「心の病は、誰が診る?」(日本評論社 2011)
自治医大学長・日本医学会会長の高久史麿氏と北里大学精神科教授の宮岡等氏の対談に、
精神科医の斎尾武郎氏と医学雑誌編集者の栗原千絵子氏が司会の立場でからんでいく……
というか、むしろ勇猛なツッコミを入れていく。
誰が発言しているかを意識しながら読んでいくと面白い。
もちろん門外漢の私に議論の全てが分かったわけではないけど、
例によって独断と偏見でメモ的に。
プライマリケア医、産業医だけでなく、地域の精神科医、総合病院の精神科医もが
まずは精神障害・疾患を診断できる基本的な知識とノウハウをしっかり身につけて、
適切な医療に繋ぎ連携できる体制を作ることの必要とか、
総合病院の精神科ベッドが減って、
地域に精神科クリニックが“雨後のタケノコ状態”になっている現状とか
(「薬屋さんみたいなクリニックがやたらとできている」と
つい最近、私も薬屋のニイチャンに教えてもらった)
興味深い話もいっぱいあるのだけど、
この本を読んで一番印象的だったところを3つだけ。
① 診断姿勢のいい加減さや薬物療法への過剰な傾斜、薬物療法のエビデンスの欠落、
「うつ病」概念の拡大、過剰投薬(“薬漬け”にする)、製薬会社と研究者や医師の癒着、
医学雑誌の利益相反の危うさ……などなど、「素人が大嘘八百を流しやがって」と叩かれつつも
インターネットで多くの人が警鐘を鳴らしてきた精神科医療の問題点の数々は、
当の精神科医療の界隈でも実はちゃんと事実認定され問題視されている、という事実――。
例えばP.41では、宮岡氏が
「ここのところ、いわゆる向精神薬の大量服用による自殺が増えたと言われています」と言い、
2010年9月に厚労省の自殺・ウツ病対策プロジェクトチームから
「過量服薬への取り組み―薬物治療のみに頼らない診療体制の構築に向けて」という
報告書が出たことが語られる。
特に印象的な話として、
プライマリケア医がうつ病を診断する時の方が、
自分は専門外だからという自覚からスタンダードにのっとって慎重な対応をしていて、
トンデモな診断によりトンデモな多剤処方や大量処方をしている事例が目につくのは、
むしろ精神科医の方だといった指摘が様々な形で繰り返しされているし、
「ディジーズ・マンガリング」の傾向についても懸念が共有されている。
これは、病気でもないものを病気に仕立てて不安をかきたてるマーケッティング戦略。
簡単に言えば、例の「お医者さんに、相談だっ」のことですね。
こういうCMについては薬害オンブズパーソン会議が3月に問題にしていたし、
当ブログでも、いくつか関連エントリーがある ↓
「現代医学は健康な高齢者を病気にしている」(2009/3/8)
「老い」は自己責任で予防すべき「病気」であり「異常」であるらしい(2009/9/21)
これらはみんな栗原氏が言っているように
「こうした問題の背景には『商業的な』啓発という側面」(P.53)があるということであり、
実際、そういう利益誘導のために発言するセンセイ方がおられることも
この座談会では共通認識になっている。
それでも、ではどうするか……という話になると、
情報公開を義務付けることの必要などが言われつつも、
でも製薬会社のカネがないと研究は進まない以上、
情報を受け止める医師の側が癒着情報リテラシーを持つように、といった、
とたんに腰の砕けたグズグズの話になっていく……気がする。
② なにより個人的に最も切実に響いた個所は、
精神障害者が身体の病気になった時の精神科と身体科の連携の問題。
これは私自身が今だにトラウマを引きずっている悪夢のような体験から
重症重複障害児・者にもそのまま当てはまると痛感しながら読んだけど、
それはたぶん、ここに出ている認知症を始め、特別な配慮を要する障害や、
患者数の少ない病気の人が持病以外の病気になった時の医療にも言えることだろうと思う。
以前に以下のエントリーで紹介した
英国のオンブズマンの報告書も指摘している、実際、命にかかわる大問題――。
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(英)(2009/3/3)
私の体験は、上のオンブズマン報告書のMarkのケースのエントリーでちょっと書いたけど、
「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、
あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。
患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。
あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。
宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて」
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。
「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」ため、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。
ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
③ PUS(一般人の科学理解)という概念が
もともとイギリスでゲノムサイエンスが始まった時に言いだされたことについて
栗原氏の解説が、書かれているのとは逆の意味で私には興味深かった(p.155)のだけど、
逆の意味で、というのは、
どうしてもしゃべりすぎてしまう司会の斎尾氏が19ページで
オルテガ・イ・ガゼットという人を引用して言っているように、今は逆に
「科学者こそが自らの専門性の殻に閉じこもり、自分よりもすぐれた審判をいっさい認めない、
救い難い存在としての大衆である」という指摘がまさにツボを突いている、
科学とテクノの人たちの偏狭で薄っぺらな価値意識と人間観・人生観が
そのままPUSで一般人に拡散・コピーされていってるのこそが危うい、と思うから。
最後のあたりで宮岡氏が指摘している
「今の医学教育では、卒前に、
『自分が社会の中でどういう役割を果たすべきかを考えないといけない』という教育自体が
ないですよね。だから、医学部を卒業して臨床の現場に出ても、
ほとんど分かっていません」(p.176)というのも、
結局は、そういうことに繋がっていくんじゃないのかなぁ……。
自治医大学長・日本医学会会長の高久史麿氏と北里大学精神科教授の宮岡等氏の対談に、
精神科医の斎尾武郎氏と医学雑誌編集者の栗原千絵子氏が司会の立場でからんでいく……
というか、むしろ勇猛なツッコミを入れていく。
誰が発言しているかを意識しながら読んでいくと面白い。
もちろん門外漢の私に議論の全てが分かったわけではないけど、
例によって独断と偏見でメモ的に。
プライマリケア医、産業医だけでなく、地域の精神科医、総合病院の精神科医もが
まずは精神障害・疾患を診断できる基本的な知識とノウハウをしっかり身につけて、
適切な医療に繋ぎ連携できる体制を作ることの必要とか、
総合病院の精神科ベッドが減って、
地域に精神科クリニックが“雨後のタケノコ状態”になっている現状とか
(「薬屋さんみたいなクリニックがやたらとできている」と
つい最近、私も薬屋のニイチャンに教えてもらった)
興味深い話もいっぱいあるのだけど、
この本を読んで一番印象的だったところを3つだけ。
① 診断姿勢のいい加減さや薬物療法への過剰な傾斜、薬物療法のエビデンスの欠落、
「うつ病」概念の拡大、過剰投薬(“薬漬け”にする)、製薬会社と研究者や医師の癒着、
医学雑誌の利益相反の危うさ……などなど、「素人が大嘘八百を流しやがって」と叩かれつつも
インターネットで多くの人が警鐘を鳴らしてきた精神科医療の問題点の数々は、
当の精神科医療の界隈でも実はちゃんと事実認定され問題視されている、という事実――。
例えばP.41では、宮岡氏が
「ここのところ、いわゆる向精神薬の大量服用による自殺が増えたと言われています」と言い、
2010年9月に厚労省の自殺・ウツ病対策プロジェクトチームから
「過量服薬への取り組み―薬物治療のみに頼らない診療体制の構築に向けて」という
報告書が出たことが語られる。
特に印象的な話として、
プライマリケア医がうつ病を診断する時の方が、
自分は専門外だからという自覚からスタンダードにのっとって慎重な対応をしていて、
トンデモな診断によりトンデモな多剤処方や大量処方をしている事例が目につくのは、
むしろ精神科医の方だといった指摘が様々な形で繰り返しされているし、
「ディジーズ・マンガリング」の傾向についても懸念が共有されている。
これは、病気でもないものを病気に仕立てて不安をかきたてるマーケッティング戦略。
簡単に言えば、例の「お医者さんに、相談だっ」のことですね。
こういうCMについては薬害オンブズパーソン会議が3月に問題にしていたし、
当ブログでも、いくつか関連エントリーがある ↓
「現代医学は健康な高齢者を病気にしている」(2009/3/8)
「老い」は自己責任で予防すべき「病気」であり「異常」であるらしい(2009/9/21)
これらはみんな栗原氏が言っているように
「こうした問題の背景には『商業的な』啓発という側面」(P.53)があるということであり、
実際、そういう利益誘導のために発言するセンセイ方がおられることも
この座談会では共通認識になっている。
それでも、ではどうするか……という話になると、
情報公開を義務付けることの必要などが言われつつも、
でも製薬会社のカネがないと研究は進まない以上、
情報を受け止める医師の側が癒着情報リテラシーを持つように、といった、
とたんに腰の砕けたグズグズの話になっていく……気がする。
② なにより個人的に最も切実に響いた個所は、
精神障害者が身体の病気になった時の精神科と身体科の連携の問題。
これは私自身が今だにトラウマを引きずっている悪夢のような体験から
重症重複障害児・者にもそのまま当てはまると痛感しながら読んだけど、
それはたぶん、ここに出ている認知症を始め、特別な配慮を要する障害や、
患者数の少ない病気の人が持病以外の病気になった時の医療にも言えることだろうと思う。
以前に以下のエントリーで紹介した
英国のオンブズマンの報告書も指摘している、実際、命にかかわる大問題――。
「医療における障害への偏見が死につながった」オンブズマンが改善を勧告(英)(2009/3/3)
私の体験は、上のオンブズマン報告書のMarkのケースのエントリーでちょっと書いたけど、
「腸ねん転の重症重複障害児」を巡って入所施設と総合病院の外科・小児科との連携は
「送りました」「引き受けました」でしかなく、
あとは全てが医療機関間と診療科間の力・上下関係と、
各機関、各診療科、各医師のメンツとプライドの問題となってしまう。
患者は障害について無知な医療スタッフによって無用な苦しみを強いられているのに、
家族の言うことは「素人が何をエラソーに」とバカにして聞く耳を持たないし
分からないくせにメンツとプライドが邪魔をして知っている側に聞くこともしない、
知っている側も送ってしまえば口を出せない垣根が張り巡らされて、それはつまり
「患者本人のために何がよいかを正しく見つけ出そう」という姿勢が誰にもない、ということ。
あれでは本当に命にかかわる。
死ななければいいという問題でもないし。
宮岡氏が「精神疾患に関して一番偏見が強いのは、実は一般の方ではなくて」
精神科医以外の医療スタッフ」(P.87)と指摘しているのは、
重症児を巡っても全く同じだった、というのが私の切実な体験。
「重症児なんか、いつ何が起きるか分からないから、
とにかく余計なことは一切やりたくない」ため、
腸ねん転の手術直後に痛み止めの座薬すら入れてくれない。
重症児の細い血管に点滴を入れるだけの技術を持たない医師は、
中心静脈にラインを取る決断も経管栄養の決断すらせず放置。
「これでは、なぶり殺しにされる」と私は本気で恐怖した。
ああいう垣根だけは、早急に何とかしてほしい。
③ PUS(一般人の科学理解)という概念が
もともとイギリスでゲノムサイエンスが始まった時に言いだされたことについて
栗原氏の解説が、書かれているのとは逆の意味で私には興味深かった(p.155)のだけど、
逆の意味で、というのは、
どうしてもしゃべりすぎてしまう司会の斎尾氏が19ページで
オルテガ・イ・ガゼットという人を引用して言っているように、今は逆に
「科学者こそが自らの専門性の殻に閉じこもり、自分よりもすぐれた審判をいっさい認めない、
救い難い存在としての大衆である」という指摘がまさにツボを突いている、
科学とテクノの人たちの偏狭で薄っぺらな価値意識と人間観・人生観が
そのままPUSで一般人に拡散・コピーされていってるのこそが危うい、と思うから。
最後のあたりで宮岡氏が指摘している
「今の医学教育では、卒前に、
『自分が社会の中でどういう役割を果たすべきかを考えないといけない』という教育自体が
ないですよね。だから、医学部を卒業して臨床の現場に出ても、
ほとんど分かっていません」(p.176)というのも、
結局は、そういうことに繋がっていくんじゃないのかなぁ……。
2011.10.07 / Top↑
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