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11月1日のエントリーを書いた後で
借りていた本を返しに図書館に行ったら、「大型類人猿の権利宣言」があったので、

これだけブログでボロカスに書いていることだし、
目についた以上は読むのが仁義かと思って借りてきた。

で、最初に編者のパオラ・カヴァリエリとピーター・シンガーが書いている「序」と
それに続く「大型類人猿についての宣言」合わせて8ページ分を読んだ。
(その他の部分は、まだペラペラしてみただけ)

「序」によると、著者らの実践的なレヴェルでの目的とは
「監禁されているチンパンジー、ゴリラ、オランウータンをすべて解放し、
彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境に帰してやること」となっている。

私はこれには賛同する。

08年にこちらのエントリーでとりあげた
脳とコンピューターのインターフェイスの実験のニュースにあった映像で
サルのあまりにも痛々しい姿が、その後もずっと忘れられない。
(上記エントリーの記事リンクから見れます)

また、07年にシンガー関連で読んだ本の何冊かにも
あまりにも残虐な動物実験の実態は描かれていてショックだった。

こういう実験のことを考えると、
Singerらの目的を達成しようと主張することは、同時に、
科学とテクノロジー研究の進歩が止まるも同然になっても
やむを得ないと主張することでもあろうけれど、

こういう主張をする以上は、この本の著者らだって、
それくらいは覚悟の上で言っていることなのだろうし
私個人的には、今の科学とテクノの簡単解決文化の暴走こそ危うい感じがするから
まぁ、この辺でペースダウンして、その分いろいろ考えるべきことを考えながら、
ゆっくり前に進んだっていいんじゃないかと思っている。

(科学とテクノの進歩がユートピアをもたらすと信じるTH二ストが
どうして同時に大型類人猿の解放を唱えていられるのか、私には謎だけど)

だから、ここのところには、賛成。賛同。拍手。

ところが、それが最終目的だという前提を共有したつもりで、その他の部分を読むと、
著者らのいう「理論的なレヴェルの目的」は、
あまりにも上記の目的と矛盾しているように思えて、
にわかに頭が混乱してくる。

「理論的なレヴェルの目的」とは、何度も繰り返されているのだけど、
「平等なものの共同体」を拡張してチンパンジー、ゴリラ、オランウータンを含めること。

で、その根拠とは、これら大型類人猿は
例えば人間の言語を理解できるなど、知能のレベルが高く人間に非常に近いから。

でも私には、この論理そのものが種差別ではないのか、という気がするんだけど……。


特に「人間の共同体」と書かれているわけではないのだけど、
「われわれの住んでいる世界では」とか「われわれの国の中で」とも書かれているので、
この「平等なものの共同体」とは「現在は人間だけを平等なものとして含むことになっている
我々人間の共同体」のことを意味しているのだろうと推測される。

それを大型類人猿にも「拡張」して、
その人間の共同体に彼らを「含める」ことが提案されているわけです。

でも、「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは
彼らが人間とは関わりを持たずに暮らせる環境のことのはずであり、

それならば理念のレヴェルにおいても、
「彼らの生理的、知的、社会的必要に一致する環境」は
「人間の生理的、知的、社会的必要に一致する環境」とは重ならず、
したがって「われわれの共同体」とも重ねるべきではないはずで、

我々の共同体の門戸を開いて彼らをそこに受け入れてやろうと言うのは、
先の目的と矛盾しているだけでなく、それを言う人間の
大型類人猿に対する不遜であり傲慢なのでは?

大型類人猿たちにとって人間は特別な存在でもなんでもなく、
自分たちこそが特別な存在なのであり、
それを尊重することが彼らの尊厳を守ることになるはずなのだから、

大型類人猿にとっては、人間の共同体に含めてもらったり
「人間と平等」にしてもらったり
「人間の道徳的地位」を与えてもらうことは
種としての尊厳を守られることにはならない。

シンガーらの「理論的なレヴェル」の目的には
大型類人猿よりも優位な存在である人間サマが
自分たちよりも劣等・下位な大型類人猿を「人間に近い」存在だと「認定」し、
自分たち優位な者と同等なものとして「承認」してやろうという傲慢が潜んでいるのでは?

でもって、それって「種差別」意識なのでは?


「我々の共同体に、我々と同じように平等な道徳的地位を持った存在として
彼らを受け入れよう」と主張する根拠とされる彼らの「知能」の高さにしても、
そこで基準とされているのは、あくまでも「人間で問題になる意味での知能」だ。

ゴリラの生理的、知的、社会的必要に一致する環境で
「ゴリラにとって問題になる知能」ではない。

人間の知能の基準と計測ツールを用いて
彼らにおける「人間で問題になる知能」をあれやこれやと計測し、
その結果、彼らは「人間で問題になる意味で知的」に「人間に近い」から、
彼らには人間と同じ共同体に入る資格がある、と主張することは、

人間の能力を基準にして彼らの能力を測り評価することの妥当性に
全く疑いを持たない意識のありかたそのものが、
チンパンジー、ゴリラ、オランウータンに対する
人間の傲慢であり、種差別ではないのか?

人間の言語を教えて、
その習得の程度によって彼らの知能の高い・低いを云々するのも、
人間の言語を教えこもうと試みることそのものが、一種の虐待なのでは?

それは、人間の世界で問題になる形での知能を測りたいという
人間の側のニーズによって行われることであって、
人間の言語を獲得して人間とコミュニケーションをとるニーズが
ゴリラやチンパンジーにあるわけではない。

彼らを彼ら本来の生理的、知的、社会的環境に戻してやることが
彼らの尊厳を守ることなのだという考え方に同意するならば
人間の言語を覚えさせたり、人間のようにふるまうことを求めることは
彼らにとっては何の利益にもならないばかりか、
種としての彼らの本来のあり方を捻じ曲げようとする行為に他ならない。

(「志村動物園」でパンくんを人間のように飼育することが動物虐待だという
指摘が出ていたのは、要するにそういうことですよね?)

Peter Singerが本当に種差別を禁じるならば、
彼ら自身にニーズもなければ利益にもならない人間の言語を
彼らに無理強いすることも批判し否定しなければならないはずだ。

もしも、彼らと本当に対等なコミュニケーションをとって
彼らについて何事かを知らなければならないニーズが
こういうことを主張したい Singerらにあるのだとしたら
そのニーズのあるSingerの方が、ゴリラ同士のコミュニケーションの方法から
彼らの言語を学んで、身につけ、彼らの言語でアプローチするべきだろう。


「理念レヴェル」で、あれこれのヘリクツを並べ、なまじな理論武装をして
自分たち以外の人間の種差別をひどく高いところから攻撃・糾弾しているうちに
自分たちの中にある種差別意識までうっかり露呈させてしまうくらいなら、

ヘンに手の込んだ合理一辺倒の傲慢な攻撃姿勢を棄てて、
現在の動物実験でどれほど惨いことが行われているかの詳細を根気よく提示し、
その他の動物虐待の実態を多くの人に伝える丁寧な努力を重ねることによって
「人間の都合で動物を虐待するのは止めましょう。
まずは大型類人猿から本来の生息場所に帰してやりましょう」と
素直にまっすぐ主張したらどうなんだろう?

彼らの知能がどのくらい人間に近いとか近くないとかいうヘリクツがなくたって
その方がよほど、それらの実態に心を痛める人が多く、
解放してやろうとの主張に素直に共感できる人も多いのではないかと
私は思うのだけど。――違います?


少なくとも、
オレ様たちはオマエらよりもはるかに頭がいいのだから
オレ様たちの言うことが正しいに決まっているのだ。
もしもその正しさを否定するなら、オレ様たちの理屈を論破してみろ。
論破できないなら、オレ様たちの正しさは証明されたのだ。
負けを認めて、オレ様たちの言うことを聞けぇ。分かったかぁぁぁ、と

まるで赤ヘルかぶって拡声器持った70年代のニイチャンたちみたいに
いい歳の(しかも一応、学者だよ)大人に
高~いところから、おめきたてられるよりも、

そういう素直なメッセージの方が、
はるかに多くの人の心に届くと思うよ。心に――。
2010.11.05 / Top↑
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