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以前のエントリーで紹介したイタリアの双子の堕胎ミス事件について、
8月にHastings Center関連のブログに興味深いエッセイが発表されていました。

Hilde Lindemann, Shotgun Weddings

著者はまず、

選択的堕胎を認める社会は
障害者に対して「君たちはもう要らない」とのメッセージを送ることになるかどうか、
という問題に関して、「なる」論と「ならない」論を紹介。

その後に、「特別な義務」に言及します。
ライフセーバーがおぼれる人を見つけた時には、
相手がどんな人間であっても救う義務がある。
医師や警官も同じであるように、救命に関わる職業の義務のこと。
ぶっちゃけて言えば「相手や状況がイヤだからといって逃げることが許されない」こと。

Lindermannは、
子どもを産んだ後の子育ては事実上、母親にこのような「特別の義務」を背負わせていると述べ、

障害のある子どもの子育てが、
その子に障害がなかった場合より、はるかに負担の大きなものであったとしても、
母親はその子育てを放棄せず引き受ける義務を負うことになる以上、
選択の余地が母親に与えられるべきだ
と、主張しています。

Because this care can consume even more of the mother’s time, energy, money, and emotional stamina than would the care of a healthy child, and because many seriously disabled children will never outgrow their need for it, women should not be forced into the special relationship that require them to provide it.

障害児のケアは健康な子どものケアよりも
多くの時間、エネルギー、お金、そして気力を母親に使わせるものであり、
多くの重症障害児のケア・ニーズは成長と共に必要なくなるというものでもないので、
女性にこのようなケアの提供を求められる特別な関係が強要されることはあってはならない。

ってことは、
子どもが思春期になってグレたり、
引きこもって親に暴力を振るったり、
または重病にかかったりして、
親が時間やエネルギーやお金を使わせられてウンザリしたら、
「もう、し~らない」と逃げ出せばいいのね、きっと。

……と、つい思ってしまったのですが、それは逆で、
生まれてきてしまったら、いくら大変でも逃げ出すわけには行かないから、
そういう状況を引き受けなくても済むように
負担が分かりきっている障害児については予め選択させろ、
と言っているわけですね。

           ――――――

このエッセイを読んで「違うだろう、それは」と思うのは、

「負担を背負う人に決める権利がある」という考えは、
「障害児をケアする苦労なんか知らないアンタたちには口を出す権利がない」という、
Alisonの主張と結局は同じであり、それは

「障害新生児の医療の継続は、経費を負担する病院に決定する権利がある」
と言うに等しい 「無益な治療」法に通じていくということ。

負担を担える側にいるのはたいてい強い者なのだから、
強いものの論理と都合だけが通っていくことになるのでは、と。

②女性が子育て負担を背負っている現実を前提にするのであれば、
障害のある子どもが生まれることよりも、
女性にのみ子育て負担を背負わせている社会のあり方のほうを問題にするべきであって、

この点ではLindermannの論理展開って、
社会の問題を医療で解決していると批判された
“アシュリー療法”の正当化の論理と同じような気がする。

             ――――――

こういう人には、障害の可能性以外にも、きっと
いろいろ選択して排除したいものが出てくるのでしょうね。

いろんなものを排除することが技術的に可能になるにつれてね。
2007.11.09 / Top↑
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