NYTの記事
「学生さん、ようこそ大学へ。でも親御さんはとっととお帰りを」
今の時期、米国の大学は新入生を迎える。
昔の親は、寮に子どもと荷物を降ろしたら、さっさと引き上げたものだったのに、
今では、子どもを送ってきた親たちが、いつまでも居座って帰ろうとしない。
キャンパス近くにホテルをとり、入学式が終わった後になっても
何日でも子どもの新生活スタートの世話を焼き続けたりする。
中には両親揃って初日の授業に娘と一緒に出たあげく、
親が学生課に行って娘の履修変更を願い出たというケースも。
そこで大学では、さっさとお帰りいただくために、
お別れセレモニーを企画してみたり、入学式で一言うながしてみたりと、
親に子離れしてもらうための工夫が必要な時代なんだとか。
overinvolvement という言葉が頻繁に使われている。
日本語の「過干渉」に当たるのでしょう。
Grinnell大学の職員のコメントが興味深くて、
「こういう現象というのは、
学生さんたちの生活への過干渉が進んできたことと大いに関係していますね。
子どもを成功させることに多大なカネとエネルギーを注ぎこむ過保護な親は、
ほとんど子どもになり変って子どもの人生を生きてやろうとしている。
この現象もその1つの現れです」
Students, Welcome to College; Parents, Go Home
The NYT, August 22, 2010
親が、親である自分と子どもとを同一視し、
あたかも子どもは自分自身の延長であるかのように感じてしまって、
自分と、他者としての子どもとの境界線を引けなくなっているのではないか。
それが子どもへの愛情だと思いこんで、
実は子どもを思うようにコントロールし、
子どもの人格と権利を侵害しているのに、
そのことに無自覚なのではないか。
それは、とりもなおさず、親が幼児化しているということではないのか。
そして、そういう未成熟な親が増えていることが、
さらに社会全体に親のそうしたあり方を容認する空気を醸しているのではないか。
その一方、科学とテクノロジーの進歩によって、
現代の大人には用いることのできるツールがあれこれと存在する。
それらのツールを使って強大で圧倒的な力で子どもをコントロールし、
大人たちの欲望のままに大人の権利が子どもの権利を丸飲みしてしまっても、
それを容認し、その重大さを顧みようともしない社会へと
世の中が変容しつつあるのではないか。
それは、社会全体が幼児化しているということではないのか……。
Ashley事件を機に、親の権利と子どもの権利の相克という問題を考え続けてきて、
(詳細は「親の権利」vs「子どもの権利」の書庫に」
“科学とテクノによる簡単解決文化”の広がりによって、
親が子どもに及ぼす支配が容認される範囲がじわじわと広げられていくことや
それと並行して、あちこちで一面的な「親の愛」が
まるでその通行手形のように喧伝されていくことや
もっと単純に言えば、
子どもを虐待する親や大人が世界中で増えていることも、
いわゆる知的な専門職についているはずの人たちの中に、
知識はあっても知恵というものを持ち合わせない、人間観の浅薄な、
幼児性の抜けきれない人たちが増えているように感じられることも、
そうした世の中全体の空気と無関係ではないのではないかということを
このところ、なんとなく考え続けていたので、
さらに虐待が世代間に連鎖していくことを考え合わせると、
この記事を、笑って読み過ごせなかった――。
「学生さん、ようこそ大学へ。でも親御さんはとっととお帰りを」
今の時期、米国の大学は新入生を迎える。
昔の親は、寮に子どもと荷物を降ろしたら、さっさと引き上げたものだったのに、
今では、子どもを送ってきた親たちが、いつまでも居座って帰ろうとしない。
キャンパス近くにホテルをとり、入学式が終わった後になっても
何日でも子どもの新生活スタートの世話を焼き続けたりする。
中には両親揃って初日の授業に娘と一緒に出たあげく、
親が学生課に行って娘の履修変更を願い出たというケースも。
そこで大学では、さっさとお帰りいただくために、
お別れセレモニーを企画してみたり、入学式で一言うながしてみたりと、
親に子離れしてもらうための工夫が必要な時代なんだとか。
overinvolvement という言葉が頻繁に使われている。
日本語の「過干渉」に当たるのでしょう。
Grinnell大学の職員のコメントが興味深くて、
「こういう現象というのは、
学生さんたちの生活への過干渉が進んできたことと大いに関係していますね。
子どもを成功させることに多大なカネとエネルギーを注ぎこむ過保護な親は、
ほとんど子どもになり変って子どもの人生を生きてやろうとしている。
この現象もその1つの現れです」
Students, Welcome to College; Parents, Go Home
The NYT, August 22, 2010
親が、親である自分と子どもとを同一視し、
あたかも子どもは自分自身の延長であるかのように感じてしまって、
自分と、他者としての子どもとの境界線を引けなくなっているのではないか。
それが子どもへの愛情だと思いこんで、
実は子どもを思うようにコントロールし、
子どもの人格と権利を侵害しているのに、
そのことに無自覚なのではないか。
それは、とりもなおさず、親が幼児化しているということではないのか。
そして、そういう未成熟な親が増えていることが、
さらに社会全体に親のそうしたあり方を容認する空気を醸しているのではないか。
その一方、科学とテクノロジーの進歩によって、
現代の大人には用いることのできるツールがあれこれと存在する。
それらのツールを使って強大で圧倒的な力で子どもをコントロールし、
大人たちの欲望のままに大人の権利が子どもの権利を丸飲みしてしまっても、
それを容認し、その重大さを顧みようともしない社会へと
世の中が変容しつつあるのではないか。
それは、社会全体が幼児化しているということではないのか……。
Ashley事件を機に、親の権利と子どもの権利の相克という問題を考え続けてきて、
(詳細は「親の権利」vs「子どもの権利」の書庫に」
“科学とテクノによる簡単解決文化”の広がりによって、
親が子どもに及ぼす支配が容認される範囲がじわじわと広げられていくことや
それと並行して、あちこちで一面的な「親の愛」が
まるでその通行手形のように喧伝されていくことや
もっと単純に言えば、
子どもを虐待する親や大人が世界中で増えていることも、
いわゆる知的な専門職についているはずの人たちの中に、
知識はあっても知恵というものを持ち合わせない、人間観の浅薄な、
幼児性の抜けきれない人たちが増えているように感じられることも、
そうした世の中全体の空気と無関係ではないのではないかということを
このところ、なんとなく考え続けていたので、
さらに虐待が世代間に連鎖していくことを考え合わせると、
この記事を、笑って読み過ごせなかった――。
2010.08.28 / Top↑
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