いつか“無益な治療”論はここへ来るに違いないという予感があって、
私はずっと恐れていたんだけれど、
来た。ついに―――。
アイルランドの高等裁判所で重症の脳性まひ児に蘇生無用の判決が出ている。
判決文そのものを読まないと何とも言えないところもあるものの、
この記事から受ける印象では、これまでの“無益な治療”論からさらに踏み込んで
明らかに意識があり両親を認識し関わりに喜びを感じていると思える重症児に
救命する必要はない、との判断が下されているように思える。
当該の6歳男児の状態について書かれているのは、
4年前に溺れて重症の脳性まひとなった。目が見えず、排泄も非自立。
全介助で回復の見込みはない。経管栄養。
3年前から子どものための施設で専門的なケアを受けながら暮らしている。
(親権が裁判所にあるとされている事情は不明。もしかしたら施設入所だから?)
栄養チューブが詰まったり感染症などで、
2010年10月から7回、救急病院に入院した。
コミュニケーションはとれないが、苦痛は感じる。
両親と接すると安らぐように見える。
で、なぜか以下のように、病名が書かれていないのが一番気になるのだけれど、
The boy is now chronically ill and may deteriorate at any time, when a decision would have to be made whether to resuscitate him via invasive ventilation.
この先に書かれていることと共に顛末をまとめると、
慢性病にかかり、いつ悪化するか分からないが、
悪化した時には気管切開をして呼吸器をつけるかどうかの判断を迫られるので、
蘇生は本人の苦痛となり、救命できたとしても苦しみを引き延ばすだけだから
本人の利益にならない救命はしないでもよいとの許可を求めて病院側が提訴した。
親権はなくとも意向は尊重されるべき両親は、
ネットで調べて幹細胞治療に賭けてみたいと希望しているが
アイルランドでも米国でも(何で米国が出てくるのか私には?)違法だし、
ドミニカ共和国かメキシコで3万ドルでやってもいいという医師はいるが
本人が遠くまで行ける状態でもなく、担当医もやめた方がいいと言っているので、
これについては却下。
医師らのエビデンスは一致して
蘇生は本人の最善の利益にならない、としている。
この後「どういうこっちゃら?」と首をかしげたくなる不思議な文章が続いているので
ここからは、ざっとですが全訳してみます。
だから、蘇生はしなくてもいい、というのが結論。
Hospital allowed not to resuscitate disabled child
Irish Times, January 12, 2012
一体なに? このクネクネした論理は――?
すごく胡散臭い匂いが漂っている感じがある。
生理現象が「病気」にされ、ありもしない「健康リスク」がでっち上げられていた、
そして医師のいうことだけを根拠に障害のある子どもからの子宮摘出を認めた、
あの Angela事件の判決文と同じような匂いが。
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/7)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)
パパパッと頭に浮かんだ疑問は、
① (それぞれは治療の無益性とは無関係なのに)障害の重さを強調する細部を並べながら
なぜ慢性病の病名や病状が具体的に提示されていないのか。
それは判決文がそういう書き方になっているのか、記事の書き方なのか。
② 「苦しみを引き延ばすだけ」とは慢性病の苦しみを言っているのか
それとも重症脳性マヒの状態を言っているのか?
しかし慢性病の苦しみを言うなら現在も患っているわけだから
ある程度は管理可能なことのような気がするので、
「苦しみを引き延ばす」は実は「重い脳性まひで生きるという苦しみを引き延ばす」なのでは?
③ 栄養チューブの詰まりくらい経管の子どもならあるし特別なことじゃないはず。
そういうのまでカウントして「7回も入院した」と強調する意図は?
④ 本人に判断力があったらどういう選択をしていたかを検討するべきだというなら
本人利益のみを代理する者を置き、敵対的審理を行うなど、
一定の手順を踏んで、その検討が行われなければならないはず。
(ILの不妊手術のケースの基準を参照 ⇒ IL不妊手術却下の上訴裁判所判決文(2008/5/1) )
⑤ その審理の手続きを経ずに
「どの状態が堪えがたいかは裁判所の勝手で決めるわけにはいかず、
最善の利益は”主観的に”(つまり裁判所ではなく本人視点で)決めるもの。
本人視点とは、ここでは医師らによる医学的エビデンスであり、
救命は本人の利益にはならないと医師が言うなら、
それが”主観的な”本人の最善の利益……
私にはそんなふうに言っているように読めるのだけど、
もしもそんな理屈が通るなら、最初から裁判所の判断はいらない。
「医師が判断する通りでいい」と言っているだけなのだから。
裁判所の審理は、医師のその判断を検証しなければならないのでは?
⑥ 特に最後の2段落分は
「本来はできないことだけど、これは重症児だから例外」と言っているように読める。
それって、アシュリー療法の正当化の論理そのもの――。
そして、私の最大の疑問は、
蘇生無用の判断の根拠は、いったい慢性病なのか脳性まひなのか?
だって、この男の子と同じような重症の脳性マヒの子どもたちは
世の中にゴロゴロしているんですけど??
この判決、もしかして
「重症脳性まひ児が病気で重篤な状態になった場合には救命しなくてもよい」
というところへの”無益な治療”論の「解釈拡大」への布石になるのでは―――?
私はずっと恐れていたんだけれど、
来た。ついに―――。
アイルランドの高等裁判所で重症の脳性まひ児に蘇生無用の判決が出ている。
判決文そのものを読まないと何とも言えないところもあるものの、
この記事から受ける印象では、これまでの“無益な治療”論からさらに踏み込んで
明らかに意識があり両親を認識し関わりに喜びを感じていると思える重症児に
救命する必要はない、との判断が下されているように思える。
当該の6歳男児の状態について書かれているのは、
4年前に溺れて重症の脳性まひとなった。目が見えず、排泄も非自立。
全介助で回復の見込みはない。経管栄養。
3年前から子どものための施設で専門的なケアを受けながら暮らしている。
(親権が裁判所にあるとされている事情は不明。もしかしたら施設入所だから?)
栄養チューブが詰まったり感染症などで、
2010年10月から7回、救急病院に入院した。
コミュニケーションはとれないが、苦痛は感じる。
両親と接すると安らぐように見える。
で、なぜか以下のように、病名が書かれていないのが一番気になるのだけれど、
The boy is now chronically ill and may deteriorate at any time, when a decision would have to be made whether to resuscitate him via invasive ventilation.
この先に書かれていることと共に顛末をまとめると、
慢性病にかかり、いつ悪化するか分からないが、
悪化した時には気管切開をして呼吸器をつけるかどうかの判断を迫られるので、
蘇生は本人の苦痛となり、救命できたとしても苦しみを引き延ばすだけだから
本人の利益にならない救命はしないでもよいとの許可を求めて病院側が提訴した。
親権はなくとも意向は尊重されるべき両親は、
ネットで調べて幹細胞治療に賭けてみたいと希望しているが
アイルランドでも米国でも(何で米国が出てくるのか私には?)違法だし、
ドミニカ共和国かメキシコで3万ドルでやってもいいという医師はいるが
本人が遠くまで行ける状態でもなく、担当医もやめた方がいいと言っているので、
これについては却下。
医師らのエビデンスは一致して
蘇生は本人の最善の利益にならない、としている。
この後「どういうこっちゃら?」と首をかしげたくなる不思議な文章が続いているので
ここからは、ざっとですが全訳してみます。
親権を持ち決定権を持つ者として、
救命の差し控えについて考えるべき最も大事な検討事項は本人の最善の利益ではあるが、
裁判所としてはあらゆることを考慮しなければならない。
ここで問うべき適切な問題とは、
本人が健全な判断力を有していたとしたら、どういう選択をするだろうか、である。
本人がどのようなQOLであれば耐え難いとするかについて
裁判所の考えを押し付けることはすべきではなく、
最善の利益は主観的に決めるべきである。
生命の神聖の重要性を考えると
救命治療は認めるものだとの強い前提がある。
しかし、その前提から外れ、延命手段を取らなくてもよいと
裁判所が認める例外的状況というものもある。
裁判所は「死を加速させたり生命を終わられる行為を許可することはできない」。
このケースでの医学的エビデンスでは、
挿管や呼吸器装着は本人のためにならず、苦痛と不快になり、無益で、
本人への長期的利益がないまま苦しみを引き延ばすこととなる。
だから、蘇生はしなくてもいい、というのが結論。
Hospital allowed not to resuscitate disabled child
Irish Times, January 12, 2012
一体なに? このクネクネした論理は――?
すごく胡散臭い匂いが漂っている感じがある。
生理現象が「病気」にされ、ありもしない「健康リスク」がでっち上げられていた、
そして医師のいうことだけを根拠に障害のある子どもからの子宮摘出を認めた、
あの Angela事件の判決文と同じような匂いが。
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1(2010/3/7)
Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 2(2010/3/17)
パパパッと頭に浮かんだ疑問は、
① (それぞれは治療の無益性とは無関係なのに)障害の重さを強調する細部を並べながら
なぜ慢性病の病名や病状が具体的に提示されていないのか。
それは判決文がそういう書き方になっているのか、記事の書き方なのか。
② 「苦しみを引き延ばすだけ」とは慢性病の苦しみを言っているのか
それとも重症脳性マヒの状態を言っているのか?
しかし慢性病の苦しみを言うなら現在も患っているわけだから
ある程度は管理可能なことのような気がするので、
「苦しみを引き延ばす」は実は「重い脳性まひで生きるという苦しみを引き延ばす」なのでは?
③ 栄養チューブの詰まりくらい経管の子どもならあるし特別なことじゃないはず。
そういうのまでカウントして「7回も入院した」と強調する意図は?
④ 本人に判断力があったらどういう選択をしていたかを検討するべきだというなら
本人利益のみを代理する者を置き、敵対的審理を行うなど、
一定の手順を踏んで、その検討が行われなければならないはず。
(ILの不妊手術のケースの基準を参照 ⇒ IL不妊手術却下の上訴裁判所判決文(2008/5/1) )
⑤ その審理の手続きを経ずに
「どの状態が堪えがたいかは裁判所の勝手で決めるわけにはいかず、
最善の利益は”主観的に”(つまり裁判所ではなく本人視点で)決めるもの。
本人視点とは、ここでは医師らによる医学的エビデンスであり、
救命は本人の利益にはならないと医師が言うなら、
それが”主観的な”本人の最善の利益……
私にはそんなふうに言っているように読めるのだけど、
もしもそんな理屈が通るなら、最初から裁判所の判断はいらない。
「医師が判断する通りでいい」と言っているだけなのだから。
裁判所の審理は、医師のその判断を検証しなければならないのでは?
⑥ 特に最後の2段落分は
「本来はできないことだけど、これは重症児だから例外」と言っているように読める。
それって、アシュリー療法の正当化の論理そのもの――。
そして、私の最大の疑問は、
蘇生無用の判断の根拠は、いったい慢性病なのか脳性まひなのか?
だって、この男の子と同じような重症の脳性マヒの子どもたちは
世の中にゴロゴロしているんですけど??
この判決、もしかして
「重症脳性まひ児が病気で重篤な状態になった場合には救命しなくてもよい」
というところへの”無益な治療”論の「解釈拡大」への布石になるのでは―――?
2012.01.16 / Top↑
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