John Harrisはマンチェスター大学の倫理学者。
前のエントリーで映画「わたしを離さないで」についてのSomervilleの論説を読んだ際、
Harrisが臓器売買を認めろと主張する文章を最近書いているとのことだったので、
探して読んでみた。
Professor John Harris:This would end an evil trade – and save lives
The Independence, January 5, 2011
彼が生体間の臓器売買を一定の規制のもとで認めようと提案する理由は2つ。
① 世界中で臓器目的で人が誘拐され、騙され、殺されてすらいる現状。
② 世界規模の提供臓器不足によって引き起こされている
本来は失われずともよい命の悲劇的な死。
自分は別にショーバイにしようというわけじゃない、
臓器不足によって命と自由が失われていくことが我慢できないだけなのだ、と。
ここまでで私が「ちょっと待って」と思うのは2つで、
① は、「セーフガードさえあれば臓器売買も犯罪も起こらない」と言って
移植医療を推進してきた人たちの主張が間違っていたことのエビデンスであり、
それは、とりもなおさず
売買についてもアンタが言っている「一定の規制」なるものが
セーフガードとして機能しないことのエビデンスじゃないの?
② で、死が「臓器不足によって引き起こされている」という、あざとい書き方は
ぜんぜん正しくなくて、それらの死はあくまでも「病気によって引き起こされた」のでは?
でも、Harrisが、もっと“えぐい”のは、
この後、売買反対論の懸念を一つずつ上げてつぶしていくところ。
まず、
① 売買を認めたら自発的に善意で提供する人がいなくなる、という懸念。
Harrisはそれに否定するのではなく「そうなったって、いいじゃないか」という。
だって、臓器不足を排除できれば(remove the organ shortage)
それくらいの代償は小さなものさ、臓器に払うコストだって
人工透析の費用が浮くんだからその2年分程度で賄えるんだから、と。
次の論点は、もっと、えぐい。
② ドナー希望者に対して、どのくらいのリスクがあるのかが
十分に説明されるのか、という懸念に対して、
これもHarrisは、否定はしない。
そうだとしても、ドナーにリスクがちゃんと説明されないリスクよりも
「臓器不足を終わらせ」ないことのリスクの方が大きいだろう、と一言。
そして、次に、この極め付けのえぐさは、どうよ?
③ 売買を認めたら、臓器を売ろうとするのは
「最も弱い立場にある人たち」になるのでは、との懸念を、
やはりHarrisは否定せず、「そうかもしらんよ」と、あっさり認め
「でも腎臓提供の安全性と倫理性はもう確立されている」。
ここに見られる、
「様々な要因で弱い立場にあるために臓器を売るしかなくなる」人の
立場や絶望や痛みへの想像力と共感性の欠落は、
そのまま「わたしを離さないで」の世界に通じていくものだ。
しかもHarrisはさらに、こんなイヤラシイことをそこに付け加える。
「臓器提供は命を救うのはもちろん、非常に愛他的な行為なのだから、
それを考えれば、むしろ、そうした英雄的な愛他的行為が
果たして弱者以外の特権になっていいのかと問うべきだろう」。
なんッちゅう、偽善的で恥知らずな、おためごかしだよ、それはっ。
売買できるようになれば、金持ちが順番をすっ飛ばすと思うかもしれないが、
「臓器不足を排除」すれば順番そのものがなくなるじゃないか、とも。
―――――
頭に血が上っているから数え間違えているかもしれないけど、
「臓器不足を排除する」という表現が少なくとも2回。
「臓器不足を終わらせる」が1回。
つまり、
移植臓器を必要とする人全員に臓器がいきわたる世の中にすべきだと
Harrisは本気で考えているわけですね。
たぶん、SavulescuやWilkinsonなんかと一緒にね(詳細は文末にリンク)。
「わたしを離さないで」についての
Somervilleの言葉が思い出されます。
「道徳的な良心も道徳的な感性も持たない人たちが
純粋功利主義と道徳的相対主義によって
新たなテクノ科学を統制したら……」って、
Harrisさん、アンタのことですよ。
アンタの頭の中に描かれている「臓器不足が排除された」世界と
「わたしを離さないで」の臓器庫クローン畜産業との距離はごくごく近い。
そして映画では、その産業は“政府直営”だった――。
【関連エントリー】
英国の臓器提供“みなし同意”論争(2008/11/18)
Kaylee事件から日本の「心臓が足りないぞ」分数を考えた(2009/4/15)
生殖補助医療の“卵子不足”解消のため「ドナーに金銭支払いを」と英HFEA(2009/7/27)
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
前のエントリーで映画「わたしを離さないで」についてのSomervilleの論説を読んだ際、
Harrisが臓器売買を認めろと主張する文章を最近書いているとのことだったので、
探して読んでみた。
Professor John Harris:This would end an evil trade – and save lives
The Independence, January 5, 2011
彼が生体間の臓器売買を一定の規制のもとで認めようと提案する理由は2つ。
① 世界中で臓器目的で人が誘拐され、騙され、殺されてすらいる現状。
② 世界規模の提供臓器不足によって引き起こされている
本来は失われずともよい命の悲劇的な死。
自分は別にショーバイにしようというわけじゃない、
臓器不足によって命と自由が失われていくことが我慢できないだけなのだ、と。
ここまでで私が「ちょっと待って」と思うのは2つで、
① は、「セーフガードさえあれば臓器売買も犯罪も起こらない」と言って
移植医療を推進してきた人たちの主張が間違っていたことのエビデンスであり、
それは、とりもなおさず
売買についてもアンタが言っている「一定の規制」なるものが
セーフガードとして機能しないことのエビデンスじゃないの?
② で、死が「臓器不足によって引き起こされている」という、あざとい書き方は
ぜんぜん正しくなくて、それらの死はあくまでも「病気によって引き起こされた」のでは?
でも、Harrisが、もっと“えぐい”のは、
この後、売買反対論の懸念を一つずつ上げてつぶしていくところ。
まず、
① 売買を認めたら自発的に善意で提供する人がいなくなる、という懸念。
Harrisはそれに否定するのではなく「そうなったって、いいじゃないか」という。
だって、臓器不足を排除できれば(remove the organ shortage)
それくらいの代償は小さなものさ、臓器に払うコストだって
人工透析の費用が浮くんだからその2年分程度で賄えるんだから、と。
次の論点は、もっと、えぐい。
② ドナー希望者に対して、どのくらいのリスクがあるのかが
十分に説明されるのか、という懸念に対して、
これもHarrisは、否定はしない。
そうだとしても、ドナーにリスクがちゃんと説明されないリスクよりも
「臓器不足を終わらせ」ないことのリスクの方が大きいだろう、と一言。
そして、次に、この極め付けのえぐさは、どうよ?
③ 売買を認めたら、臓器を売ろうとするのは
「最も弱い立場にある人たち」になるのでは、との懸念を、
やはりHarrisは否定せず、「そうかもしらんよ」と、あっさり認め
「でも腎臓提供の安全性と倫理性はもう確立されている」。
ここに見られる、
「様々な要因で弱い立場にあるために臓器を売るしかなくなる」人の
立場や絶望や痛みへの想像力と共感性の欠落は、
そのまま「わたしを離さないで」の世界に通じていくものだ。
しかもHarrisはさらに、こんなイヤラシイことをそこに付け加える。
「臓器提供は命を救うのはもちろん、非常に愛他的な行為なのだから、
それを考えれば、むしろ、そうした英雄的な愛他的行為が
果たして弱者以外の特権になっていいのかと問うべきだろう」。
なんッちゅう、偽善的で恥知らずな、おためごかしだよ、それはっ。
売買できるようになれば、金持ちが順番をすっ飛ばすと思うかもしれないが、
「臓器不足を排除」すれば順番そのものがなくなるじゃないか、とも。
―――――
頭に血が上っているから数え間違えているかもしれないけど、
「臓器不足を排除する」という表現が少なくとも2回。
「臓器不足を終わらせる」が1回。
つまり、
移植臓器を必要とする人全員に臓器がいきわたる世の中にすべきだと
Harrisは本気で考えているわけですね。
たぶん、SavulescuやWilkinsonなんかと一緒にね(詳細は文末にリンク)。
「わたしを離さないで」についての
Somervilleの言葉が思い出されます。
「道徳的な良心も道徳的な感性も持たない人たちが
純粋功利主義と道徳的相対主義によって
新たなテクノ科学を統制したら……」って、
Harrisさん、アンタのことですよ。
アンタの頭の中に描かれている「臓器不足が排除された」世界と
「わたしを離さないで」の臓器庫クローン畜産業との距離はごくごく近い。
そして映画では、その産業は“政府直営”だった――。
【関連エントリー】
英国の臓器提供“みなし同意”論争(2008/11/18)
Kaylee事件から日本の「心臓が足りないぞ」分数を考えた(2009/4/15)
生殖補助医療の“卵子不足”解消のため「ドナーに金銭支払いを」と英HFEA(2009/7/27)
「生きた状態で臓器摘出する安楽死を」とSavulescuがBioethics誌で(2010/5/8)
Savulescuの「臓器提供安楽死」を読んでみた(2010/7/5)
「腎臓ペア交換」と「臓器提供安楽死」について書きました(2010/10/19)
臓器提供は安楽死の次には”無益な治療”論と繋がる……?(2010/5/9)
「“生きるに値する命”でも“与えるに値する命”なら死なせてもOK」と、Savulescuの相方が(2011/3/2)
2011.04.10 / Top↑
| Home |