7月のシアトル子ども病院の生命倫理カンファレンスについては、“アシュリー療法”論争に関連した人の発言のみ、ちょっと覗いてみようと思っていたのですが、気まぐれに聞いてみたら、裁判所に対する医療界の不信・敵意の根深さを思わせる内容だったので、13日のFost講演の次に行われたJohn J. Parisの講演について。
John J. Paris はイエズス会の牧師であり、ボストン大の生命倫理学教授。講演タイトルはPhysician’s Refusal to Provide Life-prolonging Medical Interventions(医師による延命医療介入の提供拒否)。
Parisは、Fostが定義を試みることそのものが不毛だといったfutilityという用語を f-wordと称してタブー扱いすることで、講演の間ずっと、それを一種のジョークとして使います。それはそのまま、裁判所など無視しろといったFostの主張の暗喩でもあるわけで、Parisは何度も“Fost is right.“と繰り返すのです。彼の講演の主たる要旨はなんだったのかと振り返ると、裁判官への愚弄でしなかったようにすら思えます。
難しい事例で親と意見が対立し、裁判所に「治療を中止してもいいですか」なんて医師がお伺いを立てても、裁判所はこれまで一度も涙する母親にNOと言ったことなどない。彼らは医療のことなど何も知らない上に、頭にあるのは自分が責任をとるポジションに置かれたくないという一事のみ。だから医師の言うことを却下するのだ。
すると医師は上訴する。手続きには時間がかかる。本人の利益を代弁する法定代理人が選定される。代理人が本人のことを調べる時間もかかる。なんだかんだで数ヶ月だ。裁判官は、その間に当の子どもが死ぬのを待っている。そうすれば自分が責任を取らなくてよいから。
彼らに言わせれば “They don’t pay me enough to do that. (それほどの給料はもらってないから)”ということさ。連中が、呼吸器を止めてよいと認める決定を下して、家に帰って女房に「今日私は子どもを死なせたよ」なんて言えると思うか?
イギリスでは認める場合もあるが、アメリカには家族の意向に反して治療の停止を認めた裁判官はいない。しかし、何でもかんでも家族の言うままに治療するのが医療のあり方としてまともなのか?
「この子がノーマルになるって保証してくれますか? そうじゃなかったら何もしないで」という親だっている。親が求めているのは所詮ミラクルなのだ。しかし医師はミラクル・マンではない。
すると医師は上訴する。手続きには時間がかかる。本人の利益を代弁する法定代理人が選定される。代理人が本人のことを調べる時間もかかる。なんだかんだで数ヶ月だ。裁判官は、その間に当の子どもが死ぬのを待っている。そうすれば自分が責任を取らなくてよいから。
彼らに言わせれば “They don’t pay me enough to do that. (それほどの給料はもらってないから)”ということさ。連中が、呼吸器を止めてよいと認める決定を下して、家に帰って女房に「今日私は子どもを死なせたよ」なんて言えると思うか?
イギリスでは認める場合もあるが、アメリカには家族の意向に反して治療の停止を認めた裁判官はいない。しかし、何でもかんでも家族の言うままに治療するのが医療のあり方としてまともなのか?
「この子がノーマルになるって保証してくれますか? そうじゃなかったら何もしないで」という親だっている。親が求めているのは所詮ミラクルなのだ。しかし医師はミラクル・マンではない。
これまでの様々な事件を解説しつつ(有名な事件や“聞いたことがある”事件名が続出するのですが、知識不足と聞き取り能力不足から触れません)、結論はどうやら、テキサスのthe Futile Care Law の定めた手続き重視のやり方が賢明だ、と。
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Parisは講演の中で、Paul Ramseyが挙げた「死に行く患者への適切な対応」として(ソクラテスやヒポクラテスが言ってたことと同じだとも言いつつ)以下の3つの基本を紹介します。
1.苦痛を取り除くこと。
2.可能ならば死に向かうプロセスを逆行させること。
3.死に行く患者に治療を押し付けてはならない。
2.可能ならば死に向かうプロセスを逆行させること。
3.死に行く患者に治療を押し付けてはならない。
そして、3つ目の点について「要するに、効果のないことをするヤツはバカだということだ」と、またもジョークにします。
ちなみに、Paul Ramseyというのは、妊娠中にお腹の子どもが重症障害児である確率が高いと分かったら、「その瞬間から、その人の『子供をつくる権利』は、子供をつくらない義務もしくは、つくりたい子供の数を減らす義務に変わるのである(その人には単に自分のためだけに子供をつくる権利などまったくないという理由から)」との主張を持つ人物のようです。(この4行、立岩真也先生のサイトからのパクリです。)
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もう1つ、非常に気になったParisのジョーク。
「“最善の利益”というのは確かに非常に曖昧な用語だが、それでもどこかに私の祖母でも分かる、または黒人掃除婦でも分かる線の引き方というものがあろうじゃないか」
彼はそこで、どこかの医者が呼吸器をつけた患者の部屋にいたら黒人の掃除婦が入ってきて「ドクター、なんてことしてるんですか。もう死んでるのに」と言ったというエピソードを紹介、もう一度「だから、黒人掃除婦にでも分かる1線があるんだよ」と同じジョークを繰り返して笑いをとります。
Parisは演台を使わず、会場を歩き回りながら講演したので、彼の動きにつれて会場(さほど広くない)の聴衆の全体がほぼ見渡せました。このジョークで気づいたのですが、聴衆の中に黒人は私の見た限りでは見当たりませんでした。一人もしかしたらアラブ系かと思われる女性が見えましたが、それ以外は全員が白人だったように思います。アメリカ社会のデモグラフィックな縮図ではなかったというのは、シアトル子ども病院がそうなのか、生命倫理の業界というのがそうなのか、病院主催の生命倫理カンファレンスというものがそうなのか、私には全く見当もつきませんが、なんか、ちょっと、ヘンじゃないか……と。
(それにしても、イエズス会ってカトリックでしたよね……?)
2007.09.01 / Top↑
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