1日の補遺で拾ったNYTの
マイケル・ガザニガのインタビュー記事を読んでみた。
Decoding the Brain’s Cacophony
The NYT, October 31, 2011
なんだぁ、要はGazzaniga先生(71)の新刊本
“Who’s in Charge? Free Will and the Science of the Brain” (HarperCollins)の
プロモ記事なのね……と、脱力しつつ、
若干20代の若さで、
てんかんの治療で脳梁離断術で左右の脳のつながりを断たれた患者の観察から
右脳・左脳それぞれが別の働きをつかさどっているのではとの仮説に至り、
果敢に高名な研究者に直接アタックして研究を続け、
右が知力・左が感性という有名な右脳・左脳説ばかりか、
脳はもっと複雑にそれぞれの場所で役割を担っていることまで発見し
世界的な脳神経学者となったガザニガ氏の軌跡をたどりつつ読み進んでいくと、
その輝かしい業績とか
あれこれオモロい実験での失敗談の後で、
またまた米国の“個体決定論”(これはspitzibaraの勝手な造語)社会の実態が飛び出してきて
そろそろこういう“急襲”には慣れたはずなのに、やっぱりぶったまげてしまう。
ガザニガ氏が2007年に
The John D. and Catherine T. MacArther 財団 Research Network on Law and Neurosicenceという
法と神経科学の研究ネットワーク組織を立ち上げた背景にあるのは
近年、法廷で弁護士たちが
脳の画像をウソ発見機のデータのように証拠として提出し、
それが採用されるようになってきている……のだという。(げええっ)
で、ガザニガ氏は脳神経学者として今回の本で
そうした傾向に警告を発しているらしい。
曰く、
脳画像はいわばスナップショットであり、
ある一瞬の脳の状態を移したに過ぎないので、
その瞬間の前後の脳機能については何も語っていない。
曰く、
健康な脳の持ち主の間でも、
ある人にとっては“活発な”状態が別の人には“普通”だったりして
画像から言えることは限られている。
脳科学で
脳によって自動的に行動させられている部分と
自分の意思で行動する部分とに線引きをするなんて
今もできないし、これからもできるようにはならない、
そもそも犯罪行為を巡る「責任」を脳科学で云々することそのものが筋が違う……というのが、
どうやらガザニガ氏の今回の本の主題であるらしい。
良い判断とか自由意志というものは社会的に構成された概念であり
それをバイオのプロセスで説明しようなんて、愚かな試みだし、
「私が最終的に言いたいのは、
責任とは脳の所有物ではなく2人の人間の間の契約であり、
その人間同士の契約という文脈には脳決定論は何の意味も持たない、ということ」。
(お、分かってるじゃん。いいこと言うじゃん)
もちろん、
今後さらに脳科学が進み、脳が解明されるにつれて、
アカウンタビリティ(人間の行動を説明づけること)や責任が再定義されていくのは間違いないと
頑として信じて未来を描く学者さんたちもいる。
それなら、せめてその再定義がされるまでは
そのアカウンタビリティも責任も、これまで通りに
人間の心とか道徳的な直感、法と慣習の中で考えるのがよかろうよ、と
ガザニガ氏は言っている。
「英語圏のイデオロギー」が日本の心理学の研究に圧倒的な影響力を及ぼしていることに批判が出て、
ぶっちゃけ、これは脳科学の専横が懸念されているのだ……と直感した
数年前、某学会での緊迫の場面を、思い出した ↓
英語圏イデオロギーの専横は生命倫理学だけじゃなかった(2009/9/4)
上のエントリーでも書いていますが、
個体決定論(こんな言葉あるのかどうか知りませんが)というのは
脳科学だけじゃなくて遺伝子診断によっても強化されているみたいだから
脳画像がウソ発見機のデータと同じ証拠として採用可なのなら、
そのうちには遺伝子データも採用可になっていくのでは?
となれば、それはもう「マイノリティ・レポート」の世界――。
マイケル・ガザニガのインタビュー記事を読んでみた。
Decoding the Brain’s Cacophony
The NYT, October 31, 2011
なんだぁ、要はGazzaniga先生(71)の新刊本
“Who’s in Charge? Free Will and the Science of the Brain” (HarperCollins)の
プロモ記事なのね……と、脱力しつつ、
若干20代の若さで、
てんかんの治療で脳梁離断術で左右の脳のつながりを断たれた患者の観察から
右脳・左脳それぞれが別の働きをつかさどっているのではとの仮説に至り、
果敢に高名な研究者に直接アタックして研究を続け、
右が知力・左が感性という有名な右脳・左脳説ばかりか、
脳はもっと複雑にそれぞれの場所で役割を担っていることまで発見し
世界的な脳神経学者となったガザニガ氏の軌跡をたどりつつ読み進んでいくと、
その輝かしい業績とか
あれこれオモロい実験での失敗談の後で、
またまた米国の“個体決定論”(これはspitzibaraの勝手な造語)社会の実態が飛び出してきて
そろそろこういう“急襲”には慣れたはずなのに、やっぱりぶったまげてしまう。
ガザニガ氏が2007年に
The John D. and Catherine T. MacArther 財団 Research Network on Law and Neurosicenceという
法と神経科学の研究ネットワーク組織を立ち上げた背景にあるのは
近年、法廷で弁護士たちが
脳の画像をウソ発見機のデータのように証拠として提出し、
それが採用されるようになってきている……のだという。(げええっ)
で、ガザニガ氏は脳神経学者として今回の本で
そうした傾向に警告を発しているらしい。
曰く、
脳画像はいわばスナップショットであり、
ある一瞬の脳の状態を移したに過ぎないので、
その瞬間の前後の脳機能については何も語っていない。
曰く、
健康な脳の持ち主の間でも、
ある人にとっては“活発な”状態が別の人には“普通”だったりして
画像から言えることは限られている。
脳科学で
脳によって自動的に行動させられている部分と
自分の意思で行動する部分とに線引きをするなんて
今もできないし、これからもできるようにはならない、
そもそも犯罪行為を巡る「責任」を脳科学で云々することそのものが筋が違う……というのが、
どうやらガザニガ氏の今回の本の主題であるらしい。
良い判断とか自由意志というものは社会的に構成された概念であり
それをバイオのプロセスで説明しようなんて、愚かな試みだし、
「私が最終的に言いたいのは、
責任とは脳の所有物ではなく2人の人間の間の契約であり、
その人間同士の契約という文脈には脳決定論は何の意味も持たない、ということ」。
(お、分かってるじゃん。いいこと言うじゃん)
もちろん、
今後さらに脳科学が進み、脳が解明されるにつれて、
アカウンタビリティ(人間の行動を説明づけること)や責任が再定義されていくのは間違いないと
頑として信じて未来を描く学者さんたちもいる。
それなら、せめてその再定義がされるまでは
そのアカウンタビリティも責任も、これまで通りに
人間の心とか道徳的な直感、法と慣習の中で考えるのがよかろうよ、と
ガザニガ氏は言っている。
「英語圏のイデオロギー」が日本の心理学の研究に圧倒的な影響力を及ぼしていることに批判が出て、
ぶっちゃけ、これは脳科学の専横が懸念されているのだ……と直感した
数年前、某学会での緊迫の場面を、思い出した ↓
英語圏イデオロギーの専横は生命倫理学だけじゃなかった(2009/9/4)
上のエントリーでも書いていますが、
個体決定論(こんな言葉あるのかどうか知りませんが)というのは
脳科学だけじゃなくて遺伝子診断によっても強化されているみたいだから
脳画像がウソ発見機のデータと同じ証拠として採用可なのなら、
そのうちには遺伝子データも採用可になっていくのでは?
となれば、それはもう「マイノリティ・レポート」の世界――。
2011.11.03 / Top↑
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