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某MLに長野英子さんが流してくださった
権利主張センター中野での池原毅和弁護士の講演。

国際人権と障害者権利条約
2009年9月15日


自由権と社会権について。
人権と尊厳について。
尊厳とオートノミ―について。
平等概念の変化について。
障害理解と平等について。

などなど、
Ashley事件との出会いから
ずっと、私にはよく分からないままに、ぐるぐるしてきた問題の周辺を
とても分かりやすく解説してあって、とても勉強になった。

私にとって、このブログは
資料のファイリング・ツールにもなっているので、
例によって自分自身のメモとして、

ほとんど言語道断なほどの雑駁さで、以下に。


抽象的な「人間」に権利がある……から、
具体的な人間をそれぞれにイメージしつつ、それら人間に権利がある……となり、

さらに

「自律している人間に尊厳がある」という考え方から
「自律している個人に尊厳がある」という考えに傾いてきたことへの反省として、
人間であればだれでも尊厳を持っているという視点に戻ろうというのが
障害者権利条約の理念ではないか、と。

その理由として、池原氏が挙げている
以下の3点が、私には特に印象的だった。


何でだかはよくわからないけど、うまく説明できないけど、人間という集団の中により尊重されるべき人間と尊重されなくてもいい人間とか、切り捨てられてもいい人間っていうグループわけをし始めると、おそらく人間の社会というのはだめになっちゃうんだというのが20 世紀の経験だったんだろうなというのが一つですね。経験的な説明として。



これと似たようなことを Peter Singer 批判の中で Dick Sobsey も書いている。

いつか、誰かに教えてもらった「法の歴史性」というのが、
こういうことなんだろうな、と思う。


平等主義と自己決定原理の前提には価値相対主義があるということですよね。価値相対主義に立つとすると、どういうことになるかというと同様に結局人間は区別できないわけだから、尊厳とそれを呼ぶかどうかはともかくとして、それぞれの人間は同じだけ尊重されなければいけない。どっちがより尊厳が少ないとか多いという議論は成り立たない、そこまでいくと平等性とほとんど同じ概念とですけれども、やはり人間の尊厳性の前提にも価値相対主義があるだろうということがある。というのが二つ目ですね。



自己決定原理の前提に価値相対主義があるというのは目からウロコだった。

じゃぁ、
Ashleyのような重症児には尊厳はないとの主張に基づいて
侵襲度の高い不可逆な医療介入を正当化する論理は
価値相対主義を否定していることになるのだから
自己決定権の延長である親の決定権も根拠が崩れる……?

一定のオートノミ―を失った状態には尊厳がないと感じることは個々の感じ方の違いだから、
そう感じる人には死の自己決定権を認めましょう……という主張は、
「どんな状態になっても生き続ける」との自己決定も同様に尊重されるのでなければ
価値相対主義とは言えないのだから、

現在のように「死ぬ」という一方向のみの自己決定権は喧伝されても、
逆方向からはQOLを基準に治療を拒絶する「無益な治療」論が押し出してきていて
「にもかかわらず生きる」という方向への自己決定は否定されていくのでは、やっぱりマヤカシ。


現に自律しているとか自己決定しなくてもね、少なくとも可能的な潜在的な、つまり命
というものが存在している限りにおいては、可変的であって、可能性を持った存在だとい
うのが人間



これと全く同じことを
成長抑制をずっと批判している重症児の親Clairさんが書いている。

ついでに、私もずっとそのことを娘の姿を通じて描き出したいと、
このブログの「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫のエントリーで
拙い努力をしているつもり……。
2011.02.08 / Top↑
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