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これも、前からずっと疑問に思っていたのですが……

医療決定が問題になり裁判所の判断が仰がれたケースはニュースになりますが、それはいずれも意見の不一致、コンフリクトがあったからこそ問題になるのだということは、案外に見落とされている事実なのではないでしょうか。

医師と家族の間に意見の不一致がある(AbrahamGonzales)、または家族の間にコンフリクトがある(Strunk)、という場合に、裁判所の判断を仰いでまで決着をつけることになるのは、いずれかのサイドが意を通すためにコトを裁判所に持ち込むからですね。しかし最初から意見が一致していた場合は、盲点になっていないでしょうか。その場合、仮にそれが子どもの最善の利益にならなくても、裁判所の知るところにはならないし、医療判断が問題化されることもないように思うのですが。

Gonzalesのケースで言えば母親と医師らとの間に延命治療続行を巡って意見の対立があったから判断が裁判所に持ち込まれたのであり、逆に医師らが「呼吸器は無益だから中止しよう」と言い出した時に母親が「そうですね。じゃぁ、そうしてください」と同意していたら、エミリオの治療は病院の外には知られることもなく停止されていたことになります。

では「当人の最善の利益」という概念もまた、意見の不一致、コンフリクトが存在しないケースでは、実は機能しないということにはならないでしょうか。例えば、それほど重い障害や病気でない場合にも、家族が「五体満足でない子どもはいらない」と言い、医師らもFostのように「どうせQOLが低いのは分かりきっている」と考えて、「コストをかけて救うほどの命じゃない。無益」と双方の意見が一致した場合には、子ども本人の最善の利益を代弁する人など存在しないまま、治療は停止されることになるのでは?

これ、案外コワイことじゃないでしょうか? 現に遺伝子操作をしてでも完璧な子どもがほしいという親もいれば、Fostのように、知的障害のある人が大人の体をしているのは気持ちが悪いと放言してはばからない医師もいます。彼は知的障害者の命そのものが無益だと感じているようにすら思えます。たまたま、そういう親と医師の組み合わせだって、ありえないことではないでしょう。



そして実はアシュリーの事件でも、本来なら一致するはずのない親と医師の意見が一致してしまったことが、アシュリーに行われた(子宮摘出のみに留まらない)医療処置の判断が裁判所に持ち込まれなかった唯一の理由だったのでは……? 
2007.08.29 / Top↑
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