昨年12月21日にツイッターを始めました。
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。
こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。
自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。
ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、
溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。
ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。
(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)
とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)
「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。
でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。
初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。
ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。
「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。
どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。
癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。
「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
アカウントはspitzibaraです。
よかったら覗いていただけると嬉しいです。
こんなことになるのでは、と懸念して
ツイッターには手を出しかねていたのですが、
やっぱり予想通りに見事にハマってしまい、
今日の午後5時までに238ツイートもつぶやいてしまいました。
自分で「アホか」とは思いつつ
「あまりに面白くて、もうダメ」ジャンキー状態です。
ブログではなかなか書きづらかった「ミュウの親」としての思いが
なぜかツイッターではするすると書けるのが不思議で、
溜まり溜まった怨念のマグマが噴火するかのごとき勢いが
もうしばらく収まりそうにありません。
ある程度吐きだしてしまったら、
ブログとツイッターを自分でどのようにやっていくのか、ペースが探せると思うのですが、
しばし「情報」よりも「自分語り」にハマりそうです。
(こう書くと、なんかイヤラシイことをやってる感じもしてきたなぁ)
とりあえず、この間につぶやいてみた
「障害のある子(今は成人)の親になってムカつくのは」シリーズを取りまとめてみました。
(書いた後で気に入らなくなった個所など、ちょっと訂正した部分もあります)
「障害のある子どもの親」になってムカつくのは、常に「評価」の対象にされること。いろんな職種や立場や考えの人がそれぞれ勝手な「障害児の親はこうあるべき」物差しを頼みもしないのに当ててくる。なんで私がアンタらの間尺に合う生き方をせにゃならん? いちいちバラバラの物差し当てよってからに。
でも、本当は一番ムカつくのは、勝手に当てられるバラバラの物差しにいちいち応えて「全方位型優等生障害児の母」をどこかで目指そうとする自分。
初めて膝を痛めて病院通いしたのは、確かミュウが中学生の時。その話をしたら、子どもの個性を重んじるナントカ教育理論の信奉者だった当時の知人に「今からそんなことを言っていてどーするの!」と頭ごなしに叱られた。痛いものは痛いんじゃわい。障害のある子がいようといまいと。
ミュウが幼い頃には「美しく生きよ」と言われ続けることに「美しく生きなければならない人なんかどこにもいない」と反発した。最近は「正しく生きよ」と言われているような気がすることに当惑している。
「障害のある子の親」になってムカつくのは、やたらと「ミュウちゃんのために長生きしてあげないといけませんよ」と説教されること。私自身が「長生きしてやりたい」と願うこととそのことの責任を背負わされることとは違う。言われるたびに「早死にしたら、それは愛情不足」と脅されている気がする。
どうして世間の人は「障害児の親」に対して上から目線でものを言い、やたらと説教したがるんだろう。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、どうにもならないことって、ある。そういうことに「愛情」を塗りたくってどーこー言うの、やめよーよ。
癌になった友人Aは、人の顔さえ見れば世の中がいかにがん患者で満ちているかを語る。息子が糖尿病になった友人Bは、会うたびに食事の準備の大変さを語る。聞くたびにイラついてしまうのは、私もこの24年間に類似体験をしてきたという事実に気付くだけの想像力を、2人ともまるきり欠いていること。
「障害のある子(今は成人)の親」になってムカつくのは「神様はね、あなたが試練に耐えられる人だと思うから障害のある子どもを授けられたのよ」「子どもは親を選んで生まれてくるのだから」「あなたはミュウちゃんに選ばれたのよ」などと押しつけがましい説教食らうこと。
2012.01.13 / Top↑
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