2ntブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
Ashleyに行われた医療処置について初めて知ったのは
昨年の1月5日でした。

昼間のうちに正月休みの片付け物をしながら
休みボケの頭に喝を入れるべく流していたCNNで耳にし
Ashleyの写真が映った画面もチラッと見たのですが、
目を上げた時にはニュースは終わりに近く、
もともと“ながら”で理解できるほどの聴き取り能力ではないので
聴き間違いだったのだろう……くらいに流して、あまり意識しませんでした。

夜になってPCの受信トレイに届いていたニュースレターで
タイトルを見た瞬間に「あ、昼間のあれだ!」と即座に繋がって、
ものすごい衝撃を受けました。

頭にぐるぐる繰り返される疑問は、

何故こんなことが許されてしまったのか──?
これは、許されないはずのことではないのか──?

ネットでは既に論争が過熱していましたから、
この疑問を解くために
次から次へと記事やブログを見つけて読んでみましたが、
どうしてもワケが分からない。

それどころか調べれば調べるだけ
ヘンなこと・分からないことが増えていく。

初めて知った1月5日から
全身の細胞がザワザワするような強烈な違和感が続いていて
「ヘンだ」と頭をひねるたびにザワザワが強くなるようでした。

その違和感に煽られるように小さな疑問を次々に追いかけていたら、
手に触れる疑問がどんどん大きなものになっていき、
やがて、この事件には表に出ていない実相があるのではないか……
と本気で考えるようになったのが2月の半ば。

不思議なことに、
実はこういう事情だったのでは……と
すべての疑問を説明する仮説にたどり着いた瞬間に、
全身のザワザワが急にすとんと消えました。
「何故こんなことが許されてしまったのか」という疑問が
自分なりには解けたからでしょう。

(もちろん、だからといって
spitzibara仮説が事実だと証明されたわけではありませんが。)

しかし、
あの最初の衝撃から1年──。

未だにどうしても理解できないでいるのは、
もう1つの疑問。

これは、許されないはずのことではないのか──?

仮にAshleyに行われてしまったことは
非常に例外的な事情があったために起こったことだったとしても、

それが表に出た時に
どうして「許されないはずのこと」が
こんなに簡単に「OKなこと」になってしまったのか?

         ――――――

Ashleyに行われたことをOKだとする人たちが言っていることをいくら読んでも
「何故これがOKなのか」という点について納得できる議論にはまだ出くわしていません。

愛情からやったことなら、いいのか。
親が決めたことだから、いいのか。
未成年だから、親が決めていいのか。
重症障害児だから、やってもいいのか。
知的障害があるから、いいのか。
全介助だから、いいのか──。

これらは、それぞれ1つずつ単独で考えたら、
充分な正当化にはならないはずです。

それなのに、
こうした条件がいくつも集まったら
なんとなくOKになってしまうことの不思議──。

そう、この「なんとなく」こそ、
“Ashley療法”論争の摩訶不思議だと私には感じられてならないし、

また、
それこそが担当医や擁護に登場した人たちの戦術ではないのか……とも思う。

つまり、上記の論点を1つずつ論理的に掘り下げていくのではなく
曖昧にしたまま次々に論点をずらしていき、
むしろ未整理の混沌を煙幕に使って
親の愛情のセンチメンタリズムを主軸に世論を味方につけたい、と。

少なくとも、
論文の書き方とメディアに登場した際のDiekema医師の話術は、
上記の戦術にのっとったもののように私には思えます。
(戦術というよりも誤魔化すためにはそれ以外やりようがないのかもしれませんが。)

1月19日未明(日本時間)の Diekema講演では、
果たして同医師はAshleyに行われた医療処置をどのように正当化するのか。

その点に注目して聴いてみたいと思っています。
(タイトルの臭さからしてセンチメンタリズムが既に色濃いですが。)
2008.01.05 / Top↑
Secret

TrackBackURL
→http://spitzibara.blog.2nt.com/tb.php/1589-bf50ef59