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英国の入院患者の4人に1人は退院しようと思えば可能なのに、地域での介護と看護が緊縮財政でカットされる不安から「ベッドふさぎ」をしている、と。:目先だけの予算削減策って、こんなふうに波及的な影響で結局はちっとも削減にならない……ってこと、多い気がする。それにしても前から思うけど「ベッドふさぎ」って、イヤな表現だ。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/29/hospital-patients-discharge-bed-blocking?CMP=EMCNEWEML1355

実際、英国の在宅高齢者支援は削減で、まったく受けられない人、ほとんど受けられない人が増えている、とAge UK。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/28/care-elderly-crisis-charity-warns?CMP=EMCNEWEML1355

英国で「隠れた介護者」発見に、スーパーの店員にも一役買ってもらおう、との動き。:確かにサービスに繋がっていない介護者の発見は大事だとは思うけど、これはやり過ぎでは? 
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/28/supermarket-staff-trained-identify-hidden-carers?newsfeed=true

ギリシアで食い詰めた親が子どもを棄てるケースが続出している。支援チャリティはこれから増えるぞ、と。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/28/greek-economic-crisis-children-victims?CMP=EMCNEWEML1355

オーストラリアで休暇中のビル・ゲイツがテニスをしてもニュース。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2079456/Anyone-tennis-Bill-Gates-enjoys-relaxing-day-court-festive-break-Down-Under.html?ito=feeds-newsxml

アフリカでミドル・クラスが急拡大。テクノロジーで自信をつけ自国文化にも誇りをもてるように。:でも、その一方で、貧富の格差は絶望的に広がっているんだろうな、と想像。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/25/africas-middle-class-hope-continent?CMP=EMCNEWEML1355

再生可能エネルギーはべつだんコスト高にはならない、との研究結果。
http://www.guardian.co.uk/environment/2011/dec/28/uk-switch-low-carbon-energy?CMP=EMCNEWEML1355

エジプト軍、収監された女性に「処女検査」していたとか。違法判決。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/27/virginity-tests-egypt-protesters-illegal?CMP=EMCNEWEML1355

[WAN的脱原発]シリーズの(10)に大橋由香子さんの「難しいことはわからないけど、母は強い? 『産むのが怖い』この時代に」。8月にもブクマしたから補遺でも拾っているかもしれないけど、ツイッターを機に再読して「弱いもの、小さいものの生命を守るゆえの女の遅い歩みを、差別の対象にしてきた男たちへの不信」という中野耕さんの引用がゴチックに見えた。障害のある子の母となり大学の仕事を手放した私が、今やっとネットという手段でモノを言えるようになると、男たちがあちこちからインネンをつけにやってくる。字面はともかく、そのメッセージはたいてい「医療職でもなければ学者でもない、ただのオバサンがエラソーな口を叩くな」。じゃぁ、その「地位ある男」が、どうして「ただのオバサン」の言うことに脅かされ、逆上し、ムキになるの? 
http://wan.or.jp/reading/?p=3964
2011.12.29 / Top↑
カナダの中でも独自に先進的な動きがあるケベック州では
以下のエントリーで眺めてきたように、去年から
尊厳死に関する特別委員会が州民の意見聴取を行っていました。

カナダ・ケベック州医師会が自殺幇助合法化を提言(2009/7/17)
スコットランド、加・ケベック州で自殺幇助について意見聴取(2010/9/8)


分析・公表しているのが安楽死反対グループなので、
そこのところがちょっと保留ではあるものの、
口頭でまたは文書で寄せられた427の意見の集計結果が報じられており、

安楽死をまあ支持してもいいと考える人と強く支持する人を合わせても34%のみ。

60%は安楽死への道を開くことに反対で、
99%が終末期の緩和ケアの重要性を認識。

Living With Dignityは、非常に重要な指摘をしています。

安楽死に賛成と述べた約3割の回答の中身を詳細に見ていくと、
コミッションにより死に至らせる積極的安楽死と
無益な治療を差し控えるオミッションによる消極的安楽死の区別がついていない人があり、

「支持すると答えた多くの人は、実際には過剰医療に反対しているのです」と
Living With Dignityの会長。

Submissions to Quebec committee overwhelmingly reject euthanasia, assisted suicide
The Interim, December 27, 2011


ずっと当ブログで書いているように
私は日本の終末期医療を巡る議論の一番の問題点もここなんじゃないかと思う。

多くの人が安楽死支持の発言を繰り返しているけれど、

「安楽死・尊厳死を認めましょう」という人が言っていることの中身は
「苦痛を与えるばかりで本人のためにならない過剰医療は止めよう」に思える。

それなら
過剰医療と、個々のケースでの慎重かつ丁寧なアセスメントと意思決定の問題であって、
安楽死の問題ではないのだから、

安易に「安楽死」や「尊厳死」を云々する前に
「過剰医療の問題」をきっちりと事実に基づいて議論するべきでは、と思う。


【関連エントリー】
在宅医療における終末期の胃ろうとセデーション(2010/10/6)
日本の尊厳死合法化議論を巡る4つの疑問(2010/10/28)
朝日新聞の「どうせ治らないなら延命はしませんよね、あなた?(2010/11/5)
「私は余計なことをせずに死なせてほしい(丁寧なケアはしてもらえないのだから)(2011/9/13)
2011.12.29 / Top↑
(前のエントリーの続きです。)


ケアラーへの影響

DSプログラムのサービスを利用した18653人のケアラーの内
5050人(27%)からアンケートによって情報を収集した。
10年以上、週50時間以上介護している高齢女性が中心で
上記のようにマイノリティや多様な障害・病気の人のケアラーを含む。

回答者の80%はこれ以前には数時間を超えるレスパイトの経験がなかったと回答。

NHSサポート・サイトでは介護者役割へのサポートを受けたことがない人が多かった。
健康チェック・サイトでは多くのケアラーが過去半年以内に医療職の診察を受けていたが
今回新たに全人的なアプローチで介護者の心の健康が強調されたことを喜んだ。

(注 health and well-beingをここでは心身の健康と理解・仮訳しました)

休息サイトのサービスでは
「自分自身の生活」を送りやすくなり自信を持てた、
心身の健康のために行動するようになったという報告があり、
3分の1が新たな余暇活動を始めていた。

また専門職とのコミュニケーションがよくなった、
ケアラーとしてどんな支援やサービスを受けられるか、よく分かった、の声があり、

レスパイトを利用しなかったケアラーでは心の健康スコアが悪化する傾向があった。

健康チェックは支援を受けたマイノリティの多くに好影響があった。
4分の1が自分の健康に対する見方が変わり、運動量が増えた、と回答。
ほとんどの人がその他のサービスに申し込みをした。
ただし、一部の回答で、健康チェック以外のケアラー支援が
適切に行われていることがまず必要との課題も浮き彫りに。


コスト・パフォーマンス

DSプログラムの目的の一つに
最もコスト・パフォーマンスのよいサービス提供方法を探る、というものがあった。
正確な測定はできないが、研究からはプログラムで導入されたケアラー支援の多くは
医療と福祉領域でのコスト削減に繋がる可能性があるとのエビデンスが得られた。

全国評価とローカル評価から、削減が見込まれるのは

・入院、施設入所の予防
・支援によりケアラー役割の維持が可能
・心身の健康の問題を早期に発見できる
・ケアラーの心身の健康の改善
・連携・協働ができやすくなる
・GPの診療の効率化によるコスト削減(? Efficiency savings in GP practices.)
・ケアラーの再就労または離職防止
・ケアラー間でのインフォーマルな支援ネットワークの構築


政策提言

1. いずれの地域でも地方自治体、NHS組織とボランティア団体とが連携し、効果的な介護者支援を共に開発し提供する努力が必要。

2. サービスの開発には、地域の介護者支援の連携に多様なケアラーを含めることが必要。

3. 広い範囲のケアラーに支援を届け、まだサービスに繋がっていないケアラーに手を届けるためには、地域の関係者の柔軟な連携と、時にはターゲット・グループの特性に応じて臨時の体制を組むことが必要。

4. 地域レベルでの効果的なケアラー・サポートには多様なメニューが含まれ、それが個々のニーズに合わせて変更可能であること。

5. ケアラー・サポートのメニューについては、地方自治体とNHS組織とボランティア・セクターや状況に応じてその他の団体の間での合意が必要。

6. 新たな診断や退院や外来受診時など患者に介護する人が付き添うことの多い場所を中心に、病院が新たな介護者を見つけ出しサポートするメカニズムを定常的に持つこと。

7. 全てのGPに診療を通じてケアラー・サポートのキーマンとなるスタッフを決めるよう奨励すべき。そのキーマンの協力によって介護者を見つけ出し、地域の適切なサービスに繋げ、そして介護していることによってケアラー自身が病院の予約を取りにくかったり治療を受けにくくなることがないよう保証する。

8. 病院、GP診療所、地方自治体、ボランティア・セクターにおいてケアラーと接する全てのスタッフは、介護責任がケアラーの心身の健康におよぼす影響に配慮できるよう研修を積み、ケアラーが心身の健康チェックを受けられるようアドバイスできなければならない。

9. すべての関係機関がスタッフに対して定期的にケアラー支援の啓発研修を行うべきである。
2011.12.29 / Top↑
2008年に「全国介護者戦略」が策定された際に
保健省が作った The National Carers’ Strategy Demonstrator Sites (DS) プログラムを
リーズ大学の介護と労働と平等の国際研究機関(CIRCLE)が検証するべく行った調査研究の報告書。

New Approaches to Supoorting Carers’ Health and Well-being: Evidence from the National Carers’ Strategy Demonstrator Sites programme
Edited by Sue Yeandle and Andrea Wigfield,
Center for International Research on Care, Labour & Equalities
University of Leeds


「全国介護者戦略」については、以下を参照 ↓
英国の介護者支援
英国のNHS検証草案と新・全国介護者戦略

DSプログラムとは、日本でいう「モデル事業」に当たるのではないか、と。
以下、訳語が不統一なままですが、Executive Summaryの内容を。
(ゴチックは Executive Summary の小見出しです)

          ―――――

全英25か所で1年半に渡り、
ケアラーへの新たな革新的サービスを提供したり、あるいは
現行の制度が効果的であれば、それを拡大したり、という試みが行われた。

25か所が3つの重点事業に分かれ、
それぞれに思い切った模索が行われた。

・休息(レスパイト):12か所。
認知症または精神障害のある人のケアラーのために特化した短期レスパイト事業。
在宅での代替ケアの想像力に満ちた利用。
極めて柔軟なアプローチにより個別的な休息の機会を提供。
オンライン予約も。

・健康チェック:6か所。
身体的健康チェックと福祉のチェックを、両者ともに、または単独で実施。
非医療職とボランティア団体スタッフの協働または後者のみを活用してチェックを実施。
自宅でのチェックや、コミュニティ・センターでのチェックも。

・NHSの枠組みでのケアラー・サポート策の改善:7か所。
病院とプライマリー・ケアでの介護者支援策として、
親しくなる(befriending)活動、ピア・サポート活動、スタッフ啓発研修、
情報・記録・紹介手続き・介護者アセスメントへのアクセスの改善。
特にGPや病院、クリニックを通じて未支援のケアラーを見つけ出すことを重視。


パートナーシップと多機関アプローチ

08年の全国介護者戦略のヴィジョンは
それまでの医療とソーシャルケアに大きな変革をもたらすもので、
DSにおいても、新たなサービスを開発することによって
それぞれの機関のスタッフの役割にも、
機関間、機関内での協働関係にも変化をもたらした。

特にボランティア・セクターやアウトリーチ活動の担当者では仕事量が増えたとか、
新規サービス導入への同僚からの抵抗があったなどの報告もあるが、
概ね、チームワークが良好となり、ケアラー支援への意識が高まり、
新たな活動や新たなスキルの開発に繋がるなど、よい影響がもたらされた。

いずれのサイト(モデル事業を引き受けた場所)でも
民間のボランティア・セクター、NHS組織、地方自治体が連携し、
それぞれの役割や責任を担った。

休息のサイトでは地方自治体が主導し、
NHSでの支援サイトではNHS組織が主導、
健康チェックではサイトによって主導するところが異なった。

これまで支援もサービスも受けていないケアラー・グループにアプローチするために
柔軟なインフォーマル支援ネットワークを作ったサイトもあった。

こうした3者の連携は
モニタリング・システムの改善、医療と福祉感の意思疎通ネットワークの改善、
さらにスタッフへの新たなケアラー支援啓発研修に繋がった。

連携の問題点としては、
手続き上の差異を埋める問題、
連携相手の資源へのアクセスの問題、
連携機関の取り組み姿勢の温度差
地元のボランティア団体では登録ケアラーが逃げることへの懸念、
事業参加が将来の資金獲得にマイナス要因となる懸念、
GPの取り組み姿勢の差(? differential engagement among GPs).


ケアラーを見つけ、関わりを作り、活動に参加させていくこと

25のサイトで支援を受けたのは総勢18653人のケアラー。
休息サイトで5655人、健康チェック・サイトで5441人、HHSサポート・サイトで7557人。
その他、28899人のケアラ―と接触したがサービスは受けなかった。

その多くは高齢女性。
民族マイノリティのコミュニティのケアラーや、
認知症、精神障害、慢性・ターミナルな病気、知的障害、薬物乱用の人のケアラーとも
うまく関わりを持つことができた。

当初はGPその他の医療職と繋がることが難しかったが、
特にNHSサポートと健康チェックでは、NHSスタッフとの連携が
うまくケアラーを探しだして関わりを持つカギとなった。

特に多くのケアラーを見つけて関わることができたサイトは
ターゲットとするケアラー・グループに応じてやり方を変えていた。

これまで支援サービスを利用したことがない人を対象にするパンフなどには
「ケアラー・介護者」という文言は使わない方がよい、と考えるスタッフが多かった。

ケアラーとの関わりを作るのに重要なのは連携とネットワーク。
ヤング・ケアラーでは学校、大学、ユース・センターとの連携アプローチが有効だったし、
民族マイノリティではボランティア・セクターのアウトリーチがよかった。

ケアラーとの関わりを作るには、
ウェブや広告、ポスター、パンフよりも、直接会って信頼関係を作る方がよかった。

全てのサイトが支援サービスの企画にケアラーを参加させ、
中にはプロジェクトの展開方法やサービス評価に参加してもらったサイトもあった。

ケアラーが参加することによって
福祉や医療の専門家にはない視点がもたらされて、
それまでは考慮されることのなかった問題が指摘された。

DSプログラムの大事な「遺産」として
ケアラーの参加をさらに発展させようとするサイトも。

(次のエントリーに続く。)
2011.12.29 / Top↑
まず、アシュリー事件のリサーチを通じて去年までに見えてきた
シアトルこども病院・ワシントン大学とゲイツ財団の関係について、以下にまとめました ↓

シアトルこども病院・ワシントン大学とゲイツ財団の密接な関係:グローバルな功利主義・優生主義医療の動き(2011/2/9)


ワクチン関連では、接種への強制が広がろうとしている↓
米国で「ワクチン打たないなら診てやらない」と医師ら(2011/7/6)
「ワクチン打たないなら診てやらない」の続報(米)(2011/9/27)
ゲイツ財団(の連携機関)が途上国の子どもに銃を突きつけワクチン接種](2011/7/29)
WA州が法改正でワクチン免除の条件を厳格化(2011/9/28)


ワクチン関連では日本でも今年はいろいろあった ↓
日本の「ワクチン産業ビジョンの要点」の怪(2011/3/8)
5月18日の補遺 (ゲイツ財団から武田製薬に大物が)
日本も13日のカンファでGAVIに8億3000万円を約束(2011/6/17)
子宮頸がんワクチンでの失神は「ドキドキするから」?(2011/8/5)
日本でもガーダシル導入へ、厚労省当該部会の議論の怪 1(2011/8/5)
JICA、ゲイツ財団とパキスタンのポリオ撲滅で“戦略的パートナーシップ”(2011/8/20)
やっぱり不思議な「ワクチン債」、ますます怪しい「途上国へワクチンを」(2011/9/4)


しかし、今年は批判の声もあり、「慈善」の背景がいよいよ見えてきた ↓
ゲイツ財団がコークとマックに投資することの怪、そこから見えてくるもの(2011/3/9)
ゲイツ財団はやっぱりビッグ・ファーマの株主さん(2011/3/28)
“プロザック時代”の終焉からグローバル慈善ネオリベ資本主義を考える(2011/6/15)
やっと出た、ワクチンに世界中からかき集められる資金への疑問の声(2011/6/16)
公衆衛生でマラリア死8割減のエリトリアから「製薬会社株主ビル・ゲイツのワクチン開発」批判(2011/8/2)
ゲイツ財団、ビッグ・ファーマ・ノバルティス役員の引き抜きへ(2011/9/12)


さらに今年、ゲイツ財団はモンサントと手を組んだ ↓
ゲイツ財団がインドで目論んでいるのはワクチン普及だけでなくGM農業改革も(2011/4/16)
「アグリビジネス」の後ろにはワクチン推進と同じ構図が見える(2011/10/5)
“大型ハイテクGM強欲ひとでなし農業“を巡る、ゲイツ財団、モンサント、米国政府、AGRAの繋がり(2011/10/27)
TPP進める経済界のトップ、やっぱりぐるっと廻って“ゲイツつながり”(2011/10/27)


その他、ゲイツ財団が今年、興味を示したのは例えば、

途上国向け、水を使わない衛生的トイレの開発。
途上国向け、栄養を強化したバナナの開発。
相変わらず途上国向け、革新的避妊法の開発 ↓
注目集めるインド発・男性向け避妊法、「女性にも」とゲイツ財団(2011/6/3)

教育のIT改革・生徒のパフォーマンスによる教師の評価・競争原理の導入
ゲイツ財団の米国公教育コントロール 1(2011/5/2)
ゲイツ財団の米国公教育コントロール 2(2011/5/2)

次世代原発の開発。
日本の原発事故を機にエネルギー問題について発言が続き、
中国政府と次世代原発の開発で連携を約束。
ゲイツ氏自身が立ち上げに関与した次世代原発開発ベンチャー
Terra Powerの営業活動?
2011.12.29 / Top↑
Ashley事件に関するこれまでのリサーチを取りまとめて
「アシュリー事件:メディカル・コントロールと新・優生思想の時代」という本を上梓しました。

Ashley事件には、2011年の後半は情報がまったく引っかかってきませんでしたが、
それが実際に何の動きも起きていないということなのか、
何かが準備されているということなのか、
水面下に潜ったということなのか……。

WPASとの合意がいったん切れる来年5月が要注意ではないか、と
私はちょっと警戒しているのですが。

まさにその懸念を深めるような妙な抗弁が4月に
シアトルこども病院の弁護士から出てきました。

子ども病院弁護士が「治療で儲かる病院には利益の相反があり裁判所に命令求められない」と大タワケ(2011/4/27)


その他、2011年前半までに引っかかってきた情報は
やはり大半が事件をめぐる論文や発表などアカデミックなリアクション。

米小児科学会関連雑誌に成長抑制WGの論文巡るコメンタリー(2011/3/2)
A事件は「ネオリベ型の力の行使で、医療により不具にしたケース」(2011/4/24)
HCRの成長抑制論文にBill Peace, Clair Royらが反論の書簡(2011/9/2)

スコットランド国立劇場の“Girl X”、Facebookde“A療法”論争(2011/2/1)


特筆事項として、今年は
A療法を最も鋭く批判したAlicia Ouelletteがその批判を生命倫理に拡大した著書
“Bioethics and Disability”を上梓。

なかなか読み終えることができずにいますが、
これまでのエントリーは

Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件:Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)
Ouelletteの「生命倫理と障害」:G事件と“無益な治療”論について(2011/12/17)ここから3本。
Ouellette「生命倫理と障害」:人工内耳と“Ashley療法”について(2011/12/19)ここから2本。
2011.12.29 / Top↑
② 上野先生は高齢者の「家族介護者」だけをイメージして話を進めていきながら、
障害者運動の当事者主権の考え方から学べと説いているように思え、
ここでもまた、障害児・者の家族介護者、つまり主として親(特に母親)は
置き去りにされているんじゃなかろうか。

この本の著者が見ているのは
育児と、高齢者介護と、自立した障害者だけなのでは……という気がする。

「育児ロボットを考えつく人はいないけど介護ロボットは考えつく人がいる」と
何度か繰り返されていたり(これについてはこちらのエントリーの後半で書いた)
「動物の世界に育児行動はあっても、高齢者介護はない」(P.105)など、

上野先生もまた、障害児・者の母親によるケアを
どちらかと言えば介護よりも育児寄りにイメージしている……?

そのためなのか、
子どもが何歳までが「育児」で、何歳から「介護」なのか、
または障害児の親によるケアは、どの部分が育児で、どの部分が介護なのか、と
私たち重症児の親が考え続けてきた問いは、ここには見あたらないし、

高齢者の「家族介護」以上に「ジェンダーまみれ」になっているはずの
障害児・者の家族介護者、例えば以下の記事で取り上げられているような母親たちは、
この本の中の、どこにも、いない……という気がした。

「介護の代わりいない」2割 重症心身障害者の家族に不安。岐阜県の調査(12月21日)


やっぱり「ケアの社会学」って、
“名誉男”として生きてくることのできたフェミニストの学者さんが
自らの高齢期を前に、もっぱら「介護される人」の側に自己同視して
団塊の世代が要介護者となる時代にあるべき介護保険の形を考えている本……?

もともとフェミニズムに怨念を抱える私が何より気に入らなかったのは、
介護は出来れば引き受けたくない負担だと書いたのは最首悟だけだ、と書かれていること。
父親だから書けても、母親には言えなくされていることがあるんじゃないだろうか。

岐阜の調査の記事に出てくるような母親は、
言えなくされている自分に気付くことすらできなくされているんじゃないのだろうか。

私の母親仲間の一人は「口が裂けても言えない」と言った。
「自分が寝たきりにでもならない限り許してもらえない」と言った人もいる。

私たち障害のある子どもを持つ母親は、
一体だれに”許して”もらわなければならないというの?

その”だれか”をこそ、
フェミニズムは糾弾してきたのではなかったの?

私たち母親は、ここでもまた置き去りにされている――。

そして、
今なお得られない”だれか”の”許し”に縛られた母親の”愛”に絡めとられてしまっている
重症心身障害のある私たちの子どもたちも「当事者主権」から置き去りにされている――。

             ――――――

私自身は、
障害・障害者に関わる問題を云々する時の「当事者」は
あくまでも障害のある本人だけだと考えているし、

つい「当事者」としての意識でモノを言いそうになる自分は
自分は親でしかないことを何度でも繰り返し自覚しなければならないとも思っている。

障害のある子どもの親は、
特に赤ん坊の頃から障害のある子どもとして育ててきた親は、
子育ての最初から何年もの長い間、「当事者」として専門家に対応することを迫られ、
世間に対しても、我が子を背中にかばい自分が向かっていく姿勢になることが多く、
どうしても「当事者」としての意識を持って生きざるを得ないだけに、
そうか、自分は「当事者」ではないのだ……と自ら気付くことは難しい。

それだけに、ある段階から後は、それに何らかの形で気付かせてもらい、
自覚しておく意識的な努力をすることが必要なのだと思う。

だから、障害や障害者の問題については「当事者」は本人だけだし
親は「当事者」ではなく、あくまでも「障害のある子どもを持つ親」として
何事かを語ろうとする際には、その違いを意識しておかなければならないと思うのだけれど、

こと、ケアの問題については
ケアされる人もケアする人も両方が等しく「当事者」ではないのか、と思う。

両者の間に力の不均衡と、利益の相克・支配―被支配の関係の危うさを孕みつつも、
両者はともに等しく、ケアの「当事者」ではないのだろうか。



【関連エントリー】
“溜め”から家族介護を考えてみる(2008/6/5)
子どものケア、何歳から「子育て」ではなく「介護」?(2008/10/18)
障害のある子の子育ては潜在的な家族の問題を顕在化させる(2008/10/20)
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
障害のある子どもの子育て、介護一般、支援について、これまで書いてきたこと(2010/3/15)
日本のケアラー実態調査(2011/6/14)

成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと(2009/1/28)
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと(2010/3/12)


これもまた、知識不足から全然理解できていないと思うけど、この本でも
著者が子育てと高齢者介護だけを念頭に論を展開しているように思えることが不満だった ↓

「ケアの絆―自立神話を超えて」を読む(2010/1/12)
2011.12.29 / Top↑
まず、前置きとして、
某日某所で聞いた介護者支援関連のシンポジウムで印象的だった場面を3つ。

① 何年か前には介護者支援の必要を訴えると
「要介護の本人が一番の弱者なんだから、介護する方がそんなことを言うべきではない」
と批判され聞いてもらえないのが常だったが、ようやく日本でも
介護者支援の必要が認識されてきた、という発言があった。

これは現在でも、
障害のある子をもつ親である私が介護者支援とか介護者の権利について語ると、
そういう反応を受けることはあるもんなぁ……と思いつつ聞いた。
「まず本人、介護者はその後」「親のくせに」などの感覚は、たぶん今だに根強い。

② あるパネリストが「“介護する権利”と同様に
“介護しない権利”も認められなければ」と発言したところ
即座に隣のパネリストが「そんなことを言ったら家族の愛はどうなる?」と反論する、
という場面があった。どちらも女性。

これって「夫婦別姓を認めろ」「そんなことをしたら家族が崩壊する」と
同じなんじゃないのかなぁ……と思いながら聞いた。

パネリストの女性では「介護しない権利」支持派が4人 vs 反対派が2人だった。

③ その後、男性介護者の問題に議論が移った際に、
男性は女性とは本来的に違っているので男性介護者に特化した支援が必要と考える人と
違うのは育てられ方や働き方によって社会的に作られてきたのだから
働き方を見直して男女同じ育て方をしようと主張する人とに
くっきりと分かれた。その分かれ方はちょうど上の4対2の逆転になっていたのも、
「2」の方々がそこで急にパワフルに発言し始めたのも、
2人とも「男女が違うことは科学的に証明されている」と主張するのも
なかなか興味深かった。

ちなみに、この問題について私の考えはこちら ↓
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)


――そういう体験をした直後に読み始めたので、

上野千鶴子先生の「ケアの社会学-当事者主権の福祉社会へ」の冒頭、6ページ目にして
ケアの人権アプローチを採用するとして以下の4つの権利が挙げられているのを見た時には
あー、なるほど「強制されない権利」ね、と納得すると同時に、
「ほらー、やっぱりー、これを見てみろ―」という気分だった。

(1) ケアする権利
(2) ケアされる権利
(3) ケアすることを強制されない権利
(4) (不適切な)ケアされることを強制されない権利


その後の本文によると、これは誰かしら外国の学者さんが提唱した3つに
上野先生が4を追加し、修正版に改良したものだとか。

とはいえ、私はこんな本を読みこなせるほどの教養はないので
正直なところ、ほとんどの部分ちゃんと理解できたとは思わないし、

後半はほとんどつまみ読みだったし、
(鷹巣町の“その後”と、外山義ユニットケア研究批判は面白かった)

加えて私にはミュウの幼児期からの
「フェミニズムは障害児の母親を置き去りにしてきたじゃないか」という
根深い怨念があるから、最初からナナメに読んでいるのかもしれない。

なので、ここでは一つだけ、
介護する者の立場で考えてきた、介護する者とされる者の関係についてのみ
読みながら、ずっと漠然と引きずっていた疑問のいくつかを、
これから私自身が考えるための整理・メモとして、書いてみる。

① 上野先生は、ケアされる側のニーズを一次的ニーズ、
ケアする側のニーズを二次的・派生的ニーズとし、それに基づいて
ケアされる側を一義的なニーズの帰属先、
従って「当事者」とはケアされる者のこと、とする。

その理由としては、
ケアされる側のニーズはケア関係から離れてもなくならないが、
ケアする側のニーズは、ケア関係に留まることによって初めて生じる二次的ニーズ。

ケアする側とケアされる側には圧倒的な力の不均衡があり、
ケアする側のニーズはケア関係から退出すればなくなる性格のものであるのに対して
ケアされる側は命にかかわるのでケア関係から退出することはできないという
不平等が存在する。

一応、上野先生は、家族介護が事実上の強制労働となっている場合には
家族は例外として「当事者」としての正当化ができないわけではないと書きつつ、
しかしそれであっても一次ニーズと二次ニーズとは区別すべきだ、と説く。

その根拠は
現状では本人と家族の利益の相反の中で家族の利益やニーズの方が優先されているから
「家族は愛の名において、障害当事者の自立生活に立ちはだかった」から。
家族は「おまえのために」を装いつつ自分自身の利害をニーズとして優先してきたから。

ここで上野先生は
家族介護者を例外的に「当事者」に一旦は含めつつ、
両者の間の不平等、家族介護では介護する者のニーズが優先されてきたことを理由に、
介護される者のニーズの方が優先だと説いて、
再び家族介護者を「当事者」から締め出しているように、私には見える。

一次的ニーズと二次的・派生的ニーズの違いを区別することは理解できるし、
介護する者と介護される者との間には利益の相克と支配・被支配の関係リスクがあることは
Ashley事件から当ブログでずっと考えてきたことそのものだから了解している。

私に分からないのは、上野先生が
それら2つを両者のニーズの「優先順位」の問題に横滑りさせているように思えること。

ニーズの生じ方・性格が違うこと、両者の利益や権利に相克があることは
常に意識されているべきだと私も思うし、
介護する側のニーズが優先されてきた問題も重大だと思うけれど、
だからといって、それは、そのまま「だから介護される人のニーズが
介護する人のニーズよりも優先」と直線的に言えることではないと思う。

介護される人と介護する人のニーズは「優先順位」や「後先」で考えるようなものではなく、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況の中で
両者ともに合わせ考えられるべきものなんじゃないのだろうか。

長年、寝たきりの我が子をずっと在宅でケアしてきて、
介護負担を含む諸々の事情からウツ病になった親や、
ヘルニアになって日常生活にも不自由している親が
病院受診さえままならず介護を続けているとしたら、
その親のニーズはどこまでが二次的ニーズで、どこからが一次的ニーズなんだろう?

うつ病になった時点で、
その人にはうつ病患者としての一次的ニーズが発生していると思うのだけど、
介護負担が発症に関わっていたら、その人のうつ病患者としてのニーズは二次的なものでしかないのか。

逆に、障害のある親の子どもはヤング・ケアラーになる可能性があり、
親への支援と同時にヤング・ケアラーとして子への支援も必要だという問題が
日本ではあまり意識されていないことが私はちょっと気になっているのだけれど、
「ヤング・ケアラーとしての子への支援」の必要を認識し、それを訴えることは
「障害のある親への子育て支援」の必要を否定することになるのだろうか。
それらを共に必要なものとして説くことはできないのだろうか。

私としては、それらは「まずこちらが満たされて後に、次にこっちね」とか
「こちらの方が重要性が上で、その次にこっち」といった優先順位の問題ではなく、

両者のニーズの性格の違いや、両者の間にある力の不均衡や
これまで介護する者のニーズが優先されがちだったことは十分に意識しつつ、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況や事情の中で、
両者のニーズ共にすべてが同時に平らに並べられ、
共に十分に考慮されて問題解決の方策が探られるべきもの、では、と思うのだけど……。
2011.12.29 / Top↑
【科学とテクノで簡単解決】
「耳の形でイジメられると可哀そうだから」と7歳少女に整形手術で“イジメ予防”(2011/4/16)


【最先端医療】
欧州司法裁判所、「ヒト胚を使った研究成果に特許認めず」を堅持(2011/10/25)
脳画像が「責任」判断の証拠として採用される米国の法廷……「そんなの無理、無理」とガザニガ(2011/11/3)
米国初のヒト胚幹細胞による脊損治療実験、突然の中止(2011/11/17)


【生殖補助医療】
グローバル化が進む“代理母ツーリズム”(2011/1/29)
亡き夫の精子は妻の“財産”(豪)(2011/5/24)
ナイジェリアの“赤ちゃん工場”摘発(2011/6/2)
英国女性が娘に子宮提供を決断、OK出ればスウェーデンで移植手術(2011/6/14)
「死んだ娘の卵子を採取・冷凍したい」裁判所が認める(イスラエル)(2011/8/11)
依頼者が代理母にメールで「離婚したから引き取れない」、生まれた双子は養子に(2011/9/17)


【ビッグ・ファーマ・医療機器会社】
「製薬会社に踊らされて子どもの問題行動に薬飲ませ過ぎ」と英国の教育心理学者(2011/1/18)
学会が関連企業相手にショーバイする米国の医療界(2011/5/11)
1つの病院で141人に無用な心臓ステント、500人に入れた医師も(2011/5/15)
“プロザック時代”の終焉からグローバル慈善ネオリベ資本主義を考える(2011/6/15)
ProPublicaの製薬会社・医療機器会社と医師との金銭関係調査アップデート(2011/9/9)
ジェネリック薬を売らせないビッグ・ファーマの「あの手この手」が医療費に上乗せられていく(2011/11/15)


【治験スキャンダル】
マーケティングだから被験者が死んでもスル―される「タネまき治験」(2011/8/12)
タスキギだけじゃなかった米の非人道的人体実験、グァテマラでも(2011/6/9)
米の科学者ら、非倫理的だと承知の上でグァテマラの性病実験を実施(2011/8/31)
“HIV感染予防ゼリー、”効果確認できず大規模治験が中止に(2011/12/10)


【ワクチン】
米国で「ワクチン打たないなら診てやらない」と医師ら(2011/7/6)
日本初、HPVワクチン接種後に14歳の中学生が死亡(2011/9/21)
HPVワクチン、男児にも定期接種が望ましい、とCDC(2011/10/26)
ガーダシルは「子宮頸がんだけじゃなく性器イボも予防」と英国政府がサーバリクスから乗り換え(2011/11/25)
2011.12.29 / Top↑
【日本】
初の子ども脳死移植「少年」は自己死ではなく自殺だった!?(2011/4/22)
「脳死・臓器移植Q&A50 ドナーの立場で“いのち”を考える」メモ(2011/11/3)


【中国の死刑囚からの摘出問題】
A・Caplanが、死刑囚の臓器に依存する中国の移植医療ボイコットを呼びかけ(前)(2011/10/12)
A・Caplanが、死刑囚の臓器に依存する中国の移植医療ボイコットを呼びかけ(後)(2011/10/12)
「囚人を臓器ドナーに」は実施面からも倫理面からもダメ、とCaplan論文(2011/10/14)
政治犯から生きたまま臓器を摘出する「新疆プロトコル」(2011/12/13)


【闇売買】
イスラエルの貧困層から米国の富裕層へ、腎臓を闇売買(2011/10/29)
ウクライナで広がる闇の臓器売買(2011/10/29)
エジプトでアフリカ難民から生きたまま臓器を採って闇売買(2011/11/7)


【過激化する臓器不足解消策】
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
「執行後に全身の臓器すべて提供させて」とOR州の死刑囚(2011/3/6)
Harris「臓器不足排除が最優先」の売買容認論は「わたしを離さないで」にあと一歩(2011/4/8)
「HIV感染者の臓器を移植に」と米国の移植関係者(2011/4/13)
映画「ジェニンの心」:イスラエル兵に殺されたパレスチナの少年の臓器をイスラエルの子どもに移植(2011/4/14)
ドナー家族をレシピエントと対面させて祝福セレモニー:NYドナー・ネットワーク(2011/5/21)
WHOが「人為的DCDによる臓器提供を検討しよう」と(2011/7/19)
UNOSが「心臓は動いていても“循環死後提供”で」「脊損やALSの人は特定ドナー候補に」(2011/9/26)
「DCDで生命維持停止直後に脳波が変動」するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”(2011/11/24)
「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?(2011/11/24)


【資料】
これまでの臓器移植関連エントリーのまとめ(2011/11/1)
臓器移植を受けた人では発がんリスクが2倍(JAMA)(2011/11/3)
2011.12.29 / Top↑
主要な“無益な治療”訴訟はやはり今年もカナダで起きていて、

【Maraachli事件】
1歳児の「無益な治療」で両親が敗訴(カナダ)(2011/2/24)
2011年3月1日の補遺(2011/3/1)
2011年3月5日の補遺(2011/3/5)
呼吸器外し命じられたカナダのJoseph君、セントルイスの病院へ(2011/3/15)
A事件繋がりのRebecca DresserがMaraachli事件で「コスト懸念で類似の訴訟はこれから増える」(2011/3/17)
Peter SingerがMaraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
Joseph Maraachliくん、気管切開し自宅に戻る(2011/4/30)
Joseph Maraachli君、死去(2011/9/29)

【Ras(z)ouli事件】
「“治療停止”も“治療”だから同意は必要」とOntario上位裁判所(2011/5/17)
「患者に選択や同意させてて医療がやってられるか」Razouli裁判続報(2011/5/19)
カナダのRasouli事件、最高裁へ(2011/12/23)


【米国の動き】
NJ州、テキサス式“無益な治療法”は採らず(2011/6/23)
TX州の「無益な治療」法改正法案、死す(2011/5/25)
テキサス州で14歳の脳腫瘍患者めぐり、新たな“無益な治療”事件(2011/7/3)
米のNICUで治療停止による死亡例が増加(2011/7/11)

米国では移民がターゲットになる事件が目立ってきている ↓
延命停止に不同意の家族からは決定権はく奪、病院推薦の代理人が同意(2011/3/6)
家族から代理権をはく奪して中止された移民女性の栄養、法律家らの提訴で再開(2011/3/13)
「医療費を払えないなら呼吸器依存の移民は自国に帰って」とアリゾナ州の病院(2011/9/30)


【英国の動き】
ロンドンの保護裁判所、植物状態女性の栄養と水分停止を認める:Tony Bland判決(1993)基準に(2011/8/4)

英国では特に一方的なDNR指定が問題化してきている ↓
肺炎の脳性まひ男性に、家族に知らせずDNR指定(英)(2011/8/3)
「本人にも家族にも知らせず“蘇生無用”」はやめて一律のガイドライン作れ、と英国で訴訟(2011/9/15)
高齢者の入院時にカルテに「蘇生無用」ルーティーンで(英)(2011/10/18)
高齢者には食事介助も水分補給もナースコールもなし、カルテには家族も知らない「蘇生無用」……英国の医療(2011/11/14)


その他、今年問題になったこととして ↓

【植物状態・脳死からの“回復”例の報告】
またも“脳死”からの回復事例(豪)(2011/5/13):この段階までの回復事例を取りまとめたリンク一覧あり
NZで「無益な治療」論による生命維持停止からの回復例(2011/7/17)
臓器摘出直前に“脳死”診断が覆ったケース(2011/7/25)
睡眠薬で植物状態から回復する事例が相次いでいる:脳細胞は「死んで」いない?(2011/8/31)
アリゾナで、またも“脳死”からの回復事例(2011/12/24)


【注目議論】
Savulescuらが、今度はICUにおける一方的な「無益な治療」停止の正当化(2011/2/9)
Savulescuが今度は「“無益な治療”論なんてマヤカシやめて配給医療に」(2011/9/15)

トリソミー13の新生児に心臓手術を認めた倫理委の検討過程 1(2011/11/20)
トリソミー13の新生児に心臓手術を認めた倫理委の検討過程 2(2011/11/20)
利益がまったくない心肺蘇生を親が諦めないケースでの倫理委の検討過程(2011/11/20)

Truogの「無益な治療」講演(2011年11月10日)前(2011/12/15)
Truogの「無益な治療」講演(2011年11月10日)後(2011/12/15)


【資料】
Thaddeus Mason Popeの「無益な治療」訴訟一覧(2011/5/22)
2011.12.29 / Top↑
安楽死・自殺幇助関連では、

まず、一番ショッキングな話題は、
去年Savulescuの「臓器提供安楽死」論文で言及された
「安楽死後臓器提供」がベルギーで行われた事実が確認されたことと、
オランダで進行した認知症の女性に積極的安楽死が行われたこと ↓

ベルギーの医師らが「安楽死後臓器提供」を学会発表、既にプロトコルまで(2011/1/26)
ベルギーの「安楽死後臓器提供」、やっぱり「無益な治療」論がチラついている?(2011/2/7)
「IC出せない男児包皮切除はダメ」でも「IC出せない障害新生児も認知症患者も殺してOK」というオランダの医療倫理(2011/11/12)

その他、↓

【カナダ】
今年ここが一番、合法化圧力が高まった気がする。

カナダの法学者「自殺幇助合法化は緩和ケアが平等に保障されてから」(2011/2/5)
カナダで自殺幇助合法化を求め市民団体が訴訟(2011/4/27)
カナダ王立協会胃の終末期医療専門家委員会が「自殺幇助を合法化せよ」(2011/11/16)
カナダ王立協会報告書、自殺幇助は「自己決定」で一方的“無益な治療”停止には「教育」のダブルスタンダード(2011/11/17)


【米国】
動きが目立っていたのは、来年の合法化住民投票に向けてキャンペーン展開中のMA州。
その他、補遺などから推測すると、合法化への圧力が目立っているのは
CA州、HI州。WI州もあったような。WA州からは「尊厳死法拡大を」の声。

MA州で自殺幇助合法化めぐり住民投票を求める動き(2011/8/25)
MA州医師会が自殺幇助合法化反対を確認(2011/12/6)

そんな中、こんな州もあった ↓
Idaho州、自殺幇助を法で明確に禁じる(2011.4.8)
VT州、自殺幇助合法化せず、公費による皆保険制度創設へ(2011/5/10)

それからDr. DeathことKevorkian医師が死去。
K医師、98年に自殺幇助した障害者の腎臓を摘出し「早い者勝ちだよ」と記者会見(2011/4/1)
Kevorkian医師、デトロイトの病院で死去(2011/6/4)
Kevorkian医師の“患者”の6割はターミナルではなかった?(2011/6/6)


【英国】
Dignitas関連やガイドラインで不起訴になる事件も議論も続いているけれど、
とくに大きな動きがあったというよりも、ジワジワと既成事実化されている感じ。
それを象徴するのが以下のニュース?

中高の授業でDr. Deathが自殺装置を披露する「教育ビデオ」(英)(2011/4/17)


【スイス】
ここ数年検討されてきた“自殺ツーリズム”規制は、住民投票の結果、断念 ↓
スイス政府、“自殺ツーリズム”規制を断念(2011/7/1)

他に、精神障害者への自殺幇助容認議論(08年に合法判決あったのだけど)↓
双極性障害者の自殺希望に欧州人権裁判所「自殺する権利より、生きる権利」(2011/1/28)
スイスで精神障害者への自殺幇助容認議論(2011/3/1)


【フランス】
フランス上院が自殺幇助合法化法案を否決(2011/1/27)


【ドイツ】
ドイツ医師会、自殺幇助に関するルール緩和し、判断を個々の医師にゆだねる(2011/2/20)


【関連エントリー】
2009年を振り返る:英国の自殺幇助合法化議論(2009/12/26)
2009年を振り返る:英国以外の国の自殺幇助議論(2009/12/26)
2010年のまとめ:安楽死・自殺幇助関連のデータ・資料(2010/12/27)


2011.12.29 / Top↑
ビル・ゲイツ、今度は途上国のために栄養を強化したバナナの開発に。
http://www.gizmodo.com.au/2011/12/bill-gates-modifying-bananas-for-the-third-world/

ビル・ゲイツが立ち上げに関与した次世代原発ベンチャー Terra Powerに長者さんたちの資金が集まっている。ゲイツ財団は中国政府と次世代原発開発で連携を確認したばかり。
http://www.businessweek.com/news/2011-12-23/billionaire-ambani-invests-in-gates-funded-nuclear-company.html

米国人の3分の2がどこかのチャリティに寄付をしている。その総額は2250億ドルに達し、その4分の1はクリスマス・シーズンに集中しているとか。で、今年あらわになった1% vs 99%という区分で仕分けしてみると、スーパーリッチの慈善で出てくる金額は99%が出している金額に及ばないって、それって、どーゆーことよ? ……という記事なんではないかと思う。タイトルと最初の数行から想像すると。
http://indypendent.org/2011/12/24/occupy-giving-why-do-1-give-less-rest-us

「慢性疲労症候群にウイルスが関与」とした論文をScience誌が削除。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/study-linking-virus-to-chronic-fatigue-syndrome-retracted-amid-controversy/2011/12/22/gIQADvc6BP_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

米国の鎮痛剤の過剰投与による死者は場所によっては覚せい剤による死者よりも上回っている。ここにも大物研究者とビッグ・ファーマの癒着の構図。2本目の記事の冒頭で名前が挙がっているのはDr. Scott FishmanとDr. Perry Fine。
http://www.propublica.org/article/the-champion-of-painkillers
http://www.propublica.org/article/two-leaders-in-pain-treatment-have-long-ties-to-drug-industry

23日にNZでまた大きな地震が起きている。:日本への影響が気になる。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/23/new-zealand-earthquake-christchurch?CMP=EMCNEWEML1355

フランスベッド、横移動できる車いす「サイドウェイ」
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C9381949EE0E0E294E38DE0E0E3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2
2011.12.29 / Top↑
21歳のアリゾナ大学の学生 Sam Schmidさん。

10月19日に事故で意識不明となり、
脳死と診断されて家族も臓器提供に同意した後で、
生命維持装置取り外しの直前に、突然、指示に従うようになった。

最初は指を動かす程度だったが、みるみる回復して
現在は歩行器を使って歩き、ゆっくりながら話すことができる。

医師は仰天している、と。

‘Brain dead’ student wakes from coma
Azfamily.com, December 23, 2011


仰天している、というけど、
それは自分たちが誤診していたということなんでは……?

今年はなんだか植物状態や脳死からの回復事例のニュースが
あれこれと目についたのが印象的だった。

一応、5月に以下のエントリーにこれまでの関連をまとめましたが、

またも“脳死”からの回復事例(豪)(2011/5/13)

その後もニュースはあったので、それらも含めて近く「2011年のまとめ」エントリーを立てます。


【25日追記】
上記は昨夜、時間的な余裕がないまま1つの記事だけで書いたのですが、
もうちょっと複雑な経過ではないかとのご指摘と
以下の追加情報をある方からいただきました。

まず訂正しておきたいこととして、上記の記事に書かれている
「脳死と診断されて臓器提供に家族が同意した」というのは事実ではないようです。
脳死と診断されてはいませんでした。

以下の記事にある母親の証言では、
臓器提供をはっきりと求めた人は誰もいなかったがQOLのことを暗にほのめかされたので、
「いずれ決断しなければならないのだろうと思っていた」という状況だったようです。

それから、Schmidさんがヘリで大きな病院に運ばれた際に手術をしたのは
今年、銃撃されて奇跡の回復を遂げたと話題になったギフォーズ議員の
手術を執刀したドクターの指導教官だったというSpetzler医師。

このSpetzler医師が、
いよいよ生命維持装置を切ろうという時になって、
なんとなく予感があったので、もう一回だけMRIを撮ってみよう、と言いだして、
それで脳死になっていなければ一週間だけ生命維持を続行しましょう、と家族に提案。

S医師には、本人の状態からすれば、どうにも希望はないように見えるものの
当初のMRIで何も致命的なものがなかったことが、引っかかっていたようです。
それが「もう一度MRIを撮ってみよう」という思いつきにつながった。
そしてMRIを撮った日の内に、Schmidさんは指示に従って指を動かして見せた。

手術の時に動脈瘤をクリップしたのが功を奏したのではないか、と言い、
Schmidさんは完全に回復するだろう、と。


ちょっと気になるのは、
「脳死」だとはっきり診断されてもいなかったし、
臓器提供の話もはっきりとは出ていなかった、それでも、
生命維持装置のスイッチを切ろうという話が出ていたこと。

この点について、Spetzler医師は
自分以外の人たちがこの患者から生命維持を中止することを考えたのは
それはそれで「理にかなった」ことだったと語っており、
ここでは脳死・臓器移植よりも“無益な治療”判断の方を思わせます。

というか、むしろ、脳死診断や臓器提供への働き掛けと無益な治療判断とが
すべて現場の医療者それぞれの姿勢によって渾然としたグレー・ゾーンになっている、
という可能性がうかがわれるのかも……?

そうしたことも考えるにつけ、Spetzler医師の以下の発言が印象的です。

Ever the scientist, Spetzler wasn't willing to speculate what a comatose patient hears. But he admits, "There are so many things we don't understand about the brain and what happens at the time someone is near death."

科学者としては、昏睡状態にある患者の耳に何が聞こえているか推測でものを言いたくないと言いつつも、「脳についても、人が死に瀕している時に何が起こっているかということについても、我々にはわからないことが沢山ある」

2011.12.29 / Top↑
当ブログで追いかけてきたRasouli“無益な治療”事件で、

2011年6月の「治療の停止も治療である以上、同意は必要」との上訴裁判所の判決に対して
医師らの上訴が認められ、最高裁へ――。

お馴染み「無益な治療ブログ」のThaddeus Popeは
「世界で最も重大な意味を持つ無益な治療の司法判断になるのでは」と。

Rasouli Case Will Be Heard by Supreme Court of Canada
Medical Futility Blog, December 22, 2011/12/23


【関連エントリー】
「“治療停止”も“治療”だから同意は必要」とOntario上位裁判所(2011/5/17)
「患者に選択や同意させてて医療がやってられるか」Razouli裁判続報(2011/5/19)

(さらにいくつかの補遺に続報あります)
2011.12.29 / Top↑
PruPublica。ナーシング・ホームを中心に、高齢者が死亡した際に医師が遺体を見ることすらなしに自然死として死亡診断書を書き、虐待や劣悪な介護によるネグレクト、時には殺人までが闇に葬られている米国の実態。調査によると死亡診断書の半数で死因が間違っていたり、アーカンソー州で自然死とされた6遺体を掘り起こしてみたら、4人が窒息死、2人は医療過誤だった、ということも。葬儀屋が痣だらけで肋骨が何本も折れた遺体に気づいて通報したケースでは死因が「アルツハイマー病で衰弱」となっていたり(このケースでは施設職員に足蹴にされて折れた肋骨が肺に刺さって死亡していた)。診断書を書く医師にも「まぁ、どうせ施設入所の高齢者」意識があり、検死官側にも「ただでさえ忙しいのに、これ以上高齢者の解剖を持って来られたくない」意識があり、総じて社会全体に高齢者差別がある。:私たちが向かっていこうとしていのも、こういう空気の中で「それはそれ」「これはこれ」で「死の自己決定権」が喧伝される社会。そのうち「施設に入ったら職員に殴り殺されて、闇に葬られるから、それよりも自殺幇助を」という理屈になっていくのかしら。Ashley療法の子宮摘出の正当化の1つは「施設入所することになったらレイプされるから、妊娠しないように」だった。
http://www.propublica.org/article/gone-without-a-case-suspicious-elder-deaths-rarely-investigated

昨日の補遺で拾った、フランスのPolyl Implant Prothesesの欠陥豊胸インプラントの問題で、英国の患者25人が使用した英国の6クリニックを訴える、と。少なくとも6カ国で多数の女性に使用されており、懸念が世界に広がっている。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/21/british-women-sue-breast-implants?CMP=EMCNEWEML1355
http://www.nytimes.com/2011/12/22/health/health-fears-over-suspect-french-breast-implants-spread-abroad.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha22

日本語。大手マクドナルド社が南米最貧国ボリビアで破産したワケ。これ、これと関係していると思う。 ⇒ ゲイツ財団がコークとマックに投資することの怪、そこから見えてくるもの(2011/3/9)
http://www.latina.co.jp/topics/topics_disp.php?code=Topics-20111222114246

「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」の谷口輝世子さんが、ブログにちょっとガハハな記事を。なににつけ、子どもの頭越しに大人同士で話や段取りが決まってくところ、まるで飼い主が犬の管理をするかのごとし。犬と同じように子どもを監視・管理させられる親。:それぞれが書いたものを読みながら触発し合って、谷口さんは子育ての視点から、私は科学とテクノの簡単解決文化の視点から、お互いに米国の管理社会に考えを深めていける体験がここ数日、面白く楽しかった。今回の谷口さんの記事から私が頭に浮かべたのは、子どもへの体罰を禁じていない州が20もあるということと、こういう感覚は「女・子どもは……」という意識にも繋がりやすいような気がするので谷口さんが書いておられる「私の管理をするのは誰なのかしら」に「夫」と答える人もいそうだろうなぁ、というのと、でもこれはやっぱり夫も含めて国家なんだろうなぁ、ということ。それからP・シンガーやTH二ストたちの動物と人間を知的能力に応じて直線状に並べてみる感覚。そういえばJames Hughesのサイボーグ社会の“市民権”では「人間の子ども」と「大型類人猿」は同じカテゴリーに入れられていたなー。07年にはTH二ストの言うことは日本人の大半にとってトンデモだったと思うのだけど、今の日本では共感する人が案外に増えているような不気味な感じがある。
http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20111221

日本語。米国人女性5人に1人が強姦被害、4人に1人がDV被害 全米調査:日本でも「レイプくらい」のような感覚はじわじわと広がっている。これも上で触れた「子どもの体罰は親の権限の内」感覚と繋がっていそうな「女房子供の躾は家長たる男の責任」意識の広がりを思わせられる。社会の保守化で? それとも経済状況の悪化で? というか、何もかもが絡まり合って、そちらに向かってなだれ込んでいくみたいな世の中の急速な変化。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2845994/8202281

英国、養子縁組の手続きを見直し、手続きに時間がかかるために海外からの縁組が増えている問題の解消へ。
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/dec/22/adoption-system-overhaul-planned?CMP=EMCNEWEML1355

介護者たちの共感の場が家族の力を育てる:日本の介護者支援もあちこちで始まり、根付き始めているんだなぁ、と改めて。ただ、この記事を読むと、介護者の集まりが終末期医療差し控えへの誘導の場になる可能性について考えさせられた。とはいえ、私は口だけで何もしてないから、何も言う資格はないのかも。
http://lohasmedical.jp/news/2011/05/23162622.php

日本。親亡き後の障害者の生活、弁護士らが支援組織。:いい話なんだけど、ただ、これみんな、介護・介助があって、その先の話のような気はする。
http://ubenippo.co.jp/2011/12/post-2481.html
2011.12.22 / Top↑
ターミナルな患者に余命を聞かれても、医師は答えるのに窮するんだとか。http://www.washingtonpost.com/national/health-science/when-terminally-ill-patients-ask-how-long-they-have-doctors-find-it-hard-to-say/2011/09/23/gIQALTzm4O_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

日本で議連が尊厳死法制化へ向けて法案提出の準備を進めている。:ある方から法案そのものをいただいたけど、それを読んでも「死が間近な状態」が定義されていない。上のWPの記事(タイトルとリードしか読んでいないけど)を考えても、定義なしにこんな文言で2人の医師でOK……はないんでは?
http://www.tax-hoken.com/news_To9jjapUu.html

2007年から追いかけている米国女性によるNZ女性Wallisさんの出張自殺幇助ビジネス事件の続報。Wallisさんが自殺した場に居合わせたことが去年1月のFBIの聴取で確認され、今後NZに入国すれば逮捕される。これは目立たない小さな事件みたいだけど、07年段階で早くもこんな事件があったことは重大。死の牧師Exooの弟子だった女性が、独り立ちしてビジネスにしていたもの。
http://www.stuff.co.nz/auckland/local-news/6163605/American-woman-assisted-Kiwi-suicide

【関連エントリー】
闇の安楽死つかさどる牧師 George Exoo(2008/5/29)
“闇の安楽死”でNZの女性が自殺(2008/5/29)
NZのうつ病女性の自殺幇助で米女性を起訴か(2009/7/26)
ウツ病女性の“闇の商業安楽死”でNZ警察が米国人女性を起訴(2010/3/27)


「介護の代わりいない」2割 重症心身障害者の家族に不安。岐阜県の調査。:ちょっと前にもどこかの県で同様の調査があった。やっとこういう実態把握が行われ始めた段階なのか、と改めて愕然。上野千鶴子さんの「ケアの社会学」を読み始めたところなのだけど、こういう母親をフェミニズムは置き去りにしてきたじゃないか……という、ミュウの幼児期からの根深い怨念がまたぞろ刺激されてしまう。介護はできれば担いたくない負担だと書いたのは最首悟だけだと上野先生は書いているけれど、父親だから言えても母親は言えなくされていることがあるんでは? 母親は、言えなくされている自分に気付くことすらできなくされているんでは?
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20111218/201112180947_15741.shtml

オハイオ州、12月24日から31日に「ナーシング・ホームへ行こう」週間。:ちょうどクリスマス・イブから大みそか。このタイミングが、またいいですね。
http://www.wtrf.com/story/16356416/ohio-declares-6th-annual-visit-a-nursing-home-week-december-24-31

フランス政府、豊胸手術で入れたシリコンを摘出するよう3万人の女性に通知へ。英国政府は「発がんとの関連エビデンスない」と。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/20/french-remove-breast-implants-silicone?CMP=EMCNEWEML1355

MS患者が、最初は治療しなくてよいと言ったのに次の診察時に治験への参加を勧めた前の主治医に対して抱く疑問。私じゃなくて製薬会社によかれと? 
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/was-my-doctor-loyal-to-me-or-to-the-drug-companies/2011/11/15/gIQAZG4j4O_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

昨日と今日のエントリ―の、というか谷口輝世子さんの「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」で紹介されているオバマ夫人の「レッツ・ムーブ」運動について、日本語情報を探してくださった方があった。(sakichocoさん、ありがとうございます)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100215/212768/

谷口さんが最近、海外在住のライターさんたちのサイトに寄稿された文章がこちら ↓
http://chikyumaru.net/?p=2267

ヤンキーズの(?)Ryan Braun選手のドーピング疑惑論争に、Norman Fostが出てきている。怪我の治療に使われた薬で、エンハンスメント利用が疑われてしまう可能性はある、と言って。
http://www.isthmus.com/daily/article.php?article=35434

NYT. 電子カルテが普及する一方、違反行為が去年に比べて32%も増加。
Dignital Data on Patients Raises Risk of Breaches: As more doctors and hospitals have digitized patient record, the number of reported breaches has increased 32 percent this year from last year at cost of $6.5 billion to the industry.

たぶん人工内耳の関係でご訪問いただいた難聴の方のブログ・エントリー「泣きたくなったら本屋さんに行く」。:読んで、じわ~っと泣きたくなった。いいエントリーだなぁ、これ。ちなみに私は泣きたくなったら、その日は「年休」と決め、藤沢周平作品を持ってベッドに引きこもる。次に泣きたくなったら、ベッドではなく本屋さんに向かってみよう。
http://blogs.yahoo.co.jp/immortal_venus0259

英国のホームレスの平均寿命、47歳。短命の最大の原因はドラッグと酒。
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/21/homeless-people-life-expectancy-47?CMP=EMCNEWEML1355

ギリシャ危機を受け、ヨーロッパでの自殺率が去年から40%もアップ。:そのうち「経済的理由で死にたい人にも自殺幇助を認めましょう」という流れも出てくるのかも?
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/18/greek-woes-suicide-rate-highest?CMP=EMCNEWEML1355


2011.12.22 / Top↑
昨日のエントリーに著者の谷口さんからいただいたコメントに刺激されて、
昨日アップしてから後に考えたことを書きたくなり、
どうにもコメントに収まらないほど長くなったので、
シリーズの2としてエントリーに――。


谷口さんが「子どもを一人にしたら育児放棄に問われる」社会に感じる違和感と

私が障害児医療の体験を通じて感じてきた違和感、
またこのブログから覗き見る「科学とテクノの簡単解決」文化と、
それが向かっていく“メディカル・コントロール”の世界に感じる懸念とに

共通しているのは何なのだろう……と考えてみて、
今の段階で思いついたのは以下の3つ。

まだそれほど考えを煮詰めたわけではないですが。

① 「安全と健康」は他の何よりも優先する価値――。

「医療」と「子育て」の関係をめぐって、
前からずっと疑問に思っていることの一つは
「小児科医は『子どもの病気』の専門家であって『育児』の専門家ではないのに、
なぜ小児科師が育児講演会の講師となって、健康管理についてはともかく
育児のハウツーまで指導するんだろう。小児科医って『育児』の専門家なの?」。

それはそのまま
「子育ては健康管理よりもはるかに広く深いはずなのに」という疑問なのだけれど、

前のエントリーの最後に追記した児童精神科医の方のコメントを改めて読み返してみたら、
「親よりも育児ロボットの方がいい」は、やはり
子どもの「安全と健康管理」の文脈で言われている。

そういえば10数年前に、療育園の子ども達から機械的な思考で「生活」が奪われた時にも、
そのスローガンは「安全と健康のため」だった。

そこで行われたのは、無言の食事介助と無言の着替え、
「どうせ分からないんだからベッドに入れっぱなしで構わない」
「(ベッドに入れっぱなしたら)職員は業務がはかどるようになり喜んでいます」
「風邪をひくといけないから外出は不許可」
「定期採血あるから学校からの外出は不許可」。

これは高谷氏が「重い障害を生きるということ」で
「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。
と書かれている通りで、

あの頃の療育園では「子ども達の安全と健康のために」
医療による「管理」ばかりが強化されていき、
子ども達からは「生活」と笑顔が消えていったのだった。

そうして子どもたちはモノ扱いされる暮らしの中で
胃潰瘍になったり、部分ハゲができたりした。

ハゲができれば「皮膚科へ」と当時の師長はいったそうな。

(療育園の名誉のために追記しておくと、
ちょっとした騒動の末、生活重視の深い理念のある師長に変わり
当時の園長もセンター上層部もに改善の努力をしてくださいました。
一保護者の訴えを受け止め、そこまで生かしてくれる施設は他にはないのでは、と
私はそういう療育園を保護者として誇らしく思っています。
これについては「所長室の灰皿」に)


② 親を「安全と健康管理」の「機能」として捉え、
その「機能」を絶対視して評価する目線。

くだんの児童精神科医さんの
「オムツ交換と安全管理はロボットがいい」発言の前後を読んでいると、そこには、
「育児」の中でも特に「安全と健康」管理の単なる「機能」として親を捉え、
その「安全と健康」管理の「機能」によって親を上から目線で評価してかかる意識が
感じられるような気がする。

これもまた、私が娘の幼児期に専門家のご指導に感じた違和感に通じていく。

それまでいっぱし“一人の社会人”として生きてきたはずなのに、
障害のある子どもの親になった途端に、
私は一人の人間として尊重してもらえない身分を与えられた、かのように感じた。

障害のある子どもの親になった途端に、いきなり周囲から勝手に
“無知で無能なお母さん”ポジションに一方的に置かれて、
上から目線で評価とご指導とお説教の対象にされ、
娘の療育と介護の「機能」や「役割」そのものとして扱われるようになった、と感じた。

娘に関しても私は、
「ウチの子は“ウチの障害児”じゃない。“ウチのミュウ”なんです。
障害そのものが服を着てここに座っているわけじゃない。
この子の異常をどうするかという視点と同時に、
この子がまず“一人の子ども”として育てられなければならないことを
忘れないでほしい。身体だけじゃない、心はどうなる?」と反発を感じ、
(それは上記の事件の際に職員研修でお話ししました)

その後の年月の間には
「親である私はこの子の療育や介護の機能でしかないのか、
私は一人の人としては認められず、それまでの人生の継続を生きることは許されないのか」
という疑問を抱えてきた。

それは現在「介護者の権利」「介護者支援」という問題意識に繋がっている。

谷口さんの本を読んで、
「子どもの安全と健康」の管理で親をガチガチに縛りつけている米国社会や、
ミッシェル・オバマの「レッツ・ムーブ」運動の押しつけがましさから、
私の頭に浮かび続けているのは、そういう諸々。

これについては、まだまだ考えたいことも
考えないといけないこともあると思う。


③ 「科学とテクノで簡単解決文化」は
人を「能力」と「機能」の総合としか捉えない?

トランスヒューマ二ストの誰かが言っていた。

科学とテクノがこのまま発展すれば
「24時間戦える兵士」や「24時間働ける看護師」を作ることができるんだぞ……と。

これを未来のユートピア像として説くTH二ストには
24時間働かされる兵士や看護師の人権という視点はないけど、
でも、人権をはく奪され、24時間「機能」を果たし続けろと強要されるなら、
それは「兵士」や「看護師」という「職業人」ではなく「奴隷」だと思う。

しかも、
これを「みんながハッピーになれる世界」の話として語るTH二ストの口調には、
自分はそうした管理と支配を受ける側には回らないとの想定だか幻想だかがある。
どういう根拠によるのかは私にはわからないけれど。

そこのところのTH二ストの、ある種のおめでたさが、私には
かつてコイズミ劇場に熱狂した人たちを思い起こさせる。

そういう大きな時代のダイナミズムみたいなものによって、

人は、こうして、
いくらでもかけがえのある能力や機能の総合体としてしか捉えられず、
能力と機能の総合体としてのみ価値を計られて、
その評価で強引に振り分けられ管理されていく……んだろうか。

あ、そうだった、
「利用可能な人体組織の集合体」としての価値……というのも、あるんだった。


              ――――――

ちなみに上野千鶴子さんの「ケアの社会学」の一節(p.139)に
コミュニケーション行為としてのケアをロボットでは省力化できないし、
介護ロボットを考えつく人はいても育児ロボットを考えつく人はいないことを考えると、
「コミュニケーション行為であるケアの性格を無視した、高齢者差別のあらわれであろう」と
書かれていて、激しく共感しつつも、

いや、上野先生、育児ロボットもすでに開発されているんですよ~、と ↓

NECが開発するチャイルドケアロボットPaPeRo(2009/2/23)

上野先生が、
いくらなんでも「育児ロボットまでは考えつく人はいないだろう」と考えるのは
「育児がコミュニケーション行為だということを理解しない人はいない」という
前提があるんだと思うけど、

でも、それがぁぁぁ、
もう日本にだって沢山そういう人が出現しているから、
私はコワいんですよぉぉぉ……。


【追記】
上のPaPeRoのエントリーで以下のように書いていた。

トランスヒューマニストらを筆頭に”科学とテクノロジー万歳”文化の人たちはなんで物事をすべからく差し引き計算でしか捉えられないのだろう、と、いつも思う。
人間もまた能力の総和としてのみ捉える彼らの感覚で行けば、子どもがロボットに飽きるのも人間とロボットの能力差のためということになるのかもしれないけど、
子どもがロボットに飽きるのは所詮ロボットはプログラムに過ぎないからであり、「人の能力に敵わない」からではなく、人のように「かけがえがない」存在になれないからでしょう。
ロボットが物語を読むのは「読み上げる」のに過ぎないのであって、物語を「読み聞かせる」ことができるのは人間だけだと私は思う。
「かけがえのない」存在だからこそ、人にはそれぞれの「持ち味」や「芸」がある。
だ~れがロボットの落語を聞いて愉快なものか。
ロボットが弾くピアノやバイオリンに、だ~れが感動するものか。
2011.12.22 / Top↑
谷口輝世子さんの「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」を読んでいたら、
おや、これは……と、強いデジャ・ヴがやってきた個所があった。

それが、まず個人的に、ちょっと可笑しかったので抜き出してみる。

アメリカの子ども達の肥満対策としてオバマ夫人が旗を振って始めた
「レッツ・ムーブ」キャンペーンで、親に向けて繰り出される啓発情報について、
著者は以下のように書いている。

 これを読んでいると、私は「親のみなさん、がんばれ」と言われている気分になる。学校への登下校につき添い、栄養バランスを考えてスナック菓子や砂糖漬けのお菓子を避けて、健康的な食事を用意し、子どもが最低一日六○分間、体を動かすのに付き合う。学校からは宿題をやり終えたかどうか確認して、サインをするように言われているし、低学年は親が付き添って一日二○分程度、本を読むようにとも言われている。他のしっかりした親なら出来ることなのかもしれないが、これらを全部やろうと努力すると、私などは子どもの健康を守るまえに、自分の健康と精神的な安定が損なわれるのではないかと心配になってくる。
(p.178)


これが何にデジャ・ヴしたかというと、
ずっと前にspitzibara自身が母子入園での専門家からのご指導について書いた、これ ↓

 日々、三食とも栄養に万全に気を配った食事を申し分ない調理法で用意し、それを子どもの嚥下能力や手の機能に万全の注意を払った介助法で食べさせ、けいれんを誘発しないために「空腹」にも「食べ過ぎ」にもせず、便秘予防のマッサージと体操にも怠りなく、子どもに触れるたびに身体の各部分の機能を念頭に置いた扱いをし、子どものありとあらゆる姿勢にも同様に気を配り、欠かさず毎日数回の訓練を施し、子どもが飲み食いをするたびに正しく磨き残しのない歯磨きを励行し、しょっちゅう子どもの国の中を覗き込んで虫歯を点検し、また知能の発達を促すための工夫を生活のあらゆるところに組みこんで、常に為になる遊びを心がけ、なおかつ子供にストレスを与えず……うわぁあああああああああ、息がつまるぅ、そんなこと、できるかぁ!
「海のいる風景」 P.72


なんといっても、最後のところ

全く同じことを書きながら、
それぞれの書き方のあまりに歴然とした違い方が
いかにもキャラの違いと思えて、ぶっと吹いてしまった。

それから、
このデジャ・ヴで考えた、もう1つは、ちっとも愉快ではないけれど、

私がこの本を読む前から何となく感じていた、
ここに描かれている「子どもがひとりで遊べな」くしている米国のガチガチの空気は
科学とテクノの簡単解決で子どもへの操作・管理を強めていく、
“メディカル・コントロール”の傾向に根っこで繋がってるんじゃないのかなぁ、と
漠然とした予感が、確認されたような気がしたこと。

子どもの安全と健康だけを優先目標とする狭く硬直した価値意識で
これだけが正しい、と親を高いところから指導し、
一方的にそれに従わせようとしてかかるのは、

子どもの機能改善だけを念頭に
親をその目的達成に邁進する良き療育者とするべく
高圧的なパターナリズムで親を教育・指導してかかっていた、
かつての日本の障害児医療の姿勢を思わせる。

それはそのまま
患者にとって「生活」は「医療」より大きくて「医療は生活の中にある」んだというのに、
医療の世界の人の意識では、どうしても、そこのところが倒錯していて、
「医療」は「生活」よりも大きく「患者の生活は医療の中にある」と思いこんでいることを
私には思わせるのだけれど、

その「医療」と「生活」を
昨今の世の中では「科学」と「文化」に置き換えてもいいような気がする。

私はこのブログをやりながら、
科学とテクノの急速な発達と、その可能性にどんどん高まっていく期待によって、
(科学とテクノの背景にある利権が先取り期待でさらに煽ることによっても)
医学など本来なら狭い専門領域に限定された価値意識であったものが
広く世の中一般に浸透し、共有され、むしろ優位になりつつあるんじゃないか、

本来は科学とテクノは、より大きな文化の一部であったはずなのに、そこが逆転して、
科学とテクノの価値意識が文化全体を飲みこもうとしているのではないか、という
なんだか不気味な感じを持っている。

例えば、こういうエントリーで書いたことなど ↓
「科学とテクノ」と「法」と「倫理」そして「問題の偽装」(2010/5/24)
「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3: 社会と医療の変容と「バイオ化」(2011/2/23)


米国の子どもの肥満では、
いくら指導しても子どもの肥満に十分な対応をしない(と判断された)親から
親権を取り上げて子どもを施設に入れるケースがこのところ論争になっていて、

Ashley事件でも無益な治療論でもエンハンスメントでも
臓器移植の死亡提供者ルール撤廃でも「司法は医療に口出すな」でも
あらゆる問題でトンデモ・ラディカルな主張を展開しているNorman Fostが
肥満児の親からの引き離し問題でも「目的は肥満解消」「命を救う」とまで言って
「子どもの利益」によって擁護論に立っている。
(詳細は8月29日の補遺からの抜粋を含めて12月6日の補遺に)

子どもへの肥満防止目的での胃のバンディング手術が急増していて、
私が英文ニュースを読み始めた06年、07年ころにはまだ見かけた
こういう傾向に懐疑的なトーンの報道は最近はあまり見かけなくなって、
むしろ効果があるのだから保険適用を徹底せよという専門家の提言まで出てきているし、

Ashley事件での彼の擁護論からしても、Fostなら、
親権をはく奪されて親子が引き離されたくなければ
子どもに胃の手術を受けさて肥満を解消できるのだから
親の決定権でやればいいと、しゃらりとして言うだろう。

矛盾してないか? と思うのは
科学とテクノで子どもを非治療的侵襲のリスクに晒すことや
子ども自身には利益のない医学実験の被験者とする決断については
「親の決定権」を絶対視して見せるFostが
肥満の子どもの親から親権をはく奪することにはためらいを見せないことだ。

さらに、
以下のエントリーで紹介したように、Fostは、
保育所で「虐待ハイリスクの親」を特定し家庭訪問員を送って指導・予防(監視も?)するプログラムを
既にウィスコンシン州で推進している。「小児科医の責務は子どもを守ること」と言って。

「ハイリスクの親」を特定することから始まる児童虐待防止プログラム:Norman Fostが語る「メディカル・コントロールの時代」:YouTube(2011/2/21)


これらは、この本で描かれている
「小学生の子どもを一人で遊ばせると親が育児放棄に問われる」世界の
すぐ先に待っている未来の米国なのでは……?

そして、
感染予防のためには赤ん坊のオムツは親よりもロボットが替える方が良い、
ついでにサンプルを採取してデータが取れればさらに理想的、と
本気で考える児童精神科医が日本にも出現していることを思うと、
(詳細はこちらのエントリーのコメント欄)

その未来型社会の空気は、
日本でもじわじわと広がりつつあるのかも……?


2011.12.22 / Top↑
Oulletteの”BIOETHICS AND DISABILITY”(p.114)から
1990年代初頭にOregon州で提唱されたが
連邦政府保健省から米国障害者法(ADA)違反を指摘されてボツになった
配給医療の「オレゴン・プラン」について。

医療には障害バイアスがあるとの障害者コミュニティからの指摘は歴史的事実だ、と
敢然と書いてくれるOulletteが、“無益な治療”論をめぐる3章で
障害当事者に医療に対する不安につながるトラウマを残した事件として挙げているのが
Baby Doe事件と、この「オレゴン・プラン」。

Oulletteの解説によると、
メディケアの給付対象とする治療に優先順位をつけ、
それによって対象者の拡大を図ろうとの計画。

その優先順位を決める方策の一つが電話によるアンケート調査で、
6種の機能障害と23の症状についてどう感じるかを問い、
これらの障害と症状の「満足(訳?)の質 Quality of Well-Being」をランクづける、
というものだった。

そのランキングに基づいてオレゴン・プランが実施されると、
それまで給付対象とされていた709の医療サービスの内
122が対象外となる見込みだった。

しかし、そのランキングは
症状のない状態に患者を戻す医療サービスが優先されるもので、
慢性疾患や障害のある患者への医療の切り捨てにつながる。

オレゴン州は実施に向け合衆国保健省の承認を求めたが
保健省は障害者差別に当たるとして1992年に却下。

その理由として、

Quality of Well-Beingデータは
それらの障害や症状を経験したことのない人の回答に重きを置いており、
障害者に関するステレオタイプが数値化されたもの。

Quality of Well-Beingのランキングで下位にあることが
必ずしもアセスメントそのものが低いことを意味するわけではないが、

そのランキングによって医療が制約されることになると、
オレゴン・プランには障害のある生は障害のない生ほどの価値がないとの
前提に立っていることとなり、医療における差別を禁じたADAの精神に反する。

ついでに書いておくと、
障害者は「治療するにはカネがかかり過ぎる」という前提に立つ“無益な治療”論にも
同じことが言えADA違反だとの障害者コミュニティの主張を
Oulletteはこの後、紹介していく。


で、私はこのくだりを読んで、ものすごく不思議だったのだけれど、
じゃぁ、どうしてDALYやQALYは障害者差別でないの???????

それに、ゲイツ財団の私設WHOであるワシントン大学のIHMEは
Global Burden of Diseaseのプロジェクトとして一昨年から
世界規模でこのオレゴンと全く同じ調査をやっているんだけど?

「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010/8/20)

どうして、この調査には障害者差別だという批判が出ないの?
WHOは何を平然とHIMEとパートナー組んでDALYを採用したりしているの?


【関連エントリー】
死亡率に障害も加えて医療データ見直す新基準DALY(2008/4/22)
Peter SingerがQOL指標に配給医療を導入せよ、と(2009/7/18)
「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
QALYが「患者立脚型アウトカム」と称して製薬会社のセミナーに(日本)(2010/2/12)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part1(2010/2/16)
DALY・QALYと製薬会社の利権の距離についてぐるぐるしてみる Part 2(2010/2/16)


           ――――――

なお、日本語で検索してみたら、

1992年にTruogがオレゴン・プランに言及しつつ
「無益性が客観的概念ではない、最善の利益検討と分配の問題とを切り離せ」と説く
論文の和訳がありました。(オレゴン・プランについては客観的な指標として評価?)↓
無益を超えて(解説)


根拠に基づく健康政策へのアプローチ
林 謙治 国立公衆衛生院 保健統計人口学部
J. Natl. Inst. Public Health, 49(4):2000

350ページ右上に、連邦政府よりも熱心に政策評価をした州の例として
「その中でも住民の満足度を測定したオレゴン・ベンチマーク(1989)が有名である」。

それから読めませんが ↓
オレゴンヘルスプランの展望と日本の医療への適用性の検討
鎌江伊三夫、前川宗隆
神戸大学都市安全研究センター研究報告


日本では国民が目にするような表立ったところでは議論にならず、
かといって専門家の間でこういう議論が行われていることをメディアも伝えず、
いつのまにかコトが起こり行われていくみたいだと、常々感じていることからすると、

多田富雄氏の果敢な闘いが記憶に鮮やかな
コイズミ時代のあの言語道断なリハビリ切り捨ても、もしかして要は
オレゴン・プランの方向性が粛々と取り入れられていたってことだったの……?

米国保健省が障害者差別だと判断したからボツになった事実はどこへやら、
「住民の満足度を測定した」「客観的な指標」とやらに化けたうえで――?
2011.12.22 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

「考察」の冒頭、
Oulletteがまず整理するのは、

子どもの医療における親の決定権そのものは
障害者コミュニティも生命倫理学も同じく認めており、両者の見解が異なるのは
「親の決定権を制約すべきか」「制約するとしたらいつ、どのようにして」の点であること。

この2点について両者がコンセンサスに達するためには
親の判断力が信頼される必要があり、障害児の親に対する情報提供や教育も必要となるが、
コンセンサス以前に和解がなければならず、和解するためにはまず信頼が必要。

In my view, trust can be achieved only if all concerned acknowledge and understand the alliances, fears, and values at play in conflict. When it comes to acknowledging their own alliances, fears, and values with respect to disability issues in children, it seems to me that bioethics experts have some work to do.

信頼は、争議で問題になっている関係者すべての身内意識(?)、不安、価値観が認識・尊重された後にしか得られない。子どもにおける障害の問題でそのために努力すべきは、生命倫理学者の方だと私には思われる。
(p.184)


なぜならば、
Larson事件でもAshley事件でも、問題となっているのは、
障害者コミュニティが長年訴え続けてきた医療への不安と不信なのだから。

障害者は技術そのものを悪いと言っているわけではない。

技術を利用する意思決定が倫理的に間違っているから
その議論に障害者問題の専門家を含めることによって
障害のある子ども達のニーズについて親の理解を深めていこう、と主張しているのだ。

一方、生命倫理学者はもはや医療のインサイダーとなり、
医療の主流となっている価値意識を問うという本来の役割を果たすのではなく
むしろ医療判断を医療の専門家に委任する権威づけの役割を担っている。

そのため、人工内耳でもアシュリー療法でも、
子どもを「医療技術で簡単に修正する fixing」利益が
介入の医学的リスクを明らかに上回っているというのに、それを容認してしまう。

Concerns that the use of the intervention would be deemed abusive but for the disabled status of the child are dismissed with a medical justification: In medicine, physical difference justifies differential treatment. No ethical issues here.

当該介入の利用は虐待・濫用になるのでは、との懸念はあっても、障害があるということをもって正当化されてしまう。すなわち、医療においては、身体上の差異がその人への扱いの差異を正当化するのだ、したがって、ここには倫理問題は存在しない。というふうに。
(p.187)


そして、こうした正当化論が、成長抑制をめぐる議論で見られたように
法と法律家の存在を医療の専門性(integrity)への脅威とみなす一部の風潮とも繋がって、
(その司法忌避の代表は、当ブログがしつこく書き続けているように、かのNorman Fost)

In my view, the deference given the medical perspective in bioethics leaves gaps in bioethical analysis.

生命倫理学が医療の視点を偏重している限り、生命倫理分析には欠落した部分があり続けるだろう。

(中略)

So long as bioethicists continue to see disabilities as medical problems, “the medical remedy will likely make most sense.” The trouble is that medical remedies don not always make sense.

生命倫理が障害を医療で解決すべき問題と捉えている限り、「医療による解決策が最も理にかなったものと見えるだろう」。問題は、医療による解決策が必ずしも理にかなっていないことだ。
(p. 188 )

引用はSara Goering, 2010.
Goeringは07年5月の成長抑制シンポにも参加。

この章の最後には
人工内耳に関する聾者の組織からのポジション・ステートメントが追記されています。

ウ―レットさんに、spitzibaraから大きな大きな拍手喝采を――。
2011.12.22 / Top↑
Oulletteの“Bioethics and Disability”の第4章「児童期」で取り上げられているのは
「Lee Larsonの息子たちの事件」と「アシュリー事件」の2つ。

前者は、
聴覚障害の子ども達が自己決定できない内からの、
親の判断による人工内耳埋め込み手術のケース。

09年か10年に、ある研究者の方と話をした時に、
アシュリー事件の議論は人工内耳の問題と通ずるものがある、というお話しで
その方が簡潔に解説してくださった人工内耳をめぐる議論が大変興味深かったので、

親の判断での障害児への侵襲的医療介入のケースとして
この2つの“療法”がここで取り上げられていることには、
なるほど~……と深く納得するものがあった。

とはいえ、私はまだこの問題については何も知らなくて、ちょっと荷が重いので
Lee Larsonの息子たちのケースについて書かれているパートは、今回はパス。
まだ読んでいません。

人工内耳の問題については ⇒ http://www.arsvi.com/d/ci.htm


Ashley事件については、まず事件の概要説明のパートで
前に論文を読んだ時と同じく、Oulletteの事実認識の甘さに、ちょっとイラつく。

検討したのが外部の人間を含めた常設の倫理委だと思い込んでいるし
ホルモン療法の期間を1年半だと書いているし、
Diekemaの詐術に、まるっきりたぶらかされている。

(いつも思うのだけど、学者さんは、ある事件について云々するなら、
基本的な事実関係を把握する作業を、まずしっかりやってほしい。
事実関係を正しく把握するために、資料をもっと丁寧にちゃんと読んでほしい。
学者さんたちは論文を書くことが仕事で、それを主目的にして資料を読むので
つい資料の読み方が、自分が言いたいことを論証するための材料探しに終わる
……ということはないんだろうか。

そうしてDiekemaやFostのように学問的誠実を投げ捨てたワケあり学者の術中にハマり
操作された情報を事実と信じて、まんまと鼻づら引き回されてしまったら、
いくら批判・反論しているつもりでも、その的は微妙に外れて矛先が鈍る)

なので、事件の概要でOulletteが書いていることは、ここでは省略。

「障害者コミュニティの見解」つまり批判についても、
当ブログでリアルタイムに拾ってきた通りなので、省略。

「生命倫理学の見解」でも、
内容的には大筋で当ブログが拾って来たのと同じだけれど、
議論の流れの整理の仕方が、とても興味深い。

Oulletteは大筋として
以下のように生命倫理学者間の議論の流れを捉えている。

真っ先に声を上げたのはお馴染みArt Caplanで、
当初はCaplanに続く学者の批判が多かったが、
「時が経ち、このケースが更に深く分析されるにつれて」
両親と医師や倫理委の判断を支持する声が広がり始めた。

特に大きく流れを変えたのは
影響力の大きなHastings Center Reportに
LiaoとSavulescuらが書いた成長抑制容認論文が掲載されたことだった。

不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 1(2007/9/27)
不思議な“アシュリー療法”エッセイと、その著者たち 2(2007/9/28)

(Liaoらが権威ある雑誌で外科的介入との間に線引きをしたことが
“アシュリー療法”から特に成長抑制だけを取り出して容認する流れを作った……
というのが、Oulletteの捉え方なのですね。
DiekemaとFostなど関係者らが事件の真相の隠ぺいのために
意図的にそういう議論の流れを誘導した、というのではなく)

もっとも、06年の当初論文に既に潜んでいる隠ぺい工作の胡散臭さに
多少なりとも気づいてくれた唯一の学者さんだと私が推測しているJohn Lantosが、
乳房芽切除の隠ぺいや、具体的データの欠落、エビデンスを書いた論理展開などを
鋭く指摘したことはOulletteも書いたうえで、

Lantosの疑問には容認論者の誰も応えられなかったにも拘らず、生命倫理学者の間には
成長抑制療法については倫理的に容認可能とのコンセンサスができていった、
その根拠は「親の決定権」と「価値観の中立性」だった、と整理。


親の決定権と価値観の中立をめぐる議論の引用は
Lanie Friedman Ross, Merle Spriggs, Peter Singer, Hilde Lindermann 。

こうした概観を経て、この章の「考察」でもOulletteは、

生命倫理学は医療のバイアスにとりこまれてしまって
医療の在り方や考え方を問い直す学問としての役割を果たしていない、とズバリと指摘。

A事件での障害者らの批判に沿った主張を展開し、
3章と同じく、両者の和解に向けた会話を前提に
まず生命倫理学は医療の主流的な価値観を問いなおせと説いている。

詳細は次のエントリーで。
2011.12.22 / Top↑
東日本の被災地にストーブを届けようというプロジェクトがあります。
http://www.humanlink.jpn.org/index.html

英国のthe General Medical Councilから、自殺を幇助したとの医師への苦情があった場合を想定し、医師の行為の何が自殺幇助に当たるかを明確化するガイダンスが出るらしい。その点が今の法律は曖昧だから、と。:公訴局長のガイドラインが事実上、自殺幇助を合法化したのに次いで、医療職の自殺幇助が一定の範囲で事実上合法化されることにならないことを祈る。
http://www.bbc.co.uk/news/health-16210769
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2074823/Could-doctors-punished-talking-Dignitas-patients.html?ito=feeds-newsxml
http://www.guardian.co.uk/society/2011/dec/15/assisted-suicide-new-advice?newsfeed=true

CA州の自殺幇助合法化議論についてLATimesに。
http://www.latimes.com/health/la-me-1218-lopez-bucketlist-20111218,0,4685249.column

「植物状態」という呼び方を変えよう、との提言。
http://www.stltoday.com/news/opinion/columns/colleen-carroll-campbell/colleen-carroll-campbell-don-t-call-them-vegetables/article_71df4bcd-a11c-5141-8094-9b9197e443c8.html

豪NSW州政府が、本人が臓器提供意思を表明していれば家族は反対できないことにしようと提案していることが論議に。
http://news.smh.com.au/breaking-news-national/organ-donation-overhaul-gets-mixed-reviews-20111206-1ogjv.html

英国で生まれる子ども50人に1人に先天的欠損があるとの報告書が出て、モニタリングの地域間格差が問題に。以前のデータでは80人に1人とされていた。:英国では出産のどの過程であっても先天的欠損を理由に「中絶」が認められている。その「欠損」が内反足や口蓋裂であったとしても。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239163.php

介護者への何よりのクリスマス・プレゼントはレスパイト。
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239302.php

ナーシング・ホームにおける不適切な薬の使用問題。
http://www.brookings.edu/opinions/2011/1215_medicare_pharmacies_kocot.aspx

病院での認知症患者のケアについて、基本的なケアすら提供できていない、とBBCに読者らの声。:こういう問題をないことにして、自殺幇助合法化が論じられることは、やっぱり本末転倒のような気がする。
http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-16213148

米国で解剖件数が減って、それが医療過誤の隠ぺいに。ProPublica.
http://www.propublica.org/article/without-autopsies-hospitals-bury-their-mistakes

【論説】新自由主義国家における知識の変容:STSと批判主義 木原英逸。「科学技術批判であるはずの科学技術論(Science and Technology Studies,STS)では進んでいない。むしろ,少なからず,STSは新自由主義的に変質した技術や科学を正当化するイデオロギー・規範となってきたと思われる2)。それはなぜか」。:STSを「生命倫理学」と置き換えても?
http://www.kokushikan.ac.jp/faculty/PSE/anniversary/CollectedPapers/pdf/kihara.pdf

「なぜBill Gatesは原発を中国に売り込んでいるのか」。WP。第4世代の未来型原発技術を持っているのはゲイツがテコ入れして立ち上げられたTerra Powerというベンチャー。これをゲイツが米国ではなく中国に売り込んでいることの意味は、米国にとって重大な警告だ、と。グローバル世界で最先端技術は経済ポテンシャルのあるところにしか流れないんだぞ、うかうかすんなよ、と。
http://www.washingtonpost.com/blogs/innovations/post/why-is-bill-gates-selling-nukes-to-china/2010/12/20/gIQA3FPmuO_blog.html

Netscape 創設者の妻が、ITの大企業はすべからく慈善で名を馳せよ、と。:1%が富を占有し過ぎるとの批判をかわすため?
Rebooting Philanthropy in Silicon Valley:Laur Arrillaga-Andreessen, wife of the Netscape co-founder Marc Andreessen, wants all tech titans to be famous for their charitable work, too.

Institute of Medicine and National Research Councilから「チンパンジーの研究利用を許すな」との報告書。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/9888

子どものうつ病予防に心理学グループ療法介入が有効。:子どものうつ病が so common だから……というんだけど、その原因は、そんなふうに過剰に子どもを操作的にいじくりまわす社会とか大人の姿勢なんでは?
http://www.medicalnewstoday.com/releases/239386.php

アーカンソー大学の医療ヒューマニティ学部から Guidance for Healthcare Ethics Committees。
http://www.cambridge.org/aus/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521279871#contributors

イラク、アフガニスタンからの難民を乗せたボートがインドネシア沖で転覆、300人以上が死亡か。
http://www.canberratimes.com.au/news/world/world/general/boat-sinks-up-to-300-dead/2396621.aspx?src=enews

性犯罪前歴者の住所届け出…大阪府が条例提案へ:そのうち米国のように足首にGPSとか?
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111213-OYT1T01376.htm
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

「考察」の冒頭、ウ―レットが引いてくるのは
Philip Ferguson と Adrienne Asch の以下の言葉。

障害のある子どもが生まれるときに起こる最も重大なことは、子どもが生まれるということ。
ある夫婦が障害のある子どもの親になる時に起こる最も重大なことは、ある夫婦が親になるということ。

これを引きながら、ウ―レットは
MillerやGonzalesやその他の重病の乳児のケースで一番切実に感じるのは
親にとって、これは単に言論や議論の問題ではなく
リアルな経験であり痛みなのだということだ、と語る。

そして、リアルな体験に「これだけが正解」などないのだ、と。

ことほどさように、障害者らは個々のケースのリアリティの中で、
原理ではなく文脈でものを考えているのであり、
そのために時に矛盾しているように見えるだけなのだ、

親の決定権を事件によって認めなかったり支持したり、
立場を都合よく使い分けているから議論にならないと倫理学者は言うが、
彼らの立場は命の尊重という点で一致しているのだ、と。

そして、

……The central claim of disability experts is that misperceptions about life with disability have a detrimental effect on people with disabilities, particularly in the medical setting, where people with disabilities―especially babies with disabilities―have been isolated, victimized, and left to die based on incorrect assumptions about the potential for quality of life. The claim is historically accurate, and its currency is supported by empirical data and compelling theoretical analysis.

障害者問題の専門家が言っていることの核心とは、障害のある生についての誤った認識は、特に医療の場では障害者に悪影響を及ぼす、ということ。医療においては障害のある新生児が、将来のQOLについての不正確な予測に基づいて阻害され、ひどい扱いを受け、死ぬに任せて放置されているのだから。彼らのこの主張は歴史から見て正しいし、データや理論的分析によっても証明されている。

だから、医療の文化の中に根深い障害バイアスのエビデンスをきっちり出していく研究を
医療の意思決定について考えようとする人はやるべきだし、

特に、良い倫理には良い事実が必要だと主張している生命倫理学者こそ、やったらどうか。
(Norman Fostはその一人です。詭弁としての「良い倫理には(都合の)良い事実」)

John Lantos が指摘しているように、
理論的に医療判断を考えることと
苦しんでいる生身の乳児を目の前に考えることの間には距離があり、
現実には一方的な決定はほとんど行われていないし、
たいていの意思決定は粘り強い話し合いを経てコンセンサスによって行われている。

それならば、障害者問題の専門家を病院での意思決定や議論に含めることによって
無茶な一方的決定はそれほど行われないことや、実際に苦しむ子どもの姿や
現場の医療職が判断をめぐって苦悩する姿を見て、
治療停止の全てが障害者差別ではないことを彼らも理解するだろう、と
ウ―レットは提言する。

大きな“ブラボー” はこの後。133ページ。

Tom Kochのパーソン論(とは書いてないけど)批判を引用した後、
ウ―レットは、ばんっ、と書くんですね。

そもそも「生命倫理はピーター・シンガー問題を抱えている」のがいけない、と。
特に哲学者を中心に生命倫理学者はきちんとシンガーを糾弾せよ、と。

キミたちの親だってキミたちが死んでいた方が幸せだったんだよ、みたいなことを言われて、
そういう相手に面と向かって反撃を挑むのは障害者にとっては難儀なことなのだから

「生命倫理学者が繰り返し、大声で、力を込めて」シンガーを批判し、
「生命倫理学者の中の哲学者はシンガーの議論を取り上げて、
どこが間違っているかをきちんと説くべきだ」

そうした努力によって生命倫理が
シンガーが展開するアカデミックな思考実験から距離をとらなければ
障害当事者らとの生産的な議論は始まらない、のだから、と。

で、ここからの次なる大きな“ブラボー”は

医療制度改革と公平な医療資源の分配の必要に直面している時だけに、
この際“無益な治療”をめぐる哲学論議は凍結しよう、との提言。

そして障害当事者との会話を始めよう、と。

会話は信頼がなければ始まらない。
和解とコンセンサスを通じて医療争議を解決できるよう、
不安を抱えた弱者である障害者と医療の文化との間に
互いの信頼関係を構築しなければ。

全ての利益関係者がその会話に加わり、
全てのエビデンスが検討されるように。

この章の最後は

……But even where this is conflict, it should be apparent that disability experts have something to teach parents and medical professionals about the potential for quality of life of many people with many kinds of disabilities. If nothing else, there would be value in considering how to make those conversations a regular part of care in the NICU.

衝突があるにせよ、親と医療職は、障害者問題の専門家から様々な障害を持つ様々な人々のQOLの可能性について学べるものがあるはずだ。なによりも、NICUにおける通常のケアの中に、こうした会話を組みこんでいく方策を考えることに価値があるのではなかろうか。


すなわちウ―レットは、
生命倫理学者に届く学者の言葉で、
繰り返し、これを言っているんじゃないか、と思う。

Nothing about us without us――。
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)

Gonzales事件の概要は非常に詳しくまとめられているので、
いずれ事実関係の整理をしたいとは思いますが、
これまでに以下のエントリーを書いているので
ここでは事件の詳細は省略します。

テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判


まずG事件に関する「障害者コミュニティの見解」

障害者がG事件で問題にした点として挙げられているのは

・親の決定権を侵害し医師に「神のような地位」を与えた。
・無益性概念に一貫性がない。
・法的検討が行われていない。

“無益な治療”論について問題にされているのは主として以下の3つ。

・医師の偏見
・カネが判断要因となっていること
・法の下で保障された平等な保護に違反する

医療の中に障害者に対するバイアスがあるという点は
障害学者のJames Werth , Carol Gill, ハーバード大法学者のMartha Fieldsなどが指摘している。

バイアスとカネの両方にまつわる典型例として
オレゴン州が1990年代初めに導入を試みて
保健省の障害者差別に当たりADA違反との指摘を受けて見送られた
メディケイドの配給制度Oregon Planがある。
(これについては別途エントリーでまとめてみたいと思います)

特にテキサスの無益な治療法TADAについては、
TADAが「不可逆」とする条件が以下の3つであることが問題視される。
(訳語はさほど吟味したものではありませんのでご了承ください)

a condition, injury, or illness:
(A) that may be treated but is never cured or eliminated.
(B) that leaves a person unable to care for or make decisions for the person’s own self; and
(C) that, without life-sustaining treatment provided in accordance with the prevailing standard of medical care, is fatal.

以下の状態、怪我、または病気
(A) 治療は可能かもしれないが、治癒することも取り除くこともできない。
(B) 身辺自立できない、または自己決定できない状態のままになり、かつ
(C) 一般的医療のスタンダードの範囲で提供される生命維持治療がなければ死ぬことになる。


視覚障害や知的障害などAには当てはまってもBとCには当てはまらない障害もあるが
一方で人工呼吸器依存の四肢まひ者や、経管栄養の障害者は全てに当てはまる可能性があり、
QOL尺度そのものが医療のバイアスだという主張。

しかし、この部分の最後にOulletteが指摘しているのは
仮にMiller事件に適用されたとすればともかくも
障害ではなくターミナルであることが問題だったGonzales事件では
TADAへのこうした批判は当たらない、という点。

最後には、
死にゆく乳児の治療がどうあるべきか、その問題でカネをどう考えるかについては
生命倫理学者も悩みながら最善の答えを見つけようと鋭意議論しているところだ、と。
(ね。「ちょっと、アンタどういうつもりよ」と思いますよね、こういう書き方をされると)

次にG事件に関する「生命倫理学の見解」

こちらは、無益性概念をめぐる議論から解説が始まる。

医師には無益な治療を提供しなければならない義務はないが
“無益な治療”概念の有効性については生命倫理学者の間でも議論されている。

これまでに試みられた定義は3つで、

① 狭義の無益性の定義

A proposed treatment is futile only when “incapable of producing the desired physiologic effect in a patient.
狙った通りの効果を患者に生理的に生じされることができなければ、その治療は無益。

ニューヨークのTask Force on Life and Lawなどが
QOL指標などの主観が交じることを避けるために採用した。

②質的無益性

生理学的な効果のみでなく、
一人の人としての患者が利益を得て、それを享受できなければ無益、とするもの。

この個所で、すーんごく興味深い、まさにショーチョ―的だぁ……と思ったことは、

その例として挙げられている、Crossleyという人の論文からの引用で、

a gastrostomy tube for an elderly and severely demented woman.
高齢で重度の認知症の女性への胃ろう。

「女性」???????????????
じいさんとばあさんじゃ同じ状態でも無益性が異なるのね。無意識に????????

③量的無益性

治療すれば利益はあるんだけれども、その可能性が小さすぎて無益と考えられるもの。
例えば骨髄移植以外に助かる道がないがん患者がいたとして、
移植が成功して助かる確率が1000分の1だという場合。

Truogが11月10日の講演で引用していたSchneiderman(とJecker)の
「過去100例で効果がなかったら無益」という基準にOulletteも
質的無益性定義の試みとして言及している。

しかし、いずれの定義も病院間、医師間で無益性が一貫するには寄与せず、
議論の流れは、生命倫理委員会など権力の乱用を防ぎ患者を守る手続き重視へと移る。
G事件で使われたTADAも、このセーフガード精神による多層手続きモデルである。
(ね。こんなの言われたら「おい……」と思いますよね)

ただTADAは何が「医学的に不適切」かを定義していないし、
倫理委の検討に基準を定めているわけでもない。

Art Caplanが言っているように、
無益性概念の有用性議論は結局のところ
「医療職のインテグリティ」と「患者の自己決定権」の対立であり、

TADAは「患者の自己決定権」よりも「医療職のインテグリティ」を採用し

Lainie RossはEmilioの母親の決定権を支持する。
(この人は救済者兄弟でもAshley事件でも親の決定権論・家族の利益勘案論者です
それぞれエントリーはありますが、リンクはあしからず省略)

Truogは、無益な治療論そのものは正当化できるとしても
G事件での倫理委の判断は間違いだったと批判。

その内容は当ブログで批判論文を読んだ通りなので、こちらを↓
TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)省略。

           -------

ここまで読んで、私が一番不満だったのは、
生命倫理学者の言い分や議論にだけウ―レットが
「背景」や「経過」や「状況」をカウントしていて
障害者コミュニティの言い分にはそれらがカウントされていないこと。

これは誰かと誰かの言い合いになったら、よくあることで、
自分のしたことについては「状況や経緯から止むを得なかった」と状況判断が伴うけど、
相手のすることについては「そういう人だから」と相手の人格に帰してしまいがち……
ということと重ねると、やっぱウ―レットって生命倫理学者の方に自己同視してるじゃん?

……と思うわけです。どうしても。

でも、これ、振り返って考えるに、たぶん作戦。だとしたら、成功しているんじゃないだろうか。

生命倫理学のサイド寄りの視点で書かれることで生命倫理側にこの本が読まれやすくなるだろうし、
同時に、障害者運動の主張がどのように眺められているかが描かれているとも言える。

そして「考察」でウ―レットが主張するのは、このシリーズの最初のエントリーで引用したように
生命倫理学はこうした皮相的な捉え方をやめて「障害者の言葉ヅラの背景にあるものに思いを致せ」。

それだけじゃない。
ウ―レットは「考察」で、さらに、ばしっと実にブラボーな提言を次々と繰り出していく。

大きく要点だけ挙げると、

・医療の中に障害者に対する倍あるがあることは歴史的事実である
・生命倫理はその事実を研究し、エビデンスをきちんと出せ。
・障害者と会話を始め、和解に向けて信頼構築の努力を背よ。
・そのためにも机上の思考実験でトンデモな主張をするシンガーとの間に、距離とれ。
・医療改革と資源の平等が問題になっている時だけに“無益な治療”概念を棚上げせよ。
・医療の意思決定をめぐる議論に障害者を参加させよ。

次のエントリーで「考察」を。
2011.12.18 / Top↑
米国の法学者、アリシア・ウ―レット(Alicia Oullette)が6月に出した
“BIOETHICS AND DISABILITY  Toward a Disability-Conscious Bioethics”について
これまで以下の4つのエントリーを書いてきました。

(いったんQと思いこんだら何度見てもQとしか見えず、まだ訂正できていないので
大半のエントリーがQuelletteのままになっていますが、正しくはOulletteです)

Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件:Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
Sidney Miller事件: 障害新生児の救命と親の選択権(2011/8/16)
Ouellette「生命倫理と障害」概要(2011/8/17)


8月に概要を書いたところで、馴染みがあることだし、次は
「乳幼児期」のGonzales事件と「児童期」のAshley事件を一気に、と意気込んだのですが、
前者のG事件の個所を途中まで読んだところで中断し、そのままになっていました。

Oulletteの書き方は成長段階ごとに2つ程度の事件を取り上げ、
それぞれについて「概要」「障害者コミュニティの見解」「生命倫理学の見解」を取りまとめた上で
「考察」する、という構成を繰り返しています。

「乳幼児期」は既に読んだMiller事件とGonzales事件の2つ。
私は後者のG事件の2つ目のセクション「障害者コミュニティの見解」を
ほぼ読み終わったところで中断した格好でした。

理由は主に2つあって、1つには
ちょうど拙著「アシュリー事件」が最終ゲラの段階に差し掛かり、
ここにきて2つの事件について加筆訂正したいことが出てくると時間的に苦しいし、
十分な吟味もできないジレンマが出てくるので、
拙著が出た後に読む方がいいのでは、と考えたこと。

でも、それは、まぁ後付けの言い訳みたいな理由で、本当は、

Gonzales事件への障害者運動からの抗議について、
倫理学者らが『過激で敵意に満ちている』とか『手がつけられない out of control』と
表現するほど激烈なものだった、と感情的な批判でしかないかのように書き、

Miller事件では救命を拒んだ親の決定権を否定していながら
Gonzales事件では治療を求める母親の決定権を尊重しろと訴えるのは
親の決定権について障害者らの立場には一貫性がないと指摘し、

障害者が命の神聖を原理的に主張しているとでも言いたそうなトーンがある、などに

ほとんど「あいた口がふさがらない」ほど呆れ、大いに失望し、
おいおい……と途中で止まって、先に「生命倫理学の見解」の方をチラ見してみると、
そちらは倫理学者らがいかに誠心誠意、患者の利益を追求してきたか、
テキサスの「無益な治療」法(テキサス事前指示法TADA)にどのような効能があるか
などなどが強調されているものだから、いよいよ不愉快が募って、

Ashley事件での格調高い批判論文の感激から期待が高かっただけに、
はたまた、その期待と喜びでピョンピョンする思いで刊行からすぐさまオーダーし
Spitzibara的には1冊の本にあり得ないカネ払って買っちまっただけに、

なんだよ。ウ―レットも所詮はアカデミックな世界の住民でしかなかったのかよ……と
「手ひどく裏切られたもんだなぁ」の敗残感が大きかったんであります。

それで、読む気力をそがれたまま机の横に放り投げてあった。

で、いつのまにやら数カ月が経ち――
一昨日、Truogの「治療の無益性」講演を聞いて、
ああ、ここでもGonzales事件は出てくるな、やっぱりこの事件は
テキサス「無益な治療」法の代名詞みたいな事件だなぁ、と再認識したところで、
G事件と言えば、そういえばウ―レット……と、思い出した。

まぁ、もう一度だけ、もうちょっとだけ読んでみるべ……と
昨日 BIOETHICS AND DISABILITYを手に取った。そして、
ゴンザレス事件のパートの最初に戻り、31ページ分を一気に読んだ。

ウ―レットさん、ごめんなさいっ。
spitzibaraが浅はかでした。
あなたはやっぱり素晴らしい。
今からニューヨークに出掛けて、
いっそ飛びついてしまいたいくらい大好きだい。

spitzibaraは泣きましたね。

129ページのあたりから赤線つぎつぎ引きながら
spitzibaraは文字通り、涙を流しておりました。
134、135と、ページもspitzbaraの目鼻もまっかっかになりました。

ありがとう。この本を書いてくれて、本当にありがとう。

……と、こんな芝居がかかって長ったらしく、読む方にはさぞ迷惑な前置きを、
どうしても書かないでいられない気分になったのは、

例えば、129ページの以下の数行――。

The problem is, except in the courts, they are not heard or taken seriously. So they shout and protest to get attention in the press. I would hope that even my philosophy-trained colleague could look beyond the form of the message to ask why in the world are the people so angry. In fact, I would argue that it is incumbent upon bioethicists to ask that question and then to act to address it. The fact that members of a historically disenfranchised and abused population must shout to be heard is reason for alarm, not disdain. Respectful debate is possible only when all sides are heard and all concerns acknowledged.

(障害者が敵対的だ攻撃的だと見下し、あんなの相手に議論なんかできるかとばかりに生命倫理学者は切って捨てるけれど)、法廷でもなければ、障害者の言うことには誰も耳を傾けないし、真面目に取り上げもしない。だから障害者はメディアで取り上げてもらうために抗議の大声をはりあげるんじゃないの。私の身近にいる同僚にしたところで仮にも哲学をかじってきたというならよ、言っていることの上っ面だけを見て終わるんじゃなくて、そもそもこの人たちがどうしてこんなに怒っているのかを考えてみたらどうなのよ。
実際、生命倫理学者にはそう問うてみる義務があるはずだし、問えばその問題に対処すべく行動する義務だって出てくるはずだ、と私は言いたい。歴史的にもずっと阻害され虐待されてきた人たちが社会に届く声を上げようと思えば、大声で叫ぶ以外になにができるというの。
それで、なんで、障害者があんたら生命倫理学者に見下され侮蔑されなければいけないわけ? そこにこそ問題を感じるのがまっとうな生命倫理学者というものでしょう。
誠実な議論が可能になるのは、参加するみんなの声がお互いに届き、関係者みんなが十分に尊重されて後のことですよ。


上記の日本語訳は英文のままではもちろんなく、
いわば攻撃的かつ下品なspitzibaraに乗り移られたウ―レット。
原文はもっと格調高く上品です。

最後には、この本の主題とも思える、このような主張へと展開していく
(実は133ページからは、さらなる“ブラボー”があと2つもある!)
Gonzales事件に関するセクションについて、

次のエントリーに続きます。


【OulletteのAshley事件関連論文】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
(論文については、それぞれ、ここから4つエントリーのシリーズで)
2011.12.18 / Top↑
今朝の朝日新聞の声欄のトップに
京都の医師の方の「人工栄養 国民的議論が必要」というタイトルの投稿があった。

5日に報じられた厚労省研究班の人工栄養の指針案をめぐって、
出てくるだろうと予想された通りの内容なのだけれど、
こういう話になるとイヤになるほど繰り返されるように、
やっぱり最後が、こういう言葉で締めくくられている。

「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどないという」

「ないという」んだから、あくまでも伝聞。
でも、伝聞のままに、そこには「欧米で起こっていることは日本がお手本とすべきモデル」という意識が
読者との間に共有されているとの前提があって、著者はこれを書いている。

こういうのを読むと、そこにこだわってしまうのも
いつものことなんだけれど、

昨日エントリーにしたTruogの講演で
70年代、80年代に議論されたのは「望まない治療を拒否する患者の権利」だったが、
その後90年代以降、今度は「治療を求める患者の権利」にシフトした、との指摘を
この耳で聞いた直後だけに、

今朝はなおのこと、そのことにこだわってしまった。

米国では、
「尊厳を損なう過剰医療はいらない」と患者が自己決定を求めて闘った時代は終わり、
今は「死ぬ」という一方にしか自己決定権が認められない時代、むしろ
「一方的に治療を引き上げるな」「医療を受けさせろ」と闘わなければならない時代に入っている――。

テキサスには病院内倫理委の判断だけで
一方的に生命維持停止の権限を病院や医師に認める法律ができていたり、

障害児・者に対する治療に限って「医療資源の公平な分配」の観点から疑問視する声や、
障害児保護の必要を否定し「大人と同じ基準にしないのは年齢差別」とまで言って
子どもの意識状態を基準に栄養と水分停止を正当化する学会ガイドラインが出ていたり、

医療費を支払えない移民に対する一方的な医療中止事件が多発していたり、

英国では
「さっさと脱水・死ぬまで鎮静」と終末期プロトコルが機械的に運用されたり、
本人にも家族にも知らせずに一方的にDNR指定にするケースが問題化していたり、
「認知症患者には家族や社会の負担にならないよう死ぬ義務がある」という声が
議会や医学・医療倫理学論文で出ていたり、

それらと並行して、欧米では、
自殺幇助や積極的安楽死の容認へと流れが急速に向かっていたり、
そこでは「街角の高齢者向け安楽死ブース」や「臓器移植安楽死」までが提言され始めて、

「死の自己決定権」や「無益な治療」概念は
どんどん臓器不足解消という問題に接近し繋がろうとしている。

(ここに書いたことには全てリンク可能なエントリーがありますが、
一か所の記述にリンク候補が複数ある場合も多く、
イチイチ貼るのは手間が大きいので省略しました)

それに、これらは、この京都の医師が書いているような患者の尊厳の問題としてではなく
露骨なコスト削減と高齢者・障害者・重病者・貧者の切り捨て策として、
そして、恐らくはその背景に弱者の人体資源化の可能性をも含みながら論じられている。

そういう大きな流れの中に、
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのと、

そういうことを埒外に置いたまま、
なんとなく「我が国よりも進んでいる欧米では」という雰囲気の中で
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのとでは、

その意味は全然違ってくるんじゃないだろうか。

(あ、でも、よく読み返してみたら、
この医師が言っている「判断」は家族と医療職の判断のことであって、
患者の自己決定はまるで問題にしていないと思われるところが
「欧米」の議論と土台の筋が違って、また興味深い……とも言える?

それに、ちゃんと脳死概念の定着に時間がかかったことが引き合いに出されているのも、
考えてみれば印象的というか象徴的というか……)


それにしても、これもいつも思うことだけど、メジャーなところで
「欧米では」と世論の「我々後進国」コンプレックスを煽る人が説いているのは、
以下に見るように、臓器移植、生殖補助医療、ワクチン、終末期医療……

「米国では」を印籠に代理出産解禁を説く学者(2008/5/26)
朝日のワクチン記事にも「米国では」の“印籠”(2009/8/8)
日本生命倫理学会の会長が説明する「米国の事前指示書署名と倫理相談制度」の不思議(2010/8/25)

つまりは「科学とテクノで簡単解決」文化とそこに繋がる利権や、
その背景にある能力至上主義、操作主義に沿った方向で――。


欧米で子育て支援や介護者支援がどれだけ重要視され、制度化されているかが
同じようなメジャーな場所で同じように「追いつけ」ニュアンスで語られることは少ないし、

認知症患者をはじめ高齢者への向精神薬の過剰投与が
欧米では問題化されているのに何故か日本では問題視されないことを指摘する人も
最近少しずつ増えては来ているけど、やっぱり主流ではないし、

ビッグ・ファーマと研究者・医師・専門雑誌の金銭関係のディスクロージャーが
米国では多くの呆れるほど酷いスキャンダルの挙句に法制化されたから
日本でも透明性を保障する法整備が必要だという議論も出ないし、

よもや「米国では、パラトランジット制度まで法的に整備して
障害者の交通アクセスを保障している」という話が
「我々後進国としては、それをモデルに追いつかなければ」というニュアンスで
語られることは、まず、ない。

私たち、煽られる側が気付かないといけない本当の問題は、
その不均衡にこそ、あるんじゃないのかなぁ。

           ―――――――

そういえば昨日聞いた講演でTruogが面白いことを言っていた。

彼が無益だと分かっていながら決断した心肺蘇生の実施をめぐって、
患者本人に無益な苦しみを与えたという批判があるが、それは当たらない、
なぜなら患者本人は既に意識も感覚もなく、苦痛を感じることができない状態だった、と
反論した際に、

患者の苦しみについて医師の言うことには一貫性がないことを
Truogはジョークにして見せた(と思う)。

治療を停止したければ医師は平気で心痛を装って、
「ご本人が苦しんでおられますから、ラクにして差し上げましょう」などと
患者が感じてもいない苦痛をダシに使うのだ、と(いう意味のジョークだったと思う)。
2011.12.18 / Top↑
人口問題には気をつけろ、とWhat Sorts of Peopleに興味深い記事。人口問題が騒がれるのは今に始まったことじゃない、問題は確かにあるが、気をつけなければならないのは「人口が問題かどうか」ではなく「人口抑制で誰がターゲットにされるか」だ、と。:うっかり見落としていたけど、これは重要。人口抑制と関連して、慈善で集められた資金でワクチンが途上国に持ち込まれ、製薬会社の人体実験場と化している懸念……については、ここに書かれているわけではないけど、問題としてはダイレクトに繋がっている。たぶん。
http://whatsortsofpeople.wordpress.com/2011/11/22/here-we-go-again-population-panic-and-the-blame-game/

カナダのRasouli事件のHassan Rasouli氏の治療継続に向けて支援を呼び掛けるサイトやFBがあるらしくて、無益な治療ブログのThaddeus Popeがそのいずれかに対して「治療継続にこだわる理由は?」などいくつか質問したらしい。答えの中に、家族から見れば本人には反応があり、顔の表情や動作で意思を表現しているし回復もしているのに、それを医師が認めないだけ、という部分がある。この事件についてはどう考えたらいいのか本人を知らないから何とも言えないけど、「家族にしか反応が分からない」は気になる。Chris Coxさんのケースなどを思う。
http://medicalfutility.blogspot.com/2011/12/why-hassan-rasoulis-family-continues.html

レイプを警察に訴えていったら「姦淫」の罪で有罪となり、12年間の禁固刑を受けたアフガン女性がいる。刑期満了でやっと出てくることができた、というニュース。:なに、これは。こんなの、ありか? 世界は想像をはるかに超えた人権侵害に満ちている。たぶん私が世間知らずで知らなかっただけで、前からずっと満ちていたんだろう。でも加速・拡大・深刻化しているのも事実だろうとも思うのだけど。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/dec/14/afghan-woman-raped-freed-prison

米国で子どもの肥満が深刻化する中、子どもへの胃の手術が有効だというのに保険の対象外にしている会社がまだ多いのは何事か、と。
http://www.washingtonpost.com/national/health-science/bariatric-surgery-may-help-teens-but-insurers-often-exclude-them/2011/12/07/gIQAKGeYpO_story.html?wpisrc=nl_cuzheads

NYT。昨日のOp-Edで、FDAを保健省から独立させろ、との提言。:読んでいないので、意図は不明。
Free the F.D.A.: Take the agency out of the Department of Health and Human Services and make it an independent agency, like the Federal Reserve.

NYT. PCやスマートフォンやその他あれこれを使う医師が医療に集中できない問題で、病院によっては重大局面でそれらの機器の使用を制限したり、医学生には「患者に集中するように」とのご指導も始まっているとか。
As Doctors Use More Devices, Potential for Distraction Grows: In response to “distracted doctoring,” some hospitals have begun limiting the use of computers, smartphones and other devices in critical settings, while schools have started reminding medical students to focus on patients.

もろもろの重病に効くとの謳い文句で怪しげな液体を売っている米国の組織と、英国の少年がブログで一人闘っている。
http://www.guardian.co.uk/science/2011/dec/14/schoolboy-querying-miracle-cure-claims

子どもの幼児期に仕事を辞めずに働いている母親の方が、家にいて子育てをしている母親よりも幸福度も健康度も高い。:これ、一概に言えないとは思うけど、なんとなく分かるような気がする。「そうしかできない」ではなく「選択できる」ということが大事なんでは?
http://www.medicalnewstoday.com/articles/239140.php

米国の大企業のCEOの年俸、去年なんと40%も上昇。:えーかげんにせーよ。
http://www.guardian.co.uk/business/2011/dec/14/executive-pay-increase-america-ceos

これ、この前も別のデータが出ていたけど、豪でもトップ1%の収入が全国民の収入に占める割合が30年前の倍に。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/rich-keep-getting-richer/2392165.aspx?src=enews

去年、豪で行われた養子縁組は384件。史上最低だとか。
http://www.canberratimes.com.au/news/national/national/general/adoptions-in-australia-hit-historic-low/2392166.aspx?src=enews
2011.12.18 / Top↑
(前のエントリーの続きです)


Truogは講演の後半、
自らが所属するボストン子ども病院の無益な治療をめぐる方針と、
テキサスの一方的な無益な治療法(正確には事前指示法)とを比較検討していきます。

例として言及されているのは
当ブログでも取り上げたテキサスのGonzales事件と、
ボストン子ども病院で彼自身が心肺蘇生実施を決断し去年NEJM誌に報告したJanvierのケース。

いずれも当ブログでリアルタイムに拾っていますので、詳細はこちらを ↓
(文末にも関連をリンクしました)

TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)
Truogの「無益な医療」批判への批判(2008/7/31)

「無益な心肺蘇生は常に間違いなのか?」とTruog医師(2010/3/4)


ボストン子ども病院の方針のポイントは

① 倫理委員会の検討を求めている。
② 治療を継続可能にする転院の努力が払われること
③ 家族に法的手段について説明すること
④ 家族に法的手段に訴える費用がない場合には病院が支払うこと
⑤ 一方的な意思決定が認められていること
(実際には一方的な決定が行われたことはない)

それに対して、テキサスの無益な治療法の問題点としてTruogが指摘するのは

① 倫理委員会に全権限を認めてしまっているのは、
そこでの判断が医療の論理に偏る危険性がある。
地域住民を含んでも、そういう人たちは病院と近い関係にあるので
やはり偏りのない判断ができるとは思えない。
② 家族に法的手段をとるための資源が保障されていない。

テキサス方式は紛争解決の手段としては効果的だが、
あまりにも簡単に病院側有利にカタがつくことにならないか、

ボストン方式の方が、倫理委の関与だけでなく、
解決までの道筋まで明確にされているのではないか、

一方的意思決定はすべからく shared-decision makingではない点が最重要、
法的プロセスの保障は必要、などを指摘。

医師からも病院からも独立した外部の法的委員会(extra-judicial committee)を含めた
意思決定手続きを推奨する。これは大筋として、上にリンクした08年当時の主張と同じ。

彼自身は去年JanvierのケースをNEJMに発表して以来
多くの批判を浴びたし、直接関わった病院内のスタッフからの異論もあり、
ずっと考え続けているという。

去年のエントリーから漏れている情報も含め、事件の概要は以下。

Janvierは重症の脳ヘルニアで生まれた。両親はホームレス。
生まれた時から、蘇生も延命も無益だと重ねて説明したが両親は受け付けず、
あらゆる手を尽くしてほしいと望み続けた。
心臓が止まった時に両親の望みに沿って心肺蘇生を命じた。
諦めるまで15分。家族を呼ぶように指示した。

親と病院の関係は悪く、
病院に来るや「まさか殺しちゃいないよな」と言われたりしていたので、
どんなにか親が腹を立てるのではないかと覚悟をして会ったが、
説明すると、静かに「お礼を言います。本当に一生懸命にやってくださったんですね」と。


無益な治療を実施することのコストvsベネフィットで言えば
常に「親の心理的な利益」に、社会的コスト、患者と家族の苦しみ、医療職の苦悩が対置されて
秤はコストの側に大きく傾くが、

時として、家族の心理的な利益を重視することがあってもいいのではないか、

もちろん医療職には無益な治療も無益な心肺蘇生も申し出なければならない義務はないが、
時には、そうしてもよいケースというものが、あるのではないか、と

なんとも曖昧な講演の締めくくり方をしている。

              ――――――――

まだ聞いたばかりで、考えがウロウロしているのだけれど、

まず思うのは、
「時には」というのがどういう時なのかを
Truogは明確にすることを求められるだろうし、
また彼にはそれを明確にする責任がある、ということ。

でも同時に、それを明確にすることは非常に難しいだろう、ということ。

たぶんTruogが感じていて、まだ意識できていない、だから言語化できていないことは、一つには、
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。

このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。

そこにあるのは
簡単に数値化したり、何かの尺度を当てはめて計ったり、
別の何かとの比較によって答えが割り切れるような類のことではなく、
もう本当に「時には、そういうことだってある」としか言いようのないことだと
感じているからこそ、

DCDドナーによる臓器移植に関しては09年に
「どうせ死ぬ子どもが一人いて、一方にその子の臓器で助かる子どもが3人いるなら
倫理の勘定の答えは既に出ている」と平気で言い放った(詳細は文末のリンクに)Truogが、
無益なことが明らかな心肺蘇生について、こんなにも煮え切らない語り方になるのではなかろうか。

でも、それなら、
その煮え切らなさ、はっきり説明できないけど主治医として
「やってあげた方がいいんじゃないか」と特定の親子に感じる気持ち、
その相手との関係の中で生じてくる数値化も差引勘定もできない気持ちというものは、
「どうせ死ぬ命は1つ。それで助かる命は3つ」という倫理の勘定をも
同じく否定するはずのものではないか、ということに、
なぜTruogは思い至らないのだろう?

Janvierのケースで心肺蘇生を命じた自分の判断について、
ずっと考え続けている、とTruogはこの講演で言っている。

それなら、この先もずっと考え続けてほしい。

恐らく社会からenoughを得たと感じたことがなかっただろうホームレスの両親にとって
なぜ一切どんな治療の制限も認めないと主張することが重要だったのか、

そんなふうに生きて来て、
「まさか息子を殺したんじゃないだろうな」と猜疑に満ちていた親が
「手を尽くしてくれてありがとう」と、初めて心から率直に感謝してくれた驚きに
なぜ自分はこんなにも心を揺り動かされたのか。

なぜ、このケースが頭から離れないのか。

多くの批判を浴びながら、それでも
「時には無益でもやってもよいのでは」と今なお主張したいと感じるのは、
一体なぜなのか。

そういうことを、考え続けてほしい。



【TX州のGonzales事件関連エントリー】
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判

【TX州の無益な治療法関連エントリー】
生命維持の中止まで免罪する「無益な治療法」はTXのみ(2011/1/21)
テキサス州議会に「無益な治療法」の廃止を求める法案(2011/5/12)
TX州の「無益な治療」法改正法案、“死す”(2011/5/25)

テキサス州で14歳の脳腫瘍患者めぐり、新たな“無益な治療”事件(2011/7/3)

【TruogのDCDに関する主張関連エントリー】
Robert Truog「心臓死後臓器提供DCDの倫理問題」講演ビデオ(2009)(2010/12/20)

2011.12.18 / Top↑
マサチューセッツ大学医学部のGrand Rounds(学内研修?)で
11月10日にRobert Truogが行った“治療の無益性”をめぐる講演。

タイトルは “Medical Futility: When is Enough Enough?”

私なりの勝手な解釈で和訳すると、
治療の無益性:どこまでいけば「もうそこでやめていい」になるのか?

講演では、冒頭のタイトルの紹介時に
一枚の絵が提示されて会場が爆笑する。

情けない顔で墓石に聴診器を当て(させられ)ている医師が
背後に立っている黒衣の未亡人に向かって
「私にできることはほとんどないように思われますが」と言っている図。

こちらのアーカイブから ⇒ http://www.umassmed.edu/Content.aspx?id=142016

約1時間ですが、冒頭7分間は開始前の雑音が無駄に続きます。
また最初に女性医師による症例報告がありますが、
一応この症例報告を受けてTruogがしゃべる形式になってはいるらしいものの
実際の彼の講演にはほとんど無関係。

これまで、この手のビデオはスピーカーとスライドを交互に映すので
メモをとるのも聞きとるのもおぼつかない私にとっては不自由だったのだけれど、
これは映像はずっとスライド。その上に音声をかぶせてくれる。
ただ、それはそれで、つい読むことに集中してしまう。
私レベルだと、相変わらず両方とも不自由なのに変わりはなかった。

(なので、例によって、以下の内容には
細部の誤りが含まれている可能性があります)


Truogの講演は大きく分けて前後半の2つのパートで、
前半は無益性概念をめぐる議論の概観。

その中で特に興味深いと思ったのは、

70年代、80年代に議論されたのは望まない治療を拒否する患者の権利だったが
90年代から2000年代にかけては治療を要求する患者の権利にシフトしてきた、との指摘。

それからJohn Lantosがいずれかの論文で提示した図で
無益性判断に関与している5ファクターとして、
真ん中に Money(費用)、左上に Power (権力)、右上に Trust (信頼)
左下に Hope (希望) 、右下に Integrity(ここではケアする側の道徳的苦悩のこと)。

Truogはこれら5つの要素ごとに無益性概念で問題となる問いを検討していく。

例えば moneyでは
「費用だけの問題なのか」
「無益性概念に費用削減効果があるのか」など。
ちなみに「削減効果は大したことはない」という話もあるらしい。

権力で言えば
権力のある医師の側が、権力のない患者側に対して圧倒的に優位だという問題。などなど。

そうした点から、これまでに試みられた無益性の定義をいくつかの論文で紹介。
Truogがまずまずだと評価するのは、無益性を以下の2つと定義した93年のMurphy論文。

① 過去100例で効果がなければ、その治療は無益。
② 永続的に意識不明状態またはICU依存を長引かせるだけなら無益。

ただ、実際にはそうすっきりと定義できるものではなく、
「無益性はポルノと同じ。定義はできないが見ればそれだと分かる」というものだとして、

定義によるアプローチではなく、
AMAのガイドラインなど手続き重視のアプローチを提唱する。

そこからが、いよいよ後半の、この講演の核心部分。

(次のエントリーに続く)
2011.12.18 / Top↑