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Peter Singerが“アシュリー療法”論争に出てきたから興味を持ったというだけで、
私はSingerについて云々できるほどの何も知ってはいないのですが、
だから、これは本当に素朴な疑問に過ぎないのですが、
Singerの「実践の倫理(新版)」を読んで、どうしても分からないのは、

この人がいとも簡単に繰り返す「重度の知的障害」というのは、
いったい具体的にはどういう障害像のことなのか……?

どうしても気になる箇所を挙げてみると、

重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間の孤児を実験に使うことの是非を巡る議論によって、
動物実験では動物が不当に差別されているという主張を行う部分で、
重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」という表現の2行後に、
病院その他の施設にいる脳に損傷を受けた植物状態の多くの人間に比べれば、類人猿も、サルも、犬も、猫も、ネズミでさえ、もっと知的であり、自分たちの身に起こっていることをもっと多く意識しており、苦痛にももっと敏感であり、また他にも同様のことがある。(P.82)

「実践の倫理〔新版〕」
ピーター・シンガー著 山内友三郎+塚崎智監訳 昭和堂 1999

自己意識があるとか自立的であると見なされるという点では人間以外の多くの動物以下であるような、知能に障害を持つ人間がいることを思い出してほしい。(P.90)

知能に重度の障害のある人々には人間を他の動物から区別する特質が具わっていなくとも……以下略。(P.91)

知能に重度の障害のある人々を扱う場合に、人間という種に通常与えられている道徳上の身分もしくは権利をそのような人々にも与えるべきである」という主張……以下略。(P.91)

感覚することができ快苦を経験することはできるが、理性的でもなければ自意識も持ってはおらずそれゆえ人格ではないような存在が多くいる。私はこのような存在を意識ある存在と呼ぼう。人間以外の多くの動物はほとんど確実にこのグループに属する。新生児や知的障害者もまたこのグループに属する。(P.122)

私がわからないのは、
「知能に障害を持つ人間」と書き「知的障害者」と書くとき、
Singerの頭の中には一体どういう障害像の人が具体的には浮かんでいるのか、という点。

82ページで言えば、
「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」の障害像の
多様性と程度のグラデーションというのは非常に幅広く、
特定の障害像は浮かべにくいと思うのですが、
2行後に「脳に損傷を受けた植物状態の多くの人間」と書き、
1つの議論の流れを進めていくことを考えると、

この時Singerの頭の中では、

「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」=「植物状態の人間」

とイメージされていると思われるのですね。

しかし、
「植物状態」は「重大かつ回復不可能な脳損傷を受けた人間」にあり得る障害像の中で
最も重篤なほんの一部に過ぎません。
他の引用部分でも同様。

論理のパズルのような文章を書きながら、
「知的障害者」という言葉の定義・意味にはこんなにも無頓着であることが、そもそも信じられない。
その無頓着さのまま「知的障害者は人格ではないような存在」だなどと主張し(P.122)、

いつのまにか
「知的障害者」を自分がイメージしている「植物状態かそれに近い状態」と無責任に重ねてしまう。

読みながら、
この人は一体どれくらい具体的な「知的障害者」の障害像というものを知っているのだろう……と、
とても疑問に感じるのです。

Singerが具体的な病名を出すのは、

「生命が悲惨なものであるために生きるに値しない」例として、重度の二分脊椎症、

「正常な子どもに比べてはるかに幸先はよくないことが予想されるが、生きるに値しないほどではない」例に、血友病、

「知的障害を持ち、その大半が一人で生活できるようにはなりえないが、幼い子どもたちと同様に楽しい人生を送ることができる」例に、ダウン症。

重度の二分脊椎について具体的な障害を述べている箇所では、
「脚や脊椎の多重奇形、腸や膀胱のコントロールが効かないなど、重度の障害」、
「知的障害が残る場合も」(P.243)と書かれています。

「知的障害」については、
その現われ方も程度も様々で障害像の可能性が限りなく無数にあることを念頭におけば
イメージのしようもないのですが、

ここで描かれている身体の「重度の障害」像をできる限り具体的に頭に描いてみてください。
それは本当に「生きるに値しない」ほど悲惨な障害像でしょうか。


Singerのいう「重症の障害」とか「重度の知的障害」とは、
現実の障害とは全くつながりのない、空疎な観念に過ぎないのでは?

しかし、ただの観念を弄びながら、
生身の子どもの命を「悲惨な生命」だとか「生きるに値する」とか「値しない」などと決め付けられても、
それは困るのですが……。

          
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そもそも、「理性的で」、「自己意識がある」のが人格の条件だというのですが、
じゃぁ一体「誰が」「どのように」それを判定するというのか。

だいたい、ある人の人生が「楽しい」かどうか、「生きるに値する」かどうかなんて、
本人の主観的な感じ方としてはありうるとしても、本人以外の誰にそんなことが言えるんだ?

少なくとも、障害というものの現実をこれほど知らないアンタに言われたくはない、
と多くの障害者は言うと思うな。
2007.09.03 / Top↑
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