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17日のエントリー認知障害カンファめぐり論評シリーズがスタート:初回はSinger批判で紹介した
What Sorts of People のSinger発言に関する記事
いくつか長文のコメントが寄せられて、興味深い議論が行われています。

細部の理解がいまひとつで完全に理解できたかどうか自信はないのですが、
個人的に面白いと思った部分のみを以下に。

・「重症の知的障害がある人」は「乳幼児」と変わらないか。

・Singerは2歳までに人間は人格を持つとしており、それ以前の乳幼児と重症の知的障害を持つ人と多くの動物の間には道徳的な違いはない、としている。その間は親に選択権がある、という考えであり、「重い知的障害がある人」は乳幼児と違って人格を持つに至らないので、大人になっても親の選択権が続く、と考える。

・Singerが「重症の知的障害がある人」と「中等度から軽度の知的障害がある人」とを区別しないのは、どちらも「乳幼児と同じ」と考えており、それゆえに「人格ではない」としているからでは? しかし、それならば「中等度から軽度の知的障害のある人はみんな乳幼児のようなのか」という問題が出てくるのでは?

・この議論はそのまま、Ashley事件で問題となった「尊厳」と「利益」の区別に重なってくる。人に尊厳があるためにはカント流に言うと、その人に合理性があること、つまり自分で目的を設定したり、自らの目的の領域において自分自身の王(または女王)であることができることが条件。つまり「尊厳」は自分で自分を統治できる人の内面からくるものであるのに対して、「最善の利益」は外から他者が判断することができる。この違いが前提にあるためにSingerはいともたやすく「重症の知的障害のある人」の話を「中等度または軽度の知的障害のある人」の話へとずらしていくのではないか。つまり、どちらも自分で自分を統治する能力を欠いているので、尊厳は問題にならない、問題になるのは最善の利益のみという前提なのでは。しかし、そのためにはSingerはまず知的障害のある人は自分自身を統治することができないということを証明しなければならない。

・Singerが証明できにくいのは「重症の知的障害がある人」は自分を統治することが出来ないということ。そのため、彼は「ほとんど意識のない人」について話をすることになり、ごく限られた人の話に成り代わってしまう。Singerが導き出す結論そのものが、その前提に問題があるということの証拠のように思う。Singerが抱いている基盤の前提(多くは「幸福は善で苦しみは悪」だとか、「障害はあるよりない方が良い」とか、リベラルな民主主義が本能的に支持してきたもの)が問われなければならないだろう。

【19日追記】
その後、コメントが続いて
上記のコメント内容は訂正されたり追加説明されたりしています。

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ちょうど昨日から
シアトル子ども病院の1月のシンポのテーマにとても問題を感じつつ、
どこにどういう問題があるのかが、なかなかはっきり掴めずにいたのですが、

ここでの議論と
「尊厳」は自分自身を統治できる内面に由来するものだけれど
「最善の利益」は外側から他者が判断することができる、
Singerは最初からその前提でモノを言っている、という指摘が
大いにヒントになって、問題のありかが分かりました。

シンポのテーマは
「成長抑制を評価する:子どもの利益、家族の意思決定、地域の問題」となっていて、
利益から話が始まることが前提とされているのです。

考えてみれば医師らの正当化は最初から次のようなものでした。

いわく、Ashleyには重症の知的障害があり生後3ヶ月(時になぜか6ヶ月)の赤ん坊のようなもの。
いわく、赤ん坊と変わらないAshleyには尊厳がなんであるかすら理解できない。
いわく、Ashleyの親が要望した医療処置は本人の利益にかなうと倫理委は認めた。
いわく、倫理的に判断が難しいケースでは親に決定権がある。

これは上記ブログの議論で指摘されているSingerの前提にそっくりです。

それゆえに医師らの正当化の議論は
Ashleyの「尊厳」から話が始まることなく「利益」に話が終始したのでしょうが、
Diekema医師らは本来は尊厳から話が始まるべき前提があることを実は了解しつつ、
自己保身のために「利益」に終始する詭弁を弄しただけだと思われる点が
Singerとは決定的に違います。

しかも、“Ashley療法”論争では
医師らのこのような正当化に対して、
一連の医療処置はAshleyの身体の全体性や尊厳、人権を侵害するものだとの批判が出たのです。

1月のシンポで真摯に議論するつもりがあるならば、
「子どもの利益」で話を始めるのではなく
「子どもの尊厳と人権」から議論を始めるべきでしょう。
2008.12.18 / Top↑
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