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この前、ある方に教えてもらった、この漫画を読んで、
ちょっとすぐには言葉にならないほどの深い衝撃を受けた。

「この世界の片隅に(前篇)」(アクションコミックス)
こうの史代 双葉社 2011


Spitzibara自身の感想は
すぐには言葉にならないのだけれど、

今日の選挙の後、この国はこれまでとはまったく別の国へと
急速に変貌していくのだろうなぁ……と考えると、

これから始まる開票結果の速報を見る前に、
とり急ぎ、エントリーにしておきたい漫画だったので――。


Amazonの前編、後編の内容紹介は、

平成の名作・ロングセラー「夕凪の街 桜の国」の第2弾ともいうべき本作。戦中の広島県の軍都、呉を舞台にした家族ドラマ。主人公、すずは広島市から呉へ嫁ぎ、新しい家族、新しい街、新しい世 界に戸惑う。しかし、一日一日を確かに健気に生きていく。そして、すずも北條家に嫁ぎあくせくしてる間に、ようやく呉の街にも馴染んできた。リンさんとい う友達もできた。夫婦ゲンカもする。しかし戦況は厳しくなり、配給も乏しく日々の生活に陰りが…。

広島市から軍都呉市に嫁いだすずは、不器用ながら北條家に徐々に溶け込み日々を過ごす。やがて戦争の暗雲が周囲を色濃く染めていく。大空襲、原爆投下、終戦。歴史の酷い歯車が一人の女性の小さな世界をゆがませていく。そして…。


アマゾンのレビューで、
私にはまだ言葉にならない読後感を代弁してもらっている気がするのは
「仮面ライター」さんの以下のレビュー。

この本は、「平和に生きる」ということの尊さをしみじみと感じさせます。物語は昭和9年1月の「冬の風景」から始まり、昭和21年1月の「しあはせの手 紙」で終わりますが、前後編一気に読み通してしまいます。絵描きの好きな、少しぼんやり気味の《すず》という女性に仮託した「戦争」の話は、淡々とした戦 時下の生活風景を描写しながらも、その時代を体験した多くの日本人に共通する“悲しみ”が心の底からじんわりと伝わってきます。

 私は、 戦後生まれですが、亡くなった両親から「戦争」と向き合った暮らしぶりを聞いていました。この度の東日本大震災そして福島での原発事故など、日本人にとって《忘れてはならない事》は多々あると思いますが、そうした中にあって、先の「戦争」を振り返り、庶民の《記憶》として長く留めておくべき“悲しみ”が、こうの史代さんのこの作品にそっと込められています。是非とも昭和の「戦争」を知らない方々の目に触れて欲しい冊子です。



去年の衆院選の時には、
以下のようなエントリーを書いて自分の気持ちを鼓舞してみたりしたんだけれど、
今回は、そんな気力すら根こそぎにされそうな気がする……。

選挙の夜に(2012/12/16)
選挙から元気をなくしている人にお薦めの映画『グレート・ディベーター』(2012/12/28)
2013.07.28 / Top↑
先ごろ上院が尊厳死法案を可決したVermont州で、
下院も賛成75 vs 反対65で可決し、

Schumlin知事は署名を明言しているため、成立することに。
(もともとこの人はPAS合法化を選挙公約にして当選した方で)

PASの合法化では米国で3番目の州となるものの、

これまでのOR、WAが住民投票で決まったのに対して、
こちらは議会で決まった最初の州ということに。

C&Cはこれを受けて、
マサチューセッツ、ニュージャージー他でも合法化するよう呼び掛け。

VT州は米国でも施策の先進性で知られ、
2009年に同性婚を合法化、
2004年にマリファナの医療利用を合法化。

Vermont legislators approve assisted suicide bill
AFP, May 13, 2013


OR州と同じタイプの法案でありながら
OR州の尊厳死法ほどの規制が盛り込まれていないという情報があったのですが、
この記事からはその辺りは分からないので、
そこのところは、とりあえず、ペンディング。

これで、ドミノ現象が起こらなければいいのですが。


なお、CT州では4月に委員会で否決されているので ↓
CT州の自殺幇助合法化法案、委員会で潰える(2013/4/6)

以下のエントリーによると、
他に現在、法案が審議されているのは、
ニュージャージー、カンザス、ハワイ、マサチューセッツ。

世界中で相次ぐ、PAS合法化に向けた動き(2013/2/10)


【VT州のPAS関連エントリー】
「自殺幇助は文化を変える、医療費削減とも結びつく」とVT州でW.・Smith講演(2011/1/17)
VT州、自殺幇助合法化せず、公費による皆保険制度創設へ(2011/5/10)
Vermont州の自殺幇助合法化法案が上院を通過(2013/5/12)
2013.05.14 / Top↑
生命倫理学者で腫瘍科専門医のエゼキエル・エマニュエルについては、
2009年に以下のような断片的な発言を拾ってきており、
その中で医師による自殺幇助に反対のスタンスの人だと知った程度だったのですが、

「障害者は健常者の8掛け、6掛け」と生存年数割引率を決めるQALY・DALY(2009/9/8)
自己決定と選択の自由は米国の国民性DNA?(2009/9/8)

昨年秋のMA州の住民投票の直前に、
NYTに以下のようなPAS批判を書いたことが非常に印象に残った人。

Dr. Emanuel「PASに関する4つの神話」(2012/11/5)


そのエマニュエルが
1月3日のNYTのオピニオンのページに、
終末期医療について論考を寄せていて、なかなか興味深い内容でした。

Better, if Not Cheaper, Care
Ezekiel J. Emanuel
NYT, January 3, 2013


エマニュエルは、まず
「終末期医療のコストが医療費全体に占める割合が大きくなっているので
このコストをどうにかしないと医療が崩壊する」といった物言いについて
データを挙げて、事実ではない、と否定する。

彼が指摘しているのは、以下の点。

・毎年、死亡するメディケア患者の約6%の医療費が
メディケア・コストの27%から30%を占めているが、
この数字は何十年も大きく変動はしていない。

・年齢を問わず、毎年米国総人口の1%以下が死んでいるが、
その全員にかかった医療費は医療費全体の約10から12%にすぎない。

・確かに終末期医療のあり方は病院によってバラつきが大きく、
そこに改善の余地はあるが、

実際に終末期医療をどうしたらコストが削減できるのかという
きちんとした研究は存在しない。

・ガン患者ではホスピスでコストが1,2割削減できるとの調査結果もあるが、
その調査でもガン以外の病気で死んだ患者ではコスト削減はならず、
その理由ははっきりしない。

・一方、死亡患者の20%はICUや、退院直後に死んでおり、
適切な緩和ケアが受けられれば抑制できる痛みで苦しむ患者もまだまだ多い。

それならば、
コスト削減効果があろうとなかろうと終末期医療の改善が急務である、
というのがエマニュエル医師の論旨。

そのために同医師が提案しているのは、以下の4点。

① 終末期医療について患者や家族ときちんと話ができるよう、
医師と看護師全員にコミュニケーション・スキルの研修を。

② 終末期について患者や家族と話をすることは時間もかかり、感情的な消耗を伴う以上、
診療報酬が付くべき。

③ すべての病院に緩和ケアサービスの整備を義務付け、
死にゆく患者には病院で、また退院させるなら在宅で
丁寧な緩和ケアが提供されるべきである。

④ 余命6カ月以内と診断されて、
かつ延命治療を放棄しなければホスピスに入れないという基準の見直しが必要。
確実な予測が不可能な余命ではなく、患者のニーズで判断すべき。


エマニュエルは、
これらをしたからといって、コスト削減になるエビデンスなどないし、
これで絶対に終末期ケアが改善されるというつもりもないが、
医療制度全体にケアの質が上がっている中で
終末期の患者の支援にだけは努力を払わないというのは
許されることではない、と。


エマニュエルの提言の①と②は、
今の自殺幇助合法化に向けた大きな流れと切り離して考えたら
そうなんだろうとは思う反面、

今のような「切り捨て文化」が広がりつつある中では
なんのために話をするのか、というところで
やっぱり誘導にならないのか、という懸念がどうしてもある。

ただ、読んでいて、エマニュエル医師という人は
やっぱり腫瘍科の現場で誠実に患者ケアを考えるドクターとして、
こういう提言になるんだろうな、という印象はとても強く受けた。

その点、ちょっと「無益な治療」を論じる際のTruogに通じるものを感じないでもない。

個人的に「よくぞ言ってくださった」と思うのは③で、
これがきちんと保証されれば、PAS合法化に賛成という人だって
実はかなり減るんじゃないのかなぁ……。

だって、みんな前提もなしに「死なせてほしい」わけじゃなくて
「苦しんで死なないといけないなら、いっそ死なせてほしい」ということなんだろうと思うので。

それに、この論考の行間に隠された趣旨そのものが、
医療全体に質の向上努力がされているにもかかわらず終末期医療だけは改善の努力もせず、
むしろコスト削減を言いたてては終末期医療そのものを切り捨てようとするとは何事か……
……というものであるように私には読めるし。



この記事を読んで、なんとなく思い出したのは、こちらのエントリーだった ↓
日本の終末期医療めぐり、またも「欧米では」論法(2011/12/16)


ついでに思い出したので、
認知症患者への終末期ケアを一律に「過剰な治療」視するMitchell論文に対して
老年科医Sachsの論文が「アグレッシブな医療か医療を全然しないかの2者択一ではなく、
緩和ケアとはアグレッシブな症状管理なのだ」と反論した2009年の論争を以下に。

「認知症患者の緩和ケア向上させ、痛みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/18)
「認知症はターミナルな病気」と、NIH資金の終末期認知症ケア研究(2009/10/18)
MYTもMitchell, Sachsの論文取りあげ認知症を「ターミナルな病気」(2009/10/21)
2013.01.14 / Top↑
何度か補遺で拾ってきたように、先月、
英国のケアサービス大臣が介護者にレスパイトへのアクセス改善を約束しましたが、

それを受けて
Chigwellでレスパイト・サービスを提供している事業者のチャリティVitaliseが
障害者、病気の人、高齢者の家族介護者に調査を行ったところ、

10人のうち7人が
ほんの数日でも介護から離れられるレスパイトは大切または非常に大切、と回答。

その一方で、
57%の介護者はレスパイト・ケアを使わなければならないことに罪悪感を覚える、といい、

それはレスパイト・ケアの質が良くないためで、
そのためにレスパイトが利用しにくくなっている、と。

Vitaliseのトップは

「Burstow大臣のアクセス改善の約束は歓迎するが、
我々の研究では、いま利用できるレスパイト・ケアは家族介護者に信頼されていない。

実際、悲しいことだが介護者の不安は現実でもあって、
単に障害者や高齢者を預かって置いておくだけといったサービスも存在するので、
そのくらいなら自分の健康を犠牲にしてでも家でがんばって介護を続けるがいいと
介護者が考えるのも無理はない。

レスパイト・ケアの質という根本的な問題に対処しなければ
問題は悪化するだけ」。

Guilt prevents carer respite breaks
Bixton Advertiser, July 23, 2012
2012.07.25 / Top↑
第5章「生殖年齢」でOuelletteが取り上げているのは
生殖補助医療をめぐる架空のケース。

架空のケースにしたのは、
生殖補助医療に伴う深刻な倫理問題をここでは一旦置いて
障害者の子育て能力を巡る医療サイドの偏見に議論を焦点化するため。

Bob&Julie Egan夫妻は大学で知り合って卒業後に結婚。

Julieは未熟児網膜症で目が見えない。
学生時代から杖と盲導犬を使って自立生活を送る優秀な学生だったが、
当時から時々うつ病の症状が悪化すると第三世代といわれる抗ウツ薬を飲んでいた。

何年かの結婚生活の後に子どもを作ろうとしたがかなわず、
生殖補助クリニックの予約を取ったところでBobが事故で脊損に。
何カ月かの治療とリハビリを経て電動車いすと改造車を使いこなせるようになる。

セックスは可能で精子も作られているが
障害のために射精ができないので、

新たな暮らし方が定着してきたところで
2人は改めて生殖補助医療を受けようと希望し、
かつてのクリニックを受診する。

しかし、数日後、2人はクリニックの医師から治療を断られてしまう。

その理由は、2人の障害を考えると、
生まれてくる子どもを安全に育てられると思えない、というものだった。

医師は既に弁護士に相談しており、
弁護士は以下の理由で断っても違法ではないと判断した。

① 医師と患者の関係は自発的かつ個人的なもので
法的に禁じられた理由以外であれば、医師には
その関係を選ばない自己決定権が認められている、という。

② 「直接的脅威」ディフェンスが当てはまる。
他者の健康や安全が脅かされる場合には
医師にADA違反の行為を認められている。


ウ―レットによれば、
この架空のケースを巡っては、生命倫理学も障害者運動も、
障害を理由に人工授精を認めないのは倫理的にも法的にも問題がある、
という基本認識では一致している、という。

しかし、問題は医療現場に根強い「障害者は良い親になれない」との偏見で、
この点が障害者運動からの強い批判にさらされているところ。

一つには、どのカップルに人工授精を認めるかの判断基準が全く統一されておらず、
それぞれの医師によって主観的に決められている現状がある。

そこに障害のある人は十分な子育て能力を持たないとの偏見が入り込んでいる。

その一方で、医療職にも障害者差別を禁じたADAには
例外規定や曖昧な表現があって、そこから障害者への別扱いを容認する余地が生まれ、
実際に医療職がADA違反を問われることはほとんどない。

そのため、医療における障害者差別が
医師の自己決定権の範囲に置かれてしまっているのが実情で、

生殖補助医療学会の倫理学会はガイドラインで慎重な判断を呼び掛けてはいるが
生殖補助医療ではその他の領域以上に法や倫理規定への遵守意識が希薄。

実際、法的にも、その偏見は根強く、
障害者は良い親になれないとの偏見によって親権を奪われるケースは多い。

カリフォルニア州のWilliam Carneyの裁判では
トライアル裁判所の判事は「身障のため、子どもにしてやれるのは
お話しして勉強を教えることくらい。どこかへ連れて行ったり、
一緒に野球や釣りをしてくれる親の方が子どもには良い」と述べたが、

最高裁で障害者運動の側は
子育ては身体的なケア以上のものだと親子の関係を広く捉えて
「子育ての本質は、人格形成期を通じて、それ以後にも、子どもに
親として倫理的、情緒的、知的指導を行うこと」と反論した。

障害者運動が、障害者にも、子育て能力を巡る予見なしに
障害のない人と同じ体外受精へのアクセスが保証されるべきだと主張してきた一方、

生命倫理は同じ懸念をもちつつ、
子どもと不妊の親と医療職それぞれの利益をどのように考えるかを議論してきた。

生殖補助医療学会の倫理委の結論は、大まかに言えば
障害者の子育て能力について根拠のない偏見や疑いに基づいての治療拒否を不可とし、
根拠を持って判断するなら治療拒否は医師の自己決定権のうち、というもの。

根拠が確かな理由の例としては
「未制御の精神病、子供または配偶者への虐待、薬物濫用」

障害者サイドは、
仮に障害のために親として十分に機能することができないとしても、
家族や友人、その他の支援ネットワークによって補うことは可能だと訴えている。

              ―――――

ウ―レットの考察。

生命倫理はなぜ先端技術と終末期医療にばかり興味を持って、
その途上での障害者のリプロダクティブ・ヘルスや子育てを議論しないのか。

障害のある女性が上がりにくい診察台の問題は対応するつもりがあれば解決も可能なのに
それがいつまでも放置されることの背景に、この生命倫理のプライオリティの問題がある。

生命倫理が障害者との対話を始めることによって、
これらのバリアを排除することを通じて両者の信頼関係を築いてはどうか。

その他の問題に比べれば、
障害者への強制不妊の問題では両者は一致している点が多いのも、
終末期医療やアシュリー療法に比べれば、強制不妊については
両者とも長らく議論し、その中から相手側への理解が進んできたからであろう。

医療サイドに障害者への偏見があるなら、
医療の現場に足がかりのある臨床倫理学者にこそ
医学教育や研修内容に障害者問題を含める工夫をし、
医学教育に障害者問題の専門家を連れてくるなど
その偏見を解く役割があるはずだ。

そして、
ただ診察台に上がれないというだけで
婦人科の検診を拒まれてきた障害のある女性たちの声に耳を傾け、
まずはこうした解決可能な小さな問題から一緒に取り組みつつ、
両者の対話を進め、信頼関係を築いていってはどうか。

I know how powerfully my interactions and the friendships I’ve developed with people with disabilities have changed my understanding of disability over the course of this project.

この本を書くに当たって障害のある人たちとの間に作ってきた相互関係と友人関係が、私の障害に対する理解をどれほど強力に変えてきたか、私は知っている。
(p.234)


2012.01.25 / Top↑