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前のエントリーで紹介した
英国の知的障害者に対する医療ネグレクトをめぐるオンブズマンの報告書のうち
Part 1 overview and summary investigation reports のみを
とりあえず読んでみました。

以下の項目は個人的な整理によるもので必ずしも報告書の項目とは一致しません。
特に個人的に興味のあった部分を以下に。


経緯

2003年から2005年に亡くなった6人のケースについて
Mencapが報告書 Death by indifference (2007年3月)で報告。
その後、医療コミッション、さらにオンブズマンへ苦情申し立て。

そうした中、保健相に任命されたJonathan Michael卿による
The Independent Inquiry into Access to Healthcare for People with Learning Disabilitiesが設立され
その報告書は2008年7月にHealthcare for Allとして刊行。
医療における障害者への配慮の必要が明文化された。


調査

今回、苦情を申し立てられたのは医療コミッションを含む20の公共団体。

調査において、
オンブズマンらはMencapのすべての苦情をその通りだと認めたわけではない。
GPに対する苦情は認められなかったことも特筆すべきであろう。
調査においては、よい医療や社会ケアの事例もあった。

しかし一方で
特に医療職がもっと積極的であったら、
患者を最もよく知っている家族や介護者からの情報やアドバイスに従っていたら、
患者個々のニーズにもっと応じる医療を行っていたら、
と悔やまれる事例もたくさんあった。

1例については
サービスの怠慢と管理運営の不備によって死が引き起こされたと結論した。

また別の1例では
提供されたケアと治療があそこまで水準を下回るものでなかったら
死は避けられたはずだと結論した。

他の2例については
サービスの怠慢と管理運営の不備についての苦情そのものは認められたものの
死が避けられたとまでは結論できなかった。

6事例のうち4つのケースにおいて、
知的障害に関係した理由によって
ケアと治療において通常よりも劣る扱いがあったとの苦情が支持された。

また6例のうち4例において
関連の公共団体が人権原則、とくに尊厳と平等の原則を
十分に尊重していないことが判明した。


背景

こうした調査結果は
最近制定されたNHS憲章の精神にも、
また2005年に保健省が発表した社会ケア理念
Independence, Well-being and Choice にも、
2006年1月の白書 Our Health, Our Care, Our Sayの
ビジョンやスタンダードにも反している。

また英国保健相は2009年1月に
Valuing People Now: a new three-year strategy for people with learning disabilities を
今後3年間の戦略として発表し、
2001年の戦略でうたわれた平等、尊厳、権利と包摂の理念を再確認したばかりでもある。

また2009年4月1日には新たな監督部署として
ケアの質コミッションが創設され、
2010年にはすべての医療・社会ケア提供者に対して新たな登録制度がスタートする。


人として尊重すること

個人的に特に目を引かれたのは以下の箇所で

Equality for people with disabilities does not mean treating them in the same way as everyone else. Sometimes alternative methods of making services available to them have to be found in order to achieve equality in the outcomes for them. The focus is on those outcomes.

Our investigations uncovered a lack of understanding of how to make reasonable adjustments in practice, which suggests there may be a need for further training on the practical implementation of the Disability Discrimination Act 1995.
(P.10)

障害者への平等とは単に障害のない人と同じ扱いをすることではなく、
アウトカムでの平等が達成できるだけのサービス提供を可能とすべく
Reasonable adjustment in practice が行われなければならんのだ、と。

このたび調査対象となった公共機関の多くでは、ここの理解が欠けている
もっとその点で研修を積む必要があるぞ、と。

(私はまだ不勉強で断片的に読みかじっただけですが、このあたりは
国連障害者条約の「合理的配慮」にも通じていくんじゃないのかな、と思ったり)

特に配慮すべき領域として、上げられているのは

・コミュニケーション
・パートナーとしての協働・協調
・家族・介護者との関係
・ルーティーンの医療手順をきちんと踏むこと
・マネジメントの質
・アドボカシー


苦情への対応

これらの苦情はオンブズマンに持ち込まれる以前に
直接担当したNHSや地方福祉当局に対して申し立てられ、
医療コミッションにも申し立てられていたが
対応があまりにも誠実を欠き、不適切なものであったために、
家族は疲れ果て、無力感に打ちひしがれた。

自らに対する苦情申し立てに対して
理解しようとする姿勢がなく、
問題を整理しようと努力もせず、
システムは繋がりを欠いて、ばらばらで
エビデンスの検証もない調査はお粗末。
防衛的な説明で問題をごまかし、謝罪しようとしない。

このような苦情申し立てに対する不誠実な対応が
亡くなった人たちの家族の悲しみをさらに増幅させた。

しかるべき説明と謝罪を受けるために
これらの家族はこんなにも長く待ち、
こんなにも激しく戦わずともよかったはずである。

2009年4月1日から the Health and Social Care Act 2008により、
これまでより個別かつ包括的な苦情申し立てアプローチとなる。
ローカルな対応の次に医療コミッション、その次にオンブズマンと
これまでの3層構造から医療コミッションが廃止され、
オンブズマンが医療と成人の社会ケアに対する苦情対応ついては第2層目の対応機関となる。

          ------

特に最後のボックスの引用箇所は
医療過誤や医療ネグレクトを体験して闘ってきた人にとっても闘えなかった人にとっても
「よくぞここまで言ってくださった」と涙が出るほど、ありがたい箇所だと思う。

日本でもあちこちの病院や施設での、こういう対応に
多くの障害当事者・家族・関係者が憤りに体を震わせながら
無力感・敗北感に打ちひしがれている。


2009.03.31 / Top↑

(予めのお断り:本件に関連するエントリーで「医療ネグレクト」という言葉を使っていますが、
あくまでも私がそう表現しているだけで、記事や報告書がこの用語を使っているわけではありません。)

知的障害があるために適切な医療を受けられない医療ネグレクトで
落とさなくてもよかったはずの命を落としてしまった6人のケースを
知的障害者のアドボケイトMencapが調査し、昨年、報告書にまとめたのを受け、

医療コミッションの調査に次いで独立の調査を行っていた
“医療サービスオンブズマン”と“地方政府オンブズマン”(前者が医療、後者は福祉)が
3月24日に調査報告書を発表。

Mencapの報告書 “Deaths by Indifference”にまとめられた6人のケースにおいて
医療サービス、福祉サービス提供サイドの落ち度を認め、
早急な見直しを提言しています。

英国のオンブズマンは女王陛下から任命され
政府からもNHSからも地方自治体からも独立。
オンブズマン・サービスの利用は無料。

3項目に分けて相手機関を指定し、期限を切って改善を要求しているなど、
オンブズマンに与えられた権限の確かさと独立性、その働きの実効性に目を見張ります。


オンブズマンの報告書に関するMencapのページはこちら。
‘Distressing failures’ led to deaths of people with a learning disability
Mencap

オンブズマンのレポートはこちら。
Six lives: the provision of public services to people with learning disabilities
Parliamentary and Health Service Ombudsman

オンブズマンのプレス・リリースはこちら。
Ombudsmen’s report calls for urgent review of health and social care for people with learning disabilities
Parliamentary and Health Service Ombudsman, March 24, 2009


上記、リリースから
報告書が明らかにした5点とは

・医療と福祉サービスの重大で嘆かわしい怠慢(過失? failure)。

・(6人のうち)1人は公共サービスの怠慢の結果、死亡した。
もう1人の死も、ケアと治療がもっとスタンダードに近いものであったら
防ぐことができた可能性がある。

・知的障害のある人たちの苦痛は長引き、彼らへのケアはお粗末だった。
そうした怠慢の理由は障害に関係したものだった。

・公共の団体の中には人権原則を、とくに尊厳と平等について十分に守っていないものがある。

・多くの組織が、自らに対する苦情に適切に対応していなかった。
そのために家族は疲れ果て、意気阻喪することとなった。

その調査結果を受け、
2人のオンブズマンの名前で早急に行うよう勧告されているのは

1.イングランド中のNHSと社会ケア組織
この報告書の刊行から12ヶ月以内に、
担当地域の知的障害者のニーズをきちんと理解し
具体的にそれに答えられるプランが作成できるよう
それぞれのシステムが効果的に動いているかどうか見直すること。

2.医療と社会ケアサービスの監督に責任を負う機関
(特にケアの質コミッションとモニター、平等と人権コミッション)は
報告書の刊行から12ヶ月以内に
それぞれの規制の枠組みとモニタリングの仕組みを見直し、
知的障害者へのサービス提供において
医療と社会ケア機関が法に定められた基準を満たしていることを
保障できるよう確認すること。

3.保健省
これらの勧告の実施を推進・支援し、
報告書から18ヶ月以内に改善に関する報告書を発表すること。


【以下のエントリーに続きます】

2009.03.31 / Top↑
Maxine Porisさん、64歳。
今年1月(2月か?)にFENの支援を受け自殺。

繊維筋痛症、骨粗しょう症、変形性の関節の病気、acid reflux(酸の反射?)を
わずらっていたものの、ターミナルな状態だったわけではありません。

こちらのAP通信の記事は、
14歳で両親が離婚して以来、何年もほとんど接触がなかったものの
母親Maxineさんが病気になるしばらく前から関係を復活させたという娘さんの視点から
情緒的に描かれる「母と娘の和解と理解そして別れの物語」という趣。

Maxineさんは、もともと親ウツ的な性格の人だったように思われます。

FENの支援を受けて自殺した人が
これから続々と報じられるのでしょうか。

それらのケースは、
もしも幹部らが逮捕されなかったら恐らく表に出ることがなかったもの。

いったいFENは、
本来なら生きる方向に支援すべき人を
何人自殺させてきたのか──。




自殺するとの決心を母親から打ち明けられた娘さんが
病気が苦しいのではなく寂しいのではないかと考えて
自分と一緒に暮らさないかと提案したのに対して
Maxineさんは「お荷物になりたくない」と答えたといいます。

その「お荷物になりたくない」という言葉が記事の小見出しに使われていることに
ものすごく強い不快感を覚える。

これでは、この記事は
病気はあってもターミナルではないし、むしろウツ状態が疑われる人が
「家族のお荷物になりたくないから」とFENの助けを借りて自殺することを
支持しているに等しい。

Ashley事件でも起こったことだけれど、
メディアは記事を書くときに何でもかんでも情緒にまぶしてしまわず、
そうして書かれた記事が世論に対して一体どういう影響を与えるかという点について、
もっと自覚的になってほしい。

……もっとも、Ashley事件、Katie事件では、むしろ自覚的に、
目的意識を持って情緒に走っていたとしか思えない新聞もありましたが……。
2009.03.31 / Top↑
事件が起きたのはN.Carolina州 Carhageという小さな町。
Pinelake Health and Rehab というナーシングホームで
(120床。リハビリ、ナーシングケア、ホスピス、アルツハイマーユニット。
 1999年創設のPeak ResourcesというNC州の会社が経営するホームの1つ)

日曜日の朝10時に男が銃を乱射。

70代、80代の入所者7人と
入所者を守ろうとした39歳の男性看護士が死亡。

逮捕された犯人はRobert Stewart 45歳。

別居中の妻によると、男は以前から、
かっとなると暴力的になることがあった、
最近、家族に会いたがるようになり、
がんになったと言っていた、
「遠くへ行く」準備をしていると言っていたとのこと。

なぜナーシングホームを狙ったのかなど、詳細はまだ明らかになっていない。



学校での乱射事件が相次いだと思ったら、
次に狙われるのは高齢者施設か……。

大丈夫か、高齢者施設? 
そして障害者施設は?

日本でも早めに対策を考える方がいいのでは?
2009.03.30 / Top↑
Florida州Sarasotaの88歳の男性 Max Lomさんは、いたって健康ながら、
最近視力が低下して新聞を読むにも苦労することに抑うつ状態となっていた。

去年5月に薬を大量に飲んで自殺を図ったが失敗。

その後 the Final Exit Networkとやり取りをするようになり、
今年1月4日にヘリウムを吸引して自殺。

FENでは関与を否定しているが、
Lom氏の家族は激怒しており、

「あの人たちが直接、頭に袋をかぶせたわけじゃないかもしれないけど、
基本的には、あの人たちが死に方を教えたわけでしょう」と。

もちろんターミナルな状態だったわけでも、
苦痛があったわけでもありません。

The death pact
The Charlotte Sun, March 28, 2009


世界中のあちこちで自殺幇助を合法化せよと
雑多で、何もかも未整理のまま”ぐずぐず”の議論が無責任に展開されていることが

実は

「主観的に耐え難い苦痛があるから死にたい」という人たちの自殺に
社会的な承認を着実に与えていっているのではないか……。

その勢いもまた、加速しているのではないか……と思えて、不気味──。
2009.03.30 / Top↑
BBCラジオの看板番組Todayを担当する大物キャスター John Humphrys氏が
新刊書The Welcom Visitor: Living Well, Dying Well(4月2日刊行)で
自殺幇助の合法化を訴えているとか。

出版を前に3月29日に
TimesにはHumphrys氏へのインタビュー記事、
The Observer(the Guardianの日曜版)にはHumphrys氏自身の寄稿記事が掲載されています。

News Review interview: John Humphrys
The Times, March 29, 2009

My father deserved a better way to die
By John Humhrys
The Observer, March 29, 2009


Humphrys氏の主張はおおむね

自殺幇助が違法行為とされる英国で
現実には終末期の患者には死を早める治療が行われていたり、
スイスに家族を連れて行って自殺させる人たちが実際には罪に問われないなど、
きわめて英国的な妥協点として偽善が横行している。

しかし、このままではスイスに行くだけの体力も資力もない人は
苦しみ続けるしかないことになって、フェアではない。

またオランダや米国のオレゴン州・ワシントン州の尊厳死法の実態からしても
自殺幇助を合法化すれば「すべり坂」になるとの懸念は当たらない。

自分の父親の晩年はアルツハイマーで本当に悲惨だった。
あんな酷い状態では、自分でもきっと死にたかったに違いない。
あの時、なぜ父親が死ぬ手助けを自分はしてやらなかったのかと悔いている。

幸い父は最終的には、心ある医師によって死なせてもらった。
自分の時にも、そういう医師がいてほしいし、それが合法であってほしいと望む。


2つの記事を読んで一番強く感じたのは、
BBCの看板番組を担当して歴代首相に辛口インタビューを行ったというキャスターが
なんで、こんな何もかも“ぐずぐず”の文章を書き、
こんなにも論理性を欠いた主張ができるんだろう……ということ。

まずHumphrys氏の父親の晩年がどういうものだったかを確認しておくと、

父は妻を失ってから酒びたりとなり、
それはまるでアルコールで自殺しようとしているかのようだった。
実際に、あわや死に掛ける場面もあったのに、
医師らはわざわざ生き返らせてしまった。
なぜ、そんなことをするのか。

その後、父はアルツハイマー病となり、
さまざまな施設を転々とした。
劣悪な精神病院に入ったこともあった。

かつては誇りに満ち、独立自尊の人だった父があんな惨めな姿になり
何時間も「助けてくれ」と叫び続けていた声が
私には未だに忘れられない。

ついに最後の施設で医師が死なせてくれた。


この人、本当に分かっていないのでしょうか。

自分が主張するようにOregonと同じ尊厳死法ができたとしても、
自分の父親のような人は依然として対象外なのだということを?

妻を亡くした人が酒浸りになってアル中になるなら
それは心を病んでいるのであって、
必要なのは自殺の手伝いではなく治療だということを?

辛いことがあってアルコールや、その他すさんだ生活によって
緩やかな自殺を試みているような、
しかし「自殺したい」と明確に意識していない人までを
「そこまでして死にたいなら、死なせてあげよう」と考えてしまうなら、
一定の生活態度が救命医療を受ける資格となる可能性だってあるということを?

父親を死なせてくれた医師がいたというエピソードは
英国の医療現場で違法な安楽死つまり殺人が行われているに他ならないことを?
(癌になった看護師が、医師を含む同僚も承知した上で致死薬を病院から持ち出して
 それで自殺したというエピソードも書かれています)

父親を死なせた医師が終わらせてくれたのは
父親自身の悲惨というよりも、その父親を見ている自分の耐え難さだったかもしれないことを?

「あんなになったら本人だって死にたかったはずなのに」という以上、
本人から死にたいという明確な意思表示を聞いたわけではなかったのであり、
自分に耐えがたかったのは父親自身の苦しみではなく、むしろ
「あんなに誇り高く自立の人だった父」の「こんなにも惨めな姿」を
外から見ている自分のつらさを、父親の内面に投影したに過ぎない可能性があることを?


The Timesのインタビューに興味深い箇所があります。

父親が死ぬのを手伝ってやらなかったことに今でも自責の念があると語った際にHumphrys氏は
「でも、どうしても自分にはできなかったということだと思います。
真剣にそれを考えると、その先どうなるかということが恐ろしかった」
と、罪に問われることが恐ろしかったという意味のことを付け加えるのですが、

インタビューアーがすかさず「それだけですか?」と突っ込み、
その抵抗感は、むしろ人間として超えがたい一線を感じたからでは、と示唆します。

それに対してHumphrys氏の答えが興味深く、
私はそこに自殺幇助問題の本質が1つ炙り出されているような気がします。

氏は「“手伝う”という言葉が重要なのだ」というのです。

自分は父親を「殺せばよかった」と悔いているのではない、
父が死にたがっていたことに疑いなどないのだから、
本人が望んでいた自殺を「手伝ってやればよかった」と悔いているのだ、
だから、そこには道徳的に間違ったことに対する禁忌の意識はなかった、と。

死にたがっていない人を殺すのは殺人で道徳的に悪だけれども
死にたがっている人を殺すのは自殺幇助であって
手伝いに過ぎないのだから道徳的に許される、というわけですね。

しかも、ここが合法化を主張する人に共通したマヤカシだと私はいつも思うのですが、
まず、「本人が死にたがっている」理由が、限られた余命と耐えがたい苦痛ですらなく
ただ「妻を亡くして失意の底にあるから」であっても
ラグビー選手なのに事故で寝たきりになった自分が許せない」であっても
要するに本人が主観的に「耐え難い」と感じる状態であればいいらしいし、

さらに実は、本人が主観的に耐え難いと感じている必要すらなく
「こんな悲惨な状態になってまで生きていたくはないだろう」と
周囲が想像するような状態であれば、いとも簡単にその想像が投影されて、
本人の自殺願望が勝手にでっちあげられてしまうのだから、

こんなのが合法的自殺幇助になったりしたら、
周囲の人間の主観的判断でもって、いくらでも殺人が免罪されてしまう。

それこそ「すべり坂」以外のなんでもないじゃないか、と思う。

どうして、こんな“ぐずぐず”の論理でこの人は
自分がOregonの尊厳死法と同じものを主張しているつもりになれるのだろう。

         ーーーーー

Ashley事件でもDiekema医師らの論文を皮切りに、
擁護論の主張にずっと感じていることなのですが、

本当はすこぶる頭が良いはずの人たちが
特定の問題を論じる時だけ都合よく
筋道を立ててものを考える能力をなくしてしまうかのように
摩訶不思議なほど論理性というものを欠いた文章を書き、説を説き、
その脈絡の乱れと、つじつまの合わない論理の隙間を
安っぽい情緒で埋めてお茶を濁す──。

載せられて、たぶらかされないように、
気をつけなければ。
2009.03.30 / Top↑
米国 the National Heart, Lung and Blood Instituteがスポンサーとなった研究で
外傷のためや出血性ショックで意識がなかったり、はっきりしないために
インフォームド・コンセントが与えられない患者に
救急車の中で通常の濃度よりも高い生理的食塩水を与えたり、
時にはそこにデキストランを加えていた。

連邦政府の資金を受け、総額5000千万ドル、
5年間かけて行う予定の3部の研究の1で、
自動車事故、銃撃や心臓麻痺その他緊急時の治療の改善を目的とするもの。

このような状況下では本人の意識がない場合が多く、一刻を争う場面でもあるために
本人からも家族からもインフォームドコンセントはとりにくい。

しかし、連邦政府が研究者らにICなしでの医療実験を認めた研究の中では
最も思い切った内容のもの。

しかし、その実験で対象となって通常と異なった輸液を投与された患者の中で
死亡率が高くなっていることがこのたび判明し、実験は中止となった。

こんな実験は倫理的に許されない、との批判も。

Part of Study Testing Trauma Treatment Is Shut Down
The Washington Post, March 27, 2009


ある程度のデータも記事にはありますが、
「もっと分析が必要だから」と研究者はあまり詳しいデーターを出しておらず、
なんだか、読んでみても、実態がイマイチはっきりしないところが不気味。
2009.03.30 / Top↑
身近な子どもが、また1人亡くなった。

とても重度ではあるけれど元気な子だったのに……と
知らせを聞いて絶句する。

電話で知らせてくれた人と、
いつもこういう時に繰り返す儀式のように

「○○さんちのAちゃんの時には、こうだったよね」
「そういえば△△さんちのB君の時も、こうだったっけ」

いつのまにか数えることをやめてしまった子どもたちの死を1つずつ振り返る。

ずっと身近で見て、よく知っている子もいたし、
顔を知っている程度という子もあった。

時には子どもですらなくて、いい年のオッサンだったりもした。
中学校まで娘のクラスメートだった男性は、
かつて就学猶予を強制された年齢超過者で私よりも年上だった。

でも、どの子もどの人も、亡くなったという知らせを受けると、
私はいつも「私らの子が、また1人死んだ……」という感じがする。

私らの子が、また1人死んだ――。

そういえば、あの子もこの子も、いなくなった。
いつのまにか、私らの子が、もう、こんなにたくさん死んでしまった――。

養護学校の卒業式の後とんと会わなくなった重症児の親たちが葬式で顔を合わせて、
通園時代や養護学校時代の親の同窓会みたいだ。

焼香で人が動く時に見知った顔を見つけて、同時に、
その人の子どもがずっと前に危篤状態になったことを思い出す。
ウチの娘と同じで、幼児期には健康でいる日など数えるほどしかない子だった。
お母さんも「この子はそう長くは生きないだろうから」とよく口にしたし
「そんなことないよ」と言いながら、周りの人たちだって本当は心の中でそう思っていた。

それでも彼女の娘は数年前に成人式を迎えて、今もちゃんと生きている。

そういえば、あの子も、そして、この子も……と指を折ってみれば
ちゃんと生きている子だって沢山いることに驚かされる。

へんな言い方だけれど、仲間内で子どもたちが初めて死に始めた頃は
誰かの子どもが亡くなると、次はどこの子だろう、
もしかしたらウチの子だろうかと、みんな疑心暗鬼に駆られて
内心で子どもたちを重症度や体の弱さで順に並べてみたりしたものだったけど、

この子たちは決して、障害の重い順、弱い順に死んでいくわけじゃない。

とても重度で虚弱で、長くは生きられないだろうと誰もが思っていた子どもが
ある年齢から急に元気になることもあるし、
弱いまま何度も死にそうになったり、医師や親にいよいよだと覚悟させたりしながら
それでもちゃんと生きている子どもたちもいっぱいいる。

そうかと思うと、
それほど重度なわけでもなく、障害があるなりに元気だった子が
ある日突然に体調を崩し、あっという間に逝ってしまったりする。

あの子が死んで、この子がまだ生きていることの不思議を
説明することなど誰にもできない。

人の生き死には、人智を越えたところにある。

今日、葬式で
いっぱい死んでいった子どもたちや、
まだいっぱい、ちゃんと生きている子どもたちの顔を一つ一つ思い浮かべて、
改めて、そのことを思った。

同じように重い障害を持って生まれてきて、
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議を
いったい誰に説明できるというのだろう。

そんな、人智をはるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。

「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、
そんなのは、みんな人智の小賢しい理屈に過ぎない。

生まれてきて、そこにある命が
生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。

障害があろうとなかろうと、
どんなに重い障害があろうと、
生きてはいけない人なんて、どこにもいない。

重い障害を負った私らの子は
次々に死んでいくように見えるけれども、

本当は障害のあるなしとは無関係に
誰がいつ死ぬかなんて、誰にも分からない。

だから、

あの子もこの子も、生きてこの世にある間は
生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──

それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と

亡くなった子の遺影を見上げて、心の底から祈った。
2009.03.29 / Top↑
抗精神病薬の不適切なマーケティングでメディケイドの給付金を詐取したとして
製薬会社が訴えられている件で、

連邦政府の検察がHarvard大学の研究者3人に
研究内容についての情報をはじめ
3人に関わる訴訟で提出された一切の書類を提供するよう召喚状を出しています。

3人の医師とは、

Joseph Biederman
Thomas Spencer
Timothy E. Wilens


なお、上記の訴訟については、
AFCPさんのブクマ情報から拝借して以下に
The United States Attorney’s Office District of Massachusettsのプレスリリースを。




【関連エントリー】

2009.03.28 / Top↑
安楽死・尊厳死法制化を阻止する会がシンポジウムを開催するとのこと。

誰もが願う〈生きたい〉思いを大切に

厚労省が昨年終末期医療について、アンケートやヒヤリング懇談会を開催し、尊厳死協会からは「植物状態」を念頭においた法制化の意見が出されています。また、救急医学会のガイドラインを適用し、「延命」中止事例が報道されています。これは放置できないので、阻止する会として検討し、遷延性意識障害者をはじめ、「終末期」と見なされた者が、治療を中止されないよう発言していきましょう。皆さまのご出席をおまちしています。
(案内から)

3月29日(日) 14時~17時
文京シビックセンター スカイホール
主催:安楽死・尊厳死法制化を阻止する会


シンポの詳細はこちら

安楽死・尊厳死法制化を阻止する会の声明はこちら
2009.03.27 / Top↑
イヤ~な話が出てきた。

3歳以下の乳幼児のてんかん発作に外科手術が安全かつ有効だと、
Epilepsia(てんかん)というジャーナルに発表された論文で
カナダ、British Columbia子ども病院と、British Columbia大学の医師らが。

1987年から2005年までの間に
カナダの8つのセンターでてんかんの手術を受けた3歳以下の乳幼児を調査したところ、

82%の子どもは1歳の間に発作が始まっており、
平均では一日21回の発作、
1人は1日に600回も発作があった。

手術の1年後には67,3%の子どもで発作がなくなり、
14%は9割以上の改善。

手術の効果がなかったのはたった7,5%。
発達が改善したのは55,3%の子どもだった。

この結果から、主著者のPaul Steinbok医師は
「3歳以下の乳幼児のてんかん手術は比較的安全で発作のコントロールに効果があるといえる。
薬でコントロールできにくい子どもでは、年齢が低いだけで禁忌にはならない」と。

読み間違えかと思って、何度も見直したのですが、
子どもたちが受けた手術はだいたい
「脳の半分の切除、またはその接続の切断を含む脳の大手術だった」と書いてある……。

それで、どうして半数以上の子どもで発達が改善するのだろう……。
(逆に言えば、それだけのリスクを冒して、
半数弱は発達が改善しなかったということなのだけど)

しかも、
そういう脳の大手術だったにもかかわらず、
「合併症はほとんど起こらず、
死亡したのは、たった一人だった」と書いてある。

死んだ子は「たった1人だった」って……。
118人のうち、1人が死んで「たったの1人」って……。


【追記】

上記記事にも「外科手術は最後の手段とされている」と書かれているし、
私はそんなに一般的なものじゃないんだとばかり思っていたのですが、
以下の東大医学部脳神経外科のサイトによると、そうでもないのかもしれません。

もっとも、てんかん手術をする立場からの見解ということは念頭に読んだほうが良さそうですが。

それから記事とは別の病院ですが、カナダにてんかん手術のメッカがあるとも。

2009.03.26 / Top↑
数日前に読んだ、
「現代の貧困 ――ワーキングプア/ホームレス/生活保護」(岩田正美 ちくま新書)で、
イギリスの貧困学者ピーター・タウンゼントの言葉が紹介されており、

それが貧困問題に関して書かれたものでありながら、
「人間の生活とか生は合理だけでは把握しきれないんじゃないかなぁ……」と
科学とテクノロジーによる簡単解決文化に対して私が漠然と感じている不満を
ずばっと言い表してくれているように思えたので。

貧困の境界を生存費用で線引きする思想に反論して
タウンゼントは

茶は、栄養的には無価値であるが、国によっては、経済学者たちによってすら、“生活必需品”として一般的に受け入れられている。このような国の多くの人々にとって茶を飲むことは、一生を通じての習慣であり、心理的には必要欠くべからざるものである。そして友達や近所の人々が訪問した時に、一杯の茶を供されるのを当然としている事実から見て、茶は社会的にも必要であることがわかる。
(P. 41)


この箇所を解説して岩田氏は

人間は生物学的な存在であると同時に、社会の中で社会のメンバーとして生きている。社会の中で生きていないような人間は現実には存在しない。だからカロリー計算だけで判断するような最低生活費は、頭の中だけで抽象的にこしらえた人間生活にしか当てはまらない。
(p.40)


私は重い障害のある娘の「食」の問題に
「食」はカロリーと栄養だけではない、はるかに、それ以上のものであり、
障害のある人の「食」にどのような姿勢で向かい合うかということは
尊厳の問題そのものなのだと、ずっとこだわってきたので、
この部分が特に胸に響くのかもしれません。

Ashleyが元気な時には口から食べられる状態だったように思えるのに
父親の“合理的な”判断で簡単に胃ろうにされてしまって、
“Ashley療法”論争の際には、
今度はその「経管栄養」だという事実が一転して
障害の重篤さの証明のように使われてしまったことにも
ずっと疑問を抱いています。
(去年、ピーター・シンガーがAshleyケースを論じた際にも
「飲み込みすらできない」ことを重症度の根拠に挙げていました。)

実はここしばらく複数のエントリーで考えているWilfond医師の論文でも
障害のある子どもの胃ろうの決断を取り上げているのですが、
彼の胃ろうに対する捉え方が私にはまさに仰天動地だったので、
それについては、また別エントリーで考えたいと思っています。

しかし、このタウンゼントの茶の例えは
ただ「食」や「貧困」の問題にとどまらず、
なべて今の社会が科学とテクノロジーを中心にした合理でもって
人間を短絡的に割り切ろうとしていることへの
アンチテーゼでもありうるのでは……と私には思えて。

例えばトランスヒューマニストらが描いてみせる
人間がみんな頭がよくなったら、世界はもっとベターになって、みんなハッピー」という理想郷
”知能”という”カロリー”だけで人間を考え”茶”の存在をまったく無視して
「頭の中で抽象的にこしらえた」理想郷なんじゃないのかなぁ……。

それに、この前あった「障害児教育予算は優秀児の教育にまわせ」という発想なんかも、
”知能”という”カロリー”を上げることだけしか見えてなくて
”茶”が完全に忘れ去られているんだけれど、
実は教育の本質は、むしろ”茶”にあるんじゃないのかなぁ……。


ついでに、もう1つ、
この本の中で「げっ」と思った箇所を。

もともと日本は、税や社会保障による所得再分配効果が小さい国だといわれている。OECDが2005年に公表した国際比較で日本は、10等分された所得階層のうち下から三つの層が再分配後に得た所得のシェアで、先進国19ヵ国中、下から2番目である。つまり日本は、所得再分配によって貧困が是正されることが少ないことで定評のある国なのだ。
(p.189)

知らなかった……。
2009.03.26 / Top↑

知識がないため、どう考えていいのか分からないところもあって、
できれば専門家の方に教えていただきたいことが沢山あるし、また、ご意見もいただきたいのですが、

Wilfondが論文の冒頭で紹介し、論を展開する間も何度も引き合いに出すケースとは

10代の男児。

2年前に、スケートボードで遊んでいる時の事故で脳と脊髄を損傷。
四肢麻痺、コミュニケーション不能、人工呼吸器が必要。

当初の治療で、頭蓋骨の2箇所が取り除かれ
その箇所は本人の体の他の部分の骨グラフトでふさがれたが、
その処置が結果的にうまくいかず、脳を保護するものが薄い皮膚一枚となったために
少年が再入院してきた。

そこで脳を守るべく、人造の頭骨でその部分を覆う手術が計画された。

両親はその手術を希望しており、担当医も同意したが
リスクが大きい割りに利益が定かでないと手術に反対する医師も。

少年は時に車椅子に座らせてもらう以外はベッドに寝ているのだから
転んで頭を打つ危険は皆無であり、それならば
手術の利益は外見をノーマルにするためだけ。
これはコスメティックな手術である、と。

判断が病院の倫理相談に持ち込まれ、
母親に「どうしてこんなコスメティックな手術を望むのですか」と理由を聞いたところ
「この手術をコスメティックだなんて!」と母親は腹を立てた。

Wilfondはここで医療の区別を2つ挙げます。

「強化のための医療と修復のための医療の区別」
(豊胸手術は強化で、乳がん手術のあとの乳房再建は修復)

「強化と正常化の区別」
(おしゃれな先細の靴を履くために足の指を切るのは強化、
普通の靴を履けるように余分な6本目の指を切るのは正常化)

そして、こうした道徳的な区別があるから
息子の手術が「コスメティック」といわれた時に
豊胸やおしゃれのために足の指を落とすのと同一視されたと感じて、
母親が腹を立てたのは理解できる、と述べます。

しかし、それだけでは完全に母親の戸惑いを説明できないし、
まして、こういうケースでどうすればいいのか答えも出ない、として、
この事例から以下の3つの問いを導き出すのです。

1.障害児のコスメティックな手術には健常児とは別の倫理基準を用いるべきか。
2.そういう手術はそもそも許されるべきか。
3.それは親が決めることを許されるべきか。

           ------

この段階で私は既に、分からないことだらけになってしまう。
出てくる疑問は、だいたい以下のようなもの。

・このお母さんと同じで、私にも何故この手術が「コスメティック」なのかが分からない。著者が挙げている「強化と修復」、「強化と正常化」の区別のいずれにおいても、この手術は強化ではないからコスメティックではないし、さらに修復や正常化ですらなく、ただ「必要な治療」のように私には思える。Wilfondは意図的にか無意識的にか、この手術がなぜコスメティックでしかないのか、きちんと説明していないと思う。

・頭蓋骨の欠損をグラフトで塞いだがうまくいかなかったというのが、いま具体的にどういう状態になっていることなのか、私には知識がないため分からない。(不安定になったグラフトが脳を圧迫したり傷つけたり、この状態を放置することにこそリスクがあるような気がする。脳圧は? そういうことが今更問題にならないほどに脳が損傷されていたとすれば、グラフトで埋めたこと自体、もともとコスメティックでしかなかったのか?)

・この手術のリスクとは具体的にどういうものか。(既に脳損傷のある子どもの脳に外科的に介入するリスクはそうではない子どもの場合より大きいのか? それとも一定期間寝たきりに近い本人の全身状態の問題? しかし主治医が手術に同意しているということは?)

・仮にベッドに寝たきりであっても、まったく体を(頭も)動かさないわけではないのだから、脳を保護しているのが頭皮一枚という状態に、大きなリスクがあるのではないか。それなのに「歩ける子どもが転んで頭を打つようなリスクがあるわけじゃない」というのは、寝たきりの子どもの生活状況にあまりにも想像力を欠いて、ただの物のように考えているからでは?

・それとも、もしかしたら、この男児は本当は「重症の障害がある」という形容よりも「最小意識状態」または「永続的植物状態にある」という形容のほうが正確な状態なのか? 著者が男児の意識状態を「コミュニケーション不能」としか説明していないのは、事例の提示の方法として不誠実なのでは?

・さらに言えば、手術に反対した医師らの「リスクが大きい割りに利益が定かでない」という判断は、「重症児だからコストがかかる割りに社会的利益が少ない」という意味だったのでは?

この後、Wilfondは前のエントリーで触れたHastings Centerのプロジェクトの倫理基準を紹介したうえで、
またこのケースに戻ってきます。

非常に問題を感じる部分なので、逐語訳で引いてみます。

もしも手術の利益が社会心理的なものに限られ、子ども本人がその利益を享受する認知能力を永遠に欠いているとしたら、その手術から利益を得るのは親だけだ、と主張する人もいるだろう。

例えば、スケートボードの事故にあった少年が脳を人造の頭骨で覆ってもらうことに、なんら身体上の利益がないと仮定してみよう。(念のため、ベッドから車椅子に移される時などに脳を保護するという、小さくはあるが、確かな身体上の利益はある。)むしろ、母親が手術を希望するのは、自分の息子が“正常な”外見であることが彼女にとって重要だから、という社会心理上の理由からであったと仮定してみよう。

そうすると、利するのは母親のみであって本人ではないから、この手術は適切ではないと考える人もいるだろう。そのリスクを負うのが息子であるという場合に、手術はどのように正当化できるのだろうか。

身体上の利益は実はあるのだと注釈をつけながら、
それを「ないと仮定してみよう」といい、
「手術の利益が社会心理的なものに限られている」場合の例として使うのは、
一体どういうイカサマなのだろう。

脳を保護するという利益が、どうして「小さい」と言えるのだろう。

また、母親が手術を希望する理由も、
脳をできるかぎり保護してやりたいからだと素直に考えるのが普通だろうに、
息子をノーマルに見せたいという親の虚栄心だと
何の根拠もなく勝手に仮定するとは……。

Wilfondは、ここから
コスメティックな手術では誰の社会心理的利益なのかを見分けることは難しい、と
さらにそちらへと話を進めていき、

その文脈においても、このケースについて次のように述べています。ここでも逐語訳にて。

もしも子どもの意識がないことだけを理由に手術を否定しないという立場に立つとしても、親が希望する理由を問題とするべきかどうかを決めなければならない。頭蓋骨の欠損したあの少年の母親になぜ人造骨の手術を望むのか理由を聞いてみるべきだろうか。もし折ったのが足だったら、その治療を親が望むことを誰も疑わない。こういう場合、臨床医は親の動機は、また立って自由に歩けるように、という正しいものだと考えるのだろう。仮に疑わしいことがあったとしても、折れた足を治すのはあまりにも頻繁に行われていることだから、親の動機など問題ではなくなっているのだろう。

しかしコスメティックな手術は足の骨折とは違う。……(中略)……頭蓋骨の欠損した少年のケースは、このような子どものコスメティックな手術の論議がいかに難しいかを示している。動機を話し合い、その決定にかかわる価値観の重要性について親を交えて協議することによって、予見や意見の不一致を克服することができる。親が希望する理由は、臨床医と親とがともに検討することが相互理解を助けるという理由でのみ、重要なのだ。

このように、Wilfondはこの少年のケースを一貫して
「母親の怪しげな動機によって要望されたコスメティックな手術」の話として扱い、

「医師がまず親の動機を聞いてあげれば、
その話し合いの過程が医師と親の信頼関係の構築には役に立つ。
親の動機がどういうものであろうと、それ以上の意味はないのだから
認知障害のある子どものコスメティックな手術は親に決めさせてあげよう」
と結論するのです。

しかし、障害のある子どものコスメティックな手術を通常の足の骨折治療に対比したいのなら
歩けないために拘縮を起こしている子どもの脚を
ただ世間を連れ歩く時にみっともないからという理由だけで
手術でまっすぐにしたい親を想定してみればいいのではないでしょうか。

もともとコスメティックな手術でもなく、親の動機も社会心理的なものではない、
極端に重篤なケースが、わざわざ持ち出されてきたのは、

ここにもまた
「重症の知的障害があれば利益など本人には分からず、
したがって医療における本人利益はありえない」という思い込みと、
「だから障害児は話が別」という暗黙の前提が最初からあるからで、

前のエントリーで指摘したように
口蓋裂以外は正常な子どもの手術に対置するのに、
わざわざトリソミー18の子どもの口蓋裂の手術を持ってくるのと同じく、

「どうせ、これほど重度な子どもでは
少々の身体的な利益が本人にあったとしても、
もともとの障害の重度さを考えれば相対的に利益はないに等しい」と
暗に主張するためなのではないでしょうか?

この論文を読んで、一番いや~な気分になるのは、
“Ashley療法”を正当化する父親やDiekema医師らの言葉に色濃く滲む
「どうせ何も分からない重症児」意識がここでもプンプン匂うこと。

「どうせ何も分からない重症児」だから最初から「話は別」で
赤ん坊扱い、モノ扱い、そして透明人間扱い。

あまりといえばあまりの患者不在、子ども不在。

それが果たしてWilfond医師個人の感覚なのか、
Ashley事件に関与したシアトル子ども病院の一部医師らの何らかの意図によるものなのか、
(著者に含まれてはいませんが、この論文にはDiekema医師も関与しています。)

それともシアトル子ども病院全体の文化なのか、
もしや米国の小児科医療や医療倫理全体にある程度見られる文化なのか、

もしかして、万が一にも、日本の医療界にも、領域によっては、ないわけではない意識なのか……?

私にはさっぱり見当もつかないので、
この論文を読んでもう1ヶ月以上になるのですが、
そこのところがずっと気になって、苦しい──。
2009.03.26 / Top↑
Wilfond医師が「重症児へのコスメティックな手術も親の決定権で」というエントリーで取り上げた
シアトル子ども病院のWilfond医師の以下の論文について、
何度かに分けて考えてみたいことが沢山あるので、
上記リンクのエントリーをシリーズ1と考え、
このエントリーを2としました。

Cosmetic Surgery in Children with Cognitive Disabilities
Who benefits?
Who decides?

Hastings Center Report, January-February 2009

上記リンクのエントリーで書いたように、
この論文の要旨とは概ね以下のようなものです。

発達障害のある子どものコスメティックな手術については
子ども本人が社会心理的な利益を感じることができない上に
親と子どもの利益をくっきりと分かつことは困難なのだから、
親に決めさせてあげよう。

少なくとも、その手術を希望する親の動機を医師らが検討する過程で
親と医師の間の信頼関係が深まるメリットがあるのだから

この論文によると、最近
“Surgically Shaping Children(手術で子どもの外見を変える)”というHastings Center 研究プロジェクトで
リスクが小さく利益が長く続く口蓋裂の手術などは親が希望すれば可との、
合意ラインが出されたとのこと。

ただし、危険があり苦痛を伴う手術で
長期的に機能を十分維持できなかったり外見を正常に近づけることができない可能性がある場合は
子どもが意思決定のプロセスに参加できる年齢になるまで待つべきだというのが
プロジェクトの全員一致した意見だった、とも。

この見解を紹介した後、Wilfondは
しかし、このアプローチは将来的にも自己決定できない子どもには当てはまらない、と書き、
子どものコスメティックな手術の利益とリスクの比較検討は難しく、
したがって障害児の場合における親の決定権を制限するべきかどうかが問題となる、と述べます。

続いて彼は、
本人の利益なのか親の利益なのかの線引きが
障害児ではいかに難しいかということを述べていくのですが、

そこでWilfondが引っ張っている例の1つが
トリソミー18の1歳の子どもに親が口蓋裂の手術を希望した場合はどうか、という話。

この部分のWilfondの論理展開は大体、以下のような感じ。

それ以外に障害のない子どもの口蓋裂の手術なら
子どもへの社会心理的利益は明らかで手術のリスクも少ないし、
こちらとしても子ども自身が成長すればその利益を喜ぶことが確信できるので、
問題なくOKとなる。
もちろん、その手術で親にも利益があることは織り込み済みでもある。

一方、トリソミー18症候群の子どもは
重篤な認知障害があり、腎臓と心臓にも問題がある、
身体上の奇形もあって十代まで生きることはまれである。

認知障害があるために、
口蓋裂の手術が約束する社会心理的利益を本人は感じることができない。
したがって手術で利益を受けるのは親のみだということになる。

しかし、Lainie Friedan Ross は
「密接な関係の家族における子どもの利益は
親の利益が増進されることによって間接的に増進される」と結論付けている。
このことからしても、家族全体の利益によって親が決定してもいいはずだ。

分からんなぁ……と、どうしても引っかかってならないのは、

プロジェクトの結論を紹介する直前にWilfondは
「発達障害のある子どもへのコスメティックな手術には
障害のない子どもの場合とは違った倫理基準が用いられるべきだろうか」との
問いを自ら立てておきながら、

このプロジェクトのアプローチは自己決定できない子どものケースに当てはまらないと書いて
自分の問いへの答えがYESであると勝手に前提していること。

プロジェクトの結論は2段階に分かれていて、
リスクが小さく利益が続くものと、
リスクと苦痛が大きくて利益が保証されにくいもの。

これでは、その間にあるはずの
「リスクが小さいけど利益が保証されにくいもの」と
「リスクと苦痛が大きいけれども利益が続くもの」という2つが抜け落ちていて、
実は一番判断が難しいのはこちらじゃないのかと私は不思議なのですが、
とりあえず、ここに出てきているのは
「リスクと利益のバランスが最も良いものは可、
バランスが最も悪いものは子どもが成長するまで待ちましょう」という
両極端の2段階。

このうち、子どもの自己決定能力が関係してくるのは後者のみなのだから
もしもWilfondがいうように自己決定能力の有無を理由に知的障害児には当てはまらないとするなら
それは後者の「子どもの成長を待つべき」とされる種類の手術の話のはず。

両者とも自己決定のできない障害児には当てはまらないと自動的に決めることはできないはずなのに

Wilfondはここで
自己決定能力のなさを、プロジェクトの判断が障害児に当てはまらないことの根拠にしながら
実は利益を感じる能力の有無へと話を巧妙に摩り替えている。

これはちょうどDiekema医師が
2007年1月4日のBBCのインタビューで侵襲度の高さと尊厳の問題を突っ込まれて、
「でも、Ashleyは赤ちゃんと同じで何も分からないんですよ」
などと話を摩り替えたのとまったく同じ。

1月12日のLarry King Liveでも
「何が尊厳かということすらAshleyには分からない」。

2006年の論文では
「こういう人たちが、ただ背が低いということから蒙る害なんて考えられるだろうか」とも。

ここに見られるのは
「認知機能が低い人では
利益も害も本人がそれを感じない以上、
医療処置における本人の利益も害もありえない」という意識。

しかし、これは本当は、いまだかつて正面から問われたことのない命題で、
答えなどどこにも出されていないのではないでしょうか。

だからこそ、このような思い込みを敢て前提としたAshley事件が
あれほど大きな衝撃を与えたのだと私は思うのですが、

シアトル子ども病院では、少なくともAshleyケースが表に出て以降は
まるで既に確立されたスタンダードのように、これが前提されることが不思議です。

もっと広く様々な状況に適用されていくことを考えると、
こんなに恐ろしい前提はありません。

認知能力の低い人には、どんな医療処置からの本人利益も害もありえないとなれば、
軽い病気の治療だって無益だと主張できないことはないでしょう。


もう1つ、Wilfondは
口蓋裂以外に障害のない子どものケースに対比させるために
なぜ身体障害を伴わない知的障害児でもAshleyのような重症児でもなく
トリソミー18の子どもを例に引いてきたのか。

私はそこに、
「どうせ長くは生きない」のだし
「どうせ口蓋裂以外にも外見はノーマルではない」から
本人が利益を感じられないことの他にも
手術の本人利益は相対的に小さいのだと、
無言で主張しようとする、または読者の意識を誘導しようとする意図を感じてしまう。

それこそ、この論文の一切の議論のスタートに
「医療における意思決定の倫理スタンダードは障害児では話が別」という前提があり、
またその前提をさらに一般化していく意図が論文に含まれていることの
紛れもない証拠じゃないのだろうか。

なぜ「同じ」という基本から話をスタートできないのか。

「同じ」からスタートすれば
プロジェクトの出した合意ラインを基本にして、
障害のある子どもの場合には、より丁寧なセーフガードを、という話になるのではないでしょうか。

「話が別」からスタートしてしまうから
「親に決めさせてあげれば、少なくとも親と医師の信頼関係には役立つ」などと
小児科医でありながら、患者本人がまったく不在の結論を導き出してしまう。

なぜ「同じ」という基本からスタートできないのか。
なぜ「話が別」からのスタートになってしまうのか。
そこのところが不快でならない。


【Lainie Ross の講演や発言に関するエントリー】
親からの生体移植 Ross 講演 (これ、なかなか面白いです)
親による治療拒否(2つめのRoss講演)
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件
2009.03.25 / Top↑
Palliative Medicine 誌に
英国の医師に終末期医療について質問した
Queen Mary UniversityのClive Seale教授の調査結果が2つ報告されていて、

まず、
現場の医師が終末期の患者の命を縮めるために薬を与えることはほとんどなく、
あったとしても、せいぜい1週間、ほとんどは1日以内。

それから
調査に協力した4000人の医師のうち
安楽死の合法化に賛成という人は34%。
自殺幇助に賛成の人は35%。

Seale教授は2004年にも857人の医師を対象に同様の調査を行っており、
今回の結果はその時とあまり変化していない。


オランダが80年代、90年代に安楽死を認める方向に動いた背景には
オランダの医師らの意見が影響していたことを考えると
この低さには大きな意味があるが、
先週のHewitt保健相の提案を受け英国の現状では逆に
一般国民から安楽死や自殺幇助への支持が寄せられている。

命を縮めると分かって鎮痛剤を与えたことがあると答えた医師は
2004年には32,8%だったが今回は17,1%に減少。
延命の可能性がある治療を意識的に中止したことがあると答えた医師も
2004年には30,3%だったが今回は21,6%。

この違いは質問が今回は結果予測ではなく死を意図したかどうかを問うたため。

一方、16,5%のケースで医師らは鎮静剤を使って患者を深く眠らせており、
オランダの2005年の8,5%や
ベルギーの2001年の8,3%に比べて高い。

論文は
「英国での死は特に継続的な深い沈静を伴っていると思われ、
これは“時間をかけた安楽死”と解釈されかねない。
この問題のアセスメントをおこなうには
どういう状況でこうした決定が行われているのか、もっと知る必要がある」と。

この調査に協賛しているのは
The National Council for Palliative Care
Age Concern
Help the Hospices
Macmillan Cancer Support
The MND Association
The MS Society
Sue Ryder Care

NCPC倫理委員会の委員長で緩和医療顧問であるTeresa Tate医師は
「緩和ケアが必要なのに受けられないで死んでいく人が
毎年30万人もいると推計されています。
緩和ケアを必要とする人すべてに良い終末期ケアが届けることに
国のエネルギーを集中すべきでしょう」

2009.03.25 / Top↑
今はずいぶん変わっているのかもしれないし、
変わっていてほしいと思いますが、

ウチの娘が小さかった頃は障害のある子どもを見てもらえる歯科が少なく、
大学から定期的に若い医師が送られてくる障害者センターの歯科ですら
医師の意識は本当にお粗末で
親も子も大変つらい思いをしました。

別件の検索でひょっこり行き当たった障害者歯科の専門の先生のHP。

書かれていることが本当に心に沁みて嬉しかったので、以下に。
(以下のリンクから「自閉症の歯科治療」というページにも入れます)

障害者(児)歯科 (藤本歯科医院)

          ――――――

ついでに、以前、歯科のネット抑制について書いたエントリーを以下に再掲。

不適切な歯科治療のネット抑制によって子どもを亡くされた方の裁判について知り、
その事件について書いたエントリーの続編のような形で書いたものです。

障害のある人の歯科治療でもネットで抑制される場合が沢山あり、
異常や苦痛を自分で訴えることのできない子どもや障害児・者にとって、
あのネットは慎重にも慎重を重ねて使用してもらわないと危険だということは
私も個人的にずっと感じてきました。

ウチの娘は今では経験則から予測もでき納得できているようですが、
2歳の時に初めて抑制された日のことは、
事後のただ事ではなかった様子からすれば、
きっと本人にも大きなトラウマになっていると思うし
母親である私にとってもトラウマになっています。

あの日、本人にはもちろん母親にも何の説明もなく、
娘はいきなりネットをかけられて治療が始まってしまったのです。
娘はパニックし、真っ赤になって全身で無駄に抗い続け、
ただでさえ口呼吸と鼻呼吸が分離できていないところに
泣いて鼻がふさがって、パニックから何度か口の中に小さく嘔吐しました。
それを2歳の子が自分で飲み込みながら耐えている間、
大学から短いサイクルで障害者施設に派遣されてくる若い歯科医は
声もかけるでもなく、たいして自分のペースを変えるでもなく、治療し続けました。

小さな虫歯で、実際は短い時間だったのでしょうが、
本人にとっては本当に殺されそうになるほどの本能的な危機だったでしょうし、
それを目の当たりにしながら
抑制された身体に手と言葉で励ましを送ることしかできなかった私にとっても、
長い長い拷問でした。

やっと解放された時に抱き取った娘の衣類は絞れるほど汗みずくでした。
抱き取られた瞬間に、それまで耐えていたものが噴出するかのような号泣を放ち、
さらに身体を火照らせて、30分間も全身を振り絞るような号泣を続けました。

あの時、嘔吐したものを本人が無事に飲み込めていなかったら……と思うと、
あの日のことは今でも恐怖の記憶だし、
母親の自分までが予想外の出来事にパニックして
娘を守ってやることができなかったという自責の記憶にもなっています。

歯科治療の危険を考えれば、ネット抑制そのものはやむをえないのだろうと思います。
が、問題はネットで抑制することそのものにあるのではなく、
それを使う医師の技術に加えて、その際の姿勢や対応なのではないでしょうか。

どんなに小さな子どもでも知的な障害のある人であっても、
きちんと丁寧に説明すれば、何も分からないということは断じてありません。

仮に内容が完全には理解できないとしても
相手が自分を人間として尊重してくれていることは感じられます。

「やむをえないにせよ、苦しい思いをさせて申し訳ない」という気持ちがそこにあり、
「怖いだろう、苦しいだろうから、なるべく怖くないように、なるべく苦しくないように」との配慮があれば、
細心の注意を払って患者を観察するだろうし、

なによりも
その思いは自ずと医師や看護師の言葉にも声にも手つきにも表れて、
子どもにも障害のある人にも伝わっていくものなのです。

それを「どうせ分からないから」と物を扱うような意識になるから、
機械的にネットをかけて、ロクに観察もせずに治療を続けることになる。

治療行為を拷問に変え、過誤にまで至らせてしまうのは抑制ネットでも治療行為そのものでもなく、
もの言えぬ非力な者たちを「どうせ……」と見下し、
人として尊重しない医師の冷たい意識と手さばきなのではないでしょうか。
「歯科のネット抑制について」2008/5/12
2009.03.24 / Top↑
このところ問題になっている英国政府の国民データベースですが、

The Joseph Rowntree Reform Trust という組織が出した報告書で
英国政府が現在整備したり、または進めている国民の各種データベースのうち、
4分の1は黒人、一人親家庭、子どもたち社会的弱者への人権侵害となる可能性があり、
税金の無駄遣いでもあって、破棄するべきだ、と。

政府はこうしたデータベースに160億ポンドの予算を投入しており、
今後5年間にさらに1050億ポンドを投入する予定。

しかし、データ漏洩スキャンダルが相次いだことから
市民の自由と社会正義を使命とし超党派の同トラストが
46の公共セクターシステムを調査したもの。

中でも、
全英の子どもの個人情報を集積するContactPointや
逮捕歴のある人(無罪になった人を含む)のDNA情報を集積する国民DNA データベース
全国民の電話とインターネットの利用歴を
電話会社とサーバーに保管させるコミュニケーションデータベースなど
11のデータベースは「ほぼ確実に」人権またはデータ保護法に照らして違法、と。



国民DNAデータベースやContact Pointほか、
英国で国民のトラッキングに使われる主要10のプロジェクトを
The Guardianが以下にまとめています。

Ten ways to track the citizen
The Guardian, March 23, 2009


英国社会のビッグ・ブラザー化、歯止めはかかるのか……。


2009.03.24 / Top↑
2月末のFEN幹部の逮捕について米国医師会新聞が取り上げており、
事件そのものについて目新しい内容はないのですが、
一度確認しておきたかった周辺情報があったので、メモとして。

・米国で現在、医師による自殺幇助を合法化しているのは
オレゴン、ワシントン、モンタナの3州。

・現在、検討中なのは
ハワイ、ニュー・ハンプシャー、ニュー・メキシコの3州。

・ なお、米国医師会のスタンスは
 「医師による自殺幇助を合法化する如何なる法案にも強く反対する」というもの。
  その理由は「癒す者(healer)としての医師の役割に根本的に反するから」。


特に最後の点で、安心した。

医療については州ごとに規制される米国のシステムの中で、
それがどれほどの影響力を持つのか分からないけど、
ちょっと気になっていただけに。



【12月25日追記】
こちらのエントリーで訂正しましたが
「ハワイ州が検討中」というのは事実ではなかったようです。
2009.03.23 / Top↑
Benjamin Wilfond 医師と言えば、
シアトル子ども病院Trueman Katz 生命倫理センターのディレクターで
”Ashley療法”論争にもメディアやネットにちょっと怪しげな立場で登場、
去年のワシントン大学の成長抑制シンポにも登場していたし、
その後の成長抑制ワーキング・グループのメンバーでもあり、
1月23日のシンポでは最初にWGの“妥協点”について解説した人物。

そのBenjamin S. WilfondがDouglan J. Opelと共著で書き、
最後の謝辞によるとDiekemaも下書き段階でコメントしたとされている
Hastings Center Report、January-February 2009の論文

Cosmetic Surgery in Children in Cognitive Disabilities:
Who benefits?
Who decides?


正直、何度読んでもワケがわからない。

取り上げられている事例のイチイチがその文脈に妥当な事例だとは思えないし、
またその妥当とも思えない事例を巡る著者らの解釈が
本当に米国の現場の医師の感覚がこんな程度のものなのかどうか、
頭をひねってしまうほど皮相的で人間不在で、
(その中の1つは私がずっとこだわってきた胃ろうについてのものなので
 それについては、また別途エントリーを立てようと思います。)

総じて、
Ashley事件で親の決定権が問題になったことを大いに意識して、
Ashley事件で出た「これはコスメティックな(外見を取り繕うだけの)医療に過ぎない」という批判も
ついでに大いに意識して、

重症知的障害児へのコスメティックな手術については
どうせ誰の利益かなんて、本人と親の間にはっきり線を引けないのだから
それなら親の決定権を尊重してあげれば、その話し合いの過程によって
親と医療職の間に信頼関係が築かれるというメリットだけはある
と、結論をとんでもないところに飛躍させるべく、
意図的に組み立てられた論文に過ぎないんじゃないか、と思ってしまった。

Wilfondらは冒頭で
ちょっと理解しかねる事例を引いた後で

発達障害のある子どものコスメティックな手術については
 障害のない子どもの場合とは違う倫理基準を用いるべきなのだろうか?

 重症の認知障害のある子どものコスメティックな手術は
 そもそも許されるべきなのだろうか?

 それは親が決定することを許されるべきなのだろうか?」と

3つの問いを立てているのですが、そのすべてに、
この論文の結論はYESと答えているわけです。

つまり、
どうせ本人は社会心理的利益を感じることもできないし
 目的が親の利益だったとしても
親の利益は間接的に本人の利益にも重なるのだから
発達障害のある子どものコスメティックな手術は
障害のない子どもの場合とは別の倫理基準で判断し、やってよい」と。


Ashley事件で一番恐ろしいことは
これまで当ブログで何度か指摘してきたように、

このような厳密さを欠いた議論の中で、いつのまにか
「重症の知的障害児の場合には話が別」という一線が
医療において引かれてしまうことなのではないでしょうか。

この一線がいかに世間の人にとって受け入れやすいものか、

障害学や障害者運動の人たちですら無意識のうちに
「Ashleyは赤ん坊と同じなのだから他の障害者とは話が別」と考えていたことを思うと、
なぜ、そんなに簡単に多くの人が誤魔化されてしまうのか、
私はその1点が、もう身もだえするほどに悔しくてならない。

その線引きを
シアトル子ども病院が完成してしまおうと急いでいるのは
本当にそれが重症障害児のためだと倫理の専門家として心から信じるからではなく
ただただ、もう絶対に認めることが出来ないところまできてしまった
自分たちの失態を隠蔽しきってしまうためかもしれないというのに。

そして、こうして一度引かれてしまった線引きは
一方で進む自殺幇助の合法化議論や「無益な治療」議論においても
「重症の知的・認知障害のある人は、それ以外の障害者とは別基準で」と
影響してくるに違いない。

しかも恐ろしいことに
ここで別の倫理基準が当てはめられて然りとされる「重症の知的障害」は
論文の中で一切定義されていないのです。

冒頭で
スケートボードの事故の脳損傷により四肢麻痺になった子どもの事例が出てくるのですが、
そこに「意思疎通が出来ない」と障害の重篤さを説明する箇所があります。

成長抑制ワーキング・グループが
当初Diekema医師らが主張していた「重篤な知的障害」という条件を捨て
いつのまにか永続的に「意思疎通が出来ないこと」と「歩けないこと」を
成長抑制を妥当とする対象児の基準としていたことを考えると、

これから先の米国の医療では
「意思疎通が出来ない」ことが
「別の倫理基準」を当てはめる線引きとなっていく可能性が懸念されます。

くれぐれも、この曖昧さと巧妙な論理の摩り替え、ズラしに
乗せられてはならない──と肝に銘じておきたい。
2009.03.23 / Top↑
米国のNot Dead Yet は「まだ死んでいない」という名前の
障害者の人権活動団体。

Kevorkian医師がターミナルではない障害女性への自殺幇助で無罪になったことを機に1996年に設立され、
その後一貫して自殺幇助の合法化に対して抵抗運動をしています。

サイトのタイトル部分には、以下のように書かれています。

しばしば思いやりのある行為のように説明されるが
医療による合法的な殺人は実際には重症障害のある人を殺すダブルスタンダードであり、
ターミナルと名づけられる人とそうではない人の両方を対象にしている。

NDYのリーダーStephan Drakeが3月13日にラジオ番組で
鋭いFEN批判を展開したようです。
トランスクリプトがNDYの16日付のエントリーにアップされています。

(FENの自殺幇助疑惑については、文末に関連エントリーをまとめてあります)



Drake氏の発言から個人的に印象に残った箇所を以下に。
なお、逐語訳ではなく、ある程度まとめています。

・本気で自殺したい人は毎日自分で死んでいる。FENを頼る人というのは、誰かが傍にいて力づけてくれないと自殺できないのだから、その時点で既に彼らは揺らいでいるのだ。

・自殺の方法を情報として流すことならネット上でも行われているし規制も難しいが、FENにはヘリウム自殺の間、頭にかぶった袋を脱がないように手を押さえていたという話もある。本能的に脱ごうとする動作と、死ぬのを思いとどまって脱ごうとする動作をどうやって見分けることができるというのか。誰かが本人の希望で自殺を手伝った行為が、実際は殺人に終わっていたとしても見分けることはできない。実際に傍にいたのかどうか、具体的にはどこまで手伝ったのかが問題。

・FENを頼る人たちは、余命6ヶ月以内という条件のあるOregonやWashingtonの尊厳死法では対象にならない人たちなのだということは、重視しなければならない。

・Stephan Drake自身、出生時に脳損傷があったので両親は医師から「植物」だといわれた。新生児でも成人でも、脳損傷があるとなると、次に出てくるのは、まるで物品のように施設に収容しようとか死なせようという話。安楽死推進運動は、こういう状態の人とターミナルな状態の人を十分に区別していないし、さらに言えば、FENで今回逮捕されなかった活動家の中には、以前は障害児殺しの罪を免罪しようと運動していた人もいる。

・(FENの逮捕が、自殺した人の家族からの捜査依頼で行われた囮捜査によるものだったことから、「自殺は本人の自己決定権で行われるものである以上、家族がFENを責めるのはお門違いだろう」とのホストの指摘を受けて)、問題は、その人がもしもFENを知らなかったとしたら、それでも自殺していたかどうか、という点。

・また、意思決定能力のある人なら自殺は自己決定だという場合に、その意思決定能力の有無をどのようにして線引きするかという問題もある。


ホスト2人はどちらかというと自殺は個人の自己決定権だと考えて
自殺幇助の合法化に賛成の立場からDrakeに反論していきますが、
Drakeの指摘から、自分たちの見解を部分的に修正しつつ話が進んでいるような印象を受けます。

まず「死にたいのは本人の意思なのだから、それを手伝ったとしても悪いはずはない」と主張し
Drakeの「手を押さえたら本人意思が変わった場合には殺人になる」可能性を指摘され、
「ああ、それはそうだ、実際に手を出してはいけないな」

次に「でも自殺を決めるのは本人の権利なのだから
家族や周りの人間がとやかく言えるものじゃない」と主張し
Drake氏に「その人はFENがなかったとしても自殺していたか」と問いかけられ、

Drakeのダブルスタンダード説に
「でも自殺を望むのは障害者や病人でしょ」と突っ込んで、
「本当に自己決定できる人かどうかの線引きはそう簡単ではない」と指摘されて
初めて、そこに問題があることに思い至った様子。

全体に、
当該問題に関する具体的な事実関係を詳細に知り、深く考察してきた人と
そこまで細かい事実関係も知らず、その問題にかかわる周辺事情も知らないままに、
皮相的な抽象論で安易に結論を出してしまった人の差……というのをここでも感じて、

そのパターンはAshley事件で起きたことや
日本の射水市民病院での呼吸器はずし事件で起きたこととまったく同じだなぁ、と。


世間一般の多くの人は、
事件の事実関係をきちんと知って、その上で問題を考えようとする前に
「分かりやすく飲み込みやすい物語」を勝手に頭の中に作り上げて
その怪しげな物語にのっとって自分の意見を決めてしまう。

Ashley事件では
“科学とテクノ万歳文化”にどっぷり浸かったIT企業の幹部である父親の
“お山の大将”的独善性と愚劣な権力者の特権意識と直線思考とに
病院がプロフェッショナルとして抵抗できなかったというだけの
お粗末な事件だった(可能性がある)ものが
「ここまでしてでも重症児のわが子を思う美しい親の愛の物語」になってしまった。

射水事件では
脳死の定義すらおぼつかない、お粗末な意識の医師が
「患者への愛情と高潔な使命感から、保身に汲々とする病院と対決する安楽死信奉者」に変身した。

いずれの事件でも
分かりやすい物語の蔓延にメディアが果たした役割は大きいけれど、
そういう物語が即座に作られて、また広く一般に歓迎されていくというのも

どちらの事件の背景にも、
そうした時代の力動みたいなものが予め蠢いていたからなのだろうと
前に上記リンクのエントリーで考えてみました。

その伝で行けば、
このラジオ番組のホストが自殺幇助の問題について事実関係や周辺状況を知らず、
「尊厳ある死に方を選ぶのは自己決定権である。
自分で意思決定能力がある成人なら認められてよい」という
単純明快な論理を何の疑いもなく受け入れて、

そこに「尊厳」は捉え方によって内容が違ってくる可能性があるし、
実際に自殺幇助合法化議論の中で(Ashley事件でも)「尊厳」の内容が変質しつつあることや


経済の行き詰まりから社会的コストのかかる弱者切捨てが広がっている事情、

特に医療における障害者の切捨てが露骨になりつつある中で
本当の意味で“自己決定”になりうるのかという問題や、

「意思決定能力(competence)」をめぐる判断に潜んでいるリスクや
代理決定の方法論やセーフガードの問題など、

事件そのものの事実関係や、また周辺的な事情を知れば知るほど、
コトはそれほど単純明快ではないことが分かってくるのに、

それほど丁寧な手間をかけず、
メディアから口移しにされる飲み込みやすい単純できれいな物語を丸呑みして
さっさと結論を出してしまうのも、

それはきっと、もともと時代の力動がそういう結論を予め用意しているからだろうし、

また人々の鵜呑み丸呑みがさらに時代の力動を後押することにもなって
ある方向へ向かう世の中の動きを加速させていく……というのが、
今あちこちで加速化する循環のカラクリなのではないか、と思ったりするのですが、

そもそも世の中にはそういう力動を作り出したい人たちというのがいて、

そういう人たちにとっては、
なるべく多くの人が深く知らず深く考えないままに
単純な物語を丸呑みしてくれるほうが好都合なのだということを考えると、

スローガンのように単純明快で飲み込みやすい物語や理屈というものには、まず警戒感を持ち、
目の前に出てきた時には、とりあえず受け取りは保留にしておいて、
その間に一つ一つの事件で起こっていることの事実関係を自分で確認し、
その周辺で何が起こっているかという事情もある程度まで知ったうえで考えてみる……
……という姿勢を一人でも多くの人が持つことが、

時代の力動を敢えて作り出したい人たちへの抵抗にもなるんじゃないだろうか。


2009.03.23 / Top↑
当ブログで去年あらまし追いかけていたBiederman医師のスキャンダル続報。
(これまでのエントリーは文末にリンク)

著名児童精神科医Biederman医師には
製薬会社からの金銭授受を「利益の衝突」として適正に申告していなかった疑いと、
製薬会社の利益になるように研究データを操作した疑いと、
去年のGrassley上院議員の調査から2つのスキャンダルが持ち上がっており、
ご本人は当面研究活動から身を引いて、Harvard大学とNIHが現在調査を行っているところですが、

不適切なマーケティングでメディケイドの給付金を詐取したとして
州が製薬会社を訴えている一連の訴訟においても
Biederman医師は鍵となる証人でもあって、

そちらの裁判に同医師が提出した資料から
またも新たな疑惑が浮上。

かねて癒着が取りざたされてきたJohnson&Johnson社の役員に対して
B医師が行った臨床実験の予定に関するプレゼンにおいて、
それらの治験からはJ&J社の利益となる結果が出ることが予め明示されていた、というのです。

たとえば「2004年の主要プロジェクト」は、
J&J社のRisperdalの小児の双極性障害に対する効果を、競合する他の薬と比べる実験と説明され、
「Risperdalの優位を明確化する」と(実験前なのに)結果が予測されていた。

2005年にBiederman医師は実際に論文を書き、
RisperdalとEli Lilly 社のZyprexaを比べて
前者は被験者のうつ症状を改善したが後者は改善しなかったと報告。

またJ&J社のConcertaの青少年での研究である「2005年の主要プロジェクト」は
J&J社の幹部向けプレゼンで
「成人のADHD(NOS?)にConcertaが有効だというこれまでの研究結果が
この治験によって青少年にも当てはめられることになるだろう」と説明されており、

実際に翌2006年にBiederman医師を主著者とする論文は
Concertaを子どもに投与すると成長が止まるという懸念を打ち消して見せた。

また去年は
Risperdalが双極性障害のある子どものADHD症状を改善したと論文報告。

これらの提出資料は「封印してほしい」と裁判所に要望したようですが、
その前にNY Times の知るとこととなってしまったのだとか。

それから、ちょっとよく分からない話として、

上記の裁判での州側弁護士とのやり取りで
Harvardでの肩書きを聞かれ「full professor」だと答えた後に
「その後にくっつくの(肩書き)は?」と問われて
「神」
「“神”とおっしゃいましたか?」
「はい」
という問答があった模様。




この記事の中の NOS というのが分からなくて検索していたら
こんなものに行き当たったので、ついでに。

重篤副作用疾患別対応マニュアル
悪性症候群
平成20年4月 厚生労働省



2009.03.21 / Top↑
去年の8月に学習障害の権威に患者への性的虐待疑惑のエントリーで取り上げたニュースの続報。

もうここ数年診療は行っていないとのことですが、
患者多数から性的虐待をめぐる訴訟を起こされている学習障害の権威Melvin D. Levin医師が
North Carolina州の医療委員会との間で
同州ではもちろん、その他の場所でも今後一切医療を行わないと合意。

ただ、Levin医師は虐待の事実を一貫して否定しており、
同意書も理由が書かれていない非常に曖昧なものに留まっているとのこと。



上記リンクのエントリーでも書きましたが、
この問題で最も不快なのは権威に弱い医療界の迎合・隠蔽体質で、

Levin医師にこうした疑惑や噂が付きまとっていることを
病院も大学も何年も前から知らないわけではなかったのに、
権威ある(おそらく権力もある)大物医師だったために
知らぬフリで不問に付してきたこと。

そうした組織や医学界の政治的配慮や政治的判断が
子どもたちを犠牲にし続けてきたのです。

しかし、Ashley事件の背景を知れば知るほど
医療の世界の方々に心からお願いしたいと痛切に願うのだけれど、

組織や制度の中で働いていると、
時に問題がことの本質を離れ、政治的な事情によってものごとが動いてしまうことは
誰しもが体験していることですが、

少なくとも最低限のところで子どもを守る責任が
プロフェッショナルとしてのあなた方個々にあるのだということを

どうか忘れないでほしい。
2009.03.21 / Top↑
海外への自殺幇助ツーリズム容認方向への
前保健相の法改正動議と、自由投票をめぐって
にわかに議論が沸騰している英国議会。

労働党の70歳の議員 Ann Cryer氏が
重病や重い障害を負うことになったら自分は片道切符でスイスへ行く、と発言。

既に子どもたちにもその意思は伝えてある、と。

「認知症になったり、ひどい障害を負って100歳まで生きるなんて、したくない。
MSや運動神経の病気であまりにもたくさんの友人を亡くしてきたから
重い障害を抱えて何年も生きるようなことはしたくない。

もう子どもたちにも、自分でいったん決心したら
私をスイスへ連れて行ってほしいと伝えてあります。

私のはスイスへの片道切符。
決して勇気ある行いではないけど、
そういう状況では私にしても他の人にしても、そうするしかない。
この国の法律は変える必要があります。

法律を明確にしなければ。

今までのところ、自殺幇助で起訴された人はいないと思いますが
そのうち、何も間違ったことをしたわけでもないのに罪に問われる人が出ますよ。
だから法改正が必要です」

ただし、ここでも議員が言っている「自殺幇助」は
家族なり友人なりを意思による自殺幇助の目的で海外へ連れて行く行為のこと。

現在の英国の自殺法は1961年にできたもので、
具体的に何を自殺幇助とするかが曖昧なため、
今のように英国人が100人以上もが既にスイスのDignitasクリニックで自殺している中、
それに協力する家族や友人の行為が自殺幇助をみなされた場合には
最高で14年の禁固刑となる可能性があり、

去年からMS患者のDebbie Purdy さんが法の明確化を求めていた。

MP Ann ‘would go to suicide clinic’
The Telegraph & Argus, March 20, 2009


しかし、Cryer議員がここで言及しているのも、
「重い病気」であったり「恐ろしい障害」であったり「認知症」であったり

決してOregon州などの尊厳死法が対象としているターミナルな病気ではないことには
十分に注意すべきではないでしょうか。

私が目下、気になって仕方がないのはこの点で、

そこの線引きが十分でないまま自殺幇助が議論されればされるほど、
重い障害はターミナルな状態と同じくらい悲惨であり、
尊厳のない状態、または生きるに値しない状態だという認識が
社会に広がっていく危険があると思う。


こういう発言を受けて
その内容を不用意に「最悪の事態がおきた場合には」という文言でまとめる記者にも
もうちょっと慎重かつ厳密な表現を望みたい。
2009.03.21 / Top↑
あれもこれも盛り込んであるのに自殺幇助の合法化が漏れているのがナンセンスだと
Tom Shakespeareが批判していたthe Coroners and Justice 法案
前保健相のPatricia Hewitt氏が自殺幇助に関する法改正を提案。

ブラウン首相自身は以前から表明しているように自殺幇助の合法化には反対、
しかし、この改正案については議員個々の自由投票とする、と。

既に100人の議員が支持を表明。

だたし、自殺幇助に関する法律改正といっても、
ここでは去年から論議を呼んでいるMS患者Debbie Purdyさんの訴えに沿ったもので、
Oregonでのような医師による自殺幇助を合法化しようという話ではありません。

海外へ行って医師の幇助を受けて自殺したいと望むターミナルな病状の人が
自力で海外へ行くことはできないので家族や友人がその手助けをした場合に、
現在の英国の法律では自殺幇助とみなされて罪に問われる可能性があるため、

将来、スイスのDignitasで医師による幇助を受けて自殺したいと望んでいるPurdyさんは
その時に夫が自分をスイスに連れて行くことで帰国時に罪に問われないように
裁判所に対して法律の明確化を求めたのでした。

それに対して最高裁は
法律を変えることは裁判所の仕事ではなく政治の仕事だと突っぱねたものの、
そういう人が罪に問われたとしても裁判所は罰則を科さないとする方向性を
暗に打ち出した、という展開となっています。

(詳細は以下の関連エントリーに)

しかしHewitt前保健相は
長期的にはセーフガードを整備した上で英国内で
意思決定能力のある成人がターミナルな病状で苦しんでいる場合には
幇助自殺が選択できるように法改正をするべきだ、とも述べており、

国内での自殺幇助合法化議論はますます加速するものと思われます。


Hewitt wants suicide law change
The Reuters, March 20, 2009

Hewitt seeking suicide law change
The BBC, March 20, 2009



【3月24日追記】
Hewitt前保健相の改正案は下院の時間切れで審議されずに終わったようです。


【Purdy ケース関連エントリー】

2009.03.20 / Top↑
男児は生後9ヶ月で、珍しい代謝障害がある。
脳に損傷を受けており、呼吸困難のため人工呼吸器を使用。
名前はOTとのみ。

OTを治療している病院を運営するNHSトラストは
(どこのトラストかは法律上の理由から明らかにされていません)
OTには回復の見込みはなく、治療と病状から耐えがたい苦痛を受けているので、
治療の中止が本人の利益であるとの判断を求めた。

それに対して両親は
本人に受け入れがたいほどの苦痛にならない限り
医師にはあらゆる手を尽くしてほしいと希望。

19日木曜日に高等法院は
OTの治療を中止する権利を病院に認めた。

両親の控訴期限は20日の午後いっぱい。

両親の弁護士は
「私のクライアントは息子を深く愛しています。
重い障害があり、現在重篤な状態である事実は受け止めていますが、
治療の結果、本人が耐え難い苦痛をこうむっているとの裁判所の判断は
受け入れていません。

また、
本人のQOLが低いので治療が無益であり、もはや中止すべきだというのも
受け入れられません。

治療を中止すればクライアントの息子の死は避けがたいものとなります。
したがって、即座に控訴するでしょう」と。


Parents facing dilemma to save baby
The Press Association, March 19, 2009


米国テキサス州のEmilio Gonzales事件を思い出します。

【テキサスの無益な治療法を巡る裁判、Gonzales事件関連エントリー】
Emilio Gonzales事件
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判
2009.03.20 / Top↑
なんとも妙な話が出てきている。

去年Oregon州で尊厳死法にのっとって幇助自殺を遂げた人が60人というのは
以前にも報道されていましたが、

このたび、死の自己決定権のアドボカシー団体 Compassion & Choiceがプレスリリースで
その60人のうち1人を除く59人はホスピス・ケアを受けていた、と発表。

それをもってC&Cは
Oregonの尊厳死法ができたことによって
たくさんの終末期の患者がホスピス・ケアを受けるようになったということ、

これは尊厳死法がOregon州内で緩和ケア充実につながった証左、
尊厳死法が安全に機能している証しだと分析しているのですが、

これにWesley Smithが「とんでもない」と噛み付いた。

Smithに言わせれば
ホスピスや緩和ケアとは自殺をさせない方向を目指すケアなのに、
ホスピス・ケアを受けている患者がどうして59人も
医師の幇助を受けて自殺するのか、納得できない、

C&Cはむしろ恥じ入るべきであり
胸を張るとはなにごとか、

ホスピス・ケアを受けているターミナルな状態の患者が
1年間に59人も医師の幇助を受けて自殺するなどという事態が起こるのは
C&CがOregon州のホスピス・ケアのシステム内に人を送り込んで
患者を自殺へと誘導しているからではないのか、と。


ううむ……。


C&Cの3月11日付リリースはこちら

Wesley Smithの主張はこちら



その他、C&C関連エントリーは以下。

2009.03.20 / Top↑
ニュース記事

Oct. 10, 2007





ブログ記事

http://www.sentientdevelopments.com/2007/10/ashley-x-doctor-commits-suicide.html
(Oct. 11: George Dvorsky, accusing the disability rights advocates for his death)




時系列のリンク集でG医師自殺をここに置いてみると、
その自殺のタイミングがちょうど英国でKatieケースが報道される直前に当たることが改めて意識される……。
2009.03.19 / Top↑
違法な自殺幇助が問題となっているThe Final Exit Networkの創設者で
今回Georgia州の男性のヘリウムによる自殺幇助容疑で逮捕され保釈中のTed Goodwinが
17日にAP通信のインタビューを受けています。

Goodwinは逮捕されるまでFENの会長でした。
余命が数ヶ月に限られていなくても自殺幇助は受けられるべきだと
インタビューでも持論を展開しています。

「病気で終末期を迎えている人は、ある意味で恵まれています。
苦しみの時間が限定されていますから。
しかし、何年も無期限に苦しみ続けるしかない人たちもたくさんいる。
そういう人たちだって支援を受けられていいはずだ」

Georgiaの事件でGoodwinらの幇助を受けて自殺したJohn Celmer氏は
がん患者でしたが、回復しつつあってターミナルではありませんでした。

2007年にArizonaでFENが自殺に関与したとされる女性 Jona Van Voorhisさん
うつ状態であり、ターミナルな病気だったわけではありません。

また、ここしばらくメディアが報じているのが
Chicago郊外に住む Kurt Perryさん(26)のケース。

神経障害の痛みがあるのと、呼吸が時々止まってしまう不安とに苦しんで
FENの会員となって実際に自殺すると決意を固めたところ、
2月26日に予定されていた自殺の前日になって
幹部が逮捕されてしまったためPerryさんの自殺幇助は棚上げになりました。
この人も痛みはありますが、ターミナルな状態ではありません。

しかしFENから逮捕者が出たことで、Perryさんは
FENを支持することに生きる目的を見つけ、死ぬのをやめたのだとか。

Goodwinは医師ではなく、
父親が肺気腫で亡くなったのを機に2004年にFENを創設。
FENはこれまでに200人近い人の自殺にガイドとして手を貸してきたが
実際に自殺行為を手伝ったことはない。
Goodwin自身も39人の死に関与した、と。

FBIのおとり捜査官が自殺希望者を装った際に
頭からかぶった袋を本能的に脱いでしまわないようにFENのガイドが手を押さえた
という話が出てきていることについて

「手を押さえたりしません。苦しみにつながることはしません。
法廷で証明されるでしょう。約束しますよ」

FENによると会員と寄付を寄せる人で3300人。
ボランティアが100人。

Goodwinによると、
2007年にVan Voorhisさんの死が問題になって以降は
自殺希望者から精神病歴を全部聞き出すことにしたし、

毎年希望者の3割程度が、
失業や配偶者の死その他の苦しみから死にたいと希望する精神病患者で、
彼らの希望は即座に断ることにしている。

時に希望者の精神病歴に懸念が残ることがあり、そういう時は
FENと提携している10人の精神科医・心理学者の一人が
その人を訪ねてアセスメントを行う。

FENの活動はいつか罪に問われると考えつつも
精神病歴がない場合には希望者の自殺を支援してきたのは

「自分が苦しんでいるかどうかを決めるのは
自分で意思決定できる知的能力のある成人すべての権利だと
我々が確信しているから。
この問題は医師や教会の指導者や政治家に決めさせるようなことじゃない。
これは自分で意思決定できる成人のすべてが持っている自己決定権なのです」

AP Interview: Leader of suicide ring defend work
By Greg Bluestein and Lindsey Tanner,
AP, March 18, 2009


FEN幹部の逮捕がなかったら、
26日に彼らのガイドを受けてヘリウムで自殺していたはずのPerryさんが
FENの危機に「自分も一肌脱がねば」と生きる目的を見出して
自殺する気持ちを翻したというのは
なんとも皮肉な、しかし、また、実に象徴的な展開。

Perryさんが死にたいと望む理由とし、FENも幇助の合理的な理由だとしていた彼の病状は
幹部逮捕の前後で変わったわけではないのだから、

人は病気で痛みがあったり苦しんでいる、というだけで死にたいわけではない、
病気で苦しむことによって生きる希望が持てなくなるから死にたいのであり、
生きる目的や希望が見つけられれば
痛みや苦しみがあっても生きようとする可能性があるのだということを
Perryさんの翻意こそが物語っているのでは?

1つの偶然が起こらなかったら、
2月26日に自殺していた人が
1つの偶然のおかげで、
今は死ぬのをやめて生きるといっている──。

支援という言葉は、やはり
「死ぬ」と言っている人が「生きる」と言える可能性を
共に見つけようと寄り添う方向に使われてほしい。

【4月10日追記】
Perryさんのインタビュー記事。
http://cbs2chicago.com:80/topstories/Final.Exit.Kurt.2.981473.html


2009.03.19 / Top↑
去年12月に 議会が通した安楽死法案に大公が署名を拒否してニュースになっていたルクセンブルクで

その後、議会が憲法改正によって大公から拒否権を奪い、
火曜日16日に安楽死法案を成立させた、とのこと。

安楽死はリビング・ウィルまたは事前意思指示によって定められ
ターミナルな段階の病気があって、なおかつ「重篤で不治な状態」にあることを
医師らは他の同僚と相談することなどが条件付けられている。

ヨーロッパでの安楽死合法化は
オランダ、ベルギーに次いで3番目。

Luxembourg Legalizes Euthanasia
LifeSiteNews.com, March 18, 2009
2009.03.19 / Top↑
久々にAshley事件について新発見。

WPASの調査報告書のシアトル子ども病院との合意内容を読んで
ずっと頭に引っかかっていることの1つに、

発達障害児への成長抑制は裁判所の命令なしに行わないとの項目の中に、
「病院はWPASと協議した上で2007年9月1日までに病院としての方針を採択する」と書かれているのです。
(WPAS報告書 P.25)

ところが、その9月を過ぎても、まったくそういう話が出てこなかった。
どうなっているのか確認するすべもないまま、
もう1年以上ずっと引っかかっていたのですが、

ネットをごそごそしていたら、ひょっこりと関連文書に出くわしました。
子ども病院の方針に関する公式文書2つ。

①未成年の不妊手術に関する方針
http://www.napas.org/ashley/Sterilization-of-Minors.pdf 

②発達障害のある患者への成長抑制介入に関する方針
http://www.napas.org/ashley/Growth-Limiting-Interventions.pdf

ただし、
①の未成年の不妊手術に関する方針の方は
2007年10月29日に起草、
Medical Executive Committeeによって11月15日に承認され、
翌16日に改定された上で病院長、副病院長兼総看護師長、副病院長兼医療部長の3名が署名して
採択されていますが、

②の「発達障害のある患者への成長抑制介入」に関する方針の方は
2008年4月11日に起草されたまま、
Medical Executive Committeeの承認欄も
病院長らの書名欄も空白のままなのです。

これは一体どういうことなのか──?

シアトル子ども病院は
不妊手術に関してのみ予定よりも2ヶ月遅れで方針を採択したものの、
成長抑制(ホルモンによる成長抑制、乳房芽切除など)については
当初の合意を翻したということなのでは?

しかし、病院は2007年5月16日の記者会見でのプレスリリースでも、
このようなことが二度と起こらないように新たなセーフガードを導入すべく検討中として、
ホルモン療法による身長抑制についても、乳房芽または子宮摘出についても
裁判所の命令なしに行わないことを明確にセーフガードに含めていました。

そもそも、その合同記者会見自体、
WPASと病院との合意を公式に発表したものなのだから、
その後もしも病院が部分的にせよ合意内容を覆すのであれば、
それは公に発表すべきことのはず。

最初から隠蔽ばかりやっている病院側はともかく、
WPASはこんな重大なことを公表もせず、
姑息にも病院側の設定したワーキンググループに加わって
なんでそうまでして病院の正当化のお先棒を担いでいるのか。

障害者の権利を守るという本分は、どこへ行ったんだ。恥を知れよっ。
2009.03.18 / Top↑