気が付いたら、その節を結構マジに一気に読んでしまったので、
これまで何度か見聞きしたことがあるという程度だったMiller事件について
Quellette“Bioethics and Disability”から取りまとめておきたい。
Signey Millerは1990年8月17日にテキサス州で生まれた。
妊娠23週で陣痛が起こって母親が入院。
胎児は629グラムで余りに未熟なため陣痛を薬で止めたが、
母体の方に感染があることが分かり、陣痛の抑制も帝王切開も中絶も無理な状態に。
そこで産ませるしかないことになるのだけれど、
その際、両親は医師らから23週の超未熟児は生まれても助からないこと、
助かっても人工呼吸器をつけること、将来重い障害を負うことなどを聞かされて
救命も新生児専門医の立ち会いも望まず、緩和ケアのみを希望した。
それについてはカルテにも記載。
ところが、父親が葬儀の手配で病院を出た後、
スタッフの一人から事情が伝わり、病院側は会議を開く。
病院には、500グラムを超えた新生児の場合には
出産に新生児科医師を立ち合せ、救命することが方針があったため
その会議で病院は両親との話し合いを撤回し、救命へと方針転換する。
戻ってきて方針変更を聞かされた父親はショックを受けるが
止めるすべはなく、そうこうするうちにSidneyが生まれる。
両親が「英雄的な措置」は望まないと回答して11時間後のことだった。
産声を上げ、特に障害も目につかなかった。
待機していた新生児科医師によって手動で呼吸補助の上、保育器に入れて人工呼吸器が繋がれた。
当初の治療の経過は良好でNICUに入れられるが、
4日目には当初両親に説明された通りの合併症が起きる。
脳出血。それが原因となる血栓症。そして水頭症。
両親は次々に求められる治療への同意書にサインをする。
手術への同意書にもサインした。誰からも治療差し控えの話など出なかったという。
NICUに2カ月いた後、SidneyはTexas子ども病院へ転院。
生後6カ月で退院し、以来、定期的に脳のシャントの交換手術を受けるなど
入退院を繰り返しながら、両親が家でケアしているが
7歳児のSidneyには重症障害があり、全介助。
Could not walk, talk, feed herself, or sit up on her own…..[She]was legally blind, suffered from severe mental retardation, cerebral palsy, seizures, and spastic quadriparesis in her limbs. She could not be toilet-trained and required a shunt in her brain to drain fluids that accumulate that and needed care twenty-four hours a day.
14歳に当たる2004年の報告でも状態は変わっていない。
両親は自分たちの同意なしに救命したとして病院を訴え、
1998年1月の最初の判決では陪審員が両親の訴えを認めて
2940万ドルの医療費とその利息として1750万ドル、賠償金として1350万ドルの支払いを
病院側に命じた。
ところが上訴裁判所は、それを覆し、一切の支払いを認めなかった。
テキサスで認められているのは、
ターミナルな子どもの場合に親が治療を差し控えることのみであり、
Sidneyのようなターミナルでない子どもに緊急に必要な生命維持治療を差し控える権限は親にはなく、
そうした緊急時に医療職が親の希望に従う義務はない。
損傷された命と完全に失われた命(impaired life and no life at all)の
どちらかに決めることは裁判所にもできないので、緊急時には
医師は親の判断を超えて救命することができる、と。
テキサス州の最高裁の判断も、概ね、そうした路線のもので
親は一般的に子どもの最善の利益によって決定するとされているものの
常に親が子どもの利益で行動するとは限らないのだから親の決定権は絶対ではなく、
必要に応じて州が介入することとされる、
また同意なしに治療することは一般には暴行とされるが、
緊急時には親の反対を押し切って治療することが認められる、
よって出産以前の予測に基づいての親の判断は
実際に生まれてきたSidneyの状態を医師がアセスメントしてからの判断に及ばず、
緊急事態で親の同意なく救命治療を行ったことは暴行には当たらない、など。
この事件は障害学や障害者運動家らからは勝利として捉えられた。
治療の中止や差し控えが、障害のある生に対する医療の側の
ステレオタイプや偏見に基づいていると主張し、
障害者にも平等な医療を求める障害学・障害者運動の言説を引き、
Quelletteは、6ページばかりを割いて解説している。
引用されているのは Joseph P. Shapiro, Adrienne Asch, Sam Bagenstos。
一方、生命倫理の側では反応が非常に複雑で、12ページ。
特に興味深い点では
Miller裁判が進行していた5年間、テキサスの医師の間には
親の意思を無視して救命すると訴えられるかもしれないという危機感があった。
しかし判決が、障害新生児のQOLを両親がどのように捉えていようと
治療を提供する判断を医師に与えるものだったために、
では、子どもの苦しみと、QOL判断からの子どもの最善の利益についてはどうなるのだ、
というのが生命倫理学の議論の中心課題となった、という下り。
もともと生命倫理には、
治療をしないことが最善の利益になりうる、との考えが定着していたので、
その点が問題となった。
障害のある子どもに治療可能な病気がある場合、という捉え方では
レーガンの過剰防衛的な施策に結び付いたBaby Doe事件に続く事件となったが、
その間に、社会の姿勢も変化していたことも大きい。
この辺りのことは、個人的には
この事件がテキサス州で起きていることが特に興味深い感じがしました。
同州で「無益な治療」法ができたのは1999年のこと。それはすなわち
ミラー裁判の上訴審と並行して「無益な治療」法制定の議論が行われていたことになるのでは?
ただQuelletteが引いている複雑な議論を
一読で正確に把握するのは私には無理なので
以下に言及されている学者の名前のみ。
引用されているのは George Annas, John Robertson,
William Winslade(Miller事件の担当倫理学者。後に事件の詳細を論文にまとめた)Loretta Kopelman,
Robert McCormick, Arthur Caplan, Cynthia Cohen,
(この3人はおおむね医師と親との間で個別に諸々を踏まえて判断すべき、との見解)
Hilde Lindrermann, Marian Verkerk,
(この2人はグローニンゲン・プロトコルを持ちだして家族の決定権を全面的に支持)
最後にQuelletteは
重症障害児は殺してもよいとするPeter Singerを“Practical Ethics”から引用し、
QOLについてどう考えるかが全くそれぞれの主観にゆだねられていると指摘している。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
なお、Caplan、Lindermann、Singerについては、
当ブログでもいくつかエントリ―がありますが、
結構な数になるのでリンクは控えました。
これまで何度か見聞きしたことがあるという程度だったMiller事件について
Quellette“Bioethics and Disability”から取りまとめておきたい。
Signey Millerは1990年8月17日にテキサス州で生まれた。
妊娠23週で陣痛が起こって母親が入院。
胎児は629グラムで余りに未熟なため陣痛を薬で止めたが、
母体の方に感染があることが分かり、陣痛の抑制も帝王切開も中絶も無理な状態に。
そこで産ませるしかないことになるのだけれど、
その際、両親は医師らから23週の超未熟児は生まれても助からないこと、
助かっても人工呼吸器をつけること、将来重い障害を負うことなどを聞かされて
救命も新生児専門医の立ち会いも望まず、緩和ケアのみを希望した。
それについてはカルテにも記載。
ところが、父親が葬儀の手配で病院を出た後、
スタッフの一人から事情が伝わり、病院側は会議を開く。
病院には、500グラムを超えた新生児の場合には
出産に新生児科医師を立ち合せ、救命することが方針があったため
その会議で病院は両親との話し合いを撤回し、救命へと方針転換する。
戻ってきて方針変更を聞かされた父親はショックを受けるが
止めるすべはなく、そうこうするうちにSidneyが生まれる。
両親が「英雄的な措置」は望まないと回答して11時間後のことだった。
産声を上げ、特に障害も目につかなかった。
待機していた新生児科医師によって手動で呼吸補助の上、保育器に入れて人工呼吸器が繋がれた。
当初の治療の経過は良好でNICUに入れられるが、
4日目には当初両親に説明された通りの合併症が起きる。
脳出血。それが原因となる血栓症。そして水頭症。
両親は次々に求められる治療への同意書にサインをする。
手術への同意書にもサインした。誰からも治療差し控えの話など出なかったという。
NICUに2カ月いた後、SidneyはTexas子ども病院へ転院。
生後6カ月で退院し、以来、定期的に脳のシャントの交換手術を受けるなど
入退院を繰り返しながら、両親が家でケアしているが
7歳児のSidneyには重症障害があり、全介助。
Could not walk, talk, feed herself, or sit up on her own…..[She]was legally blind, suffered from severe mental retardation, cerebral palsy, seizures, and spastic quadriparesis in her limbs. She could not be toilet-trained and required a shunt in her brain to drain fluids that accumulate that and needed care twenty-four hours a day.
14歳に当たる2004年の報告でも状態は変わっていない。
両親は自分たちの同意なしに救命したとして病院を訴え、
1998年1月の最初の判決では陪審員が両親の訴えを認めて
2940万ドルの医療費とその利息として1750万ドル、賠償金として1350万ドルの支払いを
病院側に命じた。
ところが上訴裁判所は、それを覆し、一切の支払いを認めなかった。
テキサスで認められているのは、
ターミナルな子どもの場合に親が治療を差し控えることのみであり、
Sidneyのようなターミナルでない子どもに緊急に必要な生命維持治療を差し控える権限は親にはなく、
そうした緊急時に医療職が親の希望に従う義務はない。
損傷された命と完全に失われた命(impaired life and no life at all)の
どちらかに決めることは裁判所にもできないので、緊急時には
医師は親の判断を超えて救命することができる、と。
テキサス州の最高裁の判断も、概ね、そうした路線のもので
親は一般的に子どもの最善の利益によって決定するとされているものの
常に親が子どもの利益で行動するとは限らないのだから親の決定権は絶対ではなく、
必要に応じて州が介入することとされる、
また同意なしに治療することは一般には暴行とされるが、
緊急時には親の反対を押し切って治療することが認められる、
よって出産以前の予測に基づいての親の判断は
実際に生まれてきたSidneyの状態を医師がアセスメントしてからの判断に及ばず、
緊急事態で親の同意なく救命治療を行ったことは暴行には当たらない、など。
この事件は障害学や障害者運動家らからは勝利として捉えられた。
治療の中止や差し控えが、障害のある生に対する医療の側の
ステレオタイプや偏見に基づいていると主張し、
障害者にも平等な医療を求める障害学・障害者運動の言説を引き、
Quelletteは、6ページばかりを割いて解説している。
引用されているのは Joseph P. Shapiro, Adrienne Asch, Sam Bagenstos。
一方、生命倫理の側では反応が非常に複雑で、12ページ。
特に興味深い点では
Miller裁判が進行していた5年間、テキサスの医師の間には
親の意思を無視して救命すると訴えられるかもしれないという危機感があった。
しかし判決が、障害新生児のQOLを両親がどのように捉えていようと
治療を提供する判断を医師に与えるものだったために、
では、子どもの苦しみと、QOL判断からの子どもの最善の利益についてはどうなるのだ、
というのが生命倫理学の議論の中心課題となった、という下り。
もともと生命倫理には、
治療をしないことが最善の利益になりうる、との考えが定着していたので、
その点が問題となった。
障害のある子どもに治療可能な病気がある場合、という捉え方では
レーガンの過剰防衛的な施策に結び付いたBaby Doe事件に続く事件となったが、
その間に、社会の姿勢も変化していたことも大きい。
この辺りのことは、個人的には
この事件がテキサス州で起きていることが特に興味深い感じがしました。
同州で「無益な治療」法ができたのは1999年のこと。それはすなわち
ミラー裁判の上訴審と並行して「無益な治療」法制定の議論が行われていたことになるのでは?
ただQuelletteが引いている複雑な議論を
一読で正確に把握するのは私には無理なので
以下に言及されている学者の名前のみ。
引用されているのは George Annas, John Robertson,
William Winslade(Miller事件の担当倫理学者。後に事件の詳細を論文にまとめた)Loretta Kopelman,
Robert McCormick, Arthur Caplan, Cynthia Cohen,
(この3人はおおむね医師と親との間で個別に諸々を踏まえて判断すべき、との見解)
Hilde Lindrermann, Marian Verkerk,
(この2人はグローニンゲン・プロトコルを持ちだして家族の決定権を全面的に支持)
最後にQuelletteは
重症障害児は殺してもよいとするPeter Singerを“Practical Ethics”から引用し、
QOLについてどう考えるかが全くそれぞれの主観にゆだねられていると指摘している。
【Quellette“Bioethics and Disability”関連エントリー】
Alicia Quelletteの新刊「生命倫理と障害: 障害者に配慮ある生命倫理を目指して」(2011/6/22)
エリザベス・ブーヴィア事件: Quellette「生命倫理と障害」から(2011/8/9)
【Quelletteの論文関連エントリー】
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
なお、Caplan、Lindermann、Singerについては、
当ブログでもいくつかエントリ―がありますが、
結構な数になるのでリンクは控えました。
2011.08.17 / Top↑
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