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1月の“アシュリー療法”論争でも触れている人があったのですが、

去年から英国では、産婦人科医らが早産の重症障害新生児を bed blocker(ベッドふさぎ)と呼び、事実上「治療をせず安楽死させてはどうか」と提案しています。そういう赤ん坊がベッドをふさいでいるために、もっと健康な赤ん坊や母親の医療に差しさわりが生じている、というのが理由の1つ。そのほかに英国産婦人科学会が理由としてあげているのは、おおむね以下。

・周産期医療の進歩で未熟児がどんどん助かるようになっているが、治療しても死亡したり重い障害を負う可能性が高い。
・重い障害のある子どもの養育は親への負担が大きい。
・そういう子どもの命を助け、育て、成人した後も面倒を見るための社会のコストも大きい。
・妊娠24週で胎児の障害が分かった妊婦には中絶が許されているが、28週になると許されない(フェアでない)。
・オランダでは特定の条件を満たせば重症障害新生児の安楽死が認められている。

BBC Early babies dubbed bed blockers (2006.3.27)
the Guardian Obstetricians call for debate on ethics of euthanasia for a very sick babies (2006.11.6)

こうした英国産婦人科学会の動きの背景には、胎児・新生児医療について2年がかりで調査を行っていたthe Nuffield Council on Bio-ethicsがそろそろ報告書をまとめて発表すると見られていたことがあったようです。

その報告書が11月半ばに発表される予定だったためでしょう。11月の初旬に英国産婦人科学会は、違法であるためにそれまでは検討から除外されていた重症障害新生児の安楽死も議論すべきだとの提言をナフィールド生命倫理カウンシルに対して上げています。(上記 Guardian の記事)

こういう障害児を一生世話するコストをリアルに知って、その全額を国が出してくれるわけではないということが理解できたら、「未熟児の母親だって激しい救命や治療について恐らく考えを変えるだろう。担当医師も変えるかもしれない。」

つまるところ、アメリカで主張され始めている futile care(無益な治療)の英国版でしょうか。シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスではFostがこれと同じ切捨て論を説き、 Wilfond がコストを理由にした切捨て論に疑問を呈していました。

しかし上記の論理がそのまま親に向けられると、これは一種の恫喝ですね。「これだけのコストを自分で担えるのか。担えないなら安楽死に同意しろ」と。

このような産婦人科学会と連動した動きのようにも思えますが、英国教会も重症障害新生児の安楽死を容認する見解を出しています。


日本語ではキリスト教オンライン新聞に以下の記事が。


(前日のガーディアン記事が元になっているようですが、「王立産婦人科大学」と訳されているのは、「英国産婦人科学会」のことでしょう。ナフィールドの報告書が2004年とされているのも、この数日後に予定されていた報告書のことと思われます。)

                  ―――――

Mental Capacity Act 2005のような、自分で決められない人本人の意思決定を尊重する法律が整備されている一方で、産婦人科医らによる障害児切捨ての動きがあるということが一見、矛盾のようにも思え、

また逆に、このような動きがあるからこそ、本人の利益を代理する制度がしっかりしている必要があるのかもしれない、と思うし、

しかし、また、でもその「必要」とは、一体どっちの必要なんだ? 

障害児・者・高齢者・病者の権利を守るための「必要」なのか、それとも切り捨てたい側が「然るべき手続きは踏んだ」とアリバイにするために「必要」なのか? ……などと考えたりも。

             
              =======


ナフィールド生命倫理カウンシルの報告書はこちらからダウンロードできます。


報告書のサマリーはこちら。


報告書の結論と提言はこちら(Chapter 9)。


胎児への医療、26週未満での早産児、集中治療を受けている赤ん坊と、3つの診療領域に分けて検討してあるようです。また、ここでも本人の最善の利益のため、誰がどのように決定するか慎重な手続きが提言されているようですが、まだサマリーを読んだだけなので、とりあえず、ここまでに。

 
2007.10.31 / Top↑
ワトソンの問題発言騒動を巡って、
「リベラルでも保守でもない、敢えて呼ぶなら尊厳派」を標榜する(その割にはキリスト教保守の匂いも?)
サイト Mercator.Net に Michael Cook という人が エッセイ
There’s more to life than discovering DNA(10月19日)を書いています。

Watsonのこれまでの発言を振り返りつつ、
彼は遺伝子が全てを決定するという前提に立ち、
人間性の本質を数値で計測可能なものに貶めて、
人間を遺伝子情報を忠実に発現する機械のように捉える考え方の先鞭をつけたと批判。

例えば人間のDNAは99.4%までチンパンジーのDNAと同じだということから、
人間がチンパンジーより優れているのは0.6%だけだという結論を導き出す人がいるが、

その段で行けば、人間はIQで優劣を決められてしまうことになる。
結局Watsonの訂正発言の意図も、「肌の色に関りなくIQの低い人は遺伝的に劣っている」
という意味だ、と。

このエッセイはWatsonのトランスヒューマニズムの理想に警告を発するものとなっています。

Watsonは人種差別主義者よりももっと危険な存在である。なぜなら彼は優生主義者だから。

他はともかく、この1行。
よくぞ、言ってくれました。

          
ところで、この中に引用されているWatsonのこれまでの発言ですが、

「われわれが神を演じているという人がいますが、それに対する私の答えはこうです。
われわれが神を演じずに、いったい誰がやるというのか?」

「誰かが本当にバカだったら、私に言わせるとそれは病気ですね。
……それならその病気は取り除いてあげようと私は考える」

「若い女の子をみんなきれいにすることができたら、そんなのはイヤじゃないかという人がいます。
素晴らしいと私は思いますね」

白人で、男で、頭が良くて、地位もお金もあり、それなりに健康で……
どこをとっても強者の立場に立つと、こういうふうにものが見えてくるということなのでしょうか。

それにしても、同じ匂いが漂っているような気がします。
”アシュリー療法”の擁護に登場した奇怪な人々と。

                  ―――――――

そういえば、

このエッセイで Rosalind Franklin の名前を見るまで迂闊なことに忘れていたのですが、
DNAのらせん構造に一番最初に気づいていたのは女性科学者だったのですよね。

Franklinが地道に研究を続けて撮影に成功したDNAのX線写真を盗み見たことが、
DNAの構造を解明するWatsonらの研究を完成する最後のピースになったのに、
彼らは手柄を独り占めしてしまっただけでなく、
著書でFranklinのことを無能でヒステリックな女として悪し様に書いた……。

なに、「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一)で読み齧っただけですが。
2007.10.30 / Top↑
イギリスでは2005年4月7日に新しい後見法であるMental Capacity Act 2005が成立、2007年4月の一部施行に続き、この10月1日に全面施行となっています。MCAについては、去年、名川先生のブログ記事Mental Capacity Act 2005 (2006年9月5日)で知ったのですが、そのうち覗いてみようと思ってそのままになっています。

Katieのケースなどから改めて興味を持ちつつ、なかなか法律そのものに手を出す気力がなく、だらだらと周辺的な情報を検索していたら、今年4月に英国医師会が同法に関連して出した医療職向けガイダンスを見つけました。


素人にも分かりやすいのに加えて、障害者や高齢者など自分で決めることのできない人を巡る医療上の倫理問題を考えるのにも適当と思えるので、例によって背景知識ゼロの素人が大胆に勝手な解釈・超訳にて、個人的に要点だと考える部分についてのみ。

まず、MCAの5原則をこのガイダンスは簡単なフレーズで紹介しています。

能力があるとの前提
自分で決める能力がないと実証されない限り、能力があるとの前提に立つこと。証明責任は、その人には能力がないと主張する人にある。(つまり推定無罪と同じ原理ですね。)概要説明の中にも、「意識のない患者は能力を欠いていることが明らかである一方、その他のカテゴリの患者のほとんどは、いかに低くとも、なにがしか意思決定の能力を有するものである」と書かれています。(「どうせこの子には何も分からない」と安易に決め付けてはならない、ということですね。)

意思決定能力を最大に生かすこと
意思決定の能力がないと決める前に、実施可能な限りあらゆる支援が行われていなければならない。サポートの手段を尽くすことなく能力がないと決め付けてはならないということですね。またアセスメントの方法が適切であることも。(AshleyやKatieなど、表出能力の低い脳性まひ者の意思決定能力については、特に要注意でしょう。Ann McDonaldの主張を思い出します。)

愚かな決定をする自由
バカな決断だと他人が思うからといって、それで能力がないことにはならない。決定の愚かさを根拠に本人が決める自由を侵すことはできない。いわゆる愚行権。

最善の利益
自分で決定する能力のない人に代わって代理決定を行う場合は、その人の最善の利益となる決定でなければならない。

最も制約度の低い選択肢
望ましい結果を得るための選択肢は複数あるのが通例であり、その人の基本的な権利や自由を最も制限しない選択でなければならない。(AshleyとKatieのケースはこの原則に違反しているのでは?)

さらに、このガイダンスから個人的に目に付いた点を挙げると、

・自己決定の能力が疑われる理由、アセスメントのプロセス、その結果が医療記録に残されていなければならない。

・決定が重大なものであれば、アセスメントも公式なものであることが必要。それが適切と思われる場合には、さらに精神科医や心理学者のセカンド・オピニオンを仰ぐのが望ましい。

・意思決定能力の有無を巡って対立があり非公式な方法で解決できない場合はthe Court of Protectionに判断を仰ぐこともできる。

・最善の利益を考えるに当たってはチェックリストが用意されている。またMCAの精神にのっとって考えれば、本人ができるだけ意思決定のプロセスに参加できること、本人に近しい人や代理決定権者(LPAやdeputy。後述)もそのプロセスに含めることが望ましい。

・生命維持治療の継続・中止を巡る意思決定には、別立てのセーフガードが特に用意されている。治療拒否をあらかじめ意思表示しておく場合も同様に細かい条件が設定されている。

・財産管理について代理決定を行うとされてきたこれまでのenduring power of attorney(EPA)の権限を新たに保健医療と福利に広げてlasting power of attorney(LPA)とし、本人が自分でLPAを指名すること、代理決定の諸条件を自分で決めることができる。

・LPAの決定に医療職が重大な疑問を抱く場合は、the Court of Protectionに判断を仰ぐことができる。

・the Court of ProtectionはMCAが適切に機能することへの最終責任を負い、MCA下で行われる決定に関する最終全権機関である。継続した意思決定を支援するための代理人(deputy)を任命する権限がある。ただしdeputyには延命治療の拒否に同意する権限はなく、その権限は本人が任命した代理人(attorney)であるLPAの代理決定権を超えるものではない。

・LPAと上記deputyを監督する機関としてPublic Guradianがある。またPublic Guardianはthe Court of Protectionに情報提供を行い、その決定をサポートする。

・さらに身近にアドバイスやガイダンスを行う大人が不在で上記の代理人もいない、特に弱い立場にある人に関して重大な医療上の決定が必要な場合には、新たに導入されたindependent mental capacity advocate Service(IMCAs)が提供される。

ちなみに、このように代理決定の手続きが法的に整備されても、なお裁判所によって判断されるべきこととして挙げられているのは、

・植物状態にある患者から人工栄養と水分補給を中止または停止する提案。
・同意する能力がない人からの臓器または骨髄の提供に関する症例。
・非治療的な不妊処置の提案。
・妊娠中絶はその症例によって。
・特定の治療がその人の最善の利益にかなうかどうかに疑いまたは争議がある症例。
・いまだ検証されていない領域で倫理上のジレンマのある症例。

これが、医療における人権感覚の一般通念なのだとしたら、なぜKatieの母親の要望を医師が簡単にOKするのか、なぜ世間の人たちが簡単に「やらせてあげればいい」と言えるのか、理解できない……。まぁ、まだ浸透していないということなのかもしれませんが。

英国の法律とはいえ、人権感覚そのものが天と地ほど違うとも思えないのに、なぜAshleyのケースはあれほど簡単に実施されてしまったのか、改めて疑問に思います。上記の6点のうち3点までも当てはまるケースだったのに。

(私は法律にも障害者の権利擁護についても何も知らないまま書いています。MCAの詳細は冒頭のリンクの他にも、名川先生のブログで専門的に解説されています。)
2007.10.29 / Top↑
前回のエントリーで13歳の少女に裁判所が中絶を命じたケースを紹介しましたが、アメリカ・フロリダ州では2005年に、裁判所が13歳の少女に中絶の意思決定を認めています。

9歳から州によって監護されている(custody)13歳の少女は、暮らしているグループホームから何度も逃走しているが、最後の逃走時に妊娠。年齢と育てる経済力がないことを理由に、本人は中絶を希望。親権のある州の子どもと家族局が、少女は自分で中絶の決断をするには若すぎる、未熟であると主張したが、彼女の代理となったthe Florida American Civil Liberties Unionは、フロリダの州法は未成年に中絶を選ぶ権利を認めているとして対立。

少女の精神鑑定が必要だとして、いったん中絶を差し止めた裁判所は、その後、少女は「意思決定の能力があり(competent)、既に決断しており、その決断に従って行動する権利がある」と裁定した。

「あくまでも本人の最善の利益を考えて行動している」と主張する子どもと家族局は上訴しない予定。

Abortion Stopped for 13 Year-Old Florida Girl
LifeSiteNews.Com May 2, 2005

Florida judge approves abortion for 13 year-old
MSNBC.com May 3, 2005

ちなみにthe American Civil Liberties Union(ACLU)のホームページを覗いてみると、1920年代に創設され、最初は市民権運動の活動家の集まりだったものが現在では会員と支援者が50万人を超えるとのこと。ほぼ全ての州にオフィスがあり、年間6000件の訴訟を手がけている。

このHPの説明によると、アメリカ政府のシステムは、

①多数派が民主的選挙による議会制を通じて統治する。
②民主的多数の力でさえ個人の権利の保障のためには制限される。

という、相反する2つの原理によってできているのであり、ACLUのミッションはアメリカの憲法で保障された自由や権利を守ること。また伝統的に権利を否定されてきた人々(ネイティブ・アメリカン、有色人種、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアル、女性、囚人、障害者、貧者)の権利を拡大することも。

アメリカには個人の権利を守るための組織や制度がこのように多様に存在しているのだなぁ……ということを改めて思います。「こういう社会で、なぜAshleyの権利は、あんなに簡単に無視されてしまったのか」という疑問が改めて強く意識されるわけですが。


          ―――――――

イタリアのケースでは、中絶が本人の最善の利益だというのが両親の主張であり、フロリダのケースでは中絶しないことが本人の最善の利益だというのが州の主張だったようです。同じ13歳でも全く逆のことが最善の利益として主張されたことになるのですが、

イタリアのケースとこのアメリカのケースの違いを生むのは、13歳という年齢に対する捉え方の違いなのでしょうか。

それとも2人の少女の境遇の違いが実は影響している?

フロリダの少女の妊娠が分かってから、直接彼女の養育に携わっている関係者がどのような対応をしたのか。そこにどういう立場の人たちが関り、どういうプロセスがあって裁判所に判断が求められたのか。どういう経緯でACLUが本人の利益を代理することになったのか。そのあたりに興味が動くところです。

【追記】
International Debate Education Associationというサイトに、未成年の中絶について親の法的関与の是非をめぐるディベートがありました。2002年12月に立ち上げられ、最後の書き込みは2005年8月ですが。(中絶は合法との前提で親の関与の是非のみを議論するものです。)


このページの説明によると、未成年の妊娠と中絶は親に知らされることと親の同意が必要との法律が43の州に存在するが、実際に施行されているのは32の州だとのこと。(2005年以降に変わっている可能性もありますが。)たいていは18歳未満を対象とし、親の関与が無理な場合に a court bypass procedure が提供されるとのことなのですが、この意味するところがはっきりわかりません。フロリダのケースは同様の法案が州議会で議論されているタイミングで起こったことのようですが。
2007.10.29 / Top↑
「わたしのなかのあなた」の主人公アナは13歳でしたが、イタリアでは親の訴えを受けた裁判所が13歳の少女に中絶を命じています。

13歳の少女Valentinaが15歳の少年によって妊娠し、本人は生むことを希望。しかし、Valentinaの両親は、その子どもを産むと娘は人生を台無しにする、娘には生まれた子どもを育てる財力もないとの理由で、中絶させたいと未成年裁判所(the Court of Minors)へ。裁判官はValentinaに中絶を命じた。

イタリアの法律では未成年には妊娠を継続するか中絶するかを決定する権利がないので、ガーディアンまたは両親に中絶を強制される場合がある。

しかしValentinaは中絶の後、自殺念慮があり子ども病院の精神科に収容された。

「あんたたちが私に殺させたんだから、今度は自分で殺すわ。自分を殺すのよ。こんなところにいたくなんかない。私はクレイジーなわけじゃないもの。親と裁判官に無理やりやらされたことが、私を犬なみに邪悪(evil)にしてしまっただけ」とVlentina。

Girl Suffers Forced Abortion in Italy : Minors have no “right to choose” life in Catholic nation
LifeSiteNews.com Feb.19, 2007

13歳という年齢の捉え方の難しさと同時に、子どもに関する親の権利をどう考えるのかという問題の難しさも感じるケースです。

            ―――――

このケースを論じたブログがありました。


親であっても裁判所であっても中絶を命ずることは人道的ではないという批判に対して、書き込まれたコメントには、現実問題として13歳の子どもに子育ては無理だから、結局はその両親が子育てをすることになるのであり、その負担を考えれば両親に決定権があるのもやむをえない、との意見も。

後者の意見には、「介護するのが親である以上、外野には口を出す資格はない」という“アシュリー療法”論争の際に多かった擁護論に通じるものがあるように感じます。

人権を考える際に、こういう「現実に負担を担う人に決める権利がある」という論法を持ち込むことには、危うさがあるような気がするのですが。

だって、「負担を担える人」というのは往々にして強者の立場にいる人なのでは? 

それに、その論法がまかり通るところには、「本人の最善の利益」議論そのものがありえないのでは?


----------

……ってことを考えていたら、ふっと疑問が頭に浮かんだのですが、

無益な治療(futile care)という概念が、そもそも「限られた医療資源の分配」という医療提供側の必要から出てきたのだとすると、これもまた「現実に負担を担う人に、治療を受けることのできる人できない人を決める権利がある」という論法なのかも……?
2007.10.28 / Top↑
父親のブライアンの視点から描かれている部分に、私には非常に示唆に富んでいると思える一節がありました。

まだ親になる前、若かったころのブライアンとサラ夫婦が旅先で出会った占い師の言葉です。そのとき、占ってもらおうと言い張ったのはサラでした。

運勢とは粘土に似て、時を選ばず形を変えるものだが、自分でつくり変えることができるのは自分の未来だけで、自分以外の人間の未来までつくり変えることはできない。ある人々にはそれが物足りないのだと。

現在のサラは、どんなことをしてでもケイトを死なせまいとしています。アナが腎臓の提供をしたくないと親を訴えたことに腹を立てています。アナはちょっと拗ねているだけで機嫌を直したら裁判など取り下げるはずだと、アナの思いを認めようとしません。彼女は常にアナが臓器を「私たちにくれる」という言い方をします。母親の彼女にとって、家族は同体なのでしょう。

かつて弁護士として働いていた彼女はこの裁判で被告側の弁護人となりますが、ブライアンに言わせれば「私の代理を彼女に頼んだことはない」と。しかし、そのことにもサラは気づいていません。

              ――――――――

親は子を愛するあまり、子の将来を見通そうとします。それは子に幸福な人生を送らせてやりたいと願うから。子の未来をできるものなら作り変えたいと願う親の思いは切なくて、「ある人々には物足りない」と形容してしまうのは酷なようにも思えます。

ケイトの「将来」には、いつも間近に死が今にも飛び掛ろうと待ち構えていました。だから母親のサラは、その死を防ぐために全力で闘い続けてきたのです。そして、いつのまにか、ケイトの死に「一丸となって敵対する家族」という構図の中で、夫や息子やもう一人の娘それぞれに目を向ける余裕をなくしてしまう。どんなことをしてでも死なせないことが、もしかしたらケイト自身に目を向けることより優先されてしまうほどに。

Ashleyの両親が将来のレイプを案じるのも、成長抑制といった過激な手段まで考えるのも、同じ心理なのかもしれません。わが子が不利を背負っていると知っているからこそ、子の将来を見通して、せめて打てる手だけは先にみんな打っておいてやりたいと願ってのことだとすれば。

Katieの母親Alisonが、まだ始まってもいない娘の生理に「苦しむのはかわいそうだから」先に子宮を摘出しておいてやりたいと願うのも、今でも痛いこと苦しいことの多い娘に不憫を感じているからこそ、この先に余計な苦しみまで負わせたくないのでしょう。

お金や地位が人間に幸福を保証してくれると信じる人たちが子どもをお受験や習い事に駆り立てるのも、子どもの将来がなるべく幸福であるようにと願ってのことだと考えれば、障害のある子どもの親に限った話でもないようです。

でも、どれだけのことをしてやったとしても「これで十分。これでもうウチの子はゼッタイに死ぬまで幸福に違いない」と確信できる日など、子どもに障害があろうとなかろうと、きっと来ることはないのでしょう。

上記の占い師の言葉は、子の将来に対して「可能な限りの幸福を担保してやるために、自分にできる限りのことをしておいてやりたい」そして、おそらく「それによって自分が安心したい」という親のエゴを鋭く突いていると思います。

「自分以外の人間の未来を作りかえることはできない」という人生の厳然とした事実を、(そしてもちろん体に手を加えたからといって、その子の未来を作り替えることなどできないという事実も)、子に障害があろうとなかろうと、親はどこかで受け入れなければならないのではないでしょうか? 

(私自身、それができるという自信があって書いているわけでは決してないのですが。)
2007.10.27 / Top↑
白血病の姉のドナーになるべくデザイナー・ベイビーとして生まれ、13年間、臓器のスペア庫として常に待機しては体の一部を姉に提供し続けてきたアナが、次はいよいよ腎臓提供を求められるという段階で、「もうイヤだ」と両親を訴えるという物語。

これから、このミステリーを読む人にはちょっと迷惑かもしれませんが、最後のどんでん返しが待っているので、そちらは触れずにおくことで勘弁してもらって、判事が裁判の最後にアナに話しかける言葉を。

「この数日、争点となったことのひとつは、13歳の少女にこれほど重大な選択をする能力があるかどうかということでした。しかしながら、わたしはこう主張したい。13歳という年齢に達していれば、基本認識を変えることはまずありえないと。むしろ、ここにいるおとなたちの一部は子どものころの最も基本的なルールを忘れてしまっているように思われます。人からなにかをもらうときにはかならず相手の許可を求めるということを」

「今ここに、医療目的のための能力が両親の監督を離れ、きみに付与されることを宣します。その意味するところは、きみがこれからもご両親と一緒に暮らすとしても、また、就寝時刻や見てはいけないテレビ番組について、ブロッコリーを残していいかどうかについて、ご両親から指示されることはあるとしても、医療行為に関して最終決断をするのはきみだということです」

アナの弁護士が、彼女が18歳になるまで医療上の代理権を付与され、さらに難しい決断を下さなければならない事態に至った時にアナを補佐することになります。

「むろん、そうした決断がご両親と無関係になされるべきだと言っているわけではありませんが、最終的に決断をくだせるのはアナひとりだということです」


            ―――――

物語の終わりの方で、あるシーンがアナの視点から回想されます。姉のケイトとアナが食後の後片付けをしながら腎臓移植を話題にする、とても印象的な場面。

アナが「あんたには生きて欲しい」と言い、それに答えるケイトの方が、「腎臓提供がイヤだと言いさえすれば、好きなホッケーも続けられるし大学に行って、あんただって思い通りの人生が送れるのよ」などと返した後、2人は黙って皿を洗い続ける。そういうシーンです。

……自分がお荷物でいるのをケイトが後ろめたく感じていたんだとしたら、あたしはその2倍、うしろめたさを感じていた。彼女がそう感じてるのを知ってたから。自分もそう感じてるのがわかってたから。
 そのあとは話が途切れた。あたしは彼女が手渡すものを拭き、ふたりして、自分たちが真実に気づいていないふりをした。ケイトに生きてほしいといつも思っているあたしのほかに、解放されたいとときどき願う恐ろしいあたしもいるっていう真実に。


姉を愛しているなら臓器を提供することなど苦にならないずだ、むしろ自ら進んで提供するはずだと、なぜ周囲は思い込むのだろう。そんなことが際限なく続けられる人間など、いるはずがないのに。

なぜアナは、そうできない自分を「恐ろしいあたし」と責めながら、「もうイヤだ」という声を自ら封印するしかなかったのだろう。解放されたいと願うことがあるからといって、姉を愛していないことにはならないのに。それは別の問題なのに。

……ということを考えていると、ふとケイトとアナの関係がKatieとAlisonの関係に重なりました。Alisonもまた「もうイヤだ」と思う自分を心の奥底で「恐ろしい母親」だと責めているに違いない、と。

娘の介護から解放されたいと願うことがあるからといって、子どもを愛していないことにはならないのに。子どもの介護にいかに献身できるかということだけが、親の愛情を量る目盛りではないのに。

もしかしたら障害のある子どもの介護への献身を、愛情を量る目盛りにしてしまうのは、the Daily Mailの密着取材記事のような周囲の眼差しなのではないでしょうか。

愛すればこその介護だと自己犠牲を賛美されたら、「もう限界」と助けを求める声は封印するしかなくなってしまうでしょう。だって、介護ができないことは愛情がないことの証になるのだから。ドナーであり続けることが姉への愛情の証だと、無言のうちに悲鳴を封じられていたアナのように。
2007.10.26 / Top↑
Katie Thorpeのケースが裁判に持ち込まれ、Katie本人の利益はcafcassという子どもの権利擁護のための組織によって代理されることになったようです。それにより、Ashleyのケースにおける決定プロセスの安易さが改めて浮き彫りにされるような気がします。

そんなことを考えていたら思い出したので、「わたしのなかのあなた」(ジョディ・ピコー)という小説を読んでみました。

7月13日のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスの際、Rebecca D. Pentz 医師のプレゼン「兄弟の健康への手段として子どもを利用すること」で引用・紹介されていた小説です。

13歳のアナは、白血病の姉ケイトのドナーとなるべく出生前遺伝子診断で生まれたデザイナー・ベイビー。彼女が弁護士を雇って両親を訴えることから物語が展開します。主要登場人物それぞれの視点から書かれており、どんでん返しも用意されて、なかなか楽しめるミステリーでした。

また、この本は、子どもの法的な権利擁護が制度化されているのはイギリスだけではないと、思い出させてくれます。読みながら、医療における未成年や自分で決定できない人を巡る代理決定の問題は、このような兄弟間の移植であれ、AshleyやKatieのケースであれ、本質的に通じるところがあるなぁ……と感じたりも。

いきなり13歳の少女に裁判を起こしたいと頼まれた弁護士は、なぜ両親を訴えるほどの強硬な手段をとるのかとアナに問います。生まれた直後の臍帯血を皮切りに、リンパ球、骨髄、顆粒球、抹消血管細胞と、姉の病気の進行に伴って次々に体の組織を提供させられてきたアナの答えは、

「きりがないからよ」

これまでにそれだけの臓器提供をしてきたということは以前は同意していたのか、との問いには、

「だれも一度もあたしに尋ねなかったわ」
「腎臓を提供したくないということは、ご両親に伝えたのかい?」
「あたしの言うことなんか聞いてくれないもの」

これら2つの問答は、たしかPentz医師も上記のプレゼンで引用していたように思います。

後の法廷の場面で、

アメリカで両親が子どもに代わって決断を下すことが認められているのは、憲法で保障されたプライバシー権によるもの」という法的解釈が出てきます。

(この点は“アシュリー療法”論争の際も、支持・擁護の立場の人たちが親の決定権に関連して挙げていました)

一方、同じく後の法廷の場面で、

両親が既にその意思を示していたとしても、12歳から14歳に達した子どもは、正式なコンセントでなくとも、病院が勧める処置に同意の意思表示をする義務が生じる

と医療倫理審議会の委員長が証言する場面もあります。

(シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスで、 Lainie Ross医師の講演の中で mature minor という概念が出てきました。ここで言っているのがそのことかも。)

話を小説の冒頭に戻します。

アナの頼みを引き受けるつもりになった弁護士が、裁判の手順を彼女に説明する場面。

「家庭裁判所にきみの訴状を提出しよう。医療目的のための能力付与を請求することになるな」
「そのあとは?」
「審理が開かれ、判事は訴訟後見人を選任する。訴訟後見人とは──」
家庭裁判所の訴訟に関わる未成年者を補佐するための訓練を受けた人。その子の最大の利益がなんであるかを決定する人。つまり、あたしの身に何が起こるかは、またべつのおとなが決めるってことね」
「でも、法律ではそうすることになっているんだから、そこを避けては通れない。ただし、後見人は理論上、きみの味方なんだ。きみのお姉さんや両親の味方ではなく

姉の病院の医療倫理審議会の議長(精神分析医)を弁護士が訪ねていき、アナに関する医療倫理審議会の審議記録について尋ねるシーンがあります。

「彼女(アナ)に関する医療倫理審議会の意見書はありますか」
「アナ・フィッツジェラルドのために医療倫理審議会が開かれたことは一度もない。患者は彼女の姉なんだから」

(アナが8回もその病院で処置を受けていることを弁護士に指摘されて)
「しかし、ああした処置が医療倫理審議会にかけられるとはかぎらんだろう。患者の要望に医師が同意していれば、また、その逆であれば、対立は起こらない。対立がなければ、われわれはそのことについて聞き取りすらする理由がない。われわれはフルタイムで仕事をしているんですよ、ミスター・アレグザンダー。われわれ精神分析医、看護師、医師、科学者、牧師といった職業の人間は、問題を探しに出かけていくわけじゃないんだ」
          

当ブログでも、コンフリクトがなければ最善の利益も問われないのではないか、Ashleyのケースが裁判に持ち込まれなかった最大の理由とは、単に親と医師とが合意したからではないか、との疑問を呈しています。

これは、FostやDiekemaのような考え方の医師を探して訪ねていけば、世間に知られることもなく、親は障害のある子どもにお好み通りに手が加えられる、ということではないでしょうか。

(シアトル子ども病院に関しては、今後5年間は DRWの監視の目が光ることになっていますが。)
2007.10.26 / Top↑
Katieのケースは裁判所の判断を仰ぐことになったようですが、

18日のエントリー「なぜ小児科医は出てこないのだろう」で記事の存在を紹介したきりになっているので、遅ればせながら10月13日のthe Guardianの記事から、Alisonの発言を以下に。

もちろん、Katieを施設に入れることを考えたことはあります。今でも時々考えますよ。そういう、気分の落ち込む日があるんです。たとえばKatieと寝ていて夜中に20回も起きなくちゃいけなくて、次の朝になってベッドメイクしようと思ったらそこらじゅうウンチだらけで、頭はガンガンするし、メリッサはママ、ママあたしのお弁当は、ってうるさく言うし、そういう日に、ああ、もうイヤだ、こんなの、と思ったりしますよね。でもKatieが学校へ行ってしまうと、そういうのも忘れるんですけど。

この記事の冒頭には、Katieは「話すことができない、歩けない、言葉は一言も解さない。自分の名前も母親の顔さえ分かっていると思えたことは今まで一度もない。自分の体のぴくつきすら自分でどうにもできないし、膀胱や腸の動きもコントロールできない」。もちろんAlisonの申告に従って書かれていることを念頭に読むべき情報だろうと思います。

また、この取材の際、AlisonのパートナーであるPeterが、

すごく困るんですけど、メディアに出るKatieの写真はたいていノーマルに見える。確かに、障害があるのは見てとれますよ。だけど、ちゃんと分かっているように見えるというか、まるで周囲とやり取りできているように写っている。私はカメラマンには必ず言うんですよ。舌も突き出しているし、よだれも垂らしているんだから、それをちゃんと撮ってくださいって。そしたら向こうは困るみたいで。だから、いいから撮ってくださいって言うんだけど、いや、そんなことはできません、と言われてしまう。そんなのはあまりないというんですね。親ならたいてい子どものそんな写真は嫌がるって。

そこでAlisonが口を挟みます。

イヤだと思う自分だっていますよ。それは。可愛い15歳の女の子を見てもらいたいという思いは私の中にもあるんです。でもPeterが言う通りなのよ。私はこういうことと格闘しているわけだから。そういう写真はいやだと思う気持ちもあるけど、でも、やっぱりこれが真実なんだと分かってもらいたいとも思うんです。


……子どものプライバシーについて、親の権利はどこまで及ぶのか。そういう問題が取り上げられたことはあるのでしょうか。

Ashleyのケースについても、子どものプライバシーにかかわる体の細かな状態についてまで親が公表してしまうことに疑問を感じるという意見もありました。

擁護の先頭に立っていたFost医師ですら、Scientific American.com(1月5日)で「今回は親が自分でしたことだからいいが」と断りつつ、本人の医療上のプライバシーがここまで公開されたことについての懸念を口にしています。しかし、「親が公開したのだからOK」と、本当に言えるのでしょうか?

また、Ashleyの写真を出した際に家族の顔だけは黒く目隠しを入れたことも、ひっかかります。名川先生もブログのコメントでこの点に触れておられますが、1月12日のCNN“Larry King Live” で Ashley の両親に前もって出された質問状の中にも同じ問いがありました。それに対する親からの回答は、

This story is about Ashley.
これはアシュリーの話ですから


父親は1月5日のthe Daily Mail紙の記事で、名乗らないのは他の2人の子どもを守るためだと言っていますが、それならばAshleyの写真もいっそ出さない方が2人のプライバシーはよほど完全に守れるはずです。つまるところ、写真公開についても「どうせ重い知的障害があって本人には分からないのだから構わない」という、子宮摘出の正当化と同じ理屈が働いているのでしょう。

しかし、アシュリーの写真を公開することは、この議論のために本当に必要だったのでしょうか?

(アシュリーが美しい少女でなかったら、それでも親は写真をブログに掲載しただろうか……との疑問は、以前のエントリー「アシュリーが美しいということ」で書いています。)


Ashleyの親にせよKatieの親にせよ、スタートは確かに子を思う愛情から始まったことだったかもしれません。しかし、この人たちは、どこかの時点から、自分たちの言い分の正当性を証明するための道具として、子どもを利用してはいないでしょうか? 

そしてまた、メディアや社会の方も、障害のない子どもについて親がここまで公開した場合には、そうした情報が出てくることそのものに、もっと抵抗を感じるのでは?
2007.10.25 / Top↑
Ashleyに行われた医療処置に関する問題では、どうもメディアの報道に不可思議な点が目に付くのですが、

Gunther医師の自殺を巡っても、

①なぜ10日間も報道されなかったのか。

Gunther医師が自殺したのは9月30日のこと。

ところがそれを地元の新聞 the Seattle Post-Intelligencer と the Seattle Times が報じたのは10月10日。今のところ私はこれが第一報だったと考えています。(これ以前の報道をご存知の方があったら、ご教示ください。)

なぜ10日間もニュースにならなかったのか、という疑問の声はどこからも上がらず、いまだに説明されていません。

しかし上記2つの新聞社がGunther医師の死を知っていたと思われる記事があるのです。

The Seattle Post-Intelligencerのキング郡9月の死亡者リストKing County Deaths (毎月まとめて一覧にしているものと思われます)の中にGunther医師の名前が含まれていました。このリストには名前と年齢、居住エリア、死亡日のみで、死因は載せられませんが、10月9日付の記事です。

日付で言えばたった1日だけのズレですが、記事の性格上、それ以前から知っていた可能性も否定できません。少なくとも記事になって報じられるより前にGunther医師の死は発表されていたし、新聞社もその事実を知っていた、知りながらニュースにするのを控えていたと言えるのではないでしょうか。

検死官局が自殺だと断定したのが、この死亡記事の翌日10日です。恐らく無関係ではないでしょう。そういえば the Seattle Post-Intelligencerの10日の記事のタイトルには、「自殺と断定」という文言が使われていましたっけ。

新聞に報道を控えさせた事情とは何だったのか……?
 

②病院が何も発表していないのに、なぜthe Seattle Times には早々と弟と同僚が出てきたのか。

the Seattle timesの11日の記事では自殺の原因について関係者のコメントが掲載され、記事全体としてAshley事件との関連を否定するものとなっています。

The Seattle Timesに登場する関係者とは、Gunther医師の弟と、Ashleyのケースを共に担当し論文も共同執筆したDiekema医師の2人。それぞれ「前から抑うつ状態になることがあった。自殺はアシュリーの問題とは無関係」、「アシュリーのことでは激励も嫌がらせもあったが、それで落ち込むよりも元気をもらっていた」とコメントし、自殺とこの問題との関連を否定しているわけです。

病院は何も発表していないのに、関係者がメディアにしゃべる。しかもDeikema医師はAshleyのケースに関しては病院の広報担当者のような存在──。

まさか、あれだけの事件で注目を浴び、違法性を認める記者会見を行うや、すぐさま世界中が注視する中でシンポまで開いた病院が、何の対応も考えずに医師の身内や職員に勝手にメディアと接触させておくとは思えません。Deikema医師はその後のAP通信の取材申し込みには返事を返していないのです。

これらは、担当医自殺という緊急事態にシアトル子ども病院が立てた危機管理戦略だったのではないでしょうか。「病院側は公式にはコメントしない。その代わりGunther医師の身内とDiekema医師のコメントをthe Seattle Timesに掲載してもらおう」と? 

そして、ここで見落としてはならない事実は、病院側が情報をリークした相手が、またしても、あのthe Seattle Timesだったということ。(くわしくは「シアトル・タイムズの不思議」の書庫を。)


③その後の報道は、なぜthe Seattle Timesの焼き直しばかりなのか。

1月11日以降、多くのメディアがGuntherの自殺を報じています。しかし奇妙なことに、Art Caplanのコメントを載せたMSNBC(11日付)以外は、だいたいどこもAPの配信ニュースを使っているのです。

しかも、AP配信ニュースの内容とは(これもまた不思議なのですが)、11日のthe Seattle Times記事の要約版みたいなもの。the Seattle Times での弟と Diekema医師のコメントをそのまま引っ張っています。

結果的に、「Gunther自殺はアシュリー事件とは無関係」というthe Seattle Timesの(病院側の作為を含む可能性のある)情報が垂れ流され続けたことになりました。

もちろん担当医の自殺は続報に過ぎず、次々にインパクトの強い話題を追いかけて興味が移ろうメディアにとって、自社で独自に追わなければならないほど大したニュースではなかったのでしょう。

しかし、結果的に、病院側の意図で色づけられた情報が繰り返し流されることで、繰り返されるたびに少しずつ2人の証言が「客観的な事実」の顔つきをまとっていった可能性はないでしょうか。

まるで情報のマネー・ローンダリングのように。

               ―――――

”アシュリー療法”論争の始まりから、ずっと不思議でならないことのひとつ。

どうして、こんなに多くの人がこんなにも素直に、報道されていることがそのまま事実であると信じることができるのだろう?

その内容は、こんなにも矛盾だらけだというのに?
2007.10.24 / Top↑
既にあちこちで取り上げられているようですが、
DNAの構造を解明したノーベル賞受賞者James Watsonの人種差別発言が問題になっているとか。
「アフリカ人はヨーロッパ人よりも知的レベルが低い」という意味の発言をし、
予定されていた講演の中止が相次ぐなど、騒ぎになっているようです。

BBCのニュース Lab suspends DNA pioneer Watson(10月19日)に、発言意図が誤解されているとの本人の釈明があるので、
その部分だけを抜き出してみると、

I can certainly understand why people, reading those words, have reacted in the ways they have.
To all those who have drawn the inference from my words that Africa, as a continent, is somehow genetically inferior, I can only apologise unreservedly.
That is not what I meant. More importantly from my point of view, there is no scientific basis for such a belief.
We do not yet adequately understand the way in which the different environments in the world have selected over time the genes which determine our capacity to do different things. The overwhelming desire of society today is to assume that equal powers of reason are a universal heritage of humanity.
It may well be. But simply wanting this to be the case is not enough. This is not science. To question this is not to give in to racism. This is not a discussion about superiority or inferiority, it is about seeking to understand differences, about why some of us are great musicians and others great engineers.

何を言っているんだか、こちらのインテリジェンス不足のためよく分からないのですが、
問題発言を行った政治家が「誤解」を解こうとしゃべればしゃべるほど、
差別の自覚がないのは元々の差別意識がそれだけ根深いためだとの事実を白日の下にさらし、
さらに墓穴を拡げていくのと同じような……?

このWatson発言に対し、
「肌の色とインテリジェンスとの関連には、科学的にも遺伝子コードにおいても裏付けなどない」と
Craig Venterが批判しているとのこと。

しかし、Watsonの差別発言だけを考えれば、人種差別の問題なのでしょうが、

もう少し広く、
WatsonやらVenterやら、その他 “バイオ系”やら“ナノ系”やら“コグノ系”やら“インフォ系”やら、“ポスト・ヒューマン”系やら“トランスヒューマン”系やらの人たちが言っていることの中で、
この発言を聞くと、私が理解できないのはむしろ、

なんで、この人たちはみんなして知能、知能って……
知能だとかインテリジェンスだとかばっかりに、どうしてそんなにこだわるかなぁ……? 

だって、

Venterにしたところで、Watsonにしたところで、自分たちのインテリジェンスが
当然のことながら暗愚な一般大衆とははるか別の次元にあることは
証明するまでもない事実と受け止めているのであって、

もちろん彼らは正真正銘の天才なのだから、
我々とは比べるべくもないほど頭が良いことは否定できない事実であるにしても、

そのことによって、
いろんなことを決める資格がある人間とそうでない人間というふうに人間の間に線を引いている気配、
もしかしたら、そこまで明確に意識しているわけではないかもしれないけれど、
例えば人類が将来進むべき方向性を決める資格がある人間とそうでない人間との間に線を引いている気配を、
彼らはそこはかとなく漂わせているように私には往々にして感じられるのであり、

その気配には、ほんのうっすらにせよ、「支配ー被支配」という関係性が透けて見えるような気もして、

本当に深刻な問題は、
そのように人間の数多くの資質の中からインテリジェンスだけを偏重する彼らの価値観であり、

そうした偏った価値観を持つ新興テクノロジー分野の天才たちによって、
人間がインテリジェンスだけをものさしに階層化されつつあることのほうじゃないか……と。
2007.10.23 / Top↑
マイクロチップを人体に埋め込んで
アルツハイマー病患者の徘徊防止に使うシステムを開発・販売している会社VeriChipについて、
以前のエントリーで紹介しました。

他にも緊急時の医療情報アクセスや銀行口座と直結で簡単支払いにも使えると売り込んでいるものの、
人体に埋め込むという侵襲性の高さから
思いのほか業績が不振であるとのニュースも紹介しました。

この徘徊防止システムがスイスで売れたとのニュースが、
9月26日にSouth Florida Business Journalで報じられています。
VeriChipのカナダ支社Xmark Corp.による、同商品のスイスでの販売第1例とのこと。

詳しい契約内容は明らかにされていませんが、
ProtectPoint徘徊防止システムが導入されるのは
チューリッヒ近くの聴覚障害者と高齢者向け施設。

屋内施設で利用者の居場所を把握するためにRFID(Radio Frequency ID)チップが使用される、
としか記事には書かれていません。

チップを使用するという以上、人体に埋め込むのではないでしょうか。

「聴覚障害者と高齢者の施設」とは、実際にはどのような施設なのか。
こういうシステムを導入するというのだから、それは入所施設と考えるのが妥当なのでしょうが、
利用者はどのような人たちなのか。

施設がシステムを導入したからといって、利用者に勝手にチップを埋め込んでいいものでもないはず。
その場合、このセンターの利用者の同意については、どういう考え方になるのか。

疑問だらけです。
(キーワード検索しても、ビジネス関連サイトの記事が多いのです。
必ず株価が書かれている、といった類の。
こういう方向からの関心が目立っているというのも、なんだか……。)

この記事にあるXmarkのCEOの発言からは、
海外でマーケットを広げていくことによって
北アメリカの同業界で主導的地位を固めようとの意図が感じられます。

要するに、
何かと非難されるアメリカで業績を伸ばす前に(経営も悪化していることだし)、
海外にマーケットを広げてchipの利用を既成事実化し、
それによって非難をかわしてしまおうという戦略なのでは?

Xmarkのサイトを覗いてみると、
トップページに以下のようなアナウンスがありました。

信頼の商品の数々に新しい名前が付きました

Xmarkへようこそ。

Xmarkは医療セキュリティ製品会社の新たな名称です。

名称を改めることによって、我々は医療セキュリティに特にフォーカスします。
これまではeXI やVeriChipとしてご存知だったかもしれませんが、
これからは当社の商品は全てXmarkの名でお届けすることになりました。

なんということはない。
いろいろ批判に晒されて人権侵害のイメージが付着してしまったVeriChipという商品名は脱ぎ捨てたぞ、と。

つまり、これは、海外でのマーケット拡大戦略に向けた備えでは?

さらに、売れるのはやっぱり医療セキュリティだと判断し、
この分野にフォーカスしよう、ということでもあり、

まさか、

自分で選択・同意する能力がある人たちには売れないみたいだから、
そういう能力がない人をまずは狙おうと……?


              ―――――


ところで、まったくの偶然なのでしょうが、XmarkのCEOはDaniel A. Gunther。

あのAshleyの担当医だった(そして、9月30日に自殺した)Daniel F. Gunther医師と
ミドルネームのイニシャル1文字を除いて、同姓同名。

意味のない偶然と頭では分かりつつ、なんだか幽霊を見たようで、一瞬ぞうっと……。
2007.10.22 / Top↑
18日のTimesのKatie関連記事の中で、どうも、ひっかかること。

この中には、母親Alisonが娘の子宮摘出を望むのは、pain, discomfort and indignity of menstruationからKatieを守ってやるため、と書かれています。

Alisonが言っていたのは、「良く知らない他人に生理の手当てをしてもらうことには尊厳がない」ということだと思っていたのですが、一体いつから生理そのものがindignityになったのか? 

【追記】その後、ニュース記事を読み返していたら、Alison自身が10月7日の記事で「生理のindignityなどなくても、今でもKatieには尊厳のない暮らしなのに」と語っていました。ただ、生理の何が尊厳を損なうと言っているのか、その意味するところはよく分かりません。

             ――――

そして、もう1つ。尊厳を巡る論理が矛盾していること。

Ashleyのケースが論争になった時、「子宮摘出は彼女の尊厳を犯している」との批判に、両親や担当医ら、FostやHugesら擁護に出てきた人たちが返したのは、

しかし、アシュリーには尊厳が何かということすら分からない
アシュリーは尊厳のある扱いをされているかどうかを感じることすらできない

つまり、「重い知的障害のある人には自分の置かれている状況に関して尊厳の有無を感じる能力がないのだから、子宮摘出が尊厳を損なおうがどうだろうが問題にならない」とのリーズニングだったのです。

子宮摘出どころか何でもアリに持ち込めそうな乱暴な屁理屈ですが、もしもAlisonが娘の子宮を摘出しても構わないと考える根拠がこれと同じなのであれば、摘出を望む理由として「Katieの尊厳が生理によって損なわれるから」と同時に主張することは、論理が矛盾しているのでは?


(Alisonに言わせれば、Katieの知的障害は「母親さえ認識できていない」し、「自分でできるのは息をすることだけ」というほど重篤なのであり、それならば論理的な帰結としては「生理の手当てを誰にしてもらおうと娘には違いは分からない」という認識になるはずなのですが。)



「尊厳」という言葉の定義には、さまざま議論の余地があるのかもしれません。けれど、親であれ、医師であれ、メディアであれ、トランスヒューマニストであれ、誰であれ、自分たちの都合だけで簡単に裏返すような、そんな軽々しさで操っていい言葉でないことだけは知っておきたい──と思う。
2007.10.21 / Top↑
何かとお騒がせのDNA研究者Craig Venterが、
研究室の化学物質から人工的に染色体を作った、
つまり世界初の新たな人造生命体が誕生したことを近く発表するとのこと。

報じているのは10月6日のthe Guardianの記事
 I am creating artificial life, declares US gene pioneer

専門的な知識は全くないので誤解もあるかもしれませんが、内容を大まかにまとめると、

あるバクテリアのDNAシークエンスを元に、
その遺伝子組成を生命維持のために最低限必要な5分の4にしぼる。
その遺伝子情報を載せた人造染色体を生きたバクテリアの細胞に入れてやると、
その細胞の種が変わり、新種の生命体が誕生する……という段取りのようです。

Venter氏は、
これはデザイナー・ゲノムの発展における巨大な一歩で、
ゲノムは「読む段階」から「書く段階」へと進みつつあると誇らしく語り、
この技術が進めば新種のエネルギーを誕生させて地球温暖化の阻止にも貢献できると、
デザイナー・ゲノムの持つ長期的な可能性を描いて見せています。

そして、

いろいろ考えるべきことがあるからといって、
大事なことに取り掛かるのに臆したりはしません。

我々がやっているのは大きなアイディアなんです。
生命に対する新たな価値観を創造しようとしているのだから。

こういう次元でやっている以上、
それが気に入らないという人も出てくるのは当たり前でしょう。


そのうちKatieのケースを巡って
英国のトランスヒューマニストがメディアに登場して、
言い始めるかもしれません。

「我々がやっているのは不自由な体と頭がもたらす不快からの解放であり、
障害に対する新たな価値観の創造という大きなアイディアなのです。
こういう次元でやっている以上、
それが気に入らないという人も出てくるのはやむをえないでしょう」

         -----



ところで、文中、以下の1文が目に付いたのですが、

Mr. Venter said he had carried out an ethical review before completing the experiment.

実験を完了する前に倫理的な審査を行った主語が、Venter自身なのですね。
これ、一体どういうこと?

こういうのまで「専門家による倫理的な検討が行われた」という範疇に入ってくるのであれば、
せめて自分で自分の利益を守ることのできない人たちを巡る事案については、
どんなに煩雑で時間がかかろうと、
介護の苦労を振りかざして子どもの体に手を加えようとする親たちからの希望がどんなに強かろうと、
世の中のお金と権力のある人たちからどんな圧力がかかろうと、
裁判所の関与を残しておいて欲しい……と、私は思うのです。


【追記】上記ガーディアンの記事はフライングだったとの情報が以下のブログにあると
教えていただきましたので、取り急ぎ、以下に。


ついでに、19日のBBCに関連記事があったので、こちらも以下に。


こちらでは、その人造ライフがVenterチームによってまもなくできるとの「うわさ」とされています。
詳しいことになると文系頭がついていかないのですが、
the Guardianが報じていたのとは作成(?)手順なども多少違っているようにも思えたり。
ただ、この”ヴァージョン2.0の生命”を誰が一番先に作るかという競争の激化が
この記事ではテーマのようなので、フライングもその関係かも。

そういえばカーツワイルは確か、
新興テクノロジーによって強化された人体のことを
「ヴァージョン2.0の人体」と称していたっけなぁ……。

そして、2040年代には、
自分で自分の体をアップグレードする能力を獲得した「ヴァージョン3.0」になるんだとか……。

生命も人体も、まるでパソコンのソフトのようにプログラム可能なものになっていくんですね。
2007.10.20 / Top↑
終末期医療に関するものですが、英国の医療関連裁判の概要を日本語で解説してある論文を以下に。

終末期医療における法的枠組みと倫理的課題について
児玉知子 (国立保健医療科学院 政策科学部)
J.Natl. Inst. Public Health, 55(3): 2006

この中から、Katieのケースに関係するかもしれない事柄を私なりにまとめると、

イギリスでは1980年代後半から、意思決定能力を欠く成人に対する一定の医療上の決定において、病院などの医療機関が裁判所に認許を求める実務慣行があり、判例が集積されている。

意思決定能力を欠く成人の最善の利益について宣言を行う裁判権を有しているのは高等法院であり、判例法によって事前の高等法院の認許が求められている範疇は以下のように確立されてきた。

①同意ができないものに対する不妊手術
②植物状態患者への人工的栄養補給と水分補給の打ち切り

ただし、いつまでも裁判所の認許を必要とすることへの疑問が呈されており、今後は裁判所関与から専門医療従事者によるガイドライン重視へとシフトしていくものとの予想も。


いくつかのメディアがKatieのケースについて、親と医師との意見が一致すれば子宮摘出を行うことは法的には可能だと書いていますが、それは判例法と食い違っているのでは?


植物状態の事案では、裁判に申し立てる場合には患者の訴訟後見人としてオフィシャルソリシタが必ず関与を求められる。

イギリスで患者の最善の利益を考える基準としては、以下のようなBolan基準が参照されている。

Bolan基準とは: 医師が、「医療上の見解を持つ責任ある集団がその当時受容していた慣行」に従って行動していたことを立証すれば免責されるという治療および診断の過失の判断基準。

ただし、Bolan基準を最善の権利基準としてしまうことには批判もあり、法律委員会では以下の4点を最善の権利を決定する場合に考慮すべき4要点としている。

①本人の過去と現在の希望・感情・考慮したであろう要素
②本人の参加を促すこと
③相談すべき他者の見解(本人が指名した者、判断能力を欠くもののケアや福祉に従事している配偶者、親戚、友人またはそれ以外など)、継続的代理人、マネージャーなど
④その決定が本人にとってさらに制限を与えるものでないこと


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また、脊髄小脳変性症の40代の男性が、病気が進行して意思表示ができなくなっても栄養・水分補給を中止されたくないとして、それを可能とするGMC(General Medical Council)のガイダンスの違法性を訴えた裁判(2003年から継続中)について、以下2つの論文がありました。

治療の中止/差し止めについての一考察
 ――英国バーク裁判を巡って――
的場知子ほか 
(第30回死の臨床研究会年次大会一般演題発表抄録 2006)

治療を中止させない権利についての一考察
――英国Leslie Burke裁判を巡って――
的場知子 
Core Ethics Vol.3 (2007)

この論文に引用されているBurke氏の以下の言葉は、そのままKatieのケースに重ねて考えられるのではないかという気がします。

 

・僕が車椅子にのっているせいか、たいてい人はまるで僕がその場にいないかのように、あてつけのように僕の頭の上を飛びこして僕のことについて話すんだ。みんな僕にとって一番良い(最善の利益)と思うことをやってくれる――ぼくに尋ねはしないで。僕の小脳失調症がひどくなったら、医師たちは食物と水分の供給を中止することが僕にとっていちばん良いこと(最善の利益)だと信じている。[…]意識があるままで、身体の動きや言葉が全く意のままにならない。僕のことをほんとうによく知る人のみが、(僕ののぞみを)わかってくれるだろう。
・GMCのガイドラインは、人工的な食物と水分の補給は治療にほかならないという包囲網に(医師たちを)とじこめようとしてみたいに僕にはみえるんだ。もし医師が、僕が良いQOLにあると信じられなければ、彼は治療(食物と水分の供給)を中止することができることになる。
・食物と水分の供給は治療じゃないでしょう?それは人間の尊厳の問題だと僕は思う。ぼくたちには食べものと飲み物が必要だ。だから僕は怖いんだ。ほんとうに恐ろしくてたまらない。[…]僕は自分の人生を楽しんでいるよ。今のところ、生きてゆくことはほんとうに素晴らしいと感じている。自分の名づけ娘が大きくなってゆくのを、ずっとこうして見ていたいものだ。[…]僕は裁判官が医師たちに、本人からインフォームド・コンセントを与えられない限り、勝手に中止できないと言う判断を下してほしいと願っている。別に医師たちに敵対しているわけではないよ。このままでは、患者の同意のなしに医師たちは食物と飲み物の供給を取りやめられることになる。僕にとっては、自分の同意が何よりも重要な問題なんだ。

    Paul Burnell “Why I fear my future” 20040223 BBC News


ところで、この引用に私は1つだけ疑問を抱くのですが、

40代の男性の発言がこういう口調に翻訳されてしまう。

これこそ、彼が言う「車椅子に乗っているせい」なのでは?
2007.10.20 / Top↑
これまでのニュースでは、Katieの母親から子宮摘出を求められて同意した婦人科医らがNHSの弁護士に法的助言を求めているとのことでしたが、

18日付のTimesの記事Should the Court of Appeal allow Katie Thorpe’s womb to be removed? によると、その助言によって、どうやら正式に裁判所の判断を仰ぐことになるようです。

Katie本人の利益はthe Children and Family Court Advisory and Support Service (Cafcass)によって代理される模様。

また、裁判所はこのような判断においてはthe Official Solicitorが出すガイダンスを参照するだろうとも。

これまでの似たような判例としては、2000年に29歳の重症の知的障害のある女性が激しい生理痛に苦しんでおり、病院恐怖もあることを理由に、母親が不妊手術は合法であり、妊娠は本人に大きな害になると主張。しかしCourt ot Appealの裁判官の裁定は、避妊リングの挿入により避妊と生理痛の緩和を行うことが本人の最善の利益だとした。

King's College Londonの法学教授Penney Lewisによると、これまで同意能力のない人の不妊手術を裁判所が認めたケースはいくつかあるが、いずれもKatieのようにまだ生理が始まっていない段階で予防的に摘出という話ではなかった、とのこと。

              ――――――

俄かに話が英国の裁判制度や子どもや知的障害者の権利擁護に関わってきました。私は何も知らないので、とりあえず手近に見つけたものを以下に。

CafcassのHPによると、cafcassとは、家庭裁判所に持ち込まれる種類の家族の問題に関して、子どもの最善の利益が何かについて裁判所に助言を行う政府機関のように思われます。

なお、cafcassはDisbility Equality Schemeという文書を出しています。障害と民族による差別における権利擁護の考え方をまとめたもののようですが、まだ、ざっと眺めた程度で詳しいことまでは読めていません。

              ―――――

こちらもまた、該当サイトのトップページを覗き見た程度なのですが、the Official Solicitorとは、裁判所に任命されて未成年や知的能力を欠いた成人の法的代理を務める英国の裁判制度の一環。人を指しているというよりも、そういう制度または機関を意味しているような感じがします。詳しくは以下で。



              ――――――

何しろ素人解釈なので、間違っているかもしれません。詳しい方がありましたら、ご教示ください。また、なにか日本語で英国の関連制度の概要が説明されているような資料があると嬉しいのですが、ご存知の方がありましたら、こちらもご教示いただけると幸いです。

いずれにせよ、気が気ではない思いで毎日の報道を見守っていたので、Ashleyのケースよりは多少まっとうな展開になりそうだと、ちょっとほっとしました。
2007.10.19 / Top↑
Dvorskyが10月11日のブログで、1月にGunther医師がIEETと接触していたことを明らかにし、その文章の一節を引用していることは、既に紹介しました。

しかし、その後どうも不思議に思えてならないのは、

彼ら(IEETに関わっている人々、つまりトランスヒューマニズム・サークル内のお仲間たち)は、何故1月の段階でそのことを明らかにしなかったのか。なぜGunther医師が死んだ今になって明かすのか。

念のためにIEETのサイトでもう一度Guntherをキーワードに検索してみましたが、ヒットしたのはメンバーの一人が書いた関連記事のみ。

              ―――――――――


そこで、さらにDvorskyのブログを確認してみました。

2007年1月のDvorskyのブログSentient Developmentsのエントリーでアシュリー関連記事は以下です。

4日  Ashley X story hitting prime time
    (ニュースを報告)

5日  Defending Ashley’s Parents on the BBC
    (BBCに出演したことを報告)

16日 Trying to catch my breath
    (アシュリー事件でHughesともども取材依頼が殺到し、息つく間もないと)

26日 Peter Singer on the “Ashley Treatment”
    (Singerの論評を紹介)

27日 Certain minds and certain bodies
    (知能と体の不一致に関する見解を修正)


1月5日、16日のエントリーでの彼の口調は嬉々と弾んでいます。得意になって自慢しているようなトーン。2月には特にアシュリー関連の記事はありません。その後5月18日、ブログ開設5周年に当たる日の記事でも、今年のブログ内での出来事を振り返って最初に挙げているのはAshleyのケースが論争になったこと、とりわけ、その論争において自分がいかに活躍し注目を集めたかということ。

このような多少お調子者の気味のあるDvorskyが、自分が書いた文章について当のAshleyの担当医から直々にコメントをもらったとしたら、しかもそれが感謝の言葉であったとしたら、黙っていられるものでしょうか。

それなのに、なぜ今まで黙っていたのか。

そして当人が自殺した今になって、なぜ「実は彼は1月にIEETのサイトに次のように書いてきた」などと????
2007.10.19 / Top↑
前回のエントリーで紹介したthe Daily Mailの密着取材の日も、
Alisonは例によって非常に雄弁だったようです。
以下は彼女の発言の一部。相変わらず、思慮に欠ける発言が目立っています。

障害児の世話をするというのは終身刑を務めているようなものです。時には、もうこれ以上はやれないと思うことがあります。一番辛いのは睡眠不足。Katieは24時間介護が必要な子で一晩に20回も起きてやらなければならないんです。

夜のうちに自分の吐しゃ物や唾で窒息しかねないので、気を抜けません。でも私はKatieに無条件の愛を感じています。Katieのいない生活なんて想像できません。

自分のことなんて、どうでもいい。彼女が家族の中心で皆がKatie中心に動きます。Katieのニーズがいつでも最優先なんです。

(父親は障害を受け入れられなかったが)私には投げ出すことなどできませんでした。母親ですから、世話をしてやる責任があると感じましたし。でも、生まれた時に死んでいたら、その方がKatieにとっては間違いなく幸せだったと思います。そうすれば苦しむのはあの子ではなくて私だけで済んだから。実際、Katieは苦しんでいるんです。だってKatieには生活(人生)なんてない。ただの存在でしかないんですから。

そして子宮摘出の希望を巡る批判に対しては、

うちのドアは開いています。日々のKatieの介護がどういうものか、きて見てもらいたいわ。その上で判断してちょうだい。

このAlisonの言葉には、記者の次のセンテンスが続きます。

その言葉に従って私はAlisonと共に1日を過ごし、その生活がどういうものかを見た。この経験に頭が下がるという気持ちにならない人がいるとしたら、私はその人を認めない。


しかし、この主張に、私は2つの疑問を抱きます。

①Alisonの介護の頑張りに頭が下がることと、
障害のある少女の子宮を母親が望んだというだけで摘出することの是非とは、
全く無関係の問題です。

誰もAlisonの介護の質を疑っているわけでも
「充分な介護をしていないから娘の子宮摘出を望む資格がない」と言っているわけでもなく、
「体の完全性や尊厳への権利は親とは無関係なKatie固有の権利ではないのか」
との問題が指摘されているのです。

この記事はAlisonの苦難をひたすら書き連ねているし、
Alisonは自分の苦労を延々と語り続けます。
それは苦難の中で頑張っている人を批判するのが難しいことを、
彼らが無意識のうちに知っているからでしょう。
「重症の娘のケアに献身する美しき母親象」を強調することによって、
Katieの子宮摘出の是非の議論がいつのまにか母親の評価の問題へと摩り替えられていきます。

「Katieの話」が「母親の話」に変質するのです。

母性賛美によって批判を封じる──。
この記事が行っていることは、それ以外の何でもありません。


②これが重症児の介護の一般的な現実であり、
Alisonだけの現実ではないという事実が見落とされているのでは?

重症児のケアについて全く無知な人が予備知識なしに行き、
ケアの現実を目の当たりにすれば衝撃は受けるでしょうが、
上記の事実そのものは(語り続けるうちに多少の誇張がつい出てしまったということはあるにせよ)
重症児介護の現実であり、
Alisonだけが特別に過酷な日常を送っているというわけではないでしょう。

もちろん重症児だけに限らない。
形はそれぞれ違っても
、障害児・者、高齢者の介護はこれほど過酷であり得る。
それが介護の現実というものです。

その現実を目の当たりにしながら、
「何故このような介護者の過酷な生活が放置されているのか。
福祉サービスはどうなっているのか」という本質的な問題意識には向かわず、
「こんなに苦労している母親が言うことなのだから反対せず娘の子宮を取らせてあげよう」とは、
それは一体どういうジャーナリズムなのか? 

この記事の主張が通るなら、
Katieと同じような重症児には、親さえ望めば、
子宮摘出やアシュリーに行われたその他の処置ばかりか、
他にも未来志向の人たちが今後「障害者のQOL向上のため」だとして次々に思いつく可能性のある、
どんな「人体改造」だって許されることになるのではないでしょうか?

アシュリーの父親が誇りに感じているらしいrational thinkingと「QOLの維持向上」という題目、
そしてトランスヒューマニズムが説く 「同じ人間同士への配慮」が結びついて障害者に向かえば、

そこから立ち現われてくるのは、
いわゆる「社会モデル」も「医療モデル」も超越した(と彼らは恐らく主張するであろう)
障害者改造支援モデル」なのでは?


 
2007.10.18 / Top↑
その後、Katieに関する以下の2つの記事を読みました。



まず、事実関係についての疑問を。

10月7日のthe Daily Mailの記事ではKatieのメンタルレベルは「1歳半」とされていました。
それが同じ新聞の4日後の記事では「生後3ヶ月」。 
the Guardianの記事では「生後6ヶ月」。
そのいずれもが、根拠を提示していません。

              ――――――

以下、the Daily Mailの記事について。(the Guardianについては回を改めます。)

the Daily Mailは1月の”アシュリー療法”論争でもthe Seattle Timesと並んで、
父親側に偏ったセンチメンタルな報道をしていました。

このたびはKatie一家への(というよりもAlison一家への)1日密着取材を敢行、
いかにKatieのケアがたいへんであるかをドラマチックに、かつセンチメンタルに描写しています。



その中から、まずは新たに目に付いた事実関係(ただし内容は全て母親の言)を以下に。

・1992年3月31日に誕生。出生時に難産から58分間酸欠状態となり、ICUに運ばれた。(同じ新聞の7日の記事では酸欠状態になったのは38分間とされる。)

・退院後24時間のうち22時間泣き続けた。

・脳性まひの診断は生後4ヶ月の時に小児神経外科医から。

・栄養摂取は胃ろうにて。(Ashleyと同じ)

・学習障害の子どもたちの学校(?)に。帰りはタクシーにて(恐らく英国の福祉制度で支給されるのでは?)

・けいれん状に体がびくんびくんすることがよくある。

・高い悲鳴のような声を上げる、または低い声でうなっていることが多いが、気分のいい時には静かに車椅子に座っている。

・夜中に何時間も泣き叫ぶことがあり、近所迷惑なので周辺に家のない場所に引っ越した。

・身体接触を嫌がる。

・Alisonが母親だということも分かっていない。

・自分のニーズを伝えることができないので、ケアはAlisonと、7年前から同居しているパートナーの判断による。

・妹は11歳。

・Alisonは、もとPA。(Physician’s Assistantでしょうか?)

・AlisonとKatieの父親との間がうまくいかなくなった原因のひとつは、彼が娘の障害を受け入れられなかったこと。

・2人目の子どもを産もうと考えたのは夫婦間の亀裂を修復するためと、「正常で健康な子ども」を持つ経験をしたかったから。しかし妊娠5ヶ月目に離婚。

・パートナーのPeterはfloor fitter(カーペットを貼る職人?)。仕事で家に来た時に知り合った。すでに成人した子ども2人の父親で、Katieの障害を受け入れるのに問題はなかった。

・Katieの寿命は15歳から20歳といわれていたが、2人のケアが良いので25歳から30歳に伸びた。

・週に1度「ティーンズ・クラブ」に通い、定期的にお出かけにも連れて行ってもらう。

・時々、家族のレスパイトのためにKatieを預かってもらう。

・パリのディズニーランドやあちこちの行楽地にKatieを連れて行ってきたが、大きくなるにつれて難しくなっている。

              ――――――――

事実関係をここまで整理して、私が抱く疑問。

・この件については母親と婦人科医のコメントが紹介されているばかりで、
Katieの小児科医は登場していません
彼女を小さい頃から診てきた専門医がいるはずなのですが、なぜ出てこないのか。
今回の母親の希望について、またKatieの状態について小児科医の見解はどうなのか???

・Katieには、けいれん発作のコントロールが充分に行われていないのではないでしょうか? 
小児神経の専門医が充分なケアを行うことによって、
夜中の号泣やびくつきは改善する可能性もあるのでは? 
福祉はもちろん、医療的にも通常の重症児ケアの範囲でKatieの不快・苦痛を軽減する
(それは結果的に家族の介護負担の軽減に繋がる)ために
もっとできることが、残されているような気がするのですが? 
この点についても、重症児医療、障害者福祉の専門家の意見を聞きたいところです。

・脳性まひだけで「余命があと何年」という話が出てくることは考えにくいのですが、
最初にKatieの寿命が12-15歳だとされ、
その後、親のケアが良かったから寿命が延びて25―30歳というのは、
一体どういう立場の人がどういう根拠で言ったことなのか?


Alisonはこの密着取材の日もたいそう能弁だったようですが、
長くなるので、彼女の発言については次回に。
2007.10.18 / Top↑
その後、Katieの母親はまだメディアの取材を受け続け、しゃべり続けています。しゃべり続けるにつれ、言うことにも歯止めが利かなくなっているのではないかという懸念さえ覚えますが、それについては、また改めて整理して書こうと思います。

ここでは10月9日に既に出ていたThe Heraldの記事 Listen to mother on this terrible choice が、今頃になって目に付いたので。

この記事では、脳性まひ者の知能を外見で判断してはならない例としてChristopher NolanChristy Brownの例を挙げています。2人とも重篤な身体障害があることから知的障害も重いものと思われていながら、実際は知能には異常はなく後に自伝的な小説を書いた人。後者は映画化され日本でも話題になった”My Left Foot”他の著者です。

しかし、この記事は2人の例を挙げた後で、「しかし、Katieに選択する能力が本当にないだけだったとしたら?」と問い、そこから「上記の2例とも正常な知能に気づいたのは母親だった。だから母親のAlisonがKatieには何も分からないといっている以上は信じてはどうか。Katieの知能と情緒が正常だったら母親がそう言っているはずだろう」との主張に向かうのです。

Ashleyを巡る論争の時から、私にはずっと不思議なのですが、

表出能力が限られていて厳密に知的な能力を測ることが困難な場合に、つまり「分かっているか分かっていないか確かめられない」時に、「だから知能は低いはずだ」と考えるか、「だから、分かっているかもしれない」と考えるか、2つの対応があり得るわけですね。その際に実際の知能と周囲の認識とがズレていて起こる可能性としては以下の2つでしょう。

①実際には知能が高い人に、知能が低いと決め付けて対処する。
②実際に知能の低い人に、知能が高い可能性を考えて対処する。

この2つのうち、避けるべきはどちらなのか。

私は①の可能性を避けるべきだと考えます。それは当人にとってこの上なく残酷な事態だと思うからです。自分がある日突然、脳卒中で倒れ、意識はあるのに体のどこも思うようにならなくなってしまったら……という想像をしてみれば、①の残酷さは想像できるのではないでしょうか。①の1例を避けるために、数多くの事例が②になるのなら、それでも構わないじゃないかと私は思う。②から生じる不都合や人権侵害が私には想像できないから。

けれど、Ashley のケースでも Katieのケースでも、①の可能性の残酷さを考える人は少ない。

それが私にはずうっと理解できない。

-----------------

もう1つ、この記事で非常に気になるのは、Katieのケースに批判の声を上げているのは障害者団体であり、障害者の権利擁護運動の活動家のみであるように書いていること。

これは他のメディアにも当てはまるので、非常に気にかかります。実際には、様々な立場の人からの批判が出ており、その中には同じような障害児の親の批判もあるのですが、それには触れず、「ボロボロになって献身的に障害児のケアをしている健気な母親」と「その苦労を理解せず不当に権利ばかりを主張する障害者団体」という単純な対立の構図を作ることが、まっとうな報道姿勢でしょうか。

それは、Katieの母親が「批判しているのは障害者団体だけ。じゃあ、あなたたち、私が介護にどんな苦労をしているか見にきてごらんなさいよ」と言い放つ残酷さを、社会全体が障害者に対して(そして自動的に要介護状態の高齢者に対しても)投げつけることになるのでは?
2007.10.17 / Top↑
初めてアシュリーの親のブログを読み、当初のメディアの記事を読む中で、とても不思議に思ったこと。

何故この父親は、これほど「難しい決断ではなかった」と繰り返し言い張るのか。
何故そのことに、これほどこだわるのか。

「この決断は多くの人が想像しているように困難なものではなかった」との主張は
ブログの中では2回繰り返されている他、
1月7日に新たに追記された部分では
「娘にこの療法を提供することは容易な決断だった」とまで言い切っています。
1月3日から5日にかけてのメディアの電話取材の際にも、
必ず「難しい決断ではなかった」と強調しているのです。

当時、多くのブログには「苦渋の選択なのだから」、
「さぞ苦しんで決断されたことでしょう」、
「この決断に至るまでにご両親はどれだけ苦い涙を流されたことか」
といった同情の声が次々に寄せられていました。

これらは、両親の気持ちを思いやる温かい言葉なのですが、当の父親は
「多くの人は難しい決断だったと思っているようだが、自分にとっては決して難しい決断ではなかった」
と機会あるごとに何度も、それを否定したのです。

まるで世間の「どんなに苦しんで……」との声に苛立つかのように。

彼は「どんなに難しい選択」、「どんなに苦しまれたことでしょう」などと言われることが、
本当に心底イヤだったのではないでしょうか。

やめてくれ、自分はそんなふうに、べしゃべしゃと感情に溺れるような愚かな人間ではないのだから、と。

メリットとデメリットをきちんと分析すれば答えは明らか。
自分はそのように合理的に判断したのであり、
そのような理性的な考え方のできる自分にとっては、決して難しい決断などではなかった、
むしろ理にかなった易しい決断だったのだ、

と彼は言いたかったのでは?

つまり、彼が何故このことにこんなにこだわるかというと、
おそらくそれが彼にとって rational thinkingの問題だったからなのですね。

                ―――――

ちょっと唐突な個人的感想になりますが、

私はトランスヒューマニズム系の人が書いたものを読むと、
「頭は飛び切りいいだろうし、rationalなのかもしれないけど、ここには知恵というものが欠けている」
といつも感じます。

アシュリーの親のブログについて、
ほとんどのメディアが「深い愛情があふれている」とか「親の愛情には疑いがない」と書き、
数多くのブログでもそう書かれました。

が、あのブログには情の温かさというものが欠けている。
あるのはの愛情であり、がない。
理屈で愛情を訴えてはいるけれども、その言葉に優しさとか温かさが感じられない。
せいぜい「これも愛情なのだとすれば、愛情にも様々な形があるのだな」と。

いえ、あくまでも個人的な感想です。
2007.10.16 / Top↑
前回のエントリーで、Gunther医師自殺を巡るDvorskyの障害者団体批判のコメントを紹介しましたが、

実はその中に、ちょっと仰天の事実が。

“アシュリー療法”論争ピークの1月、
あのHughes が率い、DvorskyはじめBostrom(世界トランスヒューマニスト協会の創設者) もNammも理事に名を連ねるthe Institute for Ethics and Emerging Technologies(IEET)のサイトに
Gunther医師が書き込みをしたというのです。

IEETのサイトを検索してみましたが、Gunther医師の書き込みそのものを見つけることはできませんでした。

Dvorskyが例の「グロテスク」発言を行った文章 Helping Families Care for the Helplessは
当初彼のブログに書かれたものですが、その後IEETのサイトにも掲載されました。

その文章について、1月にGunther医師がIEETのサイトに次のように書いてきた
とDvorskyは言います。

IEETのサイトの記事は私が出会った最初の正気(sane)で理にかなった(rational)反応のひとつでした。こちらではみんな、あなた方のサポートに感謝しています。やがて、もっと理にかなった声が沢山上がるようになり、反動的な声が消えていくといいのですが。


(こちらではみんな all of us here とは、一体誰のことなのでしょうか。
シアトル子ども病院の関係者のことなのか。
アシュリーの親もそこに含まれているのかどうか……?)

ここに見られるGuntherの“アシュリー療法”批判への捉え方は、
2月に入ってAshleyの父親がAP通信に送ったメールの文章に見られる意識とそっくりです。

(ブログ公開以来、自分たちの元には1600通の激励、120通の批判のメールが届いた
と書いた上で、)

「励ましのメールはほとんどが思慮深いもの」で、自分たちのブログを読んでくれたのだとわかる。

「批判メールの大半は明らかに批判のための批判、または単なる反動であり、
メディアのセンセーショナルな見出しに(本文をちゃんと読まずに?)反応しているだけのようだ」

以前のエントリーで指摘したように、
父親がブログで書いていることやメディアで発言していることから推測すると、

去年10月の論文発表で巻き起こった批判に対して、父親は
「自分の意図が誤解されているためにこのような批判が起こるのであり、
自分がきちんと理を分けて説明すれば理解されるはず」
と考えていたフシがあります。

自分の考えは何処をとっても理にかなっている(つまりrational)のであり、
まともな人間(Guntherがいうsane?)であれば理解できないはずがないのに、
何故こんなにも世間に理解されないのか、
それこそ彼は理解に苦しんでいるのではないでしょうか。

だから世間の人たちが理解できないのは自分のブログをちゃんと読んでいないか、
またはメディアに煽られているからだ、
と考えるしかないのでしょう。

       ――――――――――

ちなみに、

以下は世界トランスヒューマニスト協会サイトのFAQ(Version 2.1 2003 Nick Bostrom)、
「トランスヒューマニズムに関する一般的な質問」の項目の1.1「トランスヒューマニズムとは何か」への答えの一節。

…….we can make things better by promoting rational thinking, freedom, tolerance, democracy, and concern for our fellow human beings.

……我々はrationalなものの考え方、自由、寛容、民主主義、そして同じ人間同士への心遣いを広めることによって事態を改善していくことができる。

ここで言う「自由」とは彼らがあちこちで主張していることから考えると、
例えばKatieの母親が主張しているような選択の「自由」
スポーツにおいて能力強化薬を使う「自由」、
遺伝子操作によってお好みの子どもを持つ「自由」
などのことと思われます。

いわゆる“アシュリー療法”も、彼らに言わせれば、
この中の「同じ人間同士への心遣い」に含まれるのでしょう。
どうせ彼女には必要のない子宮や大きな乳房を取ってしまうことによって、
QOLを改善し、生理の苦痛からも将来の病気リスクからも解放し、
将来仮にレイプされたとしても妊娠という最悪の事態は防いであげたのですから。

体を小さなままにすることによって中身とつりあう外見にしてあげた、それだけ「グロテスク」でも「フリーク」でもない存在にしてあげた、という「心遣い」も、忘れてはなりません。

このような考え方を彼らはrational thinkingと呼ぶのであり、
rational thinkingができる人ならば“アシュリー療法”の妥当性を納得しないはずがないと
Ashleyの父親も考えていたわけです。

Guntherも上記のDvorskyの引用から見る限りではそう考えており、
世の中にはrational にものを考えられず感情に走る人間が多いことを
嘆かわしく感じていたようです。

こういう考えが共通していたとすると、
やはり親のブログに書いてあった謝辞の通り、
Gunther医師は最初からアシュリーに行われた一連の医療処置を主導したのかもしれません。

(それなら、なぜ外部への釈明をすぐにDiekema医師一人に任せて引っ込んでしまったのか
という疑問は残りますが。)

いずれにしても、DvorskyとAshley父それにGunther医師。

実に気の合いそうな3人です。
2007.10.15 / Top↑
そういう声が出るだろうと思っていましたが、Gunther医師の自殺は“アシュリー療法”にいつまでも度を越した批判を続けた障害者団体のせいだ、と。

書いたのは、あのDvorsky

自身のブログSentient Developments10月11日のエントリーにて。

それに対して、障害者団体Not Dead YetのブログでStephen Drakeという人が非難の文章を書いています。

Gunther医師の死の悲しみの中で家族が同医師の自殺は以前からの抑うつ状態のためで“アシュリー療法”とは無関係だと語っているというのに、これ幸いと彼の自殺を批判者への攻撃材料に利用し、批判を封じようとするとは、なんという恥知らずかと。

ただ、Dvorsky自身もその後、the Seattle Timesの記事を読んで、Gunther医師の家族が自殺の原因は以前からの抑うつ状態が原因でアシュリーの問題とは無関係だと言っていることを上記の記事に追記しています。


                 -----

いずれもあまり冷静なものとは言い難いやりとりではあるのですが、この非難の応酬に、これまで”アシュリー療法”論争でさほど顕在化していなかった(しかし、ずっと潜在していたとは思います)「トランスヒューマニズム vs 障害者の人権擁護運動」という対立の構図が、ここではっきりと顕在化したことを感じました。
2007.10.14 / Top↑
10月11日のWired ScienceというサイトにGunther医師の自殺を報じる記事があります。
記事そのものは6行だけの大変短いもので、特に目新しい情報はないのですが、
そこに書き込まれたコメントが目を引きました。

私が見た時点での書き込みは3つ。

残念です。
Kouroth Oct 11, 2007 10:08:01AM

罪悪感とは無関係に決まっています……よね……
Balance Oct 11, 2007 10:53:27AM

何に対する罪悪感? 
彼も、あの処置を要望した親も、時代に先んじていただけかもしれないよ。
体が小さい方が、食べさせるのも、いろいろ世話したり移動させるのも簡単なんだから。

マイノリティの女性に無断で不妊手術をしていた医者とは違うんだよ。
昔、そういうのが当たり前だった時代もあるけど。

まぁ、子どものころに宗教的信条で洗脳された人間の中には、
裁判所の介入があった方がいいと考えるのもいるがね。
TJ Oct 11, 2007 3:01:31PM

このコメントの「時代に先んじていただけ」という言葉は、
アシュリーのケースについては非常に象徴的であるように感じます。

AshleyのケースとKatieのケースとでは、 決定的に違うと前に書きましたが、
その1つがこの「時代に先んじる」ことへの志向性の有無ではないかと私は思うのです。

アシュリーの父親は、自分が思いついた“アシュリー療法”が斬新で先進的な名案であると胸を張り、
世に広めようとの姿勢を前面に出していました。
それがブログでもメディアへの発言でも何度も繰り返された
彼の「難しい決断ではなかった」という言葉に表れています。
難しい決断も何も、自分が思いつき考案したことですから。

明らかにトランスヒューマニストのブログであることを知りながら、Dvorskyのブログの一説を引用したことからも想像されるように、

アシュリーの父親は「新興技術を使って人間を造り替える」という発想に
なんら抵抗を感じない人物のようです。

それは彼が世界に名を馳せるIT企業の最高幹部の一人であるということとも関係しているのかもしれません。
その彼が“アシュリー療法”を考案し、自分の娘に施し、それを世に広めようとブログを書いた時、
彼は明らかに「時代に先んじる」ことを自覚的に志向していたと言えるのではないでしょうか。

それに対して、
Katieの母親は自分が時代に先んじていようがどうだろうが、そんなことはどうでもいい。

メディアでのAlisonの発言を読むと、
彼女は基本的には自分が望むことを実現してもらうために、
その場その場でアシュリーの親の論理から適当な部分を借用しているに過ぎないように思えます。

(実に多くのメディアに対して直接取材に応じていることに驚きますが、
記事によって発言が多少ブレています。)

基本的にはKatieと自分のことしか考えていないし、
時代に先んじていようが前時代的であろうが、
彼女にとってはどうでもいいことでしょう。

このように2人の親の認識の違いを考えると、
Ashleyのケースの意味や背景が充分に吟味されないうちにKatieのケースが行われてしまうことは、

非常に危険なことなのでは?

              ―――――――

それにしても、

Gunther医師の自殺を報じる記事にコメントも寄せられ、
取り上げるブログもかなり出てきていますが、
英国でのKatieを巡る動きと彼の自殺をつなげて考えてみる人がいないことには、
ちょっと驚いています。

このタイミング。

無関係ではないのでは、と私は思うのですが。
2007.10.13 / Top↑
the Telegraphの Disabled girl to have womb removed (10月9日)から。

この記事には特に目新しい事実関係の情報はないのですが、母親Alisonの発言が引用されている箇所が多く、その発言がどうも気になるのです。例えば、

私にとっては苦しい決断でした。他の決断だっていつでもそうですけど。“私は正しいことをしているのかしら”とずっと自問しました。

たしか、決めたのはこの子が12歳か13歳だった2年前です。メリットとデメリットをはかりにかけて検討するのには13年かかったんです。

「苦しい決断だった」といっていることに注目してください。アシュリーの父親は「ぜんぜん苦しい決断じゃなかった」と何度も強調していました。ここに2つのケースの決定的な違いが如実に現れているという気がします。(この点については改めて書きたいと思っています。)

唯一の反論は障害者団体からのものですが、私があの人たちに言いたいのは“じゃぁ、うちに来て私と一週間過ごしてみてよ。私の身になってみなさいよ”ということです。

なんという無神経で残酷な言葉。

日々を生きていくために介助を必要とする障害当事者たちに向けて、「介護者の身になってみろ。あなたたちの介護がどんなに負担か、どんなに大変か、知ってみろ」と。

あまりにも他者に対する想像力を欠いた言葉です。ここにはAlisonの被害者意識がチラついています。彼女の被害者意識は、本来はそのような生活しか自分に与えてくれなかった人生への恨みからくるものなのでしょう。自分の苦しみに圧倒されている時、人は確かに他者の苦しみへの想像力を失います。しかし、Alisonがその被害者意識をぶつけるべき相手は娘を含む障害児・者ではなく、十分な支援をせずにむしろ切り捨てにかかっている社会の方ではないでしょうか。

そして、極めつけは以下の発言。

この子は自分では何もできないのです。おしっこもウンチも垂れ流しだし。手も足も使い物にならない。コミュニケーションも取れない。Katieが自分でできるのは息をすることだけなんです。

この子は自分では何もできない、できるのは息をすることだけ……。そんなはずはない。植物状態でもない限り、そんなことはありえない。

これまで当ブログで紹介した記事の多くには母子の写真が掲載されていますが、いずれもKatieは笑顔です。そこには母親とKatieのつながりの強さ、その中で彼女が安んじて楽しい生活を送っていることが感じられます。こういう笑顔のできる子が、「できるのは息をすることだけ」という存在であるはずがない。

私はKatieが通っている学校の先生たちがKatieをどのように見ているかを聞いてみたい、彼らはKatieにできることを沢山挙げられるのではないかという気がします。(アシュリーの知的レベルについても、彼女の日常生活を知っている学校の先生やセラピストのアセスメントを聞いてみるべきだと私は考えます。)

メディアはこぞってdevoted(献身的)な母親だと書いています。彼女自身も「loving(愛情深い)な母親として」という言い方をしています。しかし、この「できるのは息をすることだけ」発言でわが子に向ける目線には、その愛情の温かみが感じられないことが寂しい。

彼女の愛情の深さは疑いません。それだけの愛情がなければ背負えなかったはずの介護を、特にパートナーと出会うまでは一人で背負ってきた人です。写真や言葉の端々からも愛情の深さは充分感じられます。

しかし、長年の介護負担との格闘で、この人は燃え尽き寸前なのではないでしょうか。娘へのそれほどの愛情も擦り切れ、自分を見失うほどに、この人が本当は追い詰められているのだとしたら、時間を置いて冷静な判断をできるためには、むしろ一定期間この人を介護から解放してあげる(つまりレスパイトの)必要があるのでは? 

Katieの生理はまだ始まっていません。それならば結論を急ぐ必要もない話です。AlisonはKatieの介護からしばらく完全に離れ、本来の自分を取り戻してから、もう一度冷静に考えてみては……というのも1つの選択肢ではないでしょうか。親と医師だけではなく、ソーシャルワークの視点がこの検討に加われば、そのような選択肢も出てくるのではないかと私には感じられるのですが。
2007.10.13 / Top↑
Gunther医師の自殺はアシュリー療法とは無関係だとの記事が、あのシアトル・タイムズに。
Diekema医師が彼らしい饒舌で語っています。



Gunther医師には過去にも時々抑うつ状態になることがあったと、義弟のMichael Guntherが明かし、それが自殺の原因だと家族は考えている、と。

あとは例によってDeikemaの独壇場。

Guntherが名声や脚光を求めたことはないが、アシュリーへの治療の論文を発表してから2人は注目を浴び、その中には「悪意に満ちたeメール」も熱意のこもったサポートもあった。

2人とも嫌がらせも受けましたが、その一方でGuntherを“家族のために立ち上がってくれるヒーロー”だと考える人からの声も沢山ありました。

アシュリーのケースでDanが抑うつ状態になっているとか落ち込んでいるとか、感じたことはありません。ご家族をあのように助けてあげたことには誇りを感じていたし、それはいろんな意味で彼を元気にしていたと思います。

ここで言われているperiods of depression というのが、どの程度病的なうつ状態だったのかは分かりませんが、自殺は“アシュリー療法”とは無関係……と、ぺらぺらとしゃべりつつ、さりげなく「悪意に満ちたEメール」や嫌がらせの存在に言及している辺りが、Diekema医師の真骨頂でしょう。

それにしても相変わらず饒舌な人です。このような時にまで。

           ――――――

忘れないでおきたいのですが、the Seattle Timesとは、アシュリー事件においては、いわくつきの新聞です。

そこがまた、病院からなんらの発表もないうちに真っ先に「Gunther医師の自殺はアシュリーのケースとは無関係。もともと抑うつ的だったことが原因」説を流したことは、注目に値するでしょう。事実上、病院のアシュリー問題広報担当者であるDiekema医師がさっさと出てきて能弁を振るっていることも含めて。

(詳しくは、「シアトルタイムズを巡る不思議」の書庫を。)
2007.10.12 / Top↑
新たにKatie関連の記事を見つけたので、

the Daily Mail のWhy I want surgeons to remove my disabled daughter’s womb(10月7日)から、これまでになかった情報についてのみ。



Katieの脳性まひの原因は出産時の低酸素脳症

メンタルな能力は1歳半で、自分に言われていることがほとんど理解できない」とありますが、これもアシュリーの「生後3ヶ月相当の知能」と同じく、根拠が示されているわけではありません。また「気持ちを表すことはできるが、どういう気持ちかをコミュニケートすることはできない」ともあります。

(悲しみを顔や目の表情で訴えることができても「悲しい」と言葉に出せなければ、コミュニケートしたことにはならないいのでしょうか。)

毎日3~4時間、介護者サービスを受けています。

生理はまだ始まっていません

母親は2年前に子宮摘出をしたいとGP(家庭医)に相談し、St. John’s病院のPhil Robarts医師に紹介されました。この時のRobarts医師はピルと注射での対応を勧めています。母親は、血栓症のリスクを理由に断ったとのこと。寝たきりで体を動かすことが少ないから、一般の人よりもさらにリスクが高くなるという母親の判断。

(これは賢明な判断だと思います。しかし、生理がまだ始まっていないのなら、実際に生理痛がどの程度のものかすら分からないはず。世の中には時々痛み止めを飲む程度という人だって多いのですから。)

その後、今年8月にもう一度相談に行った時に、Robarts医師が彼女の要望を支持することにした、といういきさつとのこと。

8月には母親はアシュリーのケースを例に引きながら力説したことでしょう。1月にメディアで頻繁に発言した際には、「(アシュリーのケースがあったのだから)今度こそ裁判に訴えてでも」とまで語っていました。

以前は侵襲度の低い方法で対処すべきだという意見だったRobarts医師がどういうリーズニングで8月には考えを変えたのか、そこを聞いてみたいところです。アシュリー事件がなかったとしても、彼はKatieの母親に同意していたのかどうか……? 

そして、第1例の担当医であったGunther医師の自殺という思いがけない事態は、Robarts医師を初めKatieのケースに関わっている人たちの考えにどのような影響をもたらすのでしょうか。

                ------

これを書いて、ふっと頭に浮かんだ疑問なのですが、

医学はもちろん、医師の世界の慣例も私にはよく分かりませんが、Robarts医師が婦人科医で、あまり障害児医療に詳しいとは思えないことを考えると、Katieの母親から8月に相談を受けた際に、彼が、第1例であるアシュリーの手術を主導監督した内分泌医のGunther医師にコンタクトを取った……ということはありえないことでしょうか。
2007.10.12 / Top↑
あまり論理的な根拠があって書くことではありませんが、
Gunther医師の自殺は”アシュリー療法”を巡って批判を浴びたことが原因だとする説が、
これから、まことしやかに出てくるのではないでしょうか。
そういう話にしてしまいたい人がいるに違いないから。

しかし、もしも英国でKatieからの子宮摘出が合法だと認められれば、
自分たちのやったことも正当化されるわけだから、
批判に苦しんでいたとすれば、むしろ英国での動きはありがたかったはず。

なぜ10日間も、彼の自殺は報じられなかったのか。

なぜ、遺書の有無が明らかにされないのか。

そして、今から遡って考えると、
なぜアシュリーの親はGunther医師に名指しで特別の謝辞をささげたのか。
それは本当にブログに書かれているように、彼が主導したからなのか。
それなら、なぜ彼自身がメディアやシンポで自ら弁明しなかったのか。
特にアシュリーの問題がテーマだった5月16日のWUのシンポでの担当医の不在は、
極めて不可解です。

どう考えてみても、去年の10月以降、釈明を主導していたのはDiekema医師でした。
ほとんど孤軍奮闘といってもいい。
そのことと、アシュリーの親のブログで特にGunther医師への謝辞がささげられていること、
Gunther医師がある段階からは表に出てこなかったこととは、
どう関連しているのか……?

アシュリーに行われた一連の医療行為を巡って、
Gunther医師は実際にはどういう役回りだったのか……?

                ―――――

アシュリーのケースが引き金となって英国で2例目が行われてしまえば、
多くの障害女児への処置が事実上解禁されてしまう……そういうタイミングでの自殺です。

ついに人が死にました。

シアトル子ども病院は、
2004年5月5日の「特別」と冠した倫理委員会での議論の詳細を、
明らかにするべきではないでしょうか。
2007.10.11 / Top↑
MSNBCにGunther医師の自殺について、前のエントリーで紹介した記事よりも詳しく報じられていました。


キング郡検屍官局(?)によると死因は車の排気ガスを吸い込んだことによる二酸化炭素中毒。

死亡時刻は9月30日の午後9:30。

子ども病院もワシントン大学医療センターも彼の死についてはノーコメントだと。

遺書があったかどうかについて、検屍官局は答えを拒否。

アシュリーに対する医療処置を批判していたペンシルバニア大学生命倫理学者のArt Caplanは
以下のようにコメント。

何が人を自殺に追いやるかは分かりませんよ。しかし、アシュリー・Xのケースは小児医学の分野でも障害児・者の世界でも衝撃をもたらし、障害児の最善の利益とは何かという難しい、答えの出しにくい問題を提起しました。論争は続くでしょうし、Gunther医師の声がそこから消えたことは多くの人が痛々しく残念に思うでしょう。

私もこの記事で思い出したのですが、
年明けに立ち上げられたアシュリーの親のブログには、
特にGunther医師に当てた謝辞がありました。

Daniel F.Gunther医師に特別な感謝を。先生の勇気、自信、知識、広い心と揺るがぬサポートがなかったら、この療法は実現せず、アイデアのままで終わったことでしょう。このような新たなテリトリーに勇気を持って足を踏み入れる内分泌医は多くないはずです。先生の扉をたたいて、我々は、そしてアシュリーは幸運です。先生の扉をたたいたのは正解でした。

今の段階で親のブログにGunther医師の自殺に関するコメントは出ていません。

アシュリー事件でついに死者が出てしまいました。
悲しいことです。

Gunther医師の自殺するほどの苦しみを無駄にしないためにも、
遺書があるならば、そしてその中にもしもアシュリーに行われた医療処置に関する言及があるならば、
公開されるべきだと思います。

合掌
2007.10.11 / Top↑
10月10日付けSeattle Post-Intelligencer の報道によれば、“アシュリー療法”を直接担当し、論文執筆者の一人でもあるDaniel Gunther医師が、自宅で自殺とのこと。病院の広報担当者は、今のところ何も発表の予定はないと。

取り急ぎ、アップします。

【追記】

Gunther医師は最初のうちメディアの取材を受けてはいたのですが、映像メディアに出てきたのはDiekema医師のみのようでした。また、5月のWUのシンポにも姿を見せていませんでした。このシンポに出てこないことは、不思議だなぁ、何故かなぁと、ずっとひっかかっていました。

論争で彼が言っていたことは、ほぼ親のブログやFostの主張の繰り返しのようなものですが、1つだけ挑戦的な発言がありました。1月7日のTimesです。

「これに反対する人は、何故この療法のメリットを求めてはならないのかを論証して見せなければならない」

いや、それは逆でしょう……と思って読んだものですが、彼のメディアでの発言を振り返ると、自分の言葉で語った彼独自の言葉と思われるのは、これだけだったかも。(個人的な推測に過ぎませんが。)

享年 49歳。

【追追記】

ちょっと妙なことに気づきました。上記の記事のタイトル。

Death of physician in "Pillow Angel" case is ruled a suicide.

「枕の天使」の担当医の死、自殺と断定

じゃぁ、自殺以外の可能性があったってこと?
なんか……???????
2007.10.11 / Top↑