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4月28日にMaryland大学で行われた
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファについては4 月3日のエントリーで紹介し、

その分科会で、
アシュリー事件について、一貫して「障害者全体の問題」として批判を続けてきた
障害当事者のWilliam Peace氏が講演する内容をこちらのエントリーで紹介しました。

その講演内容に手を加えたものが、
22日付でHastings Centerのブログ Bioethics Forumに掲載されています。
タイトルが非常に印象的で、「アシュリーと私」。

Ashley and Me
William J. Peace
Bioethics Forum, June 22, 2010

Bad Cripple こと William Peace氏は2007年1月の論争当初の1月18日に
Counterpunchというネットサイトに長文の批判記事を寄せた際に、
既に「アシュリーは自分だ」という視点から書いていました。

Peace氏 に言わせれば、
障害者に対する強制不妊の歴史は、
障害者に対する人権侵害のわずかな一面に過ぎず、
米国の歴史において障害者はずっと価値の低い存在として、
その権利はずっと値引きされてきたのであり、

Ashley療法や成長抑制療法が仮に重症児を対象としたものであっても、
そこで繰り返されているのは、これまでと同じ論法であり、
障害者を健常者とは別の世界の住人として差別し、
その権利を値引きするための詭弁に過ぎない。

その意味で、
Ashleyは寸分たがわず自分自身であり、すべての障害者である、
Ashley療法は、ただシアトルの一人の重症児の問題ではなく、
すべての障害者の問題である、と主張します。

最後の部分を以下に。

What are the larger implications of the Ashley treatment? The answer to this question is clear to me: the Ashley treatment is about more than one girl in Seattle – it is about all people with disabilities. We are the Other, a pervasive and important concept in the social sciences. The Other are strangers, outcasts if you will, people who do not belong. The Other often have fewer civil rights and experience gross violation of those rights.

Thus at a fundamental level there is an us-and-them – those with a disability and those without. This is a false dichotomy, but is a part of the American social structure and dare I say medical establishment. The degree of disability is not important, nor is the type of disability. We people with a perceived disability are the other.

Given this, I do not consider myself one iota different from Ashley, in spite of the great difference in our cognitive ability. In developing the Ashley treatment, doctors have not only overreached the bounds of ethics in medicine but also sent a shot across the bow of every disabled person in American society.

The message is very clear: disabled people are not human – they are profoundly flawed beings, and extreme measures will be taken to transform their bodies. Consent is not necessary. Modern science has come to the rescue, and doctors have the technology to save us. The problem with this line of thinking is that it is inherently dehumanizing. Ashley did not need to be saved.



    ――――――

私自身、ずっとこのブログで考えてきたことが
最近、1つ、まとまりを持った言葉になってきたのですが、
それが、Peace氏が書いていることに通じていくように思うので、以下に。

Ashleyに行われたことについての
父親やDiekema、Fost医師らの正当化の基盤はアシュリーの知的障害の重さであり、
したがって、彼らの論法を正面から受け止めた場合、倫理上の問いは
「Ashleyの知的障害の重さは“Ashley療法”を正当化するか」。

私は、まずAshleyの知的障害の重さについて
同じような重症重複障害のある子どもを持つ親として、
彼らの「どうせ何も分からない」「生後3か月の赤ちゃんと同じ」という認識が
事実とは違い、彼らの中にあるステレオタイプに基づいた偏見に過ぎないことを
繰り返し指摘してきました。

したがって、上記の問いにおいて
まず、正しく認識されていない「Ashleyの知的障害の重さ」は
何ものも正当化しない、というのが1つの答えだとは思うのですが、

でも、この問いへの答えは、そこでとどまらないし、とどまってもいけないと思う。

なぜなら、問題は
Ashleyの知的障害が正しく認識されていないことにあるのではなく、
なぜ正しく認識されないか、の方にあるから。

現実の障害像が正しく認識されないことの背景にあるのが
無知とステレオタイプである、という事実がここでは問題の本質であり、
それこそが、障害者に繰り返されてきた差別の根っこそのものだから。

その意味では、
Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないから
“Ashley療法”は正当化されないのでなく、

Ashleyの知的障害が医師らの主張するよりも軽い可能性があるから
”Ashley療法”が正当化されないのでもなく、

Ashleyの障害の重さが正しく理解されていないまま
正当化の根拠になっていることが証明しているように、

障害を根拠として別の扱いや基準を正当化する行為そのものが
障害の重さとは無関係に、無知とステレオタイプに基づいた差別であるがゆえに、
障害者に対する差別による“Ashley療法”の正当化は成立しない、のだと思う。

だから、仮に医師らの言う通りに、またはそれ以上に知的障害が重かったとしても、
障害の重さとは関わりなく、どんな重症者に対しても、
その論理の差別性ゆえに、正当化が成立しないのだと思う。

“Ashley療法”の正当化論は
「重症障害児・者は他の障害者とは別」との線引きを試みていて、
それは現在「無益な治療」論や安楽死議論、恐らく臓器提供を巡る医療倫理において
じわじわと進行しつつある線引きでもあるからこそ、

“Ashley療法”正当化論の線引きについては、
その両方のことが、きちんと両方とも言われる必要があるんじゃないか……ということを
最近ずっと考えている。



実は08年12月にPeter Singerの発言がらみのエントリーに、tu_ta9さんから
「じゃぁ、認知が出来なければ殺されても仕方ないと言えるだろうか」という
コメントをいただいた時に、

“Ashley療法”論争がすべてのスタートだった私にとっては
正面からお返事するだけの手持ちの考えというものがなくて、
その後、ずっとtu_ta9さんからもらった宿題として、その問いが意識されていました。

1年以上かかったし、まだ、これは1つのステップに過ぎないけど、
あの時の宿題がなかったら、この方向にこだわって考え続けることはできなかったかもしれません。

tu_ta9さん、ありがとうございました。
2010.06.24 / Top↑
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