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現代思想3月号に「サイボーグ患者宣言」と題して
ロボット工学の世界的権威、筑波大学大学院の山海嘉之教授と
生命倫理学者で立命館大学大学院の松原洋子教授が対談しています。

山海教授が作ったロボット・スーツHAL(Hybrid Assistive Limb)は
国内はもちろん海外のメディアでも頻繁に取り上げられていますが、
特に高齢者や障害者の福祉の領域での活躍が期待される……といった文脈で
取り上げられていることが多いので、個人的にずっと気にかかっていました。

対談の前半は松原氏が聞き役に回って
HALがどういうものであるかということと
人と人工物が一体化して機能するシステムの研究「サイバニクス」とが
まず解説されます。

例えば、HAL の Hであるハイブリッドとは、
脳から出ている信号を皮膚表面で捕まえてロボットを動かす「サイバニック随意制御」と
そうした神経系の信号が弱い場合にロボット制御が機能する「サイバニック自律制御」とが
共存していることを意味したもの。

HALは人間が人工物に乗り込んで操作する従来のロボットでもなければ
人間を造り替えたサイボーグでもなく、その中間であり、
ロボットでもサイボーグでも捉えられない新しい概念として
山海氏が「サイバニクス」という用語を作った。

極めて複雑にできている脳を完全に把握することの困難を考えると、
直接脳に電極を入れるよりも、むしろ脳から出る信号を拾うほうが望ましいと考えた、など、
ロボットの研究と制御システムの研究を繋いでHALが完成していくまでの
プロセスも説明されています。

その後、話が現実の患者への応用に移ります。実用化に向けて
「山海さんがサイバニクスと呼ぶ人の生存に関る新しい複合的なテクノロジーが
きちっと収まる社会システム(松原)」が作られていくための問題点として、
マーケットの問題と実験倫理の問題が触れられた後で
話が福祉工学に絞られていくのですが、
この後半の議論がとても面白かった。

ここで松原氏は
戦闘的・超人的なサイボーグ表象が、サイボーグをめぐる議論を
具体的な技術アセスメントや患者の経験との摺り合わせ以上に
エンハンスメント是非論に追いやっているのでは」ないか

もっと「所帯じみたサイボーグ」によって
「関係性も含めたパリエーションにかなったサイボーグ技術と運用システムをどう作るのか、
という議論をすべきではないでしょうか。
そうすればエンハンスメントに伴う問題系も自ずと見定められるはずです」
と問題提起します。

ところが、
では具体的に福祉工学としてのサイバニクスでどういう支援ができるのかという話になると、
2人の話は微妙に噛み合わなくなってくるような……。
後半の議論の面白さは、この”噛み合わなさ”にこそあるのかもしれない。

たとえば山海氏は
HALが医療と福祉でやれることは「重作業」だと言っているのですが、
サイバニクスの作り出す社会というところまで話が拡がると
まず「遠隔リハビリテーション」が可能になる、という。
そして少子高齢化社会における介護費用負担を
テクノロジーで代行できるところは代行するのだという話をはさんで、
患者のバイタル情報をサイバニクスでとって情報共有できるシステムを通じて
「私がやろうとしているのは地域医療や地域福祉」であり
「サイバニクスの地域展開/情報なども
医療関係者や福祉関係者に共有していただけるようになります。
そういうモデルを作りたい」とも言う。

ここで言われている「地域医療と地域福祉」が行き着く先を具象化すると
一体どういうことになるんだろう……と考えてみたら、
私の頭に浮かんだのは例えば、

身体の不自由な人がロボット・ベッドに寝ることによって
バイタルチェックが随時行われて、
サイバニックおむつ機能があって、
食事は定期的に必要カロリーが自動的に口または胃に直接注入されて、
投薬も同様に自動で可能。

1日に数回、ベッドに組み込まれた体位交換機能によって寝返りはもちろん、
筋肉が落ちたり関節が固まるのを防ぐためのリハビリも
ハイブリッドだから、ある程度患者の意思を汲みつつ、身体と一体化したベッドが行い、
何時に寝て何時に起きて、1日の覚醒度がどう変化したかまでデータ化。
それらはバイタルやサイバーおむつで採取された排泄物の検査値と一緒に
地域ごとの医療と福祉の拠点に送られて一元管理。

データの変化を専門家が判断して遠隔操作で投薬内容やリハ・メニューを変更。
遠隔ではどうにもならない異常が感知された時にだけ誰かがやってくる……

それはいくらなんでも極端な話だとしても、
遠隔リハと遠隔のデータ管理システムをイメージしつつ
「私がやろうとしているのは地域医療や地域福祉」と言ってしまえること自体、
一体いかがなものなのだろう──。

山海氏自身は「目的志向で、人を支援するテクノロジーというところにフォーカスして」
「エンド・ポイントから」デザインする研究をしているつもりのようだし、
どこまで本気かよく分からないけど、松原氏も一応
その点で山海氏は他の研究者と違うと持ち上げてはいますが、

パリテーションや介護や人を支援するということの本質に無理解なまま、
「エンド・ポイント」が身体的ニーズ・物理的ニーズの処理で終わっているために、
結果的には、山海氏の発想も「先にサイバニクス技術ありき」になっているんじゃないのかなぁ……。

もともとエンハンスメントの論理から生まれたサイバニクスに
松原氏が言うようにパリエーションにかなう「人の支援」ができるとしたら、
それはパリエーションの理念でデザインされた地域医療や地域福祉の中で
サイバニクスがその他と同じ数多くのツールの1つとして使いこなされることを通じてであって、
サイバニクスの可能性にかなった地域医療や地域福祉をデザインすることを通じて
ではないような気がするのだけれど、

地域医療や地域福祉に直接現場で携わっている人の声を聞いてみたいような気がします。
それも、たまにしか患者に触れない医師の声だけではなく、
訪問看護の看護師とか訪問リハのセラピスト、
ケアマネとかヘルパー、介護家族といった当事者のすぐ傍で支えている人の声を。
そして、もちろん支援される人自身の声を。


それにしても、つい苦笑してしまったのは、
「遠隔リハビリテーション」についてのやりとり。

個々のALS患者のその日その日の状況を総合的に判断して
支援者が適切なセッティングに配慮することの必要性を
松原氏が「日々変わる身体状態にスイッチを合わせる」という例で語ったのは、
「今仰ったようなシステムが実際に回っていく時、生活現場と専門家をどう繋いでいくか。
専門家が患者さんの生活現場を理解し、患者の目線で動けることが大事」だと
主張するための比喩であり、現実のスイッチのことではなかったと思うのですが、

この「生活現場」を「人が日々の暮らしを営む場」と捉えることができず、
すなわち「住居空間」の問題としてしか捉えられない山海氏は、
サイバニクスの地域展開ができれば、
センサーを身体のどこかにつけておくだけでバイタル・データが地域で一元管理できるから
「私たちの技術では、ボタンが押せなくても大丈夫です」。

このズレ方こそが何をかいわんや、という感じなのですが、

まったく動けなくなって、現在の技術水準ではYES/NOの意思も読み取れなくなるような状態の人をどうやって支えていくかというのは大きな課題だと思います。……呼吸器がまさにサイバニックな装置になり、吸引の問題も自動的に解決させる。生存に必要なアウトプットが難しくなっている人たちの意思をどうやってセンシングするのか、注目しています。
……(中略)……
 この技術を普及させれば社会的な生産性が上がりますというプログラムは、取りあえずはアカウンタビリティを獲得しやすい。しかし、わかりやすい形で社会的生産に直結しない人々はどうするのか。人々の生存を支えきるという考え方を、サイバニクスの構想に組み込んでいくのか。その設計次第で、サイボーグ技術倫理として立てるべき問いのあり方が全然違ってくると思います。

これは松原氏が痛切な嫌味をこめて突きつけた重い問いなのでは……と私は読んだのですが、

応えて山海氏は「もちろんユーザーの立場は大切」だとして
「ユーザーが研究開発のメンバーとなった産官学民の新しい体制」を志向できる
研究者を育てることの必要を言う。

やっぱり、どこか、ちぐはぐな対談の終わり方なのでした。
2008.06.19 / Top↑
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