the Telegraphの Disabled girl to have womb removed (10月9日)から。
この記事には特に目新しい事実関係の情報はないのですが、母親Alisonの発言が引用されている箇所が多く、その発言がどうも気になるのです。例えば、
私にとっては苦しい決断でした。他の決断だっていつでもそうですけど。“私は正しいことをしているのかしら”とずっと自問しました。
たしか、決めたのはこの子が12歳か13歳だった2年前です。メリットとデメリットをはかりにかけて検討するのには13年かかったんです。
たしか、決めたのはこの子が12歳か13歳だった2年前です。メリットとデメリットをはかりにかけて検討するのには13年かかったんです。
「苦しい決断だった」といっていることに注目してください。アシュリーの父親は「ぜんぜん苦しい決断じゃなかった」と何度も強調していました。ここに2つのケースの決定的な違いが如実に現れているという気がします。(この点については改めて書きたいと思っています。)
唯一の反論は障害者団体からのものですが、私があの人たちに言いたいのは“じゃぁ、うちに来て私と一週間過ごしてみてよ。私の身になってみなさいよ”ということです。
なんという無神経で残酷な言葉。
日々を生きていくために介助を必要とする障害当事者たちに向けて、「介護者の身になってみろ。あなたたちの介護がどんなに負担か、どんなに大変か、知ってみろ」と。
あまりにも他者に対する想像力を欠いた言葉です。ここにはAlisonの被害者意識がチラついています。彼女の被害者意識は、本来はそのような生活しか自分に与えてくれなかった人生への恨みからくるものなのでしょう。自分の苦しみに圧倒されている時、人は確かに他者の苦しみへの想像力を失います。しかし、Alisonがその被害者意識をぶつけるべき相手は娘を含む障害児・者ではなく、十分な支援をせずにむしろ切り捨てにかかっている社会の方ではないでしょうか。
そして、極めつけは以下の発言。
この子は自分では何もできないのです。おしっこもウンチも垂れ流しだし。手も足も使い物にならない。コミュニケーションも取れない。Katieが自分でできるのは息をすることだけなんです。
この子は自分では何もできない、できるのは息をすることだけ……。そんなはずはない。植物状態でもない限り、そんなことはありえない。
これまで当ブログで紹介した記事の多くには母子の写真が掲載されていますが、いずれもKatieは笑顔です。そこには母親とKatieのつながりの強さ、その中で彼女が安んじて楽しい生活を送っていることが感じられます。こういう笑顔のできる子が、「できるのは息をすることだけ」という存在であるはずがない。
私はKatieが通っている学校の先生たちがKatieをどのように見ているかを聞いてみたい、彼らはKatieにできることを沢山挙げられるのではないかという気がします。(アシュリーの知的レベルについても、彼女の日常生活を知っている学校の先生やセラピストのアセスメントを聞いてみるべきだと私は考えます。)
メディアはこぞってdevoted(献身的)な母親だと書いています。彼女自身も「loving(愛情深い)な母親として」という言い方をしています。しかし、この「できるのは息をすることだけ」発言でわが子に向ける目線には、その愛情の温かみが感じられないことが寂しい。
彼女の愛情の深さは疑いません。それだけの愛情がなければ背負えなかったはずの介護を、特にパートナーと出会うまでは一人で背負ってきた人です。写真や言葉の端々からも愛情の深さは充分感じられます。
しかし、長年の介護負担との格闘で、この人は燃え尽き寸前なのではないでしょうか。娘へのそれほどの愛情も擦り切れ、自分を見失うほどに、この人が本当は追い詰められているのだとしたら、時間を置いて冷静な判断をできるためには、むしろ一定期間この人を介護から解放してあげる(つまりレスパイトの)必要があるのでは?
Katieの生理はまだ始まっていません。それならば結論を急ぐ必要もない話です。AlisonはKatieの介護からしばらく完全に離れ、本来の自分を取り戻してから、もう一度冷静に考えてみては……というのも1つの選択肢ではないでしょうか。親と医師だけではなく、ソーシャルワークの視点がこの検討に加われば、そのような選択肢も出てくるのではないかと私には感じられるのですが。
2007.10.13 / Top↑
| Home |