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ケアラー連盟については、
これまで以下のエントリーでとりあげてきました ↓

介護者の権利を守るための「ケアラーズ連盟」、6月7日に発足へ(2010/5/18)(その後、名称変更)
「ケアラー連盟結成宣言」(2010/7/6)
日本のケアラー実態調査(2011/6/14)


このほどケアラー連盟は設立1周年を迎え、
6月28日、記念フォーラムが開催されました。

詳細はこちら

私自身も最後に15分ばかり、
ケアラーの立場から発言の機会をいただきました。

このブログで書いてきたことのごく一部を繰り返しているに過ぎませんが、
その内容を以下に。

私たち夫婦には、もうすぐ24歳になる一人娘があります。名前を海と言い、重症心身障害があります。24年前に娘が生まれた時、私は地元の小さな短大の専任講師をしていました。英語の先生が天職だと思って、この仕事をずっと続けて生きていくものだと考えていました。私たち夫婦は中学高校6年間ずっと同級生だった同級生夫婦なのものですから、結婚してからも女役割も男役割もなく暮らしていました。だから子どもが生まれても、保育所を利用し母の力もちょっと借りれば、2人で子育てをしながらそれぞれ働いていけるものとばかり思っていました。

ところが出産時のアクシデントで娘が障害を負うこととなると、そんな目論見は一瞬でふっとんでしまいます。障害のない子どもを育てながら働くための支援は当時でも整備されていましたが、子どもに障害があるということになると、ありとあらゆることが障害児の母親は働いていないものという前提で成り立っていました。とりあえず毎月の小児科受診。2カ月ごとの整形外科受診。2週間に1度のリハビリ、2カ月に1度の言語訓練。これがすべて平日の昼間です。1歳の時に参加した母子入園は2カ月の合宿生活でした。2歳を前に知的障害児の通園施設に通うようになりましたが、ここも午前10時から午後3時まで。それでも娘の施設は母子分離でしたが、当時は通園といっても母子通園が当たり前の時代でした。

勤務先が大学なので私の方は多少は時間が自由になる面もあって、何とか綱渡りの生活をしていましたが、なにしろ娘が言語道断な虚弱さで、3日と続けて元気だということがないんです。何か助けてもらえる方法はないかと市役所の福祉課に電話で相談してみたことがありました。ざっと事情を説明すると、「その子どもさんのお母さんはどうされているんですか?」「私が母親ですけど」「子どもに障害があったら、みんなお母さんが面倒をみておられますよ」

ものすごい勇気を振り絞ってSOSを出したのに、なんのことはない、叱られて終わってしまった、という。でも、このパターンは実は介護を我が身の体験として知っておられる方には案外お馴染みの体験ではないでしょうか。

行政の方に限らず、世の中には、なぜか励ますっちゃぁ叱ることだとカン違いしている人が多いので、障害のある子どもの親になった途端に、私はどこへ行って誰に会っても頻繁に叱られるようになりました。「お母さんが弱音を吐いてどうするの」「お母さんが頑張らないとダメよ」「お母さんが頑張ってこの子を歩かせるのよ」

もう1つ、当時の私に精神的にきつかったのは、娘はしょっちゅう入院していたのですが、そうすると私は病院に泊まり込んでそこから職場に通うわけです。朝、職場に行くと、何かと融通してもらっていたりもするので、会う人会う人に頭を下げ、ご迷惑をおかけします、申し訳ありません、と謝っている。仕事から病院に帰ると、今度は母に謝り、娘に謝り、医師や看護師に謝り、一日中誰かれに頭を下げ、謝っているんです。オマエは子どもの責任者でありながら、その責を全うできていないではないかと、いつも誰かに問われているような、そして、それに対して謝り続けているみたいな、そんな気分でした。疲れているので、私の方も高い熱を出していたりするのですけど、私の体調を気にかけてくれる人はどこにもいなくなってしまって。私を心配してくれる人や、私をいたわってくれる人は、もうどこにもいなくなってしまった……みたいな。それはまるで、私は「娘の療育担当者」だとか「介護者」という「役割」とか「機能」そのものになってしまって、もう一人の人ではなくなってしまったみたいな、うらさびしさでした。

結局、働いていられなくなって子どもが2歳の時に離職したのですが、なぜ?という思いを、それからずっと抱えてきました。なぜ私は天職だと思い決めていた仕事をやめなければならなかったのだろう? それまでは男とも女とも意識せずに暮らしてきたのに、子どもに障害があるということになったら、なぜ「母親だから」と言われてしまうのだろう? なぜ子どもに障害があるというだけで、母親は自分の人生を生きることを許されないのだろう?

こうした思いをこういう言葉で当時の私がちゃんと意識していたかというと、もちろんそういうわけではなくて、これは今だから言えることだろうと思います。ものを考える余裕などほとんどない過酷な介護のさなかでは、むしろ世間さまからの叱咤をどこかで真に受け、自分の中に内在化させて「母親なんだから私が頑張らなくちゃ」とひたすら自分を追い詰めていたような気がします。

肉体的にも精神的にも限界を超えた生活が続くと、もうこれ以上耐えられないッ、と気持ちが切迫する時がありました。毎晩すさまじい号泣を続ける娘を夫婦で交代で抱きあやしながら、それが何時間も何日も続くと、ふと窓から放り投げてしまいたい衝動にかられることもありました。でも、そういう危うい一瞬は過ぎていけば、今度は強烈な罪悪感をつれてきます。私はなんてひどい親なんだろう、母親のくせに、と自分を責めると、本当はもう逃げだしたいと思っていたり、今にも「助けて」と叫びだしそうな声を自分で封じ込めて、「いや、でも私は母親なんだから」とさらに頑張るしかないところへと自分を追い詰めていきます。時代は変わり、サービスや支援も増えてきましたが、負担の大きな子育てや介護をしているケアラーの中には、今もそんな思いを繰り返しておられる方がおられるのではないでしょうか。

2008年の秋に、福岡で繊維筋痛症を患う母親が発達障害のある小学生の息子を殺す事件がありました。あの時、ネットには母親に対する非難の言葉がわっと沸いて出たのですが、その中に私は忘れられないものがあります。「いやしくも母親なら、我が子の介護くらい、血反吐を吐いてでもやり遂げてみろ」。我が身の直接体験として介護を知らない多くの人は、人は心に思うことは全て行動で形にすることができるものだと、とても幸福な錯覚をしておられます。何日眠れない日が続こうが、自分が病気で血反吐を吐くほどの状態になっていようが、愛さえあれば明るく笑顔で介護し続けることができるはずだ、と。まるで、不可能を可能にすることだけが介護者の愛の証しであるかのように言われたりもします。

またあの事件の際、一方の支援の専門家からも母親への批判の声がありました。「支援が必要なら自分から声を上げ、行動を起こさなければならない」。でも、そんなダブル・スタンダードこそが、ケアラーから助けを求める声を奪っているんではないか、と私は思うんです。「もう耐えられない」という思いや「助けて」という声を自分で封じ込めて背負いこみ、頑張ることが出来ている間は、世間はそこに美しい母性愛や家族愛を見て手を叩き称賛し、その称賛で悲鳴を上げそうになる口にさるぐつわをかませます。でも、そうして抱え込んだ挙句に、万が一にも虐待や殺害に至ってしまった時には、今度は一転、なぜ助けを求めなかったのかと、ケアラーは介護を抱えて込んだことを責められるのです。社会がこのようにダブル・スタンダードを使い分けることによって介護者は二重に縛られ、ダブル・バインドの状態に置かれています。

そのダブル・バインドを解くためには、今日もお話に出ている「アウトリーチ型の支援」が大事ではないかと思います。私自身はそれを「支援する側から迎えに行く支援」という言葉で呼びたいのですが、ダブル・バインドに縛られて身動きできなくなっている人に向かって「助けが必要なら自己責任で行動しろ」と言って待っているのではなく、こちらから迎えに行ってダブル・バインドを解いてあげることも時に必要ではないでしょうか。

英国では毎年6月にケアラーズ・ウイークという介護者支援の啓発週間が行われており、今年も13日から19日に行われました。インターネットで関連記事をあれこれ読んでいたら、とても面白い表現と出会いました。「隠れたケアラーを見つけ出す」「ケアラーの本当の顔を見つけ出す」。こういうことが「アウトリーチ型の支援」「支援する側から迎えに行く支援」かな、と思います。

ケアラーだって生身の人間です。どんな深い愛情を持ってしても、どんなに壮絶な自己犠牲や努力を持ってしても、生身の人間に出来ることには限りがある。それが誰にとっても介護というものの現実なのだということを認め、受け入れることから、介護を語り始めたい、と思います。この度のケアラー連盟の実態調査が、その現実を誰の目にも見える形にしてくださいました。この現実から目をそらさず、認めることから介護を語り始めたいと思うのです。ケアラーが育児や介護の機能としてではなく、一人の人として認められ、尊重され、介護をしながらもケアラー自身の生活と人生を諦めることなく生きていけるように、ケアラーその人への支援がほしい、と思います。

障害を負っても、歳をとっても、その人自身も介護者も両方が、それぞれに自分の人生を自分らしく生き続けることができる社会を、と願っています。




フォーラムの前に他のパネラーの方々と興味深いお話しをあれこれさせていただいたり、
多くの人が集まってくださった会場でお話しさせていただいていると、
娘が小さかったころの、あのやり場のない思いの数々が改めて振り返られました。

1998年に「私は私らしい障害者の親でいい」という手記を出版した時、私はその中で
私たち障害のある子どもの母親は「こんなにもしんどい。でもこんなにもかわいい」という順番でしか
ものを言うことを許されていないけれども、そろそろ逆の順番で
「こんなにもかわいい。でも、こんなにもしんどい」と
発言し始めるべきなのではないか、その順番でものを言ったからといって
それは愛情がないことと同じではないはずだ、という意味のことを書きました。

今、まさにその順番で、私は発言する機会をいただいているのだ……と感じ
あれから長い時が経ったこと、世の中を着実に変えてきてくださった方々があったことを思って、
お話しさせていただきながら、心から深い感慨を覚えていました。

多くの方々と出会い、思いを共有しながら語り合える体験をいただき
とても幸福な数時間でした。

関係者の皆さま、ご来場くださった皆様、声をかけてくださった方々、
本当にありがとうございました。

私にできることは、ごくごく小さいけれど、
やっぱり自分なりの思いを言葉にし続けていこうと
大きな励みをいただいて帰ってきました。


これまで介護者としての思いや介護者支援について書いてきたエントリーは
「子育て・介護・医療」の書庫に多数あります。
2011.07.01 / Top↑
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