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月曜日の以下のエントリーでのafcpさんとのやりとりが、
当ブログがずっと考えてきた問題、“Ashley療法”の根っこ、医療と倫理の問題に迫ってきたようなので、


今朝、afcpさんからいただいた以下のコメントへのお返事を
エントリーに立ててみました。

spitzibaraさんがよく「テクノ」と表現されるものは、どのあたりのものまでが含まれるのでしょうか。

例えば自動車は「テクノ」に含まれるのか、電動車いすは含まれるのか。抗生物質は含まれるのか、抗認知症薬は含まれるのか。ADHDの治療薬としての中枢 刺激薬は含まれるのか、enhancementのための中枢刺激薬は含まれるのか。子宮体ガン患者に対する子宮摘出術は含まれるのか、知的障害児に対する 子宮摘出術は含まれるのか。

そこが読み取りきれなくて、いつも少し混乱します。


なお、afcpさんは児童精神科医で、

ADHDの治療薬をパフォーマンス向上の目的で使うことの是非、
おむつ交換ロボットの実現可能性、
育児ロボットが担うべき機能について
afcpさんのお考えはたいへん興味深いですし

これまでのやり取りについても、
上記エントリーのコメント欄から、ぜひ、どうぞ。

――ここからがお返事の本文です。

私の問題意識は「科学とテクノロジーの急速な進歩により、
これまでできなかったことが可能となって、世の中の価値意識や倫理観が
倫理の議論を尽くし、法整備をするのが追い付かない速度で変容していること」にあるので、

「科学とテクノロジー」の中身も
文系頭の我々一般人の想像が及ばないところにあるだろうものも含め、
常に急速に変わっていく過程にあるものと考えています。

その程度の知識しかない人間に
科学やテクノロジーを論じる資格はないという考えもあろうとは思いますし、
私がafcpさんのコメントから頻繁に受け取るメッセージもそういうトーンのものですが、

私は科学とテクノロジーを論じたいのではなくて、
人間の生き死にや社会のあり方に科学とテクノロジーの進歩が及ぼしている影響と、
その影響下で起きていると私自身が感じている諸々の現象について、
特に危惧される英語圏の国々での出来事や議論の行方について
また特に日本では、それらについての情報が不均衡であることについて
考えようとしているつもりでおり、

それは「科学とテクノロジー」を論じることではなく、
人間について考えることであり、生きることとか、医療や社会のあり方とか
また時代が向かう方向を考えることだと思っています。

科学とテクノロジーを全面否定しているわけではありません。

科学とテクノロジーの個々の技術そのものが道徳的には無価値なものだとしても、
それがどのように使われていくか、社会にどう影響していくかということは
道徳、倫理、人間の尊厳の問題でもあろうと考えます。

子宮摘出という医療介入そのものは単なる技術でしょう。
癌の患者さんがやむを得ず子宮摘出術を受けられるのは
本当の意味でのインフォームドコンセントがきちんとあってのことなら
通常の医療の範囲だろうと思います。

しかし、その技術を、知的障害者の介護負担軽減のためや
知的障害者が性的虐待の被害者になりやすいという別の社会問題への解決策として
または他にもっと侵襲度の低い選択肢があるにもかかわらず、QOLを持ち出したりして、
親の決定権の元で行われることについては別問題だと考えます。

この問題そのものについて、ここでafcpさんと議論しても際限なくなりそうだし
まだ議論が成り立つだけの共通の基盤が存在しないと思うので、しませんが、

Ashley事件以降、この問題は当事者らはもちろん生命倫理学、哲学、障害学、法学など、
様々な分野から議論されており、それこそが、上で述べたように、
この問題が医療だけで検討すべき問題ではなく、広く社会のあり方や
社会の価値意識、倫理観の問題として学際的に、また当事者や一般も含めて議論すべきことである
という証左ではないでしょうか。

“Ashley療法”を一般化しようとしている人たちの問題点の1つは
これを医療の問題としてのみ捉えて、医療の内部で決めればよいことだとして
他の分野からの批判に誠実に応じていないことだと私は捉えています。
また、他の分野が障害や介護に関して積み重ねてきた知見や議論や
そこから出てきた知恵についても、謙虚に学んでみようとする姿勢もありません。

afcpさんが、拙ブログを読まれて混乱されるとおっしゃっているように
時に私の書くものに苛立っておられるように見える要因も、
そのあたりにあるのではないでしょうか。

上記リンクのエントリーのテーマも、よく読んでいただければ、実は
おむつ交換ロボットの実現可能性を問題にしているのではなく、
工学という1つの分野の高い知識を持っているという意識が、
他の知識を欠いている可能性に対する無自覚・無反省に繋がっていることを
問題にしたものです。

「ご自身の専門領域(ここでは科学やテクノ)世界での価値判断」と「社会一般の価値判断」とは
そのまま重なるわけではないということが理解されていない専門職の方々が
日本でも増えているように感じられることと、それが社会に及ぼす影響が、
私の懸念の1つではあるのですが。

例えば、
「感染予防のためには、親が換えるよりも子育てロボットがオムツを換える方が良い」と
本気で考えておられる児童精神科医が出現していることは、
正直、まったく想定外だったので、絶句しましたし、

そういう認識をお持ちの方が子育てについて講演されたりすることを考えると、
本当に怖くて、呆然としてしまいます。

ここでも「何が悪いのか分からない」と言われるのではないかと思いますが、
それは私から見れば、それこそ病気については知識をお持ちでも
人間とか子育てというものがもう一つ分かっておられないからでは、
としか言いようがなく、しかし、それがafcpさんに届くとも思えず、
今回のやりとりから考えれば、この溝はここでは当面、埋めようがないもののように感じます。

なぜ、これほど絶望的なほど言葉が通じないのか、
先のエントリーで取り上げたシンポで抱えて帰った問いでもあり、その問いは、
そちらのエントリーの最後にも書いたように“Ashley療法”論争の根っことも、
Maryland大学であるシンポの「障害、医療と倫理」のテーマとも繋がっているので
私は私なりに、これからも継続して考えていきたいと思います。

とりあえず、
こういう時代だからこそ、医療とその周辺で起きている倫理問題の数々は、
医療の中だけでなく、医療の外の様々な分野の知見を集めて考えるべきだというのは、
既に社会の共通認識だと私は思っているのですが、そのことの重要性を改めて痛感しましたし、

医療の世界の方々にも、そういう認識を共有していただければ、と改めて強く思います。

          ――――――――

エントリーを立てたので、混乱を避けるため、
enhancementについては最後に持ってきました。

私がAshley事件からこちら読みかじった限りでは、米国の生命倫理学者の中でも、
治療目的での薬物使用とenhancementとの間には一線を引いて
後者は認めないという人の方がまだ主流で、しかし、
その人たちも抗生物質をenhancementだと捉えてはいなかったように思うので、
「一貫性がない」というご批判は私だけに当てはまるものではないように思います。

まぁ、FostやSavulescuに言わせるとコーヒーだってenhancementですし、
抗生物質もenhancementだという理屈は彼らの側からは出てきそうな気はしますが。
2010.04.08 / Top↑
オクラホマ州 Tulsa のカトリック系の病院が
患者の終末期医療に関する意思は尊重する一方、
栄養と水分を引き上げることによって死なせることは拒否する、との方針を打ち出した。

もともと去年11月に米国カトリック司教会議が倫理綱領の第5版を発表した際に、
特に栄養と水分に関して患者の事前指示が尊重されないのでは、と
全米で論争を巻き起こしていたとのこと。

しかし、記事をよく読んでみると、
どうも病院側が主張しているのは以下の内容のようなのです。

「元々の病気でターミナルな状態になった人が
栄養と水分を拒みたいという本人の意思がある場合には尊重するし、
死に直面していて、そういうケアが本人のためにならないような人にまで
無理やり栄養や水分を供給するとは言わない。

けれども、
死が差し迫っているのではない人が、
事前指示書によって栄養と水分を拒んでいるとしたら、
それは自殺幇助を禁じたオクラホマ州法に違反する行為であり、
カトリックの教義にも反する。

カトリックの病院としては、
そういう人を餓死させたり脱水死させたりすることはできない。

どうしても、ターミナルでない人が栄養と水分を拒みたいと言うなら
他の病院に転院してもらう手続きをとる」

それに対して、「死の自己決定権」ロビーのC&Cから出ている批判は、

「延命治療中止の決定権を患者に与えた法律を尊重していない。
患者には宗教に関わらず、事前指示書や家族の指示を尊重してもらう権利がある。
だいたい、たいていのアメリカ人は植物状態になった時に
人工的に栄養と水分を供給してほしいなんて思っていない」

つまり、論点はきっと、
植物状態の人やShiavoさんのような重症障害者を
脱水死や餓死させるようなことはしない、という病院に対して、

本人さえ望んでいれば、宗教を問わず、それは尊重されるべきだろう、という批判。

(しかし、その一方でC&Cが「家族の指示」を持ち出していることに注目。
それに「たいていのアメリカ人は」というのも「自己決定」に反する)

Starvation not allowed
Tulsa World, April 4, 2010


栄養と水分の提供は延命治療なのか基本的ケアなのかという議論は
Shiavo事件の後、Ashley事件の頃にはまだあちこちで見たような気もするのだけど、
この頃はあまり目にしなくなってしまった。

「無益な治療」論に押しのけられてしまったような感じがする。

そんな流れの中で、
「ターミナルでない人への水分と栄養の停止は自殺幇助とどこが違うのか」という
問題提起が出てきたことは、考えてみるべき意義があると思うのだけど。

           ――――――

最近、非常に強く感じていることの1つに、
あまりにも世の中の価値意識の変化が速いために、うかうかしていると、

同じ用語が使われているのに、
その意味には、くるっと一回余分なひねりが与えられて
中身がまるで反対の方向を意図するものにすり替わってしまっていたりする、ということ。

例えば、つい2日前に触れたばかりの「介護者支援」。

介護者だって生身の人間なのだから、がんばってもできないことはできない、
介護者が心身ともに健康でいて初めて良い介護ができる、
介護者自身の生活や人生だって大事にする権利もある、
それをサポートするのは社会の役割である、という視点と、

実際にそのための給付やサービスや
介護者のニーズのアセスメント制度を作っている国もある。

私は、そういう「介護者支援」を調べて自分に可能な範囲で紹介してきたつもりだし、
ここ数年、介護の現場で専門家が使い始めた「介護者支援」という言葉も、
そちらの意味だと思うのだけれど、

つい先日、ある工学者の方が
介護負担の軽減のための技術を開発していくことを「介護者支援」と表現されたことに
横っ面をすっぱたかれる思いがした。

そして、これまでの日本には
本来の意味での「介護者支援」が欠けていたことの反省すらないまま、
これから日本での「介護者支援」は「介護負担軽減のための技術開発」を意味することに
なっていくのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

また、その予感には、
「介護者支援」という名の支援技術の提供は
介護負担の軽減と引き換えに、再び家族の中へと介護を押し戻していくものになるのでは……と
“Ashley療法”の論理と同じ矛盾への懸念が含まれてもいる。

去年は、ある介護関係のシンポで
介護分野では知らない人がないくらいに素晴らしい看取りの地域支援を実践してこられた方が
「高齢者は口から食べられなくなったら死」と言われた時に、

この人が訴えたのは、
「口から食べられる間は食べ続けられるために精一杯の個別ケアを尽くしつつ、
病院ではなく地域で支え続けて、それでも口から食べられなくなったら、
そのまま地域で看取れるように、それだけの介護体制を地域に作りましょう」

つまり医療と介護の在り方を変えていこうとの提案だった。

だけど、私が懸念した通り、
そのエントリーにコメントしてきた人の大半には
その人の言っていた「口から食べられなくなったら死」の真意は伝わっていなかった。

特に、その人がメッセージを投げかけていた医療分野の人に
最も伝わっていなかった。

その時、
これからの日本では今のままの病院での高齢者ケアと病院死を前提に
「口から食べられなくなった人には無駄な医療費を使わずに死んでもらおう」
という意味で、それが言われ始めるのだろうな……と、うそ寒い思いで予感した。

英語圏の議論を見ていると、
「終末期の緩和ケア」という言葉だって、
ある人は「きめ細やかな観察と共感、そしてアグレッシブな症状管理」の意味で使い、
ある人は「医療を行わないという選択」の意味で使う。

「尊厳死」だって「死の自己決定権」だって、
それを言っている人の立場によっては、同じ言葉が全く違う内容で使われている。

うかうかしていると、日本でも
「尊厳死」や「緩和ケア」の意味する中身が
いつのまにか微妙に変わっていた……なんてこともあるかもしれない。
2010.04.07 / Top↑
インド、米国、ウクライナなど海外で代理母に大金を支払って子どもを産んでもらう夫婦は英国のヒト受精胚法に違反することになるので、高等裁判所が親権を認めない可能性がある、と生殖補助医療を専門にする弁護士らが警告。
http://www.guardian.co.uk/uk/2010/apr/05/surrogacy-parents-ivf

英NHSから、急性期病院での認知症患者のケア改善すべき点の指摘。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184432.php

英国のホテルに、みそ汁とご飯の和食の選択肢が登場。Bentoなる単語が「和食」の意味で英語に定着しつつあるのかも。
http://www.guardian.co.uk/travel/2010/apr/05/bento-bacon-breakfast-hotels

米国で09年の処方薬のコスト、前年の5%アップ。
http://www.medicalnewstoday.com/articles/184368.php
2010.04.06 / Top↑
オーストラリア政府は自殺の方法を教えるサイトを有害サイトとして検閲し、アクセスをフィルターで封じているが、それらのサイトを見ることができるテクニックを教えるセミナーが安楽死合法化ロビーがによって次々に開催されている。
http://news.smh.com.au/breaking-news-national/euthanasia-workshops-to-fight-filter-20100405-rluv.html

ボブ・ディランの東アジアツアーで、中国公演キャンセル。中国当局が公演を認めなかったため。
http://www.guardian.co.uk/music/2010/apr/04/china-blocks-bob-dylan-gigs

南アフリカの著名な白人至上主義者が自分農園の従業員に殺された事件で、白人至上主義の団体が報復を宣言し、政府が国民の連帯を呼び掛けるなど、緊張が高まっている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/8603048.stm
2010.04.05 / Top↑
【9日追記】
afcpさんとのやりとりで、どうも誤解を招きそうだということに気付いたので、
あらかじめ追加説明しておきます。

この工学者さんは今現在ロボットを作っている方ではありません。ご専門も、ちょっと違いそうです。
現在、研究しておられるのは高齢者を集めて話をさせて知的機能を維持するという試みとか。
ここで取り上げた「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットはできる」というのは
この日のお昼休みの雑談の中で、思いつかれたことだそうです。

(以下、当初エントリーのまま)

しばらく前に某所で聞いて、頭をぶんなぐられたほどの衝撃を受け、
私はいまだにその衝撃から立ち直ることができていない
著名国立大学・工学部の准教授の発言。

おむつの着脱というのは、要は折り紙を畳んだり開いたりするのと同じ動作なのだから
洗車機とUFキャッチャーみたいな装置で作ろうと思えば作れる」

「折り紙を畳んだり開いたり」のところで、この人は、
広げた風呂敷の左右の端っこをつまんで真中に寄せるような動作、
次いで、手前の端を両手でつまんで真中まで持ちあげ、また元に戻すような動作をされました。

それが個人的なヨタ話や世間話の中の発言ならば、
別に目くじらを立てるほどのことでもなくて、
「工学者の中にはアホな人もいるのね」と笑って済むのかもしれませんが、

それは工学者が集まって、介護現場での技術支援を議論するシンポでした。

1日の議論の中で発表者が人権という言葉を使ったのは1度だけ。
「人権を侵害しない範囲でIT技術を」。

その範囲がどこまでであるかを考えるつもりなど
全くなさそうな文脈と口調で。

そんな議論を、
「工学者の人たちというのは、介護現場で多くの人たちが積み重ねてきた議論についても
障害当事者たちがこれまで言ってきたことやリハ医療の世界で研究されてきたこと、
医療倫理の世界で議論されてきたことについても、こんなにも無知で無関心なものなのか……

そして、その無知に対して、こんなにも無自覚なまま、平気でこんな議論をしているのか……」と
初めて知って唖然とし、ずっと、その衝撃を受け止めかねつつ聞いていたので、

シンポも終盤に差し掛かったところで
「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットは作れる」と平然と言える人の無知と、
さらに、その発言を疑問に思うこともなく肯定的に受け止めてしまえる他の人たちの意識のあり方とは
ただ、ひたすらに「あり得ない……」としか思えず、どうにも我慢がならなかったので、
会がはねた後で、その人のところへ行きました。

「私は重症障害児の母親なのですが、
人間の体はモノと違って、そう簡単に思うようにはなってくれないというか、
例えば、寝たきりの人の身体はねじれてきたり、ねじれたまま固まったり
また、ちょっと不用意な力が加わると簡単に骨折したりもするんですけど、
そういうことは、ご存知ですか」

娘の脚の捻じれ方を実演しながら、そう聞いてみると、

「じゃぁ、逆にこっちが聞きたいですけど、
そんなに脚がねじれているのに、どうしてオムツが替えられるんですか」
(替えられるわけがないだろう、という口調で)

まったく予想外のリアクションに絶句して、
瞬間、「それは人間がすることだからだよッ」と怒鳴りつけたい衝動に駆られたのだけど
懸命な努力により、なんとか抑えて、

「そこが介護する人の経験とか技術とかいうもので、
それに介護には阿吽の呼吸というものもあって……」
混乱する頭でなんとか説明を試み始めると、すぐに遮られた。

「それで、脚の角度は何度なんですか?」

「……はぁ?」

「脚の曲がりの角度です。角度さえ分かればテクノロジーで対応は可能です」

「あの、もしかして、寝たきりの人の身体がどういうものか
ご覧になったことがない……とか……?」

「いずれ見に行かなければ、とは思っています」

「……いや、でも……あの、私としては、そういうことすらご存じない方が
こういう場でこういう議論をされている状況そのものが怖い、というか……」

もう何を言っているのか、自分でも、ほとんどワケが分からなくなりながら、
その後もちょっとやり取りした中で、再び強烈に顔面をすっぱたかれた気がしたのは、

「私は介護者支援をやりたいんです」

「え……かっ……かいごしゃ…しえん???……ぐ……ぬぅ」

もう、それ以上にものを言う気分も失せて、とっとと退散した。


介護者にも自分自身の生活と人生を送る権利がある、
介護者も自分自身の人生や生活を送れるように、
レスパイト、介護者手当てや、介護のためのタクシー代の給付、
介護者ニーズのアセスメントやフレックス勤務制度の法制化や、
その他、欧米で様々に整備されてきた介護者支援は、

日本には、長いこと、その視点すらなかった。
やっと、介護者にも支援が必要だと介護現場で言われるようになってきたものの
現実の介護者支援のサービスも制度もまだないに等しい。

娘との体験の中から
そういう視点と制度整備が必要だと痛感したからこそ、
私は「介護者支援」という言葉で、そういう視点の転換とサービスの必要について書いてきた。

それは、このブログでも何度も書いてきた通り。
(詳細は文末にリンク)

「介護者支援」とは、
決して、その日、人権など誰も意識しないまま無邪気に議論されていた
徘徊防止や見守りのための「遠隔監視システム」や
トイレにカメラを持ち込んで動作を読みとり指導する「遠隔介入システム」や
ウツ病や認知症の人の表情からその人の感情を読みとる「表情認識システム」や
「洗車機とUFキャッチャーで作るオムツ交換ロボット」のことじゃない。

だけど、それを、この人に向かって語ろうとすることは不可能だった。

少なくとも私は、この、
寝たきりの人間を見たことすらなくとも、著名大学の工学者である自分には
おむつ交換ロボットは作れると公言する資格があると信じて疑うことのない人との
言葉の絶望的な通じなさを前に、悶絶してしまった。

その悶絶から、まだ立ち直れていないので、
なぜ、いかに、それらは「介護者支援」ではないかという理屈は
ここでも、まだ垂れることができないでいるのだけれど、

あの日、私が、帰りの新幹線で身動きもできず一点を凝視し続けたほどの衝撃を受けたのは、
あの場で、あんなにも無知なまま、またその無知に対して、あんなにも無自覚なまま、
無邪気に議論していた人たちの「善意」が

「世の中の重症児の親を助けてあげたい」と考えて
”Ashley療法”を世界中に広げていこうとするAshley父の「善意」と、
まったく同じタチのものだと感じたからだ。

そして、これは非公式な発言だったけれど、別の工学者の方が言われた
「障害者と認知症患者とでは話が別だからね」という言葉も、

「障害者運動ができるような障害者とAshleyとは話が別だ」と”Ashley療法”を正当化し
「一定の知的レベルに達しない人には尊厳や人権を認める必要はない」とする
Diekema医師やAshley父と、まったく同じ論理だったからだ。


なぜ、医療は障害者について、こんなにも無知なのか――。
なぜ、そのことに、こんなにも無自覚なのか――。

重症児の親としても、Ashley事件を追いかける中でも、
ずっと、その疑問を感じてきたことを、昨日、
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについてのエントリーで書きました。

それでも、もしかしたら、医療はまだマシだったのかもしれない……。

この「洗車機とUFキャッチャーで」発言を聞いた日、
娘が生まれてからの23年間で初めて、そんな言葉が私の頭に浮かんだのでした。


【7日追記】
今日、児童精神科医のafcpさんからいただいたコメントに
「育児ロボット」が登場したので、思い出して、こちらも関連エントリーとして以下に追加。





2010.04.05 / Top↑