「被害内容が同じパターンだから、報道を聞いて話を模倣する者が混じっているのだろう」

一番すごいのが元同僚だという医師いわく、
「Levin医師は何千人という患者を診ており、ほとんどの患者はloyal and gratefulなままである」。

子どもの弱い立場に付け込む小児科医から性的な虐待を受けても、
患者は“忠誠心”を持ち、診ていただく“感謝”から
黙って泣き寝入りするべきだとでもいいのでしょうか。

小児科医は子どもを守る仕事ではないのか?
その職務に対してあなたたちこそloyalであるべきなのでは? 

            ―――――

実はここにもまたDiekema医師が顔を出し、
米国小児科学会生命倫理委員会の委員長としてコメントしているのですが、
2箇所で引用されていて、

「一人の小児科医が現役で仕事をしている間にこうした苦情を受ける平均的な件数は
そういう苦情は証明されない限り表沙汰にならないのが通例なので分かりにくいです。
 しかし、私の経験では3件やそれ以上というのは平均を超えていますね」

「私から見ると、最も気になるのは
子どもたちが親のいないところで診察されていることです。
この点、われわれが通常推奨していることから外れています。
特に、それまでにも苦情があったとすれば」

なんだかAshley事件で名が売れて、
すっかり小児科生命倫理の顔になられたようですが、

「性的虐待があったという苦情も証明されなければ表ざたにならないのが通例」という認識には
なるほど、やはりそういう隠蔽体質についてはご存知でしたか……という感じ。

そして、このニュースに見られるように、
小児科医として患者を守る責務遂行よりも権威に弱い体質もね。

Ashley事件を振り返ると、
この人、こんなしたり顔で他人のことを云々する資格があるのかいな……と思う。



ちなみにLevin医師と彼のNPOについては
以下の論文で言及されていました。

学校ケースメソッドの理論
安藤輝次(奈良教育大学)
2008.08.08 / Top↑