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“アシュリー療法”論争で不思議でならないことのひとつは、担当医らの障害者ケアに対する姿勢が、私には障害者福祉の世界の“常識”に反しているとしか思えないこと。

たとえば以下の点。

赤ちゃん扱い。
親と(だけ)の密着。
家庭での介護の囲い込み。
社会参加という視点の欠落。
本人主体という視点の欠落。
「人」よりも「障害」を重視。

こういう障害者ケアのあり方こそが、批判され、議論となり、関係者の長い努力の積み重ねによって、少しずつ解消されてきたのではなかったでしょうか。

アシュリーの両親と主治医、彼らを擁護している専門家の主張は、障害者福祉の世界で関係者が長年努力して積み上げてきたものを、ことごとく否定し打ち崩すもののように感じられます。だからこそ、障害者運動の関係者らはアシュリーの身に起こってしまったことに、あれほど大きな衝撃を受け、強い批判の声が相次いだのではないでしょうか。

ちょっと単純すぎる描き方になるかもしれませんが、障害を“治して”“正常”に近づけようとする「医学モデル」から、障害があるままにその人らしく暮らすことを支える「社会モデル」へと変わってきたはずの障害者ケアの流れの中で、アシュリーの担当医や擁護している人々が言っていることには、一体どういう位置づけができるのか──。“アシュリー療法”には「本来ソーシャルな問題であるはずのものをメディカルに解決している」という批判があることが思い返されます。また、検討過程でソーシャルワーカーやスクールディストリクトとの連携が試みられた形跡が全くないことも。

それとも、「医学モデル」だ「社会モデル」だという議論自体、一部の例外を除いては医療の世界には馴染みがない、福祉の世界の議論なのでしょうか。シアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスを聞いていると、同じ一人の障害児・者を見ても、福祉のサイドから見るのと医療のサイドから見るのとでは、見えるものがまるで違っているのではないか……という疑問が浮かんできたりします。

(例えばMagnus講演で、重症の子ども2人は一見すると同じ状態に見えるが発達の専門医のアセスメントを通せば2人が非常に異なっていること分かる、という話がありました。それらの子どもの違いを見抜けるのは医療の世界でこそ発達小児科医のみかもしれませんが、福祉の世界で重症児と日常的に接している専門家ならば、もしかしたら発達小児科医以上に、それら2人の子どもの状態の違いを詳細に知っているように思います。)

1月12日の「ラリー・キング・ライブ」での中途障害者Joni Tada と Diekeme 医師とのやり取りの、あのすれ違い方、その絶望的な”噛み合わなさ”……。

もちろん、アシュリーのケースには病院が敢えて福祉の世界を巻き込みたくなかった事情もあったと想像されますが、それにしても、このような事件が起こる背景には、医療の世界と福祉の世界の間に横たわる根深い分断という問題もあるのでは?
2007.09.19 / Top↑
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