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クリスマス・イブにNY Timesに。
タイトルは「にもかかわらず幸福」。

重度身体障害のある弁護士で何冊かの著書もある障害者運動の活動家、
今年6月に亡くなったHarriet McBryde Johnsonさんとの交流について書いたもの。

2001年にCharleston大学でSingerが講演を行い、
重症障害新生児の安楽死は認められるべきだと説いた際に
Johnsonさんが会場から異を唱えたのが交流の始まり。

その際、Johnsonさんは
それでは自分の親も自分が生まれてすぐに自分を殺してもよかったことになるが、
自分は現在弁護士になって幸福に暮らしており、
障害があるからといって
それだけ人生が生きるに値しないものになるわけではないと反論。

その後、SingerがPrincetonの学部の授業に招待したり、
Singerの発言を巡ってメールで議論もした、と。

で、彼女との付き合いからSingerは以下のようなことを考える。

彼女の人生は明らかによい人生だった。それも当人にとってのみならず良い人生だった。なぜなら彼女は弁護士としても障害者の代弁者としての政治活動においても、他者にとっても価値のある仕事をしたから。障害者が障害のない人たちと大して変わらない生活が送れれば一定の満足をしているという調査があることは知っているが、それは長期の障害によってその人が多くを求めなくなって、より少ないものに満足するようになるからだろうか。それとも慣れてしまえば重い障害は本当に人間の幸福に影響しないものなのか?

それから、Johnsonとのやり取りの中で
Singerが説いたこととして

重い知的障害のあるヒトに権利があると彼女が考えるのであれば、
動物についても同じように考えるべきだ、
動物たちも彼女が生きる権利があるとして養護している人たちと
同じように、またはそれ以上に生を楽しんでいるのだから。

このエッセイの締めくくり方はちょっと微妙で、

妹さんの話では、
Johnsonが自分の死について一番気にしていたのは
死後いろんな人がきっと自分についてバカなことを言うだろう、ということだった。
実際、「天国では彼女も思うように歩いたり走ったりできる」といった弔意のコメントもあった。

こうしたコメントは2重にJohnsonに対して無礼である。
まず、彼女自身、死後の生を信じていなかったから。
次に、走ったりスキップできなければ天国の至福は得られない、と
なぜ決め付けるのか?


Happy Nevertheless
By Peter Singer,
The NY Times, December 24, 2008


これを読んで、真っ先に思ったのは、
「障害があったら幸福になれるはずがないのに」という前提に立った
アンタのタイトルの方がよっぽど故人に対して無礼だよ……と。

だいたいJohnsonは最初にSingerの講演に反論した際も
「自分は幸福である」と本人の主観で主張しているのだから、
本人が幸福に生きた人生を
わざわざ他人が「good life であった」などと
自分の勝手な価値判断で“評価”するなんざ、
無礼の極みでなくて、なんなんだ?

しかも、その価値判断の根拠が
「他者にとっても価値のある仕事をしたから」。

アンタ、いったいナニサマのつもりよ?
2008.12.29 / Top↑
21日の朝日新聞で読んだ時にも、ちょっと気にはなったのだけど、

このところPeter Singerの
知的障害者には尊厳も人権を認める必要はないと聞こえるプレゼンを巡って、
「権利」ということについて考えさせられていて、

昨日のエントリーを書く際には
”知的能力”と自分の勝手な思い込みだけで生き物を階層化するHughesの未来型「市民権」を
おぞましく振り返ってみたりもしていたものだから、

昨日から、改めてものすごく気になってきた。

12月21日の朝日新聞の「耕論」が
障害者自立支援法の見直し議論を取り上げていて、

東大教授の障害当事者、福祉智氏が
今回の厚労省社会保障審議会障害者部会の報告書を不十分だと批判し、

石井めぐみ氏が重症児の現実の生活を見据えて「応益負担」を見直せと訴え、

06年まで障害者部会長を務めた国立社会保障・人口問題研究所長の京極高宣氏が
「国民的理解を得るためには応益負担はやむをえない」と主張しているのですが、

京極氏の発言の中に以下のような下りがあります。

障害者も同じ市民と考えるべきで、市民権が剥奪されている場合には合理的配慮が必要だが、市民権以上のものを置くのは反対だ。介護保険も後期高齢者医療制度も1割負担だ。そうでないと国民的理解は得られず行き詰まる。

この部分、ものすごくイヤ~な気配が漂っていないでしょうか。

まず「市民権」という言葉にはとりあえず引っかからないでおくとしても、
「市民権以上のものを置くのは反対」との発言が
「だから介護や高齢者医療の保険制度と同じく応益で負担して当然だ」という話に
ダイレクトに繋がっているのは、ヘンでは?

介護保険と後期高齢者医療制度はいずれも保険制度であって福祉とは別の仕組みなのだから、

この京極氏の発言では、
保険制度には同じ市民として入れてやるが、
それ以上の障害者福祉は「市民権以上のもの」だから認めないという
ことにもなりかねないのでは?

(ちなみに高齢者においては、介護保険ができたことによって
各自治体の意識が低下し高齢者福祉が細ってきた……という指摘も。)

そして、もっと気になって仕方がないのが「市民権」の突然の登場──。

「人権」でも「権利」でもなく
なぜ、ここにきて突然に「市民権」なのか──。

「障害者も同じ市民と考えるべきで」の部分に異議を唱える人は少ないかもしれないけど、
でも、これまでなら「同じ国民」ではなかったっけ?

なぜ、ここへきて「同じ国民」ではなく突然「同じ市民」になるのか?

その「同じ市民」は
後半の「市民権以上のものを置くな」の正当化として持ち出されているだけでなく、
一体何を意味するのか、ちっとも明確ではない「市民権」の話が
巧妙に「制度維持性」の話へと摩り替えられている。

実は京極氏の頭にあるのは
「制度維持に必要な国民の理解が得られない」→「そう何もかも支援など出来ない」と
実は発言とは逆の順番の発想なのでは?

「そう何もかも支援できるか」というセリフをもっともらしくするための都合のよい文言が
「市民権」だったとしたら?

例えば福島氏は自立の定義として、
憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」とは
国民として無条件に最低限の生存が保障されるということだと述べているのですが、
福島氏のいう「国民として最低限の生存が保障される」権利は
きっと京極氏の「市民権」とは別物なのだろうな……と思わせるものが
ここにはないでしょうか。

そして別物なのだとしたら、
障害者当事者やアドボケイトが言う「国民の権利」や「人権」よりも
幅の狭いものが「市民権」では意図されているとしか思えない。

そもそも、日本で「市民権」が云々されるのをあまり聞いたことがない気がするのですが、
いったい京極氏の「市民権」って何なのだろう。

まさか、
ヘルパーが使えず重度障害者が選挙に行けないのは由々しき「市民権の剥奪」だけど、
その同じ人がヘルパーを使えず食事が出来なかったりトイレに行けないのは
「特に市民権が剥奪されているわけではない」とか……?

京極氏の上記発言は
「平等な市民であるために、
障害者は市民権の範囲を超えて支援を求めるべきではない」といっているにも等しいのだから、
「市民権」の定義のし方、この屁理屈の振りかざし方によっては
福祉を否定する方便として、どのようにも使える、たいそう便利な「平等・公平論」。

「合理的配慮」という文言に
国連の障害者人権宣言を意識した警戒感も感じられるので、
もしかしたら、私が無知なだけで、
もっと複雑な背景があるのかもしれませんが、

なにしろ、この「市民権」、
障害者自立支援法の議論にあまりに突然に登場した珍客のような違和感があって、

とりあえず、なんかヘンだぞ、
ここには何かあるぞ、警戒しておきましょうぜい……と。
2008.12.27 / Top↑
前に触れた、9月の認知障害カンファでのSinger講演。
YouTube のビデオはこちら

この部分の内容をざっと以下に。

親には子どもの扱いに関する発言権がある。
例えば、子どもにダウン症など手術が必要な障害があると分かった時に、
それでもその子が欲しいという人もいる。
が、その一方にダウンの子はいらないという人もいる。
親がそうい考えでそういう選択をしても構わないということは明らかである。

重い脳性まひの子どもの親から
「将来こういう障害を持つと教えてもらって
医師から、それでも保育器に入れますかと聞いてもらっていたら
 イヤだと応えていたのに」という手紙をもらったこともある。

このように障害に対する親の考え方は分かれているので、
親が決められるということが非常に大切である。

Ashleyケースについて

LA TimesがAshleyについての記事の冒頭で
「これはAshleyの尊厳の問題である。
 このケースについて検討する人なら誰でも、
少なくともこの点には同意すると思われる」
と書いていることについて、

「尊厳」というのは曖昧な概念であり、
むしろ、ここでは「Ashleyの最善の利益は何かという問題だ」というべきだろう、と。

なぜなら、我々は「最善の利益」という言葉を動物に使うのを躊躇わない。
「最善の利益」がどういう意味か誰でも分かっている。
そのくせ、non-human animals には尊厳という言葉は使わない。

(親のブログで)描かれているAshleyの姿からいえば
彼女のような発達障害のある人が尊厳のある存在だとは自分は思わない。

まず、親の決定権に関しては、

以前のエントリーで触れたWhat Sorts of Peopleの
Thinking in Action シリーズの2つめでカナダ、Aleberta大学のSobsey氏が
親の決定権を認めろという、このSinger講演について
親による殺害まで含む虐待の実例や統計を挙げて、
親の決定権の範囲には制限が必要だと説いています。

2007年論争当初の1月4日に
トランスヒューマニストのJames HughesがCNNでAshley療法を擁護した際にも
Hughesが親の決定権を尊重するべきだと述べるや
番組ホステスのNancy Graceが即座に

これだけ親による虐待が頻発している時代に、ですか?」と突っ込んでいました。

また、Sobsey氏はコメント欄での議論の中で
動物の権利、sentientの権利、人間の権利にクリアな線引きを求める姿勢を批判する中で、

認知能力があるかどうか分からないならば、あるものとの考えたい。
間違いを犯すとしたら、より危険の少ない方を選びたいから」と。

これは当ブログがAshley事件の当初から
「ステレオタイプという壁」として主張し続けてきたことの1つ。

本人に危害を及ぼす可能性がある決定については、
その本人の意識状態がはっきりどちらとも証明できないなら
分かっているが表出できないだけだと見做すべきだと思う。
不当に危害を加えられる人をつくらないために。


次に知的障害者の尊厳・人権と non-human animalsの権利について

Singerの講演は、このビデオの最後の下りになると、
ほとんど動物の権利擁護の立場から
Sentientな動物に尊厳が認められていないことへの面当てで
「それなら知的障害のある人間に尊厳だって認めてやらない」と
ゴネているだけのようにも……。

つまりオランウータンやゴリラにもっと尊厳のある扱いをしろと
主張し続けているのに人間はそれを認めようともしない。
それなら人間の中でも知的レベルの低い連中にだって
尊厳など認めないのでなければ整合性が取れないだろう……ということ?

これについてはSobsey氏のエントリーのコメント欄にあれこれの議論があるのですが、
その中で同氏が、

「知的障害がある僅かばかりの人間に対等の地位を認めなかったら
それで動物の地位が向上させられるわけではない」とも。

賛成。


ちなみにSingerは動物について
何の形容詞もつかない animals と non-human animals とに分けていますが、
non-human animals とはトランスヒューマニストのHughesらの言葉にすると sentientのこととするサイトもあり、
感覚があって、喜びや苦痛を感じることができる存在。

が、人によって場面によって使われ方にはバラつきもあるようで
場合によっては大型類人猿のことを指すのかも。

Sobsey氏もコメント欄で触れていますが、
先ごろスペイン政府は一定の動物に法的権利を認めました。
私もこの時に、Singerが即座に歓迎のコメントを出したのを覚えています。


また、Ashley問題を広く考える上では非常に興味深いこととして、
以下のような運動がSeattleを本拠地として展開しています。


         ―――――――

ちなみにCNNに登場した上記Hughesはその著書“Citizen Cyborg” で
人間が超人類となりサイボーグ社会となった時の民主的な市民権のあり方として
4段階の市民権を設定していましたが、

第1段階目の「完全な市民権」に続く2番目の「障害市民権」の対象とするのは
子ども、精神障害のある大人、それから大型類人猿。

3段階目の「感覚のある財産」の対象と規定されていたのが、sentientな存在で、
ほとんどの動物、胎児、植物状態の人間。

最終段階の「権利を持たない財産」とされていたのは non-sentient(感覚を持たない存在)で、
脳死の人間、胚、植物。

詳細はサイボーグ社会の市民権のエントリーに。
2008.12.26 / Top↑
有料の本文が読めないのはもちろんアブストラクトすら出ていないので、
論文の詳細は全くわからないのですが、
この論文を拾ってきたアラートが2行ほど
読ませてくれた部分によると、

米国で現在、
家族の意思に反しても病院に「無益な治療」を拒むことを認めているのは少なくとも3州で、

カリフォルニア、テキサス、ヴァージニアとのこと。


去年、テキサス州で1歳半の神経難病の子どもが病院から「無益だから治療しない」と宣言され
母親が続行を求めて裁判所に訴えたEmilio Gonzalesの事件以来、

「無益な治療」の問題について考えながら
テキサス以外にどの州で病院に治療停止の決定権が認められているのか、
ずっと確認したいと思っていたので、やっとすっきり。

これは、とりあえず覚書として。
2008.12.25 / Top↑
「こんな判決を下して、他の人にも同じような訴訟を起こせと
お墨付きを与えたことになりますよ」と
自治体側の弁護士が裁判官に毒づいた……という英国高等法院の判決は
去年のちょうど今頃のニュースで見ていました。

赤ん坊の頃から14歳まで両親の手ひどい虐待を受けた31歳の男性が
「里子に出さずに両親の元に戻したのは、ソーシャルワーカーの怠慢」として地方自治体を訴えたもので、

高等法院は大筋で男性の訴えを認め、
損害賠償25000ポンドの支払いを地方自治体(Doncaster)に命じた。

――ここまでが去年の報道。

昨日のTimesの記事によると、
その後自治体側が上訴していたようですが、
上訴裁判所も行政が適切に対応していれば男性は親の虐待を受けないで済んだと判断。
もとの判決は覆らず、自治体は賠償金を支払うことに。

それが2週間ほど前のことで、
これによって虐待から子どもを守る行政の責任が初めて明確化されたことに。

折りしも、英国ではBaby P事件の衝撃がまだ覚めやらず、
関係者に多くの処分が出たり、他の自治体でも児童虐待への対応が問われている最中とあって、
Baby P事件の後、保護申請は26%も増加しているところ。

Timesの調べでは
自治体が迅速に親から引き離してくれなかったために
親からひどい虐待を受けたとする人たち200人から300人が
既に訴訟を起こす準備に入っているとのこと。

一部は Official Solicitor の介入で弁護士に繋げられたケースで
弁護士が子どもの代理として訴えようとしているもの。
その他、既に成人した人たちによるものも。

(Official Solicitor については
英国のKatie Thorpe のケースに関するエントリーでちょっと触れています。)



去年のこのニュースは妙に気にかかって、
「介護保険情報」の連載で取り上げたのですが、
(掲載は今年2月号)

この回は大まかに
科学技術の進歩と人権で、なんともややこしい時代が到来……といった感じで
いくつかのニュースを紹介しました。

このエントリーを書くために引っ張り出してみたら、
上記のほかにも興味深い話があるので、
他に2つばかり以下に簡単に。

Kirk Dickson 35歳。殺人犯。
監獄内で知り合った女性と99年に結婚。
妻は一足先に出所して、Dicksonは09年に出所の予定。
が、その頃には妻は51歳になってしまう……と焦った2人は
妻の出所後の01年に人工授精で子どもを産む権利を求めた。
しかし英国内務省は夫婦の訴えを却下。

納得できない2人は
「結婚して家庭を築く権利」と「プライベートな家族生活を尊重する権利」を
内務省に侵害されたとしてヨーロッパ人権裁判所に提訴。

やはり、これも去年の今頃、
同裁判所の大法廷は夫婦の訴えを認めた。
認められた賠償金の総額は26000ユーロ(約430万円)。

香港で、オランダ領事館の職員が生後4ケ月で養子に迎えた韓国生まれの女の子を
7歳まで育てた後で「オランダ文化になじまなかった」として香港の福祉当局に“返却”。
ごうごうの非難を浴びている。

しかし、背景に目を向けると、もっと深刻な事態が。

近年アジアから欧米への養子縁組が急増しており、
米国だけでも海外から養子を迎える人は年間2万人を超える。
最も多いのは、1979年にスタートした一人っ子政策で
公園や孤児院の前に棄てられた中国の女児が英米に養子に出されるケース。

その一方、非常に気になるのは
臓器や性的搾取、奴隷労働目的で子どもが売買されるニュースも最近よく目に付くこと。

“養子縁組”が、そうした売買の隠れ蓑に使われていることはないのか?
2008.12.25 / Top↑
うちの娘は重い障害のために幼児期には、それはもう言語道断なほどの虚弱児で、
3日と続けて万全な体調が続くということがない子でした。
昼間の病院通いはもちろん、
夜中の救急に駆け込んでそのまま入院になったことも数知れず。

成人してやっと元気になってくれた今になって振り返っても情けなくなるほど
数多くの病院を体験してきたし、緊急入院では小児科以外の病棟に入ることが多かったので
いろんな病院のいろんな病棟で入院を体験してきたのですが、

その中で感じたことの1つが
「病棟というところは“婦長(当時)の王国”なんだなぁ……」ということ。

その後、娘が重症心身障害児施設で暮らし始めると、
やはりそこでも、現場は“師長の王国”でした。

細かい例えで言えば、新しい師長が来ることで
「食事前に子どもたちの手を消毒する」という取り組みが突然始まるかと思えば、
また師長が変わると、その消毒がいつの間にかなくなっていく。

どこもかしこも乱雑で、冬には加湿器がカビだらけ。
「これじゃ空中に細菌ばら撒いてるようなもんだよ」という状況が放置されているかと思えば、
師長が交代したとたんに、あちこちがきれいに整理整頓されるということも起こる。

まぁ、こういう細かいことは、人間のすることなのだから、
そうそう何もかもカンペキには行かないのが当たり前だとは思う。

しかし、もっと本質的なところで、大事なことがガラッと変わることもある。

「体調に気をつけつつ、なるべく外に出て、いろんな体験を」という師長の姿勢が浸透して、
子どもたちにもスタッフにも笑顔が多く、
全体に風通しのいい明るい雰囲気が続いていたのに、
ひどく管理的な姿勢の師長が来たとたんに、
子どもたちが外に出られなくなったばかりか
「安全と健康のため」と長時間ベッドに閉じ込められて
病棟中に重苦しい閉塞感が漂った年もあった。

この年は食事の時間になると、スタッフは無言で
子どもたちの口にスプーンの食べ物を機械的に押し込んでいました。

スタッフが子どもと笑いあうことも
スタッフ同士が冗談を言い合うこともなくなりました。

そして、この年、
デイルームの壁には経管栄養のバッグを吊るすフックがいくつも取り付けられました。
食事の時間になると、ここに重症の子どもたちがずらりと並べられて、
いくつものバッグが吊るされ、そこから管が垂れ下がります。
異様な光景でした。

そこには、ついこの前までは
口から食べさせてもらっていたはずの子どもたちが何人も並べられていました。

あっという間に経管栄養に切り替えられる子どもたちが増え、
夕食後は全員が早々とベッドに入れられるようになりました。

あっという間に子どもたちから笑顔が消えていきました。

この頃、師長は”王国”の様子を問われて、こう答えたといいます。
「最近はやっと落ち着いて仕事ができるようになりました。
 業務がはかどるようになって職員みんなが喜んでいます」

デイルームの子どもたちの傍にはスタッフの姿がめっきり減って、
看護師さんたちは詰め所で無言で机に向かい“業務”をこなしていました。

次の年、師長が変わったおかげで
(もちろん、その過程には色々なことがあったのですが)
壁際の「チューブ栄養補給所」は廃止され、
並べられていた子どもたちの何人かは口から食べさせてもらうようになりました。

             ――――――

脳卒中で不自由な身体になった世界的な免疫学者
多田富雄氏が患者の立場で書かれた本を何冊か読みました。

ほんのわずかな食事を食べるために、必ず誤嚥しては長時間咳き込み続ける苦痛について
氏はどの文章でも繰り返し「地獄の苦しみ」だと書いています。
ものを食べることは拷問である、でも生きるためにはこれしかないのだ、とまで書かれて
他の選択肢はないと思い込まれている様子に
こういう苦痛と誤嚥による命の危険から人を守るための技術こそが胃ろうではないのかと、
私はちょっと不思議なものを感じるのですが、

そんな地獄を毎日味わなくても生きていける選択肢として
鼻からのチューブや胃ろうを提案する人はいないのでしょうか。

それとも提案はされたのだけれど、
多田氏がご自身の選択として口から食べることにこだわっておられるのか。
でも、それならそういう記述が出てきそうなものだという気がするから
余計に不思議な気がしてしまう。

もしかしたら、
摂食障害の程度が同じでも
知的障害が重い人(または意思・感情の表出能力が低い人?)ほど
胃ろうが造設される確率が高い……?

こんな仮説から始まる調査研究、どこかにないでしょうか。
2008.12.24 / Top↑
このところ、Ashleyがらみで胃ろうが頭から離れない。

胃ろうと重症児や高齢者のケアのことを考えていたら、
大好きな有吉病院のこと、大好きな有吉先生のことを書きたくなった。

……といっても私は有吉病院に行ったことはない。

何度か仕事で有吉病院の有吉道泰院長の講演や
看護師の福本京子さんの講演を聞いたことがあって、
そのたびに病院の話を聞き、ユニットケア導入before and afterのスライドなどを見せてもらったので、
勝手にもう何度も行ったところのように親しみを感じているだけなのだけど。

医療法人 笠松会 有吉病院は福岡の小さな病院。
その「田舎の小さな病院」がものすごいことをやっている。

平成4年に 褥瘡ゼロに向けて取り組み開始。
10年には抑制廃止福岡宣言。
その後も、オムツはずしとチューブはずしに本気で取り組んでいる。

ぜんぜん詳しくないし、一応著書も何冊か読んだけど、あまり覚えていないので、
ここら辺は知ったかぶりに過ぎないのだけど、

日本にはかつて(といってもそれほど昔のことではない)外山義という素晴らしい建築家がいて、
施設に入るしかなくなっても、その施設での空間作りを通じて
高齢者に尊厳のある暮らしを保障することができるのではないかと真摯な模索を続けた。
多くの人が痛恨の思いをしたのは、02年の急逝。

有吉病院はその外山先生と出会い、
その薫陶を受けながら外山先生の設計でユニットケアを導入した。
今でもその精神を受け継ごうと毎年外山義先生記念研修会を開いて
様々な角度から高齢者の尊厳を守るケアについて研鑽を重ねている。

私は確か第3回と第4回だったかにお邪魔させていただいた。
参加しておられる方々みなさんの心の中に生き続けている外山先生の声が
誰の話からも静かに響いてくるような、
そして先生への敬愛と、自分たちが遺志を継いでいくんだという決意で
誰もが繋がれていることがじんわりと伝わってくる、熱く和やかな、いい研修会だった。

私が特に忘れられないのは
第4回の「高齢者の『食』とターミナルを支える」の中で、
有吉院長が言ったこと。

体が不自由になった高齢者が体調を崩し食べられなくなったからといって、
なぜ、すぐに点滴だ、チューブだという話になるのか。
なぜ、卵焼きを焼いて食べさせてみようという発想が出来ないのか。

そんなことを言う医師がいるということに、ものすごくびっくりして、
感動と感謝で思わず泣きそうになった。

だって、ずっと娘の施設で、私もそれを思い続けてきたのだったから。

ずっと、もう何年も何年も、そのことを訴え続けて、
介護職の人や看護師さん、セラピストたちには分かってもらえるし
同じ思いを共有もできるのに、
なぜか医師にはどうしても伝わらないことに
ギリギリと歯軋りするような思いをしながら
それでもやっぱり言わずにいられなくて
言い続け、考え続けてきたことだったから。

「食べる」ということは、絶対に「カロリーと栄養」とイクオールじゃない。
そのことは、本当はみんな知っていることだ。
自分の食生活や食へのこだわり、食の楽しみを振り返ってみればすぐにわかることだ。
お気に入りのレストランで気の合う友人と美味しい料理を食べる喜びを
自分たちは当たり前に享受していながら
どうして体が不自由になった人たちにはそんな楽しみなど無用だとばかりに
食をただカロリーと栄養の問題にしてしまえるのだろう。

患者が生活を取り戻し、患者の尊厳が守られるためには、
医療は「じゃぁ卵焼きを」という普通の常識を取り戻さなければならない、と
有吉先生はいつもいろんな言葉で、いろんな問題を通じて訴えている。

有吉先生の「卵焼き」の話、
本当は胃ろうだけじゃなくて、
Ashley事件の本質とダイレクトに繋がっていないだろうか。

このごろ日本でしきりに耳にする「ロボットによる介護」の問題にも、
繋がっていかないだろうか。

私にはそう思えてならないのだけど。
2008.12.23 / Top↑
今ちょっと余裕がないのと、
なんだかアカデミックな哲学議論なので
たぶん余裕があってもついていけない気もして、
内容をまとめて紹介することが今のところできませんが、
英語で読むだけの興味のある向きもあるかもしれないし、
後々のための自分自身のメモとしても、以下にリンクを。

Singer’s Assault on Universal Human Rights
What Sorts of People, December 19, 2008

(9月のNYでの認知障害カンファで)Singerが
「すべからくみんなに人権がある」という考えを攻撃したことについて……というのがタイトル。

このエントリーを書いているのは
カナダのAlberta大学の障害学(だと思う)の教授Dick Sobsey氏。
障害者への虐待を専門に研究してきた人で
Not Dead Yetなど、米国障害当事者運動とも親しいようです。

落ち着いてちゃんと読めばたいそう面白そうな感じはあるし
Ashley事件にもダイレクトに重なってくるのですが、
1月23日に子ども病院が成長抑制でシンポを開いて問題の一般化を狙っていることに
気が気ではないほどの危機感を感じている現在、
論理のパズルのような哲学的議論を読もうとすると、どこかで
成長抑制が一般化されてしまったら実際にホルモン投与されてしまうのは
多くの重症児の生身の体なんだぞ……という思いがむくむくと頭をもたげて、
ふっと、ついていけなくなってしまう……。

結局はそれしかない、と分かってはいるのだけれど、
時々、学者の先生方が象牙の塔で緻密な論理を煮詰めている間に、
現実の世のなかには問答無用の既成事実がものすごい勢いで作られていっているのに……と
歯ぎしりしてしまう。

じゃぁ、どうするんだ? と言われても、
もちろん私にできることは更にないだけに……。
2008.12.22 / Top↑
ここ数日、ある人とAshleyの咀嚼・嚥下機能についてメールをやり取りしています。

コトの起こりは例の認知障害カンファでSingerが
「Ashleyには飲み込みすらできない」と発言したこと。

私はあまり意識にとめなかったのですが、父親のブログによると、
「Ashleyは風邪を引くたびに脱水症状を起こし ER に行くことになるので、
5歳の時に胃ろう造設手術を決断した」と。

(厳密には「手術を決断」としか書いてありませんが、
 ここは経管栄養の話なので、経鼻のチューブなら手術の必要などなく、胃ろうだと思います。)

そこで私のメール相手は
5歳まで口から食べることができたのだから飲み込みはできるはずだといい
Singerの説は間違いだと主張します。

重症児の嚥下機能は何かをきっかけに急速に低下することもあるから
5歳で飲み込めていたから今も可能だとはいえないと私は反論したのですが、

親のブログには去年Ashleyが果物を食べさせてもらっていると見える写真があり、
その人はその写真がAshleyに嚥下機能がある証拠だというわけです。

写真に写っているのはイチゴ、メロン、スイカ。

このうちイチゴとメロンはよく熟れてさえいれば少々咀嚼・嚥下がヘタクソでも
こなせる子どもも少なくないような気がします。

だけどスイカはAshleyのような子どもにとって難物のはず。
ちゃんと噛み砕く能力がないと危険なように思います。

胃ろうを造設しなければならないほどの重症児なら
写真で女性が持っているようなプラスチックのスプーンで切れるサイズのスイカを
自分で噛んで飲み込むというのは無理があるんじゃないでしょうか。

逆に、小さなスイカ片くらいならバリバリ噛み砕いて食べられる子どもなら
もともと胃ろうは不要だったのでは?

私はこれまで、Ashelyの咀嚼・嚥下機能が低いために
誤嚥性肺炎の危険回避のために胃ろう造設しかなかったのだとばかり思いこんでいました。

だから最初、Ashleyはちゃんと食べられるのではないかというメールの相手に
重症児の咀嚼や嚥下の問題はそう単純じゃないと説明しようと苦労していたのですが、
それで写真を眺めたり、上のようなことをあれこれ考えているうちに
「Ashleyがなんで胃ろうなのか」という別の疑問が気になってきました。

父親が書いているように、
風邪を引いたときに水分補給ができなくなり脱水を起こすからというだけなら
その都度の点滴で十分に対応できるのではないでしょうか。
鼻からチューブを入れることだって可能です。
それなら飲み食いが可能になった段階で外せばいいだけですから。

体調を崩すという臨時の事態に備えて
侵襲度の高い胃ろうを日常的に置いておこうと考える医療者または親というのが
私には考えられないのですが、

もちろんAshleyの父親は「普通の親」よりも
はるかにトランスヒューマニスティックな考え方をしていると思われ、
十分にありえることかもしれないなぁ……とも。

しかし、胃ろうは周辺皮膚のかぶれや、内容物の漏れ、
定期的なチューブの交換など、
本人にとっては必ずしも快適とは限らないのだし
何より口から食べることの大切さが日本でも見直されているところ。

親なら普通は
よほど本人の命が危うくなったり、むせによる苦痛が極端にひどくならない限り
できるだけ口から食べさせてやりたいと考えます。
甘いとかすっぱいとか、「ああオイシイ」と家族が目を見合わせる幸せとか
食にはカロリーや栄養分の問題だけではない豊かさがありますから。

そのあたりのことを考えると、
ここでもまた「どうせAshleyには何も分からないのだから
口から食べて、ものを味わうことなどどうせできない。
特に機能面では胃ろうの必要がなくても、
それで十分なカロリーと栄養が確保できて
体調不良の時の脱水も防げる、
さらに3度の食事介助もなくなって介護もラクになるのなら
本人にとっても家族にとっても一石二鳥の利益のあるテクニカルな解決……という
父親の声が聞こえるような気がする――。

おや――?

この論理って、生理痛を回避するために子宮をとってしまおうという彼の論理と同じですね。
痛み止めを飲むとか、毎月ホルモン注射をすることでのコントロールも可能なのに、
そんな七面倒くさいことせずに、いっそ子どもの体を侵襲して子宮をとってしまおうと。
2008.12.20 / Top↑
2006年2月に米国カリフォルニア州で起きた事件。

心身に障害のある25歳の男性 Ruben Navarro氏が
暮らしていたナーシングホームから病院に送られ呼吸器をつける事態となったのですが
脳死と判定されたわけでもないのに医師が母親から臓器提供への同意をとり
呼吸器を外したばかりか
それでも死なないと見るや
臓器を保存するための薬物を大量に投与して
Navarro氏の死を早めたというもの。

詳細は臓器欲しくて障害者の死、早める?のエントリーに。


しかし、以下のNY Timesの記事で見る限り、
この医師が無罪になった理由というのがよく分からない。というか
むしろ、この判決は「臓器提供に死亡提供ルール廃止せよ」というTruogらの主張
肯定するという意味合いのものではないか……と。

あまり内容が多くない記事なので
これだけで判断することは危険かもしれないのですが、

地方検察官は取材にコメントを返していないのでともかくとして
有害物質を不当に処方し与えたとして罪に問われていた
Dr. Hootan C. Roozrokhの弁護士の主張は以下。

・R医師は臓器を採取するために飛行機で駆けつけたが
他の医師らが義務を果たしていなかったために苦しんでいたRubenの
苦しみを和らげる努力をしたのだ。

・Dr. Roozrokhにはなすすべもない状況だったし
彼自身はその気になれば立ち去ることだってできた。
自分が立ち去ってしまえば誰もRubenの治療に当たるものがいないから
R医師は留まったのだ。

・イランからの移民で米国に帰化したR医師は
心臓死後の臓器提供という、あまり使用されていない方法を試みており、
そのやり方では臓器を摘出する前に生命維持装置を取り外すことになる。

気になるのは特に最後の点です。

多くの場合、臓器提供は脳死者から行われているものの
深刻な臓器不足から、ここで触れられているような心臓死からの摘出が増えていると
この記事にも書かれています。

しかし、ここでいう「心臓死からの摘出」というのは、
日本で「心臓死からの摘出を待つのではなく脳死状態からの摘出」と考える意味での「心臓死」ではなく、
脳死に至っていない患者の呼吸器を外して
移植のために心臓死を引き起こして殺そう、という話。

この評決を出した陪審員は
こうした心臓死での臓器提供について明確な方針が必要との声明を出したとのこと。

しかし米国移植学会の前会長のコメントは
「問題となっている事件には微妙なところが多々あることを認めなければならない。
そして、R医師は気の毒だったと同情しなければ」

R医師の弁護士は
「個人としても医師としてもR医師が失った3年間は取り返しがつかない」

Doctor Cleared of Harming Man to Obtain Organs
The NY Times, December 18, 2008


脳死でもないのに、つまり死んでもいないのに
臓器欲しさに呼吸器を外された人の命や苦しみだって、取り返しはつかない――。



2008.12.19 / Top↑
今年のノーベル医学賞受賞者の1人は
子宮がんの原因となるヒトパピローマ・ウイルス(HPV)を発見したDr. Harald zur Hausenですが、
HPVワクチンを製造販売している製薬会社 Astra Zenecaが
この選考過程に不当に関与した疑いが出て、
スウェーデン検察局が調査を行うパネルを立ち上げた、とのこと。

ノーベル委員会委員への贈賄や
同社がノーベル財団のウエブサイトのスポンサーとなるなどを通じて
不当に影響力を行使したなどの疑い。

また、ノーベル賞候補を選考する委員会の委員長であるBertil Fredholm氏は
2006年に同社から報酬をもらってコンサルタントを務めていたことも明らかに。

HPVワクチンを製造しているのは他社なのだけれど、
そのうち2種の製造で特許を持つコンポーネントを開発した会社を
AstraZenecaは去年買収している。

つまり、
ヒトパピローマ・ウイルスの発見がノーベル賞の栄誉に輝けば
計り知れない利益がもたらされる会社だったというわけですね。

それにしても、ここまでするのか、製薬会社……。



以下の関連エントリーで見てきたように
HPVワクチンについては
米国でも義務化に向けてロビー活動が盛んに行われたことから国民の反発を招き、
英国でも保護者らが義務化への動きに反発を強めている様子。

日本でも以下の「検索結果の怪」のエントリーに書いたような
妙なサイトが出現しています。

なぜアメリカの親たちがあんなに強硬にワクチン接種を拒否するのか
私は当初ちっとも理解できなかったのですが、
英米での製薬会社の「人が死ぬのも全然お構いなし」の営利優先主義、倫理観の欠落が
その背景にはきっとあるのだなぁ……と思えてきました。

-------------------

同じワクチンでも話はちょっとズレますが、
アフリカでの治験では字が読めない人が多い国もあるので
危険性をきちんと了解した上で被験者となることに同意しているかどうか……という話を
昨日だったか新聞で読みました。

ゲイツ財団の資金でマラリア・ワクチンの開発が進められていることを思い出し、
あのワクチンの臨床実験もアフリカで行われているんだったなぁ……と。

そういえば「ナイロビの蜂」という映画もありましたっけ。


2008.12.19 / Top↑
17日のエントリー認知障害カンファめぐり論評シリーズがスタート:初回はSinger批判で紹介した
What Sorts of People のSinger発言に関する記事
いくつか長文のコメントが寄せられて、興味深い議論が行われています。

細部の理解がいまひとつで完全に理解できたかどうか自信はないのですが、
個人的に面白いと思った部分のみを以下に。

・「重症の知的障害がある人」は「乳幼児」と変わらないか。

・Singerは2歳までに人間は人格を持つとしており、それ以前の乳幼児と重症の知的障害を持つ人と多くの動物の間には道徳的な違いはない、としている。その間は親に選択権がある、という考えであり、「重い知的障害がある人」は乳幼児と違って人格を持つに至らないので、大人になっても親の選択権が続く、と考える。

・Singerが「重症の知的障害がある人」と「中等度から軽度の知的障害がある人」とを区別しないのは、どちらも「乳幼児と同じ」と考えており、それゆえに「人格ではない」としているからでは? しかし、それならば「中等度から軽度の知的障害のある人はみんな乳幼児のようなのか」という問題が出てくるのでは?

・この議論はそのまま、Ashley事件で問題となった「尊厳」と「利益」の区別に重なってくる。人に尊厳があるためにはカント流に言うと、その人に合理性があること、つまり自分で目的を設定したり、自らの目的の領域において自分自身の王(または女王)であることができることが条件。つまり「尊厳」は自分で自分を統治できる人の内面からくるものであるのに対して、「最善の利益」は外から他者が判断することができる。この違いが前提にあるためにSingerはいともたやすく「重症の知的障害のある人」の話を「中等度または軽度の知的障害のある人」の話へとずらしていくのではないか。つまり、どちらも自分で自分を統治する能力を欠いているので、尊厳は問題にならない、問題になるのは最善の利益のみという前提なのでは。しかし、そのためにはSingerはまず知的障害のある人は自分自身を統治することができないということを証明しなければならない。

・Singerが証明できにくいのは「重症の知的障害がある人」は自分を統治することが出来ないということ。そのため、彼は「ほとんど意識のない人」について話をすることになり、ごく限られた人の話に成り代わってしまう。Singerが導き出す結論そのものが、その前提に問題があるということの証拠のように思う。Singerが抱いている基盤の前提(多くは「幸福は善で苦しみは悪」だとか、「障害はあるよりない方が良い」とか、リベラルな民主主義が本能的に支持してきたもの)が問われなければならないだろう。

【19日追記】
その後、コメントが続いて
上記のコメント内容は訂正されたり追加説明されたりしています。

       -----          -----

ちょうど昨日から
シアトル子ども病院の1月のシンポのテーマにとても問題を感じつつ、
どこにどういう問題があるのかが、なかなかはっきり掴めずにいたのですが、

ここでの議論と
「尊厳」は自分自身を統治できる内面に由来するものだけれど
「最善の利益」は外側から他者が判断することができる、
Singerは最初からその前提でモノを言っている、という指摘が
大いにヒントになって、問題のありかが分かりました。

シンポのテーマは
「成長抑制を評価する:子どもの利益、家族の意思決定、地域の問題」となっていて、
利益から話が始まることが前提とされているのです。

考えてみれば医師らの正当化は最初から次のようなものでした。

いわく、Ashleyには重症の知的障害があり生後3ヶ月(時になぜか6ヶ月)の赤ん坊のようなもの。
いわく、赤ん坊と変わらないAshleyには尊厳がなんであるかすら理解できない。
いわく、Ashleyの親が要望した医療処置は本人の利益にかなうと倫理委は認めた。
いわく、倫理的に判断が難しいケースでは親に決定権がある。

これは上記ブログの議論で指摘されているSingerの前提にそっくりです。

それゆえに医師らの正当化の議論は
Ashleyの「尊厳」から話が始まることなく「利益」に話が終始したのでしょうが、
Diekema医師らは本来は尊厳から話が始まるべき前提があることを実は了解しつつ、
自己保身のために「利益」に終始する詭弁を弄しただけだと思われる点が
Singerとは決定的に違います。

しかも、“Ashley療法”論争では
医師らのこのような正当化に対して、
一連の医療処置はAshleyの身体の全体性や尊厳、人権を侵害するものだとの批判が出たのです。

1月のシンポで真摯に議論するつもりがあるならば、
「子どもの利益」で話を始めるのではなく
「子どもの尊厳と人権」から議論を始めるべきでしょう。
2008.12.18 / Top↑
Cleveland Clinicが発表したところによると、
顔を損傷した女性の顔に死亡したドナーから顔面の80%を移植したとのこと。

顔面移植ではこれまでフランスで2例と中国で1例が実施されており、
米国では初。

そうなると、当たり前のことながら
「ウチは80%を移植して、ほとんどフル・フェイスの移植だから
 これまでのどの症例よりも広範にやった」と
それはもう胸を張っておられるわけですが

世界初のフランス女性の顔面移植については
1年後の経過報告の論文が出されており
概ね良好と報告されてはいますが、
文末のエントリーで紹介したように
腎機能に障害が起きたり、拒絶反応が起きたりしています。

非常に強い免疫抑制剤を飲まなければならず、
万一飲むのを止めた時には移植した顔面の肉がずり落ちてきて
悲惨なことになって取り返しがつかないのだとか。



それにしても、これもまた
高額な医療費が決して問題視されることのない分野。

いまごろ世界のあちこちで
「クリーブランドが80%をやった。
 どこかにフル・フェイスでやれる患者はいないか」と
移植医が焦っていることでしょう。

見る影もないほど顔を損傷して
飲み食いすら不自由になった患者の苦悩を
黙って見ているわけには行かないですからね。

自分の意思さえ満足に伝えられないほどの重い障害を負い、
身動きすら不自由になった患者の苦悩は
黙ってみているわけには行かないから
死なせてあげればよいと考える医師が多いみたいですけどね。


【追記】

翌日の続報(BBC)がこちら


2008.12.18 / Top↑
まったく、もう呆れ果ててモノも言えない気分なのだけれど、
1月にシアトル子ども病院がまたもや「成長抑制」に関するシンポを行うのだとか。

タイトルと病院の当該サイトへのリンク。

Evaluating Growth Attenuation in Children with Profound Disabilities: Interests of the Child, Family Decision-Making and Community Concerns
(重症障害のある子どもにおける成長抑制を評価する:子どもの利益、家族の意思決定と地域の問題)

1月23日の午後1時から4時。
場所はWashington大学法学部。

スポンサーはUWの
The Simpson Center for the Humanities。

さらに「成長抑制プロジェクト・スポンサー」という不思議なものがあって
上記センターのほかに
The Greenwall Foundation
Treuman Katz Center for Pediatric Bioethics(Diekema医師の所属先でもあります)
UWの障害学プログラム

呆れることに、上記ページのどこにも、
Ashleyに行われた子宮摘出の違法性については触れられていません。


しかし、もっと仰天するのは、
20人ものメンバーから成る
「シアトル成長抑制と倫理ワーキング・グループ」というワケの分からないものが
いつのまにやら作られていること。

そのメンバーはこちら

もちろん、真っ先に確かめましたが、
当ブログが要注意人物(マスターマインドかも?)とみなしてきたNorman Fostがやはり入っています。
小児科医はもちろん生命倫理分野の医師は、
この両分野の大ボスによって首根っこを抑えられたも同然でしょう。

なぜ当事者を入れるのか理解に苦しむのだけれど、Diekema医師も入っています。
Trueman Katzセンターの長、Wilfond医師も。

その他に目に付いたところでは、

Ashleyの赤ん坊の頃からの主治医だった発達小児科医のCowan医師。
(06年2月のSalonの記事ではAshley療法に反対できなかった苦悩を語っていたし
 07年のシンポでも司会として行間にいっぱい思いをこめた慎重な発言をしていましたが
 なにしろ組織の利害の中で敢えて抵抗できるほどの強いキャラではなさそうなので
 この人には何も期待できないような気がします。)

06年のAshley論文の掲載誌でエディトリアルを書いた Jeffrey P Brosco。
(この人も07年5月のシンポの最初に講演しましたが
 総論的に障害者と医療の問題をざっと撫でて終わって、
 批判的に論点を挙げたエディトリアルの鋭さはどこへやら
 妙に中立的なところに逃れた感じがしました。
 前のエントリーで紹介した9月の認知障害カンファにもBroskoは登場しており、
 抄録によると医学モデルでのみ認知障害を語ることに疑問を呈したようです。)

Ashley事件について調査報告書をまとめたDisability Rights WashingtonのCarlson弁護士。
(DRWは真相を知っていて病院と取引したのでは、というフシがあるので……)

Eva Kittay
前のエントリーでWilson氏のSinger批判にコメントを入れたとして触れた人。
9月のNYでの認知障害カンファをお膳立てした人の1人で
認知障害のある子どもの母親でもあります。)

Hilde Lindermann
(これも前のエントリーで触れたように認知障害カンファに出ていた人。
育児負担を負う母親に選択的中絶の権利があるとする意見の持ち主。)


その他の人については
私にはこのブログを始めて以後の知識しかないので
リストを見られて、どういう人物かをご存知の方があったら、ご教示ください。


1月23日当日は
このワーキング・グループのオーガナイザー5人が
グループがまとめている報告書について最初に1時間ほど語り、
その後2時間の自由討議。

なにやらUW挙げて、とりあえず正当化しやすい「成長抑制」を急ぎ一般化して
Ashley事件の特異性をうやむやにしてしまおうと躍起みたいですが、

第3者のフリして「評価」などしないでいいから、
きちんと当事者として事実関係を「説明」し、事件を「釈明」しろってば。
2008.12.17 / Top↑
9月にニューヨークで認知障害関連の大きなカンファレンスが開かれました。
テーマは「認知障害:道徳哲学へのチャレンジ」


Ashley論文を掲載したジャーナルで
Gunther & Diekema論文に批判的な論説を書いた Jeffrey Brosco や
同事件に関して「重症児には動物ほどの尊厳も無用」と過激な擁護論を展開したPeter Singer、
07年5月のUWのAshley事件に関するシンポに登場したAnita Silvers

また、これまで当ブログで紹介した人としては
「選択的中絶の権利は子育ての負担を背負う女性にある」と主張する論文を
Hasatings Center Reportに発表したHilde Lindermann など、

多彩なスピーカーが25人も勢ぞろい。
(認知症を論じたプレゼンもあります。)

1月ほど前にこのカンファについて知ってから
とりあえず抄録だけは読み通してから紹介したいと
常にコピーを持ち歩いているのですが、
なかなか全部を読み通せずにいたところ

生命倫理・障害学関連ブログ What Sorts of People が
14日に、なんと、このカンファの内容について議論するシリーズ 
Thinking in Actionを立ち上げてくれました。

今後、火曜・金曜に新しいエントリーをアップしながら
数ヶ月続けるとのこと。

14日の初回はカナダAlberta大学の哲学の教授 Robert A. Wilson氏が
カンファでのPeter Singer のプレゼンの一部を取り上げて批判しています。

Wilson氏の14日のポスト
Peter Singer on Parental Choice, Disability, and Ashley X
(親の選択、障害、Ashley Xに関するPeter Singer の発言)
の中にカンファでのSinger講演の一部のクリップがありますが、

ここでSingerが主張していることは概ね以下のようなあたりで、
これまで当ブログで紹介してきた内容とあまり変わりません。

・ 子どもの障害を巡る親の考えには分断があり、親によって思いは様々なのだから、親の選択権が尊重されるべきである。

・我々が動物に尊厳を云々しないように重症の障害児にも尊厳を考えるのは正しくない。それよりも障害児の最善の利益は何かということを問題にすべきである。(その例としてSingerが挙げたのがAshley のケース。)

Wilson氏の批判も、だいたい当ブログが指摘してきた点と同じで

・「重い精神遅滞」を云々するプレゼンにおいて、Singerはダウン症候群から話を起こし、次いで脳性まひに触れながら最後にAshley問題を取り上げているが、この中で「重い精神遅滞」を伴う障害は最後のAshleyのみである。それぞれの障害の形態や程度の多様性を自分の話の論点にあわせて使い分けることで巧妙に話を進めている。

・Singerが主張していることは基本的には「親の意見や望みには耳を傾け尊重しなければならない」ということであり、障害のない子どもの親と同じことに過ぎないように聞こえてしまうが、ここで論じられているのは障害児の身体を侵襲することや命を切り捨てることの是非である。そのギャップが見えないまま話が飛躍してしまうことの危うさ。

・障害のある子どもの親が自分の子どもと同じ障害が世の中に広まることを願って、敢えて障害のある子どもを産もうと働きかけることも、Singerは親の選択権として認めている。これは聾の親が聾の子どもを産みたいと望むケースにまで繋がるという意識がSingerにあるのか。本当にSingerはそこまで親の決定権が強いものだと主張するつもりなのか。

・SingerはいともたやすくAshleyケースを取り上げて本人利益にかなうとして承認し、重症児が尊厳に値しない存在であることと、親の選択権が承認されるべきであることの証左として解説している。病院の倫理委がプロトコルを踏み外し、ほとんど医学的根拠のない、すべての子どもの人権である成長する権利を侵害した重大なケースであるという認識が欠けている。

このエントリーには
上記カンファの主催者の1人で
障害のある子どもの親でもあるEva Kittay氏からコメントが入っており、
さらに2点を指摘しています。

正常な認知機能レベルを下回る人はみんな
”生きていることそのものが疑われるに十分なだけ重度の”認知障害があるという
暗黙の見解がSingerの考えには存在している。

Singerに限らず、
現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して
知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは
現実の障害に関して呆れるほど無知である。

全く同感。


このカンファについては
Singerをスピーカーに招いたこと自体への批判が出ていたのですが、

Kittay氏は
無知だからこそ障害者が実際に暮らしている場に来て欲しかった、
そして学んで欲しかったのだと述べています。

この「知識と理念だけで実像についてあまりにも無知」だという点については
私も重症児の親として、いつも同じもどかしさを感じている点です。

「Ashleyのような重症児」について議論するのであれば、
実際にAshleyのような重症児がいる施設や家庭を訪ねて、
彼らが本当はどういう子どもたちなのか
その息遣いや顔や目の表情に触れ、
その声のトーンに耳を済ませてほしい。

彼らを最も身近にケアしている人たちから
「彼らにできること」「好きなもの」「嫌いなもの」を聞かせてもらって欲しい。

そして、できることなら、しばらく一緒に過ごしてみてほしい。

彼らの体臭を嗅ぎ、肌に触れてから、
重症児について論じるということをして欲しい。

「Ashleyのような重症児」は
日本でも多くの人が混同して論じたような「植物状態」でもなければ
Singerが弄んでいるような「ただの観念」でもないのだから。

「重症児・者」を論じる場合には
自分が具体的にどういう種類と程度の障害像の人のことを論じているのかを明確にし、
そこからブレることなく議論を進めてもらいたい。


【当ブログのSinger関連エントリー】


【その後 tu_ta9さんのご指摘を受けて、誤解をさけるべく以下を追加】

2008.12.17 / Top↑

昔からの友人と海の見えるドライブインへ食事に行った。

「魚の煮付け定食」を頼んで、しゃべっていたら、
家族連れがやってきて友人の背後の席につくのが見えた。

向こう側の窓際にこちらを向いて娘、その隣に母親が腰掛けて
父親は手前の席に母親と向かい合って座ったので、
私の席からは女の子が正面に見えた。

ダウン症のようだった。20歳くらいか。
(ウチの子と同じくらいの歳かな?)
可憐な感じのきれいな子だった。
穏やかな雰囲気の一家だなぁ……と見るともなく、そう思ったところに
我々の食事が運ばれてきた。

味だけでなく大きさと量で評判の店らしく、
どん!と目の前の置かれたのは巨大な鯛の煮つけ。
そのサイズに度肝を抜かれたオバサン2人はキャアキャアはしゃぎつつ、
しばし食べることとしゃべることに意識を集中した。

昔から早食いの私が先に食べ終わって、お茶を飲みながら、ふと見ると
友人の背後の席の親子はてんでに巨大などんぶりから麺をすすっていた。
寒い外から入ってきて、熱い麺をすすったからだろう、
女の子の鼻から口にかけて立派な青っ洟が2本……。

極太の鼻水2本をてらてらさせながら一心に麺をすする姿は
顔立ちが整っているだけに、そのアンバランスが微笑ましかった。

が、正直なところ、食事を終えたばかりの私は
「わ……」とひるむところもあって、そっと目をそらせた。

自分で鼻をすするとか拭くとかできないのかな、
親もきっと慣れっこで、気がつかないのかもしれないな……と思うと、
ウチの娘は鼻水どころか、よだれも食べ物も口からこぼしたい放題なのだから、
娘を連れて外で食事をする時にはタオルもティッシュも大量に用意して行き
周囲に不快な思いをさせないように気を配っているつもりだけれど、
親はやはり見慣れている分だけ鈍いのだし、
それだけ余計に気をつけないとなぁ……と自戒もする。

そんなことを考えつつ
女の子の鼻水からそらした目をテーブルに戻すと、

げっ……。

友人は鯛の目玉の中に箸を突っ込んで、
嬉しそうな手つきで、ぐしゃぐしゃと掻き回していた。

「ふっふ。これが旨いのよね……」

思わず目が釘付けになってしまう。

ぐじゃぐじゃのゼリー壷みたいになった穴から
友人の箸がゼリーまみれの白い目玉を掬い上げると

穴から友人が手にした茶碗の上へ
さらに、ご飯の上から友人の口へと
ねばぁぁぁぁ~と見るからに強靭そうな糸が、
まるで電柱を渡る電線状に繋がって、
繋がったままキラキラと――。

うぇ、口から顎へも、さらに垂れて――。

ぐえぇぇぇぇぇぇぇっ!

アンタは妖怪か!
お願いだから、切れよっ。その糸っ!
いっそ皿を口元に持っていって、すすれよっ!

頭の中には一瞬で罵声があれこれ渦巻くのだけれど、
ものを言うと言葉以外のものが出そうな気もして、
やむなく黙って目をつぶった。

アンタは子どもの頃から他者に対する想像力というものを欠いてたよ。
自分が楽しいことをする。周りにそれがどう見えようが迷惑かけようが。
アンタは昔から、そういうヤツだったよ――。

心の中で目の前の友人に思い切り毒づいてやった。
そしたら、なんだか急にゲラゲラ笑いたい気分になった。

いいよ。
もう。

みんな。
そのままで――。


友人は鯛を裏返し、今まさに2つ目の目玉に取り掛かろうとしている。
私は窓の外に目をやった。

「あっは。いい天気。今日の海、きれいじゃん?」

2008.12.16 / Top↑
10日に英国TVがスイスDignitasクリニックでの米国人の自殺場面を放送したことを受けて、
スイス国内の医学雑誌 the Revue Medical Suisse の編集長Dr. KieferがDignitasを批判。

Dignitasの繁盛でスイスは“自殺ツーリズム”の中心になっている。
その活動は医療倫理と世論のぎりぎりの線を越えている。
耐えがたい苦痛から逃れたい人だけでなく、
家族や社会の負担を解消するために死にたいという人の自殺幇助までやっている、と。

また、金銭的にも不透明である、とも。

それに対してDignitasは
自己決定権を最重要としており、
自殺幇助の唯一の基準は
「死に至る病気または受け入れがたい障害で苦しんでいて
自発的に人生と苦しみを終わらせたいと望んでいる」ことだ、と。

料金は法律的な事務手続きや致死薬を処方する医師とのカウンセリングを含め8300ドル。

もっと安く請け負いますという組織が他にもあり、
経済的なインセンティブからこうした組織が自殺を勧めることだって
ないとはいえないのでは、とDr. Kieferは懸念。

Dignitasのあるチューリッヒの自治体は“自殺ツーリズム”に歯止めをかけようと
医師によるカウンセリング回数条件を増やしたり、
使用されているペント・バルビツールの供給量を制限したりしているが
Dignitasの方でもバルビツールからヘリウムに方法を変更しつつある。

実際、Dignitasを訪れる外国人は増加の一途で
会員数は過去10年間で6000人以上に膨れ上がった。
現在、平均して週に2人が外国からDignitasに死ぬためにやってくる。

スイス人の自殺のみを幇助するグループExitは
「ドイツ、英国、フランス、イタリアの問題まで
スイスが全部解決してあげるわけには行かないのだから」
他の国も法律を変えるべきだ、と。

Swiss rethink assisted suicide for foreigners
AP (The San Francisco Chronicle), December 14, 2008


「死に至る病気または受け入れがたい障害で苦しんでいる」人とは、
また、なんとも漠然とした条件。

では、例えば、事故で指を1本失ったピアニストが
「もうピアノが弾けない。この障害は受け入れがたい。いっそ死にたい」と言ったら──?

アルツハイマーと診断されたばかりの人が
「どうせ死に至る病気だし、自分がだんだん自分でなくなっていくなんて耐え難い。
 判断力のある今のうちに死んでしまいたい」と言ったら──?

うつ病の人は──?
2008.12.15 / Top↑
The Baijing News が報じたものをNYTimesが取り上げているのですが、
中国で地方自治体の頭越しに中央政府に陳情を行うような不満分子や
その他、行政にとってトラブルメーカーとなるような住民が
地方警察によって精神病院に入れられ、
ベッドに拘束されて薬物“治療”を強要されている、とのこと。

いちいち警察が追いかけて捜査するより効率的な取締りができるし、安上がりだし、と。

しかし、
収容された人が危険な精神障害者だと正式に診断されれば
その人は即座に司法制度から外されると同時に
人権も全て剥奪されてしまうのだとか。

薬物療法で気力を奪って、
政治的な活動を放棄することを誓えば解放される。

この報道で中国全土に怒りが広がっているが、
指摘を受けた Shandong のXintai 市は報道を否定し、
「長年の陳情で精神が不安定になる人もいる」と。

しかし、当初の取材に口を開いた病院の医師は
現在コンタクト不能。

2008.12.15 / Top↑
昨日のエントリー
子どものワクチン接種率を上げるための
開発途上国へのインセンティブ支払いにおける不正に関する調査結果について紹介し、
当ブログが兼ねて注目してきたワシントン大学のIHMEは
ゲイツ財団の保健医療関連資金の取り締まり機関なのかと
疑問を呈したところですが、

今日はNY Timesが社説で
大手製薬会社 Glaxoがゲイツ財団の資金援助で
長く実現が困難視されてきたマラリア・ワクチンの開発に近づいていることを伝えています。

The New England Journal of Medicineに発表された研究によると、
現在有望視されているワクチンは乳幼児の病気を半分に減らしただけでなく
アフリカで既にルーティーンで行われている子ども向けワクチンと
一緒に使っても安全だったとの結果が出ており、

同誌のエディトリアルもこのワクチンの効き目を
マラリア予防の「有望な始まり」だと。

とはいえ、この研究が行われたのは比較的マラリアの少ない地域であり、
マラリアが頻繁な地域での効果に付いては未知数。
来年さらに広く実験が行われなければ何ともいえないのだけれど、

たとえ効き目が完全でなくとも多くの命を救うことになるだろうし、
現在の殺虫剤を塗った蚊帳とマラリア薬の効果を補強することは可能だろう、と。


Glaxo社はもともと軍の職員や旅行者向けのワクチン開発に資金投入しており、
子ども向けのワクチンには財政リスクの点で乗り気ではなかったのだけれど、
そこにゲイツ財団が資金援助を申し出たことから同社も投資することになったという経緯についても触れ、
社説は次のように書いています。

このワクチン候補の開発がここまできたことそのものが
慈善貢献が企業利益を生み出し維持する力への大きな賛辞である。

認可申請は2011年に予定されているとのこと。

The Glaxo-Gates Malaria Vaccine
The NY Times, December 13, 2008


Glaxoといえば、抗うつ薬Paxilを巡って一大スキャンダルがあった会社。

社内の臨床実験段階で擬似薬の8倍もの自殺企図が起こっていたにもかかわらず
データを隠蔽・改ざんしてFDAの認可を受け、
十分な副作用への警告なしに販売したことから
多くの自殺者、未遂者を出し、現在裁判が行われています。

ちらっと頭をよぎったのですが、
アフリカで臨床実験して子どもたちに副作用被害が出ても
米国の被害者のように裁判なんか起こせないだろうな……。



2008.12.14 / Top↑
ガイドラインのタイトルは「人の尊厳」 The Dignity of the Person 。
32ページ。

体外受精も
人間のクローニングも
胎児の着床前遺伝子検査も
胚性幹細胞研究も
胚の凍結も
反対。

子どもを妊娠するのは結婚した夫婦の性行為によってのみ行われるべき、と。

中絶と同じことになるので
緊急避妊薬(the morning-after pill)も経口中絶薬RU-486も禁止。

胚の養子縁組については明確にせず。


Vatican Ethics Guide Stirs Controversy
The Washington Post, December 13, 2008

Vatican Issues Instruction on Bioethics
The NY Times, December 12, 2008
2008.12.13 / Top↑
Bill Gatesという人は「無邪気な善意のヴォルデモート」なのではないかと思えてきた。

        ----------


発展途上国がこれまでGAVI(ワクチン予防接種世界同盟)に申告してきた
接種済みの子どもたちの数は大幅に水増しされたものであり、
実際はこれまで言われてきた半分のペースでしか接種率が上がっていないことが判明。

IHMEの長官、Dr. Christopher Murrayらが
3種類の予防接種について1986年から2006年までに193カ国で受けた子どもの数を洗いなおしたところ、
国によっては実数の4倍、5倍という水増し報告をしていたケースも。

その背景には
ベースラインとする年よりも接種済みの子どもの数が増加した国に対して
その増加分について一人あたり20ドルをその国の政府に支給するGAVIのインセンティブ支払い制度。

GAVIでは、この調査結果を受け、
来年早々にもインセンティブ支払いシステムを更改する、と。

Dr. Murrayは
「今後、世界の保健医療の改善のために追加資源が投入されるに当たり、
資源の使われ方は正確に追跡する必要がある。
資金提供を受けるためには今後は独立した検証可能な計測が求められる」

Number of Children Immunized Has Been Inflated for Years
The Washington Post, December 12, 2008



WPの記事には
GAVIがそもそもGates財団からの75000万ドルを基に作られた機関であり、
この調査を行ったWashington大学のIHMEもまた
Gates財団の巨額の資金によってできた機関であることを
「皮肉なことに」と評していますが、

皮肉どころか、この話、要するに、

「子どもたちにワクチン広めたい」と貧困国政府にゼニでプレッシャーをかけ、
思い通りの成果が出ているのかと思っていたのだけれど、
どうやらそのゼニを騙し取られているみたいで
やれということの方はちゃんとやっていないらしい気がするから
IHMEに調べさせてみたら、やっぱり……。

ムカつくから、今度から正確に申告しないとゼニはやらないぞ、と
ついでにIHMEの長官に言わせてしまった……という話なのでは?

IHMEの長官がどうしてGAVIという別組織のゼニの支払い条件を
こんなふうに云々できるのか、とても不思議なのだけれど
もしかしたらIHMEの研究者もGAVIの職員も、
みんなGates財団のスタッフという意識でものを言っているのかもしれないし。

なにしろ、Gates夫妻が最も力を入れている子どもへのワクチンの普及状況がテーマ。
しかも、この論文、発表されたのは
IHMEの創設と同時に提携関係を発表し
LancetはGates財団に買収されたのか」と揶揄された Lancet誌──。

皮肉どころか、
Gates財団の保健医療関連資金の使い道については
IHMEが警察機能を担って取り締まりますよ、という、たいそう怖い話?

もともとIHMEは今後の数年間で
コスト効率で科学的に分析しなおして世界中の保健医療施策の”通知表”を作ると言っているのだから
Gates財団の資金が流れているかどうかとは無関係に
世界中の保健医療資源の警察官を自認しているんでしょうか。

一体ナニサマだと思ってんだか分からないけど。


(コスト効率計算によって世界の保健医療施策の見直しを図ろうとする
Gates財団とワシントン大学、IHME、Lancetの繋がりについては
「ゲイツ財団とUW・IHME」の書庫に上記リンク以外にもエントリー多数)

この件に関するIHMEのニュース・リリースはこちら
2008.12.13 / Top↑
10日に息子をDignitasで自殺させた両親、不問にのエントリーで
当日、英国のTVが2006年にDignitasで自殺した人の映像を放送することを紹介しましたが、

その放送に先立って、Brown 首相は自殺幇助の合法化は支持しないと表明。

「病気の人や障害のある人が幇助を受けて自殺しなければならないとか
 自分たちは死ねばいいと思われていると感じるような事例は
 英国では決して起こらないようにしなければならない」と。


The Sky TV Real Lives チャンネルが放送した
映像の一部は上記リンクにあります。

元大学教授 Craig Ewert 氏は運動神経の病気で障害を負い
妻の介護を受けながら暮らしていた人物。

彼が妻と一緒にDignitasに到着する場面から
説明を受け、妻の手を借りて同意書にサインする場面、
「このまま病気が進行したら窒息して苦しみながら死ぬことになる。
 苦しんで妻に迷惑をかけてから死ぬのか
ここでこういう手段をとって終わらせるかの選択なら
こっちのほうがいい」などと語る場面があり
ここでは実際の死の場面はカットされています。

YouTubeの当該ビデオはこちらで、
この中には上記Timesでカットされている部分を含むものもあります。

Dignitasの医師が薬物の入ったコップを差し出し
「これを飲んだら死にます」
「これは自分で飲まないといけないんですよ。自己決定の証ですから」と言っています。

Ewert氏はストローで飲み、そばにいる妻と抱擁、別れを交わします。
そして医師が安定剤で眠りに誘導、
飲んでから30分後、画面は音声を残して暗転し
医師の声が「亡くなりました」と。

番組ではDignitasの弁護士が
誰にも幸福をもたらさないような悲惨な状況にある人が
尊厳のある死を選択することは権利であると主張する一方、

ターミナルケアの専門医はこの映像を見て
死ぬ時に窒息で苦しまなければならないというのは誤解で
多くの患者でそうではないとのエビデンスがある。
この人はこんな死に方をしなくてもよかったのに。
自殺幇助は間違っている、と。

          ――――――

私自身は、この映像と記事で読む限り、

Ewert氏も10日の記事のDanielと同じく
ターミナルな患者でもなければ今現在耐え難い苦痛があるわけでもないので、
本来ならDignitasの自殺幇助の対象者にならないはずではないのか、
という点が、非常に気になっています。

記事とビデオでの発言からすれば、
Ewert氏の苦痛は今現在の身体的な苦痛ではなく
むしろ、この先に病気が進行して痛みや苦しみを自分で表現できなくなった時に
苦痛を分かってもらえないままになるのでは、という恐怖と
妻に介護負担を強いていることの罪悪感の2つだったように思われます。

それならば、自殺幇助の合法化が実現したとしても
おそらくは対象になりにくい人なのではないか、というところが
私にはものすごく不思議なのです。

YouTubeの中には
「家族に介護負担を強いないために自殺する人についてどう思いますか」という
問題の設定をしている投稿ビデオもありました。

英国で自殺幇助の合法化を求めている人たちは
一体どういう条件の合法化を議論しようとしているのでしょうか。

それとも「末期患者」だとか「不治で耐え難い苦痛がある」などという条件は
議論の最初からタテマエに過ぎないのでしょうか。

何もかも未整理のままに
非常に危険な議論が進められているように感じられてなりません。
2008.12.12 / Top↑
20年前の母子入園でのこと。

何の用でどこへ行こうとしていたのかは覚えていないのだけど
その日、私は同じ入園仲間のお母さんと2人で母子棟を出て
本館のエレベーターに乗っていた。

母子棟を出てしばらくしてから、
ここにたどり着くまでの日々がいかに大変だったかという話になって、
エレベーターに乗り込む頃には、ほとんど我を忘れてお互いの来し方を話していたのだったと思う。

子どもは共に1歳になったばかり。

それまで、誰にも言えなかったし、
誰に話したところで分かってもらえるはずもなかった怒涛の1年間のことを
やっと語りあえる相手を見つけて、どこかタガが外れたようにしゃべりまくっていた。

なにしろ私たちは子どもが生まれた時に
何の心の準備もないまま一瞬にして「障害児の母親」というものになってしまったのであり、
自分自身はそれ以前の自分と何も変わらない同じ人間なのに、
それ以来どこへいってもエラソーに教育され指導され叱られ小突かれ
どうしようもなく無知で無能で子どもじみた存在のように扱われて、
いきなり今までとは全然別の世界に投げ込まれたような戸惑いと孤独と不安の中で、
やっかいなことだらけの子育てに身を硬くしていたのだから、

母子入園でやっと同じような子を持つ母親仲間と出会った時には
みんなが言葉の通じない外国でやっと同国人に出会えた人のような顔になったし、

それぞれに専門家の心無い言動に傷つけられてきた痛みや
世間の人たちの無理解に感じた悔しさや
同じ体験をした者にしか分かりようのない子育ての辛さを
次から次へと饒舌に語り合って飽きなかった。

その日、エレベーターに一緒に乗った人とは子どもの障害像が同じだったから
他の人以上に同じ体験を重ねてきた者同士の気安さも手伝って
夜毎の娘の号泣に付き合った日々の辛さを語るうち、
つい私は「ほんと、もう殺してやりたいっていう気分になったよ」と口にしてしまった。

もともと露悪的な傾向がある上に勢いがついているので、
自分が何を言ったか、ほとんど意識していなかったし、ドアが開いたので
私はそのまま盛大にしゃべりながらエレベーターを出た。

数秒後、
続いて降りてくるはずの気配がないので振り返ったら、
その人はエレベーターの奥で立ち尽くしていた。
顔色が変わっていた。

気分でも悪くなったのかと、戻って声をかけたら
彼女は立ち尽くしたまま、ぽつんとつぶやいた。

「私だけだなんだとばっかり……」。
「……?」
「あなたも、そんなことを思ったなんて……」

彼女の目から涙がボロボロッとこぼれるのを見た瞬間に
初めて自分が言ってしまったことに気がついた。

「──うん。考えたこと、あるよ。
窓からこのまま投げ捨ててやりたい衝動に駆られて、本当に危うい瞬間もあった」

彼女はエレベーターから出てくると、うつむいたまま

「私ね、子どもが何度も何度も熱を出してちっとも元気にならなくて
泣いてばかりいるし、けいれんは治まらないし、
これ以上どうしてやったらいいのか分からなくて辛くて堪らなかった時に、
こんな子、いっそいなくなってくれればいいのにって考えたことがあった。

それで、そんなことを考える自分はなんて酷い親なんだろう、
こんな恐ろしい鬼みたいな母親はきっと世の中に自分だけだって、ずっと……。」

またちょっと泣いてから顔を上げると、

「あなたは強い人で、そんなことなんか考えることもなく
ミュウちゃんの世話をしてきたんだとばかり思ってた。
そんなあなたでも考えたことがあるんだって聞いてびっくりしたけど、
でも、ちょっと、ほっとした」

そして、曇り空に薄日が差すような微笑み方をした。


     ―――――


私は口調がスピッツみたいだから、よく強い人間だとカン違いされるし
確かに20数年前のあの日の私はまだ自分のことを強い人間だと考えていたかもしれません。

少なくとも「もう殺してやりたいような気分になった」などと口にできたのは
相手が同じ痛みを知っている気安さだけでなく、
「自分たち親子の一番辛い日々はもう終わった」と
オメデタくも考えていたからでした。

人は過酷な辛さのさなかにある時には、
その辛さを語る言葉を持ちにくいものなのではないでしょうか。

人が自分の中にある弱さや醜さを言葉にして語ることができるのは
その弱さや醜さ、辛さに苦しんでいる時期が過ぎて、
ある程度まで乗り越えることができた後なのではないでしょうか。

(これもまた苦しい人が自分から助けを求めることができにくい要因の1つかもしれません)

私は当時、娘が生まれて最初の苦しい1年間をかろうじて生き延びて、
母子入園でリハビリを習い、母親仲間とも様々な専門家とも出会って、
「やっと障害のある子の母親としてスタートラインに立てた。
さぁ、これからが私たち親子の戦闘開始。やってやろうじゃないの」と
ほとんど過剰なほどの闘志を燃やしていました。

だから、辛かった時期のことも露悪的な言葉にできたし
戦闘体制を整えた緊張感に支えられて、強い自分をつかのま保つことができていたのだろうと思います。
どこかに「私は強いから大丈夫」といううぬぼれもあったかもしれません。

でも現実はそんなに甘くはないのです。
あの日の私には想像すらできなかった過酷な日々がその後もまだまだ待っていて、
私は自分がどんなに醜く弱い人間かということを何度もイヤというほど見せ付けられたし
人間としての機能を停止するほどのボロボロ状態にもなりました。

あの日から20年以上を経た今、私は
こと介護や負担の大きな子育てに関する限り、
どんな状況でも常に前向きに明るく何年も頑張り続けられるほど強い人なんて
世の中には存在しないし、存在しなくてもいいし、しないほうがいいと考えています。

この20数年の間に日本の社会は確かに変わりました。
あの当時は遠い北欧の話でしかなかった福祉サービスが日本でも実現したし、
高齢者福祉が充実するにつれて障害者福祉も、
次いで障害児の親への支援も徐々に整ってきました。

私たちの時代には携帯もインターネットもなく
今のように簡単に情報を手に入れることなどできなかったし、
仲間と繋がることも、自分の思いを表現したり発信することも簡単ではありませんでした。
今の若いお母さんたちは、あの頃の私たちに比べれば
もう少し風通しのいい子育てをしておられるのかもしれません。

それでもなお、
「自分が母親なんだから」「自分は母親なのに」と自分を責めて
そのために、助けを求める一歩を踏み出すよりも逆に
もっと閉塞してがんばるしかないところへと自分を追い詰めてしまう人は、
今でも沢山いるのではないか、という気がしてなりません。

制度や支援サービスそのものがあっても、
利用するための一歩を踏み出せないように母親の心に規制をかけてくるものが
日本の社会(というよりも世間?)には今なお根深いのではないでしょうか。

あの日エレベーターで立ち尽くしていた友人の姿を思い出すたびに、
20年経った今でも、自分を責めながら立ちすくんでいる若いお母さんたちが
日本にはまだまだ沢山いるのではないか、と心が痛みます。

それはもちろん障害のある子どもの母親だけではなくて、
負担の大きな子育てや介護を担っている多くの人に
共通して言えることのような気がします。



初めて読んだ時から、
そういう人に、できることなら手渡してあげたいと、ずっと願ってきました。
このほど、その思いをこめて、拙いのですが訳してみました。

2008.12.12 / Top↑
2年半くらい前から「介護保険情報」(社会保険研究所)という雑誌に
「世界の介護と医療の情報を読む」というタイトル通りの内容の
小さな連載を書かせてもらっています。

私がAshley事件と出会ったのも、
その出会いをきっかけにブログを始めたり生命倫理に興味を持ったりしたのも
その後ずっとブログのネタを拾っているのも
この連載を書くためのニュース・チェックを通じてのことです。

10月10日のエントリーで訳してみた「介護者の権利章典」は
連載の始め頃に編集者の方からその存在を教えてもらったもので
機会があれば翻訳・紹介したいとずっと考えていました。

このたび12月号の連載を
「障害のある子どもを殺す母親たち」というタイトルで書き、
合わせて「介護者の権利章典」を紹介させてもらいました。
掲載に当たり、10月10日のエントリーの仮訳を元に
編集部の方々のご意見を伺いながら訳文に手を入れました。

まだまだ中途半端なままに決断するしかなかった箇所の多い拙い翻訳ですが、
今の段階での改訂版ということになるので、改めて以下に。



介護者の権利章典


私には次の権利があります。

1 自分を大切にすること。これは決して自分本位な行いではありません。自分を大切にしてこそ、家族にも良いケアができるのです。

2 たとえ周囲から反対されても他の人に助けを求めること。自分の忍耐と力の限界は自分で分かっています。

3 介護とはまた別の自分自身の生活、家族が健康であったら送っていたはずの私自身の生活を守ること。私は、家族のために無理のない範囲でできることは全てやります。それと同時に、私には自分自身のために何かをする権利もあります。

4 時に怒りを感じたり、落ち込んだり、その他、やっかいな感情を口にすること。

5 罪悪感をもたせたり気持ちを落ち込ませたりして(時にはその両方を通じて)、身内の人間が私を操作しようとする(意識的であれ無意識であれ)のを許さないこと。

6 私が思いやりと愛情と許しと受容の姿勢で接している限り、愛する人に私がしてあげていることに対して私もまた思いやりと愛情と許しと受容を与えられること。

7 自分が成し遂げていることに誇りを持つこと。そして家族のニーズに応えるため時として勇気を奮い起こしている自分に拍手を送ること。

8 家族が私のフルタイムの介護を必要としなくなった時にも私が私のままでいられるように、一人の人間として生きる権利、私自身の人生を生きていく権利を守ること。

9 身体的・精神的な障害をもつ人々を支援する社会資源を求めて、わが国が歩みを進めているのと同じように、介護者を支えるための歩みも進められるよう望み、要求していくこと。

注:原文では介護される人をrelative としていますが、ここでは「家族」と訳してみました。
(児玉真美 仮訳)

「介護保険情報」2008年12月号 P.90

原文の出典は
”CAREGIVING: Helping An Aging Loved One” (Jo Horne, AARP, 1985)ですが、
著者のHorneによると“読み人知らず”とのこと。

私はコピーライトについて詳しいことが分からないのですが、
このエントリーは編集部の了解を得て掲載させてもらっています。

コピーライトは私ではなく「介護保険情報」誌にあるのではないかと思うので
引用、転載される方は「介護保険情報」12月号の出典を
明記してくださるようお願いいたします。
2008.12.12 / Top↑
以下、長野英子さんから某MLに流れた情報を転載。
そんな話が進んでいるなんて全然知らなかった……。

         ------

生活保護問題対策全国会議・東京集会

えっ!? 日本でも生活保護が5年で打ち切りに?
~アメリカ・「福祉改革」の悲劇に学べ!~

  生活保護は、長くても5年で十分だ。

そんな提言が全国知事会・市長会より国になされています。
アメリカでは「福祉から就労へ」をスローガンに、公的扶助の利用を生涯で5
年間とする福祉"改革"が実行されました。しかしそれは本当に「改革」だったの
か、利用者の減少=貧困の減少であるのか。先進国の中でもっとも貧困率の高い
貧困大国アメリカの現実が、その答えと言えるでしょう。
日本では、水際作戦・硫黄島作戦により生活保護を利用できず、餓死・孤独死
する事例が後を絶ちません。しかも国は、このような違法運用を放置するだけで
なく、昨年、あの手この手で生活保護基準を切り下げようとしました。この上、
自国民の生活を最長5年で切り捨てる、そんな制度を日本に持ち込むのはゴメン
です。
この有期保護制度導入に反対の声を上げるとともに、今の日本は果たして誰も
が5年で自立を図ることができる社会なのか、生活保護利用者を取りまく環境が
どういうものか、生活保護はどうあるべきかを、アメリカよりエレン・リース氏
を迎え、当事者・支援者からの報告を交えて、皆さんと一緒に考えていきたいと
思います。

●日 時 12月21日(日)午後1時~5時

●場 所 法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎3階 S306教室
    (〒102-8160 東京都千代田区富士見2-17-1 TEL 03-3264-9240)
    JR総武線「市ケ谷駅」「飯田橋駅」、都営新宿線「市ケ谷駅」
   東京メトロ有楽町線「市ケ谷駅」「飯田橋駅」いずれも徒歩10分
           http:
//www.hosei.ac.jp/hosei/campus/annai/ichigaya/access.html
          (富士見校舎の一角、逓信病院の隣が外濠校舎です)

●内 容
   ☆当事者報告
   ☆基調講演 エレン・リース氏 Dr. Ellen R. Reese
カリフォルニア大学リバーサイド校 人文科学・芸術・社会科学部 准
    教授
専門は社会学で、福祉国家、都市政策、社会運動、特に低所得者や労働
    者の社会権を改善するための取組みについて研究し、「福祉から就労 
    へ」の名の下に実施された「福祉改革」政策を厳しく批判している。
    主著として、『福祉の母への逆風:過去と現在
     (BacklashAgainst Welfare Mothers: Past and Present)』
     (2005年:University ofCaliforniaPress)がある。

   ☆パネルディスカッション等
    吉永純氏(花園大学社会福祉学部教授)
    木下武徳氏(北星学園大学社会福祉学部准教授)
     赤石千衣子氏(しんぐるまざあず・ふぉーらむ理事)
     岩田柳一氏(精神科医、医療法人社団東迅会理事長)
     奥森祥陽氏(京都府・生活保護ケースワーカー)
     河添誠氏(首都圏青年ユニオン書記長)       他

●資料代 弁護士・司法書士 2,000円
       一般 500円(生活保護受給者等は無料)

●主 催 生活保護問題対策全国会議
      http://seihokaigi.com

●後 援 労働者福祉中央協議会(中央労福協)
人間らしい労働と生活を求める連絡会議(生活底上げ会議)

【問い合わせ先】
  〒530-0047 大阪市北区西天満3-14-16
  西天満パークビル3号館7階あかり法律事務所
   弁護士 小久保 哲 郎(事務局長)
   TEL 06(6363)3310 FAX 06(6363)3320
2008.12.11 / Top↑
Baby P事件の余波がなかなか収まらない英国で
学校と自治体を監督する監査官(教育水準監査院との訳も)Ofstedが
事件の起きた自治体Haringeyを高く評価する報告書を出していたことへの批判を受け、

来年から、児童虐待に対する地方行政の対応の不備について
ソーシャルワーカーなど第一線のスタッフが直接Ofstedに告発できるよう
ホットラインを設ける、と。

Baby P case sparks hotline pledge
The BBC, December 10, 2008

じゃぁ、現場の職員から地方行政の対応が鈍いという通報を受けたら
中央政府の機関である Ofsted が直接介入するということなのでしょうか。

それって何だか筋が違うような……。

自治体の児童保護部局が虐待の事実を把握もし、
要注意案件リストに登録もしていたし、
医療と福祉の関係者が本人に60回も接触していたというのに
それでも救えず、
母親と恋人ら大人3人がよってたかって殴る蹴るの暴行で
死なせてしまったBaby P事件──。

(Baby P事件についてのエントリーはこちら)

その衝撃が大きいことは想像できますが
世論とメディアからの激しい非難をかわすためだけに
行政が原理原則を踏まえることをすっ飛ばして
その場限りの対応をしているんじゃないかという気がして。

もちろん不幸な事件の反省に立って必要な改善を行うのは大切なことなのだけれど、

Baby P事件の動揺の中で慌てふためいて自分たちに向けられた世論の指弾をかわすためだけに、
こんなホットラインを設けて現場の第一線と中央の監督局をダイレクトに繋いでしまったら
これまでの英国の児童虐待への対応システムは却って混乱するのでは?


このホットラインの話、
ドイツ人医師の永住希望を巡る先日のオーストラリア政府の対応
なんとなく重なってしまった。

ダウン症の息子にコストがかかるといって医師の永住希望を却下したら
医師不足のオーストラリアでこれまで働いてくれた医師に失礼だと
世論の批判をわっと浴びたものだから
移民大臣があわてて直接介入して現場の決定を撤回してしまった。

家族の障害を理由に永住権を拒否したことを
国連障害者人権条約を批准した国として遺憾だと判断したわけでもなければ
それは障害者差別だとの認識による撤回でもなく、

それが今後のオーストラリアへの永住希望の可否にどういう意味を持つか、
原理原則をきちんと整理したうえでの“修正”でもなく、

ただ、
このケースでは当該医師は確かにオーストラリアに貢献してくださっているし、
ご家族もダウン症のご子息も地域で立派に受け入れられておられることだから、
まったく世論のおっしゃる通りでござい、といって。


それとも、
政治が場当たり的なポピュリズムに陥っているのは
日本だけじゃないということに過ぎない──?
2008.12.11 / Top↑
教育改革に向けて
コンサルテーション(日本のパブリックコメントに当たる)を続けている英国政府は
中間報告で21世紀に向けた新たなカリキュラムの骨格を発表。

小学校の学習領域を以下の6つに分けるというもの。

英語、コミュニケーションと言語の理解
数学的理解
科学と技術の理解
人間、社会、環境の理解
体の健康と幸福の理解
芸術とデザインの理解

これまで教えられてきた伝統的な科目である歴史や地理、宗教は
「人間、社会、環境の理解」に包括されて、
よりプラクティカルな科目に重点をシフトする方向。


子ども学校家庭局の当該ページはこちら

Traditional subjects go in schools shake-up
Primary pupils switch to theme-based learning
The Times, December 8, 2008


教育内容を減らして
その代わり、より深く、より良く教えられるように
小学校に柔軟性を持たせるものだと中間報告の著者Jim Rose卿は言っていますが、

教育は知識が現実の生活に生かされるようなものでなければならないと語った卿が
挙げている例えが「自分のお金の管理」であることや

全体として、いわゆるデジタル・エリートの養成を狙っているような気配、
そして、ここにも「効率的な教育」というビジョンが見え隠れすることが
気になるのですが、

特に初等教育って、
現実の生活にすぐに生かされるようなものではなくて、
もっと長い先にじっくりと芽を出し育っていく種を蒔くことであったり、
種をまくための土壌作りであったり……というものだと思うのだけれど、

土壌作りもなく種もまいてもらえない、水も肥料もロクに与えられないのに、
さぁ芽を出せ、花を咲かせてみせろ、すぐに実を結べと
しかも、こんな芽を出せ、こんな色の花でなければならんぞと
子どもたちが親からも国家からもギシギシと求められていくようで……。
2008.12.11 / Top↑
10月にDignitasの自殺幇助で英国警察が捜査へのエントリーで紹介した話題の続報です。

ラグビーの練習中の事故で胸から下がマヒした23歳の息子Daniel Jamesをスイスに連れて行き、
今年9月にDignitasクリニックの幇助によって自殺させた両親について

英国の検察局長は
1961年の自殺法に照らせば起訴するに足りるエビデンスは十分であるものの
そんなことをしても公共の利益にはならないとして罪に問わないことに決定。

Danielはもともと独立心の旺盛な人物で、
事故後、医師から大きく回復する見込みはないと告げられた後には
“身分の低い存在(second-class existence)”として生きるくらいなら死んだ方がましだと
繰り返し言っていたとのこと。

両親はその気持ちを翻させようと必死に説得を続けたが
息子の決意が固いことからスイスでの幇助自殺に協力することにしたという経緯がある。
両親が自殺をそそのかしたわけではないことから
今回の検察局の判断となったもの。

法的な前例を作るものではないが、
幇助自殺について法律の明確化を迫られるのは必至。

【関連エントリー】
MS女性、自殺幇助に法の明確化求める(英)
親族の自殺協力に裁判所は法の明確化を拒む(英)
(上記の判断で裁判所が言っていたのは法律を変えるのは立法府の責任、ということでした)

(その他、Dignitasに関するエントリーは「尊厳死」の書庫に)


【追記】
この事件は当初の記事がAFPで日本語になっていました。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2530108/3445429
(この中で「二流の生き方」と訳されている部分の原語は second-class-existance,
 「生き方」ではなく「二流の存在」という意味です。)

「障害を負って生きるくらいなら死んだ方がマシ」という誰かの言葉を
聞くたびに思うことなのですが、

障害を負う前の人生で、障害者に対して差別意識の強かった人は
自分自身が障害を負った時に、かつての自分の差別意識が強ければ強いほど
そんな自分を受容することが出来ず、
そんな運命を用意していた人生を許しがたいと感じて、
それでも生きてみようと気持ちを切り替えることが出来ず
むしろそんな人生ならもういいと放り出してしまいたい気持ちになる……
……ということはないのでしょうか。

「“身分の低い”存在になって生きるくらいなら」という言葉が証明するものは
心のどこかで「どうせ障害者なんて」と見下していた彼自身の意識に過ぎないのでは?

それともDanielさんの言葉とその自殺の動機を承認することによって
英国社会は障害者を一段低い身分の存在と認定するのでしょうか。

この記事によると、今日、英国のテレビ局が
Dignitasで幇助自殺を遂げたアメリカ人の自殺の一部始終を撮った
ドキュメンタリーを放送するのだとか。

このドキュメンタリーの存在は以前から知られていて
9月にこちらの記事が紹介していました。

RTE to screen footage of Craig Ewert’s death
The broadcaster has bought The Suicide Tourist, a documentary about the 59-year-old American who wants to end his life
The Times, September 28, 2008

放送後、どのような議論が巻き起こるのか、
とても気にかかります。

      ――――――

それにしても、不思議だと思うのは
この記事の中でもDignitasが自殺幇助を行う対象は
「ターミナルであるか又は不治の病である人」とされているのですが
Danielさんはターミナルではないことはもちろん、不治の病でもありません。

ここに日本の尊厳死協会の尊厳死議論と全く同じ巧妙なズラしが行われていることが
私にはとても不気味に感じられます。

障害は“状態”であって“不治の病”ではないはずなのだけれど。
2008.12.10 / Top↑
最近、なにやら目にすることが多いので
「ベーシック・インカム」って一体なんなんだろうと気になって、
とりあえず、この本を読んでみました。

「ベーシック・インカム – 基本所得のある社会へ」
ゲッツ・W・ヴェルナー著 渡辺一男訳

これを読んだだけで、経済学も何もチンプンカンプンの私が
ちゃんと理解できたとも思えないのですが、
とりあえず私の単純頭がものすごく大雑把に理解したところで言えば、
ベーシック・インカムとは、まさに読んで字のごとく、
生活に最低限必要な所得を全ての人に無条件に保証して
働かなくても誰でも生きていけるよう生存だけは保証しましょう、という構想。

財源は消費税。

なぜ、そんな構想が語られる必要があるかというと、たぶん、
かつてのように労働が所得とシンプルに結びついて
誰でも働けて、働けば誰でも一定の所得が得られるという世の中ではなくなったから。

IT技術の進歩やグローバリゼーションで
万人に行き渡るだけの仕事が世の中にはなくなって
また富を生み出すものが労働でもなくなって、
労働が富を生み、その富で運営される家庭が労働力を再生産する仕組みを前提に
富を再分配して、その仕組みを支えてきた戦後の福祉国家の役割が
もはや機能しなくなっているから。

グローバリズム、ネオリベラリズムによって
資本主義原理が労働者に最低限の人間らしい生活を保障しなくなってしまったから。

もちろん、ベーシック・インカム構想というのは
あくまでも所得保障に留まるので、その他の社会保障は別問題になるのだし、

基本所得によって生存が保障されたら誰もが自由になって
自分の本来の意欲と能力に応じた仕事をすることできるという著者の人間観には
ちょっとついていけないところも感じるのですが、

一番ガーンときたのは
もう、みんなに行き渡るだけの仕事はないのだという指摘。
やっぱり……というか。

本当はそうじゃないのかなぁ……と漠然と感じていながら
そうじゃないフリをして、
そうじゃない前提で回っている仕組みに胡坐をかいて、
一番アンラッキーな人たちを平気で見殺しにしつつ
一番ラッキーな部類の人たちがさらに富むための世の中が作られていっていることを
本当はみんなどこかで感じているのだろうと思うのに。

一部の富める国の利益と欲望のために
貧しい国が搾取され切り捨てられて無政府状態に追い詰められていく世界の状況においても
きっと本質は同じことなのだろうと思うのに。

そして、それは多分、医療や科学や技術においても
もはや万人が少なくとも最低限の恩恵にはあずかれる仕組みが崩壊して
本質的には同じことが進行しているのだろうと思うのに。

そういうことを考えた時に、
たとえ夢物語やユートピアめいているとしても、
ごく一部の最強の人たちだけに富や資源が集中して
彼らの欲望を満たすべく、さらにそこに集中するような世の中を押し進めるために
最も弱い人たちを切り捨てたり見殺しにするのではなく、
とりあえず、みんなが生きていける世の中を目指して
ちょっとこの辺で転換してみようよ、という提案なのだなと。

そうしなければ世の中が成り立たなくなっているかのように
我々はつい思いこまされているけれど、
他の方策もあるんじゃないのか、
考え方さえ転換すれば本当は切り捨てなくても
みんなで生きていける方策はあるんじゃないのか、という提案なのだな、と。

それなら医学や科学・テクノロジーの開発とその利用においても、
ごく一部の富裕層の肥大する欲望を満たすための最先端医療や科学技術が
膨大な資金を投入して開発される一方で
基本的な医療すら受けられないで命を落とす人たちが出てきている不均衡を、
ベーシック・インカムのような構想で転換してみようよ、という提案だって、
ありえるんじゃないだろうか……と。

ユートピアであれなんであれ、
そういうことを考え続け、言い続けることは
やっぱり大切なんじゃないだろうか。

呪文のように繰り返される「社会的コスト」のリフレインに毒されて、
いつのまにか一緒になって「だって、現実にコストの問題が」などと
切り捨てられる側までが切り捨てに加担させられてしまうよりは。


【直接つながっているわけではないけど、やはり思い出したのはこの本だった】
「反貧困 -『すべり台社会』からの脱出」

【くだらない話で申し訳ないけど、前にこんな会話があったのも思い出した】
妄想
2008.12.10 / Top↑
「ネオリベ生活批判序説」(白石嘉治編)という本を読んで、
大半のことが分かったような分からないような感じで頭の中を流れ去ってしまった中で、
1つだけくっきりと頭に焼き付けられたこと。

「小さな政府」というのは決して「弱い政府」ではないんだぞ、
福祉は削るが、警察と軍事力は増強を図り、
国民への支配を強める「強い政府」のことなのだぞ……と。

読んだ瞬間に頭にしっかり刻印されたのだけれど、それでもさらに
ここのところは頭にしっかり叩き込んでおこう、と思った。
2008.12.10 / Top↑