いくつかの疑問がずっと前から頭の中にぐるぐるしている。例えば、
疑問①
「過剰医療はやめよう」という話と「延命はやめよう」という話が
実は混乱しているのではないか。
疑問②
「何が“無駄な延命”で何が“無駄ではない延命”または“必要な治療”なのか」は
実は個々のケースによって全く違う話なのではないか。
それなら「もっと個々に丁寧に細やかな判断をしよう」という話が先、
またはそれを言えば終わる話なのに、
なぜかそれが
「どうせ死ぬなら無駄な延命はやめよう」というスローガンとなり、
結果的に「延命は全て無駄」というイメージを広げていくなら、
それは話の摩り替えではないのか。
疑問③
さらに「どうせ“死ぬ”なら延命はやめよう」という話と
「どうせ“治らない”なら延命はやめよう」という話も混乱しているのではないか。
しかし「どういう場合に何が無駄な延命または治療なのか」を問題にせず
「どうせ治らないなら“延命”はやめよう」と言うのは、
「どうせ治らないなら“治療”はやめよう」と言うに等しいのでは?
疑問④
その結果、本来なら「過剰な医療はやめよう」というだけで片付く話が
「一定の状態になったら治療は全て無駄」へと大きく飛躍しているのではないか。
尊厳死法制化の議論で流布されているのは、実はその飛躍なのではないのか。
――――
文芸春秋の11月号に仁科亜季子さんの
「私は尊厳死を選ぶ」という“初告白”の記事があって、
中原英臣氏が“聞き手”ということになっている。
実際に読んでみると、仁科さんが言っていることはそれほど割り切れているわけではないし、
中原氏はぜんぜん“聞き手”ではなく完全に話を誘導し、自分の方が大いに論じて、
英語で言う「言うべき言葉を相手の口に入れてやる」状態になっている。
で、この記事を読んで、上の4つの疑問がくっきりとした。
中原氏がこの記事の中で描写する「延命」とは、
よく「スパゲティ症候群」などと言われていますが、中心静脈注射などのさまざまな管をつけて、助かる見込みのない患者さんをただ生かしておく延命措置
(p.288)
病院に入ると、身体に栄養を入れるのも出すのも、すべて管を使って機械的に処理することになりますから。病院における臨終までの時間はとても忙しいんですよ。最後の最後まで、患者さんは酸素吸入をされて、痛々しい処置をいろいろされて、最後は医者による力まかせの心臓マッサージが行われる。こういうドタバタ行為は、患者さんのためというより、最後まで手を尽くしたという医者の自己満足のために行われるわけですよね。
(p.292)
肺に転移したがんの状態を調べるために、毎日、気管支ファイバースコープ検査をされた八十代の方もいらっしゃいました。
(p.292)
でも、これ、すべて
「患者のためにならない過剰な医療はやめるべきだ」という話に過ぎないのでは――?
つまり上記の疑問①。
さらに、
中原:……さらに、医療の世界では、延命医療はドル箱といわれているんですよ。例えば、肝硬変のために食道静脈瘤が破裂して、入院してから十五日後に亡くなった七十歳の方のケースですが、治療費は合計で三百十六万円かかっています。そのうち最も高かったのは中心静脈注射です。
仁科:私もやりましたけど、中心静脈注射って高いんですね。
中原:仁科さんの場合には治る見込みのある治療でしたけど、回復する可能性のない患者さんにとっては意味のある治療とは思えません。……(中略:この患者の治療費の内訳)……(中心静脈注射は)病院にとっては打ち出の小槌みたいなものです。
(p.292)
これも一見すると、「過剰な医療はやめよう」という疑問①の話と見えるし、
病院が必要もない検査や中心静脈注射をやって“打ち出の小槌”にしているという指摘ならば
「延命治療が悪い」ではなく、個々の「医師や病院が悪い」から是正しろという全く別の話だと思う。
しかし、よく考えてみると、実はこれは疑問②に当てはまる話なのではないかと思えてくる。
手術費用が治療費総額の14%だという話が出ているので、この人は手術を受けている。
それなら、この70歳の患者さんは、少なくともその段階では
「手術すれば回復する可能性がある患者」だと判断されていたのであり、
「回復する可能性がない患者」だとはみなされていなかったことになる。
手術後に中心静脈から高カロリー輸液の点滴を入れるのは
特段「過剰な医療」でもなければ「意味のない治療」でもないのでは?
いや、そもそも、その中心静脈点滴は急性期治療の一環であって「延命治療」ではないのでは?
それなのに中原氏は
仁科さんが胃の部分摘出の際に受けた中心静脈注射と比較して、この患者の場合を
「回復する可能性のない患者」への「意味のない治療」だとしている。
しかし、実は、どちらのケースも手術とそれに伴う急性期の医療。
最初から死ぬと思って手術したわけではなく、不幸な転帰は、あくまでも結果論。
それならば急性期の医療のケースを並べて、片方だけを
終末期に無駄な延命医療が行われた事例であるかのように話をすり替えることができるのは、
患者の70歳という年齢が目くらましになるからでしょう。
そういうことならば、
それほど強引な摩り替えによって中原氏が言外に送っているメッセージとは必然的に
「高齢患者には助かる可能性がある治療も無意味だ」というものにならないか?
それなら、ここでの疑問②は、そのまま疑問③や疑問④につながる。
もともと中原氏はこの記事の中で
「助かる見込みのない患者さん」「回復する見込みがない患者さん」と言い
必ずしも話をターミナルな状態の患者さんに絞っていない。
そういう人が言うことだとの前提に立つ時、
上記最初の引用部分の「助かる見込みのない患者さんをただ生かしておく延命措置」とは
具体的にはどういう患者へのどういう医療介入を意味するのだろう?
または、どういう患者への、どういう介入までを意味し得るだろうか?
中原氏は別の個所では、こんなことを、さらりと言ってのけている。
……死というのは本来非常に単純で、動物の場合ならいわゆる生理学的な死しかないわけですよね。ところが、人間の場合は、生理学的な死だけでなく、「人格的な死」というのもあるでしょう
僕は延命治療をやるな、と言っているわけではないんです。やりたい方は、やればいい。「何が何でも、私はできる限りの治療を受けて死んでいきたい」と思われる方は、延命医療を受ければいいでしょうし……
(p.290)
これは尊厳死法制化を言う人たちに私が感じる最も大きな疑問なのだけど、
「延命をやるな」の反対が何故
「何が何でもできる限りすべてのことをやってほしい」に飛躍してしまうのか。
個々の患者さんの状態と、それを巡る医療の判断のありようというものは
「一切の延命は無駄だからやらない」と「何が何でもすべてをやる」のいずれかであるよりも、
そのどちらでもない、両者の中間で、あくまでもその人だけのプロセスを経た先に生じてくる
無数の細かい判断として繰り返され積み重ねられて、次へのプロセスへと繋がっていく
地味で、どちらかというと不透明な性格のものなんじゃないだろうか。
その複雑でファジーな現実を無視して、そこにある選択があたかも
「延命をやめる」か「何が何でもすべてやる」の二者択一であるかのように言いなすことは
結局のところ、「延命と呼びうるものは全て無駄」に向けて読者の意識を誘導しているに等しい。
つまり疑問④。
そして、それが定義もされないままの「人格的な死」と共に語られていく――。
中原氏は、終末期の人の延命について語っているフリを装いながら、その実、
「死が差し迫っている人」の医療ではなく「回復の可能性のない」人の医療が語られて、
そこに、さりげなく「人格的な死」が紛れ込まされていく――。
なんと恐ろしいペテンなのだろう――。
ついでに、もう1つ、中原氏の「誠実とは言えない誇張」を指摘しておくと、
なぜ患者が在宅での死を選べなくなったかという要因の1つとして
中原氏は医師が24時間以内に診察していないと死亡診断書が書けないためだと語り、
以下のような会話がある。
……極端な話、医者の隣に引っ越さなくちゃいけない、なんてことになる。昔はよく医者が往診をしてくれましたが、今は非常に少なくなっていますからね。
仁科:最近は在宅医療が始まって、往診を増やそうという動きもあるんですよね。
中原:ただ、設備が整っている大きな病院ではできても、地方ではとてもできないのが現状です。
(p.291)
素人の仁科さんが指摘しているように
日本の医療改革の方向性として在宅医療の推進が図られて
介護と医療の連携によって地域包括支援体制づくりが打ちだされているのは事実。
それなのに“専門家”の方が「昔は往診してくれたが、今は少ないから、
家で死亡診断書を書いてもらうためには医者の隣に引っ越さないといけない」って……?
在宅医療がなぜ設備が整った大病院でなければできないのかについては、
私にはさっぱり分からないので、どなたかご教示いただけると幸いです。
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ついでに、何故かこれを書いていたら思い出したので、
日本生命倫理学会の会長が説明する「米国の事前指示書署名と倫理相談制度」の不思議に関して
ここで追記しておくと、
ハリケーン・カトリーナの安楽死事件の記事の中に
ルイジアナ州で延命治療差し控えまたは中止の事前指示が法的に認められるのは
患者が「ターミナルな状態にあり」かつ「耐え難い苦痛がある」場合、とされていました。
木村氏がいうような
米国のメディケア患者が入院する際には
一律に事前指示書にサインするかのようなシステムがあるとは、やはり考えにくいですが。