Norman Fostの講演 Parental Request for “Futile” Treatmentの趣旨を簡単に。
まずこの問題の典型と思われるケースを紹介。
①Baby K : 無脳症で生まれ、母親の望みで病院は2年間人工呼吸器に繋いだ。
②エミリオ・ゴンザレス :テキサス。レイ病。1歳半の男児。
テキサスにはthe Futile Care Lawがあるので医師らが治療停止を求めたが
母親が認めず、上訴審の最中に死亡。
③Fost医師が直接関与したケース。家のプールでおぼれて植物状態になった子ども。
親は家庭での人工呼吸器装着を望んだが、
医師はfutileだとして親の同意がなくても治療は停止できる、停止すべきだという意見。
(エミリオ・ゴンザレスのケースについては数ヶ月前からフォローしており、
いずれ紹介しようと考えていたので、近く別にエントリーを立てるつもりです。)
これらのケースで問題になるのは、
技術的に延命は可能であるものの、
コストと手間がかかり延命による本人への利益もないこと。
親が治療を望んだときに医師に拒否権があるかどうかという点。
その際に問題になるのが治療のfutility(無益さ)という概念である。
しかし、医学的なfutilityの概念には量的futilityと質的futilityとがある。
前者は、例えば生まれつき肺がない子のように、治療しても助からないことが明らかな場合。
これは医師が決めることのできる医療判断になる。
後者の質的futilityの判断とは、
救命の可能性はあるが助かってもQOLが低く、
助ける努力をする価値があるかどうかが問題になるケース。
しかし、どちらの概念も問題をすっきり解決してはくれない。
前者の量的futilityには、助からないという事実の証明は不可能だという問題がある。
かつての超未熟児や狂犬病で
「今まで助かった子がいない」のは単に「それまで助けようとしたことがなかった」からだった。
珍しい病気では研究されるにつれて救命率が上がっていくのが普通。
助かる確率はこのように変わるものだし、
さらに100人に1人でもいいのか、10000人に1人ではどうか。
親から見ればどんなに低い確率でもゼロではないのだ。
しかし、では1人の患者に治療効果を出すために
10000人を治療するのかという話になる。
結局はそれだけのコストをかけることを社会が容認するかどうかの問題。
例えば宇宙飛行士が宇宙に取り残されたとしたら、
我々はどんなにコストをかけても救出に向かう。
ロシアの潜水艦に乗組員が閉じ込められた事件でも、
ケネディ家の息子が飛行機事故で行方不明になった時にも、
莫大な救出費用が投入されたが批判は出なかった。
それらの人たちにはそれだけの価値を社会が認めていたからだ。
このような判断は倫理の判断であり、医学の判断ではない。
医学はそのような判断に対して確率という数量的なアセスメントを行うだけで、
その先は倫理上の判断だ。
次に治療が有効な場合の質的futility。
たとえば私がエミリオ・ゴンザレスの担当医だったら、
人工呼吸器が有効だという点では母親の意見に同意するが、
それだけの努力をする価値はないと考える。
コストが大きいだけでなく、
助かった場合にもQOLは非常に低くて、子ども自身の利益にならない。
したがって治療を続けるに値しない。
これは親と医師が医学的事実についての意見が一致していないのではなく、
コストも念頭に置いた倫理上の判断になる。
親と医師ではなくて社会が認めるかどうか。
それによって、どこに一線を画すかという問題。
ここでも医師は医学的事実の提示は出来るが、その先は倫理上の判断となる。
このように量的futilityと質的futilityは境が曖昧である。
裁判所の役割について。
医師が治療のfutilityに関連して判断に迷い裁判所の意見を求めると、
まず医師のやりたいようにはできないと思え。
なぜなら法律は基本的に病院に患者を捨てさせないために作られている。
無保険だからとERから放り出された妊婦が道端で出産するといった事例は実際に起こっており、
それを避けるために法律はあらゆる患者をまずは安定させるように求める。
本来は安定させて転院先を見つける猶予を作るのが目的だが、
安定させると同時に生命の危機状態ではなくなるので、
その時点で親の同意の問題どころか、延命治療を巡る判断の必要そのものが消失する。
だから、判断に困って裁判所に「どうしたらいいか」などと相談しないことだ。
では、仮に裁判所の判断を仰ぐことなしに、
親の意向に逆らって治療停止をしたら、一体どうなるか。
いまだかつてアメリカの医師が
どんな年齢の患者であれ、どんな治療であれ、
延命治療の停止によってliabilityを問われたことは
民事・刑事いずれにおいても皆無である。
いったん有罪になった訴訟はあるが、最後には覆っている。
末期患者の自殺幇助で有罪となり先ごろ出所した“Doctor Death”ことKevorkianのように、
自ら有罪になろうと必死になった医師ですら、
あれほどの努力と歳月を要したのだ。
要するに病院と医師には大きな自由裁量が与えられているということだ。
①Baby K : 無脳症で生まれ、母親の望みで病院は2年間人工呼吸器に繋いだ。
②エミリオ・ゴンザレス :テキサス。レイ病。1歳半の男児。
テキサスにはthe Futile Care Lawがあるので医師らが治療停止を求めたが
母親が認めず、上訴審の最中に死亡。
③Fost医師が直接関与したケース。家のプールでおぼれて植物状態になった子ども。
親は家庭での人工呼吸器装着を望んだが、
医師はfutileだとして親の同意がなくても治療は停止できる、停止すべきだという意見。
(エミリオ・ゴンザレスのケースについては数ヶ月前からフォローしており、
いずれ紹介しようと考えていたので、近く別にエントリーを立てるつもりです。)
これらのケースで問題になるのは、
技術的に延命は可能であるものの、
コストと手間がかかり延命による本人への利益もないこと。
親が治療を望んだときに医師に拒否権があるかどうかという点。
その際に問題になるのが治療のfutility(無益さ)という概念である。
しかし、医学的なfutilityの概念には量的futilityと質的futilityとがある。
前者は、例えば生まれつき肺がない子のように、治療しても助からないことが明らかな場合。
これは医師が決めることのできる医療判断になる。
後者の質的futilityの判断とは、
救命の可能性はあるが助かってもQOLが低く、
助ける努力をする価値があるかどうかが問題になるケース。
しかし、どちらの概念も問題をすっきり解決してはくれない。
前者の量的futilityには、助からないという事実の証明は不可能だという問題がある。
かつての超未熟児や狂犬病で
「今まで助かった子がいない」のは単に「それまで助けようとしたことがなかった」からだった。
珍しい病気では研究されるにつれて救命率が上がっていくのが普通。
助かる確率はこのように変わるものだし、
さらに100人に1人でもいいのか、10000人に1人ではどうか。
親から見ればどんなに低い確率でもゼロではないのだ。
しかし、では1人の患者に治療効果を出すために
10000人を治療するのかという話になる。
結局はそれだけのコストをかけることを社会が容認するかどうかの問題。
例えば宇宙飛行士が宇宙に取り残されたとしたら、
我々はどんなにコストをかけても救出に向かう。
ロシアの潜水艦に乗組員が閉じ込められた事件でも、
ケネディ家の息子が飛行機事故で行方不明になった時にも、
莫大な救出費用が投入されたが批判は出なかった。
それらの人たちにはそれだけの価値を社会が認めていたからだ。
このような判断は倫理の判断であり、医学の判断ではない。
医学はそのような判断に対して確率という数量的なアセスメントを行うだけで、
その先は倫理上の判断だ。
次に治療が有効な場合の質的futility。
たとえば私がエミリオ・ゴンザレスの担当医だったら、
人工呼吸器が有効だという点では母親の意見に同意するが、
それだけの努力をする価値はないと考える。
コストが大きいだけでなく、
助かった場合にもQOLは非常に低くて、子ども自身の利益にならない。
したがって治療を続けるに値しない。
これは親と医師が医学的事実についての意見が一致していないのではなく、
コストも念頭に置いた倫理上の判断になる。
親と医師ではなくて社会が認めるかどうか。
それによって、どこに一線を画すかという問題。
ここでも医師は医学的事実の提示は出来るが、その先は倫理上の判断となる。
このように量的futilityと質的futilityは境が曖昧である。
裁判所の役割について。
医師が治療のfutilityに関連して判断に迷い裁判所の意見を求めると、
まず医師のやりたいようにはできないと思え。
なぜなら法律は基本的に病院に患者を捨てさせないために作られている。
無保険だからとERから放り出された妊婦が道端で出産するといった事例は実際に起こっており、
それを避けるために法律はあらゆる患者をまずは安定させるように求める。
本来は安定させて転院先を見つける猶予を作るのが目的だが、
安定させると同時に生命の危機状態ではなくなるので、
その時点で親の同意の問題どころか、延命治療を巡る判断の必要そのものが消失する。
だから、判断に困って裁判所に「どうしたらいいか」などと相談しないことだ。
では、仮に裁判所の判断を仰ぐことなしに、
親の意向に逆らって治療停止をしたら、一体どうなるか。
いまだかつてアメリカの医師が
どんな年齢の患者であれ、どんな治療であれ、
延命治療の停止によってliabilityを問われたことは
民事・刑事いずれにおいても皆無である。
いったん有罪になった訴訟はあるが、最後には覆っている。
末期患者の自殺幇助で有罪となり先ごろ出所した“Doctor Death”ことKevorkianのように、
自ら有罪になろうと必死になった医師ですら、
あれほどの努力と歳月を要したのだ。
要するに病院と医師には大きな自由裁量が与えられているということだ。
「価値があるworth it」とか「それだけの価値がない」という表現が頻繁に使われ、
宇宙飛行士やロシアの潜水艦乗組員、それからケネディ家の息子らが、
「救命に莫大なコストをかけても価値があると社会が認める人たち」の例に使われたことが気になります。
宇宙飛行士やロシアの潜水艦乗組員、それからケネディ家の息子らが、
「救命に莫大なコストをかけても価値があると社会が認める人たち」の例に使われたことが気になります。
彼は人間の社会的評価や地位と、人の命の価値とを混同していないでしょうか。
それでは事故で行方不明になった重症障害児は捜索しなくてもいいとFostは言うつもりでしょうか?
ケネディ家の息子なら植物状態になっても、
膨大なコストをかけてケアしひたすら奇跡を待つとでも?
膨大なコストをかけてケアしひたすら奇跡を待つとでも?
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問題になっているのは治療がfutileかどうかという点であるのに、
Fostは「量的futility」、「質的futility」というワケのわからない言葉を持ち出すことによって、
治療のfutilityを患者その人やその人の命または人生のfutilityへと問題を摩り替えていると思います。
Fostは「量的futility」、「質的futility」というワケのわからない言葉を持ち出すことによって、
治療のfutilityを患者その人やその人の命または人生のfutilityへと問題を摩り替えていると思います。
さすがにDiekemaの恩師というべきか。
問題のすり替えの巧妙さにおいてはこの2人、ほとんど天才的です。
問題のすり替えの巧妙さにおいてはこの2人、ほとんど天才的です。
しかも、「社会が認めるかどうか」の判断こそ、
すなわち裁判所の判断なのではないかと私は思うのですが、
Fostは裁判所など無視しろと言っているのも同然。
すなわち裁判所の判断なのではないかと私は思うのですが、
Fostは裁判所など無視しろと言っているのも同然。
結局、「社会が認めるかどうか」については外部の判断を仰がず、
医師の主観で「この子には社会が延命コストを認めないだろう」と思えば
治療を停止しろと勧めているのでは?
医師の主観で「この子には社会が延命コストを認めないだろう」と思えば
治療を停止しろと勧めているのでは?
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最後にFostはextraordinary、viabilityなどのキーワードを解説しますが、
その中でいかにも「ステロイドの専門家」らしいのが
「“治療”treatmentと“強化”enhancementの違い」についての解説でした。
その中でいかにも「ステロイドの専門家」らしいのが
「“治療”treatmentと“強化”enhancementの違い」についての解説でした。
成長ホルモン障害があって背が小さい男児がいる。
彼は「治療」の対象になる。
もう1人の男児は普通に背が低い。
2人が結果的に同じ身長だったとしても、
後者の男児に成長ホルモンを投与するのは「強化」になるため、してはならない、といわれる。
なぜ前者にはしてもいいことが後者にはいけないのかが明確ではない。
ただ医師が手前勝手なレッテルを使って判断基準を代えているだけだ。
もっとも、この傾向も少しずつ変わりつつある。
彼は「治療」の対象になる。
もう1人の男児は普通に背が低い。
2人が結果的に同じ身長だったとしても、
後者の男児に成長ホルモンを投与するのは「強化」になるため、してはならない、といわれる。
なぜ前者にはしてもいいことが後者にはいけないのかが明確ではない。
ただ医師が手前勝手なレッテルを使って判断基準を代えているだけだ。
もっとも、この傾向も少しずつ変わりつつある。
この部分については、
聴衆がそれまでほど素直についていっていない感じがしましたが、
気のせいかもしれません。
聴衆がそれまでほど素直についていっていない感じがしましたが、
気のせいかもしれません。
2007.08.25 / Top↑
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