2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
論文のアブストラクトは以下。

In this article, we consider the implications of growth attenuation should it ever arise in the Canadian context. While parental autonomy to make crucial health care decisions and exercise control over minors is not a right that should be lightly dismissed, we argue that growth attenuation is entirely inappropriate and should never be regarded as ethically permissible for children. We ground our perspective in the social model of disablement which stands for the proposition that it is structural barriers that are chiefly responsible for the marginalization experienced by people with disabilities in every area of social life including employment, transportation, and housing. Critical disability theory applies the social model to new public policy problems and we regard our intervention as a modest attempt at rethinking a bioethical dilemma through the prism of critical disability theory. We do so through a review of the case law and through a consideration of relevant ethical principles, paying particular attention to the scholarship of Martha Nussbaum’s theories of equality for people with intellectual disabilities.

本稿では、成長抑制がカナダで起こった場合にどのような問題があるかを考察する。未成年の医療に関する重大な決定をする親の自律(自己決定権)は軽々に否定することのできない権利ではあるが、成長抑制は完全に不適切であり、子どもたちへの実施が倫理的に許容されるものとされてはならないと我々は主張する。その根拠は、障害者が雇用、交通、住まいを含めた社会生活のあらゆる領域で経験してきた周辺化の主たる要因は構造的なバリアであるとの前提に立つ、障害の社会モデルである。Critical disability theory は新たな社会政策の問題に社会モデルを適用しており、本稿は、このセオリーの視点を通して生命倫理のジレンマを再考しようとするささやかな試みと考えている。特にMartha Nussbaumの知的障害のある人々の平等論に注目しつつ、判例法の検証と当該の倫理原則の考察により、論じる。


the Legal Politics of Growth Attenuation
Ravi Malhotra, Katharine R. Neufeld
Windsor Review of Legal and Social Issues, March 27, 2013


上記から全文を読むことができます。

あまり文字が詰まっているわけではないけど71ページもあるので、
私も読むのはちょっと先になると思います。

アブストラクトを読んですぐに頭に浮かぶのは
DiekemaやFostやAshleyの父親の考え方だと、
「だから、ずっと言っているように、アシュリーのような重症児は
そういうところで論じられる『障害者』や『知的障害者』とは違うんだって」
ということになるんだろうなぁ、と。

それをNot Dead YetのDrakeは
Too disabled to be disabled だったか、うまいこと表現していたっけな。

障害が重すぎて障害者にもなれない人たち……。

重症児の親としては、
これは障害者運動の側の無意識にも感じることではあるんだけど。
2013.03.29 / Top↑
前のエントリーからの続きです。


『ろう者が見る夢』にも「インフォームド・コンセント」というタイトルで
人工内耳をめぐる親の選択に触れた章があって、

それによると、人工内耳装用者が増加していて、
あるろう学校の3歳児クラスでは、一人を除いて全員が人工内耳だという。

その子の両親はろう者で、人工内耳を知った上で不要だと判断している。
人工内耳を推奨している大学病院の耳鼻科でも頑固者として有名な親だそうで、
病院側も手術を受けさせようと長時間の説得を試みた。
「一応、保護者の意志は尊重すると前置きをしていながら、
どんなに断っても説得をやめなかったそうだ」(p.134)

そして、ついに根負けした医師は、人工内耳の代わりに新しい補聴器を紹介した。
スイスのフォナック社制のデジタル補聴器ナイーダは高性能で、
人工内耳並みに聴力が回復するという。

著者は次のように書いている。

 そのような高性能の補聴器があるのなら、なぜはじめから紹介してくれないのだろうか。…(略)…一度手術をしてしまったら取り外すことのできない人工内耳に踏み切るより、取り外しがきいて効果も高い補聴器の方がどれだけ安心かわからないと、その両親は言っていた。三歳児クラスの人工内耳児たちは、ナイーダのことは聞かされていないに違いない。デジタル補聴器を紹介しても病院に入るマージンはたかがしれている。人工内耳の手術をさせるほうがよっぽどおいしい。人工内耳の是非はともかく、最近の意耳鼻科医はインフォームド・コンセント(説明と同意)の義務違反ではないかと、その親御さんは語っていた。
(p.134-5)


ん―、アシュリー事件みたい……と思った。
他にも非侵襲的な問題解決の方法はあるのに、
それは最初からオミットしたところから話が始まって、子どもの身体に不可逆な侵襲を加えて、
科学とテクノによる極めて操作的なやり方で問題解決を図ろうとするところ、
それを医療の世界が主導していくところが――。

(ついでに、そこにグローバル強欲ひとでなしネオリベ金融(慈善)資本主義の
利権構造が透けて見えてきたりするところも――。)

しかも、興味深いことに、
この2つの事件は、侵襲的な問題解決の方法をめぐって、
一方は親が拒否して裁判所が最終的に親権を尊重したケース、
もう一方は親がやって、親権の及ぶ範囲が問題となったケース。

なるほど、ウ―レットが第4章で人工内耳の問題を
アシュリー療法と並んで取り上げているはずだわい……。

確かに、子どもの医療をめぐる親の決定権の範囲を考えるのにも、
医学モデルと社会モデルの対立を考えるのにも、
どんどん科学とテクノで操作的になって行く世の中や
その背後に繋がる利権の関係を考えるにも
たいへん意義深いケーススタディだ。

その他、この本から関連の事実関係を以下に整理してみると、

1880年のミラノ会議(ろうの出席者はたった一人だったとか)において
口話法が支持されたことから、各国のろう教育の現場から手話やろう教師が排斥され、
ろう教育の暗黒時代が130年も続くことになった。

その後、北欧でバイリンガル教育が始まり、
障害者権利条約は手話で教育を受け、手話で社会にアクセスする権利を掲げた。

2010年夏、カナダで世界ろう教育国際会議が開催され、
7月20日にバンクーバー宣言が出された。
ミラノ会議の決議を撤回し、様々な弊害について謝罪。
ろう教育プログラムは手話を含むすべての言語とあらゆるコミュニケーション方法を受け入れ、
それを各国に呼び掛けることを決議。

この時「会場のろう者は一斉に立ち上がり割れんばかりの拍手を送った」(p.137)という。


なるほど、このミラノ会議からの流れの先に
人工内耳の問題が接続しているわけですね。

たしかに、障害を修正すべき正常からの逸脱とみなす医学モデルと
障害のある人がそのままに生きていける社会を考えようとする社会モデルの対立が
ここにはくっきりとしている。


ついでに、「リー・ラーソンの息子たち」事件の関連情報を
私自身のメモとして、以下に。(順次、増えていくと思います)

まず、事件の概要をまとめて、とても感動的な記事がこちら ↓
http://www.raggededgemagazine.com/1102/1102ft3.html

事件に対する、ろうコミュニティの抗議サイト
http://www.equalaccesscommunication.com/2002GrandRapidsRally/index.htm

その他は、まだロクに読めていないので、リンクのみ。
http://www.ragged-edge-mag.com/extra/deaftrial1.html
http://www.bridges4kids.org/articles/2002/10-02/Globe10-5-02.html
http://www.bridges4kids.org/articles/2002/10-02/GRPress10-5-02.html

NIDCDの関連統計
http://www.nidcd.nih.gov/health/statistics/Pages/quick.aspx

ろう文化を描いて優れた映画 Sound & Fury (2000)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005RIY3?tag=hatena-bu-22
http://slashdot.jp/journal/200070/%E6%98%A0%E7%94%BB-Sound-and-Fury
http://www.handsandvoices.org/articles/misc/V8-4_soundfury.htm

障害者の権利条約の国連作業部会草案に対する世界ろう連盟(WFD)の見解(全日本聾唖連盟による仮訳)
2012.11.04 / Top↑
「ろう者が見る夢 続々 日本手話とろう文化」木村晴美 (生活書院 2012)


図書館で目についたので手に取ってめくってみたら
「あなたは夢の中で何語で話しているだろうか」で始まる文章が目について、

ろうの両親から生まれ育ったろう者の著者が
夢の中では手話で話していたり日本語を使っていたりする、
父親は寝手話をしている時がある……などなどを語る話に釣り込まれたので、
そのまま借りて帰ってきた。

面白かった~。

私は手話も知らないし、ろう文化についても何も知らないまま、
日本で使われている手話だから、それは日本語なんだとばかり無意識に思い込んでいた。

ところが、違うんですね。やっぱり言語ってそう単純じゃない。

さらに、一般に聴者が使っている手話はろう者が使っている手話とは異なっていて、
ろう者にはたいそう分かりづらいものなんだという。

だから、以下のようなことになる。

 聴者が手話を表出しても、頭の中が日本語であったら、ろう者には理解されない。しかし、頭の中が日本語の聴者には理解できる。そのため、聴者はろう者も分かっているはずだと思いこむ。……
(p.125)

へぇぇぇぇぇ。

聴者の通訳のどこがどのように分かりにくいのかが
懇切に解説されていて、なるほど、なるほど……と、ごっつう面白い。

あ、それから手話にも方言があるんだとか。ほぇぇぇ。

目からぶっといウロコが何枚も落ちた。
自分はいかにろう文化について知らないかということに、
まずは最初の気付きをくれる本だった。

実は前に
アシュリー事件を最も痛烈に批判した法学者/生命倫理学者
Ouelletteの本 “Bioethics and Disability”を読んだ時に、
第4章でAshley事件と並んで取り上げられていた「リー・ラーソンの息子たち」事件は
人工内耳をめぐる親の決定権の問題で、ろう文化が関わっていることから、
その方面にまったく無知な私には自信がなかったために、
関連エントリーの中でこの事件だけパスしてしまった。

(ウ―レットの本については
こちらに関連エントリーをリンクしてあります ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65111447.html)

この本を一冊読んだからといって、
ろう文化が理解できたわけではもちろんないのですが、すごく勉強になったので、
これを機に「リー・ラーソンの息子たち」事件についても簡単に整理を。
(ラーソンが離婚して息子たちは別姓であるため、こういう事件の名称に)

「リー・ラーソンの息子たち」事件の概要は以下。

米国ミシガン州で2002年に起きた訴訟。

離婚したシングル・マザーで、ろうの女性リー・ラーソンはろう文化に誇りを持ち、
ろうの息子2人との家庭での言語はアメリカ手話だったが、
アメリカ手話を使って教育を行うプログラムに空きがなかったために
息子たちは口話法を使うプログラムしかない学校へ入学することに。

手話で生まれ育った息子たちは周りの人とコミュニケーションが取れず、
学校はラーソンにろうの息子2人への人工内耳手術を受けさせるように勧めた。

ラーソンがいろいろ調べたところ、人工内耳にリスクがないわけではなく、
特に生まれつきのろう者には効果も疑わしかったので、拒否したところ、
ちょっとした事件でラーソンが親権を一時的に州に取り上げられた際に、
その間に任命された法定代理人が裁判所に息子たちの手術の命令を求める請願を起こした。

人工内耳手術は子どもたちの最善の利益かどうか、
このケースでの親による手術拒否は裁判所の介入を許す医療的な緊急事態であるかどうか、を論点に、
全米で大きな論争が巻き起こった。

アシュリー事件と同じく、障害者の保護と人権擁護システムMPASが介入。

裁判所は最終的に、手術は子どもたちの最善の利益としながらも、
緊急事態ではないので裁判所の介入で親の決定権を制限することはできないと判断した。


次のエントリーに続きます。
2012.11.04 / Top↑
NDRNの報告書の提言要旨を以下に。
(報告書関連エントリーは文末にリンク)


病院、医療機関に対して

倫理委員会と倫理相談だけでは患者の法的権利を守るには不十分。
特に障害者に成長抑制、不妊その他の医学的に不必要な医療が行われる場合には
デュー・プロセスによって権利を保護する手続きが必要。

倫理委員会には最低1名、
障害者または障害者の権利擁護の経験者を加えること。

障害者への成長抑制、不妊、治療の差し控えと中止について互いに助言できるよう、
米国小児科学会、子ども病院協会、米国医師会、米国臨床分泌医学会、米国病院協会、
米国知的・発達障害学会、NDRNその他の障害者セルフ・アドボカシー団体などの
関係団体が集まるワーキング・グループを作ること。


医療評価機構に対して

この提言に反し、現行の障害者の権利保護規定に違反している病院を認定しないこと。
それらの病院をインターネット上で公開すること。


保険会社に対して

本人同意のない成長抑制療法と不妊手術への支払いを拒むこと。
親の要望と障害者本人の市民権・人権との間に衝突がある、
医学的に緊急でも必要でもない医療については、
十分なデュー・プロセスを経るまで認めないこと。


州議会に対して

親やガーディアンの要望と、障害者本人の市民権・人権の間に衝突がある場合に、
障害を理由にした不妊手術、成長抑制療法、その他
医学的に緊急でも必要でもない医療に関して
デュー・プロセス保護を確立すべく法整備を行うこと。

必要な治療の差し控えについても、栄養と水分を含め(しかしそれに限らず)、
同様の法整備を行うこと。

その際、所定の代理決定スタンダードを用いて
障害者本人の利益を代理する法定代理人が
本人の市民権・人権を利益の衝突がある中でもゆるぎなく熱心に訴えることが必要。
法定代理人には障害者の市民権・人権に関する必要な情報アクセスを。


米国保健省に対して

上記に挙げた関連組織や団体によるサミットを開催し、
デュー・プロセス保護を含め、医療の意思決定が障害者に及ぼす影響について検討すること。

本人同意のない成長抑制療法や不妊手術、その他無用な医療が
親または代理人の要望と本人の市民権・人権が章とする状況で行われる場合には
病院その他の医療機関に、デュー・プロセス保護を義務付けること。
その際、義務違反のあった病院や医療機関には
すべての連邦政府の補助金を打ち切ること。

連邦政府の不妊規制を改正し、連邦政府の補助金を受けている機関に対して
本人同意のない不妊手術、障害を理由にした成長抑制を禁じること。

連邦政府の被験者への保護規定を改正し、
人を対象とする実験を行う組織にはIRB(組織内審査委員会)に最低一人、
障害者または障害者の権利擁護の経験者を含めるよう義務付けること。

連邦政府により多機関連携委員会を設定し、
支援テクノロジー、地域生活、医療・リハビリ用具、その他
障害者のニーズに応えることのできるサービスや支援について
障害児の親やガーディアンに提供できる情報を中央に一元化すること。


議会に対して

P&A機関をはじめ法的保護機関への予算を増額し、
病院その他医療機関へのモニター、医療職への研修、
障害者の市民権・人権侵害の可能性がある場合の調査を推進すること。

義務付けられているデュー・プロセス保護その他の市民権規定に従わない
病院その他の医療機関に対して、連邦政府の補助金を打ち切る法整備を行うこと。



【NDRN報告書関連エントリー】
障害者人権擁護ネットから報告書「“A療法”・強制不妊・生命維持停止は人権侵害(2012/6/20)
障害者の人権を侵害する医療への痛烈な批判: NDRNの報告書「まえがき」(2012/6/22)
障害者への医療の切り捨て実態 7例(米)(2012/6/26)
NDRN報告書:概要(2012/7/7)
NDRN報告書:WI州の障害者への医療切り捨て実態 2例(2012/7/9)
NDRN報告書: A療法について 1(2012/7/13)
NDRN報告書: A療法について 2(2012/7/13)
NDRN報告書:カルメンの強制不妊ケース(2012/7/14)
NDRNのCurt Decker、"アシュリー療法“、障害者の権利、医療と生命倫理について語る(2012/7/31)
2012.08.02 / Top↑
今年5月に米国の障害者保護と人権擁護ネットNDRNが
障害者への“アシュリー療法”、強制不妊、一方的な治療停止と差し控えについて
強く非難する報告書を刊行しましたが、

07年のアシュリー事件で調査報告書を書いたDRW(NDRNのメンバー)のサイトに、
5月22日付でNDRNトップのCurt Deckerのインタビュー・ビデオが
アップされていました。

NDRN’s Curt Decker on Ashley’s Rights
DISABILITY RIGHTS GALAXY, May 22, 2012

それぞれを要約する形で、全Q&Aを以下に。

Q:障害者にとってはアシュリー療法が選択肢となることそのものが問題なのだということが、生命倫理学者や医師にはどうして理解できにくいのでしょう?

A:一つには一般と同じく、重症障害者にはなんの可能性もないという偏見を彼らも共有していること。それから生命倫理学者、特に医師は、専門性に基づいて自分たちが人のことを決めてよいとする教育の影響があって、それらが無知と傲慢という最悪のコンビネーションとなって意思決定を間違える。

Q:A療法の問題を親にはどのように理解させればよいのでしょう?

A:大事なのは親を悪魔扱いしてはいけないということ。彼らは重症障害のある子どもの親になる準備をしてから親になるわけじゃないし、知るべきこともきちんと知らされていない、カウンセリングも受けていない、医師からの情報も間違っている、そんな中で不安から親は間違った選択をしてしまう。だから、どういう支援があるのか、ちゃんと情報提供をし、重症障害のある子どもがいる家族にも会わせて、重症障害のある子どもも成長して大人になれるし、家族と豊かな生活を送れるということを知らせていけば、親もまた違う選択をするようになる。

Q:なぜA事件は障害者の権利運動の今後にとって大事なのでしょう。

A:我々の社会が重症障害者を価値のないものとして扱っており、それがアシュリー療法の正当化の基盤になっているからだ。さらに身体を切り刻んだり他の形で手を加えることや、成長する権利の制限、DNR指定の問題などの差別につながっていく。これまで我々が闘い続けてきた結果、住居、就業、学校ではバリアがなくなってきたのに、こうしたメインストリーミングに反する動きが出てくるなら、社会の根底にある、障害者を価値の低いものとみなす意識と闘わなければ。

Q: セルフ・アドボカシーにおけるP&Aシステムの役割は? どのように活動を?

A:我々は法的根拠のあるシステムとして、全米で障害者の権利の問題に取り組んできて政策、手続き、法規制の重要性も十分わかっている。こうした医療介入が間違っていることについても子ども病院であれ行政機関であれ、出掛けていって問題を指摘しなればならない。

Q:A事件からの5年で、生命倫理学者や医師や医療界を変えること、重症障害者の権利擁護について学んだこととは?

A:彼らを変えることは難しいが、セルフ・アドボケイトで障害者自身の声をあげて行くことだと思う。障害者自身が自分で声をあげられないという問題ではなく、医療界のシンポや倫理システムそのものが障害者を議論から締め出して聞く耳を持っていないという問題。P&Aシステムと法的アドボケイトが支援して、障害者自身の声をそういう場に持ち込めば、医療の姿勢も変わる。

Q: A療法についてセルフ・アドボカシーには言いたいことが多いが、それが届かないのはなぜか。どうしたら変えられるのか。

A:世の中には障害者のことをよく知らないまま、関わりを避けようとする人が多い。特に性に関する問題は正面から取り組まれるのではなく、問題をないものとすることで回避されてきた。一般には、障害児を育てるのは金銭的にも心理的にも大変だろうと思われていて、一般の人たちはそこに自己同視し親に同情してしまうからでは。現実にはそうではないのだということ、重症障害者にも守るべき基本的人権があることを伝えて行く必要がある。

Q: なぜA事件のフォローアップ報告書が重要だと?

A:議論を続ける機会として。A事件以来の議論はあるが、今なお、アシュリー療法の問題は「家族の権利と負担」vs「本人の権利」のバランスの枠組みでとらえられている。議論を障害者の市民権、人権という基本の本題へとシフトしていく。議論を終わらせず、届くべき人の声を議論に届け、適切な手順と規制を作って医療界がアシュリー療法を重症障害者に押しつけさせないように、できると思う。



Decker氏と言えば、
NDRN報告書の前書きも胸を打つ文章です ↓

障害者の人権を侵害する医療への痛烈な批判: NDRNの報告書「まえがき」(2012/6/22)
2012.08.02 / Top↑