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米国内科学会誌に
車いすを使用している成人は
障害のない成人に比べて医師にかかりにくく、
予防医療も非障害者ほど受けられていない、との調査結果が報告されている。

この研究のデザインが非常に興味深くて、

肥満していて半身まひの車いす使用者で、
自力では車いすから診察台に上がることができない架空の患者の
診察予約を電話でとってみる、という調査。

米国4市の内分泌科、婦人科、整形外科、リューマチ専門家、
泌尿器科、眼科、耳鼻咽喉科、精神科の256の医療機関に電話をかけた。

受け入れられないと回答したのは22%。

4%では建物がアクセス不能。

18%が、患者を車いすから診察台に移すことができない、と回答。

高さ調節のできる診察台またはトランスファー用のリフトがあると答えたのは 9%。

診療科の中では婦人科が最もアクセス不能率が高く、44%だった。

論文の結論として、
米国障害者法で求められている内容を医療提供者が理解する必要がある、
車いす仕様の患者への医療のスタンダードが必要である、の2点が提言されている。

Access to Subspecialty Care for Patients With Mobility Impairment: A Survey
Annals of Internal Medicine, March 19, 2013


この問題については
Alicia OuelletteのBioethics and Disabilityの成年期を扱った第5章で、

障害のある女性がリプロダクティブ・ヘルス周辺で
検診をはじめとした基本的な医療すら受けにくい問題を中心に取り上げられていた。
2013.03.29 / Top↑
アザラシ肢症のため、
生まれつき両腕がなく両脚も短い障害を持つ
英国の芸術家、アリソン・ラッパーの妊娠裸像が
英国ロンドンのトラファルガー・広場に設置されたことで
批判が巻き起こった一件について、以下のエントリーで取り上げました。

Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」(2012/1/17)
「アリソン・ラッパーの像」から考えたこと(2012/1/18)


今日、必要があって久しぶりに検索したところ、

以下のブログがラッパーさんのその後を
何枚もの写真と一緒に紹介してくださっていました。

芸術家アリソン・ラッパー
「ハナママゴンの雑記帳」ブログ, 2012/9/2


それによると、あの裸像の石膏取りの際におなかの中にいた息子のパリス君は
現在12歳になったのだとか(誕生日によっては13歳かも)。

子育て中のラッパーさんや、
画家として活動するラッパーさんの姿や作品など、

素敵な写真が沢山あるので、
ぜひ、ハナママゴンさんのブログ・エントリーをご訪問ください。


とても嬉しい発見だったので、
上記12年1月18日のエントリーに書いた以下の個所のコピペと共に、私もエントリーに――。

重症障害児・者を見たことも触ったこともない学者さんたちが
アカデミックな世界で障害のある新生児の中絶や安楽死を議論していることへの疑問から
そういう人たちと「出会う」べく行動を起こしてほしいと、ある人にお願いし、
「見学にいく」のではなく「出会って」ほしいのだと念押ししたのだけれど、

「見学」にいって、フロアで文字通りごろごろしている
いくつもの「ねじれた身体」や「奇妙な身体」を「見て」終わってしまったら、
「自分ならこんな姿になってまで生きたいとは思わない」的な安易な感想に繋がらないとも限らない。

だからこそ、
その中の誰かと触れあい、○○さんという名前を持ち個性を持った人と接し、付き合ううちに、
ねじれた身体が全然問題ではなくなる「○○さんとの出会い」の体験をしてもらいたい。
2013.03.07 / Top↑
これまたBioEdgeネタ。

“Depraved” remarks about disabled cost Cornwall councilor his job
BioEdge, March 2, 2013


英国のCornwallの地方議会の議員(無所属)が
1年前に「障害児は自治体にとってカネがかかりすぎるので殺すべき」と発言したことを
今ごろになって地方紙に報じられ、謝罪するも
激しい非難を浴びて、結局辞職した、とのこと。

BioEdgeが引用している人気ブロガ―のコメントが、まさにズバリ。

Mr Brewer has nothing to apologise for. His view is precisely that which our progressive society manifests toward the disabled in the womb - right up to full-term. There is no 24-week limit when it comes to 'getting rid' of those who can't walk, talk, see, hear or catch a ball. You'll have no problem at all getting your Down's child sliced up and vacuumed out, and you'll even find doctors who will neatly dispose of a baby with a hare lip, for that's an undoubted disability. The glorious achievements of our Paralympians have done nothing to change this.

Brewer氏は何も謝ることはない。彼の見解はまさしく、発展目覚ましい我々の社会が母親のおなかにいる障害児に対して、妊娠中から出産に至るどの時点においても、示す見解そのものである。歩けなかったり、しゃべれなかったり、見えなかったり、聞こえなかったり、ボールを掴めなかったりするような人間を「排除する」ためなら、24週の中絶リミットは適用にならない。ダウン症の子どもは切り刻んで吸引して、ぜんぜん構わないし、口蓋裂の赤ちゃんにも、後腐れなく棄ててくれる医師が見つかる。口蓋裂だって障害に違いないわけだから。英国代表選手がパラリンピックでどんなに素晴らしい成果を出したって、この事態を変えることはできない。


指摘されているのは、この問題ですね ↓
英国議会が障害理由による中絶の実態調査(2013/2/25)


この引用に興味を引かれて
そのブログ・エントリーに行ってみたところ ↓

Disabled people ‘should be put down’ because they ‘cost too much’
CRANMER, February 27, 2013


さらに興味深いものがあった。

2月23日10:22のbluedogさんのコメントで
我が国の麻生太郎財務相の発言が紹介されている。

(私もこのニュースを読んですぐ頭に浮かんだのは、これだった。
でも、この人は辞めていないなぁ……というつぶやきと共に)

You're on to something, Your Grace, this could be the Next Big Thing.

"Heaven forbid if you are forced to live on when you want to die. I would wake up feeling increasingly bad knowing that [treatment] was all being paid for by the government," he said during a meeting of the National Council on Social Security Reforms. "The problem won't be solved unless you let them hurry up and die."

Comment by Taro Aso, Finance Minister of Japan, Monday 25th February 2013.

With this sort of talk becoming fashionable in debt stricken democracies, one can see little incentive to improve survival rates of patients in NHS hospitals.
27 February 2013 10:22


最後のところは、

「負債に苦しむ民主国家でこういう発言がもてはやされるんだから、
NHS病院で患者の死亡率を下げようなんてインセンティブが働くわけはない」


【関連エントリー】
英語メディアが麻生発言を「さっさと死ね」と翻訳(誤訳でしょうか?)(2013/1/27)
2013.03.07 / Top↑
英国の障害者チャリティ、United Response から、
知的障害のある人にも政治や社会に関するニュースを届けようと、
易しい言葉を使い、写真や絵を多用した新聞 Easy News が創刊されている。

United Responseサイトの Easy News ページはこちら。

創刊2013年1月号はこちら。

創刊号では
最初にこの新聞の創刊のニュースが取り上げられた後、
2012年の大きなニュースから以下のものが
短い段落ごとに写真やイラストを伴って報じられている。

・エリザベス女王の即位60周年
・NHS改革
・パラリンピック
・政府の歳出削減策
・ケアホームにおける虐待発覚

(読みやすい英語で簡潔にまとめられているので、
我々非ネイティブにとっても複雑な問題の要点が掴みやすく、たいそう有難い)

今後、2か月ごとに紙とオンラインの両方で刊行される。
CDによるオーディオ・ヴァージョンも近くオンラインで提供。

United Responseでは今後1年間Easy Newsを発行する予算があるが
その後も継続できるよう、寄付を募っている。

このプロジェクトを実現させた Kaliya FranklinさんのGuardian記事はこちら ↓
http://www.guardian.co.uk/society/2013/jan/23/easy-news-people-learning-difficulties?CMP=EMCNEWEML6619I2


【27日追記】
日本でも、全日本手をつなぐ育成会から
同種の新聞「ステージ」が季刊で発行されていました。
2013年新春号で既に64号。全8ページ。年間購読料900円 ↓

http://www.ikuseikai-japan.jp/books/books02.html
2013.02.12 / Top↑
9月に上梓した『新版 海のいる風景』を読んでくださったtu*a*さんから、
今日、とても嬉しいコメントをいただきました。

その中で、p.146の「障害はあるよりも、ない方がいいに決まっている」という個所について
違和感を指摘されているので、それについてお返事を書いていたら
簡単には済まなくなったので、エントリーを立てることにしました。

いただいたコメントの当該個所は以下です(スペースの関係で勝手に改行しました)。

でね、すごく素敵な本でひとりでもたくさんの傷ついてる親たち、
そして、その親たちを知らず知らずのうちに傷つけている人たちに読んで欲しい本です。
でもね、違和感もないわけじゃないです。いろんな人が指摘してるかもしれないけど、
「障害はあるよりも、ないほうがいいに決まってる」っていう部分。
それまでのところで、丁寧に海さんの障害とよりそう大切さが書かれているのに、
そこで急に突き放された感じがしました。

そして、tu*a*さんご自身がこの問題ついて書いてこられたものとして、
3つの文章のリンクを教えてくださいました。以下かなり舌足らずですが、
コメント欄に書くつもりで書き始め、長文になってしまったお返事です。

        ――――――

tu*a*さん、風邪だいじょうぶですか。インフルエンザでなければいいですが。
そんな大変な時に追加コメありがとうございます。
おっしゃること、とてもよくわかります。

tu*a*さんのツッコミは、インターネットでよくある「意固地な否定」でも「反発を伴う攻撃」でもなく、
いつも問題意識の共有へのお誘いであり、共に考えるための問いかけなので、本当にありがたく、
これを機に今の段階での私なりの思いや考えをちょっとだけ整理してみました。
貴重な機会を与えてくださって、ありがとうございます。

まず、今回の『新版』では、前後に書き足した以外の本論部分は「てにをは」程度の訂正のみで
10年前のままで出してもらっています。

今も不勉強のままだけど、これを書いた10年前はほんっと~~~に何も知りませんでした。
今の私ならこういう書き方はしないな、という個所は他にもいくつかありますが、
基本的には10年前に書いた部分は10年前に書いたものとして内容には手を加えないことにしたものです。

ご指摘の個所について、一つ言い訳すれば、
10年前にそういう程度の意識だった私には、
障害者を美化して「勇気をくれる普通以上の存在」に祭り上げる世間と、
障害は個性にすぎないと過剰に強調して、それに対抗しようとする人達双方への反発があって、
問題の下りでは、既に前者への反発を書いた後に後者への反発を書こうとしているのだと思います。

だから、私は野崎さんほどいろいろな思索を経ているわけではなくて
何も知らない一母親の感想みたいなものけれど、言わんとすることの方向性としては、
リンクしてくださった、こちらの2つのエントリーは全然ズレていないと思います。
(私のコメントはやっぱズレている気もしますが、私の連想は以下に書く①のところにあったのだろう、と)

http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_18.html
http://tu-ta.at.webry.info/200909/article_1.html

「違う。個性じゃない、障害は障害であって、わざわざ個性だと別物に言いなしたり、
違いがあるのにないフリをして見せなくても、障害は障害だと認めたうえで、
障害とともに日々を幸福に生きていくことはできる」ということを言いたかったのだと思います。

それを言うために何の疑問もなく「ない方がいいに決まっている」と書いてしまえるほど、
10年前の私は問題意識が低かったということなんですけど、これを書いた時の私は、
社会から障害児者の存在そのものを否定される可能性になど頭が及んでいなくて、
目の前の世間サマの言動にイチイチ頭にきて鼻息を荒くしていたのでした。

tu*a*さんの最初のリンクの文章(http://www.arsvi.com/2000/0103tm.htm)は、
このブログで出会った頃に教えてもらったものだと思うんですけど、
私にとってはあの時が「障害はないにこしたことはないか」という問いと初めての出会いでした。
(その時のエントリーはここに ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47385557.html#47424234)

でも、あの頃はまだシンガーとか功利主義者からの攻撃について十分知らなかったから、
実はピンと来ていなかったんです。

あの後で、たしか意識の有無が治療の停止で問題になることを取り上げたエントリーで、
私が重症者の意識の有無は証明できないと書いたのに対して、
「では意識がなかったら死なせてもいいのか」とtu*a*さんが突っ込んでくださって、
それもまた私には、その問いとの初めて出会いでした。

(そのエントリーを見つけたくて、午後中ずっと探していたんですけど、
なにしろ4800くらいあるのを後ろからと前からと見て行ったのに、見つからなくてグヤジ~~~~)

あの時すぐに答えられず、そのままずっと抱えていて、
『アシュリー事件』を書く過程で少しずつ自分なりの答えを見つけていった気がします。
そして、tu*a*さんが投げかけてくださったあの問いと自分なりにそこで見つけた答えとが、
『アシュリー事件』のある個所を書くための土台になってくれました。

そんなふうに私はアシュリー事件との出会いから障害学や障害者運動について知り、
いろんな人と出会うことを通じて、本当の意味でものを考え始めたんだなぁ、と
今日の午後、コメント欄をたどりながら改めて痛感したところです。
tu*a*さんから教わったことは本当に多いです。

そうしてブログを6年やってきて、もちろん今の私は
146ページの文脈で「ない方がいいに決まっている」という単純な断言はしないと思いますが、
正直言うと「障害はないにこしたことはないか」という問いへの自分なりの答えは
今もまだきちんと書けるほどには出せていません。

障害のない人生を送らせてやりたかった、という親として素朴な思いは
尽きることのない悔いのようなものとして、ずっとあります。
娘に障害があること、それによって彼女の人生に制約が生じてしまっていることには、
やはり「悲しいことだ」と受け止めたり、感じる自分がいます。
私にとって障害はいつも娘から「奪って行くもの」だったし、
成人して障害は重度化しており、これからさらに娘から奪われていくものを思うと、
本当に悲しく、やりきれない思いになります。

ただ、だからといって、それは現在の娘を否定する思いではないし、
今の娘を見て不幸だとも思わない。むしろ、うちの娘は
彼女なりに幸せに暮らしているように見える。

介護者支援の必要を訴えようと思えば、
介護負担のことや離職からの傷ばかりを語ってしまうことになるし、
それらはすべて真実だけれど、それは一面の真実であって、それがすべてなわけじゃない。
しんどいことも悲しいこともないわけじゃないけれど、海の母親として自分を不幸だと感じてはいません。
むしろ、私はこの子の母親であることをとても幸せだと感じています。それは父親も同じです。

個々の事柄や状況については苦だとか悲しいことと感じることはあるけど、
だからといって娘や私たち親がそのために人として不幸だとか、
私たちそれぞれの人生が不幸だというふうには感じていないし、
そんなふうにして日々を生きているのは障害のある人とその家族に限らず、
誰にとっても、人が生きるということそのものがそういうことなんでは――? 

敢えて言ってみれば、そんな感じでしょうか。

親として娘の障害に向ける思いはひと色ではなく、
そこには様々に相矛盾する思いがあって、それらの思いが、たとえば
新型出生前遺伝子診断を巡る議論と自分の中でどのように接続していくのか。

そういうところまでは、まだきちんと考え詰められていません。
これもまた前回と同じく、tu*a*さんからもらった宿題として抱えさせてください。

ただ、せっかくなので、今の段階でこの問いについて考えることを3つばかり、以下に。

① 本来、選べないことをあたかも選べるかのように問うことへの疑問。
何のために問うのか、その問いには予め議論の方向性が設定されていることの問題。

例えば以下のエントリーに書いたような疑問です ↓
「健康で5年しか生きられない」のと「重症障害者として15年生きる」のでは、どっちがいい?(2010/8/20)
障害者差別としてボツになった配給医療基準「オレゴン・プラン」が、HIMEによってグローバルに復活することの怪(2011/12/20)

② シンガーやトランスヒューマ二ストの人間観は
人をそれぞれの「能力の総和」として捉えて、しかもバラバラに存在する個体とみなしていて
その個体の能力が高くなればその個体がそれだけ幸福になる、といった数式か記号のような存在だけれど、

本来、人間はもっと関係的な生を生きており、
人と関わり繋がりあって、その関係性の中から生じてくる
「あなたにとってかけがえのない私」「私にとってかけがえのないあなた」であるような
「かけがえのなさ」を生きる存在なのだと考えれば、

そうした問いに前提されている「能力が高い方が優れている」「能力が高ければそれだけ幸福である」
という人間観そのものが間違っているんでは?

③ それからtu*a*さんが結論されているように「『ないにこしたことはない』と強調し過ぎることが
そう思わない人の生き難さを強要するのであれば、それはやめたほうがいい」と同時に、

こうした議論が繰り返されることによって、
他者に対する想像力がさほど高くはない10年前の私のような、
ごく普通に「知らない」「余り考えていない」人が引きずられて「そうだ」と思わされ、
それが「どうせ」の共有に繋がって、昨今の「障害のある生は生きるに値しない」価値意識へ、
さらに「救うに値しない」意識の拡大につながるのだとしたら、
繰り返す前に、立ち止まって、それを問うこと問われることの意味そのものを振り返ってみた方がいい。

ここから先は、また時間をかけてぐるぐるしながら
自分なりにtu*a*さんからもらった宿題と向き合っていきたいと思います。
いつか、ゆっくりお目にかかって、このことについても語り合えたら、すごく嬉しいです。
(とはいえコメント欄でのご提案の場は私にはちょっと荷が重いですが)

本当にありがとうございました。風邪、大事にしてくださいね。

うちの娘も土曜日の夜中にいきなり高い熱を出して、悪寒でガチガチしながら唸り続けて可哀そうでした。
でも日頃は他人の中で立派に暮らしている25歳の彼女に、まだこうして熱を出したら
唸って甘えられる場所になってやれていることが、なんだかしみじみとありがたかったです。
熱はそれきりで、もう元気になったみたい。

tu*a*さんが今ごろ高熱で唸っていませんように。
2012.12.14 / Top↑