http://www.bbc.co.uk/news/uk-wales-16701034
英国のTony Nicklinsonさんの裁判のニュース、米国でも「ロックト・イン症候群」の患者として報道。
http://yourlife.usatoday.com/health/story/2012-01-23/Briton-with-locked-in-syndrome-wants-right-to-die/52751678/1
ゲイツ財団など巨大民間団体とアグリ・ビジネスとが繋がって、カネにあかせてやりたい放題をやってきた挙句、農業関連の国際機関が資金力も影響力も失い本来果たすべき役割を果たす力を失って、公共機関と民間機関の境目が危うくなっている。この辺で総括してけじめを、というetcグループからの報告書。ざっと20ページ程度に目を通してみたところ、大筋は以下にリンクした2つで書いたような指摘。
http://www.etcgroup.org/upload/publication/pdf_file/ETComm108_GreedRevolution_120117.pdf
【関連エントリー】
「アグリビジネス」の後ろにはワクチン推進と同じ構図が見える(2011/10/5)
“大型ハイテクGM強欲ひとでなし農業“を巡る、ゲイツ財団、モンサント、米国政府、AGRAの繋がり(2011/10/27)
そうした批判を受け、ビル・ゲイツが反論。GM農業改革を批判しているのは温暖化の影響を受けるわけでもない先進国の人たちだ、と。:「もうダマ」のGM技術批判への批判がこういう路線だったような?
http://www.foxnews.com/us/2012/01/24/gates-defends-focus-on-high-tech-agriculture/
遺伝子組み換え作物に含まれるバクテリアのDNAに健康リスク? :「もうダマ」もうそうだったし、クローン肉の安全性議論の際にもそういう声が多かったけど、安全性に対する懸念の声に対しては、「科学者なら安全だと分かるのに、科学について無知な連中がやみくもに不安がっている」という批判がされるのだけど、科学者の中からも安全性に疑問を呈する声は上がっている。この記事は「責任ある科学と技術の応用を求める医師と科学者 PSRAST」から。
http://www.saynotogmos.org/scientific_studies.htm
CA州で遺伝子組み換えの魚はそれと表示する法案が提出されたものの通過せず。
http://www.indybay.org/newsitems/2012/01/20/18705119.php
英国で臓器ドナーの増加率が低すぎる、と英国の臓器連盟から指摘。これでは2013年までに50%増加させるとの政府の目標は達成できないぞ、と。移植臓器って、いついつまでにこれだけゲット、と数値目標を掲げるような性格のものだった?
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/24/organ-donor-rates-charity?CMP=EMCNEWEML1355
ES細胞治療に視力回復の希望? 米国では大きな期待を背負ったES細胞治療の実験が中止されたばかりだけに。
http://www.nytimes.com/2012/01/24/business/stem-cell-study-may-show-advance.html?_r=2&src=tp
【関連エントリー】
米国初のヒト胚幹細胞による脊損治療実験、突然の中止(2011/11/17)
子どもの肥満に影響している新たな環境ホルモンの指摘。Phthalatesなる化学物質。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240639.php
子どもにもっと身体を動かせと言うなら、ウォーキング、自転車、水泳、運動場遊びにも、もっと怪我予防を、とジョンズ・ホプキンスの研究者ら。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/240613.php
【関連エントリー】
「子どもがひとりで遊べない国 アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ(2011/12/20)
「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?(2011/12/21)
自閉症は過剰に診断されているのでは、との疑問。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240649.php
相変わらず「ビタミンD欠乏症が増えている」とビタミンD売り込みに熱心な人たちがいる。:ビタミンDにスタチンにアスピリン。予防医学の売れ筋スター達。あ、もちろん忘れてはならない、ワクチン。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240710.php
【関連エントリー】
サプリでさんざん儲けた後で「やっぱりビタミンDの摂り過ぎはよくない」って(2010/11/30)
日本語。中間層支援へ富裕層増税 米大統領が一般教書演説
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C9381959FE0E7E2E0E18DE0E7E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2
94歳の男性が入所した日に殺され、恐らくは入所者の犯行ではないかと疑われている認知症ナーシング・ホームで、5年前に監視カメラの設置が提案されながらプライバシーと尊厳の侵害になるとして計画が却下されていた、と。監視カメラが当たり前にされていきそうな気配。
http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/call-for-cameras-rejected/2431627.aspx?src=enews
日本。[ケア][社会保障]介護が女性の就業に与える影響についてメモ dojinさんのブログから。
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20120124#p1
「世代別の受益と負担」を計量的に推計する世代会計論やその論壇・世間向けバージョンである世代間格差論は、(主に年金をターゲットにしているとはいえ) このような高齢者向けの公的社会保障の縮小が、家族というインフォーマルな領域に与える「負担」の影響や、男性・女性間および所得階層ごとの影響の非対称 性・異質性など、「社会全体」に与える様々な影響やその非対称性・異質性を計量的分析に組み込めていない。(ただし、これは、理論的・技術的に難しいとい うのもあるが、フォーカスが一定の仮定に基づいた「世代間格差」にあるからこそ捨象しているという側面もあるだろう。)
アボカド専門店。大阪に。
http://avocadoya.ocnk.net/
アイルランドのEUコミッショナー、Maire Geoghegan-Quinn氏が
一昨日、EUの自らの事務所でビル・ゲイツと会談。
既にEU政府もEU委員会も
アフリカのサブ・サハラ地域でのHIV、結核、マラリア治療薬の臨床実験への資金提供で
ゲイツ財団と提携しており、
会談の後、Geoghegan-Quinn氏は
「欧州委員会とビル&メリンダゲイツ財団は
多くの研究ゴールと優先順位を共有しており、既に良好に協働している。
今後さらに緊密に協力していけるのが楽しみ」と。
二人はそれら臨床実験だけでなく、
貧困関連病、難病、それから食料の安定(food security)について話し合ったとのこと。
Geoghegan-Quinn meets Bill Gates for talks on aid project
Independent.ie, January 24, 2012
去年、以下のエントリーを書いた際に、私は
「途上国は、先進国がやりたい放題できる人体実験場と化しているのでは?」と書いた。
ゲイツ財団肝いり“HIV感染予防ゼリー”は「新たなタスキギ実験」?(2011/6/24)
この実験はその後、以下のエントリーで報告したように、中止になっているけれど、
このニュースでも別の治験が進行していることが言及されている。
“HIV感染予防ゼリー、”効果確認できず大規模治験が中止に(2011/12/10)
途上国が人体実験場と化しているのでは、との疑惑関連では ↓
ファイザー製薬ナイジェリアの子どももに違法な治験、11人が死亡(2009/2/1)
タスキギだけじゃなかった米の非人道的人体実験、グァテマラでも(2011/6/9)
米の科学者ら、非倫理的だと承知の上でグァテマラの性病実験を実施(2011/8/31)
そこにゲイツ財団の慈善資本主義が絡んでいるのでは、との疑惑関連では ↓
ゲイツ財団がコークとマックに投資することの怪、そこから見えてくるもの(2011/3/9)
各国政府がワクチンだけで財布を閉じるなど「許されてはならない……」とGuardianがゲイツ財団の代弁(2011/6/17)
公衆衛生でマラリア死8割減のエリトリアから「製薬会社株主ビル・ゲイツのワクチン開発」批判(2011/8/2)
また、昨日の会談で協議されたという food security とは、
ゲイツ財団がモンサントなどアグリ・ビジネスとつるんで進めているGM農業改革のことでは? ↓
ゲイツ財団がインドで目論んでいるのはワクチン普及だけでなくGM農業改革も(2011/4/16)
「アグリビジネス」の後ろにはワクチン推進と同じ構図が見える(2011/10/5)
“大型ハイテクGM強欲ひとでなし農業“を巡る、ゲイツ財団、モンサント、米国政府、AGRAの繋がり(2011/10/27)
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/23/locked-in-syndrome-high-court?newsfeed=true
【関連エントリー】
“ロックト・イン症候群”の男性が「妻に殺してもらう権利」求め提訴(英)(2010/7/20)
この情報、コワい。英国人の Dignitas 会員登録が14%も急増。老後の保険として。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/9028651/14-rise-in-British-members-of-Dignitas.html
【関連エントリー】
国別・Dignitasの幇助自殺者、登録会員数一覧(2010/3/1)
マンモグラフィー、実は利益よりも害の方が大きい?
http://www.guardian.co.uk/science/2012/jan/23/breast-cancer-screening-not-justified?CMP=EMCNEWEML1355
豊胸手術など美容整形の広告はもっと規制すべき、と学会医師ら。
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2012/jan/22/ban-advertising-cosmetic-surgery?CMP=EMCNEWEML1355
日本語。270グラムで生まれた赤ちゃんが退院 米
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20120123-00000005-nnn-int
クロアチア、国民投票でEU加盟へ。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/22/croatia-eu-referendum-vote?CMP=EMCNEWEML1355
日本。姉病死 妹は凍死 札幌 妹、今月上旬以降に :妹さんの方に知的障害があった。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/345356.html
生活保護を相談、申請はせず…札幌2遺体
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20120123-OYT8T00677.htm?from=tw
日本。禁断の果実? 障害者雇用代行・・・:唖然……。
http://blogs.yahoo.co.jp/uchayamamingkun2000/33874619.html
日本。県「コーディネーター」配置へ:障害者向け相談窓口の担当者不足や専門性の不十分を補うため。けど、そういう問題なのかなぁ?
www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=53256
日本。知的障害者の弁護、日弁連が手引き 接見に医師同席
http://www.asahi.com/national/update/0122/SEB201201210081.html
日本。発達障害の4歳長男を殺害した母親…夫の苦悩:判決の日のニュースでも「夫や親族が近くにおり、追い詰められた状況とは言えない。命を軽視するにもほどがある」という裁判官の単純な思考回路にムチャクチャ不愉快だった。「近くにいるからこそ追い詰められる」のも家族。それにしても、この父親は、なぜ母親が長女を殺そうとした事実を曖昧にしたまま親子3人で出直せると考えるのだろう? そこのところに、母親を追い詰めていった「戸棚の中のドクロ」の匂い?
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120121/trl12012112010000-n1.htm
32歳の精神障害者Mary Moe (仮名)への強制中絶と不妊手術を命じる判決を出した。
それについては、専門家らからも
近年聞いたこともない、極端すぎるなど批判が相次いでいたが、
17日、上訴裁判所が不適切だとして破棄したとのこと。
「子どもを産む・産まないを自分で決める決定権は基本的なものであり、
意思決定能力が十分でない人を含めて全ての人に当てはめられなければならない」
「誰もそこまで求めていないし、強制不妊に求められる手続きも一切踏まえていない。
何の根拠もない手続きを勝手に設定したとしか思えない」など、
上訴裁判所の判事は検認裁判所の判断を厳しく非難した。
それにより裁判は家庭裁判所に差し戻されることに。
なお女性は現在、妊娠5カ月。
Mary Moeさんは重症の統合失調症と双極性障害を診断されている。
これまでに2回妊娠したことがあり、最初の妊娠は中絶。
その後、症状の悪化による入院を経て2度目の妊娠。
男児が生まれ、Mary Moeさんの両親が育てている。
去年10月に救急病院を受診した際に妊娠していることが判明。
州のメンタル・ヘルス部局が、両親を代理決定者として強制中絶の許可を求めた。
両親は中絶が娘の最善の利益だと主張。
主治医らからも、精神障害の治療薬が胎児に悪影響を及ぼす、
妊娠継続により本人の治療が困難となる、などの意見書が出された。
本人は自分はカトリック教徒だとして中絶は望まない、と語ると同時に
現在妊娠中であることは否定。診察も拒んだ。
また、かつての中絶について聞かれると情緒的に不安定となった。
裁判所が任命した専門家は
Moeさんに自己決定能力があったとしたら中絶しないことを選択するだろうと判断したが、
検認裁判所の判事はこれを採用せず、
本人に意思決定能力があったとしたら「幻覚に惑わされないことを選」び、
中絶して治療薬を飲むことを望むはずだと判断。
両親を代理決定者に任命して、
「なだめたりすかしたり、それでだめなら策を弄してでも」
Moeさんを病院へ連れて行って人工妊娠中絶手術を行い、その後、
「このような苦しい事態が将来繰り返されないよう」不妊手術を行うよう命じた。
今回の上訴裁判所の逆転判決は多くの専門家やアドボケイトに歓迎されているが、
こうしたケースでの同意問題を研究してきたYeshiva大学の Daniel Pollackは
「我々が知っている以上に、こうした命令は出されているのでは」
かつてに比べれば精神障害者の自己決定権は尊重されるようになってきたとはいえ
事案の微妙さのため、これまでの裁判記録は公開されていない。
Court strikes decision for mentally ill woman’s abortion
Boston Globe, January 18, 2012
この判決を受けて、
生命倫理学者のArt CaplanがMSNBCに
「不妊も強制中絶も答えではない」とのタイトルで賛意の論考を寄せている。
興味深いのは
上訴裁判所の差し戻し判断そのものは妥当だと考えつつも、
その理由は間違っている、と述べていること。
NC州が過去の強制不妊施策の補償に踏み切ったばかりであることに触れて、
強制不妊の濫用の歴史の重さを語り、問われるべき本質的な問いは実は
Moeのような人は強制不妊でなければセックスを禁じられるのか、だとCaplanはいう。
しかしセックスをさせないことは不可能である。
不妊手術に同意することもできないのならば、
精神障害から回復して自己決定できるようになるまでの間、
永続的な避妊が行われるべきだろう、と。
中絶についても
重症の人に意思決定能力があった場合の望みや意思を推し量ることは無意味。
既に娘が生んだ子どもを一人育てている貧しい両親が
これ以上娘の心配をしたくないという気持ちも、
これ以上娘が産む子どもを引き受けたくないという気持ちも分かるが、
それで両親に決定権が与えられるというものでもないし、
中絶が解決策だとも思わない。
Moeの治療薬と胎児への影響の問題は、薬を減らす、またはやめればよい、
Moeも両親も子どもを育てられないなら養子に出すことが最善だろう。
Mary Moeがまた妊娠するようなことは確かに本人の最善の利益ではない。
Moe自身の意思が不明なまま胎児を殺すことは胎児の最善の利益ではない。
このケースには考えるべきことが多々あるが、
その解決策を強制不妊や本人同意のない妊娠中絶に求めるべきではない。
Sterilization, forced abortion are never the answer, bioethicist says
MSNBC, January 20, 2012
ちなみに、去年の秋に世界医師会から以下のような見解が出されています。
(それまでの当ブログの関連エントリーもこの中にリンクしました)
世界医師会が「強制不妊は医療の誤用。医療倫理違反、人権侵害」(2011/9/12)
一方、続報を追い切れていませんが、
去年、英国でも以下のような裁判がありました ↓
英国で知的障害女性に強制不妊手術か、保護裁判所が今日にも判決(2011/2/15)
英国の裁判のことを考えてみても、
Mary Moeさんの事件で私が一番気になるのは
当初の裁判を起こしたのが州の保健当局だという点――。
NC州のように過去の反省、謝罪と被害者への補償に向かう動きがある一方で、
米国のAshley事件、オーストラリアのAngela事件などを振り返ると
知的障害児・者への強制不妊手術には、一種、政治的と呼びたいような
過去への回帰の動きがあるのでは?
その動きには、どこか、
世界中に野火のように広がっていく「死の自己決定権」運動に似た
大きな政治的な意図が匂っているような気がする。
そういえばマサチューセッツ州といえばハーバード大学を擁し、
科学とテクノで簡単解決バンザイ文化の強いところでもある。
ワシントン州にゲイツ財団とつながりの深いワシントン大学があるように。
【NC州の補償問題関連エントリー】
NC州で、かつての強制不妊事業の犠牲者への補償に向け知事命令(2011/3/21)
NC州の強制不妊事業の犠牲者への補償調査委員会から中間報告書(2011/8/15)
2011年12月10日の補遺
ノース・カロライナ州の1933-1977年の優生施策の推定7600人への補償問題。人数ではヴァージニアやカリフォルニアの方が多いが、ソーシャルワーカーにまで選別の権限を与えたのはNC州のみ。犠牲者の多くは貧困層やマイノリティの若い女性や知的障害者。
http://www.nytimes.com/2011/12/10/us/redress-weighed-for-forced-sterilizations-in-north-carolina.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha23
生殖補助医療をめぐる架空のケース。
架空のケースにしたのは、
生殖補助医療に伴う深刻な倫理問題をここでは一旦置いて
障害者の子育て能力を巡る医療サイドの偏見に議論を焦点化するため。
Bob&Julie Egan夫妻は大学で知り合って卒業後に結婚。
Julieは未熟児網膜症で目が見えない。
学生時代から杖と盲導犬を使って自立生活を送る優秀な学生だったが、
当時から時々うつ病の症状が悪化すると第三世代といわれる抗ウツ薬を飲んでいた。
何年かの結婚生活の後に子どもを作ろうとしたがかなわず、
生殖補助クリニックの予約を取ったところでBobが事故で脊損に。
何カ月かの治療とリハビリを経て電動車いすと改造車を使いこなせるようになる。
セックスは可能で精子も作られているが
障害のために射精ができないので、
新たな暮らし方が定着してきたところで
2人は改めて生殖補助医療を受けようと希望し、
かつてのクリニックを受診する。
しかし、数日後、2人はクリニックの医師から治療を断られてしまう。
その理由は、2人の障害を考えると、
生まれてくる子どもを安全に育てられると思えない、というものだった。
医師は既に弁護士に相談しており、
弁護士は以下の理由で断っても違法ではないと判断した。
① 医師と患者の関係は自発的かつ個人的なもので
法的に禁じられた理由以外であれば、医師には
その関係を選ばない自己決定権が認められている、という。
② 「直接的脅威」ディフェンスが当てはまる。
他者の健康や安全が脅かされる場合には
医師にADA違反の行為を認められている。
ウ―レットによれば、
この架空のケースを巡っては、生命倫理学も障害者運動も、
障害を理由に人工授精を認めないのは倫理的にも法的にも問題がある、
という基本認識では一致している、という。
しかし、問題は医療現場に根強い「障害者は良い親になれない」との偏見で、
この点が障害者運動からの強い批判にさらされているところ。
一つには、どのカップルに人工授精を認めるかの判断基準が全く統一されておらず、
それぞれの医師によって主観的に決められている現状がある。
そこに障害のある人は十分な子育て能力を持たないとの偏見が入り込んでいる。
その一方で、医療職にも障害者差別を禁じたADAには
例外規定や曖昧な表現があって、そこから障害者への別扱いを容認する余地が生まれ、
実際に医療職がADA違反を問われることはほとんどない。
そのため、医療における障害者差別が
医師の自己決定権の範囲に置かれてしまっているのが実情で、
生殖補助医療学会の倫理学会はガイドラインで慎重な判断を呼び掛けてはいるが
生殖補助医療ではその他の領域以上に法や倫理規定への遵守意識が希薄。
実際、法的にも、その偏見は根強く、
障害者は良い親になれないとの偏見によって親権を奪われるケースは多い。
カリフォルニア州のWilliam Carneyの裁判では
トライアル裁判所の判事は「身障のため、子どもにしてやれるのは
お話しして勉強を教えることくらい。どこかへ連れて行ったり、
一緒に野球や釣りをしてくれる親の方が子どもには良い」と述べたが、
最高裁で障害者運動の側は
子育ては身体的なケア以上のものだと親子の関係を広く捉えて
「子育ての本質は、人格形成期を通じて、それ以後にも、子どもに
親として倫理的、情緒的、知的指導を行うこと」と反論した。
障害者運動が、障害者にも、子育て能力を巡る予見なしに
障害のない人と同じ体外受精へのアクセスが保証されるべきだと主張してきた一方、
生命倫理は同じ懸念をもちつつ、
子どもと不妊の親と医療職それぞれの利益をどのように考えるかを議論してきた。
生殖補助医療学会の倫理委の結論は、大まかに言えば
障害者の子育て能力について根拠のない偏見や疑いに基づいての治療拒否を不可とし、
根拠を持って判断するなら治療拒否は医師の自己決定権のうち、というもの。
根拠が確かな理由の例としては
「未制御の精神病、子供または配偶者への虐待、薬物濫用」
障害者サイドは、
仮に障害のために親として十分に機能することができないとしても、
家族や友人、その他の支援ネットワークによって補うことは可能だと訴えている。
―――――
ウ―レットの考察。
生命倫理はなぜ先端技術と終末期医療にばかり興味を持って、
その途上での障害者のリプロダクティブ・ヘルスや子育てを議論しないのか。
障害のある女性が上がりにくい診察台の問題は対応するつもりがあれば解決も可能なのに
それがいつまでも放置されることの背景に、この生命倫理のプライオリティの問題がある。
生命倫理が障害者との対話を始めることによって、
これらのバリアを排除することを通じて両者の信頼関係を築いてはどうか。
その他の問題に比べれば、
障害者への強制不妊の問題では両者は一致している点が多いのも、
終末期医療やアシュリー療法に比べれば、強制不妊については
両者とも長らく議論し、その中から相手側への理解が進んできたからであろう。
医療サイドに障害者への偏見があるなら、
医療の現場に足がかりのある臨床倫理学者にこそ
医学教育や研修内容に障害者問題を含める工夫をし、
医学教育に障害者問題の専門家を連れてくるなど
その偏見を解く役割があるはずだ。
そして、
ただ診察台に上がれないというだけで
婦人科の検診を拒まれてきた障害のある女性たちの声に耳を傾け、
まずはこうした解決可能な小さな問題から一緒に取り組みつつ、
両者の対話を進め、信頼関係を築いていってはどうか。
I know how powerfully my interactions and the friendships I’ve developed with people with disabilities have changed my understanding of disability over the course of this project.
この本を書くに当たって障害のある人たちとの間に作ってきた相互関係と友人関係が、私の障害に対する理解をどれほど強力に変えてきたか、私は知っている。
(p.234)
http://www.bloomberg.com/news/2012-01-19/gates-backed-vaccine-fund-says-money-stolen-misused-in-africa.html
Lancetの論説。Global health in 2012: development to sustainability.
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2812%2960081-6/fulltext?elsca1=ETOC-LANCET&elsca2=email&elsca3=segment
連立政権樹立から、NHSでの治療を18週以上待っている患者が43%も増加。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/19/patients-missing-nhs-waiting-time-target?CMP=EMCNEWEML1355
NYT. 自閉症の定義が変わり、各種支援の対象から外れる人が出る?
New Definition of Autism Will Exclude Many, Study Suggests: Changes to the way autism is diagnosed may make it harder for many people who would no longer meet the criteria to get health, educational and social services, researchers say.
ナーシング・ホームで抗ウツ薬を飲んでいる認知症患者は転倒リスクが上がる。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240492.php
レオナード・コーエンがニュー・アルバム “Old Ideas”。
http://www.guardian.co.uk/music/2012/jan/19/leonard-cohen?CMP=EMCNEWEML1355
Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」(2012/1/17)
Oulletteが「生命倫理と障害」の第5章(生殖年齢)で取り上げているケースは
1985年カリフォルニア州のValerieの裁判。
過去の優生思想による強制不妊の歴史への反省から
それまで障害者への強制不妊が全面的に禁止されてきた方針は、却って、
憲法の第14条修正などで保障されたプライバシーと自由の権利を侵害するとして、
条件により容認へと変わる転換点となった裁判。
Valerieは当時29歳。ダウン症でIQは30。
母親と母親の再婚相手と幼時から一緒に暮らしており、
両親はなるべく本人に自由で広い社会生活を送らせたいと願っているが
性的な関心が強いValerieが場所や相手を構わず男性に性的行為を仕掛けていくので
両親の目の届くところから外へ出しにくく、
ピルは身体に合わなかったし、
その他の方法を試そうにも本人が受診を嫌がるので、
医師から卵管結紮を勧められた、
それにより、家の外で自由に行動させてやることができ
本人のQOL向上に資する、として、両親が許可を求めたもの。
Valerie本人を代理する弁護士が任命され、
その弁護士が問題にしたのは「もっと侵襲度の低い方法で」という点と、
もう1つが「そもそもカリフォルニア州の裁判所に不妊手術を認める権限があるのか」。
前述のように、「自己決定能力を欠いた発達障害者への」不妊手術を
当時のカリフォルニア州法は全面的に禁止していたため、
カリフォルニア州の裁判所には認める権限がないこととなり、
そこでValerieの両親は
「重症障害者の不妊手術を禁じる州法は違憲」として同州最高裁に上訴。
Valerieには、可能な限り豊かで実りある人生を送る自身の利益を守るべく
子どもを産む・産まない、産まない場合の避妊方法についての決断を
両親に代理決定してもらう憲法上の権利があるかどうか、が焦点となった。
憲法が結婚と生殖の自由・権利を認めている以上、
障害のある女性にも障害のない女性と同じく
望まない妊娠をせずに満足のいく充実した人生を送る権利があり、
州法によって不妊手術が全面禁止されるならば
自分の状態に応じた唯一の安全な避妊方法を奪われる人が生じる、として、
最高裁は、全面禁止は憲法違反と判断した。
3人の裁判官が反対意見を述べたが、その理由としては以下の2点。
・Valerieの両親の不妊手術の理由こそ、かつての強制不妊の背景にあった価値観だった。
・全面禁止によってこそ自己決定できない人の利益の保護は可能。
ただし、Valerieの両親の要望は
より侵襲度の低い方法では目的が達成できないとのエビデンスが十分ではないこと、
Valerieが実際に妊娠する可能性のエビデンスが十分ではないこと、
などの理由で却下された。
・・・
全面禁止ではなく個別判断で、との方針転換そのものは
生命倫理学からも障害者運動からも、共に支持された、とウ―レットは言う。
両者に意見の相違があったのは、
本人以外の誰がどのような状況下で決定することができるのか、という点だけれど、
厳しいセーフガードを必要とする姿勢は
障害者アドボケイトだけでなく生命倫理学者の間でも共通している、として、
生命倫理学者Diekema、Cantor、障害学の学者 Fields、3人の議論を引用している。
Deikemaの論文についてはこちらに ↓
知的障害者不妊手術に関するD医師の公式見解(2008/8/21)
Diekemaはお馴染みAshley事件の担当医だったわけなのだけど、
A事件の正当化とは全く矛盾する彼の慎重論を知らん顔で引っ張ってくるあたり、
ウ―レットもなかなかやるんである。
Cantorの議論は、
望まない治療を拒否する権利と同じ、以下の3つの利益基準を適用し、
① 自己決定という利益
② 幸福における利益(治療決定の影響を全体的に捉える)
③ 身体の統合性を維持する利益(無用な身体の侵襲を受けない自由)
代理決定者がこの3つを十分に考慮するなら
不妊手術を選択肢にすることで障害者の尊厳の侵害が回避される、と説き、
本人利益のみを代理する法的代理人を置くことと、
独立した病院内倫理委で検討することを条件としている。
Martha Fieldは裁判所の判断を必須としつつ、
さらに「裁判官にも偏見や欠陥がある」と述べて
裁判所の審理にも厳格な基準を設けるべきだと主張。
(オーストラリアのAngela事件を思うと、これは重要な指摘だと思う)
特に、本人の最善の利益判断においては
家族や社会の利益ではなく、本人だけの利益に限定する必要を強調している。
この後ウ―レットが書いていることが、私には非常に気にかかる。
Ashleyのケースがトップニュースになるまでは、生命倫理学者らもFieldsやその他の障害の専門家と同じく、不妊手術の最善の利益検討では介護者の利益ではなく本人の利益だけを問題とするとの意見だったように思えた。アシュリー事件でのパラダイム・シフトは、今のところ、まだ強制不妊のケースでの生命倫理分析に影響してはいない。
そのAshley事件でのシフトを起こしたのは、Diekema自身――。
彼がA事件以降、強制不妊の問題だけでなく障害児・者の切り捨てに向けて
それまでの慎重姿勢からスタンスを大きくシフトさせていることを考えると、
ウ―レットがここで書いている「まだ」という一言は、決して小さくはない。
http://www.birminghampost.net/news/west-midlands-news/2012/01/18/wolverhampton-to-stage-play-of-woman-s-assisted-suicide-at-dignitas-65233-30148982/
Hertfordshireの高齢者チャリティAgeUKのトップが、自殺幇助合法化を提言したFalconer委員会の報告書を支持。:ついに高齢者チャリティまでが。
http://www.hertfordshiremercury.co.uk/Cheshunt-and-Waltham/Assisted-dying-status-quo-defended-by-elderly-charity-chief-18012012.htm
英国の介護者支援で、未支援の介護者発見にスーパーの店員さんにも一役買ってもらおうという案が出ていることは去年12月29日の補遺で拾って「やり過ぎでは」という感想を持ったけど、議員さんたちも同感みたい。でも、「そこまでやると、まるで監視社会」と思いかけて、だからこそ却って英国らしい発想なのか……とも。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-16599146
中国で富裕層が増えるにつれ、慈善家も増えているらしくて、ビル・ゲイツが歓迎。
http://www.chinadaily.com.cn/bizchina/2012-01/17/content_14463894.htm
アフリカのマラリア撲滅運動に乗じて、抗マラリア薬の偽物が出回っているらしい。:この話、偽物が出回るからけしからんという読み方もあるけど、偽物が出回るというのは、それがゼニになるマーケットだと読んでのことだという読み方も、実は重要かも?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240406.php
アスピリンを毎日飲んだからって、現在心臓病がない人の心臓病予防にはならないらしい。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/study-questions-daily-aspirin-heart-benefits/2012/01/12/gIQABMvC4P_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
【関連エントリー】
健康な人も5種混合薬を毎日飲んで将来の心臓病リスクを半減しようって(2009/4/2)
「40過ぎたらガン予防で毎日アスピリンを飲みましょう」って(2009/4/30)
2010年12月7日の補遺
2011年1月1日の補遺
2011年10月28日の補遺
グァテマラの非倫理的な人体実験の報告を受けて、オバマ大統領が諮問していた倫理問題諮問委員会から、人体事件の被験者保護を強化するよう提言。
http://www.nature.com/news/us-bioethics-panel-urges-stronger-protections-for-human-subjects-1.9647
【関連エントリー】
タスキギだけじゃなかった米の非人道的人体実験、グァテマラでも(2011/6/9)
米の科学者ら、非倫理的だと承知の上でグァテマラの性病実験を実施(2011/8/31)
日本。「安易に幹細胞治療を受けないように」
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=53164
【関連エントリー】
「幹細胞治療のウェブサイトは危険」と専門家が警告(2008/12/8)
米国FDAが認めなかったかな細胞治療、英国で治験へ(2009/1/19)
早くも米国で胚性幹細胞による脊損治療実験にGO(2009/1/24)
米国初のヒト胚幹細胞による脊損治療実験、突然の中止(2011/11/17)
日本語。ホルムズ海峡危機 米軍は「完全な準備できている」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120119-00000507-san-int
東アフリカで干ばつ。
http://www.guardian.co.uk/world/2012/jan/18/east-africa-drought-disaster-report?CMP=EM
母親が顛末を書き病院に撤回を訴えたブログに2万を超える署名が集まっている。
Amelia Riveraちゃん、3歳。
染色体異常の一種、ウォルフヒルシュホーン症候群で
発達が遅れ、てんかんや知的障害もある。
腎臓移植をしなければ余命1年程度と診断されているのだけれど、
母親の話では、1月10日に移植医とソーシャル・ワーカーとの面談で、
両親はAmeliaちゃんが“精神薄弱”だから移植待機リストには載せられない、と言われた。
身内の中で適合する腎臓の生体ドナーを探すというと、
移植後に飲まなければならない薬をきちんと飲めそうにない、
また現在飲んでいる抗けいれん薬と一緒には飲めない、
移植してもいずれまた次の移植が必要となる、
などの理由で、それも薦められないという話だった。
病院側はFacebookで個別ケースについて事情は明かせないとしながらも
知的障害を理由に移植を拒否することはない、とも。
母親は
「じゃぁ、半年後から1年後に腎臓がいよいよもたなくなったら
私たちにこの子を死なせろというんですか? と聞いたら、医師は yes と言いました」。
騒ぎになって、病院側は再度、両親と移植チームとの面談を予定。
障害のある子どもたちの移植問題を研究しているスタンフォード大のDavid Magnus教授が
2009年に小児移植の専門誌に発表した報告論文によると、
小児の固形臓器移植の待機リスト登録の決定要因に神経発達遅滞(NDD)を含めるかについて
移植プログラムによってバラツキがあって一貫しておらず、
移植プログラムの33%が「含めたことがない」「ほとんどない」と答えたのに対して
43%が「常に」または「たいてい」含める、と答えている。
62%がそれを決めるのは非公式のプロセスだと報告し、
統一された明確な公式手続きがあると答えた病院はゼロだった。
また遅滞の程度についても病院によってバラついており、
14%が軽度または中等度のNDDでも、どちらかといえば待機リストに載せない要素と答え、
待機リストに載せる決断にNDDは全く無関係と答えた病院は2%だった。
Arthur Caplanによると、
医師はそれぞれの子どもの症状、QOLに関する考慮、寿命などによって
移植の対象としないという決断をしているという。
例えば植物状態にある子どもや
移植後の管理が十分にできないと思われる施設入所の場合などは
移植の対象としないことが検討される。
手術の成功率に関わる病状がカウントされるのは正当な理由だが
知的障害それ自体を候補としない理由にするのは偏見であり、
QOLに価値判断を持ちこんで
「知的障害それ自体を移植の候補者としない理由にしている移植センターがあるのは事実だが
それは偏見だと思う」とCaplan。
Mom says special needs daughter denied life-saving kidney transplant
CBS News, January 17, 2012
Denying an organ to a ‘mentally retarded’ child
WP, January 17, 2012
Ameliaちゃんの場合、知的障害そのものが理由とされたのか、
それともCaplanの言うように、その他の病状によって手術が成功すると思えないのか、
もしかしたら後者の説明がきちんと誠意を持ってされず、
両親の誤解を招いたケースの可能性もあるのかも……?
David Magnus医師といえば、私にとっては
とても温かく記憶に残っている医師です。
2007年のシアトルこども病院生命倫理カンファで
「発達に遅れのある子どもを臓器移植の候補者リストに載せるべきか?」と題して
プレゼンを行っていました ↓
障害児の臓器移植 Magnus 講演 1(2007/9/8)
障害児の臓器移植 Magnus講演 2(2007/9/8)
そして、その中でルシール・パッカード病院が多くの倫理学者を参加させて作った、
以下の「予備的コンセンサス」を発表しています。
・親が望めば、どの子も評価・検討をしてもらえること。
・すべての決定はケース・バイ・ケース原則にて。
・評価のプロセスには、熟練した発達の専門家によるアセスメントが必ず含まれること。
・リストに挙げるかどうかの判断に発達の専門家が加わること。
・永続的に意識のない子どもは対象としない。
・軽度または中等度のNDDはそれ自体では、否定的な指標とはならない。
・「利益対負担」の判断からリストに載せない判断をする場合には、パリアティブ・ケアが必要。
・決定プロセスの透明性が必要。
・NDDの移植アウトカムについて、より良いデータが残される必要がある。
・親と医師のコンフリクト対応のため、不服申し立てが出来る機構が考えられなければならない。
このコンセンサスの作成には
CaplanもDiekemaもTruogやVeatchやRossやWilfondその他
多くの倫理学者が参加していますが
Magnusは講演の中で、特に障害児のアセスメントについて
発達の専門家のアセスメントを経なければ表面的には分からないと
強調していたのが印象的でした。
また、Fostらとのパネルでも、
障害児なんぞにかけるコストは無駄と、切り捨て姿勢を露骨にするFostに
Magnus一人が何度も反論していたのが、とても心に残りました ↓
Fostのゴーマン全開 13日午前のパネル(2007/9/12)
ずっとグルグルしている。
Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」
今朝一番のツイッターで、mnagawaさんがこの話題に反応しておられるのを発見したことから、
ぐるぐるが俄かにいくつかの焦点を結び始めた気がするので、
今までに考えたことを、ざっくりと。
ツイッターでmnagawaさんも
「女性が真っすぐな眼差しをして座ってるんだなと思ったのが最初」と書いておられるけれど、
私もこの像で目が止まったのは「まっすぐなまなざし」と「すっくと伸びた背」だった。
全体として受けた印象は、「強さ」と「清潔」。
同時に、ここに描かれているものは「意志」……? とも思った。
それが生きる意思なのか、子を産み育てようとする意思なのか、はたまた全然ちがうのか、
そんなことは本人以外には分かりようがないことだから詮索しても仕方がないのだけれど、
そこに一つの強い意思がある、ということを像が表現しているように感じた。
「清潔」だと感じたのは、
妊娠している以外に過剰に女性性が強調されていないからだと思う。
女性の身体ではあるけれど、存在そのものはとても中性的な感じがする。
「ここに妊娠している一人の人がいる」とでもいったふうな。
例えば髪が短いとか、顔が中性的だということだけではなくて、
もうちょっと、そこに描かれている人の存在感そのものが
私には「女性」というよりも「ひとりの人」だった。
BBCに引用されていた評論家は
「非常に力強く、女性の、生命の、真の美しさ」と言っているのだけど、
私は「女性の」ではなく「生命の」でもなく、「真の」でもなくて、
「アリソン・ラッパーという一人の人がある強い意思を持ってそこにいる、
その姿を描いて、そこに描かれた凛と澄んだ意思の強さが美しい」というふうに感じた。
それでも、この像を「醜悪」だと感じる人がいる。
そのことについて考えていて、頭に浮かんだのは2つ。
1つは、
この像に私はたいした違和感はないんだけど、それは何故だろう、と考えていたら
この像って、妊娠していることを除けば、あの乙武クンと同じ姿なんでは?
乙武クンが発言・行動し、マスコミに登場してくれたおかげで、
私たち日本人は英国人よりはるかに「手がなく脚が短い身体」を見慣れているのかも?
じゃぁ「醜悪」だと感じる違和感には
「慣れ」の問題という部分も大きいのか……?
……と考えて、もう1つ、連想が繋がったのが、
娘とその周辺にいくらでもいる「奇妙な身体を持った人たち」のこと。
ミュウ自身、背中が3次元にねじれているし脚も曲がったまま固まっているから、
私たち親は見慣れているし、そういう身体ごとミュウはミュウなので、
大したことでも何でもないけれど、初めて見る人にとっては
「なんてねじれた身体」「気持ち悪い身体」と見えるのだろうと想像してみる。
そして実際、世の中にはミュウ以上に身体が変形した人たちが沢山いる。
中には、いいかげん見慣れている私自身、初めて見た時に思わず息を飲み、
いったい人の身体のどこがどうなったらこうなるのか、と内心でこっそり考えたほど、
見事な(?)変形をきたした人もある。
そういう「変形した身体」「ねじれた身体」「奇妙な身体」を持った人たちが
文字通りフロア・ライフでゴロゴロしているのが重症障害者の世界なわけで、
これもまた見慣れた私には大したことでも何でもないけれど、
そういう人たちが自力で動くと、その動きもまた見慣れていない人の目には
「異様な動き」「気持ち悪い動き」と映るのだろう。
でも、
先の見事なほどの変形をきたした身体の持ち主であるAさんとその後、何度も接しているうちに、
個人的に知りあい、Aさん「その人」と日常的にやりとりをしていると、
本当に身体はぜんぜん問題ではなくなるものなんですよ、これが。
AさんはAさんでしかなく、たまに意識するとしても
せいぜいが「そういう身体を持ったAさん」でしかない。
でも、たぶん、そういう体験そのものは
案外に誰もが経験しているんじゃないだろうか。
自分のセックスのパートナーが必ずしも
グラビア・アイドルやイケメン俳優みたいな
パーフェクトな容貌や身体の持ち主でなくても
みんなそれはそれとして何ら問題なくやっていけていることと
それは、とても似ていることのような気がする。
恋愛して好きになった人とセックスする段になって
期待以下の身体だったから愛情そのものが冷めてしまった、という人はいないだろうし、
いたとしたら、それは愛情そのものがその程度のものだったということだろうから、
人と人との関係性の中では、身体って所詮はその程度のことでしかないんでは?
誰かの「異なった身体」がインパクトを持つのは、それを初めて見た瞬間だけ。
そして、相手との関係性の中では、その一瞬にはほとんど意味はないのでは?
mnagawaさんは、ラッパー像の四肢の様態について
「(自身にとっては)プラスにもマイナスにもあまり働かない」と書いている。
私もそう。
それは、たぶん、「見慣れている」というだけではなく、
そういう名前も個性もある「その人」との「出会い」を繰り返し体験して、
人との関係性の中で身体はその程度のものでしかないことを知っているからなのでは?
そしてそれは、上でセックスについて書いたように、本当は誰もが知っていることなのに、
人に愛されるためにはパーフェクトな身体を手に入れることが大事なのだと
誤って思いこまされてしまうのと同じように、
「障害ゆえに異なっている身体」だけが「そういう身体を持ったその人」よりも大問題だと
どこかで誤って思いこんでいるだけなのでは?
そういえば、この前、
重症障害児・者を見たことも触ったこともない学者さんたちが
アカデミックな世界で障害のある新生児の中絶や安楽死を議論していることへの疑問から
そういう人たちと「出会う」べく行動を起こしてほしいと、ある人にお願いし、
「見学にいく」のではなく「出会って」ほしいのだと念押ししたのだけれど、
「見学」にいって、フロアで文字通りごろごろしている
いくつもの「ねじれた身体」や「奇妙な身体」を「見て」終わってしまったら、
「自分ならこんな姿になってまで生きたいとは思わない」的な安易な感想に繋がらないとも限らない。
だからこそ、
その中の誰かと触れあい、○○さんという名前を持ち個性を持った人と接し、付き合ううちに、
ねじれた身体が全然問題ではなくなる「○○さんとの出会い」の体験をしてもらいたい。
「出会ってほしい」にこだわった私自身の気持ちとは
改めて、なるほど、こういうことだったんだなぁ……と再確認。
それならばこそ、やっぱり、
障害児・者の処遇や命にかかわる議論をする学者さんたちはもちろん、世の中の一人でも多くの人に
「障害ゆえに異なった身体をもっている誰か」と出会い、「その人」自身と知り合い関わることで、
「人との関わりにおいて身体は所詮はその程度のことに過ぎない」と
発見する体験をしてもらえたら……と改めて思う。
【関連エントリー】
「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫を作りました(2010/10/4)
もう1つ、
そういえば、昔、デミー・ムーアが臨月のヌードを雑誌の表紙に発表した時にも
賛否両論が轟々とあったなぁ……というのも思いだしたのだけど、
これについては、まだグルグルが余り収束していないので、また改めて。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/choosing-wisely-five-things-physicians.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MedicalFutilityBlog+%28Medical+Futility+Blog%29
ニュー・メキシコでトレーラー・ハウスで暮らす86歳の寝たきりの姑をベッドに縛り付けて、壁の破れ目から自由に出入りするネズミやその他野生動物の餌食にした(足の指が食べ尽くされていたとのこと)ネグレクトで、介護者として登録されていた嫁とその娘を逮捕。姑のメディケアとか福祉手当を横取りもしていたらしい。トレーラー・ハウスは汚く、悪臭がすごかったとか。姑は衰弱も酷く、病院で死亡。:そのトレーラー・ハウスに同居だったのか別居だったのかとか、その女性の息子はどうして記事にまったく出てこないのか、ヘルパーなど外部の専門職がどうして入っていなかったのか、など、分からないことの多い記事、事件。いずれにしろ、高齢者介護と貧困の問題が重なると虐待が起きやすくなるんだろうと思う。
www.dailymail.co.uk/news/article-2087076/Carers-charged-neglect-death-woman-86-toes-chewed-wild-animals.html?ito=feeds-newsxml
日本。高齢者賃貸マンション、生活保護受給者の争奪戦。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120107-OYT1T01037.htm
パーキンソン、ALS、MSと診断される人が増えており、早急にNHSの神経科を強化しなければ破たんが近い、と関連チャリティの連盟が警告
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/17/nhs-neurological-alliance-warns-timebomb?CMP=EMCNEWEML1355
NYT. 米国で医師への金銭の流れのディスクローズを製薬会社に義務付ける方向? :Grasley議員が主導して出来たサンシャイン法とはまた別に?
U.S. to Force Drug Firms to Report Money Paid to Doctors: To head off medical conflicts of interests, the companies would be required to disclose what they pay doctors for research, consulting, speaking, travel and entertainment.
【関連エントリー】
ProPublicaが暴く「ビッグ・ファーマのプロも医師軍団の実態」(2010/11/2)
ProPublicaの製薬会社・医療機器会社と医師との金銭関係調査アップデート(2011/9/9)
NYT. 子どもたちの肥満スクリーニングとそれを受けたカウンセリング費用が保険会社と雇用主の負担となるらしい。
Learning to Be Lean: Health insurers and employers must now pay to screen children for obesity and provide them with counseling. Experts say creating such programs will be a challenge.
英国の社会保障費削減を受けた福祉改革で、障害のある学生たちへの手当が危うくなる懸念。
http://www.guardian.co.uk/education/2012/jan/16/disabled-students-welfare-reform?newsfeed=true
今年に入ってロンドンではもうティーンエイジャーが14人も殺されている。:ずいぶん前から、ちょっとしたことでギャング化した若者同士が争って刺し殺したり撃ち殺したりが問題になっていた ⇒ ロンドンの若者が荒れている(2008/9/17)
http://www.guardian.co.uk/uk/2008/may/25/ukcrime?CMP=EMCNEWEML1355
親がちょっと気をつければギャングからの誘いには抗えますよ、という研究結果。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240354.php
ジョンズ・ホプキンスの調査で、古いデータで主治医が高齢者は移植対象から外しているが高齢者でも腎臓移植すれば予後が悪くない、と。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240356.php
【関連エントリー】
「腎臓が欲しければ、他人にあげられる腎臓と物々交換で」時代が始まろうとしている?(2010/6/30)
「質のいい腎臓は若者優先に」とNYT社説(2011/3/1)
「若い人が優先」腎臓分配方式の提言にRossが反論(2011/3/7)
イスラエルの貧困層から米国の富裕層へ、腎臓を闇売買(米)(2011/10/29)
中国のどこぞに日本人のための町がつくられようとしているみたいなんだけど、それってやっぱり富裕層の避難先?
http://timesofindia.indiatimes.com/city/chennai/1500-acre-Japanese-township-to-come-up-soon-on-OMR/articleshow/11443415.cms
日本語ニュース。誘拐の子供ら1332人救出=物乞い強制―中国新疆ウイグル自治区
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120116-00000072-jij-int
人身売買の犠牲となり英国のマリファナ農場で働かせられていた7人のヴェトナム人の子ども達、英国政府とフランス政府との極秘の紳士協定により、フランスへ送還。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/17/child-trafficking-victims-bounced-back?CMP=EMCNEWEML1355
NYT. 数年間のデータだけで教師の良しあしが分かるか? というタイトルの記事なのだ度、そのリード部分にある「より良い教師がより良いテストの点数とより良い人生に繋がる」というセンテンスに、イヤ~なものを感じる。
Can a Few Years’ Data Reveal Bad Teachers?: Better teachers lead to better test scores and better lives. But with only a few years’ data, can districts tell which teachers are good?
ビル・ゲイツがナイジェリアへ。ワクチン・プログラム推進で知事らと大臣が合意。:去年からビル・ゲイツはせっせとナイジェリアへ力を注いでいる。10月には「2012年の内に撲滅に成功した州には50万ドル上げるよ」と賞金まで。
http://www.thenationonlineng.net/2011/index.php/health/33458-governors-okay-immunisation-programme.html
ナイジェリアのワクチン推進については、去年9月30日の補遺で↓
ビル・ゲイツがポリオ撲滅推進でナイジェリアへ。:大統領選挙を巡って、すさまじい内乱状態が起きた ばかりの国でも、この人は最重要課題はポリオの撲滅だ、ワクチン推進だ、と説く。「無政府状態のソマリアだってワクチン接種率は高いんだぞ」と胸を張るこ の人にとって、いったい物事の優先順位ってどうなっているんだろう、とずっと不思議。
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5igG2I_nNG70Bo-ObivptdutviDGA?docId=CNG.211f4e001608b37db54efe2a0eef44b5.551
ビル・ゲイツが来たとなると、ナイジェリアの上院議長が「2年以内にポリオを撲滅してみせます」と約束したそうな。:2年で撲滅ったって当面それどころじゃなかろうに、それでも約束してみせたくなるほどに、何かイイコトがあるんだろうな……と、どうしても。
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5igg1wgeq1pHQyeh_DIHww-8eTniw?docId=CNG.11b830e74e89175fd9b015ca71842771.551
10月7日の補遺では↓
そのゲイツ氏、この前ナイジェリアに行って議会の要人に「2年間でポリオ撲滅します」と約束させていたけど、やっぱ信じられなかったのかしら。「2012年のうちに撲滅に成功した州には50万ドルあげるよ」と賞金まで。:どうも、この人の発想にはこういうのが多い。中国でエイズ検査キャンペーンをやった時も「検査受けたらゼニあげるよ」だったし。
http://www.vanguardngr.com/2011/10/polio-eradication-bill-gates-to-give-states-500000-award/
http://allafrica.com/stories/201110070226.html
冒頭で取り上げられている話題がこれ。
まったく知らなかったので検索してみたら、
日本語でもいろいろ出てきた。
マーク・クインと言えば、1997年の「センセーション展」で、自ら採血した冷凍血液で自分の頭像を作るというグロテスクな作品で、一躍その名が知られる所となったアーティストである。
今回マーク・クインが制作したのは、彼の友人であるひとりの障害者をモデルにした巨大な彫刻。高さが3.6mもある、ぬめりとした表面を持つ大理石でできた人物像。
その人物像を巡って、今ロンドン中が大騒ぎになっている。理由は、その巨大な人物像には腕がなく、足は極端に短く、妊娠8ヶ月の女性の裸体だからである。先天的な障害を持つ彼の友人の名が、作品タイトルになっており、「Alison Lapper Pregnant(妊娠8ヶ月のアリソン・ラッパー)」という。
(中略)
ある評論家は「非常に力強く、女性の、生命の、真の美しさを秘めている」と絶賛し、あるジャーナリストは「公然に醜いものを設置した」と酷評した。
そして当のアーティスト本人は「今まで歴史の中で、障害者は常にアートにおいて不当な扱いを受けてきた。アリソンの像は、女性の強さを表す、新しいタイプのアートなのだ」とコメントしている。
この彫刻、2007年ドイツの彫刻家トーマス・シュッテの「鳥のためのホテル」という抽象建築彫刻にとって変わるまでの間、観光客だけでなく、ディベート好きなロンドナーにとっても格好の議論のネタとして君臨するのであろう。
またやってくれたぜ、マーク・クイン!
ROUTINE Diary of Manya Kato, 2005年9月20日(在英の方がBBCの記事を元に紹介)
ラッパー氏は1965年、腕と足が奇形的に短い「アザラシ肢症」という障害を持って生まれた。生後6週で親に捨てられ、保護施設で育つなど、不遇な幼年時代を過ごした。
ラッパー氏は17歳のとき、正常人たちと一緒に英国のバンステド大学で美術の勉強を始めた。22歳のときに結婚して幸せな新婚生活を送りもしたが、夫の暴力に苦しみ、2年間の短い結婚生活を終えた。
1999年姙娠したラッパー氏は、周囲の人々が「子供も母親のような障害を持って生まれるかもしれないし、たとえ子供を生んだとしても、どのように育てるのか」と言って出産を止めさせようとしたが、子供を生むことを決心し、元気な男の子を生んだ。
ラッパー氏は遅まきながら自分の夢を実現するために美術の勉強を再度始めた。
ヘドルリ美術学校とブライトン大学を卒業したラッパー氏は、手がなくて口で絵を描く画家兼写真作家の道を歩き始めた。
ラッパー氏は写真機で光と影を利用し、自分の裸身をモデルとし、彫刻のような映像を作って高い評価を受けている。
腕のない「ミロのヴィーナス」をもじって、自らを「現代のヴィーナス」と呼ぶラッパー氏は、身体の欠陷を乗り越えて肯定的な自分の発展を遂げ、世界の人々から尊敬を受けた。
ラッパー氏は昨年、英国の彫刻家マーク・クィーン氏が臨月のラッパー氏をモデルにした5mの彫刻作品を、ロンドンのトラファルガー広場に展示し、「モデル」としても有名になった。
「人生に挫折はない、夢と希望があるのみ」…口足画家のラッパー氏
美術市場、2006年4月26日 (ラッパーさん韓国訪問ニュースを紹介するブログ記事)
ウ―レットは、
この像に対して起きたリアクションについて
「障害のある女性が性的な存在となり子育てをする」ということへの驚き、困惑、反発であり、
その背景にあるのは「障害のある女性は性的な存在ではなく、
子どものように無能で依存的、受動的、ジェンダー外の存在であり、従って
養育とか生殖といった役割にはふさわしくない」との思い込みがある、
そして、それらが偏見となって
かつての優生思想に基づく知的・精神障害者への強制不妊手術に繋がったのだ、と述べる。
ここで引用されている Barbara Faye Waxmanの言葉が、ずん、と来る。
The message for disabled kids is that their sexuality will be realized through their sexual victimization……I don’t see an idea that good things can happen, like pleasure, intimacy, like a greater understanding of ourselves, a love of our bodies.
障害のある子どもには、あなたのセクシュアリティから起こるのは性的な被害だけ、とのメッセージばかりが送られて……たとえば悦びとか親密さとか自分のことがより理解できるようになるとか、自分の身体を愛しむとか、いいことだって起こる可能性については誰も考えない。
セクシュアリティと育児にまつわる偏見から、
特に知的障害・精神障害のある女性は自動的に子育てに不適切とされて
生まれた子供の親権を与えられなかったり、
自己決定能力のある障害者でも強制不妊や隔離の対象とされたり、
本人のためだとして性的な関係から遠ざけられてしまう。
またウ―レットは、医療の現場にある障害者に対する偏見も指摘する。
例えば、女性障害者が婦人科の検診を受けようとすると、ADAから10年も経った現在でも
診察台に上がるための介助者を自分で調達して来いと求められるし、
そのために女性障害者では癌の発見が遅れている事実もある。
さらに、
当ブログでもお馴染みのBill Peaceが
怪我をした息子を救急病院へ連れて行った時に、
医療職が息子に向かって「親はどこか」などと問い、
そばにいる車いすの成人男性は自動的に患者とみなされて
それが親だとは誰も思いもしなかったエピソードを上げ、
次のように指摘する。
ピースの体験は典型的で深刻なものだ。彼の体験は、障害のある人は患者であって人ではないという偏見がいかに医療職に根深いかを物語っている。
(p.200)
ウ―レットの「生命倫理と障害」に関するエントリーの一覧はこちらの末尾に ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64541160.html
前からずっと頭にぼんやりあったことが、何度も繰り返される自分の夢のパターンを改めて思い、それが「障害のある子どもを持つ親の原罪意識」という言葉に収束してきた気がする。ブログにそのうち。
・・・
「私は私らしい障害児の親でいい」という本を書いて数年後に、ミュウが文字を読んで理解することができる子だったら、私はこの本は書けなかったのだ、ということに気付いた。そのことの中に考えるべき大事なことがあるような気がする。
親が子どもとの関係における自分の苦しさを語る言葉は、語られた瞬間から、すべて、あのイヤラシイ「積み木崩し」になるのだ、と思う。それに対して何も言えない立場に子どもを置きざりにしたままの、強い者の身勝手な自己正当化。
同時に、介護者が介護者支援を訴えることの難しさの一つが、そういうことの中にあるような気もする。弱い側にいる者を傷つけるのが分かっているなら、そし てその相手を愛しているなら、強い側にいる者は自分の苦しみを語る言葉を飲み込むことを選ぶ。だから同じ立場の「内輪」でしか語られなくなる?
・・・
いろいろあるというのは多少は承知しているのですが、ただ、だから子どもへの支援や介護者支援の必要が否定されるということではないと思うんですよ。すごく不用意なものの言い方なんだろうとは思うんですけど、(つづく)
私としては、介護者支援が充実することによって親や家族が代弁しなくてもすむ方向というのも探れるのでは、ということを考えてみたいです。
・・・
ここの話題(家族は「当事者」に含めるべきではない、か)、上野先生のニーズが一次だとか二次だとかいうこととも関わってくると感じていて、言いたいこといっぱいあるんですけど、微妙な部分が多いので、整理できてからまた絡ませてください。
ありがとうございます。私は「ケアの社会学」まで考えたこともなくて、今のところ「障害については家族は『当事者』ではないけど、介護に関しては『当事者』に含めてほしい」。とはいえ、そこに足を下ろしかねてグルグルも。みなさんの議論から学びつつ考えたいです。
介護故に受診できない難しさとか、独立した患者として見ることの必要を言ってくださっているの、ありがたいです。心理的にも自分のことは後回しになります。昨日の奈良の82歳の母親も車椅子だったとか。
介護者がうつ病になったら、その人は「うつ病の介護者」ではなく「うつ病患者」としてその人自身が上野先生の言う一次ニーズの持ち主とみなされるべきでは、と私は思うのですが、うまく言えないので出直します。
・・・
この点(精神障害者の介護者がうつ病になった場合の主治医は本人と別であるべきか)は、やっぱりケースごとの判断じゃないかと思うのですが、ただし、そこでも、医療と福祉の両方の関係者に、介護される人とする人の間には時に非常に深刻な利益と権利の相克があるんだということをきちんと認識してもらうことは大切か、と。
それから介護される本人のニーズがきちんと満たされることも、大事な介護者支援策だと思います。介護者が病気やけがで一時的に介護できなくなったような緊急時も含めて。
・・・
もうちょっと整理できたら言いたいのは、それぞれ自分のニーズとか権利の保障を求めるべき相手は、介護される・する関係内の相互ではないはずだ、ということなんですけど……もうちょっと考えます。
ニーズもなんだけど、権利に優先順位……というのがずっと引っかかっている。
【関連エントリー】
障害のある子どもの子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
ACからEva Kittay そして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 1(2011/12/27)
上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 2(2011/12/27)
なぜかツイッターではさらさらと書けるのが不思議です。
たぶん、ブログでは一定の整理を経てまとまったことしかエントリーにできないけれど
ツイッターでは、未整理の断片をそのままつぶやけるからだろうと思います。
そうやって言葉になった断片が繋がって、
自分の中に一つの方向を作ってくれる感じもあって、
今のところ、とても興味深く使っています。
ブログを始めてずっと、私はモノを知らないので
どのエントリーも私自身がものを考えるプロセスの一点だと考えてきましたが、
一つのエントリーを書くためにも一定のプロセスを経ているわけで、
ツイッターはそちらのプロセスのさなかにある
思いや考えの断片を言葉にできるのだろうな、と。
そのままにしておくとツイートの川の中に沈んでしまうので、
主として、私自身のメモとして、折に触れてエントリーに流れごとに拾っておこう、と。
以下、ほとんどは複数の方とのやり取りの中でツイートしたことですが、
相手の方のツイートを無断でコピペするのははばかられるし
私自身が考えたことの繋がりはこちらの発言だけでも見えると思うので
私の側のツイートのみで。
やりとりについて興味がおありの方はツイッターでご確認ください。
アカウントはspitzibaraです。
―――――――――――――――――――――――
私自身は、自分の中に相反する強い慾望があって、どちらにも別の自責が予測され自分でダブルバインド状態になる時が一番苦しい気がします。一方がミュウ以外に関わっていると倍加しますね。
責めてくるのは自分が内在化させてしまっている誰かの「べき」の声だと思う。それから、純粋に「こうしてやりたい」という親としての思いと、してやれない悔しさがすぐに「私さえ頑張ればしてやれたはずだったんでは」と自責に転じる。そんなこんな。私も考えてみます。
そう、そう。ホンネはいつも支離滅裂で、自分の中でも相反していたり矛盾しているので、理路整然と説明するというのが無理なんでしょうね。それに、いい年こいた大人が自分の弱さや痛みを語るのはそれ自体が痛いことだから、ジョークにしたり怒りの力に乗せないと語れない。
本当は誰かを責めたいんだけどできない時に、ぐるっと一回りひねくれた形に転じて自分を責める、という心理ってありますよね。すごく苦しい時にはそれ。すごく消耗的で下降らせん状にグルグルと連鎖する。うつ病になる時の感じにとても近い感じも。自責にもある種の快感が。
・・・
おはようございます。昨日あれから湯船の中で気付き、PS書こうと思ったけど寝られなくなるので止めました。私はいわゆるACなので、それゆえという面があるんだろうとも思います。(起きても覚えていられたじゃないか。まだいけるぞ、自分)
「障害のある子どもの介護者でもある親」という位置に立っている人は同時に抑圧された者であり、抑圧された者の代弁者・保護者でもあり、抑圧する者でもありうる。(つづく)
そのことの内に、ACの問題にもつながり得る親子の関係性の問題や、社会が女性をどのように遇してきたかという問題や、社会が障害児・者をどのように遇してきたかという問題が連環して、巡り巡っているんじゃないのかなぁ……という気がしている。
↑すみません。どうしてもツイートしたくなって、みっともないんだけど自分のブログ・エントリーから引っ張ってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62226979.html
・・・
信田氏のアダルトチルドレンの定義は「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めたひと」(「愛しすぎる家族が壊れる時」p.73)。「認めた」というところがキモなんだと思う。(つづく)
ただ「そう思うひと」なのではなくて、自分にとって苦しくてたまらなくて、だからずっと否認してきた事実とついに正面から向き合って、事実を事実として受け止める勇気を持ち、その苦しい事実を「引き受け」て生きていこうとしている人、なのだろうと思う。(つづく)
だから「認める」までが長く苦しいのではあるけれど、そのように「認める」ことは到達点というよりもスタートであり、それならACは誤解されているように「すべてを親のせいにして甘えている人」ではなく、むしろ、
そこから抜け出すためのスタートラインに自覚的に立とうとする人なのだ――。そんなふうに考えて、自分の中でAC概念を整理することができた。。。。と、一応、カミングアウトしたからには確認しておきたかった。
・・・
ACとか共依存などの概念は、「自ら自覚的にそこに立つことを引き受けた」人にとってのみ有効で、当人の外側からそれらを押し付けることは被害者を責めることにしかならない……ということでは? 昨日からのぐるぐるで、一つこんなふうに考えてみた。
【関連エントリー】
障害のある子どもの子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
ACからEva Kittay そして「障害児の介護者でもある親」における問題の連環(2010/12/1)
前に某シンポで、鷲田清一氏が「かつては町内で介護の支え合いがあった」みたいなことを言われ、春日キスヨ氏が「でも、その支え合いを負わされていたのは女だった」と突っ込んだら、鷲田氏が「でも介護は誰かがしなければならない」と言った。忘れられない。
介護を語り論じる多くの男性が内心、介護は自分以外の「誰か」がするものだと思って語り論じている。本当のところ、介護を論じさせてもらえるだけの「業 績」があるなら、それは子どもの主たる養育者であることも誰かの主たる介護者であることも免れてきた人である確率が高い。男性であれ女性であれ。
某シンポの開始前、パネラーの一人がもう一人に「母親が倒れてね。介護については専門家のつもりだったけど、自分のことになるとこんなに大変だとは思わなかったよ。家内がノイローゼ状態なんだ」と話していた。それでも、その人自身は飛行機でやって来てシンポで介護を論じる。その大変さについて。
・・・
ミュウのオムツ交換も着替えもトランスファーも歯磨きも寝がえりも、父と母の4つの手によって、まるで「2つの身体と4つの手を持った1人の人」のよう に、なめらかに流れていく。ミュウ自身の呼吸がその流れに沿って、3人の無言のリズムが刻まれていく。それが我が家の暮らしのリズム。
一人の人のように働く4本の手に身をゆだね呼吸を合わせつつ、ミュウも気が向くと腰を上げて協力したり(タイミングちゃんと計ってる)、シャツやオムツを 取って手わたしてくれる。気が向くと、渡すと見せて、あらぬ方に放り投げては喜ぶ。「こら、ミュウ」「ゲヒヒヒッ」日常のリズムが”ぴょん”。
3つの息と4つの手が一つに合わさって、我が家の日常が営まれていく。そうと意識されることもないほど、なめらかに。それに気付いたのは、そんなことを24年を超えて繰り返してきて、なぜか今日。
でもね。この上ないコーディネーションを見せてよく働く「2つの身体と4つの手」も、3つの身体のどこかに非日常が起こるとね……。それに、なぜだろう、 特にミュウの体調が良くない週末は、生活そのものも介護もいつも通りに流れたのに、4本の手を持つ人の身体の疲れがものすごく酷い。
・・・
私はそういうところに足を置き、そういうところからモノを見て、モノを考えようとする時、正直言って、「実践の倫理」がどっちに向いていようと知ったことじゃない、という思いはある。
・・・
介護を介したミュウと母親との密接なつながりの中には、ちょっと人目に触れるのを憚るようなやりとりの部分がある。ちょっと表現しづらくて誤解を招くとま ずいけど、たぶん夫婦のセックスのような何か、とてもプライベートで隠微なもの。性的なものがあるわけではなく、その親密さの性格が。
父親とミュウの間にもそれに似たものはあるような気がする。全面的に身をゆだねている者とゆだねられている者の親密さで起こることなのか、親子だからなの かは分からない。ただ全面的に身体をゆだねゆだねられることそのものに、なにか豊饒なものがある感じはある。危うさでもあるんだろうけど。
1月10日
昨夜、眠りに落ちる寸前に気になったんだけれど、ミュウの介護についての昨夜の一連のツイッター、ずっと在宅介護している人や一人で介護を担っている人には不快だったかもしれない。
介護に限らず、どの問題でもそうだと思うけど「いま現にそこで一番苦しんでいる人」の声は世の中には出回らない。そういう人には世の中に向かって声を上げ るだけの余裕なんかないから。そして世の中で一番大きな声を張り上げている人たちには、そういう人の存在への想像力も興味もない。
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/50th-anniversary-of-death-panel-1962.html
【上記委員会への言及のあるエントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
「功利主義は取らない」……南アフリカの人工透析患者選別委員会の模索(2010/12/17)
日本。車いす拒否の帝産湖南交通 運輸局が文書警告へ。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20120113000065
日本。きょうだい支援を広める会。
http://hiromeru.kt.fc2.com/area.html
英国で3万人の子供(8-16歳)を調査したところ、10人に1人がハッピーでない。最も影響が大きいのは家族関係。それから物質的な問題。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/12/unhappy-childhoods-childrens-society-low?CMP=EMCNEWEML1355
豪で今年導入されることになっている電子カルテ、13歳以上は親のアクセスを拒否することができるらしい。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/teens-to-control-own-ehealth-records/2419838.aspx?src=enews
インドで1年間ポリオの発症ゼロだったとか。ゲイツ財団の誉れ、という扱いの記事がここしばらくあちこちから。
http://www.bloomberg.com/news/2012-01-12/bill-gates-push-to-reach-polio-free-world-gets-boost-as-india-foils-virus.html
ケアホームでの投薬ミス、日常茶飯、と英国の調査。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240318.php
インターネット中毒と診断された若者と中毒になっていない若者の脳をスキャンで比べてみると、白質の密度と組成が異なっていた、と中国の研究者。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240289.php
私はずっと恐れていたんだけれど、
来た。ついに―――。
アイルランドの高等裁判所で重症の脳性まひ児に蘇生無用の判決が出ている。
判決文そのものを読まないと何とも言えないところもあるものの、
この記事から受ける印象では、これまでの“無益な治療”論からさらに踏み込んで
明らかに意識があり両親を認識し関わりに喜びを感じていると思える重症児に
救命する必要はない、との判断が下されているように思える。
当該の6歳男児の状態について書かれているのは、
4年前に溺れて重症の脳性まひとなった。目が見えず、排泄も非自立。
全介助で回復の見込みはない。経管栄養。
3年前から子どものための施設で専門的なケアを受けながら暮らしている。
(親権が裁判所にあるとされている事情は不明。もしかしたら施設入所だから?)
栄養チューブが詰まったり感染症などで、
2010年10月から7回、救急病院に入院した。
コミュニケーションはとれないが、苦痛は感じる。
両親と接すると安らぐように見える。
で、なぜか以下のように、病名が書かれていないのが一番気になるのだけれど、
The boy is now chronically ill and may deteriorate at any time, when a decision would have to be made whether to resuscitate him via invasive ventilation.
この先に書かれていることと共に顛末をまとめると、
慢性病にかかり、いつ悪化するか分からないが、
悪化した時には気管切開をして呼吸器をつけるかどうかの判断を迫られるので、
蘇生は本人の苦痛となり、救命できたとしても苦しみを引き延ばすだけだから
本人の利益にならない救命はしないでもよいとの許可を求めて病院側が提訴した。
親権はなくとも意向は尊重されるべき両親は、
ネットで調べて幹細胞治療に賭けてみたいと希望しているが
アイルランドでも米国でも(何で米国が出てくるのか私には?)違法だし、
ドミニカ共和国かメキシコで3万ドルでやってもいいという医師はいるが
本人が遠くまで行ける状態でもなく、担当医もやめた方がいいと言っているので、
これについては却下。
医師らのエビデンスは一致して
蘇生は本人の最善の利益にならない、としている。
この後「どういうこっちゃら?」と首をかしげたくなる不思議な文章が続いているので
ここからは、ざっとですが全訳してみます。
親権を持ち決定権を持つ者として、
救命の差し控えについて考えるべき最も大事な検討事項は本人の最善の利益ではあるが、
裁判所としてはあらゆることを考慮しなければならない。
ここで問うべき適切な問題とは、
本人が健全な判断力を有していたとしたら、どういう選択をするだろうか、である。
本人がどのようなQOLであれば耐え難いとするかについて
裁判所の考えを押し付けることはすべきではなく、
最善の利益は主観的に決めるべきである。
生命の神聖の重要性を考えると
救命治療は認めるものだとの強い前提がある。
しかし、その前提から外れ、延命手段を取らなくてもよいと
裁判所が認める例外的状況というものもある。
裁判所は「死を加速させたり生命を終わられる行為を許可することはできない」。
このケースでの医学的エビデンスでは、
挿管や呼吸器装着は本人のためにならず、苦痛と不快になり、無益で、
本人への長期的利益がないまま苦しみを引き延ばすこととなる。
だから、蘇生はしなくてもいい、というのが結論。
Hospital allowed not to resuscitate disabled child
Irish Times, January 12, 2012
一体なに? このクネクネした論理は――?
すごく胡散臭い匂いが漂っている感じがある。
生理現象が「病気」にされ、ありもしない「健康リスク」がでっち上げられていた、
そして医師のいうことだけを根拠に障害のある子どもからの子宮摘出を認めた、
あの Angela事件の判決文と同じような匂いが。
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/7)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)
パパパッと頭に浮かんだ疑問は、
① (それぞれは治療の無益性とは無関係なのに)障害の重さを強調する細部を並べながら
なぜ慢性病の病名や病状が具体的に提示されていないのか。
それは判決文がそういう書き方になっているのか、記事の書き方なのか。
② 「苦しみを引き延ばすだけ」とは慢性病の苦しみを言っているのか
それとも重症脳性マヒの状態を言っているのか?
しかし慢性病の苦しみを言うなら現在も患っているわけだから
ある程度は管理可能なことのような気がするので、
「苦しみを引き延ばす」は実は「重い脳性まひで生きるという苦しみを引き延ばす」なのでは?
③ 栄養チューブの詰まりくらい経管の子どもならあるし特別なことじゃないはず。
そういうのまでカウントして「7回も入院した」と強調する意図は?
④ 本人に判断力があったらどういう選択をしていたかを検討するべきだというなら
本人利益のみを代理する者を置き、敵対的審理を行うなど、
一定の手順を踏んで、その検討が行われなければならないはず。
(ILの不妊手術のケースの基準を参照 ⇒ IL不妊手術却下の上訴裁判所判決文(2008/5/1) )
⑤ その審理の手続きを経ずに
「どの状態が堪えがたいかは裁判所の勝手で決めるわけにはいかず、
最善の利益は”主観的に”(つまり裁判所ではなく本人視点で)決めるもの。
本人視点とは、ここでは医師らによる医学的エビデンスであり、
救命は本人の利益にはならないと医師が言うなら、
それが”主観的な”本人の最善の利益……
私にはそんなふうに言っているように読めるのだけど、
もしもそんな理屈が通るなら、最初から裁判所の判断はいらない。
「医師が判断する通りでいい」と言っているだけなのだから。
裁判所の審理は、医師のその判断を検証しなければならないのでは?
⑥ 特に最後の2段落分は
「本来はできないことだけど、これは重症児だから例外」と言っているように読める。
それって、アシュリー療法の正当化の論理そのもの――。
そして、私の最大の疑問は、
蘇生無用の判断の根拠は、いったい慢性病なのか脳性まひなのか?
だって、この男の子と同じような重症の脳性マヒの子どもたちは
世の中にゴロゴロしているんですけど??
この判決、もしかして
「重症脳性まひ児が病気で重篤な状態になった場合には救命しなくてもよい」
というところへの”無益な治療”論の「解釈拡大」への布石になるのでは―――?
ある方のツイッターで以下のニュースが流れました。
重度障害の62歳長女を絞殺容疑 85歳母「介護に疲れ…」産経新聞 1月11日
タイトルを見た瞬間に胸が詰まりました。
それまでのツイートの流れがどこかへ霧散してしまい、
茫然とこのタイトルと向き合って、このタイトルに手を合わせるような気持のまま
しばらく何も言葉にならず、言葉にならない思いばかりが次々に
涙になってあふれてくるように思えました。
それから、ぼんやりと頭に浮かんだままをツイート画面に打ちました。
「62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう」
そう書いた瞬間に、ある有名な言葉が頭にゆっくりと浮かびあがってきて、
けれど、はっきりと意識に浮かびあがる寸前に、
後ろから別の言葉がその言葉を追い抜いて
私のところへやってきました。
母に殺させるな――。
そう書いたとたん、
涙だけでなく言葉もあふれて止まらなくなりました。
それ以前に書いていた部分で既にしてちょっと感傷・自責的になっていたところだったので、
いくぶん自己陶酔的で申し訳ないのですが、まんま、以下に――。
62年間の介護生活って、どんな人生だったんだろう。。。母に殺させるな。
障害のある子どもの親(特に母親)は自分の苦しさを語る言葉を奪われてきた。「しんどいけど可愛い」しか言わせてもらえず、結局「可愛いんだからしんどく はない」ことにされてきた。だから「可愛いから」「この子のために」を武器に、子どもの権利をいろんな形で踏みにじってきたのだろうと思う。
私も施設に入れる決断をすることでミュウの権利を侵害し続けているのだと思う。少なくともそれを「この子のために」とごまかすことはしたくない。私自身がそうでしか生き伸びられなかったから、私はミュウを施設に入れました。
そろそろ「可愛いけどしんどい」という順番でモノを言い始めたいと「私は私らしい障害児の親でいい」に書いて、何年も経った。それでも親が自分のしんどさ を語ることは難しい。もしも「介護者支援」とか「介護者の権利」という言葉が輸入されることによって、誰かがそれを言えるようになるのなら、と
私自身がその言葉や周辺の情報を流し、自分自身の痛みを語ることで、誰かが「可愛いけどしんどい」と言えるようになり、世の中の人が「しんどい」は決して「可愛くない」と同じじゃないと、分かってくれるなら。私の「介護者支援」の思いは、それだけ。
ちなみに拙著「私は私らしい障害児の親でいい」(1998)の当該個所は以下です。
……日本の社会は、私たちに『美しい姿』を求めていると思うのね。聖母のような母。子どもの障害がどんなに重くても、どんなに負担が大きかろうと、常に笑顔で明るく強く、弱音を吐かずに頑張るお母さん。父親だろうと母親だろうと、生身で、そんな絵にかいたような聖母ができる人間なんて、本当はいないのに。私たち、『しんどいけど、可愛い」という順番だけでものを言い、世間の人たちに媚びるのを、もうそろそろ返上してもいいんじゃないかと思うんだ。『可愛いけど、しんどい』という順番でものを言いはじめてもいいんじゃないか。だって私たちは、世の中の人たちに、美しい姿だね、感動したよ、勇気をもらいましたよ、と誉めてもらうために生きているんじゃない。誉めてもらうんじゃなくて、世の中の方に変わってもらわなくちゃ困る。
(p.130-131)
介護者支援に関連するエントリーは「子育て・介護・医療」の書庫に多数ありますが、
特に去年1年間に紹介した介護者支援情報は、以下のエントリーに取りまとめております ↓
2011年のまとめ:Spitzibaraの1年
ふざける、ケンカする、先生にしょーもない反抗もする。大声でさわぐ。
タバコは持ちこむ。別れる別れないで牛乳ぶっかけあう。
授業中に紙飛行機も飛ばす。ヘ―ンな恰好で来るヤツもいる。
遅刻なんかザラのはず。
でも、これみんな、
この記事に書いてあった「逮捕」の対象となった行為――。
米国テキサス州などの子どもたちが、こうした学校や学校の敷地周辺での
子どもなら当たり前にやるだろう行為を「授業妨害」などの“罪”に問われ
逮捕されている、という。
逮捕するのは、銃とスタンガンを携行し学校に常駐している警察官。
テキサス州やその他多くの州で
何百もの学校が“スクール・ポリス”を常駐させ、
警察には“スクール・ポリス”の部署がある。
任務は keep order。秩序を守ること。
ここ20年くらいで急増したという。
誰が呼んだか「学校―刑務所パイプライン」。
「クラスC軽犯罪」は立派に犯罪なので
その切符を切られた子どもたちは裁判所に出頭しなければならない。
そこで罰金や地域での奉仕活動を科せられたり、収監される場合もある。
もちろん記録にも残り、後々の進学や就職にも影響する。
時には500ドルにも上ることがある罰金は、貧困層の親には払えない。
だから払わずに放っておくことが多いけれど、すると
子どもが17歳になった時に召喚状が届く。
なにしろ立派に犯罪なのだから。
米国の軒並み学費がバカ高い大学に行くために
みんながそうするように奨学金を申請すると
そんなささやかな逮捕歴が見つかって却下される。
テキサス州で2010年にこの切符を切られて上記の処罰を受けた子どもは
のべ30万人に迫り、中には6歳の子も。こんなもんじゃないという説も。
約30%はドラッグまたは飲酒がらみのチケットだというが
「武器の使用」理由が20%というスクール・ディストリクトもある。
その多くで「武器」とは「げんこつ」の意。
それに何より、一度逮捕されると、「問題児」として目をつけられ、
その影響から、昔なら教師が叱ったり親に電話すれば終わっていた程度のことが
将来監獄で過ごす人生へと子どもを方向づけてしまうこともある。
記事によると、1980年代にドラッグ絡みの犯罪が急増し、
その対策として「ゼロ・トラレンス」が言われるようになった。
90年代に入って青少年の犯罪の急増が社会問題化したところに
例のコロンバイン高校の乱射事件が起き、学校の安全を求める声の高まりなどで
ドラッグ取り締まりの「ゼロ・トラレンス」姿勢が学校に広がっていった、という背景。
しかし、切符を切られた子ども達と日々向かい合う判事その人まで
「こんなのは大人がやったら違反にもならない行為なのに、問題視され始めている。
学校が少しずつ構内のことで警察やセキュリティに頼り始めている感じはしていたけれど、
それがいきなり過剰になって、警察によって子どもの日常行動をコントロールさせている」。
こうした法律のあり方を懸念する声はもちろんあって、
連邦政府も、やめるべきだと言っている。
10歳から犯罪責任があるテキサス州では去年、
10歳と11歳には教室内での行為によって切符を切らないよう条例を改正した。
それ以上の改正を望んだ議員らもあったが、抵抗に会って実現しなかった。
教師の中にも、スクール・ポリスの存在を歓迎する声は意外に多い。
昔の学校とは違って、ふてぶてしく、やりたい放題の子どもばかり。
親にも子どもがコントロールできない。授業中だって学ぶ気はなく妨害したいだけ。
そういう子どもの管理にエネルギーを使わせられて教えることに集中できないから
教えることに集中できるようにポリスがいる。
いかつい生徒が反抗的な態度で迫ってきたら教師だって身の危険を感じる。
実際、教室で撃たれて死んだ教師もいる。
身の心配をせずに教師が授業に集中できるにもポリスは必要。
そりゃ、やり過ぎの面もあるから、
警官にはもうちょっと常識的に、と望みたいところはあるけど、
警官はそういうのが仕事だからね。ある程度はやむを得ないというか……などなど。
ここまで、全部、現役または引退後の教師の声だから驚く。
さらに警察のスクール・ポリス部局の責任者の言うことがすごくて、
「逮捕の基準は、まぁ、それぞれの警官次第。
人のすることだから、たまには間違いも起こる
裁判官だって5人が同じ事件を審判すれば5通りの判決を出す。
医者だって一人の患者を5人が診断すれば5通りになる」
(判決も診断も5通りあるようじゃいかんと思うんですけど)
一番気になるのは、知的障害・発達障害のある子ども達も
同じゼロ・トラレンス姿勢で逮捕されているのでは、との懸念。
具体的な事件を記事から拾ってみると、
Sara Bustamantsさん(12)
ADHDと双極性障害を診断されており、肥満を気にしている。
「私って変だから、みんなに嫌われている」。
みんなに酷いことを言われ苛められるから自分の身体に香水をかけてみた。
すると臭いと言って周りが騒いだため、教師がポリスを呼び、逮捕。
その後、障害者団体の支援で訴訟を起こし、起訴は取り下げられたが
まず自分で叱ろうとせずポリスを呼んで逮捕させた教師に、母親は
教師が子どもたちへの指導責任を放棄していると憤っている。
匿名の18歳の青年。
ADHDと診断されている。
12歳の時に授業中にかっとなり机をひっくり返した。
攻撃的行為で有罪となり、若年者の監獄に送られる。
出るためには一定の教育目標と行動目標をクリアしなければならず、
障害のために彼にとっては、それは無理。
こんなふうに障害のある子どもたちの多くが
ムショ送りにされ、そのまま出てくることができなくなっている。
IQが70を下回る匿名の少年。事件当時16歳。
廊下で警官の言うことを理解しなかったため、催涙ガスをかけられた。
目の痛みのために振り回した腕が警官に当たり、公務執行妨害で逮捕され、
裁判がこれから行われることになっている。懲役刑の可能性も。
障害とは無関係ながら、フロリダ州の学校では
ジョン・ケリー上院議員に失礼な質問をし、制止されても止めなかった生徒が
ポリスにスタンガンを使われている。
The US schools with their own police
The Guardian, January 9, 2012
絶句したけれど、考えてみれば、
警察権力による子どものコントロールよりも以前に
薬による子どものコントロールは始まっていた。
「年齢相応の子どもの行動が病気扱いされている」との指摘と関連エントリーのリンク一覧こちら ↓
「製薬会社に踊らされて子どもの問題行動に薬飲ませ過ぎ」と英国の教育心理学者(2011/1/18)
テキサスにはそういうことが起きやすい文化的な土壌もあるような気も。真っ先に思い出したのが、これ ↓
米国には体罰を禁止していない州が20もある(2009/8/11)
次に頭に浮かんだのが、テキサスといえば米国で最もラディカルな“無益な治療”法 ↓
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)
その最も有名な訴訟がゴンザレス事件 ↓
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
こういう現象の根っこにあるものに関して考がえてみたエントリーは、これ ↓
「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ(2011/12/20)
「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?(2011/12/21)
それから「子どもがひとりで遊べない」の著者の谷口さんと
10日の補遺のコメント欄でやりとりしたことも関係があると思われ、↓
2012年1月10日の補遺(2
http://www.nationalrighttolifenews.org/news/2012/01/one-sided-assisted-suicide-report-released-in-the-uk/
http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-lancashire-16473822
英国保健相は近く介護と支援の白書を刊行予定。そのためのご意見募集(既に終了)などCaring for our future キャンペーンが進行していた。
http://caringforourfuture.dh.gov.uk/
去年6月の日本精神保健看護学会学術集会/市民公開講座「こころの病を持つ親と生活する子どもたち」。シンポジストの一人、三重大学の上田幸子さんが12日(木)の「おはよう日本」で精神障害のある親と生活する子どもへの支援について。
http://www.oyakono-support.com/siminkoukaianke-to.pdf
複数の受精卵を一つに合体させたキメラ猿が3匹、米国で誕生。:「キメラ」というから人間との混成胚かと思ったら、下の日本語記事(ツイッターで拾わせていただいた)によると「異なる遺伝情報の細胞が混ざった生物がキメラ」なんだそうな。知識が乏しいので、「受精卵を合体させる」というのが一体どういうことなのか、さっぱり分からない。
http://www.guardian.co.uk/science/2012/jan/05/chimera-monkeys-combining-several-embryos?CMP=EMCNEWEML1355
http://sankei.jp.msn.com/science/news/120106/scn12010620320001-n1.htm
最近ずっと米国の法医学の機能不全を追及しているProPublicaで、ゆさぶり症候群の科学的エビデンスが問題になっている。
http://www.propublica.org/article/a-far-cry-from-csi
NYT。子どもの肥満対策として増えている胃のバンディング手術に、医師らから成長期の子どもにはいかがなものか、との声。
Young, Obese and Drawn to Surgery: The push toward operations like Lap-Band surgery on the young has brought some resistance from doctors who say it is too drastic on patients whose bodies might still be developing.
英国で美容整形手術の過誤を巡る訴訟は半数が患者側の勝訴に。一般では30%。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/08/patients-sue-plastic-surgeons-faulty?CMP=EMCNEWEML1355
ニコチン・パッチが軽度の認知障害に効くって。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/240082.php
運動と学校の成績の間に相関があると、米国の小児科学会誌に。:前からずっと書いているけど、子どもの「学校の成績」と何かの相関を調べる医学研究が最近すごく増えて来ていて、どうして「学校の成績」がそれほど後生大事なのか分からない。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239914.php
ヨガが身体を痛める可能性について。:ヨガって、基本的には自分の身体の声を素直に聞くことができるようになる術の一つだろうと思うだけど、決まったメニューをこなすエクササイズのような硬直的な捉え方でやるからそうなるんじゃないのかなぁ。読んでいないから決めつけられないけど。
How Yoga Can Wreck Your Body: Popped ribs, brain injuries, blinding pain. Are the healing rewards worth the risks?
Maryland大学が豪華な学長官舎を建築中とて、非難の的に。
http://www.washingtonpost.com/local/education/university-of-maryland-plans-72-million-presidents-house-amid-budget-cuts/2012/01/06/gIQAoffCkP_story.html?wpisrc=nl_cuzheads
日本。ヒロインは全員障がい者。海外有志による同人美少女ゲーム『かたわ少女』がついに完成:ものすごく不快。
http://www.kotaku.jp/2012/01/katawa_shoujo_released.html
魔術を使っていると言って、姉とその恋人から殴るけるの暴行を受けた挙句に溺死させられた15歳の少年。英国。:世の中がだんだんともっと「虐待的な親のような場所」になっていくと、こういう事件は増えていくような嫌な予感がある。
http://www.guardian.co.uk/uk/2012/jan/05/boy-tortured-drowned-sorcery-claims?CMP=EMCNEWEML1355
【関連エントリー】
“魔女狩り”で大人に虐待される子どもたち(アフリカ)(2008/11/27)
【「虐待的な親のような場所」になっていく世界について書いたエントリー】
「現代思想2月号 特集 「うつ病新論」を読む 1:社会の病理と精神医療の変容(2011/2/23)
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”(2011/1/29)
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。
こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。
自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。
ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、
溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。
ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。
(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)
とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)
「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。
でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。
初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。
ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。
「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。
どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。
癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。
「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
今回は看護科の担当職員の方の書き込みから。
-------
お昼ごはんの介助に入らせてもらいました。
ほうとう(? 太いウドン)とかサラダは完食なのに、
牛乳は「イヤ!!」 水分だからなー・・・
お茶にする? 「は――い」
お茶を一口出すと、「イ―――ヤッ!!」
えぇ~ お茶にするって言ったじゃん
散々からかわれた挙げく、
Tさんに変わるとパクパク飲まれました。(結局200ml)
ごはんは、すぐにあきらめるけど、水分はダメ!!と、戦ったんですけど……。
それまでは読み方すら知らず、従って自分が始めるつもりもさらさらなかったのですが、
万が一にも始めるとしたら、一つ
これだけはオトシマエをつけておかなければ……ということがあり、
その、よもやのツイッターをついに始めてしまったので、
これは、そのオトシマエのエントリーです。
―――――
E先生へ。
9月に「先生、ボクの全身の細胞が……」というエントリーを書き、
英語の授業の際、私の前でつい「脳性マヒ」をジョークにしてしまった学生さんを
障害のある子の親としての痛み故か、教師としてバシッと叱れなかった忸怩たる思いと、
その学生さんが私の痛みに気付きオトシマエをつけに来てくれたエピソードを書いた際、
先生のことをボロカスに書きました。
書いたことについての言い訳は、一応、以下です。
・お目にかかった直後はともかく、先生のような偉い学者さんが
まさかその後も私のブログを覗きにきてくださっているとは、
まったく想像できませんでした。だから、正直なところ、
先生の目に触れることはないだろうとタカをくくっていました。
・ライターとしての仕事先で見聞きしたことを批判的に書きたい場合には、
時間を置き、なるべく場所と人物が特定されないような書き方で、という
自分なりの線を引いています。ここでも1年近く経っていて、
人物が特定されないように書いているので、まぁ、いいだろうと考えました。
・全面的に真に受けたわけではもちろんないですが、当日、帰る際にご挨拶をしたら
「ブログに僕の悪口、書いていいから」と先生がおっしゃったので、
書かれる可能性をある程度了解いただいている感じで受け止めてもいました。
・アップした直後に、ここは人物を特定しかねないと思って削除した部分があるのですが、
まさか先生が削除前のわずかな間にご訪問くださるとは思いもよらないことでした。
・なにより、私が匿名にしたご本人がツイッターで
「これは自分だ」と名乗られていた……なんて全くの想定外で、ほとんど驚愕でした。
私が先生のツイッターに気付いたのがいつだったか、はっきり記憶していないのですが、
拙著「アシュリー事件」が出た後、出版社の方のツイッターからあちこちしている間に
たまたま行き当たってしまいました。
で、先生が衝撃を受けられて延々とツイートしておられるのを読みながら
大変申し訳ない気持ちになりました。
安易に人間の品性の問題にして
「人格攻撃」と取られる書き方をしてしまったことについて
深くおわび申し上げます。
いかに個人のブログとは言え不特定多数に向けて発言するのに、
あまりにも安直、不用意、怠慢だったと思います。
あそこで私が書きたかったのは先生への人格攻撃ではなく、
アカデミックな世界の人の議論や、その議論をしている人たちの意識と、
そこで議論されている対象を現に生きている者の痛みとの距離について、でした。
先生が私のエントリーを読まれて受け止められたような
議論の進め方とか、その内容の正当性の話ではなく、
当事者の痛みに対する感受性の話のつもりでした。
例えば、以下のエントリーでPeter Singerについて、ちょっと書いてみたようなこと ↓
「Kaylee事件」と「当事者性」それから「Peter Singer」(2010/11/3)
アカデミックな世界の人たちの意識への
「”議論”でしかない」という疑問というか不満は
(一部の方には「”業績作り”でしかない」という疑問も)
あの晩よりはるか以前から私の中にはずっとあったものなので、
あのエントリーでは、
たまたま新鮮な印象が残っていた先生の発言に、
アカデミックな世界の人の意識を代表させてしまいました。
その点が、何より、いけなかったと思います。
この疑問については、今もまだうまく書ける自信がないので、
また改めて書ける時が来れば、少しずつ書いてみるということにしたいと思います。
このエントリーは
ツイッターを始めた日に書き始めて、
なかなか書き終えることができないままになっていたのですが、
昨日、思いがけず先生が私のツイッターをフォローしてくださったことから、
なにはともあれオトシマエをつけなければ、と急いで締めくくりました。
まだまだ言葉足らずと思いますが、まずはお詫びいたします。
本当に申し訳ありませんでした。
あの晩、まるきり場違いなところに出てきてしまった……と臍を噛んでいた時に
私のような何も知らない素人を先生がバカにもせずに相手をしてくださったことや
「アシュリー事件について書かれたらどうですか」と言っていただいたことは
私にはとても嬉しい出来事でした。
今だから言えることですが、実はあの頃、
「学者でもないオマエに何が書けるものか」と
あちこちから言われているような出来事が続いて、萎えそうになりながら、
陽の目を見るかどうかもわからない「アシュリー事件」の原稿を
シコシコと書いている状態だったのです。
だから、あの晩の先生の言葉は大きな励みでした。
あの節には、ありがとうございました。
そういう人のことを、あんな書き方をしてはいけませんでした。
冒頭に言い訳したような事情で、ついやってしまいました。ごめんなさい。
これに懲りず、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Spitzibara
【PS 1】
当該エントリーで私がPeter Singerを「卑怯者」だと書いているのは
主として、その個所にリンクした特定の発言についての感想です。
障害当事者らからの批判に対して、
「実際に障害のある新生児を殺しているのは医師であって自分ではない」という言い逃れは
障害のある新生児の安楽死を説く最先鋒で、大きな影響力をもつ学者の発言として
私はやっぱり卑怯なヤツだと思います。
【PS 1】
それにしてもE先生、「まぁ自分のサイトで若い女の子と揉めるよりマシか」は
やっぱり、あまり品性よくはないっすよ。
ふん。オバサンでどこが悪いか。(9割方、ジョーダンです)
わざわざ「倹約しつつ(parsimonious)」という文言を使用して
コスト・パフォーマンスを意識した“しみったれ医療”を説いているらしい。
医師の第一の義務は患者に対するものであると断りつつも以下のように書く。
Physicians have a responsibility to practice effective and efficient health care, and to use health care resources responsibly. Parsimonious care that utilizes the most efficient means to effectively diagnose a condition and treat a patient respects the need to use resources wisely and to help ensure that resources are equitably available.
医師には効果的で効率的な医療を行う責務と共に、医療資源の利用に責任をもつ必要がある。効果的な診断を最も効率的な方法を用いて行う倹約医療によって、医療資源を賢明に利用する必要と医療資源への公平なアクセス保証が尊重されることとなる。
論説を書いているペンシルバニア大のEzekiel Emanuel医師は
「堂々とコスト効率原理を提唱する医学会が現れた。
効率、倹約、コスト効率重視の立場は、倫理面ではともかく
何が強調されるかという点では重要なシフトだ」
「ちょっとした診断の違いにこだわり
できる限りの手を尽くしてはコストを膨らませていくのは良い医師ではないという方向に、
臨床医の世界の哲学を変えられるかどうかが難しい」
また、米国内科学会(ACP)のスポークス・ウ―マンは
「自分の患者とそのニーズに集中しつつも、
我々医師はもっと大きなレベルに立って、
患者の利益と地域のためについても考えなければ」
もちろん批判の声も出ており、
保守系シンクタンクの医師は
「医療資源の利用は倹約でと言えば、それだけでは済まず、
実際には治療を差し控えろと言っていることになる」
その他にマニュアルの要点の中から
個人的に印象的なものを3点。
① 遺伝子情報が誤って公開されてしまった場合には害を受けるので、
生体組織を保存したり分与したりする計画は研究の被験者に知らせなければならない。
これについてはEmanuel医師は
患者が望むのは研究に人体組織を提供するかどうかの判断のみで
それ以上を望んでいるわけではない、と論説で反論している。
これは、ちょうど年末年始で中断して、やっと読み終えたばかりの
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」のテーマそのものだったので
大変印象的だった。
Emanuelの反論に、
「患者にいちいち同意を求めたり患者の権利を尊重していたら
科学の進歩が止まってしまう」という科学者らの言い分を思い出した。
② 研究結果については、まず論文にしたり、ちゃんとした場所で発表した後に
世間に向かって公表しなさい。
研究途上の成果をメディアが「ブレークスルーだ」と発表していると、
結局は科学界全体に対する信頼が揺らぐだろーが、と。
これはアッパレ。よくぞ言ってくださいました。
③ 自殺幇助合法化については支持しない立場とのこと。
理由は
合法化すると患者の信頼を損ない、終末期医療の立て直しが遅れ、
貧困層や障害者、自分で声をあげられない人やマイノリティなど
これまで差別されてきた弱者のケースで使われるから。
でも、すごく矛盾してない? という気がするのは
「本人利益」や「コスト効率」や「公平な医療資源の活用」という謳い文句で
“無益な治療”論による治療の差し控えのターゲットになっているのも
ここで懸念してもらっている貧困層や障害者、移民などマイノリティだという現実がある。
例えばこちらのケースではトリソミー13の新生児の心臓手術に
「同じ資源で多くの命が救える、公平性の点でどうか」と疑問が呈されている。
そうした現実を前に、
一方でコスト削減の社会的要請を念頭に“しみったれ医療”を説いて
そういう人たちからの治療の差し控えを暗に奨励しておきながら、
一方で自殺幇助はこういう人の治療を脅かすからダメ、と言っているような???
それは、つまり、オミッションはダメだけど、
コミッションは奨励しますよ、という立場なのかしら?????
ACP Makes Close Watch on Costs an Ethical Issue
Medpage today, January 3, 2012
【Dr. Emanuel関連エントリー】
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)
――――――
上記の疑問を考えても、
いつもお世話になっているPopeのブログが引っ張ってくれている
マニュアルの中の“無益な治療”に関する個所が気になるところ。
それによると、概要は
患者に医学的利益をもたらさない治療を行う義務は医師にはない。血流も呼吸も回復しないと思われる蘇生を行う義務もない。ただし、そのことを患者や家族に理解させる努力は必要。
最も難しいのは、利益がまったくないわけではないが苦しみの方がはるかに大きいと思われるケース(または金銭面のコストが大きすぎる場合)で患者や家族が治療を望む場合。こうしたケースでは簡単な解決はあり得ないので、知識のある同僚や倫理相談を頼って、リスク・ベネフィットの比較検討を再確認するか、引き受けてもよいという医師がいるなら転院させるのも一手。まれには裁判所の判断が必要となる場合もある。司法が一方的な治療拒否の判断を認めるプロセスやスタンダードを有している地域もある。
医療機関によっては、延命効果がごく小さい場合に本人や家族の反対によらず一方的なDRN(蘇生無用)指定を医師に認めていることもあるが、共感と配慮をもって患者や代理決定者と治療の選択肢を検討するなら、一方的なDNR指定にまで至ることは滅多にないはず。心肺蘇生でどうなるか、患者への身体的影響、医師への影響、DNR指定でその他の治療がどうなるか、法的にはどういうことか、また患者の代弁者としての医師の役割など、あらゆることがきちんと話し合われるべきである。一方的DNR指定を書くなら、医師はその旨を患者または代理決定者に説明しなければならない。
こんなにも既成事実が先行している時に、
あくまでも性善説の努力義務ですかぁ……。
American College of Physicians on Medical Futility
MEDICAL FUTILITY BLOG, January 3, 2012
http://medicalfutility.blogspot.com/2012/01/american-college-of-physicians-on.html
上記マニュアル、医師の責務は何よりも患者に対するものであるとしつつも、限られた医療資源を効率的に公平に用いる責務、についても言及しているらしい。つまりコスト効率も倫理問題である、と。また医師による自殺幇助については、反対のスタンス。:うぇぇ。資源が公平に効率的に使われるように、というあたり、具体的にはどういう判断に使われていくのか。今でも”無益な治療”論は障害児・者の治療を「限られた資源の公平な分配という観点からいかがなものか」という疑問にさらしているのだけれど。
http://www.medpagetoday.com/PublicHealthPolicy/Ethics/30475
自殺幇助合法化を提言した英国のFalconer委員会報告に関する報道。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
カナダの世論調査で67%が自殺幇助合法化を支持。
http://news.nationalpost.com/2011/12/29/67-of-canadians-support-legalizing-assisted-suicide-poll/
http://www.680news.com/news/national/article/314863--poll-finds-more-than-two-thirds-of-canadians-support-assisted-suicide
米国で婚約者をパントリーに閉じ込めて放火して殺した女性が自殺幇助を主張していた裁判で、裁判官が「オスカーをあげてもいいくらいの演技」と殺人罪で懲役23年の有罪判決。:自殺幇助合法化の議論がかまびすしい国では殺人で逮捕された人が自殺幇助だと言い逃れようとするケースが増えている事実は、もっと注目されるべきでは、と思う。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2081716/Julie-Dixon-jailed-23-years-lying-burning-fiance-death-cupboad.html
日本。脳死の臓器提供者 過去最高
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120103/t10015018441000.html
英国政府、17000万ポンド投じてNHSの病院から高齢者を退院させるための基金を設立。
http://www.guardian.co.uk/society/2012/jan/02/fund-old-patients-leave-nhs-hospitals?CMP=EMCNEWEML1355
英国で3年間に抗ウツ薬の処方が4分の1も増加。うつ病患者の医療費に年間110億ポンドも。経済の不安定が要因と。:経済状況の悪化なのかなぁ……? それよりも経済の動力の方が要因ということは?
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/30/antidepressant-use-england-soars?CMP=EMCNEWEML1355
米、ナーシング・ホームで認知症患者への精神科薬の使い過ぎ問題。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239843.php
【関連エントリー】
認知症患者への不適切な抗精神病薬投与、教育・意識改革が必要(2009/4/17)
10年間で精神科薬の処方が倍増(米)(2009/5/7)
英国のアルツ患者ケアは薬の過剰投与で「まるでビクトリア時代」(2009/6/5)
ナーシング・ホーム入所者に症状もICもなく精神病薬投与(2009/10/31)
不適切な抗精神病薬の投与、15万人の認知症患者に(英)(2009/11/15)
1人でTX州の総量をはるかに超える統合失調症治療薬を処方する精神科医が野放し……の不思議(2009/11/30)
英国連立政権の税と社会保障改革で最も影響が大きいのは子どものいる夫婦。
http://www.guardian.co.uk/politics/2012/jan/04/couples-children-coalition-tax-benefit?CMP=EMCNEWEML1355
日本。京都に子どもシェルターができます (ブログ「キリンが逆立ちしたピアス」)
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20111231/1325321402
日本。原発ゼロをめざす湖西ネット、発足。
http://www.nionoumi.net/gz/homu.html
医療職の知的障害に対する無知と無関心によって知的障害者が死んでいる、として
Death by Indifferenceという報告書を取りまとめ、
それが医療オンブズマンの調査と処罰に結び付いたことは、
以下のエントリーでまとめました。
「医療の無関心が助かる知的障害者を死なせている」報告受け調査へ(英)(2009/1/27)
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(2009/3/31)
オンブズマン報告書を読んでみた:知的障害者に対する医療ネグレクト
Markのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Martinのケース:知的障害者への偏見による医療過失
Mencapはその後も
医療現場での知的・精神障害者に対する偏見と差別をなくすキャンペーンを続けながら、
知的障害のある患者への理解を進め、コミュニケーションを改善すべく
NHSスタッフに十分な研修を行うよう求めている。
Mencapはこのたび、新たに
過去10年間にNHSの病院で亡くなった知的障害者74人のケースについて
病院側の過誤や患者の苦痛に対する無知・無関心によるものと指摘し、
NHSには障害のある患者に対する組織的差別がある、と糾弾。
Mencapの幹部は
「74人のケースから、
NHSはまだまだ知的障害者の治療の仕方を分かっていないことは明らかで、
驚くべきネグレクトと尊厳無視のオンパレード。
NHSの組織的差別の結果、救命可能な知的障害者が死んでいるのだ」
指摘を受け、保健省のPaul Burstowケア・サービス大臣は懸念はもっともだとして、
知的障害者の避けることのできた死や時期尚早だった死について極秘調査を行うと同時に、
知的障害者への医療改善に焦点化した監督機関に予算をつける、とも。
極秘調査はイングランド南西部の5つのプライマリー・トラストで
知的障害のある患者の死亡事例を全て調査し、
NHSで治療流に死を避けるために他にできることがあったかどうかを調べた上で
2013年に大臣らに答申する予定。
調査を率いるDr. Pauline Heslopは
「知的障害者にはその他の患者と同じように
タイムリーで適切かつ個々のニーズに合わせたケアを受ける権利があり、
その権利が疑われたりネグレクトされるのは許しがたいことです」
NHSの幹部らもMencapの報告書を詳細に検討する、と。
NHS accused over deaths of disabled patients
The Guardian, January 2, 2011
【関連エントリー】
医療職の無知が障害者を殺す?(2008/4/23)
知的障害者の腎臓がんを1年もほったらかし、でもメディアが騒ぐと即、手術(豪)(2010/7/1)
「心の病は、誰が診る?」を読む(2011/10/7)
ウチの娘が腸ねん転で手術を受けた時の医療側の差別的対応について
冒頭のMarkのケースのエントリーを始め、いくつかのエントリーで書いているのですが、
上記去年10月7日の「心の病は、誰が診る?」のエントリーでは以下のように書きました。
「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、
あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。
患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。
あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。
宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。
「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」外科医は、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。
ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
今年もよろしくお願いいたします。
とはいえ、新年早々、なんとも気分の悪いニュースです。
去年はカナダの王立協会から同様の提言が出たばかり。
------
英国上院の前議長Falconer議員といえば、
09年に改正法案を提出するなど、もともと合法化論者として有名な方。
そのFalconer議員が委員長となり
こちらも合法化運動の広告塔、作家のTerry Pratchettの資金提供で
去年立ち上げられたのがthe Commission on Assisted Dying。
Falconer議員とFalconer委員会関連エントリーはこちら ↓
自殺法改正案提出 Falconer議員 Timesに(2009/6/3)
英国上院、自殺幇助に関する改正法案を否決(2009/7/8)
英国上院に自殺幇助に関する検討委員会(2010/11/30)
上記エントリーにも書いている通り、
当初から合法化支持に立場の委員に偏っているとの指摘がありましたが、
予想通り、対象者を限定しセーフガードを十分に用意した上で
自殺幇助を合法化するよう法改正を求める報告書を今週中に出てくる模様。
この情報を受け、
哲学者のMary Warnockが
一番悲惨なのは自殺に失敗することだから、
ノウハウを知っている医師や看護師が自殺幇助するのが望ましいといった趣旨の
論考をObseverに寄せているらしい。
ざっとした検索ではヒットしなかったし、
さして読みたい気分でもないので、このエントリーではパス
法務大臣のスポークスマンは
自殺幇助合法化問題は政府ではなく議会で議論すべきこと、とコメント。
End the ban on assisted suicide, report will urge the government
The Guardian, January 1, 2011
【1月4日追記】
英国のFalconer委員会報告に関する記事。
http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/law-and-order/8987017/Lord-Falconer-assisted-suicide-law-fails-to-protect-or-punish.html
http://www.telegraph.co.uk/news/politics/8987593/A-duty-of-care-to-our-last-days-on-Earth.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2080927/Cameron-faces-new-pressure-end-ban-assisted-suicide.html?ito=feeds-newsxml
Falconer委員会報告に先んじて前警察署長が自殺幇助に関する法の明確化を呼び掛けていた。
http://news2.onlinenigeria.com/world/uk/131384-law-on-assisted-suicide-confusing-and-unsafe-says-former-met-chief-blair.html
【Pratchette氏の発言に関するエントリー】
作家 Terry Partchett “自殺幇助法案”を支持(2009/7/1)
自殺幇助ガイドラインに、MSの科学者とアルツハイマーの作家それぞれの反応(2009/9/23)
作家 Pratchette氏「自殺幇助を個別に検討・承認する委員会を」(2010/2/2)
Pratchett氏の「自殺幇助委員会」提言にアルツハイマー病協会からコメント(2010/2/3)
BBC、人気作家がALS患者のDignitas死に寄り沿うドキュメンタリーを作成(2011/4/15)
【Mary Warnock氏の発言に関するエントリー】
英国著名哲学者、認知症患者に「死ぬ義務」(2008/9/29)
BMJの副編が「生きたい障害者が死にたい病人のジャマするな」(2009/9/6)
Warnock, Finlay, Purdy他が自殺幇助で円卓会議(2010/1/31)
安藤泰至編著 岩波書店
読んだ時に、
アカデミックな議論の内容については
正直まったくついていくことができなかったので、
こんなド素人が書評を書いていいんだろうか……と迷った。
でも、読みながら、言いたいことだけは喉元に群がり起こっていたので、
思い切って、そのこと(だけ?)を書かせてもらった。
生命倫理を問い直すのはアカデミックな世界の住民の特権じゃないはずだ……という思いを
そうか、私はAshley事件と出会ってからのリサーチと物思いの中でずっと抱えていたんだ……と、
この本を読んで気付かせてもらった。
生命倫理が脅かしているのが、私たちや私たちの家族の身体や命なのであれば、
生命倫理は、学者でも思想家でもない私たちによってこそ、問い直されるべきではないか。
この書評を書くことで、これまで言葉になっていなかった問題意識を
くっきりと言葉で捉えることができた。
振り返ってみたら、
拙著「アシュリー事件」でもOuelletteの新刊の紹介エントリーでも、
私が言いたかったことの1つは、このことだったような気がする。
気づいてみれば、学者でも思想家でもない私が厚かましくも
生命倫理をタイトルに謳ったブログをやり続けていることそのものが
最初からそういう問題意識だったことを物語っている。
はっきりと言葉で捉えることができた以上、
来年は、このことをしっかり考えてみよう、と念じつつ、
この書評を2011年の締めくくりのエントリーに――。
本書は5章構成で、「狭い意味での『生命倫理学者』ではない」が生命倫理のあたりで(も)仕事をしている学者が1章ずつ担当している。最初の4章では「いのちの思想」として、上原專祿(戦後の歴史学者)、田中美津(70年代ウーマン・リブの牽引者)、中川米造(医学哲学者)、岡村昭彦(報道写真家)という4人の人生の軌跡と思想とを紹介・考察し、最後の章は、生命倫理が日本にどのようにもたらされてきたか、開拓者たちの思想や背景を歴史的に概観する。
その問題意識とは、副題にあるように「生命倫理は再生されなければならない」というものだ。編著者の安藤泰至は「序にかえて」で早々に「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」あると指摘する。1章の終りでも、具体的な事例を挙げて生命倫理学や生命倫理学者の欺瞞性に鋭く切り込んでいる。それなら何故、生命倫理と直接の繋がりのない思想家をわざわざ引っ張り出して論じるといった迂遠なことをやらなければならないのだろう……? そんな怪訝な思いにかられる。
しかも2章では、幼時の性的虐待という原体験をもつ田中美津が、一歩も逃げずにその痛みを自分のものとして引き受け、女である「私という真実」をまるごと生きようとする生きざまに息を飲むうち、生命倫理そのものがいつか念頭から消え去ってしまう。
その後、常に弱者の側に立って近代医療を批判した「中川医療慨論」、世界を舞台に仕事をしながら差別と人権の問題にこだわり続けてバイオエシックスと出会った岡村へと、人物の生きた軌跡はまた生命倫理へと接近していく。読者には少しずつ、なぜ彼らを引っ張り出さなければならなかったのか、なぜそれらが平仮名で「いのちの思想」と呼ばれるのかが、おそらくは体感として腑に落ちていくだろう。そこに著者らの見事な仕掛けがある。
5章で印象的なのは、“輸入”された生命倫理を日本の文化風土から問い直そうとした森岡正博が、ウーマン・リブと障害者運動と出会い、日本では70年代から独自に生命倫理の議論が開始されていたことを発見する下りだ。日本の生命倫理はそこでぐるりと田中美津に繋がり戻され、その“原点”から現在のあり方を照らし返す。
読了後、4章から1章へと逆方向に読み返してみたいと思った。4人を逆にたどった、その先には、学者でも思想家でもない「私たち」がいるのではないか、という気がしたのだ。普遍的で大きな「いのち」と繋がりそこに包まれつつ、この抜き差しならない小さな「いのち」を生きる私の痛みと怒りと悲しみと、そこから生まれる祈り――。そんな私たち一人一人によってこそ、生命倫理は問い直され、再生を求められるべきではないのだろうか。
なぜならば編著者が書いているように、家族の「脳死」臓器提供をするか否かの「選択」を迫られる時に、その「『選択肢』が既に医療とそれをめぐるシステムによって制限され、狭められた形で提供されているにすぎないこと」が見えなくされているのは、他ならぬ私たちなのだから。
「介護保険情報」2011年12月号 P. 17